2008年07月30日

◆「過去」の中の未来

ヒット商品応援団日記No287(毎週2回更新)  2008.7.30.

個人化が進行していくと、情報源であれ、体験であれ、全てが個人単位となる。個人単位の世界を広げるために、SNSといったネットワークや地域&クラブコミュニティに参加し、少しでも判断視野を広げようとしてきた。しかし、そうしたある意味興味関心領域の横への広がりと共に縦への遡及が始まっている。
昭和の時代ぐらいまでは「家」という社会単位で受け継がれてきた常識、やり方や方法に基づいて日常行動や消費が行われてきた。今、そうした過去の常識、例えば「家庭の味」とか「しきたり」「慣習」といったことへの遡及&見直しが始まっている。つまり、自分の中に、いつの間にか横から得た情報によって「作られてしまった」常識を見直してみようという気づきである。養老孟司さんがいみじくも「バカの壁」で指摘してくれたことを日常生活の中で立ち止まり考え直してみるということだ。

この気づきがいわゆる回帰現象といわれていることの本質である。既に、「和」回帰を始め、極論ではあるが「過去」あったものに「回帰」というキーワードをつければ、それはそれで一つの世界が出来上がってしまうほどである。例えば、時間軸から見ていくとブームとなった「昭和回帰」や「′70年代回帰」、あるいは最近ではライフスタイルの原型となっている「江戸回帰」といった具合である。数年前から静かなブームとなっている「土鍋」や昨年のヒット商品となった「ゆたんぽ」なんかもこうした時間着眼から生まれてきたものだ。更には近過去であれば「学校(給食)回帰」なんかも既に商品化されている。場所軸から見ていくと、ブームとなっている「京都や奈良観光」は「日本の歴史・文化回帰」ということである。あるいは生まれ育った「ふるさと回帰」、その先にあるのが古民家ブームとなる。更には、先日ブログにも書いた「ホームグランド回帰」なんかも入る。人間軸から見ていくと、既に失ってしまった革新(マインド)の代表と考えると「坂本龍馬回帰」となったり、固有の手技を今なお継承している「職人回帰」となる。最後にテーマ軸でいうと、個人化の進行によって壊れてしまった人間関係の絆を取り戻す「家族回帰」であったり、「コミュニティ回帰」となる。

簡単に図式化してしまうと、こうした「時」「場所」「人」「テーマ」に沿って、商品開発やサービス開発が行われ多くのヒット商品が生まれてきている。私はこうした過去へと遡る消費を「思い出消費」と名付けたが、こうした個人的体験世界から少しづつ社会へと広がりを見せ始めている。
「過去」は単に古いものとしてではなく、潜在的にはそこに未来を見出す行為としてある。意識されないまま眠っていた無意識が、何かのきっかけによって思い出され、結果思い出となる。その延長線上に消費がある。今、東京を始めライブハウスは団塊世代を中心に満杯である。かくいう私も同じであるが、過去のオールデーズを聞くことによって、青春という元気さに触発される。つまり青春フィードバックという元気の未来を見出しているのである。一方、若い世代にとっては、横のネットワークからは得られない未知の新しさを感じるものであり、まさにOLD NEW(古が新しい)という未来だ。

ちょうど7月28日付けの日経MJのテーマに「マイナー魚に商機の網」と題し、漁獲の内捨てられていた約30%のマイナー魚を活用することを指摘していた。年間1900万トン廃棄されていた食の再活用と同じ発想である。農産物における規格外商品、基準外商品を生かす発想とも同様だ。過去に遡れば、禅僧による精進料理があり、マイナー魚を使った「もどき料理」をつくればよいのだ。カタカナで言えば「フェイク食品」であり、「かにかま」といったヒット商品もでてきている世界だ。例えば、未だかってないが、魚加工メーカーと禅僧とのコラボ、精進料理家とのコラボによる新しい精進料理メニューの開発なんかが該当する。作り手側も過去に未来を見出すということだ。活用する魚の栄養素や精進料理法次第では、新しいメタボ食品が誕生するかもしれない。

日本には四季という言葉があるように、自然に寄り添って生きてきた歴史がある。自然は豊かな恵みをもたらしてくれるとともに、また畏怖すべきものでもある。これが「寄り添う」ということの意味だ。悲観も、楽観もすることはない。バブル崩壊以降、失われた10年と言われてきたが、そうではない。生活者も、作り手も、十分学習してきた。その学習のヒント、未来への芽が「過去」にあるということだ。(続く)  


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2008年07月27日

◆「私」を超えるもの

ヒット商品応援団日記No286(毎週2回更新)  2008.7.27.

甲子園へと高校野球の出場校が決まり始めた。一昨年、私は早実齋藤投手の活躍にハンカチ王子と名付けた背景を、後日このブログで「ピュアコンセプト」への共感=素の魅力からであると書いた。以降、ゴルフ界の石川遼君を始め、マスメディアは多くの「王子」を創ってきた。その良否は別にして、以降も大きな潮流として「ピュアコンセプト」は続いている。そのピュアコンセプトであるが、停滞する時代の踊り場にあって、失ってしまった素の世界、ありのままの世界、既に死語になってしまっている「純粋さ」への希求と言えよう。世俗やテクニックを削ぎ落とし、最後に残るもの。そうしたピュアコンセプト、素の魅力が求められている時代だ。サプライズといった騒々しさには辟易しているということでもある。消費面でいうと、これも好きあれも好きと、「私」に付け加えてきた過剰なものを削り、更に削ぎ落とし残るもの、という意味である。シンプル・イズ・ベストと言っても良い。食でいうと、素材を生かす、塩味だけ、手をかけない、ある意味本質・本当に戻ろうという潮流である。そして、物価高騰、景気後退はこうしたピュアコンセプトを後押ししている。

ところでハンカチ王子の年齢の倍近いあの野茂英雄投手が現役引退を表明した。その引退表明のコメントの中に「悔いの残る野球人生でした」という言葉に、多くの人は野茂の多くを語らない無骨さ・正直さが強くこころに残ったと思う。野茂投手の引退表明に対し、多くの名勝負をしてきた清原和博選手は、そのパフォーマンスについてこんなコメントをしていた。「野茂さんは、ここでフォークを投げれば必ず三振するのに、まっすぐで勝負してくる」「そんな持ち球をもっている投手は極めて少ない。多くの勝負をさせてもらってワシは幸せモンでした」と。観客は、野茂VS清原その一球に賭けたパフォーマンスを観に球場へと足を運んだのだと思う。そして、野球が好きで好きでたまらないが故に、「悔いが残る」とコメントした野茂投手に多くの人は生き方としてのひたむきさ、ピュアな世界に共感したのだと思う。マーケティンの視点に立つと、野茂を「職人」として理解した方が分かりやすい。「私」が及ばない生き方、技をひけらかすこと無く淡々とこなしていく世界を職人とするならば、「悔いが残る」と言った野茂は職人の中の職人である。

ピュアコンセプトを少し違う観点から見ていくと、例えば現在のデザイン潮流は、ノンデザイン・デザイン、シンプルデザインが求められている。あるいは、ノンエイジデザイン、ノン(ユニ)セックスデザインといってもかまわない。そうした潮流の意味は、デザイン主体が顧客の側に移ったということである。自分の好み・テイストが表現しやすいように、余計なデザインをするなということである。逆の言い方をするならば、職人としてのデザイナーがいないということでもある。顧客に媚を売らない、「私」を超えたデザイナーがいないということだ。
今、流行っている「ゆるキャラ」ブームも同じである。プロによる完成度の高いキャラクターではなく、その多くが公募されたもので、身近さ、受け手との距離感のない関係が気に入っているからだと思う。ここでも「私」を超えたピュアキャラクターとでもいうべき、強い物語性を持ったキャラクターが存在していないということである。

作詞家故阿久悠さんは「昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っている」とし、そういう時代の雰囲気の中で、男の影が薄くなったのではないか、そんな男のために「熱き心に」という曲を小林旭に歌わせた。今、問われているのは平成という時代の中で、「平成という世間」を語る、「平成の歌謡曲」の誕生だと思う。そして、やっとそうしたことを志す熱い心を持った若い世代が出てきた。大仰にいうと、ソーシャルアントレプレナー、ソーシャルデザイナー、社会起業家となるが、「私」を超える「平成の世間」にこそ大きなビジネスチャンスがあるということだ。(続く)  


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2008年07月23日

◆垣根をこえて

ヒット商品応援団日記No285(毎週2回更新)  2008.7.23.

ここ数ヶ月、ガソリンや輸入穀物の高騰、あるいは環境問題から生まれた多くの問題について書いてきたが、それら全てが次なるパラダイム(価値観)へのプロローグであるように思えてならない。私は一見停滞しているように見える情況を「時代の踊り場」と評してきたが、この踊り場で人は生活もしビジネスも動いている。このブログでもそうした新しい動き、変化を取り上げてきた。この1ヶ月半ほどガソリンや輸入穀物の高騰による「価格」に対する生活者の反応や行動をどう読み取るべきかといったテーマも書いてきた。もっと簡単に言ってしまえば、この景気後退局面はどのようにライフスタイルやビジネスを変えていくかであった。

以前、新しい市場はどこから生まれてくるか、このテーマについて「境界」に着眼ということに触れたことがあった。対立するもの同士、相容れないであろう異なる世界、といった一種の境界・区分を超えることによる市場化のことである。例えば、大企業と中小企業、産業と生活、文明と文化、行政と市民、企業とNPO、あるいは最近の環境問題で言えば文明と自然といった境界を超える試みである。今回のガソリン高騰では、車離れが進む中古車販売企業と廃業へと向かいつつあるGSとが新しいサービス業態づくりへとコラボレーションが始まっている。不況業種同士のコラボであるが、その新しい業態とは、中古車のレンタカーサービスをGSでも行うといった試みである。その試みが利用者を巻き込んでのカーシェアリングのようなシステムへと移行すれば、新しい市場として存続していくと思う。

あるいは幹線道路を走れば廃業したGSが至る所で目にするようになった。次のビジネスをどうすべきか検討している最中だと思うが、既にGS過疎地が生まれ、村民自ら出資し会社をつくり、SSを運営するところまで出てきた。医師不足・医療崩壊に対し、医師、住民、地元メディアが垣根を超えて結びつき、再生の緒についた兵庫丹波の柏原病院と同じである。
以前取り上げたことのある滋賀県のGS経営者青山さんの活動も同様だ。天ぷら油などの廃油を精製しバイオディーゼル燃料にして車の燃料にする試みである。青山さんの志しに応え、ヤマト運輸が家庭用の廃油回収を引き受け、松下電器の工場では作業車の燃料に使い、更に彦根市ではゴミ回収とともに廃油回収を行い、ゴミ回収車の燃料に使うという試みだ。小さなGS、大手企業、行政、勿論廃油回収に取り組む市民、なかなか結びつかなかった世界がつなぎ直され始めた良き事例である。

1人、1エリア、1企業、1国、だけで解決することの難しい時代に来たということだ。ある意味、「社会」という新しい概念が必要ということでもある。この概念は、境界をこえて、異なる人や企業、風土や慣習・文化までもがぶつかり・衝突し、そこからしか生まれてこない概念だ。境界はある意味法が及ばない脱法的世界という側面を持つ。既に平安時代にも、異なる人が行き交う市場には「不善のやから」が横行していた。欲望と欲望とがぶつかり合う混乱・カオスの世界でコントロールできないこともある。しかし、こうした中から新しい「何か」が生まれてきた。最近、社会起業、社会事業というキーワードを若い世代からよく聞く。先月訪れた沖縄の勉強会でもそうした人達ばかりであった。グラミン銀行の創始者であるアヌス氏が注目されてからということもあるが、問題を解決するには、どうしても「境界」をこえ新しい社会を目指したいということだと思う。

最近注目されている女性起業家に山口絵理子さんがいる。周知のようにアジア最貧国バングラディッシュで特産の麻を素材としたバッグを作り、販売している26歳の起業家である。その悪戦苦闘は「裸でも生きる」に書かれているが、彼女の前に立ちはだかっているのも様々な「境界」である。あるいは、後継者のいない農業にあって、米づくりの未来を考え、会社組織にし、通販ばかりでなく、海外へと輸出を試みる新潟内山農産を始め、旧来の「既成」という垣根をこえる人達がこの時代の踊り場へと出てきた。不安、不確かさ、といった悪い話ばかりがマスメディアを通じ報じられているが、次なるパラダイムを創る芽が確実に出てきている。(続く)  


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2008年07月20日

◆ホームグランド回帰

ヒット商品応援団日記No284(毎週2回更新)  2008.7.20.

ここ2ヶ月ほど、ガソリンや原材料高による消費者の価格への目、あるいはこうした物価高騰などの変化がどんなライフスタイルへと変えていくのか、自己防衛市場について書いてきた。ちょうど良いタイミングで日経新聞による消費者調査結果が7月18日の日経MJ(http://www.nikkei.co.jp/mj/)に載っていたので、その記事を踏まえてこれからの消費動向について私見を書いてみたい。

ある意味自己防衛市場を生活面で数字化したものであるが、1年前と比較して支出を抑えたもののNO1は外食であった。その外食を減らしたとする生活者は車保有者52%、非保有者40.9%となっている。車保有者が次に減らしたのが当然ドライブなどであるが、非保有者を含めると衣料品が支出を減らした二番目となっている。以下、靴や身の回り品、食品、携帯など通信費・・・・このように生活全般に渡る支出の切り詰めとなっている。入り口はガソリン高騰であるが、景気後退期のパターン通りとなっている。
車保有者が支出を控えた理由は、ガソリンの値上げ35.3%を筆頭に、収入の減少24.8%、食品の値上げ19.6%、となっている。ある意味、家計の複合不況とでも呼べる情況といえよう。

もう一つ面白い設問がある。それはガソリン高騰で、いくらになったら車を乗るのをやめるかという設問である。1ℓ250円を超えたら車にのるのをやめると答えた人は全国平均では37.5%、三大都市圏では45%超となっている。当然であるが、車離れは都市から始まり、1ℓ250円を超えたら極論ではあるが車保有は半減するということだ。GSもセルフ式が多数を占め、旧来のようなカフェ併設程度の顧客サービス業態では成立できないということだ。車の保有は、車の使用へと変わり、共同利用・カーシェアリングといった新しい利用システムやレンタルシステムが都市部郊外から始まるであろう。

今回の調査では若干ライフスタイルについても触れられている。休日の過ごし方についてであるが、「休日は自宅で」と答えた人は37%、PCやテレビ視聴へと続く。つまり、ほとんどの人が家庭内で過ごしているということである。休日は生活者にとって、一番自由にやりたいことを可能とした時間である。調査結果は、私が過去指摘してきたように、外から内へ、行動範囲は極めて小さくなった。車という道具は、生活自由度の広がりの一つの目安である。今年の夏の旅行は、安・近・短と指摘したが、生活という視点に立つと、家庭内、ホームグランド、ご近所、通い慣れた、使い慣れた、生活慣れ親しんだ場所に戻ったということだ。それを家庭回帰といっても良いし、ホームグランド回帰といってもかまわない。

消費という視点に立つと、以前事例として挙げた家庭菜園を始め、ホームクリエーターといった「手作り」アイテムが更に着目されるであろう。家庭内料理であれば、現在は子供向けであるが、本格的なパンづくりといった素材と道具が売れるであろう。ホームソーイングやDIY的なものも流行ると思う。ある意味、家庭の内側への進化・深化が進むということだ。
もう一つの特徴はキーワードとしていうと「省」の徹底となる。省エネ製品はもとより、省時間、省スペース、といった新たな暮らし方が選ばれると思う。省は小というキーワードに変えてもかまわない。ライフスタイル的にいうと、付け加えてきた多くのものを削ぎ落とし、求める機能や用途のみだけを取り入れるシンプルライフである。

こうした商品は省エネのような新技術によるものと思われがちであるが、2年ほど前から静かなブームとなっている土鍋炊飯なんかも省エネ商品であるし、昨年冬の湯たんぽなんかも同様である。OLD NEWという着眼は単なる若い世代への目新しさだけでなく、実利を伴うものだ。こうした「和」の知恵を掘り起こす活動も盛んになるであろう。
美食は素食(もとしょく)へと変わる。ハレの日は少なくなり、ケの日々となる。消費は更に縮小へと進み、その差は貯蓄へと向かうということだ。(続く)  


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2008年07月16日

◆ライフスタイルの素(もと)

ヒット商品応援団日記No283(毎週2回更新)  2008.7.16.

多くのマーケッターの最大関心事は、石油や穀物の原材料高による値上げが更に進んだ場合、生活者のライフスタイルにどのような「質的変化」を与えるかという一点につきる。今回の原油高については、1970年代のスタグフレーションを引き起こした第一次・第二次石油ショックと較べそれほど大きくはないものの、深刻さは生活の細部にまで問題化している。

昨年後半から私が指摘してきた変化は、結論からいうと厳選&回数減であった。今まで以上に厳しく選ぶ傾向、それは価格は勿論のこと、素材のクオリティからデザイン&スタイルまで、付加価値などという生半可な世界などすぐに見破ってしまう消費のプロが顧客となったという事実。更には、例えば毎週1回行っていた外食が2週間に1回となったり、シーズン毎に買っていたウエアは1年に1回となり、着回しコーディネートしたり、といった具合に回数を減らす消費傾向。あるいは、どうしても欲しいブランドはアウトレットでまとめ買い、といった消費も当然含まれる。つまり、ある意味では減選という「量的変化」についてであった。

こうした消費傾向は、いわば生活の質を落とさずに、節約したりやりくり算段したりといった生活を工夫する消費である。恐らく、これから出てくる論議は、収入ベースで考えると、1992年頃の生活水準であるとか、いや1985年頃である、といった過去に戻る論議となる。確かに、将来の収入に悲観的にならざるを得ない情況認識は多くの生活者の実感としてあり、一つの方法には違いない。しかし、もう一つの可能性は収入に合った、身の丈サイズの新たなライフスタイルの創造である、と私は考えている。

ライフスタイルというカタカナの世界が日本にもたらされたのは1960年代であったと思う。米国のTV番組を通じてもたらされたが、初めて具体的な商品を通じライフスタイル実感を提供してくれたのは故・石津謙介さんによる「VAN」であった。団塊世代にとっては懐かしいブランドであるが、単なるファッションではなく、アイビールックという米国の学生文化の臭いがするライフスタイルを提案し、大きな衝撃を広く社会に与えた。辞書をひけばわかるが、Lifeには生活としての意味と共に、生き方や生命としての在り方までを包含した世界としてある。つまり、ライフスタイルというキーワードはまさに今まで無かった概念世界であった。そして、今では当たり前となっているT.P.O.という時、場所、場面ごとの商品提案も新鮮であった。

以降、百貨店を中心に様々なライフスタイルが提案される。第一次、第二次オイルショック、ニクソンショックを経て、様々な角度、切り口によるライフスタイルが提案されていく。DINKS(ダブルインカムノーキッズ)というライフスタイルなんかもその一つであった。バブル崩壊以降、それまでの米国を中心とした「洋」のライフスタイルから「和」への転換、あるいは「スピードライフ」から「スローライフ」へと、ライフスタイルの見直しが始まる。団塊ジュニアによるセレクトショップが生まれ、個性化というキーワードと共に、自らライフスタイルを創っていく方向へと進化していく。

そして、21世紀を迎え、注目されたライフスタイルがLOHASであった。元々、米国スタンフォード大学で学びMBAを取得したビジネスエリートが、自ら創ってきた物質文明への批判、見直しが始まりであった。日本においては2004年4月の「ソトコト」創刊によって広く認知されることとなる。しかし、江戸のライフスタイルをスタディすればすぐ分かることであるが、日本は最もLOHASな国であったし、今もそうである。その潮流に「和」ブームがある。1年半ほど前に、この日本版LOHASについて次のように私は書いた。

LOHASが今なお最も生活現場に色濃く残っているのが京都である。「始末(しまつ)」ということばがあるが、単なる節約を超えて、モノを最後まで使い切ることであり、その裏側にはいただいたモノへの感謝、自然への感謝の気持ちが込められている。そして、「始末」には創意工夫・知恵そのもでもある。誰でもが知っている、「にしんそば」も「鯖寿司」も、内陸である京都が生み出した美味しくいただく生活の知恵・文化である。もう一つ素晴らしいのが、季節、祭事、といった生活カレンダー(旧暦)に沿った暮らし方をしており、「ハレ」と「ケ」というメリハリのある生活を楽しんでいる点にある。京都をLOHASの代表としたが、こうした風土に沿った固有の文化ある暮らしは、地方を歩けばいくらでもある。

まだ仮説の域をでないが、グローバリゼーションという新たな妖怪に対し、日本版LOHASこそ次なるライフスタイル創造という質的転換への着眼、あるいはヒントになるのではと思っている。適当なキーワードが無いため、ここでは日本版LOHASという表現を使うが、勿論2004年日本で展開されようとしたブランドとしての日本版LOHASではない。戦後60数年、私たちはライフスタイルを全て外から取り入れてきた。しかし、実は足下に知恵やアイディア溢れたライフスタイルの素が眠っていたということだ。(続く)  


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2008年07月13日

◆価格への3つの視座 

ヒット商品応援団日記No282(毎週2回更新)  2008.7.13.

続々とガソリンや穀物の高騰による生活面への影響が数字となって現れてきた。ガソリン元売り各社の発表では、レギュラーガソリン1ℓ170円を超えた6月度は前年同月比5〜8%減少したという。7月に入り1ℓ180円を超え、早晩200円になると誰もが思っている。いつのデータであったか正確には忘れてしまったが、警察庁の発表では、都内の渋滞は一般道で24%の減少、高速道では50%の減少とのこと。前回都内の渋滞が少なくなったように感じたと書いたが、数字からも明確になった。
前回H.I.S.の海外旅行の価格設定について書いた折、今年の夏の海外旅行者数は減少するであろうと書いた。その通り、JTBグループの推計によると前年度比7%減の225万人との予測。
更には、東京商工リサーチの発表によると、2008年上半期の倒産件数は前年比6.9%増の7544件、負債総額は19.8%増の3.2兆円と大型化し始めている。また倒産件数の中心は構造的な問題である建設業だが、ここにきて運輸業が増加し始めている。

ところで前回価格に対する顧客心理について書いたが、もう少し価格設定への視座について考えてみたい。1970年代の第一次・第二次オイルショックでは、いわゆるトイレットペーパー取り付け騒ぎが起きたが、今はモノ不足を終えた時代であり、そうしたモノを追い求めることはない。以前にも少し触れたことがあったが、経済の分野でノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンらが研究したプロスペクト理論を私流に咀嚼してみると、幸福感に影響を与える経済的な要素としては次の3つとなる。

(1)絶対的な豊かさ:お金に対する明確な価値認識
(2)他人と比較した豊かさ:誰と比較するのかによって揺れ動く心理
(3)以前の自分と比較した豊かさ:いざなぎ景気のように年々収入が増えるという比較実感した豊かさ

上記(2)が、いわゆる格差意識を醸成しているもので、(3)は周知の通り収入は増えず横ばい情況で、「豊かさ」という幸福感が乏しいと感じている層だ。高騰する価格に対し、極めてシビアな認識と行動をとるのがこの層である。ある意味整理のための整理ではあるが、これからの消費の在り方を見ていくための一つの視座にはなりえる。(1)の「絶対的な豊かさ」とは、精神的な豊かさのことである。古くは功成り名を遂げた土光臨調と呼ばれた土光さんであり、伊藤忠商事を立て直し、現在地方分権の座長をしている丹羽さんのような生き方、「私」を超えた社会価値に基づいた豊かさ実感と言えよう。つまり、限られた時間の中で何ができるか、少しでも「私」ではない何かの役に立ちたいとしたこころの豊かさである。人生の先が見えたシニア世代の豊かさと言えよう。「私」を超えた世界にはボランティアといった社会貢献だけでなく、当然大きな市場となっている孫や子へのギフト市場も含まれる。

今後のビジネス開発の視座として、誰を顧客とするのかと共に、上記のような3つの「心理視座」が必要になってくると思う。この夏の海外旅行一つとって見ても、JTBグループの発表では上記(3)のようなファミリー層にとっては価格を第一義とした安近短といった海外旅行もしくは国内旅行となり、燃油サーチャージ代が大きなポイントとなる。しかし、シニア世代にとっては価格は第一義とはならない。シニア世代の人気となっている燃油サーチャージ代の高いヨーロッパ旅行も、四国のお遍路旅行も、第一義的価値は同じである。それはこころの豊かさ、精神的充足の旅となり、価格は二義的ということだ。
しかし、(2)や(3)の個人やファミリーにとっては価格が第一義的選択理由となる。つまり、どれだけ「お得」かである。消費は、将来の収入に対し、楽観的であるか、悲観的であるかによって決まる。シニア世代にとって、限られた将来であり、楽観的でも悲観的でもない。しかし、若い世代、ファミリー層にとっては悲観的な時代だ。

こうした顧客層にとって収入が増えない中では、「どれだけお得か」が商品の選択理由となる。今、注目されているのが女性雑誌の販促手法である。右肩下がりの雑誌業界で、売上を唯一支えているのが「付録」付きという販促である。ブランドとタイアップしたエコバックやサンダルなど、付録競争が販売部数を決めているといっても過言ではない。これも「お得感」の演出手法であるが、麻薬のようなもので付録が切れたら売れなくなるという結果が待っている。つまり、付録を出し続けない限り、競争に負けるということだ。ただ、若い女性世代の「お得感覚」を明確に表している事例である。

予測通り洞爺湖サミットでは何も決まらなかった。原油も穀物も価格が下がる要素はなく、つまりこれからも一定期間上がり続けると思う。残念ながら産地などによる価格差がある以上、これからも偽装事件は表へと出てくる。また、時間による価格差、具体的言うと「買い占め」や「売り惜しみ」によって利益を得る企業も出てくるであろう。このような価格を中心にビジネスや消費が回っていく、つまり常態化していくと、消費面でいうと単なる節約ややりくり算段では収まりきれない段階へと進む。つまり、ライフスタイルの変更を自らの意志で変えていくということだ。ある意味、1990年代から言われてきた「豊かさ」に生活者自身が一つの答えを出すことでもある。そして、ビジネスもこの「答え」に沿って、再編・統合が進む。(続く)  


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2008年07月09日

◆価格心理の今

ヒット商品応援団日記No281(毎週2回更新)  2008.7.9.

ここ数週間都内の渋滞があまり感じられなくなったという人が多い。データに基づかない「感覚」ではあるが、いわゆるマイカー通勤や買い物に車でという人達がガソリン価格高騰によって控えているのではと理解する人が多い。昨年後半から、私はどんなに優れた魅力ある商品でも、「価格」というハードルを超えない限り売れないと言ってきた。生半可な付加価値などは幻想にすぎないとも言ってきた。そして、ワンコイン(100円&500円)マーケットといったプロモーションも有効な手段の一つであるとも。更には、従来の基準外、規格外商品を低価格で販売している生産者や流通についても注目すべきとも書いてきた。

結果、日経MJのヒット商品番付ではないが、値段の高いNB(ナショナルブランド)商品から、安いPB(プライベートブランド)商品への消費移動が起きた。こうした消費傾向の原因は給与所得者の収入が伸びないことが最大理由である。5月の現金給与支払総額(全産業、対前年同月比)は+0.2%と前月の+0.8%からさらに鈍化している。一方、富裕層はどうかというと、世界的な株価下落、更には都心不動産価格の下落により、環境的には消費へとは向かってはいない。ブランドの中心顧客の動向は百貨店売上の動向とパラレルであり、推して知るべしだ。

ちょうど夏休みシーズンに向けた各旅行代理店の最後のセールが展開されている。恐らく、前年度を割る海外旅行者数になり、旅行先も近場で滞在日数も短くなると思うが、格安海外旅行で成長してきたH.I.S.が思い切ったバーゲンセールを展開している。全ての旅行代金を「燃料サージャー代込み」の設定としている点だ。格安旅行と思っていたが、追加される燃料サージャー代が高く、割高感が残る心理を逆手にとった戦術である。既にネット上では路線毎の燃料サージャー代が明らかになっているが、価格に多くの目が注がれていればこその価格設定である。また、H.I.S.が顧客心理をよく分かっているのは、旅行商品を小売業として見ている点にある。ワンコインマーケットならぬ、どの旅行コースでも「15万円」といった具合である。顧客を見て、店頭の商品や価格をこまめに変えていく小売業的感覚はこの時代では重要だ。

ちょうど1ヶ月ほど前に、週刊ダイヤモンドで取り上げていたが、日本人の価格心理の代表例として寿司屋のにぎりの価格設定がある。よくある設定で、特上、上、並と三段階あるうち、ほとんどの顧客は上を選ぶ。商売人は、この上寿司で利益を得るという仕組みである。しかし、特上、上、並、それぞれの価格を見て、別の食へと変える人が増えてきたのが実体であろう。
面白いことに、既に江戸時代でも価格を根底に置いた商売があった。庶民の人気を博した小料理屋江戸橋際の「なん八屋」では、何を頼んでも一皿八文で皿数で勘定する仕組みだ。回転しない回転寿司のような業態である。また、浮世絵にも描かれている「ニ八蕎麦」だが、その店名由来には二説ある。一つは小麦粉と蕎麦粉の割合を2:8とする説。もう一つは蕎麦の値段が二×八が十六文という説である。前者の方を正解とする人が多いようであるが、「ニ八蕎麦」以外にも「一八蕎麦」や「二六蕎麦」あるいは「三八蕎麦」があったようで、価格をネーミングとした後者の方が正解のようである。

おそらく、「100円ショップ」とは異なるユニークな価格の業態が出てくると思う。たこ焼きの「銀だこ」で知られているホットランドが、たい焼きと焼きそばを加えた3つのメニューを季節によって変えていく三毛作の業態を進めていくという。時間帯(季節)毎にメニューを変えていく業態は今までもあったが、それ以上でも以下でもない。つまり、コストパフォーマンスをいかに高めるかという内部の問題解決策の一つである。今顧客から求められているのは、価格の二毛作・三毛作ということだ。例えば、ポイントやマイレッジはほとんどの業種で採用されているが、例えば航空会社が行っているマイレッジはマイレッジを使う特別メニューの他に、カード利用額によってクラスを何段階かに設定し、それなりの特典が用意されている。回数多く、利用金額多く使ってもらえれば、より高いポイントやマイレッジを取得できるという「エスカレートポインティングシステム」の一つである。あるいは一定の利用回数や金額を使ってもらうと、ボーナスポイントがもらえるとか。こうした手法は一時期米国カード会社が実施したものであるが、いずれにせよ「顧客還元」のアイディア競争の時代である。

ここ数ヶ月、サライやダンチュー、ブルータスといった雑誌の特集は、その多くが「食堂」や「下町」、あるいは「カレー」といった日常がテーマとなっている。これら雑誌の着眼点ではないが、「普通が一番」ということだ。つまり、価格も普通ということである。原材料アップで経営が成り立たないのであれば、普通に値上げをすればよい。恐らく、今回の魚秀のような国内産と中国産との価格差をねらった偽装ビジネスに代わって、これからは「売り惜しみ」あるいは「買い占め」、といったキーワードに代表されるビジネスが出てくると思う。しかし、一部にはどうしても欲しいというマーケットは存在するが、多くの生活者は「普通が一番」であり、そんなビジネスは成立しない。そんな知恵を働かすより、「どんな普通がよいのか」を考え、顧客還元する時代だ。(続く)  


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2008年07月06日

◆洞爺湖サミット・エコの思想

ヒット商品応援団日記No280(毎週2回更新)  2008.7.6.

明日から洞爺湖サミットが開催されるが、主要なテーマである地球温暖化対策について先行して様々な論議がメディアを通じて報道されている。環境問題を軸に、エネルギー問題、食料危機、更にはそれらを更に問題化させている投機マネー。全ての根っこにはグローバリズムというやっかいな問題がある。
ところで、環境問題でいうと、エコ先進国として常に話題になるのがヨーロッパの独や北欧である。ヨーロッパで既に始まっている排出量取引もテーマとなるであろう。しかし、サブプライムローン問題で露呈した金融商品の資金が株式市場から先物商品市場に流れ込み、更に次の金融商品市場として排出量取引に照準が当てられているような気がする。恐らく、国際的なルールづくりが始まると思うが、「何か」が欠けているように感じられてならない。その「何か」とは、目指すべき生活哲学であり、生活の思想であると思う。

日本は昔も今も、小資源、省エネ国である。少ない資源を最大化させ、その使われるエネルギーを最小にする知恵と技術を持った国である。実は日本こそエコ先進国であり、エコ大国であったことを指摘する人は少ない。私はこのブログを通じ何回か書いてきたが、現在のライフスタイルの原型は江戸にあり、その変化の先に今日がある。江戸が循環型社会、リサイクル社会であったことを指摘する研究者はいるが、江戸がエコロジー社会であったその裏側にある思想を指摘する人はほとんどいない。

江戸は幕府ができた当初は人口40万人ほどであったが、「人返し令」が出るぐらい人口は集中し、当時の世界都市であるロンドンやパリをはるかにしのぐ130万人都市となる。しかも、流れる上水道をもっていたのは江戸だけで、識字率も高く文明の高さからも群を抜いた都市であった。つまり、世界でもまれに見る都市化がどこよりも早く進んだのが江戸であった。いわば都市化先進国であったということだ。別の視点に立てば、人口増加による環境問題も発生し、どのように解決していったかという良き社会モデルとしてある。

宮崎駿監督による「もののけ(物の怪)姫」の舞台は室町時代であるが、江戸時代にも同じように森林(自然)と人間(文明)との問題が起きていた。人口増加に伴い住宅地は広がり、森は伐採され住宅用木材となり、更にはそこに住んでいた動物達を追いやることとなる。今でも地名として残っている杉並区は杉の産地で青梅街道などは杉並木に囲まれていた。ところで当時の江戸は火事が多く、どうしていたかというと、庶民の長屋などは古材で立て直し、武家屋敷は「囲山(かこいやま)」という非常用植林があってその木を伐採して使っていた。このように極めて計画的に実施されてはいたが、それでもそこに住む動物との共生問題が出てくる。実は、江戸の人達は人間と動物達との境界として「里山」を作るのである。今、鹿や猪が住宅地に現れてくることが問題となっているが、里山をなくしてしまったことが大きく影響しているであろう。

自然との共生という言葉があるが、江戸の人達がどのように共生していたかを物語る風物詩がある。今はほとんど目にすることはないが「虫聞き」という風流な遊びである。江戸時代の住まいは木材がつかわれ、隙き間だらけであったことから、虫は極めて身じかな存在であった。江戸も中期以降になると都市化が進みなかなか虫の音が聞けなくなり、武蔵野辺りから来る虫売りから松虫や鈴虫、コオロギなどを買い求め楽しむようになる。虫売りは虫を養殖し人工孵化させて、お盆ぐらいまで売り歩く。残った虫はお盆の時に「放生会(ほうじょうえ)」といって、野に解き放す。命あるものに感謝し、また自然に返すという報恩の意味だ。

滋賀県の嘉田知事によって「もったいない」という言葉が広く流布され、最近の船場吉兆における使い回しや飛騨牛偽装事件でも使われている。これら事件は単なるいいのがれの意味合いでしかないことは多くの人が感じるところであるが、元々は仏教思想の根本である「一切衆生悉有仏性」という考え方、生きとし生けるすべての生き物、山川草木にいたるまで全てに仏性が具っているという思想に由来している。勿体(もったい)とはそうした物事の本質を指し、物への感謝の意味、粗末にしてはならないとする考えである。そうした考えの象徴として、仏に携わる仏教者は、殺生をしない一つの知恵として精進料理も生まれる。今でいうところのフェイク食品、もどき料理である。

江戸の人達にとって物とは、形の残る限りは全て再生できると考えられていた。リサイクルビジネスでは「紙くず屋」「蝋燭の流れ買い屋」「灰屋」、更には「梳き髪買い」といって女性が髪を梳いた時に出る髪を集め「かつら」にする商売まであった。勿論、修理ビジネスも盛んで、「傘貼り」や「焼き接ぎ屋」といって割れた器を修理するビジネスまであった。それぞれが専門店化されており、生活のあらゆる物が再生されていたのが江戸であった。人間も死ぬと再生される(輪廻転生)と考えられていたから、生まれ変わって何になるか分からないから、夏に出る蚊ですら殺生してはいけないと信じていた。

こうした考え、思想を社会へと具体化・日常化していく役割を中心的に果たしていたのが長屋の「大家さん」であった。江戸には約2万人の大家がいたと言われている。今や大家というとアパートの持ち主&管理人としか理解しないが、江戸においては町の治安から長屋の共同スペースの運営や維持、更には店子の相談窓口まで果たしていた。いわばコミュニティの経営リーダーで、長屋が火事になって焼失した場合などすぐに建てられるだけの資金を持ち、道路の補修工事といった今日でいうところの公共サービスを行っていた。面白いのは、「惣後架(そうこうか)」という共同トイレがあり、その維持管理と共に、トイレの下肥を近隣の農家に売り、年収で3両ほどとなり、店子の家賃以上であったと言われている。そうした収入の一部は「町入用」という積立金として蓄えられ、町のために使われていた。しかも、「大家といえば親も同然。店子といえば子も同然」といわれるように、文字通り家族以上の緊密な関係にあった。50〜60人に一人の大家だから、店子の冠婚葬祭から夫婦喧嘩まで関わっていた。この「小さな単位」の経営リーダーである大家が、いわばエコ社会・エコ生活の思想的リーダーも果たしていたのである。

洞爺湖サミットでは国益を踏まえたいくつかのルール論議がなされると思う。世界に向けた一種の政治ショーであり否定はしないが、日本は一つの機会として次なるパラダイムへの転換を果たすべきである。そのパラダイムとは、経済力をもって環境やエネルギー、食料を買うといった自然をコントロールできるとした価値観から、自然から学び、自然の恩恵を知恵や技術をもって新たなエコ経済へと変える価値観への転換点と位置づけることだ。

既にそうした新しい芽は出てきていることはこのブログでも書いてきた。日本の国土の2/3強は森林である。放置され、死にかけた森を間伐し、森を蘇らせ、間伐材を加工商品化する人達もでてきた。周知のようにバイオエタノールの主原料はでんぷん質である。生ゴミからでんぷん質を選別し、バイオエタノールを作る技術も開発されつつある。トーモロコシの高騰に対しても、年間1900〜2000万トンといわれている廃棄食品から、エコフィード(エコ飼料)に転換する試みも始まっている。食料自給率39%を改善する以前の課題、豚や鳥の飼料を創造する試みだ。

おろかな国から、賢明な国へのパラダイム転換が始まっている。その時大切なことは、地球という自然に感謝することから始めなければならない。日本語は漢字、カタカナ、ひらがなという3つの文化世界を持っている。自然への感謝の気持ちは、ひらがなでも、カタカナでもなく、「有難う」という漢字にすれば自ずとわかる筈である。有ることに難い自然ということだ。これが古来から受け継いできたDNA、生活哲学、生活の思想だと思う。
十数年前、地球環境の変貌を砂漠化と私たちは呼んでいた。コラムニストの天野祐吉さんが指摘しているように、温暖化などと危機感や恐怖感がない言葉をまず止めることだ。地球温暖化と言わずに「地球加熱化」と呼ぶことに強く共感する。(続く)  


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2008年07月02日

◆コンビニへの深夜営業規制

ヒット商品応援団日記No279(毎週2回更新)  2008.7.2.

京都市がコンビニ業界に自粛要請した深夜営業について多くの論議が広がっている。温暖化ガスの削減という目標に対するもので、東京や埼玉・神奈川などいくつかの自治体も同様の方針であると報じられた。コンビニ業界は、セブンイレブンの名前の如く朝7時から夜11時まで営業とした場合でも、CO2の削減量は現状より4%減、国内全産業でみても0.009%減にしかならない。むしろ夜間配送など効率的に行って、CO2削減の努力をしていると反論した。来週行われる洞爺湖サミットへの政治パフォーマンスであると私は理解しているが、この論議をつきつめていくことは必要だと思っている。

1970年代に東京にセブンイレブンの一号店が誕生するのだが、当時は誰も成功するなどとは思わなかった。しかし、1970年代という時代に、今日の姿、未来の芽が生まれていた。水と空気はお金を払わないものと思われていたこの時代に、既に「天然水NO1」というミネラルウオーターがサッポロビールから発売。今日のキャラクターブームの先駆けである「ハローキティ」が生まれ、自動車保有台数は1000万を超えた時代であった。
ここで時代の価値観推移を詳しくは書かないので、添付データを参照して欲しい。
コンビニについていうならば、それは都市化というライフスタイル変化と共に、小さな商圏の中でMDを変えながら、24時間化という業態をシステムとして完成させた日本固有のビジネスモデルといえよう。夜起きている人間などいないと勝手に考えていた時代に、深夜に店を開けることによって、実はいかに多くの顧客が存在していたかを見事に実証したのがコンビニであった。

以降、規制緩和と共にドンキ・ホーテを始めファミレスや飲食店、スーパーまで深夜営業が進んでいく。最近ではカラオケ店はもとより、簡易宿泊施設化した漫画喫茶まで24時間業態は多岐にわたる。最近のデータを確認してはいないが、1990年代後半からTV視聴は深夜化し、へたをすると夜8時台の視聴率より高い深夜番組も出てきた。最近の東京では深夜の宅配クリーニングサービスや出張パーティサービスなど新たな深夜ビジネスも生まれている。つまり、こうした需要、顧客が存在しているのが都市である。

地球温暖化におけるCO2の排出規制であるならば、製造業に対する問題の方が大きいことは素人でも分かっていることで、環境負荷という経済合理性の視点からもおかしな話だ。100歩譲って製造業にも小売業、あるいはサービス業にも温暖化に対するコストを払う(=課税)ということであれば納得できると思う。いわゆる環境税で、このコストに見合わなければ、小売業も製造業も深夜営業・深夜稼働は実施しないであろう。内需活性が叫ばれている今日、このままでは更に景気は後退することとなる。

ところで、この24時間化は、グローバル経済の中心である都市固有(特に東京であるが)の社会時間の在り方(スピード最優先)である。地域の境目がなくなったと同様に時間にも境目がないのがグローバル経済である。先々週、好きな沖縄へ行ってきたが、沖縄はビジネスを中心とした社会時間ではなく、朝は朝らしい陽の光があり、夜は漆黒の闇に星空がある、そんな自然時間(自然にまかせる)に包まれた島である。今回は小さな勉強会を糸満の民宿で開いた。翌朝、歩いて数分のところにあるウミガメが産卵する大度海岸を散策したが、一種荒々しさのある自然があった。多くの都市が失った自然、野生の中で、ひととき自然時間に身を置くというリゾートを私は楽しんだ。グローバル世界といえども、地域によって時間の在り方が異なる。標準的な時間感覚をもつ地域などありはしないのだ。だから固有な時間を楽しめるのである。グローバルとローカル、社会時間と自然時間、この2つによって生活が営まれている。

今回のコンビニへの深夜営業規制、自粛要請はシンボリックな意味合いとしてある。国や自治体に言われるまでもなく、コンビニという「便利さ」を生活に組み込んだライフスタイルを変える覚悟を要請されていると理解すべきであろう。しかし、温暖化対策などと大上段に振りかぶった国や自治体の理屈より、コンビニ業界の方がどれほどか先行してエコロジーを実践している。恐らく、便利さを犠牲にする生活へと向かうと思うが、既にエコ大国であった江戸時代の庶民の知恵、不便さをも楽しむ知恵という財産を持っている私たちである。亡くなられて随分経つが、江戸が好きで好きで”ああ、はやく江戸になればいいのに”と話していた杉浦日向子さんは、その好きな江戸を次のように書いている。
「私が、今の東京のどこに『江戸』を感じるかといえば、江戸城や泉岳寺、浅草寺ではありません。むしろ渋谷駅前のスクランブル交差点のような、いろいろなものが混ざった空間に『江戸』を感じます。来るもの拒まず、何でもOKーーー江戸はさまざまな言語が飛び交っている、国際都市のような存在です。」(「お江戸でござる」杉浦日向子監修/ワニブックス刊より」
「不便さ」来るもの拒まず、何でもOK、という明るい覚悟が必要な時代に来たということだ。(続く)  


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