2015年11月27日

◆続々、復活劇始まる 

ヒット商品応援団日記No630(毎週更新) 2015.11.27.

周知のように7-9月期の実質GDPの速報値の発表があったが、予測通り年率換算マイナス0.8%であった。そして、ここに来て以前のデフレに戻ったのではないかという議論が出始めている。しかし、拙著「未来の消滅都市論」にも書いたが、本格的な人口減少が始まっており、その減少幅は拡大している。さらに言えば、消費という視点に立てば、生産年齢人口(15~64歳)、仕事もし消費もするコアな人口は周知のように少子高齢時代であり、その減少幅も大きい。市場、つまり需要が縮小期に入っており、デフレ的現象が広く社会に広がっていくのは当たり前のことである。8月のブログ「消費後退の夏」にも書いたが、今年の夏休みにおける傾向として、ガソリンが安いことからレンタカーの利用が増えたり、あまりお金を使わない「観劇、イベント参加、スポーツ観戦」が増えたり、といった消費に表れているようにデフレ的現象が進んでいる。そうした現象の時代にあって、停滞する空気の「仇花」ではないが、「ハロウイン騒動」のような刹那的な消費、「ええじゃないか騒動」も起きるのである。そして、翌日になれば騒動とは無縁な日常に戻るということである。

こうした刹那的な消費はこれからも噴出すると思うが、やはり大きな価値潮流の一つがリバイバル、復活、といった「過去」をクリエトしたビジネス、店々の再登場である。東京と云う都市にあっても、競争市場下にあって後継者不足や建物の老朽化といった課題に直面しており、撤退・閉店が相次いでいる。
そうした中、おそらく東京では一番古い大衆酒場と言われている神田淡路町の「みますや」に友人と桜鍋を食べながら一杯やったことがあった。若い頃よく通った店であるが、ご無沙汰をし30年ぶりであった。店の親父さんも年を取っていたが、変わらず元気であった。店の広さは倍ほどになり、若い世代のビジネスマン男女で一杯であった。Old New、古が今新しいとするその象徴のような光景であった。そう言えば吉祥寺のハモニカ横丁でも同じであったなと思い起こした。「みますや」のように明治時代創業の店が営々と続けてこれた幸いな店もあるが、その多くは店を閉めることとなる。

ところで次回の未来塾のテーマについて調べるために神田、有楽町、新橋と歩いて感じたことだが、「みますや」のような際立つ特徴のある店として継続している「差」は何かを考えていた。今マスコミにはあまり取り上げられてはいない東京の行列店、その「差」については詳しくは次回とするが、閉店してもなお際立つ「差」をなんとかしたいとする街場の店が続々と復活誕生している。
若い頃お金もあまりなく安いカレーを食べさせる店が銀座一丁目にあった。銀座ニューキャッスルという店で、当時は喫茶店のカレー「辛来飯(カライライス)」というダジャレを面白がって食べに行っていた。肉を使わない独特のスパイシーなカレーで、今回久しぶりに食べてみようと探したが、見つけることができなかった。後で調べたのだが、建物の老朽化により閉店したが、常連客の中から是非後継をやらせて欲しいとのことで近くのビルの地下に復活したとのこと。
あるいは同じように広島ラーメンの老舗「すずめ」が二代目店主の病気により閉店したが、友人「冠生園」の後押しで体調を考慮し、1日60杯程度に減らし、限定で復活提供。そして、惜しまれつつ閉店した「すずめ」で修行の後、すずめの跡地にオープンした後継店「めじろ」が誕生。これも老舗の味という「差」を継続させたいとする復活劇であろう。

もう一店取り上げるとすれば、これも老舗の天丼「土手の伊勢屋」の五代目のあり方であろう。東京のシニア世代にとっては穴子天丼と共によく知られた店であるが、創業1889年。吉原遊郭唯一の出入り口、大門があった場所なので、吉原が堀にかこまれていたことから「土手の伊勢屋」と言われ、その風情ある黒光りした有形文化財である建物と共に知られた老舗である。ただ、場所が三ノ輪からも浅草からも遠く、バス程度という利便性の悪い場所ではある。
ところでその五代目の後継のあり方であるが、 高校生で「伊勢屋」にアルバイトとして入り、2004年に五代目を襲名。2014年からは社長として店を切り盛りしている。そして、老舗を守りながら、更なる境地へ向かうべく【下町天丼 秋光】を2015年3月に交通利便の良い浅草にオープンする。本店の味は経験済みであるが、浅草の新店「秋光」はまだ食べてはいないが、本店とは少し味を変えているとの話を聞いている。これも新たな後継者による新たな市場創りという意味では一つの後継モデルとなっている。

リバイバル、復古、レトロ、あるいは過去を思い巡らせるという意味では、懐古、記憶、昭和ブーム・・・・・こうした社会に現れた現象を「失われた20年」という言葉で分かったような気分になってしまった。勿論、私自身もそうした現象、特に消費に現れた現象をもっと俯瞰した価値潮流の視座を持って分析してきたとは言えなかった。そうした反省を踏まえ、単に「過去」を追い求める現象ではなく、それが「何故」なのか、「何に」よって起因するのか、そうした視座が必要となる。
「既にあるものを生かしきる」知恵は日本文化の根底をなすものであるが、その中心、コアには他に代えがたい「差」があるということである。老舗力、ブランド力とはこの「差」を指しており、ブランドを毀損した大手チェーン企業もこうした復活劇を果たしている街場のビジネスの「差」について再学習すべきである。

ところで日本マクドナルドが日本人デザイナーによる新店舗デザインを発表した。世界各国異なる店舗デザインやメニュー展開していることは周知しているが、パッと見ただけで結論を出し得ないが、これまでの新メニュー・価格帯を踏まえ、ああファミリー市場は捨てて、「大人」「都市」と言った市場狙いに絞り込んだなと思った。おそらく地方を含めファミリー(子供)狙いの非採算店は次々と閉店していくこととなる。さて、後日詳しくレポートするが、特定のマーケットに絞り込んだ「差」創りによる再生はあり得るであろうか、疑問が残る。どの程度閉店するのかわからないが、数百店舗規模でスクラップしない限り、このコンセプトでは経営できないと思う。これが生き残るための日本マクドナルドの復活ということだ。

また数年前からソーシャルメディアの活用がマーケティングの中心となり、多くの企業で担当部署が作られ顧客対応・対話が実行されてきた。しかし、単なる対応、処理としての対応、「いいね」程度の把握では答えとはならない。ここでも本気での対話が求められているということだ。つまり、メニューやMDだけでなく、ソーシャルメディアというコミュニケーションに於いても本気度という「差」が必要であると理解しなければならない。Facebookもやっと「いいね」以外の気持ちを簡単に表現できる新機能・進化形を近く導入する方針を明らかにしている。スピードだけの「いいね」と言った表層をなぞるだけのコミュニケーションから、少しだけ「本気」という気持ちに近づいたということである。つまり、この「差」という概念は飲食店ばかりか、他の業種においても同様で、人は本気度の「差」と感じてしまうということである。よく言われていることだが、失われた20年とは、消費という視点においては失ってしまった「差」のことである。店も、企業も、人も、街も、出来事すらも、その「差」を取り戻す復活劇が始まったということだ。(続く)
  


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2015年11月18日

◆未来塾(19)「テーマから学ぶ」下北沢文化の今(後半)

ヒット商品応援団日記No629(毎週更新) 2015.11.18.

小田急線と京王井の頭線が交差する下北沢は「若者の街」と呼ばれて久しい。その下北沢は駅の地下化が進み、鉄道線路跡地を中心に再開発計画が進んでいる。完成の2018年には、その変化が目にみえる形、体験実感できることとなる。そうした意味合いを含め、今後どんな街へと変わっていくであろうか、「若者の街」の現在と若干の予測を含めスタディした。




「テーマから学ぶ」


若者の街

下北沢文化の今

再開発とシモキタ文化のこれから



テーマから学ぶ


はじめに下北沢駅の地下化、鉄道線路跡地の再利用によって下北沢の街が変わると書いた。そして、読んでいただけたら理解してもらえたと思うが、「若者の街」もまた言葉としてはそうであるが、意味する内容は時代とともに変わっていく。1970年代の若者は今やシニア世代となり、下北沢は懐かしいOld Townとなった。2015年の若者にとっての下北沢は「古着と出会う街」となった。時を重ねるとともに、若者の興味関心事も変わり、結果街のテーマもまた変わる。同じような街の一つが吉祥寺であるが、その中でも注目されている一角、まるで戦後の闇市、昭和にタイムスリップしたかのようなハーモニカ横丁がある。古くからの飲食店もあれば、ワインを飲ませるオシャレなショットバーとが同居している路地裏街である。近隣住民のシニア世代にとっては使い慣れた横丁路地裏であるが、若い世代にはOLD NEW(古が新しい)といった受け止め方がなされている。つまり、Old Townであり、New Townでもあるということである。吉祥寺の魅力はこうした2面性から生まれている。
そうした視座を持って下北沢を見ていくとどうなるかである。


1、若者文化の変化

街も、村も、都市も、勿論日本自体がそうであるように、少子高齢化へ、人口減少へと向かっている。単純に言ってしまえば、街も、人間も年を取り、また新たな誕生を迎える。時代時代の若者の興味関心事も当然異なる。つまり、街のテーマもまた変わるということでもある。

下北沢が若者の街と呼ばれるきっかけとなったのは1970年代ジャズを聴かせるカフェやバーがオープンしたことによる。当時の若者はビートルズ世代、音楽世代とも言われるように音楽が最大関心事であった。前述のジャズバー「LADY JANE」がその代表的な店であるが、その後ライブハウスも続々と誕生し、音楽の街というポジションが確立する。そして、前述のように本多氏による小劇場が次々生まれ、勿論そうした劇場に出演する若者を含めたフアンが下北沢に集まることとなる。若者はいつの時代も「既成」に対してはアンチ・反となり、そこに固有な文化が生まれる。ジャズやロック、あるいは小劇場演劇、サブカルチャーというよりカウンターカルチャーといった方が的確であろう。
下北沢には1970年代の若者文化、そして90年代、更には2010年代の若者文化が今なお残る珍しい街である。時代時代の若者が追い求めたテーマは異なるが、「若者文化」は健在である。

面白い附合であるが、古着の街の発祥は20年ほど前になる。ちょうど団塊ジュニア世代が既存のファッションブランドではなく、いわゆるセレクトショップでお気に入りのモノを探していた頃である。ある意味、オリジナルを求めるセレクトショップが「表」であれば、古着屋は「裏」となり、彼女たちはそれらを自在に着こなしていた。これもカウンターファッションの一つである。
確か1990年代半ばであったと思うが、大阪梅田のJR高架下に「エスト1」という小さな若者向きのSCでトレンド調査をしたことがあった。当時、エスト1は坪効率が全国でトップクラスのSCとなっていて、その背景の調査であった。中でも飛び抜けた売り上げを示していたのが古着ショップであったことを覚えている。また、今では当たり前のスタイルとなっているが、従来の洋服のタグは内側にあったが、タグを外に出すのが先端トレンドであった。

さて、再開発の内容次第ではあるが、どんな「若者の街」になっていくかである。少し前まではunder30、最近では30代となり、一番消費意欲が旺盛な世代であるが、草食世代という名前をつけられたように多くのことに興味関心をあまり寄せることのない「離れ」世代マーケットが存在する。ところでここ何回か下北沢の街を歩いたが、そうした世代より下の10代後半から20代の女性が多いような感を持った。
原宿のような広域で、なおかつ密度を持った街ではないため、食べ歩きのポップコーン店もない。逆にカフェは街の大きさから言えばかなりある。文化は過去の堆積の上につくられる。そして、少数の思いの激しいオタクたちによって文化の裾野は広がる。北口と南口とが一体化されることにより、回遊性が生まれる。この回遊性、歩く楽しさ、歩いて絵になる街、まるで映画の1シーンに主人公として登場するかのような街が出来れば、「若者の街」というポジション、新たなポジションを手に入れることができる。そのためには北口と南口を結ぶ導線、そこに新しい「何か」、原宿におけるポップコーンではない「何か」がMDされるとき、下北沢は次のステージに向かうことができる。

2、表にはなりえない裏ならではの魅力

10分も歩けばわかるが、駅を真ん中に南北に伸びる狭い街、それが下北沢である。そして、通りから路地を一歩入れば住宅街となり、そうした意味で小さな街である。2000年代初めごろであったが、六本木裏と呼んでも構わない霞町交差点の周辺に、こだわりを持ったマスコミや広告といった業界人が好んで利用した飲食店を「隠れ家」と呼んでいた。銀座や赤坂、六本木といった「表」の飲食店ではなく、こうした「裏」の場所、知る人ぞ知る店が話題になったことがあった。下北沢は小さな街であるが、構図として新宿や渋谷の「裏」となっている。

言うまでもなく、「裏」を知る人ぞ知らせるには、他にはない魅力がなければならない。ここ数年、敢えて「表」としての看板も何もない迷路のような店作りが多くなってきた。勿論、分かりづらいことも「売り物」の一つとしてだが、それが単なる話題づくり、サプライズだけであれなリピーターなど作れないことは言うまでもない。
「裏」であるためには、まず徹底した「こだわり」が不可欠となる。そのこだわりは自分勝手な思い込みだけのこだわりではなく、なるほどと実感できるプロによるものでなければならない。例えば、今東京では昨年から肉ブームが起きているが、その中でも話題となっているのが、牛肉の多様な部位を一番美味しく食べさせてくれる焼肉店である。今まで知らなかった「肩三角」「シンシン」あるいは「ササミ」といった部位の美味しい食べさせ方はこんな方法で、といった具合である。こうしたプロによる知らなかった「情報」をも食べさせてくれるということである。
寿司屋であればカウンターを間に職人と当たり前のこととして交わされていたことだが、こうしたプロの技が今までなされていなかった「焼肉屋」にも浸透してきたということである。
そして、「裏」が話題となるに従って、それが「表」になり、隠れ家ではなくなる情報の時代においては、「裏」の魅力は魚料理や中華、あるいは家庭料理の食堂まで、少数限定、完全予約制、会話を楽しめる店へと、更に進化・深化してきている。最早、マスコミには取り上げられない完全に地下に潜ってしまったということである。
まあ、そこまでの隠れ家ではなく、あまりこだわりのなかった分野・領域にはこれからも新しい「裏」商品、「裏」メニュー、隠れ家が生まれてくる。安さを売り物にしてきた大手居酒屋チェーンが軒並み魅力を喪失してきているが、今回「とぶさかな」で食べたバッテラも大手居酒屋チェーンにはない「裏」メニューの一つかもしれない。後で知ったのだが、限定数量であったようで、1時間ほど後に来た顧客は食べることはできなかったようだ。

ところでカウンターカルチャーとしての「裏」文化はどうであるかである。演劇については詳しくはないが、お笑い芸人が多数を占めている芸能界にあって、下北沢の小劇場から次のスターを生み出して欲しいものである。最近では唯一ブレークした吉田羊は下北沢の小劇場にも出演していた。吉田羊、その次が待たれるということだ。
そして、やはり音楽の街、若者の音楽好きを満たしてくれる街の行方である。周知のように音楽の聴き方、楽しみ方は大きく変化してきた。レコード盤やカセットテープといったアナログ視聴は、CDやDVDといったデジタル視聴へ、ウオークマンからスマホへと聴き方も変わってきた。そして、音楽業界ソフト全体(CD、カセット、レコード、音楽ビデオなど)の売り上げ推移を見ていくと、全盛期の1998年には6074億円だった売り上げが、2010年には2836億円にまで落ち込んでいる。そして、CD関連の売り上げは2010年代に入るとAKB48及び関連アーティストやジャニーズアーティスト等の活躍により大幅に回復が見られているが、全体としては今なおこの下落傾向は変わらない。こうしたことはブログにも書いてきたのでこれ以上書かないが、面白い兆候が幾つか見られる。その一つが市場規模は小さいがアナログレコード盤である。2014年はビートルズ特需もありここ数年最高の売り上げを示し、勿論中古のレコード盤の方が市場規模としては大きい。
もう一つがライブコンサートである。ライブコンサートと言えばやはりEXILEで2013年度は観客動員数は100万人を優に超えている。こうしたビッグアーチスト以外にも神奈川にはゆずやいきものがかりが元気で25万人、20万人を超えるフアンが会場に集まっている。

ところでそのライブであるが、今年3月老舗のライブハウス「下北沢屋根裏」が閉店した。ライブ好きにはよく知られたライブハウスであるが、1975年渋谷のセンター街横に創業。有名なアーチストではあのRCサクセションが出演していたことで知られていた。1986年、渋谷の店舗を閉店し、下北沢の本多劇場前のビルに移転し、3月まで29年間活動していた老舗ライブハウスである。ただ、その跡地には音楽の火を消してはならないと有志が集まり、新ライブハウス&酒場『下北沢ろくでもない夜』がオープンしたと聞いている。
右肩下がりの音楽業界にあって、なんとか「裏」文化を継続し得たということだが、「裏」こそが次なるアーチストを誕生させるインキュベーション装置となっている。「未来の消滅都市論」にも書いたが、今や世界のコミック・アニメもアキバに集まるオタクがその芽を開花させ、更にはオタクのアイドルとしてスタートし今や国民的アイドルになったのもAKN48も「裏」から生まれた。

3、新旧住民による新しい下町へ

タイトルの商店街の写真を見ても分かるように、パッと見た感想としては全国どこにでもあるごく普通の商店街の日常風景である。ウイークデーの昼間ということから、下北沢という街の特徴となっている古着探しの若い世代も、夜から始まる演劇やライブハウスに通う熱心なフアンも出てきてはいない。しかし、商店街の路地に入ればアパートやマンション、戸建住宅街となる。特に世田谷代田駅側は古い戸建住宅が密集しており、入り組んだ狭い路地は一方通行路が多く、タクシー運転手泣かせの道となっている。こうした古くからの住宅街の住民にとっての駅中心部にはスーパーやドラッグストアといった日常生活に必要とする店舗があり、通い慣れた商店街となっている。駅北口にあるピーコックストアや本多劇場横のオオゼキはその象徴的存在である。そうした意味合いを含め、下北沢には「下町」の雰囲気が残る街であると言われる所以である。

今回の再開発事業はデベロッパーである小田急電鉄が世田谷区の意向・要請を踏まえたものとして冒頭に書いたNYの「ハイライン」を参考としていると思うが、何を残し、何を新たなものに変えていくのか、という課題がポイントとなる。

これは私の考える次の「シモキタ」の推測であるが、新駅舎の上には成城学園駅や経堂駅がそうであるように小田急OXというスーパーや乗り換え駅に求められるカフェや書店などが入ったミニ商業施設が生まれると思う。それはそれで必要なことであると思う。ニュー下北沢を特徴づけるものとしては緑を配したガーデンコンセプトになるであろう。ここ数年の傾向であるが、商業施設の屋上にこうしたガーデンコンセプトの広場が造られている。
首都圏の場合でいうと、再開発が進み人気の街となっている神奈川の武蔵小杉にあって、昨年11月にオープンした商業施設「GRANDTREE」の屋上の「GRAND GREENGARDEN」のような多くの人が楽しめる空間が造られるのではないかと推測される。イベントスペースも用意されているが、「森のトンネル」「お花畑」「大きな山」「木かげの休憩所」更には子供達の遊び場となる「えんぴつ迷路」や「ジグザグ平均台」といった具合の遊具が配置されたガーデン広場である。そうした遊具を配した公園広場は他にも数多くあるが、特徴はちょっと変わった「レモン」「ざくろ」「ラフランス」「ベニスモモ」といった植物が植えられており、果樹園とまではいかないがより自然を感じられるように造られている。デベロッパーはイトーヨーカドーで、商業施設については大きな違いはないが、コンセプトとして「愛」を掲げており、その最大特徴は「子供への愛」で、そのシンボルとして屋上ガーデンが造られている。若干残念なことは、造られ方が人工的すぎる点にある。大きな商業施設の屋上ということからやむおえないことではあるのだが。
下北沢の鉄道跡地、特に駅前スペースには下北沢らしさを取り入れて欲しいなという感想を持っている。例えば、下北沢に「下町」を強く感じさせてくれたのは北口駅前の市場であった。まるでタイムスリップしたかのようなレトロな古い市場があった。こうした雰囲気を残しながらも、もう少しこぎれいにした市場、パリのマルシェといったオシャレな店としてリニューアルされ配置されたらと思う。おそらく大きなスペースにはならないと思うので、横丁・路地裏と言った通りの市場造りである。
こうしたマルシェ巡りという新しい下町ができたらというのが私の考えである。下北沢の「次」は、古くから住む住民、シニア世代もいれば子育て世代もいる。また、若いビジネスマンやウーマン、学生という新住民、入れ替わりのある住民とともに、下北沢の魅力、古着や演劇・音楽好きが集まる人が新しい「文化」を感じてくれるような街づくりである。武蔵小杉の商業施設「GRANDTREE」にならって言うとすれば、「下北沢への愛」、「シモキタ文化への愛」とでも表現できるコンセプトである。

写真は週末の土曜日に北口の古い市塲横で開催されていたフードイベントである。オージービーフならぬ、オージーラム、オーストラリア羊肉のPRイベントでハンバーガーなどを売っていたが、若い世代が行列を作っていた。2018年の駅前跡地の広場にはこうしたイベントが週末ごとに行われると思う。
活性化のためのカレーの街も良いとは思うが、ビルや劇場を飛び出した音楽イベントや演劇イベントも開かれたらと思う。地下(アンダーグラウンド)ではなくて、表へと出ようじゃないかと宣言して『天井桟敷』を作った寺山修司のように。あるいは音楽であれば、横浜伊勢佐木町の路上ライブからスタートした「ゆず」のように。
そして、周知のように秋葉原駅前にはAKB48劇場が出てきたり、メイドカフェも時々駅前広場でイベントをしているように、「裏」が「表」にも出てくるそんな文化の時代である。

戦後の経済最優先の時代にあって、「文化」それ自体は儲からないと言われ続けてきた。しかし、周知のようにコミックやアニメは日本の大きな輸出産業となり、その裾野には日本文化に触れてみたいとする訪日外国人市場にもつながっている。
小さな街の下北沢にも本多劇場のようにビジネスとして成功させている例もある。また少なくとも文化は街に人を惹きつけ、元気な街へと変えるパワーがあることは間違いない。どんな街にも、どんな小さな地方の村にも、歴史はあり、営々として続いてきた固有な文化はある。そんな文化の時代、小さな街の小さなサブカルチャーの時代がやっと到来してきた。今回の再開発を通じ、シモキタ文化が本格的に「表」に出てくると期待される。(続く)
  


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2015年11月15日

◆未来塾(19)「テーマから学ぶ」下北沢文化の今(前半)

ヒット商品応援団日記No629(毎週更新) 2015.11.15.

小田急線と京王井の頭線が交差する下北沢は「若者の街」と呼ばれて久しい。その下北沢は駅の地下化が進み、鉄道線路跡地を中心に再開発計画が進んでいる。完成の2018年には、その変化が目にみえる形、体験実感できることとなる。そうした意味合いを含め、今後どんな街へと変わっていくであろうか、「若者の街」の現在と若干の予測を含めスタディした。




「テーマから学ぶ」


若者の街

下北沢文化の今

再開発とシモキタ文化のこれから


急行を使えば渋谷まで4分、新宿まで9分、小田急線と京王井の頭線が交差する下北沢は「若者の街」と呼ばれて久しい。勿論、沿線には東京にあっては一番多くの中学や高校・大学があり、通学する学生が乗り換え、あるいは集まる背景はある。最近の1日の乗降客数は京王が114,056人、小田急は114,669人となっている。秋葉原の乗降客数に近く、かなり多い駅と言える。そして、井の頭線は渋谷と吉祥寺の中間乗り換え駅であり、小田急線も新宿と町田などとを結ぶ中間駅となっている。ある意味、「乗り換え中心駅」のウエイトが大きい。

それを象徴していると思うが、駅周辺にはワンルームタイプのアパートやマンションが多く、渋谷や新宿に近いにもかかわらず、家賃が安く生活しやすいことからも若い世代の大学生やビジネスマン・ウーマンにとっては人気の街となっている。写真では見づらいと思うが、部屋の家賃の多くはワンルーム6万台~8万円といったところである。
東京に住む人間、特に2つの鉄道沿線に住む人間にとっては理解・認識していることだが、下北沢駅周辺の再開発事業を踏まえた駅の改良事業・地下化が進み、この駅のみならず「街」全体が大きく変わるであろうと。渋谷についてはJR渋谷駅を始めとした再開発事業はTVなどのメディアで広報されよく知られてはいるが、恐らく下北沢は渋谷に次ぐ変化をもたらすこととなる。しかも、あと数年で2018年にはその変化が目にみえる形、体験実感できることとなる。そうした意味合いを含め、今後どんな街へと変わっていくであろうか、「若者の街」の現在と若干の予測を含めスタディした。

▪️再開発事業の分かりやすさ




どの再開発事業も同じであるが、価値観や利害の異なる住民や商業者、あるいは諸団体は存在する。ただ沿線住民、鉄道利用者にとって、通勤・通学時間帯における「開かずの踏切」、さらには駅横の補助54号は常に「バスなどの交通渋滞」となっており、都市の交通インフラ整備は長年にわたる強い要望事項の一つであった。この要望を単純化すると、鉄道の地下化、下北沢駅、世田谷代田駅、東北沢駅、3駅の地下化という極めてわかりやすい再開発計画となる。
そして、この計画がさらに進展したのは地下化による「跡地利用」であった。勿論、現在も工事中であり、その全体像を実感することはできない。
2008年8月1日より、世田谷区は下北沢地域の小田急線跡地についての意見募集を行うとして「鉄道跡地を利用した公共施設計画のアイデア募集」なる文書を配布することから計画が始まった。

そして、2013年3月、小田急線の東北沢-下北沢-世田谷代田駅間の約2.2kmが地下化される。これに伴い、小田急電鉄は東京都、世田谷区、渋谷区などと線路跡地の土地利用について具体的な協議が始まる。2013年11月には世田谷区内の施設配置(ゾーニング構想)に関する協議がまとまり、小田急線上部利用計画について発表した。街の個性や雰囲気を踏まえ「にぎわいや回遊性、子育て世代が住める街、文化」をキーワードに、街に新たな魅力を創出することを目指すとある。「子育て世代が住める街」とあるが、このことは世田谷区はイメージ上は子育てしやすいと思われているが、住んでみたい街No1の武蔵野市吉祥寺が緑の多い待機児童0であるのに対し、実は待機児童は1200名近くとなっており、世田谷区が子育てしやすい環境を踏まえた再開発であって欲しいという意味である。

▪️地上線路の跡地利用という創造世界

商業施設のリニューアルや再開発に携わってきた者であれば、必ずスタディした最近事例の一つがニューヨークの観光名所となった「ハイライン」である。ハイラインはウエストサイド線の支線で、マンハッタンのロウワー・ウエスト・サイドで運行されていた1.45マイル (2.33 km)の高架貨物線跡を、空中緑道として再利用したものである。
見に行きたい再開発事業であったが、未だ見に行ってはいないのでハイラインのコンセプトにもなっている空中緑道の造られ方についてはウイキペディアから引用する。
「公園のアトラクションには、野性に返った廃線の風景に着想を得て植栽された植物が挙げられる。さらに、しばしば現れる市街地とハドソン川の意外な景観もそのひとつである。小石打ち込み仕上げのコンクリート歩道は線路と一体化し、広くなったり狭くなったり、端から端へ移動したり、バラストに埋め込まれている植物と石畳に混ざり合って枝分かれしたりする。敷設されている線路と枕木は、ハイラインでかつて使われていたものである。」
つまり、再開発事業の根本である、「何を残して使い」、「何を新しいものへと変えていくのか」が明確になされている。この創造性こそが再開発事業には必要とされる。
さて下北沢の場合はどうかと言うと、「ハイライン」を念頭に置きながら、次のような考え方で進められている。

”再開発のテーマは「シモキタショッピングゾーン」とし、駅舎の2階に商業施設を置く。
ただし、「大規模な商業施設は考えていない。地域からどういうものが必要とされているのか、検討を進めている」”と、小田急の山木利満社長はこのように語り、駅周辺の商店街との共存が可能なものとする予定だという。
さらに、駅を挟んで南と北で高低差があることを考慮して、駅舎の2階部分と駅前広場がつながる設計にし、駅から周辺への回遊性を高める。バス・タクシーのロータリーを含めると広さ約7200平方メートルに及ぶ駅前広場は、祭りなどのイベントに活用するほか、災害時には避難場所として使うものとし、防火水槽などを設置する。また、自転車置き場の上部には、立体緑地や小広場が設けられる。このように構想されている。写真は予定されている工事中の駅前跡地である。

▪️若者の街のターニングポイント

下北沢が若者の街と言われて久しいと書いたが、より正確に言うとすれば、交通至便にもかかわらず物価も家賃も安く生活しやすい街、つまり若い世代にとって住みやすい身近な言わば下町のような存在ということだ。勿論、下町人情ではないが、誰彼となく気軽に話ができる雰囲気のある街ということである。
電子書籍「未来の消滅都市論」にも書いたが、若者の街も時間の経過と共に大人の街にもなり、更には老人の街にもなる。人口の流入・流出は大きな国という単位で考えれば減少に向かっており、小さな単位で考えれば増加・成長も減少・衰退もある。そこにマーケティングという方法が必要とされている訳であるが、下北沢という街も今回の「地下化」「跡地利用」が一つのターニングポイントになることは間違いない。つまり、「乗り換え駅」から目的を持って下北沢を訪れる人をどれだけ集客できるか、同時に何よりも駅から一歩入れば戸建て住宅やアパート・マンションの住宅街となる。そんな今住んでいる住民に対する課題解決でもある。

下北沢と共に若者の街と呼ばれる渋谷も、1990年代街の中心的リーダー企業である東急グループによって「大人の街」をコンセプトにした街づくりが進められたことがあった。そして、その象徴例が商業施設渋谷109の渋谷におけるポジションであった。渋谷駅から少し外れたところに東急百貨店本店や東急文化村といった「大人」を対象とした商業施設がある。その導線上にある渋谷109を高感度な女子大生を中心とした20歳代女性のSCへとリニューアルしたことがあった。しかし、結果はどうであったか。周知のように女子中高生を中心としたティーンズファッションの聖地となった。渋谷109を代表するブランドのエゴイストはカリスマ店長という流行語を生み出し、さらにはガングロ・山姥という社会風俗をも現象させた。
つまり、渋谷109はデベロッパーの意図に反し、ティーンの街の象徴になったということである。そして、面白いことに渋谷109とは渋谷駅を挟んだ反対側に、2012年4月に「渋谷ヒカリエ」が開発された。このヒカリエはまさに「大人」の複合商業施設である。そのヒカリエであるが、地下4階から地上34階建ての館内は、東急百貨店の新商業施設「ShinQs(シンクス)」をはじめ、大型イベントホール「ヒカリエホール」、クリエイティブフロア「クリエイティブ 8/(はち)」、日本最大級の劇場「東急シアターオーブ」などが集積されている。
このように「大人」のための複合商業施設が可能となったのも、高層ビルという「箱」の中によってである。街は大小商業施設をはじめとしたオフィスなど諸施設の回遊性を踏まえ、住んで良かった、これからもと思えるような愛着の持てる街に、そうしたコンセプトが求められる。街は生き物であると言われるように、常に変化し続ける。過去という歴史を踏まえ、未来を感じさせてくれる街づくりということになる。下北沢駅周辺、特に鉄道線路跡地の利用を含めた開発はどんな「魅力」を生み出すのであろうか。

その下北沢の回遊性であるが、下北沢という街を特徴づけているのが構造上からいうと、2つの鉄道が交差し、北口と南口とに分断されている点にある。しかも駅から歩いてわずか数分で住宅街となっている。つまり、街を形作っているスーパーも飲食店も、すべての商業施設がぎっしりと密度を持って構成されているということである。交差・分断された限られた土地、スペースの利用は通常であれば高層化といった経済合理性を追求していくのだが、下北沢の現状はといえば、逆にアナログ的に利用されているということになる。より具体的に言えば、道に面した1階だけでなく、地下や2階が路面と同様の店舗表情がうまく作られている。
ある意味、ごちゃごちゃした猥雑感すらある街並み、これが下北沢を「若者の下町」と呼ばせる所以にもなっている。こうした「下町観」「下町感」を今後どうしていくのか、そのことによって下北沢の街は大きく変わっていく。回遊性とは、歩くたびに新しい発見があったり、素敵な気分になったり、つまり「歩いて楽しい街」のことである。

▪️古着というOld Newに出会う街

大量生産大量消費というモノが溢れる時代にあって、他者との「違い」を自己表現の中に取り入れる人たちがいる。いつの時代でもそうだが、そうした常に新しい何か、珍しい何か、面白い何かに敏感なのは「若者」であった。そうした「何か」を古着では「一点もの」、あるいは「レア物」と呼ぶが、ある意味豊かな時代の一つの「消費スタイル」である。そして、多くの古着フアンはそうした「一点もの」、あるいは「レア物」を探すことを「出会い」と呼んでいる。
若者の街と呼ばれる街、原宿、渋谷、あるいは吉祥寺や町田などを歩き古着ショップを目にしてきたが、下北沢ほど古着ショップの店舗密度の濃いところはない。おそらく狭い街に大小60店舗以上あると思うが、そうした物理的なことと共に、価格帯も幅広く、ブランドも多様にあり、勿論「一点もの」という掘り出し物に出会うことも多いと言われている。

地形上北口と南口に分かれていると書いたが、スペースが限られていることと、古着ショップの集積度から2つのエリア共に分布している。恐らく北口エリアの方がショップ数は多いと思うが、出会いを求めて歩くにはその密度の濃さによって良い回遊性が形作られている。
そうしたショップの中には1990年代からある老舗ショップがあったり、ユニークなショップとしては写真のような元銭湯後に入った「NEW YORK JOE」といったショップもある。
この「NEW YORK JOE」は吉祥寺にもあり、1000円前後の商品が数多く並ぶが、毎月第一日曜日は【全商品半額】といったプロモーションも実施し集客を図っている。同じ小田急沿線の町田にも古着ショップは多かったが、町田の場合は分散しており、ショップ密度、テーマ集積密度は今ひとつであった。
また、「未来の消滅都市論」にも書いたが、ティーンの聖地である原宿にも古着ショップは多い。そうした背景からであろうか、下北沢にも同じ系列の古着ショップが出店している。その代表的なショップが古着フアンであれば誰でもが知っている「CHICAGO」が南口エリアに出店している。
今回の「地下化」による北口エリアと南口エリアの「一体化」は、古着フアンにとって「古着との出会い」を満喫できる良き回遊性、街歩きの楽しさが倍加するであろう。

そして、重要なことは回遊性が高まることによって新たなビジネスも生まれてくるということである。街歩きの楽しさを倍加させるビジネスとしては、「休憩」と「食」ということになる。「休憩」とはつまりオシャレなカフェであり、「食」とは食べ歩きのことである。既に「農民カフェ」をはじめとした幾つかのカフェはあるが、「古着」だけで更に若い世代を吸引するのは難しい。原宿の場合は、まさにオシャレを始めとした「宝探し」のような楽しさが満載したエリアであり、そして常に「変化」というニュースを提供している。そこまでのテーマ集積が下北沢にあるか、あるいはこれから創ることができるか、かなり難しいと言えよう。より特異なテーマへと進化するのか、あるいは衰退へと向かうのか、時代の「何か」を吸収する生き物という認識が極めて重要であるということだ。

▪️カウンターカルチャーの街

「古着」と共に多くの人が指摘もし、納得もするのが下北沢は演劇の街である。実はその演劇の街と呼ばれる10数年前、下北沢は音楽の街(=若者の街)と呼ばれていた。当時の若者は今や団塊世代となったが、音楽世代・ビートルズ世代と言われたようにロック、ジャズ、ブルースなどを流すバーが続々と下北沢の街に登場する。そして、1979年には「下北沢音楽祭」が開かれる。
その音楽の街下北沢に元映画俳優本多一夫氏が飲食店を開店することから演劇の街が始まる。俳優仲間の助けが評判を呼んだこともあり、事業は大成功し、多数の店舗やビルを運営するようになる。実業家となった後もショービジネスの世界に貢献したいと演劇養成所を設立し、1981年最初の劇場「ザ・スズナリ」を開場する。写真がその昭和の匂いのするレトロな看板である。
本多氏の活動を振り返ってみると、なぜか同じ時期1983年に沖縄にアクターズスクールをつくったマキノ正幸氏を思い起こす。周知のように安室奈美恵やSPEED、DA PUMPなど多くのスターを輩出することに成功した人物である。本土の芸能世界から離れ、離島沖縄からスターを輩出したのだが、本多氏も都心の俳優座といった舞台から離れた場所下北沢に、大劇場ではなく小劇場を造ったその構図は同じである。つまり、既成の芸能文化を表とするならば、裏文化・カウンターカルチャーと呼んでも構わない新しい文化の創造である。

ところでその「ザ・スズナリ」であるが、元はアパート「すずなり荘」だった二階部分を改造して劇場にし、一階部分には当時のままの造りで小さな飲み屋さんが密集している。ただ古いだけでなく歴史を重ねた劇場は、演劇人なら一度は立ってみたいステージと言われている。
その後も駆け出しの劇団の活躍の場となる小劇場を次々とオープンさせ、現在では下北沢に7つの劇場とスタジオ、横浜にも「相鉄本多劇場」を構えるまで発展する。ちなみに本多さんは現在も役者として舞台に立つことがあると言われている。
その小劇場の中心にあるのが「本多劇場」でグループでは最大規模の演劇場。本多グループのHPによれば夢の遊民社や第三舞台などかつての有名劇団ほか、大人計画、ナイロン100℃などの人気劇団が今も公演をおこなっているとのこと。
そして、今では毎年2月に1ヶ月かけて行われる「下北沢演劇祭」は区営の劇場も巻き込み、世田谷区の一大イベントとなっている。これが「演劇の街」と言われる所以である。
また、駅から歩いて5分ほどのところに北沢タウンホール(北沢区民会館)があり、その劇場使用料が安いこともあって稼働率が高く、最近では若手落語家による寄席が多いようである。

▪️隠れ家、「裏文化」の魅力

こうした大小の劇場がある街であるが、そのサブカルチャーの裾野が輝くのはやはり「夜の下北沢」となる。下北沢という歴史的・地理的にもよるのだが、都心の新宿や渋谷から少し外れた街として古くからある飲食店と新しい店とが奇妙に同居している街となっている。ある意味、未来塾にも取り上げたことのある吉祥寺のハモニカ横丁に似ている。

その代表的な飲食店がおでんの店「宮鍵(みやかぎ)」であろう。創業は60年は超えていると思うが、黒塀のまさに昭和レトロのおでん屋さんである。私も友人と共に仕事帰りによくお世話になった店である。年数としては老舗となるが、そんな構えた堅苦しさのない、ある意味ごくごく普通のおでん屋さんである。
また、忘れてはならない下北沢ならではの店がある。この店も古く、あの俳優故松田優作が通ったと言われるジャズバー「LADY JANE」である。当時はジャズ喫茶やジャズを聴かせるバーが渋谷にも新宿にもあったが、下北沢にも落ち着いたジャズバーがあると聞いて私も最後の一杯を飲みに時々行った店である。今回友人と共に10数年ぶりに行ったが、以前と変わらない落ち着いた雰囲気、いや匂いが残っている店である。

こうしたある意味特徴が際立つ特異な店が多く、下北沢には街の中華料理店にもそうした店が多い。例えば、その代表的な店の一つが「みん亭」である。この店も古くからある店で聞いてみたら昭和39年創業とのこと。まさに昭和レトロな中華屋さんで、焼き豚なども赤い食紅が使われていたりして、なんとも懐かしい味を提供してくれている。勿論、若い世代の多い街であり、今流行りの横浜家系のラーメン専門店や「一龍」という人気店もある。そして、「餃子の王将」もしっかりとあるが、街の中心から一歩奥に入ればそこは閑静な住宅街になっている。そうした街に住む「大人」のための外食としては蕎麦となるが、駅からは少し外れてはいるが「打心蕎庵」とか、リーズナブルな価格で提供してくれる「玄蕎麦 路庵」といった隠れた名店も多い。

こうした老舗と共に下北沢の「食」を特異なものとしているのが、新しい店であろう。ここ数年下北沢でそうした新しい店を食べ歩いているわけではないが、特異な店となると元祖スープカレーの「マジックスパイス」であろう。10数年前札幌の専門店さんたちと勉強会をしていた頃、話題となっているスープカレーの店があるので案内してもらったことがあった。市内の路地裏の一軒屋を改装した店であったが、いや改装というよりエスニックな装飾がなされただけの畳座敷であったと思う。スパイシーなチキンカレーで、どのように食べたら良いのか聞いた記憶がある。そんな訳で東京に出店したとのニュースを聞いて一度食べに行ったことがある。札幌の一軒屋の店内装飾もそうであったが、写真のようになんとも表現しがたいユニークな店舗フェースである。
カレーというと古本と共に知られている神田の名物がカレーである。下北沢も数年前からカレーをテーマとした飲食店のプロモーションが行われているが、やはり「マジックスパイス」は元祖と言われる通り特異な存在となっている。

ところで新しい店に行きたいと思い友人と一緒に食べに行ったのが「とぶさかな」という魚料理の居酒屋であった。南口から5~6分歩いた住宅地に近い路地裏に店があり、店の作りとしては若い世代向きの店である。店内の多くは20~30代の女性が多い。都心の低価格で勝負の居酒屋チェーンを卒業した、そんな女性たちと思える顧客層である。いろいろと刺身を食べたが、最後にバッテラを食べた。鮮度の良いサバを使っており、それに合わせるように酢飯の酢も弱めにしバランスの取れた、なかなかのものであった。
こうした店以外にも「魚真」といった人気居酒屋チェーンもあり、他にも居酒屋チェーンはある。このように新しい店も多くあり、苦戦する大手居酒屋チェーンとは異なる特徴を持った店が多いように思える。大量生産大量消費による安さを提供してきた大手チェーンとは異なる、メニューだけでなく店作りを含め独自な他と違う工夫が随所にあると感じた。(後半へ続く)
  


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2015年11月02日

◆平成のええじゃないか騒動

ヒット商品応援団日記No628(毎週更新) 2015.11.2.

今日のライフスタイルの原型は江戸時代にあるというのが持論であるが、今回のハロウィン騒動、特に10月31日渋谷に仮装して集まった若者を見るにつけ、江戸時代末期の「ええじゃないか騒動」とはこんなものではなかったかと思い至った。数日前から仮装衣装の着替え用のスペースが用意され、都もゴミ対策としてハロウィン用のゴミ袋が用意されたと報じられていた。そして、当日にはゴミ清掃のボランティアまでが活動しており、東京はハロウィン一色となった。
実は大規模なハロウィンパレードは川崎で行われ全国的にも注目されていたが、ここ数年前からはその「場」が渋谷に移ってきた。今年19回目を迎えた川崎のハロウィンパレードはイベント企画として企画され、参加費は1人1,000円。参加定員3000人に達すると締め切られることになっている。しかし、渋谷の場合はそうした企画は個人個人、あるいはグループごとの企画となっており、いわば自然発生的に生まれた異質なものとなっている。勿論、ハロウィン本来の趣旨とは全く異なるものであることは言うまでもない。

1990年代後半、渋谷の街や通りはティーンの劇場、舞台となった。ガングロ、山姥という婆娑羅ファッションを身にまとったティーンはマスメディアの注目されることとなった。劇場化社会の到来、街がメディアとなり、情報発信する時代の幕開けであった。
その背景であるが、学校からも家庭からも居場所を失った少女達が都市を漂流し社会問題化したことがあった。同じような居場所の無い仲間のいる渋谷はある意味居心地のよい場所であった。少女達は渋谷に集まり、次第に大人達による援助交際や薬物に手を出す。夜回り先生こと水谷修先生がそんな少女達を救うために授業の後夜回りをし、「春不遠」というサイトを通じ対話していた頃である。そうした応援に気づき、学校も家庭も少女達が何を求めているかを想像するようになった。結果、年齢を重ね、仕事や家庭へと居場所を探すことへと向かてきた。
つまり、つらかったことといった「語るべき過去」があった時代であり、結果として「戻るべき場所」を探すことが出来た時代であった。

当時は「見て見て症候群」と私は呼んでいたが、今でいう「人気者になりたい症候群」と同じである。数年前からネット上の人気者になりたくて、ローソンのアイス用冷凍庫に入ったアルバイト店員の写真をFacebookに公開したり、ミニストップでも同様の事件が続き、東京足立区のステーキハウスではこれも店員の悪ふざけ写真をツィッターに投稿し店舗閉鎖に至り、そうした悪ふざけはついにスーパーの菓子に爪楊枝を混入する事件にまで進んでしまったことがあった。人気者になりたい背景には、その心理には「絆」を失ったいじめ社会があると指摘する専門家もいる。また、「いじめ」を超えるために、自分が他人との違い・優位性を求めることに起因しているとも。それらに符合するかのように、小学校における「いじめ」が急増していると文科省からの発表があった。これは「いじめ」がマスメディアに取り上げられ、教師による認知の成果として表に出てきたということだが、逆に言えば今なお潜在しているいじめは極めて大きく存在しているということだ。

ところで江戸時代末期の「ええじゃないか騒動」であるが、慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動である。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事(祝い事)の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」とされている。この騒動の実態、特に狂乱とでも言えるような踊りが広がる時代背景・起因については諸説あるが、これといった定説はない。
江戸末期はどんな時代であったかというと、外からは黒船が来航し、各地では志士の倒幕運動が起きた時期であり、内には格差や不正などへの一揆や打ち壊しが頻繁に起き世直しの空気が蔓延していた。300年以上続いた平和が外から内からの力によって崩れ去ろうとした心理が強く働いていたと想像される。ちょうど騒動が起きる40年ほど前に60年に一度の伊勢神宮への「お陰参り」ブームが頂点に達する。当時の日本の人口は3000万人ほどであったが、その内500万人がお伊勢さんに押し寄せたと言われている。こうした江戸の旅ブームは八代将軍吉宗の頃、5街道が整備され街道を歩きさえすれば安全が確保出来ることとなり、庶民も旅へと向かわせることとなった。この時代欧米などでは考えられないほどの平和に満ち溢れた時代であった。江戸の旅ブームには御師という仕掛け人がいて伊勢神宮参拝などの観光案内をしていたようだ。そして、旅ブーム、特に伊勢参りはどんどん過熱し、参拝は集団化していく。これがお蔭参りと呼ばれるもので、「ええじゃないか騒動」の40年ほど前に過熱したブームが頂点に達する。そして、このお陰参りは幕末に向かって徐々に変質していく。前述のように、外から、内からという抑圧や不安がその変質を促すこととなる。そして、世直しという民衆運動へと向かっていくのだが、お蔭参りと同じような旅スタイルに仮装し、幟には、世直しを訴えるスローガンを掲げ、「ええじゃないか ええじゃないか」というお囃子に合わせ、民衆が踊り歩いたというのが実態であったと推測される。幕末という価値観が錯綜し混沌とした時代ならではの「騒動」であったと言える。

さて、今回のハロウィン騒動はというと、単純に重ね合わせることはできないが、「天からの御札」をハロウィンというきっかけに置き換え、お伊勢さんを渋谷という街に、「ええじゃないか」という囃し言葉はないようだが、共に「仮装」し、歩き踊る様は現象としては極めて似ていると言える。江戸時代の「ええじゃないか騒動」を社会に溜まった不安や不満のガス抜きであったという説があるが、渋谷という街に集まった若者は、見知らぬ人間同士がスクランブル交差点でハイタッチする光景を目にすると、まさに集団化しており、自らのガス抜きの踊りに見えてくる。

戦後70年という平和な時代にあって、単なる祭りにおける「馬鹿騒ぎ」の発散であると見るのではなく、鬱屈した何かを抱えていると見るべきだと思う。勿論、ハロウィンをママ友仲間のパーティの一つとして楽しむファミリーもいる。ハロウィンの経済効果が1200億円を超すと言われているように、その市場は広がってはいるとは思う。しかし、渋谷に集まる若い世代の集団の有り様は、やはり単なる若者の憂さ晴らしだけではない感がしてならない。

渋谷における「ハロウィン騒動」は、昔からハロウィンパレードを実施してきた川崎や全国各地で行われたハロウィンイベントとは仮装は同じであっても、異質なものとしてある。ここ数年、ネット上での「悪ふざけ騒動」を見ても分かることだが、「語るべき過去」や「戻るべき場所」を持たない若い世代が増えてきている。まるでネット上という仮想世界に居場所を求め、過去を求め漂流するかのようである。そして、現実世界においても、その漂流場所が渋谷であり、今回はハロウィンという時である。江戸時代の「ええじゃないか騒動」は救いを求める一つの民衆運動であったが、渋谷における「ハロウィン騒動」は居場所を求め、語るべき何かを求める漂流民の騒動であると言えよう。そして、これからも漂流民による騒動は渋谷では起きるということだ。(続く)
  


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