2009年02月25日

◆失われゆく儀礼

ヒット商品応援団日記No344(毎週2回更新)  2009.2.25.

「おくりびと」がアカデミー賞の外国語映画賞を受賞した。暗いニュースが多い中、私もそうであるが多くの人が喜び、ブログにもそうしたコメントが数多く書かれている。主演の本木雅弘さんの映画への思いや耳慣れない納棺師の仕事など様々であるが、象徴的な意味で失いつつある日本の儀礼に多くの人が気づかされたことと思う。誰もが必ず迎える死であるが、あの世への旅へ、化粧をはじめ白装束に手甲・脚絆という出立ちをお世話してくれる方が納棺師と呼ばれることを、実は私は映画を見るまで知らなかった。

「おくりびと」を観終わった後、今から2年ほど前に観た沖縄久高島の記録映画を思い起こした。「久高オデッセイ」という映画であるが、久高島の住人(島人)の生活が神と一体となった生活であることが良く記録されている映画だ。その中に、年老いて亡くなった「おばあ」の葬送の記録に強くこころ動かされたことを思い出した。集落のはずれまで皆で見送り、「ニライカナイの神様、これからおばあがまいります。どうぞよろしくお願いします。そして、またお戻しください」と祈る。人間と自然、俗界と聖なる場所との関係が生活の中に儀礼として今なお残っている島の記録映画であった。

注)久高島は琉球国を創った始祖が降り立った神の島と言われ、東方の海には黄泉の国、竜宮という理想郷ニライカナイがあると伝説となっている島である。ニライカナイ信仰のような海上浄土は日本海にも数多くあり、特に海に沈む夕日信仰として残されている。

こうした葬送の儀礼は日本人の死生観を唯一残しているものと言えよう。ところで、江戸時代を理想的なエコ社会、リサイクル社会というが、実はその根本のところにこの死生観がある。江戸の人達は虫を始め多くの生き物と共生し、決して殺生してはならないと考えていた。死んであの世に行っても、また生まれ変わって戻ってくる、輪廻転生の思想を持っていた。だから、「おくりびと」ではないが、あの世への旅立ちの儀式を行い、また戻っておいでという風習があった。江戸時代、お月見と共に虫聞きという遊びが流行ったが、聞き終わったお盆の頃、放生会(ほうじょうえ)という「命を解き放つ施行により後生を願う」といって野に放つ儀礼を行っていたのである。

既にいくつかの予兆はあるが、「おくりびと」を一つのきっかけに、日本古来から地域に残っている多くの儀式、儀礼が見直されることになると思う。その予兆は5〜6年前から旧暦のカレンダーが静かなブームになっていたり、京都の町家に住みたいと移る若者が顕著になったり、夏の花火大会には浴衣が定番のスタイルになったり、つまり和への興味が深化してきている。戦後60数年、全国至る所に都市化が進み便利さを手に入れたが、一方地域固有の風土から生まれた生活慣習や儀式が廃れてしまった。しかし、なんとか残るお盆や祭り、縁日といった先祖や神仏との関係を表す一種の儀式・文化に注目が集まると思う。特に、若い世代にとってはOLD NEW、古が新しいということだ。

もう一つの傾向はバラバラとなった個族が再び家族へと集まり直すことへとつながっていく。縁の結び直しであるが、家族縁を中心に、血縁、地縁、といった旧来の縁が見直されるであろう。家族という単位、巣ごもりの中で互いが確認し合うライフスタイルが生まれてくる。その代表例が任天堂DSの各種のゲームであろう。あるいは鍋や焼き肉といった一つのものを家族で食べ合うといった食卓スタイル。つまり、個人単位であったものを家族単位に再編するアイディアが必要であるということだ。

儀礼、儀式とは受け継ぐべき一つのスタイルである。時代によって変化していくものではあるが、スタイルは表現であり、その裏側には明快な考え方が存在する。継承すべき文化と呼んでも良いし、日本のアイデンティティと考えてもかまわない。価値観が混乱・錯綜する時代にあって、「おくりびと」はこのことを気づかせてくれた映画である。多くのマーケッターは巣ごもり状態のため消費の輪郭が見えないと言うが、そうではない。戦後の工業化、近代化、都市化によって失ってしまったものを、今やっと取り戻しつつある。この取り戻しが消費の輪郭を決める。(続く)  


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2009年02月22日

◆消費という欲望の輪郭

ヒット商品応援団日記No343(毎週2回更新)  2009.2.22.

10数年前、戦後のモノ不足を終え物質的豊かさを手に入れ、次の段階へと進むために「個性化」というキーワードが流行ったことがあった。別な表現としては10人10色といった言葉になるが、今日の消費を同じように表現するとすれば1人10色と言えよう。「一人ひとり異なる」から、更に一人の中に多くの色・好みを抱えた存在であるという意味だ。
私は数年前から「振り子消費」というキーワードを数多く使ってきたが、大きな価値潮流が振り子のように振れる様を表現したかったからである。洋のライフスタイルから和のライフスタイルへ、あるいはヘルシー系とガツン系との対比、今日と過去(昭和という時代)、新しさと古え、外と内、ハレとケ、豊かさと貧しさ、表通りと裏通り、更に広げればデジタルとアナログ・・・・・こうした振り子は極論ではあるが一人の顧客の中にあるということである。メーカーであれ、流通であれ、振り子のように振れるため、消費という欲望の輪郭を明確化できないでいる。

少し前に「分かりやすさの罠」というテーマでブログを書いたが、こうした振り子を提供者側が古いマーケティングの考えで勝手にどちらかであると決めつけてはならないという意味であった。そして、前回、どのように振り子が振れて消費移動し始めているかを読み感じとることが必要となっているかを書いた。例えば、ここ1年ほど前から、健康志向としてライト系と言われる「カロリーオフ」「糖質0」あるいは「××ライト」といった商品が数多く発売されてきた。一方、100円バーガーもさることながらガツン系のマクドナルドが伸長し、得盛りが話題になり、更に氷結ストロングがヒット商品となり、最近ではレトルトの「朝カレー」といったものまで発売されるようになった。

こうした振り子消費の中で注目すべきがデジタルとアナログである。分かりやすく表現するとデジタルをインターネット販売、アナログを対面・対話販売、あるいは商品として言うとデジタルを省時間型商品に代表されるスイッチだけの便利商品、アナログを土鍋のような調理道具のような手作りの楽しさ商品、と置き換えてもかまわない。(このテーマについては後日書いてみたい)
周知のようにネット通販は割安価格ということから順調に伸び、一方百貨店やスーパーは右肩下がりである。しかし、例えば2002年頃からお取り寄せサイトを構築したネット通販は顧客の囲い込みを行い、現時点でそれなりの売上を確保しているが、ここ1〜2年に参入した通販サイトは広告というランニングコストがかさみ経営としては今ひとつといった情況である。それはSNSが会員を伸ばし順調な広告収入を得てきた数年前とは異なり、広告収入によるビジネスモデルが破綻しかねない情況によく表れている。つまり、先行組と後発組とでは大きな差が生まれているということだ。一方、アナログである有店舗業態にあって、売上を伸ばしているのがネットスーパー部門である。ネットで注文し届けてくれる業態であるが、「デジタル×アナログ」によるサービス業態である。あるいは、百貨店においても売り場で商品を確認し、ネットで注文するといった在り方も徐々に増えている。つまり、顧客の側はデジタルとアナログをうまく使い分けしているということである。

新しい、珍しい、おもしろいを求めて「外」へと動き回っていた消費は、収入が増えないという事由によって「内」へ安近短へと向かう状態、これが「巣ごもり消費」である。こうした背景は、収入という経済的理由が一番であるが、もう一つが「情報に左右されてきたことへの反省・自戒」という学習結果によるものだ。特に、鮮度という名の下の賞味期限、ブランドという名の下の産地あるいは希少性の名の下の原材料など、夥しい情報偽装による学習体験が大きい。
消費への欲望は情報刺激によって行われる。市場が心理化されていると良く言われるが、「あるある大辞典」の納豆ダイエットの嘘の顛末を見ればよく分かる。このようにマスメディア自身による情報の信頼喪失は極めて大きい。更に、今まではマスメディアを通じた情報ガイドによって物を購入したり、サービスを受けていた。その情報はスピードを競うことから集中・過剰となり、軽さばかりが眼につくような奥行きの無いものとなっていく。結果、ネットの情報で十分こと足りることを実感してしまった。そして、生活者自らの体験が一番信頼できる情報であることへと向かったということだ。
今、混乱右往左往している政治であるが、伝えるべきマスメディアはその批判精神を失い、当事者である政治家の言葉と同じように信頼しえない情報となっていることは周知の通りである。先日のG7での大失態の報道はAP通信が全世界に報道した後、やっと日本のマスメディアも報道したというていたらくである。

今年の直木賞に天童荒太の「悼む人」が選ばれたが、マスメディアから流される過剰な情報の中で「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのか、その疑念から「悼む人」が書かれたという。亡くなった人を訪ね、その死の扱われ方を聞くことによって自身の心変わりをテーマとした小説である。生前どのように生き切っていたかを探し求めた小説であるが、情報の持つ意味合いを考えさせる小説である。マスメディアから流される情報、いや流されない情報の裏側で「何」が起こっていたのかを気づかせてくれた小説であるが、実は生活者がこうした裏にある事実へと気づき手に入れ始めた時代と言えよう。裏にある何か、それは自らの想像力によってであるが、今や過剰な情報が行き交う時代であるが故に、情報の裏にある何かへと想像に向かわさせる。商品に対し、サービスに対し、更には企業に対し、顧客が想像力を働かせる時、つまり本当のプロしか生き残ることはできない。私たちがそのことに思い至らなければ、消費の輪郭は明らかにはならない。(続く)  


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2009年02月18日

◆変化への眼力

ヒット商品応援団日記No342(毎週2回更新)  2009.2.18.

昨年10ー12月のGDPが内閣府から発表があった。年率換算−12.7%という数値であるが、その内訳を見ていくと輸出が−13.7%、設備投資が−5.3%、個人消費は−0.4%となっている。いわゆる生活実感からいうと、年越し派遣村に表れているように、大企業しかもGDPの2割を占める輸出企業が−13.7%という大幅なマイナス数値となっており、これが生活者のグローバル実感であろう。一方GDPの約6割を占める個人消費は−0.4%と小さい。これは、既に1年以上前から巣ごもり準備に入っていたということだ。つまり、いざなぎ景気を超えたといわれてきた景気も企業収益には大きく寄与したが、多くの生活者の収入は逆に減ってきていたことによる。つまり、個人消費のマイナスはリーマンショック以前の数年前からその予兆はあり、今回のGDPを押し下げる主要因にはなってはいないということだ。そのことと共に、他の主要各国のGDPとの比較において、日本がいかに偏った産業構造になっているか、食料自給率を含め大きな岐路に立たされていると思う。

もう一つ見ておかなければならない点は未来投資はどうかということである。企業にとって未来投資にあてはまるのが設備投資であり、分野にもよるが−5.3%と先行きは暗い数字である。一方、家庭の生活経営における未来投資の一つは子供への教育である。昨年秋の家計調査を見ても教育費の大きな増減変化はない。その象徴例ではないが、ベネッセが運営する進研ゼミの生徒数は順調に伸びている。
ちなみに、2008年度の企業倒産件数は12,681件で周知のように増加の一途を辿っているが、自己破産件数は2007年度は14.8万人で4年連続減少している。つまり、家庭経営の方が堅実で、先を見通しているといえよう。つまり、消費が低迷していると言われるが、これが普通であり、この消費マーケットでビジネスをしていくということだ。もっと正確にいうならば、世界不況であり、金融不況であり、輸出不況ではあるが、消費不況ではないということだ。

ところで、文芸春秋3月号に作家五木寛之と宗教学者山折哲雄の対談「不況と親鸞」が掲載されている。周知のお二人であるが、今日の行き詰まりは何に起因しているか極めて示唆的な内容となっている。是非、読まれたらと思うが、その対談の中で山折哲雄はコトの本質を次のように語っている。
「経済学者たちはなぜ<景気循環>という言葉ひとつで片づけないのでしょうか。百年だろうと二百年だろうと、要するに景気は循環するわけですから。更に、<景気循環>を大和言葉に言いかえれば、<無常>です。そんなことは日本人は昔からわかっていたはずなのに、その無常観をなぜ手放してしまったのか。こちらのほうが問題なんですよ。」
この言葉を受け五木寛之は、米国が民主主義の国であるというのは建前で、実際は神国アメリカであり、その神を企業家も政治家もどこかへ置き忘れ、マネーゲームに狂奔してしまったことに起因する、と語っている。そして、その象徴例ではないが、ドル紙幣には「IN GOD WE TRUST」と印刷されているが、この「見えざる神の手」が資本主義を支えてきたことを忘れてしまったと。

私のブログにも「不況ならではのヒット商品があるのですね」といったコメントが寄せられているが、無常観ではないが、世の中常ならず、そうした変化を取り込み生き抜く知恵を日本人は古来から持ってきた。ここ1年ほど消費の動向について書いてきたが、そのほとんどが「消費の移動」についてである。全て、生活を取り巻く環境変化に対応した消費移動である。繰り返し書かないが、訳あり商品のように少しでも訳あって価格の安いところへと移動したり、ブランド好きにおいても既存の専門店ではなく、アウトレットや中古ショップへと移動する。あるいは昨年の忘年会事情でもおもしろい現象が見られた。右肩下がりのファミレスが安価な忘年会メニューを用意したこともあって、久しぶりににぎやかになった。勿論、ファミレスの一次会で終了であるが、思わぬところで新しい需要が生まれている。
先日、あのティファニーが円高還元から9%ほど価格を引き下げると報じられ、さらに全世界では売上が21%ほど減少しているという。価格を引き下げても元の売上には戻らないということは自明である。つまり、減少した21%は経済的理由から買えなくなったか、もしくは他へと消費移動が起こったということだ。勿論、ティファニーを好きでたまらないとする人が79%いるということだ。

私たちマーケッターの眼力を発揮すべきは、この消費がどこに移動しつつあるのかを見極めること、及びティファニーの79%ではないが、好きで買い求めてくれる継続顧客にどうすべきか、この2つだ。例えば、私のブログに「美味しい100円おやつ」のトラックバックが寄せられているが、こうした傾向も多くの流通で見られるようになった。セブンイレブンでは少し前までは100円菓子がほとんどであったが、最近では60円菓子(豆大福)まで広げたMDを行っている。勿論、100円大福の時と較べてサイズは小さくなったが。大福好きの顧客に応えるには60円の大福を提供するということであろう。この100円と60円の差の意味はどんな変化があろうが継続した顧客関係を創ってくれる。100円顧客と60円顧客、こうした顧客と一緒に変わること。これがこの時代に不可欠な眼力である。(続く)  


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2009年02月15日

◆分かりやすさの罠

ヒット商品応援団日記No341(毎週2回更新)  2009.2.15.

昨年のヒット商品であるキリンビールの「氷結ストロング」に対抗するように、サントリーが「ストロングゼロ」を発売し、更にキリンビールも「ZERO」タイプを発売。缶酎ハイにおけるアルコール度数8%のガツン系市場に糖質0という違いを両社共に市場化してきている。一昨年から従来の健康に良いとカロリー控えめ商品が大多数であったところへ、周知のようにガツン系が一斉に市場へと出てきた。私はこうした消費傾向を「振り子消費」と呼んできたが、更に片方の振り子の中で小さな違い、糖質0競争を始めたということだ。こうした小さな違い競争はカップヌードル市場や日本酒市場における月桂冠の糖質0へと広がっている。
こうした振り子消費は数年遡ってみると至る所に見出すことができる。ガツン系とヘルシー系、ストロングとライト、最近の若者では物を買わない草食系(男子)と逆の世界を生きる動物系(女子)、こうした対比は主にマスメディア、TVメディアが創り出してきたものだが、その背景は過剰な情報の中での「分かりやすさ」からであった。

しかし、一方では振り子の真ん中はないのか、中間は、白黒というがグレーはないのか、といった疑問も当然出てくる。実は、マスメディアは生活者に伝わるようにと多様さを排除し、効率よく物事を一元化する。つまり、分かりやすさと引き換えに受け手の想像力や創造力を閉ざしてしまうということだ。コミュニケーションでいうと、キャッチコピーだけで、ボディコピーなし、ということである。マスメディア広告の衰退もこうした背景からである。
以前からこうした疑念はあったが、今回の不況による生活見直しが行われ、キャッチコピーに踊らされた自己反省が始まった。それは収入が増えない家計経済もさることながら、自己体験型生活へと向かわせている。これが振り子消費から巣ごもり消費へと移動した消費の本質である。

今年のバレンタインチョコの動向を見ても振り子型消費、変化を求めたチョコへの消費は少ない。昨年注目された洋から和への変化、新しさの代表であった和菓子によるバレンタインデーへの人気は今ひとつとなっていた。今年は本格的なベルギーチョコや有名なチョコレート職人の作るチョコへと振り子はまた元に振れたという訳だ。また、一つの潮流としては自分で作るチョコに支持が集まっており、自己体験型となっている。素材と道具、それに作り方が売れる時代だ。

つまり、売る物も、売る方法も変わったということだ。マスプロダクトである缶酎ハイですら度数は高いだけでなく、カロリーを気にする顧客に対しても配慮した糖質0を発売する。このように顧客への選択肢を増やし、カスタムメイド化の方向へと進んでいくということである。単純なガツン系とヘルシー系といった「分かりやすさの罠」にはもうはまらないぞという顧客心理であろう。こうした顧客心理に応えるためには、顧客の自己体験型要望に応えることだ。例えば飲食であれば料理教室を併設運営していくことであろうし、今流行の工場見学などもそうした考えの延長線上にある。

前回生き方も過剰であった、と私は書いたが、更に過剰な情報もどんどん削ぎ落としていくと思っている。つまり、巣ごもりする巣の中では情報も削ぎ落としているということだ。以前、「TVが消えてなくなる日」というテーマを書いたことがあったが、最近の調査ではPCをやりながらTV視聴する人間が増えてきているという。眼はPCに注がれ、音だけをTVで聞くといった具合である。なんとも奇妙な光景であるが、それだけTVコンテンツが劣化しているということであろう。

過剰情報を削ぎ落とすとは、多弁・早口なコミュニケーションを嫌い、寡黙・ぼくとつさの方が信じられるということでもある。若い頃の記憶で定かではないが、写真家中平卓馬だったと思うが、「眼の怠惰」という見ているようで実は見ていないのではないかという発言があったことを思い出す。過去からのおびただしい情報の意味する世界を引きずったままで、その壁を超えないまま見ているということである。分かりやすさという罠、怠惰な眼への自戒が始まった。振り子消費から脱却し、自分自身のリアル体験に依拠することとは、確かな眼を持つということだ。やっと、情報に右往左往しない大人の消費時代が始まったということであろう。(続く)  


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2009年02月11日

◆ガンバラないけどいいでしょう

ヒット商品応援団日記No340(毎週2回更新)  2009.2.11.

この1ヶ月ほどTV各局は年越し派遣村の延長線上として雇用問題をテーマに特番を組んでいる。リーマンショック以降の世界不況が身じかな雇用問題として迫ってきていることの証左であろう。解決のメドさえつかない年金問題を始め、行き場のない多くの不安が錯綜し充満している。精神医学では対象のない見えざる恐れを不安とするのだが、不安が常態化する社会へと向かっているような気がしてならない。

2004年の芥川賞を受賞した当時20歳であった金原ひとみの「蛇にピアス」を読んだ時、鬱屈さを通り越して一種のニヒリズムさえ感じてしまった。それは、31歳で亡くなった石田徹也の絵(http://www.cre-8.jp/snap/390/index.html)にも同じようなものを感じた。対象が定かでない恐怖、明日が見えない、孤独、生きること、見る者が息苦しくなるほどの世界である。最近の若い世代の大麻汚染に対し、薬物依存からのリハビリを行っているダルクの代表は、「薬物に向かう理由は、皆好奇心と言うが、実は孤独から逃れたいため」と語っている。

話しは変わるが、振り込め詐欺の被害は相変わらず続き、そのやり方は更に巧妙そのものとなっている。以前は暴力団がらみの詐欺事件と考えられていたが、その多くはごく普通の若い世代が詐欺の当事者であるという。しかも、悪びれた感もなく、詐欺をビジネスとして組織的に実行し、犯罪を犯すという従来の倫理観とは全く異なる世界観であるという。従来のような経済的貧困や恨みといった動機による犯罪とは全く異なる。もし、あるとすれば漠とした社会、あるいは育ってきた環境に対する鬱屈した恨みやつらみとしか言いようのない理由だ。

ところで、あの吉田拓郎が音楽人生最後の全国ツアーを行うとニュースが報じられた。フォークソングはメッセージソングであるが、その最後のツアーに向けた6年ぶりのニューアルバムには「ガンバラないけどいいでしょう」という曲が収録されている。4月中旬リリースされるので未だ聞いてはいないが、詞を読む限り自分自身と共に若い世代へのメッセージでもあると思う。「ガンバラないけどいいでしょう」というメッセージは、逆に頑張らないことの大切さ、自分を責め傷つけることはやめにしようじゃないか、あるがままに生きてもいいんじゃないか、そんなメッセージにように思える。

私はモノも情報も過剰の時代という表現を数多く使ってきたが、実は生き方も過剰であったという思いがする。過剰な生き方を生き急ぐという言葉に置き換えても意味は変わらない。私達は生き方においても、あれもこれもと「足し算」の量発想をし、やらなければと窒息してしまうほどである。そんな過剰さから、「引き算」の発想へと転換しなければならないと思う。むしろ「引かれた」ものの中に自分を見出す時代、これも出来なかった、あれも出来なかった、でもこれだけは出来た自分。そうした「成熟した時代」へと向かっているのだ。優れた創造性は「より引くこと」の中から生まれてくる。引けば核心に近づく、より本質に迫らざるを得なくなる。量にシフトすれば拡大は肥大となり、無駄が増え、一般化し、特徴を失う。モノや情報ばかりか、生き方も同じだ。

ここ数週間、巣ごもり状態からどんなライフスタイルが生まれてくるか、キーワード探しをしてきた。吉田拓郎の新曲ではないが、「ガンバラない暮らし」「身の丈生活」「100人100通りの生活」「シンプルライフスタイル」、そんなキーワードが思い浮かんできた。
しかし、世代間における消費の意味合い、巣ごもり観は全く異なる。モノ不足を少年期に生きてきた団塊世代と今日の個人化の先駆けとして個室をあてがわれて育ってきた若い世代。極論ではあるが、単純比較すると物を求めて頑張ってきた団塊世代と「自分って何」と精神的飢餓と闘い頑張ってきた若い世代。草食系と呼ばれ、人間関係の摩擦を避け、快適で、合理的な生活、しかし窒息するような得体の知れない何かに脅迫されているかのような若い世代。そんな世代にとって、消費という欲望は既に喪失しているかのように見える。消費できるだけの経済的裏付けがあっても、必要なモノ、必要な時、それまでは見向きもしない消費である。一方、40歳代以上の世代にとっては消費したいとする欲望はあっても、我慢し、節約するのとは対照的である。同じ巣ごもりでも、買えるけど買わないのと、買いたいけど買えないという大きな違いだ。

不安が常態化する社会とは、物が欠乏することへの畏れ、孤独であることへの畏れ、共に過剰なまでの頑張りによって増幅された結果だ。新自由主義的発想によるガンバリ、頑張れば頑張るほど、逆に物の欠乏感が増し、孤独感が深まる。世代間に表れる価値観の違い、不安に思う対象の違いはあっても、共通する点は過剰なまでの頑張りであろう。吉田拓郎のメッセージは、こんな不安社会への価値転換を促しているように感じる。

追いかけすぎることはいけないんだね
 この頃ちょっとだけ悲しくなり始め
 君に会えるだけでいいんだ幸せなはず
 自分のことを嫌いになっちゃいけないよね
 もっともっと素敵にいられるはずさ
 眩しいほどじゃなくてもいいじゃない
 気持ちを無くしてしまった訳じゃない
 掴めそうで掴めない戸惑ってしまう
 でも頑張らないけどいいでしょう
 私なりってことでいいでしょう
 頑張らなくてもいいでしょう
 私なりのペースでもいいでしょう    「ガンバラないけどいいでしょう」吉田拓郎 作詞作曲

(続く)  


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2009年02月08日

◆生活の知恵財を掘り起こす

ヒット商品応援団日記No339(毎週2回更新)  2009.2.8.

前回、「不況であればこそ、生活文化が熟成する」と私は書いた。家庭という巣の中で知恵や工夫を凝らした生活、新しいライフスタイルが生まれてくるという意味である。そして、商品が単なるモノであるかぎり、陳腐化し、価格だけが唯一の競争力になるということも。では、生活者自身が 知恵や工夫を凝らす新しいライフスタイルとは何か、そこにはモノ価値以外に何があるのであろうか。これが次なるマーケティングの課題となる。

ところで熟成した生活文化とは何かであるが、祖父母から子へ、子から孫へと伝えられる生活の知恵のことである。家族が崩壊し、個族化した時代にあって、伝えられるべき文化は寸断されてしまっている。恐らく、唯一そうした生活文化が色濃く残っているのは京都であろう。勿論、京都も他の都市と同様に個族化してはいるが、四季折々の祭りや生活歳時が一種の生活カレンダー化されていて、生活文化が伝承されている。祭りの日をハレ、日常をケと呼ぶが、これほどはっきりとした生活が残っているのは京都だけである。ハレの日はパッと華やかに、普段は「始末」して暮らす、そうした生活習慣である。ハレの日はどこまで残っているか京都の友人に確認してはいないが、例えば4月の今宮神社のやすらい祭りにはさば寿司を食べる、といった具合である。

この始末であるが、始末の基本は食べ物を捨てないという意味。素材を端っこまで使い切ったり、残ってしまったおばんざい(京の家庭料理/おふくろの味)を上手に使い回すといった生活の知恵である。それは単なる節約ではなく、モノの効用を使い切ることであり、もったいないという考えにつながるもので、エコロジーなどと言わなくても千数百年前から今なお続いている自然に寄り添って生きる生活思想だ。
例えば、大根なら新鮮なうちはおろしてじゃこと一緒に食べ、2日目はお揚げと一緒に炊いて食べ、3日目はみそ汁の具にするといった具合である。この始末は日本古来のビジネスモデル、三方よしを創った近江商人の日常の心構えでもある。「しまつしてきばる」という言葉は、今なお京都や滋賀では日常的に使われており、近江商人の天性を表現した言葉である。

さて、都市生活者はどんな生活思想を持ち、その表現としてのライフスタイルを持つのであろうか。誰もがテーマとする課題であるが、モノも情報も世界中を行き交うグローバルの時代にあって、当たり前であるがコトは簡単ではない。
確か、1980年代始めの頃であったと思うが、西武百貨店が「おいしい生活」という広告キャンペーンを展開し、話題になったことがあった。糸井重里氏によるコピーであるが、「おいしいことに理由はいらない。好きか嫌いかがテーマ」だとする、つまりマス市場を構成する中流層がモノ消費の舞台の中心にあることを前提とした広告キャンペーンであった。ある意味、生活者はモノの豊かさを求め百貨店という業態が右肩上がりに成長していく市場情況とパラレルな関係であった。つまり、百貨店がライフスタイル創造のリード役、シンボル的役割を果たしていたということだ。

そのライフスタイルを創造してきた百貨店は、私のブログを読むまでもなく、中流層の崩壊と共にその座を降りている。江戸時代の行商や屋台がそうであったように、庶民のライフスタイルを創ってきたのは流通であった。しかし、多くの偽装事件も含めてであるが、学習体験を積んできた個人の側へとその座を移してしまった。成熟した個人、プロ顧客、いずれの呼称もかまわないが、ライフスタイル創造者は個人に移ったということだ。好調な業績を受けて、ユニクロ会長の柳井氏はインタビューで、「ユニクロは良質な部品をセルフスタイルで安く提供する業態」と呼び、部品(カジュアル衣料)をコーディネートするのは個人であると答えていた。スタイルを創るのは個人であるということをビジネスの前提としてきたということだ。

その個人は家庭へと戻ってきた。ハレとケという言い方をすれば、圧倒的にケの日が増えてくる。節約という後ろ向きの生活から、日常生活、普段、普通、といった生活それ自体を楽しむことへと向かう。今までの便利さを享受することから、自らの知恵や工夫を楽しむ生活ということだ。それではプロは必要としない生活かというとそうではない。プロの役割が変わるということである。今までは、プロとして完成された一つのスタイル、一つの美、一つの味を提供してきたが、プロならではの技や方法を教え、提供することへと役割が変化する。完成されたモノを売るのではなく、技や方法をモノを通して売っていくということだ。専門店とはモノ専門店ではなく、技や方法の専門店であり、店頭で接客する人間はそうしたノウハウを持つプロでないと務まらないということだ。また、モノ専門店としてやっていくには、ユニクロのように部品(モノ)を安く提供することしかない。

少なくなるハレはと言えば、それこそプロならではの世界を楽しむということだ。独自性、固有性、ここだけ、この人だけ、という希少価値がハレの日の中身となる。生半可なこだわりはプロ顧客の生活にすぐ取り込まれ価格だけが選ばれる理由となっていくであろう。つまり、成熟した生活者は、自身の学習体験を元にハレとケをたくみに使い分けていくということだ。そんなライフスタイルにふさわしいキーワードはまだ見つかってはいない。「おいしい生活」といった表現にならって言うと、「上質な生活」でもなければ「ロハスな生活」でもない。ただ、古来から生活に組み込まれてきた自然思想、そこから生まれた生活の知恵財にヒントが隠されていると思う。(続く)  


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2009年02月04日

◆不況であればこそ、熟成する生活文化

ヒット商品応援団日記No3378(毎週2回更新)  2009.2.4.

2年ほど前に、裏が表になり、表が裏になる、と書いたことがあった。表側の世界やメニュー等が一巡し、生活者の興味や好奇心は裏側に向かうという内容であった。観光や散策でいうと、表通りの名所旧跡観光から横丁・路地裏観光への変化であったり、食でいうとメニュー表に載ったものから賄いメニューや裏メニューがメインメニューになるといったことであった。5〜6年前一つのキーワードとなっていた「隠れ家」は死語になり、最早表も裏も無くなった。これも情報の時代ならではの変化である。勿論、単に裏にあるというだけの商品、単に知らなかっただけの商品、単にメディアに取り上げられただけの隠れ家、極論を言えば持続できるだけの商品力を持たないそれらは既に市場にはない。

ちょうど同じ時期に、「今、地方がおもしろい」というテーマで埋もれた銘品や名物、あるいは観光客が知らない名所が注目されるであろうという内容を書いたことがあった。このことも未知への興味・好奇心が情報によって触発され、「裏が表になり、表が裏になる」という理屈と同じである。
ところで、過去10数年の消費行動を見ていくと大きな潮流として、テーマ軸では「洋」に振れたライフスタイルからの「和」回帰であろう、場所・エリア軸では興味があればどんな遠くでも出かけたことからご近所・ホームグランド回帰(慣れ親しんだ場所への回帰/故郷を含む)、時間軸では昭和回帰(特に「Always三丁目の夕日」ではないが30年代)、人・人間関係軸では「私」に凝り固まった関係から家族の絆の取り戻しに見られるような家族回帰(場所でいうと家庭となる)、俯瞰的に見ればこのように整理することができる。

こうした回帰型消費は振り子のように戻る様をいうのだが、最終的には振り子は一点において停まる。例えば、テーマ軸でいうと数年前までの圧倒的な健康ブームに対し、2年ほど前から高カロリーのガツン系・特盛りブームが起きたように。あるいはアルコール飲料がソフト化していった傾向に対しアルコール度数の高い氷結ストロングに支持が集まったように、常に振り子のように変化するのが今日の「消費」であろう。誰もがこうした振り子の中心点を明らかにしたいと思っている。いわばロングセラー商品という企業にとってお金のなる木を作り出すことになるのだが、生活者が削ぎ落とし更に削ぎ落とすことによって生まれる次のライフスタイルが明らかになることでもある。

では、不況=節約志向、キーワードである「巣ごもり消費」という内に向かう興味や好奇心はどんな「内」となるであろうか。実は、裏側への興味・関心も、振り子のように振れる回帰行動も、全て情報によるものであった。「TVが消えてなくなる日」にも書いたが、既成メディアはその情報価値を相対的に失い、ブログのようなネットメディアへと情報移動が進んでいる。玉石混淆ではあるが、情報発信も受信も個人の側に移ってしまったということだ。生活という巣の内側では、こうした既成情報の削ぎ落としも行われていることを忘れてはならない。既成の情報を削ぎ落とすことから、何が生まれてくるか。それは自ら五感で感じ取った情報、体験情報であろう。巣の中では、自らの振り子体験や回帰体験を熟成させているということだ。

この1年半ほど土鍋などの調理道具を始めとした生活道具が売れていると書いてきた。繰り返し書かないが、その裏側にはこうした体験の熟成が行われてきたということだ。最近では若い世代でぬか漬けが静かなブームであるという。団塊世代以上のシア世代にとってはおふくろの味であるが、若い世代にとっては身体に良い根菜が取れる和風サラダとしである。まさにOLD NEW、古が新しいという良き事例であろう。先日、経済団体の幹事と話をする機会があったが、ネット通販で売れ始めた商品があるという。実は、「干し柿セット」で、生の柿と吊るす藁、それに作り方の説明書付きであるという。手作り干し柿ということであるが、椎茸もあてはまるし、日本古来からの醸造文化、熟成文化、あるいは塩乾物のような保存文化にOLD NEWがある。

ライフスタイルという言い方をすると、従来は情報刺激によって未知の新しさを追いかけていくといったフロー型であったのに対し、巣の中ではOLD NEWのようなストック掘り起こし型へと変化してきた。つまり、既成の情報に翻弄された10年でもあり、多くの学習もしてきた。結果、体験こそが納得・共感できる唯一の方法であると、多くの生活者が気づき始めたということだ。ユーザーからの投稿レシピ10万点を公開し、夕食の支度時間である午後4時にはアクセスがピークに達するクックパッドに多くの支持が集まるのもこうした背景からである。不況という無駄を削ぎ落とし節約するといった巣ごもり現象。こうした外側からは見えない巣の中で熟成が始まり、一つの生活文化へと発酵し始めたということだ。(続く)  


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2009年02月01日

◆陳腐化するモノ価値と価格

ヒット商品応援団日記No337(毎週2回更新)  2009.2.1.

前回の「不況を切り拓く鍵」には1日で約500件近くのアクセスをいただいた。いかに切実な課題であるか、私自身も実感するものである。恐らく、前号の「誰を顧客とすべきか」というテーマと共に、やはりデフレ下での価格をどうすべきか、顧客との関係で価格以外で何が有効であるのかが次なる大テーマであろうと思う。最終価格決定は顧客である、あるいは価格弾力性といった一般論を言ってもまるで意味をなさない。今回の金融破綻から世界レベルでデフレが進行しており、日本もデフレは今以上に加速すると思う。そんな価格市場下で、私たちは価格をはさみ顧客とどう向き合っていくべきか、更に考えてみたい。

ところで、都心の百貨店では正月の初売りからいきなりバーゲンへ突入し、ほとんど投げ売り状態にあるとブログにも書いた。そして、とうとう札幌の老舗百貨店である丸井今井が破綻した。また先週末上場企業の決算が発表されているが、その多くが赤字もしくは業績の大幅な下方修正である。ところが消費を反映する百貨店の低迷を尻目に、元気なのがSPAもしくはSPA的方法を取り入れた商品やブランドだ。1990年代後半、価格破壊、デフレの旗手といわれたユニクロを始めとした企業の多くはSPA(製造小売業)を採用し、今日に至る。一言でいうと、自ら作り自ら販売するサービスするという一貫したシステムであるが、そのポイントの一番は価格決定を自らのリスクのもとに行えるということにつきる。その価格決定は、顧客に対し競争力のある小売り価格を決めプライスリーダーになれること、自らの営業利益を決められること、この2つの決定を行えることである。このSPAの延長線上には、大手流通が開発するPB商品(プライベートブランド)がポジションされる。最近ではアパレルや食品だけでなく、急成長するニトリのようなインテリア・家具などもSPA的手法を取り入れ、その裾野は更に広がりつつある。そして、SPAによる価格がモノ価値の標準になってきつつある。結果、旧来のモノ価値商品の陳腐化が促進されることとなる。

ところで、従来の売価決定は、仕入原価や製造コスト、物流・販売コストなどを積み上げる方法であった。SPAの場合は市場価格、売価を決め、そして得る利益を決め、製品化する。大量生産、大量販売によって得られる利益は大きいが、目標とする量が販売できなかった場合のリスクもまた大きい。今回の自動車産業のように、販売台数が下がると、いきなり赤字になるように、損益分岐点の高い一種の装置産業、システム産業である。対象とする市場が成長している場合は得られる利益は大きくなるが、市場が収縮する場合は赤字、リストラ、閉鎖、撤退といったこととなる。今、日本はこうしたSPA的ビジネスと旧来ビジネスという2つの価格市場が混在し、両極化しつつある。

さて、こうしたことを前提に不況下・デフレ下で価格を下げること以外で、収縮する市場にどう対応すべきか私見を述べてみたい。まず、前提となる認識として量的な市場収縮と共に、収縮しているのは顧客の気持ち、心理であるということだ。以前、生半可な付加価値など価格に反映できないとブログに書いてきた。それでは生半可ではない価値、価格として通用する価値とは何かである。当時、私はその価値観を確か「ピュアコンセプト」と名付けたと思う。削ぎ落とし更に削ぎ落とし、最後に残る価値という意味からで、もっと分かりやすく言うと、シンプル・イズ・ベスト、商品の本質といってもかまわない。そのピュアコンセプトの延長線上に「安全・安心」がある。もう少し広げると生命を守るもの育むものといっても良い。こうした価値観の背景には、中国冷凍餃子事件は1年経っても解決に至らない、最近では筍の原産地偽装として生産者の顔写真まで偽装するといった悪質な事件が起きる、こうしたことを背景にモノ消費における信用収縮が起こりつつある。今、価格もさることながら最も重要としなければならないことはこの収縮しつつある信用を回復することにある。そのことは、逆に「安心・安全」とは遠くかけ離れた他のモノ価値は急速に陳腐化しているということだ。それはインポートブランドがいかに売れなくなっているか、買うのはアウトレットへと消費移動が始まっていることを見れば分かる。更に、家電製品がいかに売れなくなっているか、家電量販店ではなくリサイクルショップで買われている現状を見れば、モノ価値の変質が起きつつあることを感じるであろう。あるいは低迷するPCや携帯電話市場にあって、売れるのは5万円パソコンのような単機能、シンプル・イズ・ベスト商品である。

こうした従来のモノ価値が収縮する市場にあって、対象とする市場に「安全・安心」あるいは「シンプル・イズ・ベスト」をタグのようにつけてみると、そこにピンポイント市場の可能性を見出すことと思う。例えば、子供の安全・安心、家族の安全・安心、住まいの安全・安心、食の安全・安心、衣料の安全・安心、遊びの安全・安心・・・・・・安全・安心という着眼で社会を生活を見回してみることだ。消防法の改正ということもあるが、住宅用火災警報機はヒット商品になると思う。勿論、絶対的な安全・安心などないが、信用回復のために「顔の見える」程度の情報公開だけでなく、「心の見える、感じ取れる」情報公開へと進んでいくであろう。既に、トレーサビリティどころか、中国冷凍餃子事件以降生協では昨年9月からフードディフェンスという他者からの混入を防ぐ試みすら始まっている。
「シンプル・イズ・ベスト」=ロングライフ志向についてはこのブログでも何回か書いているので繰り返し書かないが、少々高くても永く使える物、カタログハウス「通販生活」的商品に顧客支持が集まっていく。

ところで消費における信用回復の仕方であるが、まず「わけあり消費」のようにその「訳」を正直に誠実に表現することから始めることだ。あのエブリデーロープライスのOKストアに顧客支持が集まるのも単に価格が安いことだけではない。何故安いのか、何故高いのか、明確に店頭表現するオネスト(正直)コンセプトに共感・納得するからだ。信用は、提供する企業・店が顧客を信じることからしか始まらない。その努力の結果が信用への入り口となる。顔が見える関係から、心が見える関係へと1歩踏み出すことである。そして、以前取り上げた京都の上田米穀店のように、生産者、流通、顧客、3者の「安全・安心」である訳・理由の相互理解の元に適正価格を決めていく。特に、主食となるお米のような場合、3者が「得」ばかりを主張するのではなく、少しづつ得を減らしてでも「安全・安心」を確保できる関係を創ることだ。これは私の推測の域を出ないが、モノ価値の陳腐化を押しとどめる日本固有の文化を持つ市場がまだ残っている、あるいはそうした文化を再認識する潮流が生まれつつあると考えるからである。

ところで、不況期には老舗が頑張り生き残ると言われている。それは価格競争を含め多くの困難さをくぐり抜けてきた経営理念・風土が伝承されてきたからに他ならない。その経営理念・風土とは、儲ける前に、お役に立つというごく当たり前のことである。そして、更に言うならば、お役に立つということは顧客の後ろにある社会につながっているということだ。ピュアコンセプトには他にもう一つある。それは社会が必要とする価値を持つ企業であるか否かだ。以前、世界最古の会社宮大工の金剛組について書いたことがある。創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている会社である。金剛組の最大の危機は明治維新で、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れ、寺社仏閣からの仕事依頼が激減した時だと言われている。恐らく、これから起きるであろう不況どころではない困難さであったと思う。更に試練は以降も続き、昭和恐慌の頃破綻寸前となり、三十七代目はご先祖様に申し訳ないと割腹自殺を遂げている。また、数年前にも経営危機があり、同じ大阪の高松建設が支援に動き再建中と聞いている。

何故、こうした支援が可能になり、1400年も存続てきたのであろうか。それは金剛組の仕事そのものにあると思う。宮大工という仕事はその表面からはできの善し悪しは分からない。200年後、300年後に建物を解体した時、初めてその技がわかるというものだ。見えない技、これが伝統と言えるのかも知れないが、見えないものであることを信じられる社会・風土、顧客が日本にあればこそ、世界最古の会社の存続を可能にしたと思う。見えない技をプロの技と置き換えてもかまわない。もっと身じかに、「あの人がいるから」と言ってもかまわない。顧客から必要とされる、そうした顧客が集まれば社会とつながる。先日、小型人工衛星「まいど1号」を作り成功させた東大阪の町工場にもつながる話だ。

ピュアコンセプトとはビジネスの原点であり、生活の原点でもある。更に、顧客との関係の原点、日本文化の原点としてある。近江商人の商売の心得である「三方よし」を思い起こせば良い。売り手よし、買い手よし、世間よしであるが、世間という社会を広げ世界と置き換えてもその本質は変わらない。従来のモノ価値が陳腐化し、従来価格に顧客支持が得られない時代が来ていることは事実であろう。不況とするもしないも、私たち自身にある。正解のない時代であればこそ、私たち自身が変わることから始めることだ。(続く)  


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