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2020年01月27日

◆何があってもおかしくない時代 

ヒット商品応援団日記No756(毎週更新) 2020.1.27.

年が明け街歩きを始めているが消費の低落傾向は深刻の度合いは増している感がしてならない。その深刻さを表すかのように10月以降の「数字」が出てきている。(百貨店協会、SC協会、スーパーマーケットチェーン協会)12月という年末の最需要期にもかかわらずマイナス成長となっている。特に百貨店業界はその度合いは深く地方の店舗の閉鎖・撤退だけでなく、百貨店自体がMDを進め店づくりにもリーダーシップを持って開発運営してきた事業業態の転換が見られるようになった。昨年リニューアルオープンした大丸心斎橋店は出店専門店にMDや売場づくりを任せる方式、いわゆる売り場を貸す不動産賃貸業への転換である。こうした事例は周知のようにDCブランド、ファッションのマルイとして一時代を画したが2007年に中野本店を閉店する。再び2011年1月にオープンするのだが百貨店型の商業施設から、いわゆる専門店のテナント編集によるショッピングセンター方式への転換が図られた店舗運営とその商業構成となっている。一言で言えばマルイもテナントによる賃料収入によって経営を行ういわゆるデベロッパー型小売業へと転換したということである。大丸心斎橋店が丸井と同じであるか正確な情報がないので断定したことは言えないが、消費の変化を映し出すのが商業の本質であることを考えるとすれば、これも一つの生き残り策であろう。
また、各スーパーマーケットチェーン協会の販売統計によると、軽減税率の対象となっている食品部門がマイナス成長になっている点がこの深刻さを表している。特に、12月は正月を迎える需要が一番大きくなる月である。この時期がマイナスであるということは、何を表しているかである。

そして、今回の消費増税で上手く「売り上げ数字」を残せたのはコンビニ業界であると言われているが、小規模事業主への支援として政府からのキャッシュレスポイント還元策とキャッシュレス企業の導入促進策によるポイント還元策が功を奏し増税後の落ち込みを少なくさせた。しかし、これはポイントという「お得」によるもので今年の6月には終了することとなる。現在、政府与党はポイント還元期限の9月までの延長を考えているようだが、果たしてオリンピック・パラリンピック終了後の10月にはどんな「落ち込み」が出てくるか恐ろしく感ずる経営者も少なからずいるであろう。
今、定額料金制の「サブスクリプション」に注目が集まっているが、顧客の固定化・囲い込み策として意味ある結果が出せているのは極めて少数の事業である。物を持たない、収納スペースも限られている若い女性暮らしには洋服のサブスクは良いかと思う。しかし、食べ放題など変化のない「定額」=「お得」は継続するのは極めて難しい。つまり「お得」の終了が消費の終了になりかねない、「お得終了ショック」を迎えるということだ。

消費増税による顧客離れが心配されていたのが飲食業界であるが、ファストフードチェーン業界にあってその準備の結果が売り上げの数字によく出てきている。牛丼大手三社も売り上げ・顧客数も落とすことなく大きな壁をひとまず超えたと言って良いであろう。特に日本マクドナルドは極めて好調で昨年2019年は連結売上高が前期比3.8%増の2825億円になる見通しだと発表した。2014年に発覚した中国製造の賞味期限切れのチキンナゲット事件以降顧客離れ・店舗閉鎖・売り上げ下落・赤字決算・・・・・こうしたマクドナルド不信からの復活を目指したカサノバ社長の店舗巡り・顧客(主婦)対話による信頼回復が図られたことを踏まえ、積極的な新商品導入が売り上げという数字につながったということである。また、こうした商品導入だけでなく、客が注文商品を座席で受け取る「テーブルデリバリー」や、来店前に注文や決済が終わる「モバイルオーダー」。これら新サービスを全国約2900店の約半数で展開したことも大きく影響している。多くの困難を超えることを可能にしたのは顧客主義の基本に立ち戻ったからであろう。

ところで中国で発生した新型コロナウイルスの感染が海外へと広がり、全世界で2700名を超える感染者が出たと報道されている。日本においても4例の患者が確認されている。中国からの報道によると流行地と言われている武漢の封鎖と共に春節旅行における団体旅行を禁止するとのこと。同じような感染症である2003年の時のSARS(重症急性呼吸器症候群)との比較で日本国内でも報道されているが、すでに中国国内では上海ディズニーランドや故宮などの観光地は閉鎖になっているとも。SARSの時は感染が治ったのは6ヶ月かかったと言われている。中国国内ではデマなど風評被害が指摘され始めているが、日本国内においてもそうしたことが起きないとも限らない。この春節には40数万二んの中国観光客が日本を訪れると予測されていた。しかし、東京や大阪のみならず、観光地においてもホテルやバスをはじめピューロランドといった観光においてもキャンセルが相次いでいる。特に訪日中国客を腫瘍顧客としている百貨店にとって予定された売り上げも望めないということである。
数年前から指摘をしているように、訪日観光は全国至る所へ、いわゆる横丁露地裏観光へと広がっている。SARSについても効果のあるワクチンは開発されておらず、有効な対策は感染源の封じ込めと消毒などによる感染を防ぐことだけである。7月には東京オリンピックが始まる。今回のような新型コロナウイルスだけでなく、他にも多くの感染ウイルスが国内へと持ち込まれる可能性はある。観光立国を目指すとはこうしたリスクを引き受け、防ぐことにある。
米国をはじめ中国在留の米国人に対し、チャーター機による帰国が検討され、日本もまた同様の避難計画が検討されているという。つまり、「感染」のスピードを超えた敏速な対策が急務となっているということだ。グローバル化とはこうした認識と対応が、至る所で必要になるということである。

こうした新型感染症リスクも消費増税という困難さもこの時代ならではのことだ。必要なことは「何があってもおかしくない時代」にいるという認識と対応である。前回の未来塾で書いた「不確かな時代」とは災害日本のことだけではない。
数年前のブログだと思うが、観光地でもない町の飲食店にふらりと食べにくる外国人が現れてくる時代であると。その時の良かった思い出がネット上で公開され、次第に人気店になる。その代表例が数年前の大阪西成のドヤ街にあるお好み焼き屋である。こうした「良き思い出」こそが日本固有のサービスであり、「顧客主義」に立脚した商売である。当初どこまでできるかという疑念はあったが、日本マクドナルドのカサノバ社長が全国を回って小さな子供のいる母親にヒアリングし、その顧客である母親に一つの答えを返したのも「顧客主義」である。その答えとは結果としての新メニューであり、新サービスであるということだ。顧客主義とはグローバル時代の原則であるということを再認識することだ。キャッシュレスポイント還元といった「お得競争」もいつかは終わり、次なる満足競争が始まる。何があってもおかしくない不確かな時代とは、顧客主義という基本に常に立ち戻ることであり、それは古くて新しいテーマであるということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:19Comments(0)新市場創造

2020年01月15日

◆未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」後半

ヒット商品応援団日記No755(毎週更新) 2020.1.15.




「不確かな時代の不安と感動」に学ぶ


前回の未来塾では五木寛之の著書「下山の思想」の視点を借りて、登山ではなく、下山から見える消費風景を東京中野と門前仲町を題材に学ぶべき点を描いてみた。今回は今日の日本のライフスタイルの原型が形作られた江戸時代の知恵や工夫を下敷きにして、どれだけの進化を成し遂げてきたかを考えてみた。周知のように江戸は当時のロンドンやパリといった大都市に負けないくらい、いやそれ以上に優れた高度な都市機能を有し、豊かな暮らし、文化が芽生えたライフスタイルが存在していた。
例えば、江戸の市中に水が流れていたのは世界の三大都市て江戸だけであった。今でもその名残が残されているのが多摩川を水源とする玉川上水、井の頭公園の池を水源とする神田上水。東京は坂の多い町で、つまり高低差のある町中を「流れる水」をどうして造ったのか、そんな技術は当時あったのか、不思議に思うほどである。水道の専門家ではないが、高低差のあるところに水を流すには、加圧式と自然流下式があるそうだが、江戸の場合は後者の自然流下式であったとのこと。いかに高低差を考えた水路、その土木技術・測量技術の高度さに驚かされる。そうした技術の表れとして「水道橋」がある。東京にはJR中央線の駅名にもなっているが、これは空中を水が流れる「架樋(かひ)」が造られた名残である。
当時の世界で優れた文明国であった江戸においても、常に「不安」と隣り合わせの生活であった。しかし、極論ではあるが、辛いことがあればそれもまた人生、不安を遊ぶ、かわす、生きている時間を大切にし、お金・モノに囚われない、そんな自由な生き方であった。これは推測ではあるが、未来に対する漠とした「不確かさ」「不透明さ」から生まれる不安など意識することはなかった、つまり「浮世」といった一種の割り切りのある人生観では計り知れない世の中にいるということであった。そうした意味で江戸の不安と今日の不安とは異なる不安の世であったと言えよう。

「不信」という不安

戦後の日本にあって不安が社会へと広く拡散していった最初の出来事は、バブル崩壊後の1990年代後半に起きた拓銀や山一証券の破綻に見られる金融不安であった。このことについては未来塾において「パラダイム転換」あるいは「バブルから学ぶ」にて詳しく書いたので今回は省略することとする。
恐らく「消費」という場面で不安が社会へと広がった最初の記憶に残る事件は2005年に起きた「耐震偽装事件」であろう。次いで2007年12月には中国冷凍餃子事件が起き、社会不安が増幅したことがあった。更に2008年には汚染米を使った事故米不正転売事件が起きる。周知の嘘をついた美少年酒造は潰れ、正直に全ての商品を廃棄し再生を掲げた西酒造(宝山)は、逆に今や人気焼酎ブランドとなった。また同年には“ささやき女将”で記憶に残る高級料亭「船場吉兆」による食品偽装事件。全て見えない世界での事件であり、不安の根底には「不信」があった。後に生まれたのが「見える化」であり、小売業の店頭には生産者の写真が貼られメッセージと共に安心づくりが始まった。こうした「見える化」は後に起こる横浜都筑区の耐震化マンションにおける杭打ちという見えない地下の施工不良による事件であった。デベロッパー三井不動産をはじめとした大手企業の「ブランド」信用力は失わレ始めた事件である。信用の回復を踏まえ、「見える化」は立て直しという思い切った対応がなされたのも耐震偽装事件の教訓を踏まえてであった。ある意味不安の連鎖を断ち切ったということであろう。

実は江戸時代にもこの不信を増幅させるような商売もあった。前述した瓦版もそうした側面を持ったメディア・情報源で、江戸の人たちはインチキ・うそも笑ってすませればいいじゃないかと考えていた。「瓦版は話三分」という言葉があって、実感・体験できることを「信用」した。火事などの災害情報については正確な情報であったが、ゴシップどころか競争相手の店の悪口を書いて裏で謝礼をもらうなどなんでもありのメディアもあった。そうした瓦版の作者・販売元はパッと売って逃げる、そんなことも日常的にあったようだ。こうした江戸にあって「信用」を勝ち得た老舗、数百年商いが続けられてきた稀有な国日本であるが、そうした中で信用を得た商売の原型をつくった代表的な店は呉服屋・越後屋(後の三越)であろう。
実は江戸時代の商人は、いわゆる流通としての手数料商売であった。しかし、天保時代(1800年代)から、商人自ら物を作り、それまでの流通経路とは異なる市場形成が行われるようになる。今日のユニクロや渋谷109のブランドが問屋などっを介した既成流通の「中抜き」を行った言わばSPAのようなものである。理屈っぽくいうと、商業資本の産業資本への転換である。江戸時代は封建時代と言われているが、この「封」という閉じられた市場を壊した中心が実は「京都ブランド」であった。この京都ブランドの先駆けとなったのが江戸の女性たちの憧れであった「京紅」である。従来の京紅の生産流通ルートは現在の山形県で生産された紅花を日本海の海上交通を経て、工業都市京都で加工・製造され、京都ブランドとして全国に販売されていた。ところが1800年頃、近江商人(柳屋五郎三郎)は山形から紅花の種を仕入れ、現在のさいたま市付近で栽培し、最大の消費地である江戸の日本橋で製造販売するようになる。柳屋はイコール京都ブランドであり、江戸の人達は喜んでこの「下り物」を買った。従来の流通時間や経費は半減し、近江商人が大きな財をなしたことは周知の通りである。言葉は悪いが、「下り物」を模した偽ブランドと言えなくはない。このように京紅だけでなく、絹製品も清酒も「京都ブランド」として流通していた。ただ江戸時代では盲目的なブランド信仰といったものではなく、遊び心と偽造というより卓越した模倣技術を認める目をもっていたということである。例えば、ランキングという格付けは江戸時代の大相撲を始めなんでもかんでもランキングをつけて遊んでいた。遊んでいたとは、その中身を辛辣なまでに体験熟知していたと言うことである。今日の食べログのような単なる話題という情報だけで消費される時代ではなかったと言うことである。
つまり、偽、うそ、話三分として受け止め、そこには「不信」はなかったということである。そうした意味で不安はなかった時代ということができる。勿論、現在のように不信が生まれ、見える化が必要となるのも、モノも、情報も全てが「過剰」であることによる。過剰が不信を生み、そしてそのまま放置すれば不安もまた生まれ、次第に拡散し社会不安へと向かうということだ。社会心理学ではこの過剰が退行現象を産み「幼児化」が始まるとされている。幼児化の反対後は「大人化」であるが、江戸はptpなの社会であったということである。

「想像」を超える不安とは

こうした辛辣なまでの眼力と遊び心を持った江戸の人たちであったが、それでも遊びには収まらない出来事、前述のような自然災害などが不安を呼び起こしていた。「想定内(外)」というキーワードが流行語大賞になったのは2005年であった。同じ大賞となったのが小泉劇場であった。あ々あの時代であったかと思われるであろう。やはり、記憶に新しいのは2011年,3,11の東日本大震災であり、特に福島の原子力発電所を襲った大津波につけられたキーワードであろう。「想定」とは未来を描く想像力のことである。今回の関東を直撃した台風19号について、周辺の長野県や東北地域の人にとっては「まさか」ここまで河川が氾濫し被害が及ぶとはと、想定外のことと感じる人は多かった。いや、周辺地域だけではなく、都心を流れる多摩川においても浸水被害が出ており、武蔵小杉においては電気設備の冠水により停電となりタワーマンションが機能しなくなるという想定外のことも起こっている。また千曲川の氾濫により北陸新幹線が冠水し、使用不可という被害も想定外であった。つまり、災害被害は想像を超えたものとしてあり、それまでのハザードマップもその都度改定せざるを得ない、つまり不確かな時代を生きているということを実感することとなった。
つまり、想定外から想定外へと想像を超える不安に囲まれて生きているということである。何があっても不思議ではないということだ。
と同時に、江戸の人たちが想定できない事態を常に喚起する河童伝説ではないが、「言い伝え」「伝承」を大切にしてきた。現代に置き換えるとそうした伝承は災害が起こった後初めて気が付くこととなり、防災・減災にはほとんど役に立たないこととなっている。不安を煽ることは間違いではあるが、不安もまた防災・減災への警鐘となることを教育面などで学んでいくことが必要となっている。「伝承」は非科学的であると一笑に付してきたが、そうではなく想像力を働かせてくれるそんな気づきをもたらせてくれるものであると今一度考え直すことが必要であるということだ。

不安を受け止めてくれる身近なお地蔵さんとSNS

平安末期に法然や親鸞のように庶民の苦しみを救う希有な僧侶が出現したと書いたが、戦乱を終え平和な時代の江戸ではより身近な庶民信仰が定着する。それは「お地蔵さん」という仏様であった。お地蔵さんは死者を裁く閻魔様を本尊とする地蔵菩薩であるが、菩薩であり閻魔様でもある。いわば、極楽と地獄とをつなく存在で、慈悲心を持って地獄に落ちた人を裁く、そんな仏様である。

東京都心のビルの片隅にもお地蔵様がひっそりと残されているが、未来塾で取り上げた「おばあちゃんの原宿」、巣鴨のとげぬき地蔵尊にはおばあちゃんが行列するお地蔵さん、「洗い観音」が知られている。この観音像に水をかけ、自分の悪いとこを洗うと治るという信仰がいつしか生まれる。これが「洗い観音」の起源と言わ ている。とげや針ばかりか、老いると必ず出てくる体の痛みや具合の悪いところを治してくれる、そ んな我が身を観音様に見立てて洗うことによって、観音様が痛みをとってくれる。そんな健康成就を願う、まさにおばあちゃんにとって身近で必要な神事・パワースポットとして今なお伝承されている 。
しかし、個人化社会と共に育った若い世代にとって、不安を受け止めてくれる「仏様」は存在してはいない。いやバブル崩壊前までの核家族化まではまだ不安を受け止めてくれる「家族」はあった。しかし、バブル崩壊以降若い世代、特に少女たちは街を漂流することとなる。こうした時代背景については何回かブログにも書いたので省略するが、ネット社会が浸透していくに従って不安の相談相手はSNSへと変化していく。そこには良き仲間や相談相手もいれば、相談を口実に近づき性暴力などの被害者になることも起きている。1990年代のプチ家出は友人宅が中心であったが、今やSNS、特にツイッターを通じた出会いによって家出先は見知らむ人間へと変化した。新しい監禁、誘拐という犯罪が生まれることへと行き着くこととなった。こうした犯罪被害は増加し続け、社会問題となっている。隣りにいるのは大家さんやお地蔵さんといった仏様ではなく、不安につけ込んだ犯罪者であるという現実である。

ひととき不安を打ち消してくれたラクビーW杯

浮世という人生観の無い現代にあって「ひととき」不安を解消させてくれるものの一つはスポーツである。2019年春以降、老後2000万円問題を入り口とした社会保障、あるいは10月に導入される消費増税による景況、こうした多くの生活者が抱える不安をひととき打ち消してくれたのは「ラグビーW杯」であった。日経MJにおけるヒット商品番付や新語流行語対象に選ばれたのはラグビーW杯における「ONE TEAM」というスローガンそのものの活躍であった。この熱狂の時代背景について次のようにブログに書いた。

『経済効果は4370億円に上ると言われているが、停滞鬱屈した「社会」にあってひととき夢中になれたラグビーであった。初戦であるロシア戦では18.3%(関東地区・ビデオリサーチ)であったTV視聴率は徐々に上がり、準決勝の南アフリカ戦では41.6%にまて達し、周知のようににわかフアンという新たば市場をも生み出した。それは「ONE TEAM」というスローガン、いや私の言葉で言えばコンセプトがビジネス世界のみならず、スポーツ界は言うに及ばずコミュニティ・家庭に至るまでの各組織単位で最も求められているキーワードが「ONE TEAM」、つまり一つになることであったということだ。個人化社会と言うバラバラ時代に最も求められていることであり、例えばビジネス世界にあっては「心を合わせること」を目的にした全社運動会や小さな単位では食事会までコミュニケーションを通じ「一つになること」の模索が続けられている。戦後の昭和の時代は創業者がONE TEAMのリーダーとして引っ張ってきた。今なおそうした創業型リーダーシップ企業は大手ではソフトバンクとファーストリテーリングぐらいになってしまった。平成を経て令和になり、こうしたリーダー無き後の組織運営にあって、ONE TEAM運営が最大課題となっていることの証左であろう。単なる言葉だけのONE TEAMではなく、一人ひとりが固有の役割を持って31人が試合を創っていたことを実感させてくれたと言うことである。その象徴がトライとは縁のないポジションであったフォワート稲垣啓太が「笑わない男」として流行語大賞にノミネートされていたことが物語っている。にわかフアンを創ったのはそうしたONE TEAMの「実感」を提供し得たからであると言うことだ。』
ONE TEAMというコンセプト、いやポリシーはほとんどのスポーツが目指すべき理念となっている。例えば、団体スポーツのみならず、マラソンといった個人競技にあっても、コーチやトレーナー、栄養士に至る多くの専門家がチームをつくっている。ONE TEAMは時代のキーワードということである。

夢中になれることの意味

明日はわからないという意味において誰もが不安を持つように宿命づけられている。江戸の浮世もそうした考えのもとでの人生観である。そう認識した時、少しだけこころのなかの不安を横に置くことができる。不安が占めていた場所に「何」を置くのか、それは夢中になれることだけである。いや、夢中になれることを見つけた時、それまでの不安は少しだけその場所を変えてくれる。
ビジネスの師であるP.ドラッカーは未来について著書の中で繰り返し次のように書いている。
“未来は分からない。
未来は現在とは違う。
未来を知る方法は2つしかない。
すでに起こったことの帰結を見る。
自分で未来をつくる
つまり、「好き」なれること、夢中になれることを作ることとは、まさに未来の入り口となる。にわかラクビーフアンもまた心の大きなところに「好き」が占めることだ。しかも、この「好き」は江戸の時代でも「今」であっても、「好き」を夢中にさせる共通は何かと言えば、「ライブ感」である。CDなど売れない音楽業界にあっても、ライブ会場は満員状態であるように、夢中の世界へと向かう。それはデジタル世界が進めば進むほど、リアル感が重要になる。例えば、更に進化していくであろうネット通販における有店舗の意味と同じである。

そして、高齢世代にとっても、若い世代にとっても「好き」を入り口に人生の旅に出ることは同じである。限定された時間の違いはあっても、自分で創っていく旅であり、未来である。そして、マーケティング&マーチャンダイジングの最大課題は、何にも増して生活者のなかにあるこの「好き」の発見にある。
こうした市場開発を担当するビジネスに活用されることも、また自らの人生の旅を見直す視座として使うのもまた良いかと思う。ラクビーW杯のようなビッグイベントだけでなく、商品やサービスだけでなく、日常の小さな出来事の中にも「好き」はある。それがどんなに小さくても、こころは動く。不確かな時代のキーワードはこうした共感をつくれるか否かである。

成熟した元禄バブルを経て、「浮世」という人生観を手に入れた江戸の人達と同じように、平成から令和の時代においても江戸の浮世のような人生観が求められている。エンディングテーマである「終活」ブームは勿論のこと、ベストセラーになった「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)や、最近ではTV番組「ポツンと一軒家」のような人生コンセプトに注目が集まるのも現代の「浮世」が求められているからである。つまり、不確かな時代、不安の時代にあっては、世代に関係なく「どう生きたら良いのか」という人生の時代になったということである。そして、個人化社会が進めば進むほど、「生き方」が求められるということだ。(続く)














  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:12Comments(0)新市場創造

2020年01月14日

◆未来塾(38)「不確かな時代の不安と感動」 前半

ヒット商品応援団日記No755(毎週更新) 2020.1.14.





消費税10%時代の迎え方(7)

不確かな時代の不安と感動

不安は常に不確かな未来から生まれる。
しかし「好き」が嵩じれば夢中へと向かい、
不安もまた変わる。


一昨年6月大阪北部地震、7月には西日本豪雨被害、9月には台風21号の関西直撃・関空麻痺、更には2日後北海道では大きな地震が起き全道がブラックアウトになった。その時、「災害列島の夏」というタイトルで日本が持つ宿命でもある自然災害についてブログに書いたことがあった。そして、昨年台風15号が今度は首都圏を直撃し倒木などによる停電が千葉県を中心に70数万軒もの停電が起き大きな被害を生んだ。そして、その1ヶ月後には最大級の台風19号が東海・首都圏を直撃し関東甲信越・東北という広域にわたる未曾有の豪雨によって想定外の堤防決壊などによる水害に襲われた。

一昨年の西日本豪雨における倉敷真備町に多大な被害を出した高梁川の決壊も、昨年の台風19号による長野千曲川の決壊も昔から何度となく洪水を繰り返してきた河川である。勿論、治水をはじめ防災・減災も行なってきたのだが、その時々の洪水に対する「想定基準」は変化してきている。曰く、50年に一度の、更には100年に一度の、そして、昨年の豪雨災害に対しては千年に一度の災害を想定しなければ、といった議論である。そうした想定は不安と表裏にあり、安心を得るためにインフラの基準もより強靭なものへと変化し、生活者の不安の受け止め方もまた変化してきた。

今回の未来塾は国土のインフラ整備における技術の進化ではなく、生活者は自然災害など時々の「社会不安」をどう乗り越えてきたかをテーマとした。不安は多様で時代によって変わり、しかも個人によって異なるものである。多様な不安から逃れるために、具体的には幸福感を得るため薬物を使うといったことや、もっと日常的であれば今日の「激辛ブーム」といった刺激もあるが、今回は多くの人が生きるにあたって共通した社会不安をテーマとした。不安の中でどう暮らしていたか、そこには不安の認識と共に、不安を抱えながらどう暮らしていたか、そこから生まれた知恵やアイディアを見出してみた。そこで現在のライフスタイルの原型が江戸時代にあることから、江戸時代と「今」とを比較しながら、嫌な言葉だが不安を呼び起こす常態化する災害列島日本の実像を中心に、その不安をひと時解消した楽しみ・娯楽ある日々の暮らし、感動をもたらしてくれる日常・出来事をテーマとした。面白いことに、ハザードマップなどないと思われる江戸時代にもそれに代わる庶民の知恵が伝承されている。しかも、災害が起こることを想定した町づくりや生活の工夫があったことに驚かされる。

不確かな未来から生まれる不安

さて”時代々によって生まれる不安”と書いたが、江戸時代の不安は平安後期からの数百年にわたる戦乱の世が終わり、江戸はいわゆる平和の時代であった。それまでの戦乱の世の「未来」は苦しみしかない世で、平安末期には法然や親鸞のように庶民の苦しみを救う希有な僧侶が出現する世であった。つまり、それまでの宗教は貴族のための仏教であったが、戦乱に苦しむ庶民を救う仏教として生まれたのが浄土宗・浄土真宗という仏教、「宗教」であった。周知のように庶民にとって未来は「苦しみ」であったが、法然は南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で極楽浄土へ導かれる」と説いた。
不安が極まるその先にも苦しみがあるのだが、不安が蔓延する世にあって救いの宗教は人から人へと拡散していく。
ところでまずどんな「不安」があるのか整理すると以下のようになる。
1、健康に対する不安
2、経済に対する不安
3、社会に対する不安
4、災害に対する不安
最大の不安は平安後期からの歴史が教えてくれているように、未来無き「戦乱」「戦争」に対する不安であり、政治の主要課題であるがここでは除外することとした。

不安が拡散する構図

「拡散」という言葉を使ったが、現在においてはSNSと同義であるかのように思われるが、江戸時代においても庶民においては瓦版といったメディアもあって、ゴシップから火事や地震といった災害の速報までを内容としたものであった。後述するが瓦版も高度化しカラー刷りの瓦版まで作られていた。このようにメディアの違いはあっても、人から人へと伝わっていくのだが、その本質は「噂(うわさ)」である。良い噂は「評判」であり、悪い噂は「風評」となる。現在もそうであるが、「うわさ」が生まれる原因は、「不可解さ=曖昧な情報(不確かさ)」への過剰反応の連鎖によるものである。
こうした過剰反応の連鎖については、「うわさとパニック」など既に多くのケーススタディ、社会心理における研究がなされている。その原点ともいうべき「うわさの法則」(オルポート&ポストマン)を簡単に説明すると以下の内容となる。

R=うわさの流布(rumor),
I=情報の重要さ(importance),
A=情報の曖昧さ(ambiguity)

 うわさの法則:R∝(比例) I×A  

つまり、話の「重要さ」と「曖昧さ」が大きければ大きいほど「うわさ」になりやすく、比例するという法則である。但し、重要さと曖昧さのどちらか1つが0(ゼロ)であれば、うわさはかけ算となり0(ゼロ)となる。

この法則に準じれば、「不安」は生きるにあたって重要で、しかもそれがこれからも「不確か」であった時、「うわさ」は社会へと広がっていくということである。こうした視座で、江戸はどうであったか、今日の日本の今はどうであるか、比較しながら学んでいくことにする。

江戸時代の災害対応

自然災害というと、江戸時代にも大型台風による災害はあって、1742年(寛保2年)夏には江戸を直撃し、「江戸水没」といった災害に見舞われている。これが1000名近くの死者を出した寛保洪水である。あるいは周知の富士山の噴火や1万人近くの死者を出した安政江戸地震も起きている。
こうした自然災害もあったが、実は日常的にあったのが「火事」という災害であった。この火事に向かい消火の最前線で活躍したのが町火消しで火事と喧嘩は江戸の華と言われ火消しは江戸のヒーローであった。当時の江戸の町のほとんどは木造家屋であり、消火方法は建物を取り壊して延焼を防ぐ「破壊消火」であった。当然防火・防災は庶民の生活の中に定着し、例えば火の用心といって夜回りをしたり、軒先には消火のためのポンプも用意されていた。
また、建物のほとんどが木造家屋であったことから材木需要は旺盛で、紀伊国屋文左衛門といった大問屋が活躍したが、庶民が住む長屋のような場合のほとんどは古材を使ってわずか数日で建ててしまう。ある意味、火事慣れした江戸の知恵でもあった。また、大きな武家屋敷などが消失した時には「囲山(かこいやま)」といった植林の木材を伐採して使った。勿論、非常時の時だけ使うという厳格なルールのもとで行われていた。江戸の中心地から少し外れたところには材木の生産地があり、杉並区は最も近い産地であり区の名称にもなっている。このように既にこの時代から森林資源をうまく活用する言わばエコシステムが生まれていたということである。

江戸時代はこのように庶民にあって防災・減災はシステムとしてあり、それは自然災害への「不安」対応への一種の知恵の賜物であった。実は江戸時代における最大の不安は疾病や病気であった。周知のように最初に隅田川の川開きに打ち上げられた花火は京保18年が最初であった。この年の前年には100万人もの餓死者が出るほどの大凶作で、しかも江戸市内でころり(コレラ)が流行し多くの死者が出た年であった。八代将軍吉宗は多くの死者の魂を供養するために水神祭が開かれ、その時に打ち上げられた花火が今日まで続いている。弔いの花火であったが、ひと時華やかな打ち上げ花火を観て不安を打ち消すというこれも江戸の知恵であった。

不安の時代に生まれた「浮世」という人生観

このように江戸時代は命に関わるような不安と隣り合わせた暮らしであったが、こうっした江戸庶民の人生観をキーワードとしていうならば、「浮世」であった。浮世というと、浮世絵や浮世床を思い浮かべ、何かふわふわした浮ついた時代の表層をなぞったような感がするかもしれないが、実はもっと奥深い人生観につながるものであった。江戸の町は日常的に火事が起きていたと書いたが、どれだけ物に執着しても一瞬のうちに火事で灰にしてしまう、そんなはかない世はつまらないというのが江戸の人たちの気持ちであった。しかし、庶民の人たちが自然の恵みをもたらしてくれる海も板戸一枚下には死が待っていることを知っているように、浮世にはそんな辛い現実が裏側に潜んでいる。これが日本人の「自然」との向き合い方、共生の背景にある。ヨーロッパのように自然に対峙し、戦って変えてしまう向き合い方とは異なるもので、日本人がよく口にする「自然に寄り添う」とはこうした自然観を表している。江戸時代の火事に対して知恵を持った向き合い方、暮らし方をエコライフの始まりと言われるのもこうした自然観に依るものであった。

また、時々に見舞われる大きな自然災害に対しても手をこまねいていたわけではない。海を埋め立てることによって造られた江戸の町は水害に弱い都市であった。寛保洪水の時には今でも海抜ゼロメートルと言われる江東区などの下町には船をかき集め、川と街路の区別が付かなくなった下町に派遣し、溺れている人や屋根や樹木の上で震える人を救出、そんな救出人数が町別に残されている。同時に被災者に粥や飯を支給している。こうした救出や救援などボランティアといった言葉がない時代に幕府や奉行所を中心に有力町人を加えシステマティックに動いていた。また、備前・長州・肥後などの被害の少なかった西国諸藩10藩に命じて利根川・荒川などの堤防や用水路の復旧(御手伝普請)に当たらせて復旧を行なっている。今日の自然災害への地域を超えたネットワークによる対応と根底のところでは同じである。公助、共助の仕組みが既に江戸時代にあったということである。

宵越しの金は持たない、という江戸暮らし

このような言葉に江戸っ子のきっぷの良さを表現したとすることが一般化しているが、実はいわゆるその日暮らしは「宵越しの金を持てない」という経済的には貧しい生活であった。江戸時代の地方では飢饉によって餓死することはあったが、江戸ではそうしたことはほとんどなかったと言われている。その背景には、政治都市から商業都市へと変化し120万人もの町に成長する。結果、新しい「商売」が次から次へと生まれ、いわゆる労働需要は旺盛であった。政治都市から見ていくならば、地方からの単身赴任の「武士市場」として今日のレンタルショップである損料屋や多くの外食産業などが生まれている。平和な時代ということから暇を持てあます旗本御家人などは武士によるアルバイトが盛んになる。提灯づくり、傘張りといった定番の職業から、虫売りや金魚売り、あるいは朝顔栽培まで一般庶民の分野にまで広く参入するように多様な仕事があった。江戸も中期以降、実は幕府も地方の藩も財政が逼迫したこともアルバイトに向かわせた理由の一つであった。

士農工商という封建制は明治政府によって誇張されたもので、その垣根はあまり大きくはなかった。40万都市であった江戸は次第に人口だけでなく、物やサービスの集積度合いが高まり、今日ある小売業の原型が形作られる。つまり、商業都市へと変貌していくのだが、その労働市場はどうかというと、「奉公人」、今で言うビジネスマンが主役であった。まずは10歳前後で「小僧」(関西では丁稚どん)から始まり、「手代」「番頭」へと出世していくが、5〜9年で手代になれるのだが、なれるのは三分の一程度。本店で試験や面接があり、年功序列や終身雇用都いっ経営ではなく、徹底した実力主義の世界であった。手代になると給金は年に4両、芝居見物やお伊勢参りなどの旅行もできるようになる。しかし、長期休暇をもらえるようにもなるのだが、休暇が開けて「ご苦労様」という書状が届けばわずかな退職金をもらい自然解雇になるという厳しい出世競争であった。どこか今日の官僚の出世競争に似ている。そして、番頭になると結婚が許され、番頭をやり遂げると退職金として50両〜200両が支給されるというものであった。こうしたことから一大道楽市場が生まれることになるのだが、従来言われてきた日本型経営・雇用の出発点はこうした実力主義の世界であったことを今一度考えるべきであろう。

ところで、江戸は行商など多様な流通業やサービス業が盛んで、チップ制という経済によって収入を得る個人仕事も多く、いわゆる日雇い仕事が多い都市であった。こうしたことから幕府の人返し令にもかかわらず、江戸を目指す人が絶えることはなかった。この時代から都市と地方との格差が生まれていたということだ。こうした格差はあるものの、今風に言えば労働力市場の活性、つまり雇用の流動化は大きく、活力ある時代であったということである。

それどころか、お金はなくても子への教育は充実していた。義務教育と言った制度のない時代に就学率は70〜80%で多くの子供達が学んだと言われている。庶民の子供は7〜8歳の頃から3〜5年間通ったのが寺子屋で、江戸では指南所と呼ばれ、江戸後期には江戸市内で1500もの指南所があった。学んだのはひらがなに始まり、数学、地名、手紙の書き方、更にそろばん、礼儀作法。またより高度な学びとして茶道、華道、漢学、国学といった専門の学問を教える指南所もあった。同じ時期の欧米の就学率と比較しても極めて高く、例えば就業率の高いイギリスでも20〜30%であった。
子供達は朝8時から午後2時ぐらいまで勉強します。その後、いろいろな事情から学ぶことができなかった大人も学ぶことができる仕組みもあって、現在の定時制高校のようなものが用意されていた。先生役は浪人、僧侶、神主、未亡人などで時間に余裕のある人が勤めます。
ところで授業料はあってないようなもので、「出世払い」が普通であった。寺子屋では商売物を授業料とし、八百屋であれば野菜を持って行ったり、大工であれば先生の住まいの雨漏りを直すといった方法がとられていた。先生は子供たちの学びに情熱を持って教え、現在では死語となった聖職のような存在であった。勿論、先生は尊敬される存在で、モンスターペアレントなど皆無で、子供同士のいじめは勿論であった。今日のような教師間のいじめすらあるブラック職場とすら指摘される教育環境とは真逆の世界であった。結果、子供達も真剣に勉強し識字率70%を超えると言われるほどの教育都市、そんな江戸であった。
現在の教育が「家庭」をベースに行われているが、江戸時代の教育はいわば「社会コスト」としてコミュニティの義務として考えられており、教育格差などなかった。当時のロンドンやパリと比較し教育水準が高かったのもこうした「社会」を背景としていたからである。

浮世を支える江戸の社会・長屋コミュニティ

江戸幕府が造られた当時の人口はわずか40万人ほどであったが、次第に地方からの出稼ぎなど多くの人が江戸を目指す。こうした流入を防ぐために人返し令を発令するが、江戸は120万人という世界一の巨大都市となる。この100万人から120万人という膨れ上がった都市を実質的に支えたのが実は「大家」という存在であった。この大家は2万人ほどいたと言われているが、単なる長屋の管理人としての存在ではなかった。
時代劇に出てくる「同心」は江戸の治安を守る警察のようなものであるが、南北奉行所合わせて12名の同心の他に年配の経験者である臨時の同心が12名、他に隠密周りが4名、計28名で江戸をパトロールするのだが、カバーすることはできない。これまた時代劇には「自身番」という言葉も出てくるが、これは江戸初期には地主が自らを守るために詰めた場所を指していたもで、次第に地主の代理人である大家が「店番」といってこの自身番に詰めるようになったと言われている。
この地主や大家は不審者や火事から町を守るだけでなく、店子からの家賃の中から一定の金額をお上へと納税する。また同時に「町人用」という積立金を行い、長屋が火事になった時の再建や道路の補修などといった出費に当てる経営者でもあった。勿論、「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われるように、冠婚葬祭をはじめ住人の生活を丁寧に見てくれる相談相手であった。こうした町という小さな単位、コミュニティ運営の中心となっていたのが大家で、日常的な心配事や不安の良き相談者であったことから、江戸の「浮世」という人生観も育っていったということである。

ところで江戸時代はいわゆる「捨て子」がかなり多かった。世界に例をみない自然との共生社会であった江戸時代にあって、捨て子に対する人間としての引き受け方は一つの示唆があると思っている。その共生思想の極端なものが、江戸中期の「生類憐れみの令」である。歴史の教科書には必ず「生類憐れみの令」について書かれているが、多くの人は犬を人間以上に大切に扱えというおかしな法律だと思っている人が多い。生類とは犬、馬、そして人間の「赤子」を指していることはあまり知られてはいない。その「生類憐れみの令」の第一条に、捨て子があっても届けるには及ばない、拾った者が育てるか、誰かに養育を任せるか、拾った人間の責任としている。そもそも、赤子を犬や馬と一括りにするなんておかしいと、ほどんどの人が思う。江戸時代の「子供観」「生命観」、つまり母性については現在の価値観とは大きく異なるものである。生を受けた赤子は、母性を超えてコミュニティ社会が引き受けて育てることが当たり前の世界であった。自分の子供でも、隣の家の子供でもいたずらをすれば同じように怒るし、同じように面倒を見るのが当たり前の社会が江戸時代であった。

私たち現代人にとって、赤子を犬や馬と一緒にする感覚、母性とはどういうことであろうかと疑問に思うことだろう。勿論、捨て子は「憐れむ」存在ではあるが、捨てることへの罪悪感は少ない。法律は捨て子の禁止よりかは赤子を庇護することに重点が置かれていた。赤子は拾われて育てられることが前提となっていて、捨て子に養育費をつけた「捨て子養子制度」も生まれている。つまり、一種の養子制度であり、そのための仲介業者も存在していた。現代の「赤ちゃんポスト」もこうした発想と基本的には同じである。
私たちは時代劇を見て、「大家と言えば親も当然、店子と言えば子も当然」といった言葉をよく耳にするが、まさにその通りの社会であった。あの民俗学者の柳田国男は年少者の丁稚奉公も一種の養子制度であるとし、子供を預けるという社会慣習が様々なところに及んでいると指摘をしている。江戸時代にも育児放棄、今で言うネグレクトは存在し、「育ての親」という社会の仕組みが存在していた。この社会慣習とでもいうべき考え、捨て子の考えが衰退していくことと反比例するように「母子心中」が増加していると指摘する研究者もいる。(「都市民俗学へのいざない1」岩本通弥篇)

民話というハザードマップ、災害の伝承

今回の台風19号による豪雨災害、特に河川の洪水についてはハザードマップ制度に注目が集まったが、総務省は10年ほど前から全国災害伝承情報を集め公開している。例えば、
1. 現在までに語り継がれる「災害」
2. 防災に関わる「言い伝え」
3. 個人による防災に係る取り組み
4. 組織による防災に係る取り組み
5. 防災に関する展示施設や体験施設
6. 添付資料
主に防災教育に活用してもらうことが狙いだが、既にこれも民俗学者の柳田國男の『遠野物語』には、足を掴んで水に引きずり込むという河童の恐ろしい世界が描かれている。沼や湖などを通りかかった馬を引きずり込んだり、人に相撲で挑むという話も残されている。埼玉県志木市には、悪戯をした河童が人々に捕まって殺されそうになった時、和尚が助命したところ、以後河童は悪戯をしなくなったという民話もある。志木市内には柳瀬川や荒川が流れ、大雨のたびに水害に悩まされてきた。同様に、河童の伝承が残る地域では、昔から川がたびたび氾濫するなど水害が多いという。河童のモデルになったのは実際の水害の犠牲者であるとの指摘もある。ちなみに江戸時代では河童は実在すると信じられており、河童に悪さをされないようにかっぱの髪型を真似させて仲間であるかのように見せていた。そうした髪型を「お河童頭」と呼ばれ、昭和の時代までは一つのヘアースタイルの名称として使われてきた。このようにハザードマップのない時代にあって、こうしたかっぱ伝説も自然の恵みとともに恐ろしさを言い伝え、ある意味不安を改めて認識する、そんな伝承がなされてきた。

ところで2011年3.11東日本大震災の時の大津波の時であったと記憶しているが、江戸時代の大地震である天保の地震の時に押し寄せた大津波の跡が注目されたことがあった。それは宮城県仙台市若林区にある波分神社で、発生した津波が神社の付近まで到達して止まったという伝承である。地元の人はその時の教訓として言い伝えられ、過去にもこのような大津波があったことを実証している。多くの地震学者が「想定外」という言葉で津波の惨状を語っていたが、江戸時代からの伝承は嫌なことだが的中したということである。東日本大震災の津波は、周囲よりわずかに標高の高い波分神社周辺を取り巻くように到達したという。伝承が寺社として目に見える形で残る事例である。民話や言い伝えは非科学的だと研究のテーマにならなかったが、民衆・庶民の不安心理の奥底に流れ続けていたことがわかる。

江戸庶民の「自然思想」

戦乱の世から平和の世に移った江戸時代。それまでの戦乱という不安、いや恐怖から平穏な日常を手に入れた庶民の生き方、浮世という生き方はどのように熟成したか、そこには「共生社会」と言われる自然との向き合い方がある。
江戸の住まいは前述のように木造家屋で、多くの虫などは絶え間なく住居に入り込んでくる暮らしであった。生類憐みの令が象徴するように仏教の殺生戒に基づいた「生きているもの」との共生思想は虫にも及び、決して殺したりはしなかった。江戸も中期になると都市化が進み、虫の住む場所もどんどん少なくなっていく。そんななか江戸の風流人は鈴虫などの虫の音を聞きたいと「虫聞き」の場に風流人が集まるようになる。そして、そんな場所に行くのが面倒であるとし、中野や武蔵野あたりから虫売りが商売としてやってくるようになる。虫の中で一番人気はホタルでこおろぎなども好まれていたようだ。お盆の頃になると売れ残った虫や楽しませてもらった虫を生きているものとして野に解き放す。これが「放生会」である。つまり、いろいろな殺生戒などの禁止令すら「楽しみ」に変えていく暮らしがあったということである。
また殺生を禁ずる思想は肉食禁止につながるものだが、コメを主食とした日本人は僧侶の食事にも精進料理として現れていることは周知の通りである。これも生活の知恵であるが、鴨肉に似せた「もどき料理」である「がんもどき」のように、アイディア・工夫によって楽しんでいたということである。また、江戸中期にはベストセラーとなった料理本に「豆腐百珍」がある。ただ、庶民の中には肉食をする者もおり、例えば馬肉の鍋をさくら鍋と称して食していたことはよく知られていることである。

また、江戸は季節の植物・花々を愛でる楽しみが暮らしの中に取り入れていた。その代表的なものが桜の花見で若い女性にとってはファッションショーのような晴れ舞台であった。また、それは良きお見合いの舞台でもあった。今や日本人ばかりか桜観光として多くの訪日観光客が押し寄せる大きな観光資産となっていることは周知の通りである。
実は江戸には桜だけでなくもっと広い「園芸ブーム」が起こっている。初代将軍の家康をはじめ二代将軍の秀忠も大変な植物好きであったことから始まった。周知のように五代将軍の綱吉は生類憐みの令を発し、殺生を禁じたことからそれまでの釣りや狩りも禁止される。そして、武士も庶民も植木や盆栽へと一斉に向かうこととなる。椿、かえで、菊、南天、幕末には朝顔と万年青(おもと)が2大ブームとなっている。植木市も江戸市内神社の境内などで開かれ、今なお続いているのが東京入谷の鬼子母神で行われる朝顔市である。
また、度重なる洪水などに対し多くの河川には桜の木が植えられてきた。崩れやすい土手に桜を植えることによって治水するということである。つまり、少しでも桜の根によって土手を強くし洪水に備えてきたということである。桜を愛でる楽しさの裏側にも水害への備えがあったということだ。

大衆化する文化とスポーツ

ところで浮世を象徴する時代といえば元禄時代であろう。元禄文化と言われるように爛熟した時代である。それまでの戦国の世が終わり、安定した社会が訪れる。こうした時代に合わせたように力をつけてきたのが新興商人であった。いつの時代もそうだが、生きるに不可欠なものではない「文化」へと好きの興味関心は移っていく。その代表的なものが着物、つまりファッションとしての被服であった。この元禄を代表したのが、東西、江戸と京の衣装比べであった。いわゆる衣装自慢比べである。それまでの着物に比べ大胆で斬新なデザイン着物が続々と現れた時代である。元禄時代をバブルの時代と呼ぶのはこうした背景からであった。ちょうど1980年代バブル絶頂期に向かってDCブランドをはじめ多彩なファッションが生まれたのとよく似ている。今日の「Kawaii(かわいい)」のルーツということである。

ところで江戸の娯楽、スポーツ観劇では芝居ととともに大相撲が江戸っ子を熱狂させた。火消し、与力、力士を「江戸の三男」と言われ人気を博していた。実は「観るスポーツ」と共に「するスポーツ」も誕生する。
江戸では百姓や町人が剣術をするのは好ましくないとされてきたが、江戸後期にもなると庶民が剣術を学ぶことができるようになる。こうした庶民スポーツとして広がったのはそれまでの木刀による剣術から、竹刀や胴着などが開発され怪我をする危険が少なくなったからであると言われている。
こうして剣術がスポーツ化したのは天保以降で一大ブームが起こることとなる。正確な資料はないが、江戸市内には道場が乱立し、数千の流派があったと言われるほどであった。昔の時代劇に登場した三代流派の一つである千葉周作はこの剣術のスポーツ化の旗頭でわかりやすいシステムを作り上げている。つまりスポーツの大衆化であり、マニュアル化されたトレーニング法やそれまでの謝礼の簡素化が全国に渡って多くの門弟を集めることとなる。従来の道場は多くの段位が設定され、免許皆伝となるにはその度に謝礼を払わなければならず、千葉道場ではわずか三段階のみで免許皆伝が得られる、つまりわかりやすいシステム化がなされたことによるブームである。結果、江戸市内には巨大な道場が造られ、門弟は3500人に及び、その中には周知の坂本龍馬など幕末の志士が誕生する。
病気への不安が大きかった江戸

江戸時代には正確な統計データは存在していないので不確かではあるが、「人生40年」と言われるように現在の寿命と比較し極めて短命であった。その原因の一つが死産や乳幼児の死亡率の高さであった。10歳になるまでの間に4割近くの子供が亡くなり、それ以降になると死亡率も徐々に下がっていったようである。その代表的な病気が麻疹(はしか)で、江戸時代ではこの麻疹が13回も大流行したといわれ、そのたびに多くの人の命が奪われてしまったと言われている。さらに疱瘡(ほうそう)やコレラなど感染力の強い病気が大流行した。今のように抗生物質もなく、衛生環境の悪さもあって、麻疹にかかった時、別名「命定め」などと呼ばれていたようで不安と言うよりあきらめに近いものであった。

しかし、病気治療の前に「健康」認識が生まれたのも江戸時代であった。周知のようにそれまでは1日2回の食事であったが、江戸中期の元禄年間(1688~1704)頃から1日3回の食事へと変化する。これは政治都市江戸から商業都市江戸へと多様な仕事が生まれ、陽がのぼって起き、日暮れと共に眠るというライフスタイルから、極論ではあるが今日の24時間化が始まる。屋台の蕎麦屋も「夜鳴きそば」と言う落語の演題があるように、夜働く人達の外食産業も大いに流行るようになる。
ちょうどこの頃から主食はほとんどコメであり、1日白米5合ほど食べられていたと言われている。一汁一菜といっても味噌汁と漬物程度で偏った栄養状態であった。そこで蔓延したのがビタミンB1不足による脚気(かっけ)であった。いわゆる「江戸わずらい」と呼ばれ、江戸勤務から地元に戻ると玄米などを食べることから治ると言う状態であった。次第に「健康」意識が芽生え、「豆腐百珍」などの書が出るように今日の健康食が次から次へと庶民の口に入るようになる。そして、多様多彩な食材を一緒に食べる「鍋料理」も江戸時代に生まれている。例えば、浅草には「駒形どじょう」という鍋料理店があるが、江戸庶民の健康維持と共にグルメ食でもあった。
ある意味現代における飽食生活と同じで、「健康・からだ・食」に対し警鐘を鳴らし啓蒙活動を行ったのが『養生訓』を書いた儒学者の貝原益軒であった。長寿を全うするための身体の養生だけでなく、精神の養生も説いているところに特徴があり、今日のダイエットとグルメの振子消費のように揺れ動く心理状況にも的確な示唆をしてくれている。貝原益軒は内なる4つの欲望を抑え、我慢することによって長寿が得られると説いている。その4つであるが、ウイキペディアによれば
1、あれこれ食べてみたい食欲
2、色欲
3、むやみに眠りたがる欲
4、徒らに喋りたがる欲

健康不安を解消し、長寿を全うするための「教え」が既に江戸時代にあり、また栄養不足を解決するだけでなく、鍋料理のように単なる体に良い料理だけでなく「グルメ」に変える知恵やアイディアが既にあったと言うことである。ここにも浮世ではないが不安を楽しみに変える知恵があったと言うことである。(後半に続く)




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2020年01月05日

◆正体見たり枯れ尾花 

ヒット商品応援団日記No754(毎週更新) 2020.1.5.


毎年元旦には主要各紙を読み大手新聞メディアは新年に当たりどんなテーマを掲げるかを読むことにしていたが、ここ数年ほとんどニュースにもならないような内容ばかりで辟易していた。ところが年末年始にかけて大きなニュースが飛び込んできた。周知の日産自動車の前会長ゴーン被告が日本を無断出国し、レバノンに身を寄せているという報道である。読売新聞の取材によればゴーン被告は木箱に隠れ外交特権を使い、プライベートジェット機で関空を出国し、トルコ経由でレバノンに入国したとのこと。また、元旦のTV番組でも日本の司法では推定有罪になるであろうとのゴーン被告の声明を使って、ゴーン被告を擁護するフランスメディアを紹介していたが、誰一人国際秩序がすでに壊れ始めているとの指摘はなかった。

周知のようにそれまでの政治・経済における国際秩序を壊したのは米国のトランプ大統領である。そして、今月末には英国のEU離脱が本格化するであろう。この2つのニュースについては当時欧米メディアを始め大手メディアの予測とは異なる結果が今日に至っている。つまり、混沌とした世界が地球上を覆っているということで、簡単に言ってしまえば「なんでもあり」の時代を迎えているということである。例えば、ゴーン被告は日本の司法制度を批判し、日本におけるこれからの裁判は成立しなくなる。国際法は存在するが、それも欧米圏は勿論のこと日本の司法もローカルな「法」に過ぎないということだ。ましてやレバノンという国家は周知のように、キリスト教、イスラム・シーア派、イスラム・スンニ派という3つの「権力」が混在する国である。身柄引き渡しなど日本との外交関係がどうなるかわからないが、推測するにレバノン政府が声明を出しているように「ゴーン氏の入国は合法である」という立場を変えることはないであろう。ほとんど報道されてはいなかったが、レバノン政府は以前からゴーン被告のレバノンへの入国を日本政府に要請していたという。

トランプ大統領が誕生した時、「分断と対立」が時代のキーワードであった。このキーワードは米国内だけのことではなく、国際社会全体に対してであったことを想起する。実はこのキーワードの先には「何が」あるかである。3年半ほど前になるが、未来塾「パラダイム転換から学ぶ-1」で英国のEU離脱の国民投票にについて、「グローバル化する世界、その揺り戻し」について書いたことがあった。戦後の一大潮流であったローカルからグローバルへの潮流に対し「揺り戻し」が始まっているという指摘であった。勿論、単に過去に元に戻ることではなく、”忘れ去られた何か、その復権、再登場、見直し”であり、そこに新しい価値を見出すことであった。
しかし、今回の「ゴーン被告の脱出劇」はローカル日本の「司法」とグローバルビジネスマンであったゴーン被告の「正義」との衝突で、しかもローカル日本では初めて本格的な司法取引に基づく起訴であった。そして、その裁判では金融商品取引法違反という一種の形式犯罪を入り口に3つの特別背任が争点になると考えられていた。春には公判が始まり、事件の争点が明らかになると考えられていたが裁判は行われないことになるであろう。私が興味を持っていたのは、日産自動車の再生を果たした「功労者」がその功労故に絶大な権力を手に入れたことによって起こる「問題」が明らかにされることであった。しかし、今回の事件に該当する刑訴法では、事件の被告は公判に出頭しなければ開廷できないと規定しているため、ゴーン被告が帰国しなかった場合、公判を開くことはできないこととなる。東京地裁はどんな判断を下すのであろうか、これもグローバル経営における日産自動車による「揺れ戻し」の中に生じた「衝突劇」である。

ゴーン被告の脱出劇で思い起こさせるのが、中国ファーウエイの副会長の逮捕であろう。周知の5Gの主役企業の副会長が米国の要請によりカナダで逮捕された事件である。イランとの金融取引を口実としているが、米国の通信技術の覇権争いがあることは多くの専門家が指摘していることである。米国政府はカナダ政府に身柄引き渡し請求をしてきたが、この1月には審理が始まる予定である。どのような結果となるか注目されるが、イランへの経済制裁に反するとして金融機関への嘘の申告をしたという罪による逮捕の衝撃と共に、孟被告は逮捕の数日後、1000万カナダ・ドル(約8億円)を支払い保釈され、電子監視装置の装着と旅券(パスポート)の提出が義務付けられたとのニュースであった。ゴーン被告との比較で言えば、パスポートの管理についてほぼ同じではあるが、GPSを使った監視装置をつけて勝手に出国できないようにした措置が取られたことである。この2つの事件に共通していることは日産自動車については日本と仏政府(ルノー)の主導権争いがあり、ファーウエイについては米中の貿易戦争の一つであり、共に「政治」が関与しているということである。

3年半ほど前の未来塾にも書いたのだが、グローバル化という「外」からの変化に対しては各国「受け止め方」「取り入れ方」は異なる。日本の場合、もっとわかりやすく言えば「外圧」となる。今回のゴーン脱出劇の第二幕はまず、欧米のメディアからローカルジャパンの歪んだ司法として徹底的に叩かれるであろう。確かに日本の刑事司法制度には問題があることは事実であろう。しかし、問題を外圧によって変えていくのではなく、自ら変えていくことが必要である。その「問題」を理由にゴーン被告の脱出劇が正当化されることではない。私は脱出劇と書いたが逃亡劇であり、立場が異なればどちらを使っても構わないが、明らかにすべきことは同じ世界である。その明らかにすべき世界とは日産自動車再生の功労者であるとも書いたが、どれだけの「痛み」を伴った「再生」であったかを今一度考えるべきであると思う。

その日産自動車のつまずきはバブル崩壊による高級車種の販売不振とグローバル化、つまり海外進出で特に英国での生産であった。ここでは詳しくは書かないが、赤字を出し続け、クライスラーやフォードに提携の打診をする。こうした交渉の間にも赤字は増え続け、最後の救済策を出したのがルノーであった。そのリーダーがゴーン被告であったということである。
こうして約2兆円の有利子負債を抱えて破綻寸前の日産自動車は1999年3月、仏自動車大手のルノーと資本提携する。元々ルノー自身が業績が低迷し、大リストラに辣腕をふるって再生したのがのがゴーン被告で、日産のCOOとして「5年以内に日産の再建を果たせなければ、失敗ということだ」と強調し登場する。後に再生の背景にあった脆弱な財務体質を不動産などの資産売却を通じ改善していく。
さてその再生の痛みであるが、村山工場(東京)など5工場の閉鎖、2万1千人の人員削減、系列取引の見直し……。これがゴーン被告がCOOとしてまとめたリバイバルプランであった。過去に例のない大リストラ策、当時コストカッターと言われ、経済界でもその評価は分かれていたことを覚えている。

こうした再生は功を奏しV字回復したことは周知の通りである。ましてや日産が開発先行してきた電気自動車時代を前にしてである。ルノー(仏政府)が支配下に置きたがるまでに復活し、同時に今回のような事件へと向かうのである。裁判で明らかにして欲しかったのは、「功労者」であるが故の立場を利用して特別背任など不正に利得を得てきたか否かを客観的に明らかにして欲しかった。このことは何よりもグローバル化、巨大化する企業にとって陥りやすい一種の「罠」を防ぐためである。
グローバル企業というとGAFA(Apple, Google, Facebook, Amazon)であるが。各社明確なポリシー、特に顧客市場に対し目指す理念を持っている。そうしたポリシーに共感して、従業員も集まり、顧客もビジネスとして納得して消費している。果たしてゴーン被告を始め日産の経営者は次の顧客市場に理念を持っていたのかどうか、ルノーと日産の保有株式の力関係に固執し政争の愚に陥ったのではないか、そうしたことが裁判で明らかにして欲しかったということである。

しかし、今回のゴーン被告のレバノンへの逃亡劇は「正体見たり枯れ尾花」と言われても仕方がない。以前から指摘されていたことだが、蓄財と節税に凝り固まった経営者という正体である。日本の司法制度の問題点を理由に「国際世論」を味方にして戦う姿は醜いとしか言いようがない。ゴーン被告が日産をV字回復した当時、「プロ経営者」「高い報酬に見合う人材」と、多くの経済ジャーナリストは褒め称えていた。確かに欧米においては経営者の引き抜きは日常茶飯事で、その条件の第一は高い報酬である。株を提供し、株価に連動した報酬をさらに盛り込んだ報酬制度が一般化していることも事実である。高い報酬を否定はしないが、分断と対立が深まる時代にあって必要とされることは依って立つ「持つべき理念」である。
日産自動車のV字回復における「痛み」について書いたが、ある意味それは第二の創業の痛みである。今なお苦難は続いており、更にゴーン逃亡劇もある。今すべきことは「変わらぬこと。変えないこと」を明確にすることにある。実は日本は世界でも類を見ないほどの「老舗大国」である。その筆頭である金剛組は創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている宮大工の会社である。世界を見渡しても創業200年以上の老舗企業ではだんとつ日本が1位で約3000社、2位がドイツで約800社、3位はオランドの約200社、米国は4位でなんと14社しかない。何故、日本だけが今なお生き残り活動しえているのであろうか。それは明確な理念を持ち続けてきたことによる。日産自動車の場合、第二の創業の原点として、その「痛み」を「変わらぬこと。変えないこと」として継承する努力を怠らないことに尽きる。(続く)  


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2020年01月01日

◆明けましておめでとうございます

ヒット商品応援団日記No753(毎週更新) 2020.1.1.



  


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