2011年06月26日

◆パラダイム転換が始まる(2)

ヒット商品応援団日記No510(毎週更新)   2011.6.26.

前回のブログの最後に、少々不便さを感じたり、快適さが失われても、人工的生活を少なくしたい、そんな実感体験してきたライフスタイルへと移行するであろうと書いた。そして、それはLOHAS的ライフスタイルへと向かうとも書いた。再生可能な自然エネルギーへの共感が広がっているのも、「人工」の象徴である原子力発電への一種の忌避感からであろう。それを見事に表しているのは、家族も家も故郷も根こそぎ奪い去った三陸海岸にあって、多くの漁師はまた海に戻りたいと口々に言う。一方、放射性物質汚染のホットスポットである飯舘村の人達は避難に際し、政府・東電への怒りと共に、1日でも早く自然豊かな元の村に戻って来たいと言い、もう原発はいらないと言い切る。
同じ大震災に遭ったにも関わらず、自然と人工は真反対の思いになった。その価値観の違いを鮮明に浮かび上がらせた。

昨年から森ガールや山ガール、最近では釣りガールまで、アウトドアレジャーといった休日の過ごし方、その消費に注目が集まってきた。こうした休日や自由時間には関心事や好みはストレートに表れてくる。そして、そうした関心事や好みは次第にウイークデー、日常生活へと取り入れていく方向に向かう。例えば、森ガールスタイルで街中を歩くといった日常の過ごし方である。あるいは、部屋のなかでバーベキュー的料理を楽しむとき等は、アウトドアスタイルの食器などを使って楽しむといった世界である。
今まで以上に生活のなかに自然を取り入れ、五感で感じ取る生活、それは少々快適さにかけていてもそれ自体を楽しむ生活である。その意味するところは、夏は夏らしい暑さを、秋になればひんやりとした空気を感じ、つまり四季を五感で感じ取れるような生活を取り戻すということである。3.11以降、節電ということからオフィスも商店も、電車も駅も、勿論家庭も、各人が照明を落とし、少しの間は暗さを感じていたが、今はどうかと言えば不便・不快を感じることはない。ただ、薄暗くなったことから交通事故やひったくり事件が増えたことは困りものであるが。

ところで、ここ数年オール電化住宅が戸建・マンション共に増えてきた。あるいはそこまではいかなくとも、ガスや火を使わないIHクッキングヒーターが急速に普及してきた。ところが、計画停電という事態に遭遇し、どんなことが自己防衛策として消費に現れてきたか、このブログにも書いてきた。3.11直後にはカセットガスコンロに殺到し品切れとなり、次第に応急的商品から家庭用の蓄電池やその代用となるハイブリッド車へと注目が集まった。更にはアウトドア好きはそれら商品をインドア・部屋のなかでも使うようになった。
つまり、言葉には表さないが、原子力発電という電力の大量生産、大量消費時代の終わりを感じているということだ。日本は五風十雨と言われてきたように、湿潤な気候風土の国だ。それを快適である一定の気温、湿度に電力をもって1年365日保つ電力消費生活を見直す方向へと向かっている。食で言うと、旬のある豊かな国であるが、既に365日旬のある環境が出来上がっており、旬の持つ限定という期待感は喪失しまっている。これも大量消費時代が生んだ一種の奇形であろう。

この大量消費生活への見直しは電力だけではない。食料自給率の低さが問題になったことがあったが、以降年間2000万トンを超していた廃棄食品はどんどん少なくなった。あるいは10数年前であればいち早くトレンドとなったファッション商品を手に入れたいと、季節ごとに購入していた。が、収入が減り続ける時代にあっては、オシャレにお金を使うことができなくなった。勿論、オシャレごころが無くなった訳ではなく、買うのならばネットで一番安く買うか、あるいはアウトレットで買う、あるいは着こなし着回しで間に合わせるといった具合だ。
このような時代環境の変化に伴い、その都度問題が指摘され自覚もし、その先にどんな生活を思い描くかである。3.11は大量消費という一つの時代を終わらせた。

それではどんな生活を思い描くのか、既に行動を起こしている人達がいる。それは被災地東北、特に福島という原発事故に遭った家族の行動のなかに現れてきている。政府、というより現場を把握している自治体自身も被災していることから正確な情報は発表されていないが、かなりの家族が他府県へと避難している。3月末時点ではNHKによれば3万4000名弱と報道されていたと思うが、その後の原発汚染の実態が明確になるに従い避難家族は増大していることは間違いない。
そして、通常であれば親戚縁者を通じた避難であるが、今や各道府県には避難受け入れのサイトがあり、それら情報を踏まえた避難である。更に、Yahoo知恵袋のように個人での避難家族受入れサイトも無数にあり、かなりの家族が避難している。しかも、仕事それ自体も避難先で見つけ、新たな出発をする家族もいる。こうした家族も、福島新館村のように再び故郷に戻る計画で避難する家族もいる。共通していることは、0というよりマイナスからの人生スタートであり、その生活原点を見つめての結果である。

多くの情報を踏まえた訳ではないが、その生活原点こそ3.11以降の新しいパラダイムである。そのパラダイムを情緒的に表現すると、

・自然に寄り添い、四季の変化を五感で楽しむ生活
・愛する家族と信頼できるコミュニティのなかの生活
・仕事の場が近くにあり、ごく普通の生活
・そして、明日は今日より少しだけ良くなると希望が持てる生活

一昔前のどこにであった日本の家庭、家族の在り方、暮らしの風景がこの生活原点である。東京には既に無くなってしまったが、地方には今なお残っている生活である。多くの避難家族が報道されていたが、そのなかに沖縄に移住した家族は岩手三陸の漁師を辞めて沖縄の水族館の職員へと転職した家族であった。印象に残った避難家族には京都に移住した家族もあった。沖縄も、京都も、それぞれ固有の自然・生活環境があり、コミュニティの在り方も異なる。しかし、昭和の時代を過ごした私にとって、地方にはこうした生活原点が残っており、新しいライフスタイルの芽として育っていくものと考えている。削ぎ落としてもなお残る、残したい生活である。そうした意味で、前回のブログの最後にLOHAS的生活へとパラダイムが変わると書いた。

そのLOHASは、たしか2000年頃に新聞各社で新しいライフスタイルが米国で生まれたと報じられ、翌2001年にLOHAS運動の概要が雑誌などで取り上げられ注目された。そのLOHASが尻すぼみ状態になって失敗したのも、ロハスブランド、商標としてのライセンスビジネスとして展開し始めたことによる。多くの批判にさらされ商標の使用をオープンにして今日に至っている。私がLOHASに注目したのも、スタンフォード大学でMBAを取得したビジネスマンが中心となって、自ら創り上げてきた米国文明への批判・見直しから生まれてきた点にあった。
そして、このLOHASの良き事例として私が取り上げてきたのが京都であった。例えば、「始末(しまつ)」ということばがあるが、単なる節約を超えて、モノを最後まで使い切ることであり、その裏側にはいただいたモノへの感謝、自然への感謝の気持ちが込められている。そして、「始末」には創意工夫・知恵そのもでもある。誰でもが知っている、京都の食に「にしんそば」や「鯖寿司」があるが、内陸である京都が生み出した美味しくいただく生活の知恵・文化である。もう一つ素晴らしいのが、季節、祭事、といった生活カレンダー(旧暦)に沿った暮らし方をしており、「ハレ」と「ケ」というメリハリのある生活を楽しんでいる点にある。京都をLOHASの代表としたが、こうした風土に沿った固有の文化ある暮らしは地方を歩けばいくらでもある。3.11はこのことを再び気づかせ、自覚へと向かわせている。LOHASが米国文明への批判・見直しから生まれたように、日本もまた原発を頂点とした文明への見直しが始まったということである。(続く)  


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2011年06月19日

◆パラダイム転換が始まる(1)

ヒット商品応援団日記No509(毎週更新)   2011.6.19.

今年の「父の日」は6月19日であるが、通年はあまり活発な消費は見せないが、今年の母の日ほどではないにしろある程度は動くであろう。これも大震災の影響を受けた消費傾向の一つであるが、人と人との関係を見つめ直す、特に家族との関係を自ら再認識する一つのきっかけとなる記念日市場である。
本来記念日は個人的なものであるが、無縁社会という言葉が流行語になるように関係を失ったバラバラ社会にあっては、こうした創られた「きっかけ」であっても大きな市場機会となる。

大震災をテーマにブログを3ヶ月ほど書いてきたが、少し整理してキーワード化すると以下のようになる。

○奪われた家族・故郷、絆、コミュニティ、自治、
○がれきのなかの記憶と思い出、
○喪失と再生、子ども、生命力、
○公助なき共助、ボランティア、ツイッター、ネットワーク、国内外からの支援、、
○自然への畏敬と感謝、今なお残る自然思想、海に戻る、
○想定外という人災、安全神話の崩壊、科学者であることの恥、
○放射性物質汚染、無計画停電、自己防衛、内なる安全基準、
○情報隠蔽による風評汚染、嘘の蔓延、ダーティジャパン、海外客激減、
○炉心だけでなくメルトダウンする言葉、安全デマ、
○ライフスタイル変化、節電、省エネ、脱原発、自然エネルギー、
○幸せって何!、日本って・・・、

少し前にライフスタイルの変化が始まったとブログに書いた。それはあの3.11の押し寄せる大津波の衝撃的な映像によって、奪われる家族・故郷、そこに人と人との絆の大切さを思い起こさせた。それはまた、がれきのなかの記憶と思い出探しの映像は象徴的であった。以前ブログにも書いたが、3年前に話題となった作家天童荒太が描いた「悼む人」そのものである。
こうした一人ひとりの人生を思い浮かべ、記憶を辿る。無縁社会にあって、近しい人との関係の大切さへと向かい、若いカップル世代であればその徴(しるし)としてのリングの交換や婚約といった道筋まで進んだ。消費という側面を見れば、この延長線上に「母の日ギフト」もあり、父の日ギフトもある。創られたギフト市場ではあるが、これも一つの「縁日」と呼べるものだ。今後もこうした有縁を結ぶ出来事や商品あるいは場が注目される。

福島原発事故に対する自己防衛というキーワードを3.11直後から使い多くの現象を解き明かしてきたが、マスメディアはあまり取り上げないが急激に多様な市場として生起している。
その第一は福島県を中心とした子を持つお母さん達の行動であった。勿論、放射能汚染に対する不安、恐怖に対するもので、関西方面や九州、沖縄へと避難する人が後を絶たない情況だ。3月の時点では政府も原子力の専門家も安全ですと繰り返しアナウンスしてきたが、その安全の「不確かさ」によって不安、恐怖が更に増幅させてしまった。しかも、3.11以降、時間を追うごとに事態の深刻さ、それを表す情報が小出しにアナウンスされるようになった。3月時点ではチェルノブイリと比較すること自体がおかしいと専門家やマスメディア、特に大手新聞はは口を揃えて言ってきたが、最近の政府からのアナウンスメントではまき散らされた放射性物質は77京ベクレルであったという。悲しいことだが、政府のことは信じず、放射線量を計る機器を個人で、お母さん仲間で購入し、自宅や周辺の公園等子が遊ぶ場所を自ら計る行動にまで至った。放射性物質だけでなく、安全デマまでもがまき散らされたということだ。

昨日、仏政府は空輸された静岡県産の茶葉から基準値以上のセシウムが検出され廃棄処分にしたと発表した。国内においても既に汚染問題として発表されているが、静岡県知事は飲用する場合は放射能も薄まるので問題ないとコメントしてきたが、世界の基準・常識ではそんなことはありえないということだ。静岡県産の茶葉の汚染は取り扱っている食材宅配会社「らでぃっしゅぼ〜や」の自主検査によって検出されたものである。しかも、静岡県はその発表を遅らせたと聞いている。
私は自主検査によって基準値以上の放射性物質が検出され公表した神奈川の足柄茶に対し、その考えと行動を高く評価した。それは汚染米事件で風評により倒産寸前まで追い込まれた焼酎宝山が全てを廃棄処分まで行し、公開したその経営ポリシーを高く評価するものであった。神奈川の足柄茶も同様である。誰を信じ、誰に本当の情報を公開するのか、そのことを顧客は、消費者はしっかりと見ているということである。しかし、静岡県知事は福島原発事故の政府の公開性と同じように、誰に対して「問題なし」「安全である」と言っているのか。福島県民、農畜産業、水産業、各種の工場、商店、・・・・住民全てが苦しんでいる課題は静岡県も同様であるとの認識を持たなければならない。

自己防衛とは不信の時代のことである。信じられるもの、それは自らの体験と近しい人だけである。政府も、政治家も、原子力発電も、そして大手マスメディアも、全て「遠い存在」としてある。一年前まで、クリーンエネルギーであると、地球温暖化への切り札であると、エネルギー政策を掲げてきた政府は福島原発事故から一転して再生可能な自然エネルギーへの転換を言葉だけで言う。私は原発推進論者ではないが、嫌な話であるが電力需要が供給をオーバーし大規模停電が置きた時、またもや一転して原発推進政策へと舵を取る。そんなことがころころと変わり得る政府であると不信の目が注がれている。あるいは、マスメディアもそうした政府を擁護するかのような報道を続けてきた。しかし、福島の一部のお母さん達が多くの非難をされるなかで汚染された校庭の土の除去を求めた。この行動は放射能に対するモンスターペアレントというレッテルを貼ったのは教育委員会を始めとした学校関係者であった。そうした事実を知りながら大手マスメディアは一切報じることはなかった。しかし、汚染が深刻であることが徐々に分かるに従って、ホットスポット住民への支援策を、政府も、自治体も、マスメディアも、汚染のモニタリングを実行し、報じ始めた。汚染から3ヶ月も経ってからである。

こうした不信ばかりに取り囲まれた時代にあればこそ、自らを信じ行動する生活者が多数を占めてくる。そして、そうした行動を取ることによって、より価値観は明確になっていく。今回の原発事故によってどんな価値観が生まれてきているか、文明史的な考察が必要となるが、人の手によって作られた、しかし人の手によって制御できない「人工」への忌避感が生まれている。現在は、放射能汚染への不安や恐怖であるが、次第に反人工的世界へと、つまりより自然を取り入れた、自然に囲まれた、少々不便さを感じたり、快適さが失われても、人工的生活を少なくしたい、そんな実感体験してきたライフスタイルへと移行する。これは後戻り、20年前、30年前の生活に戻るということではない。ある意味、LOHAS的生活であるが、10年程前の失敗したLOHASの教訓を踏まえたライフスタイルに向かうであろう。後半ではそのライフスタイルについて書いてみたい。(続く)  


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2011年06月11日

◆小さなブータン国に学ぶ

ヒット商品応援団日記No508(毎週更新)   2011.6.11.

人間がもつ多くの欲求を5段階に整理し、各段階が適度に満たされていくと、より高次な欲求へと発展していくとした「マズローの法則」がある。マーケティングや広告を志望する人であれば若い頃必ず使ったことのある法則で、どの欲求をどのように動機づけたら良いのかといったテーマで使われてきた。

①生理的欲求(食欲・睡眠・性欲)
②安全性欲求(住居・衣服・貯金)
③社会的欲求(友情・協同・人間関係)
④自我の欲求(他人からの尊敬・評価・表現欲)
⑤自己実現欲求(潜在能力の開花)

1970年代当時は①→②→③→④→⑤へと「豊かさ」は発展・進化していくと説明されてきたのだが、現実はそれほど単純なものとして進んでは行かない。但し、あくまでも一つの整理軸として、そのように使えば今も使えるものとしてある。

何故、こんな古い物差しを持ち出したかというと、前回のブログで小国ブータンを例に挙げて国民総幸福量(GNH)という新しい価値概念にふれたからである。物質的豊かさから一旦離れ、他人の喜びを我が喜びにする、そんな幸福世界を可能とするコミュニティ欲求、自治欲求、といった国づくり欲求の世界である。
私の場合、東日本大震災を通じこうした世界を感じ取ったのだが、上記の整理を踏まえると被災地には数日間から数週間にわたり、①生理的欲求②安全性欲求という生きる為の基本的な欲求を満たすことが全くできなくなってしまった。あるのは③社会的欲求と④自我の欲求(⑤も含まれるかもしれない)、それら欲求の発露である姿を、人は宮沢賢治の言葉を借りて東北人の底力と言い、ある人は失ってしまった日本人のこころ、故郷がまだ残っていたと語られた。

恐らく①から⑤の先に未だ明確ではないが⑥を見出す方向に向かっているということであろう。東北3県の復興についても新しい価値観、新たな視座が求められている感がする。
数週間程前の震災に関するニュースであったが、岩手三陸の牡蠣養殖復興のためのファンドが生まれたという。若い世代の流出が続くなかで、働く場を早くつくる為の資金づくりである。ツイッターのつぶやきから生まれたファンドと言われているが、1口1万円の「支援オーナー制度」ということである。これは緊急支援であり、義援金的であるが、長野県飯田市で3年前にスタートした太陽光発電事業の「おひさまファンド」(http://www.ohisama-fund.jp/)という市民ファンドのような仕組みとしてビジネスとして成長されたらと思う。

今回の大震災で驚かされたのは、地域の生活者と共に、いかに地域を思い、現場で必死になって復旧の指揮を執っている地方自治体の首長が多かったことだ。南相馬の桜井市長を始め、陸前高田市、南三陸町、福島飯舘村、・・・・・恐らくマスメディアの報道に載ってはいない賢明なリーダーシップを持った町長、村長が多く活動されていると思う。
そして、大震災の教訓として、政治、経済などの分散化が指摘され、その文脈のなかで地方分権が語られている。が、復興計画こそこうした被災地の首長の手によって行われるべきであろう。そして、まず権限と予算を渡すことだ。例えば、2500億円を超える義援金の支給についても、公平性と迅速性という理想に近づけることに議論がさかれているが、一定のガイドラインを決めたら後は自治体の首長にまかせたら良い。岩手、宮城、福島の各知事の意見の違いが伝えられるが、そんなことは地域の実情は異なっており、至極当然のことだ。使い道は被災者のことを一番理解している現場の首長に任せることである。

大震災後、3ヶ月経ってやっと復興基本法案が国会に提案された。政治の無能、無責任、ていたらくさについてはこれ以上言う気はないが、政治を無視した経済、その結果である消費はあり得ない。ところで、日本とブータンを比較してみるとわかるが、震災3県がいかに大きな経済力をもっているかが分かる。(http://ecodb.net/exec/trans_weo.php?d=NGDPD&s=1980&e=2011&c1=BT&c2=JP)と同時に、小国ブータンの成長には目を見張るものがある。ブータンというと、何か縮小しているような感覚にとらわれるが、着実に成長していることが分かる。
復興基本法案の一つに税制支援を踏まえた「特区構想」がある。勿論、独立国家とまでは言えないが、国民総幸福量という視座も構想の一つになりえると思う。もう一つの国づくりを東北で行うということである。つまり、東北3県に無数の小さなブータン国が生まれるということだ。

そして、消費はどのように変わるであろうか。従来の消費は、大量生産、大量販売、大量消費であり、理屈として飛躍するがその象徴が原子力発電であった。今後は生産も、販売も、消費も身の丈サイズになる。別のキーワードで表現するとすれば、「ロングライフ志向」といった価値観となる。永く使い続けたい、愛着が湧く、馴染んだ感じ、どこかほっとする、最初購入する時はチョット高いが、永く使えば結果としてお得、そんな価値世界である。このことは決して市場が縮小することではない。量から質への転換が始まったと理解すべきである。
次々と新製品や新規店のオープンといった変化情報(=刺激)が押し寄せるなかで、それでもなお使い続けたい、食べ続けたい、住み続けたい、とする価値観である。こうした消費の潮流は以前からあったが、これからは本格化する。復興を目指す東北3県はこうした都市消費を踏まえた生産と共に、それこそ小さなブータン国として都市生活者と永いつきあい関係を結ばれることを願いたい。(続く)  


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2011年06月05日

◆加速する政治不況のなかで

ヒット商品応援団日記No507(毎週更新)   2011.6.5.

7月から電力、ガスといった公共料金値上げの発表があった。中東・北アフリカの政情不安を背景に、原油や液化天然ガス(LNG)の国際的な取引価格が上昇していることからだ。既に3〜4月にかけて、食用油、コーヒー、小麦粉の関連商品の値上げが始まっている。
一方、ブログにも書いたが牛丼戦争に象徴されるようにデフレ情況は変わらず続いている。ちょうどリーマンショック半年前に起こっていた川上(輸入)ではインフレ、川下(流通・消費)ではデフレというエネルギー及び食料資源を持たない日本の構造的問題、ねじれ現象の再来である。最早、わけあり商品などという言葉はどこを見ても見つけることができない。勿論、わけあり商品が無くなった訳ではなく、それらは続くデフレ下にあって既に日常化しているからである。

昨年12月、子ども手当の使い道について厚生労働省から初めての調査結果が報告されたが、その使い道の一番目は「子どもの将来のための貯蓄・保険料」(42%)という結果に見られるように、明日が見えない、不安定さに対する明確な消費態度であった。そして、東日本大震災、3.11でライフスタイルが大きく変わると指摘したが、前回のブログにも書いたが、現政権への不信は単なる自己防衛としての消費態度だけではなく、原発事故による放射能汚染に対し子どもを守れと、福島県のお母さん達の抗議デモが行われ、社会的な事件へと不信の舞台は大きく変化した。
この不信はどのようにつくられたのか、言わずもがなである。繰り返し公共CMとして放送された金子みすずの「こだまでしょうか」ではないが、「安全です」「健康被害にはすぐにはなりません」と繰り返しアナウンスされてきた。つまり「安全デマ」であったことが「レベル7」であるとの発表以降、続々と事実が明らかになってきたからだ。デマとは確かな根拠がない悪質なうわさや風評の類のことを指す。本来そうしたデマを払拭すべき政府自身が安全というデマをパニックを起こさないためという理由があったにせよ、意図的に流してきた。マスメディアもその安全デマのお先棒をかついできたということだ。

そして、今税と社会保障との一体改革に盛り込まれた消費税による増税、2015年までに10%まで引き上げると言う。いやその前に東日本大震災に対する第二次補正予算の財源のゆくえも重い負担となる可能性もある。よく消費心理が萎縮すると言われているが、それはこうした予測される増税に対する反面の真理であるが、1998年以降今なお収入は減り続けており、回復するメドは立ってはいない。先日政府発表があったが、生活保護世帯は増え続け、戦後最悪であった頃と同じレベルの200万世帯を超えたという。しかも、その増加の多くが20〜40代の働き盛りである。新しい産業が見出せないまま日本経済は収縮しつつある。

ところで、ある評論家に言わせると、戦後の高度成長期を経て1990年代半ばまでは「富の分配」時代であった。そして、今はと言えば、「負担の分配」時代に入ったという。こうした負担の波が押し寄せる時代にふさわしく国民総幸福量(GNH)といった価値概念が浸透しつつある。幸福は個人の内面世界であり、それぞれ異なると思われてきたが、あのブータンという小国で始まった国づくりの概念である。経済開発一辺倒の国づくりによって、自然環境が破壊されたり、ブータンの伝統文化が失われてしまっては、何の意味もないというのが、この国づく政策の精神である。

このブータンにおける国民総幸福量については、先日NHKの「クローズドアップ現代」にも取り上げられていたが、大震災のなかで家族や故郷を奪い去られてもなお、住民自らが避難所を作り、互いに何かを持ち寄って支え合い、助け合う共助の精神、一種の「自治」の概念にも通じる世界である。更にいうと、多くのボランティアが被災地に向かい、今も向かっているが、その精神は被災者の喜びを自らの喜びとしたい、そうしたことにもつながる価値概念である。物質的豊かさから一旦離れ、他人の喜びを我が喜びにする、そんな幸福世界へとライフスタイルは向かう。原発問題、エネルギー政策も、国民総幸福量のような概念も視野に入れた文脈で語られていくであろう。そして、その方向のなかに昨年後半の消費生活に出てきたシンプル主義や断捨離といった価値観もこうした幸福概念につながっている。(続く)  


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