2024年04月07日
◆マーケティングノート(2)後半
ヒット商品応援団日記No820(毎週更新) 2024.4,7.
街と共にある駅、その商業施設
「街と共にある駅」とは至極当たり前のことのように考えてしまうが、街の未来を生活者住民、商業者も行政も多くの力を借りて共に取り組んでいくということでもある。大船ルミネウイングも東口の再開発の中から生まれリニューアルしたように未来へ向けた変化の中心にはその多くに「駅」がある。
今都心の千代田区議会で秋葉原の再開発が議論されているが、秋葉原、いやアキバはその街の歴史・生業をものの見事に映し出した街である。現在のJR秋葉原北口一帯はその昔は神田青果市場であった。また、駅西口南側には「電気街」という表示が示すように戦後ラジオなどの電気部品などを販売する商店が雑居する街でもあった。
神田青果市場の歴史は古く江戸時代からの神田須田町にあった市場であったが、、1928年に秋葉原北口一帯に移転したが、更には1991年には現在の北口一帯の高層ビル群へと再開発によって変貌する。そして周知のように神田青果市場は大田区へと移転する。
こうした再開発は2001年秋葉原北口の神田青果市場の跡地を中心とした東京都によるITをテーマとした再開発事業が始まる。事業の正式名称は「AKIHABARA CROSSFIELD(アキハバラ クロスフィールド)」。名称の由来について、「様々な専門領域の人や情報が集うとともに、これらがクロスして切磋琢磨することで、ITを活用した次世代のビジネスを創造する場になることを目指した」と説明している。
JR秋葉原駅駅北口の超高層ビルUDXビルである。先端IT企業の誘致にふさわしく日本の大手企業であるNTTグループや新日鐵住金グルーパや日立グループといった企業が多数入居している。ところで、秋葉原は千代田区の中心となるエリアであるが、昼間人口・就業者数は約72.5万人、夜間人口はわずか4.7万人といういわばオフィスと商業街という「昼の街」である。
こうした再開発から外れた場所も駅周辺にはある。再開発が持つ一つの特徴であるが、まさに秋葉原駅北側の近代的な高層ビル群とは正反対の猥雑な街並が駅西側及び南側に広がっている。周知の電子部品や電気製品のパーツ、半導体、こうした電機関連商品を販売している専門店街。あるいはオタクの聖地と呼ばれるように、コミック、アニメ、フィギュアといった小さな専門店。数年前話題となったメイド喫茶も、こうしたごみごみとした一種猥雑な街並に溶け込んでいる。まるで地下都市であるかのように、ロースタイルと言ったら怒られるが定番のリュックサックを背負ったオタクやマニア、あるいは学生が行き交う街である。一方、駅北側の超高層ビルの1階にはオシャレなオープンカフェのあるキレイな街並が作られている。そんな異なる2つのエリアを比較してみると以下のように整理することができる。
駅北口エリア 駅西側エリア
○超高層ビル群/地球都市 ●アンダーグランド/地下都市
○IT先端企業、ソフト開発企業 ●電子部品、電気製品パーツ、半導体
○大型家電量販店/ヨドバシ ●電子部品販売中小零細街
○エリートサラリーマン・OL ●オタク、学生・フリーター・マニア
○オープンカフェ/風景 ●メイド喫茶/風俗
○最先端技術/デジタル世界 ●漫画、アニメ、フィギュア/アナログ世界
○エスニック料理 ●おでん缶詰の自販機
秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使って対比させてみた。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質な欲望が交差する街、実はそれが秋葉原の魅力である。
こうした異空間が交差する街は再開発によって起こる現象であり、例えば新宿西口の開発されたビル群との間JR硬貨横の思い出横町、吉祥寺駅北口の商業施設街とハモニカ横町、・・・・・こうした「今」と「昭和」が交差する場所は東京では当たり前の光景となっている。面白いのは「今」という再開発から外れた場所はどんな生き方があるのか、その典型的な場所が谷根千(谷中、千田き、根津)という戦災を免れた上野裏の地域で「昭和レトロ」をコンセプトにした観光地化である。
ところでこうした先端技術を駆使したIT関連企業と共に、戦後間もない頃のITと言えば、それはラジオであった。同じ電気製品といっても前者をデジタルとすれば後者はアナログである。JR秋葉原駅の西側高架下は電気街口となっており、今なおそうしたパーツなどのアナログ製品が所狭しと販売されている。
しかし、昨年11月末そうした部品商店街の一つである「秋葉原ラジオストアー」が閉館した。JR秋葉原駅に隣接し、電機パーツ・機器ショップが多く入居する秋葉原の顔の1つであったが、「1つの時代の役割を終える事にいたしました」と64年の歴史に幕を下ろした。その役割を終えたとは、日本の家電メーカーの衰退と共に、そうした電気パーツなどはネット通販で購入することが多くなり、皮肉にも同じIT技術によって幕が引かれたということである。それでもなお、秋葉原電気街はマニアックな技術系オタクの聖地であることには変わりはない。
秋葉原がアキバと呼ばれオタクの街として発展したもう一つの「出来事」がある。2005年アキバオタクから生まれたのがAKB48であった。秋葉原北口から数分歩いたところにある雑居ビルのドンキ・ホーテが入る8階に専用劇場を設け、「会いにいけるアイドル」というコンセプトをもってスタートする。アイドルはあこがれの存在で遠くで応援するのが従来のフアンであった。こうした「既成」とは異なるところからスタートするのだが、最初の公演の観客はわずか72人でその内ほとんどが関係者であったと言われている。結果、2008年頃まではアキバオタクのアイドルと冷笑され、そのフアンスタイルの特異性や過剰さばかりがマスメディアを通じて報道されていた。
秋葉原、アキバにはサブカルチャーを生み出す街、オタクにとってその過激なこだわりを満足させる「何か」が存在していた。そのオタクの街を大きく転換させたのがAKB48であった。
数年前まで誰も見向きもしなかった、冷笑すらされたAKB48は次第にブレークしていく。卒業した前田敦子を見てもわかるが、「会いに行けるアイドル」という、どこにでも居そうな身近でかわいい少女はオタク達が創った日常リアルなアイドル物語と言えよう。そして、日本ばかりでなく世界各国にAKB48同様のチームが誕生している。
バブル崩壊は純文学といった既成文化の崩壊を進めたが、アニメや漫画といったサブカルチャーはアキバの地でオタクたちによって育てられ今や一大産業となった。コロナ禍を終え訪日観光客が85%まで回復したと言われているが、観光先が地方や横町露地歌の日本交友の生活文化体験へと変化して入るが、サブカルチャーの聖地である秋葉原を訪れるアニメオタクは多い。
十数年前までは日本の食文化の代表的なものは寿司やすき焼きであったが、勿論今なお訪日外国人にとって人気はあるが、今やラーメンが中心となり、コンビニのおにぎりに至る日常食が抗日外国人の目的の一つとなっている。こうした広がりはアニメや漫画のサブカルと同じようにクールジャパン、クールフーズとなっている。それは訪日観光客の変化、回数化が進み日本の生活文化、日常生活への興味関心が進化し、当然その傾向は地方へと広がる。その広がり進化を促進させているのがいうまでもなくSNSによるものである。
「失われた30年」と言われるが、確かに失ったものは多くあるが、残ったもの、いや新たに生まれたものもあった。日本アニメ、漫画、AKB48それら全て「サブ」であり、極々一部、の指示された世界、それは「既成」から外れたもの、一見非合理に見えるもの、「オタク」によって生み出されたものだ。
以前ブログにバブル崩壊の時代の「消費」について、次のように書いたことがあった。
『1980年代を「特異な時代」としたのは、その後の消費における新しい、面白い、珍しい商品やサービスが数多く市場に誕生してきたことにある。江戸時代との比較でいうと、江戸っ子の心を掴むキーワードは「珍」「奇」「怪」で、珍しい、奇をてらった、秘密めいた怪しげなものに惹かれた。例えば、天ぷらであれば上方では魚のすり身を揚げていたが、江戸では切り身に衣をつけて揚げる。寿司で言えば、時間のかかる押し寿司ではなく、酢飯にネタを握って素早く食べるように。似て非なるものを創ったのである。
江戸の場合は上方をモデルに「珍」「奇」「怪」という工夫・アイディアを付与し創造したのに対し、バブル期は欧米のメニュー業態をモデルに日本的な業態に変えていったということである。例えば、日本マクドナルドの成長についても日本版マクドナルドであり、1980年代半ばマクドナルドのハンバーガーにはミミズが入っているという「噂」を根本から否定するために、それまでの米国レシピから「100%ビーフ」に変更した。日本マクドナルドというより創業者の意向が強く反映した「藤田マクドナルド」であった。 あるいはダスキンが行なっているミスタードーナツの場合も、米国との契約上レシピ変更は不可であったが、確か1980年代契約を変更し、日本独自のメニューが可能となった。その本格的な独自メニューが1992年の新商品「飲茶」で、後に大ヒットとなるポン・デ・リングに繋がる。 つまり、ある意味今までの既成メニューとは全く異なる「商品」が生まれたという点にある。こうした例は米国生まれのコンビニ・セブンイレブンも同様で、米国のメニューや業態とは全く異なる日本独自の小売業を確立したのも1980年~1990年代であった。江戸時代から続いてきた異なる地域・文化の取り入れ方の工夫ではなく、全く発想の異なる今まで無かった「新」が生まれた点にある。
その理由は何であったか、それはあらゆる面で「自由」であったということである。過去にとらわれない「自由」、冒険ができる「自由」、とことん面白がれる「自由」、目標という前もった成果からの「自由」、サントリーの創業精神「やってみなはれ」もそうした自由な企業風土から生まれたものだ。そうした風土に触発されて「自由」を自覚することもあるが、その基本は多くの「しがらみ」を自ら解き放つことによって得られる実感である。勿論、そのことによって生まれる困難さや失敗を含めてであるが。 一方、受け手である生活者・消費者においては、壁を作らない「自由」、性別・年齢という壁を超えた「自由」、価格からの「自由」(安くても好きであればいいじゃないか)、こうした自由な選択肢があった時代である。今や当たり前となったセレクトショップも団塊ジュニアが作ったものだが、中国製でも気に入ればそれでいいじゃないかという「自由」が生まれていた。
バブルから学ぶこと・・・・・・「自由」であった時代
1980年代を「特異な時代」としたのは、その後の消費における新しい、面白い、珍しい商品やサービスが数多く市場に誕生してきたことにある。江戸時代との比較でいうと、江戸っ子の心を掴むキーワードは「珍」「奇」「怪」で、珍しい、奇をてらった、秘密めいた怪しげなものに惹かれた。例えば、天ぷらであれば上方では魚のすり身を揚げていたが、江戸では切り身に衣をつけて揚げる。寿司で言えば、時間のかかる押し寿司ではなく、酢飯にネタを握って素早く食べるように。似て非なるものを創ったのである。
江戸の場合は上方をモデルに「珍」「奇」「怪」という工夫・アイディアを付与し創造したのに対し、バブル期は欧米のメニュー業態をモデルに日本的な業態に変えていったということである。例えば、日本マクドナルドの成長についても日本版マクドナルドであり、1980年代半ばマクドナルドのハンバーガーにはミミズが入っているという「噂」を根本から否定するために、それまでの米国レシピから「100%ビーフ」に変更した。日本マクドナルドというより創業者の意向が強く反映した「藤田マクドナルド」であった。 あるいはダスキンが行なっているミスタードーナツの場合も、米国との契約上レシピ変更は不可であったが、確か1980年代契約を変更し、日本独自のメニューが可能となった。その本格的な独自メニューが1992年の新商品「飲茶」で、後に大ヒットとなるポン・デ・リングに繋がる。 つまり、ある意味今までの既成メニューとは全く異なる「商品」が生まれたという点にある。こうした例は米国生まれのコンビニ・セブンイレブンも同様で、米国のメニューや業態とは全く異なる日本独自の小売業を確立したのも1980年~1990年代であった。江戸時代から続いてきた異なる地域・文化の取り入れ方の工夫ではなく、全く発想の異なる今まで無かった「新」が生まれた点にある。
その理由は何であったか、それはあらゆる面で「自由」であったということである。過去にとらわれない「自由」、冒険ができる「自由」、とことん面白がれる「自由」、目標という前もった成果からの「自由」、サントリーの創業精神「やってみなはれ」もそうした自由な企業風土から生まれたものだ。そうした風土に触発されて「自由」を自覚することもあるが、その基本は多くの「しがらみ」を自ら解き放つことによって得られる実感である。勿論、そのことによって生まれる困難さや失敗を含めてであるが。 一方、受け手である生活者・消費者においては、壁を作らない「自由」、性別・年齢という壁を超えた「自由」、価格からの「自由」(安くても好きであればいいじゃないか)、こうした自由な選択肢があった時代である。今や当たり前となったセレクトショップも団塊ジュニアが作ったものだが、中国製でも気に入ればそれでいいじゃないかという「自由」が生まれていた。
「自由」を面白がる時代へ
こうした「自由さ」は戦前の価値観からの解放と共に、映画「Always三丁目の夕日」に描かれていたように「豊かではなかったが、そこには夢や希望があった」、そんな夢や希望を持ち得たのが昭和という時代であった。そこには夢や希望を追いかける「自由」が横溢していた時代のことでもあった。企業も個人も、何事かを生み出す「創業」時代であったということだ。平成の時代になり、特に2000年代になり盛んにベンチャーが叫ばれてきたが、ほとんど結果は得られてはいない。数年前から、ベンチャーキャピタルのいくつかのフアンドによる試みが始まっているが、社会を動かす潮流には程遠い。 ところで「自由」というと勝手気儘なことのように思いがちであるが、実は真逆の世界である。結果は誰でもない自分自身に返ってくるもので、だから面白いと思える人によってのみ「自由」はある。 江戸元禄の世を「浮世」と呼んでいるが、実は自己責任は明確にあった。平和な江戸時代には五街道が整備され、一定の制限はあるもののお伊勢参りのように旅行が盛んであった。その際必要となったのが通行手形で居住する大家(町役人・村役人)に申請し発行してもらう仕組みであった。今日のパスポートと同じようなものだが、手形に書いてあるのが「旅先で死んでもあり合わせのところに埋めてください」「亡骸は送り戻す必要はありません」といった主旨の一文が記載されていた。つまり、生きるも死ぬも自分の判断、他人のせいにしない」ということが理解されていた社会であった。
こうした自由を面白がれるには、周囲も、社会も、時代も「前」「未来」に向いていることが必要であった。しかし、バブル崩壊後の30数年、多くの神話崩壊と共に企業・個人にのしかかる「不安」、広く社会に広がる「不安」を前に「自由」になれる環境には程遠かった。一言で言えば、繰り返し言われていることだが「将来不安」ということになる。消費を含めた心が向かう先は「内側」ということになる。しかも、「過去」へと遡る傾向を強めていく心理市場については過去何度となく書いているのでここでは省略する。
また、このブログでも繰り返し書いてきている家計調査報告を踏まえると、勤労者世帯収入が増えないばかりか、リーマンショック以降社会保険料が増え、手取り給与(可処分所得)は減るだけでなく、企業側も半分負担していることからその負担も大きい。「自由」を面白がる環境条件が更に満たされなくなってきている。これが将来不安に直接繋がり、雇用形態も非正規雇用が4割を超えた。
ただ昨年夏以降、ユニクロ柳井社長の言葉ではないが、「デフレもまた良いものではないか」という発言に見られるように、企業も、生活者も自ら「デフレ的なるもの」の世界観からは既に脱却している。そうしたことを踏まえデフレは日常化し、死語になったとブログにも書いた。バブル崩壊によって生まれた個々の「不安」は勿論残ってはいるものの、昭和と平成の世代比較において考えるならば、バブル崩壊という「不安」視座から「消費」を見れば、昭和世代は崩壊経験もあり「リアルなものとしての不安」であり、平成世代のそれは「漠とした不安」である。昭和世代にとっての不安は具体的であり解決もまた可能である。しかし、平成世代の方が不確かであるが故に問題は深刻であるということだ。 ただ、「自由」という視座を持って考えるとすれば、国や社会といった大きな単位における制度や環境作りではなく、もっと小さな単位、家庭やコミュニティ、あるいは企業の部署単位や団体単位で「自由」に取り組むことは可能である。
既成から「自由」である企業がどんな成果を上げてきたか、例えば非常識経営と言われた岐阜にある電気設備資材メーカーである未来工業があり、最近ではブログにも取り上げた24時間営業の立ち食いそば「富士そば」もある。両社共に「人」を大切に考えた経営者による企業であり、従業員もそれに応えた企業である。未来工業においては社員から様々なアイディアを募集し商品開発や作業改善に役立てている。富士そばにおいても店独自のメニュー開発を促進し、一味違う店作りを行なっている。どちらも社員の自由な創意工夫が経営に大きく貢献し、勿論その成果配分は言うまでもない。そんな経営の仕組みを持った企業である。
今回はバブルのマイナス面ばかりが指摘されてきた20数年であったことに対し。敢えて「バブル期に生まれた<新しさ>」の背景に「自由」があったということに着眼した。「失われた30年」という言葉で、ビジネスもマーケティングにおいても全てを切り捨ててきたが、1980年という特異な時代を読み解いていくと、そこにこれから「先」の着眼も見えてきたように思える。発想を変えてコトに向かう、これもまた「自由」のなせる技である。
世代論は好きではないが、多くの専門家は指摘するようにその消費のユニークさからZ世代に注目が集まっている。それはバブル崩壊の「意味」から離れたところに生活しているからに他ならない。新しいデジタル機器を使いこなし、団塊世代が育った時代社会、つまり昭和レトロに興味を持ち、その新しさをいとも簡単位取り入れる軽やか消費など、その上の世代が「離れ世代」と呼ばれた現象とは正反対である。
本年度のアカデミー賞で、日本の作品として初めて視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」。受賞した山崎貴監督(白組)はあの「Always三丁目の夕日」のCGを監督した人物で、今回の「ゴジラ-1.0」はZ世代が中心となって制作したように、この世代が消費のみならずビジネスにおいても表舞台へと出てきた。規制から「自由」な世代として期待される意味がよくわかる気がする。過剰な情報時代にも「倍速」という方法で乗り越える軽やか世代で有る。(続く)
街と共にある駅、その商業施設
「街と共にある駅」とは至極当たり前のことのように考えてしまうが、街の未来を生活者住民、商業者も行政も多くの力を借りて共に取り組んでいくということでもある。大船ルミネウイングも東口の再開発の中から生まれリニューアルしたように未来へ向けた変化の中心にはその多くに「駅」がある。
今都心の千代田区議会で秋葉原の再開発が議論されているが、秋葉原、いやアキバはその街の歴史・生業をものの見事に映し出した街である。現在のJR秋葉原北口一帯はその昔は神田青果市場であった。また、駅西口南側には「電気街」という表示が示すように戦後ラジオなどの電気部品などを販売する商店が雑居する街でもあった。
神田青果市場の歴史は古く江戸時代からの神田須田町にあった市場であったが、、1928年に秋葉原北口一帯に移転したが、更には1991年には現在の北口一帯の高層ビル群へと再開発によって変貌する。そして周知のように神田青果市場は大田区へと移転する。
こうした再開発は2001年秋葉原北口の神田青果市場の跡地を中心とした東京都によるITをテーマとした再開発事業が始まる。事業の正式名称は「AKIHABARA CROSSFIELD(アキハバラ クロスフィールド)」。名称の由来について、「様々な専門領域の人や情報が集うとともに、これらがクロスして切磋琢磨することで、ITを活用した次世代のビジネスを創造する場になることを目指した」と説明している。
JR秋葉原駅駅北口の超高層ビルUDXビルである。先端IT企業の誘致にふさわしく日本の大手企業であるNTTグループや新日鐵住金グルーパや日立グループといった企業が多数入居している。ところで、秋葉原は千代田区の中心となるエリアであるが、昼間人口・就業者数は約72.5万人、夜間人口はわずか4.7万人といういわばオフィスと商業街という「昼の街」である。
こうした再開発から外れた場所も駅周辺にはある。再開発が持つ一つの特徴であるが、まさに秋葉原駅北側の近代的な高層ビル群とは正反対の猥雑な街並が駅西側及び南側に広がっている。周知の電子部品や電気製品のパーツ、半導体、こうした電機関連商品を販売している専門店街。あるいはオタクの聖地と呼ばれるように、コミック、アニメ、フィギュアといった小さな専門店。数年前話題となったメイド喫茶も、こうしたごみごみとした一種猥雑な街並に溶け込んでいる。まるで地下都市であるかのように、ロースタイルと言ったら怒られるが定番のリュックサックを背負ったオタクやマニア、あるいは学生が行き交う街である。一方、駅北側の超高層ビルの1階にはオシャレなオープンカフェのあるキレイな街並が作られている。そんな異なる2つのエリアを比較してみると以下のように整理することができる。
駅北口エリア 駅西側エリア
○超高層ビル群/地球都市 ●アンダーグランド/地下都市
○IT先端企業、ソフト開発企業 ●電子部品、電気製品パーツ、半導体
○大型家電量販店/ヨドバシ ●電子部品販売中小零細街
○エリートサラリーマン・OL ●オタク、学生・フリーター・マニア
○オープンカフェ/風景 ●メイド喫茶/風俗
○最先端技術/デジタル世界 ●漫画、アニメ、フィギュア/アナログ世界
○エスニック料理 ●おでん缶詰の自販機
秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使って対比させてみた。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質な欲望が交差する街、実はそれが秋葉原の魅力である。
こうした異空間が交差する街は再開発によって起こる現象であり、例えば新宿西口の開発されたビル群との間JR硬貨横の思い出横町、吉祥寺駅北口の商業施設街とハモニカ横町、・・・・・こうした「今」と「昭和」が交差する場所は東京では当たり前の光景となっている。面白いのは「今」という再開発から外れた場所はどんな生き方があるのか、その典型的な場所が谷根千(谷中、千田き、根津)という戦災を免れた上野裏の地域で「昭和レトロ」をコンセプトにした観光地化である。
ところでこうした先端技術を駆使したIT関連企業と共に、戦後間もない頃のITと言えば、それはラジオであった。同じ電気製品といっても前者をデジタルとすれば後者はアナログである。JR秋葉原駅の西側高架下は電気街口となっており、今なおそうしたパーツなどのアナログ製品が所狭しと販売されている。
しかし、昨年11月末そうした部品商店街の一つである「秋葉原ラジオストアー」が閉館した。JR秋葉原駅に隣接し、電機パーツ・機器ショップが多く入居する秋葉原の顔の1つであったが、「1つの時代の役割を終える事にいたしました」と64年の歴史に幕を下ろした。その役割を終えたとは、日本の家電メーカーの衰退と共に、そうした電気パーツなどはネット通販で購入することが多くなり、皮肉にも同じIT技術によって幕が引かれたということである。それでもなお、秋葉原電気街はマニアックな技術系オタクの聖地であることには変わりはない。
秋葉原がアキバと呼ばれオタクの街として発展したもう一つの「出来事」がある。2005年アキバオタクから生まれたのがAKB48であった。秋葉原北口から数分歩いたところにある雑居ビルのドンキ・ホーテが入る8階に専用劇場を設け、「会いにいけるアイドル」というコンセプトをもってスタートする。アイドルはあこがれの存在で遠くで応援するのが従来のフアンであった。こうした「既成」とは異なるところからスタートするのだが、最初の公演の観客はわずか72人でその内ほとんどが関係者であったと言われている。結果、2008年頃まではアキバオタクのアイドルと冷笑され、そのフアンスタイルの特異性や過剰さばかりがマスメディアを通じて報道されていた。
秋葉原、アキバにはサブカルチャーを生み出す街、オタクにとってその過激なこだわりを満足させる「何か」が存在していた。そのオタクの街を大きく転換させたのがAKB48であった。
数年前まで誰も見向きもしなかった、冷笑すらされたAKB48は次第にブレークしていく。卒業した前田敦子を見てもわかるが、「会いに行けるアイドル」という、どこにでも居そうな身近でかわいい少女はオタク達が創った日常リアルなアイドル物語と言えよう。そして、日本ばかりでなく世界各国にAKB48同様のチームが誕生している。
バブル崩壊は純文学といった既成文化の崩壊を進めたが、アニメや漫画といったサブカルチャーはアキバの地でオタクたちによって育てられ今や一大産業となった。コロナ禍を終え訪日観光客が85%まで回復したと言われているが、観光先が地方や横町露地歌の日本交友の生活文化体験へと変化して入るが、サブカルチャーの聖地である秋葉原を訪れるアニメオタクは多い。
十数年前までは日本の食文化の代表的なものは寿司やすき焼きであったが、勿論今なお訪日外国人にとって人気はあるが、今やラーメンが中心となり、コンビニのおにぎりに至る日常食が抗日外国人の目的の一つとなっている。こうした広がりはアニメや漫画のサブカルと同じようにクールジャパン、クールフーズとなっている。それは訪日観光客の変化、回数化が進み日本の生活文化、日常生活への興味関心が進化し、当然その傾向は地方へと広がる。その広がり進化を促進させているのがいうまでもなくSNSによるものである。
「失われた30年」と言われるが、確かに失ったものは多くあるが、残ったもの、いや新たに生まれたものもあった。日本アニメ、漫画、AKB48それら全て「サブ」であり、極々一部、の指示された世界、それは「既成」から外れたもの、一見非合理に見えるもの、「オタク」によって生み出されたものだ。
以前ブログにバブル崩壊の時代の「消費」について、次のように書いたことがあった。
『1980年代を「特異な時代」としたのは、その後の消費における新しい、面白い、珍しい商品やサービスが数多く市場に誕生してきたことにある。江戸時代との比較でいうと、江戸っ子の心を掴むキーワードは「珍」「奇」「怪」で、珍しい、奇をてらった、秘密めいた怪しげなものに惹かれた。例えば、天ぷらであれば上方では魚のすり身を揚げていたが、江戸では切り身に衣をつけて揚げる。寿司で言えば、時間のかかる押し寿司ではなく、酢飯にネタを握って素早く食べるように。似て非なるものを創ったのである。
江戸の場合は上方をモデルに「珍」「奇」「怪」という工夫・アイディアを付与し創造したのに対し、バブル期は欧米のメニュー業態をモデルに日本的な業態に変えていったということである。例えば、日本マクドナルドの成長についても日本版マクドナルドであり、1980年代半ばマクドナルドのハンバーガーにはミミズが入っているという「噂」を根本から否定するために、それまでの米国レシピから「100%ビーフ」に変更した。日本マクドナルドというより創業者の意向が強く反映した「藤田マクドナルド」であった。 あるいはダスキンが行なっているミスタードーナツの場合も、米国との契約上レシピ変更は不可であったが、確か1980年代契約を変更し、日本独自のメニューが可能となった。その本格的な独自メニューが1992年の新商品「飲茶」で、後に大ヒットとなるポン・デ・リングに繋がる。 つまり、ある意味今までの既成メニューとは全く異なる「商品」が生まれたという点にある。こうした例は米国生まれのコンビニ・セブンイレブンも同様で、米国のメニューや業態とは全く異なる日本独自の小売業を確立したのも1980年~1990年代であった。江戸時代から続いてきた異なる地域・文化の取り入れ方の工夫ではなく、全く発想の異なる今まで無かった「新」が生まれた点にある。
その理由は何であったか、それはあらゆる面で「自由」であったということである。過去にとらわれない「自由」、冒険ができる「自由」、とことん面白がれる「自由」、目標という前もった成果からの「自由」、サントリーの創業精神「やってみなはれ」もそうした自由な企業風土から生まれたものだ。そうした風土に触発されて「自由」を自覚することもあるが、その基本は多くの「しがらみ」を自ら解き放つことによって得られる実感である。勿論、そのことによって生まれる困難さや失敗を含めてであるが。 一方、受け手である生活者・消費者においては、壁を作らない「自由」、性別・年齢という壁を超えた「自由」、価格からの「自由」(安くても好きであればいいじゃないか)、こうした自由な選択肢があった時代である。今や当たり前となったセレクトショップも団塊ジュニアが作ったものだが、中国製でも気に入ればそれでいいじゃないかという「自由」が生まれていた。
バブルから学ぶこと・・・・・・「自由」であった時代
1980年代を「特異な時代」としたのは、その後の消費における新しい、面白い、珍しい商品やサービスが数多く市場に誕生してきたことにある。江戸時代との比較でいうと、江戸っ子の心を掴むキーワードは「珍」「奇」「怪」で、珍しい、奇をてらった、秘密めいた怪しげなものに惹かれた。例えば、天ぷらであれば上方では魚のすり身を揚げていたが、江戸では切り身に衣をつけて揚げる。寿司で言えば、時間のかかる押し寿司ではなく、酢飯にネタを握って素早く食べるように。似て非なるものを創ったのである。
江戸の場合は上方をモデルに「珍」「奇」「怪」という工夫・アイディアを付与し創造したのに対し、バブル期は欧米のメニュー業態をモデルに日本的な業態に変えていったということである。例えば、日本マクドナルドの成長についても日本版マクドナルドであり、1980年代半ばマクドナルドのハンバーガーにはミミズが入っているという「噂」を根本から否定するために、それまでの米国レシピから「100%ビーフ」に変更した。日本マクドナルドというより創業者の意向が強く反映した「藤田マクドナルド」であった。 あるいはダスキンが行なっているミスタードーナツの場合も、米国との契約上レシピ変更は不可であったが、確か1980年代契約を変更し、日本独自のメニューが可能となった。その本格的な独自メニューが1992年の新商品「飲茶」で、後に大ヒットとなるポン・デ・リングに繋がる。 つまり、ある意味今までの既成メニューとは全く異なる「商品」が生まれたという点にある。こうした例は米国生まれのコンビニ・セブンイレブンも同様で、米国のメニューや業態とは全く異なる日本独自の小売業を確立したのも1980年~1990年代であった。江戸時代から続いてきた異なる地域・文化の取り入れ方の工夫ではなく、全く発想の異なる今まで無かった「新」が生まれた点にある。
その理由は何であったか、それはあらゆる面で「自由」であったということである。過去にとらわれない「自由」、冒険ができる「自由」、とことん面白がれる「自由」、目標という前もった成果からの「自由」、サントリーの創業精神「やってみなはれ」もそうした自由な企業風土から生まれたものだ。そうした風土に触発されて「自由」を自覚することもあるが、その基本は多くの「しがらみ」を自ら解き放つことによって得られる実感である。勿論、そのことによって生まれる困難さや失敗を含めてであるが。 一方、受け手である生活者・消費者においては、壁を作らない「自由」、性別・年齢という壁を超えた「自由」、価格からの「自由」(安くても好きであればいいじゃないか)、こうした自由な選択肢があった時代である。今や当たり前となったセレクトショップも団塊ジュニアが作ったものだが、中国製でも気に入ればそれでいいじゃないかという「自由」が生まれていた。
「自由」を面白がる時代へ
こうした「自由さ」は戦前の価値観からの解放と共に、映画「Always三丁目の夕日」に描かれていたように「豊かではなかったが、そこには夢や希望があった」、そんな夢や希望を持ち得たのが昭和という時代であった。そこには夢や希望を追いかける「自由」が横溢していた時代のことでもあった。企業も個人も、何事かを生み出す「創業」時代であったということだ。平成の時代になり、特に2000年代になり盛んにベンチャーが叫ばれてきたが、ほとんど結果は得られてはいない。数年前から、ベンチャーキャピタルのいくつかのフアンドによる試みが始まっているが、社会を動かす潮流には程遠い。 ところで「自由」というと勝手気儘なことのように思いがちであるが、実は真逆の世界である。結果は誰でもない自分自身に返ってくるもので、だから面白いと思える人によってのみ「自由」はある。 江戸元禄の世を「浮世」と呼んでいるが、実は自己責任は明確にあった。平和な江戸時代には五街道が整備され、一定の制限はあるもののお伊勢参りのように旅行が盛んであった。その際必要となったのが通行手形で居住する大家(町役人・村役人)に申請し発行してもらう仕組みであった。今日のパスポートと同じようなものだが、手形に書いてあるのが「旅先で死んでもあり合わせのところに埋めてください」「亡骸は送り戻す必要はありません」といった主旨の一文が記載されていた。つまり、生きるも死ぬも自分の判断、他人のせいにしない」ということが理解されていた社会であった。
こうした自由を面白がれるには、周囲も、社会も、時代も「前」「未来」に向いていることが必要であった。しかし、バブル崩壊後の30数年、多くの神話崩壊と共に企業・個人にのしかかる「不安」、広く社会に広がる「不安」を前に「自由」になれる環境には程遠かった。一言で言えば、繰り返し言われていることだが「将来不安」ということになる。消費を含めた心が向かう先は「内側」ということになる。しかも、「過去」へと遡る傾向を強めていく心理市場については過去何度となく書いているのでここでは省略する。
また、このブログでも繰り返し書いてきている家計調査報告を踏まえると、勤労者世帯収入が増えないばかりか、リーマンショック以降社会保険料が増え、手取り給与(可処分所得)は減るだけでなく、企業側も半分負担していることからその負担も大きい。「自由」を面白がる環境条件が更に満たされなくなってきている。これが将来不安に直接繋がり、雇用形態も非正規雇用が4割を超えた。
ただ昨年夏以降、ユニクロ柳井社長の言葉ではないが、「デフレもまた良いものではないか」という発言に見られるように、企業も、生活者も自ら「デフレ的なるもの」の世界観からは既に脱却している。そうしたことを踏まえデフレは日常化し、死語になったとブログにも書いた。バブル崩壊によって生まれた個々の「不安」は勿論残ってはいるものの、昭和と平成の世代比較において考えるならば、バブル崩壊という「不安」視座から「消費」を見れば、昭和世代は崩壊経験もあり「リアルなものとしての不安」であり、平成世代のそれは「漠とした不安」である。昭和世代にとっての不安は具体的であり解決もまた可能である。しかし、平成世代の方が不確かであるが故に問題は深刻であるということだ。 ただ、「自由」という視座を持って考えるとすれば、国や社会といった大きな単位における制度や環境作りではなく、もっと小さな単位、家庭やコミュニティ、あるいは企業の部署単位や団体単位で「自由」に取り組むことは可能である。
既成から「自由」である企業がどんな成果を上げてきたか、例えば非常識経営と言われた岐阜にある電気設備資材メーカーである未来工業があり、最近ではブログにも取り上げた24時間営業の立ち食いそば「富士そば」もある。両社共に「人」を大切に考えた経営者による企業であり、従業員もそれに応えた企業である。未来工業においては社員から様々なアイディアを募集し商品開発や作業改善に役立てている。富士そばにおいても店独自のメニュー開発を促進し、一味違う店作りを行なっている。どちらも社員の自由な創意工夫が経営に大きく貢献し、勿論その成果配分は言うまでもない。そんな経営の仕組みを持った企業である。
今回はバブルのマイナス面ばかりが指摘されてきた20数年であったことに対し。敢えて「バブル期に生まれた<新しさ>」の背景に「自由」があったということに着眼した。「失われた30年」という言葉で、ビジネスもマーケティングにおいても全てを切り捨ててきたが、1980年という特異な時代を読み解いていくと、そこにこれから「先」の着眼も見えてきたように思える。発想を変えてコトに向かう、これもまた「自由」のなせる技である。
世代論は好きではないが、多くの専門家は指摘するようにその消費のユニークさからZ世代に注目が集まっている。それはバブル崩壊の「意味」から離れたところに生活しているからに他ならない。新しいデジタル機器を使いこなし、団塊世代が育った時代社会、つまり昭和レトロに興味を持ち、その新しさをいとも簡単位取り入れる軽やか消費など、その上の世代が「離れ世代」と呼ばれた現象とは正反対である。
本年度のアカデミー賞で、日本の作品として初めて視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」。受賞した山崎貴監督(白組)はあの「Always三丁目の夕日」のCGを監督した人物で、今回の「ゴジラ-1.0」はZ世代が中心となって制作したように、この世代が消費のみならずビジネスにおいても表舞台へと出てきた。規制から「自由」な世代として期待される意味がよくわかる気がする。過剰な情報時代にも「倍速」という方法で乗り越える軽やか世代で有る。(続く)
タグ :マーケティング
2024年04月03日
◆マーケティング・ノート(2)前半
今日の停滞する経済のスタートがバブル崩壊であり、その精算、見直しが中途半端な形で今日に至っているというのが私のバブル認識である。私のマーケティング課題の認識も当然変わり、新たなテーマに取り組んだことは言うまでない。
ところで今回のブログのタイトルとして「マーケティングの旅」としたが、「過去」に遡っての体験だけでなく、その当時の認識と「今」という時代認識を重ね合わせたブログでもあり、そうした意味を含め旅ではなく、ノート「マーケティング・ノート」とした。その変化体験の前に「バブル経済」とは何か、「何」が崩壊したのかを確認しておくこととする。
ヒット商品応援団日記No820(毎週更新) 2024.4,3
「
バブル崩壊は1991年の大蔵省による「土地関連融資の抑制について」(総量規制)に加えて、日本銀行による金融引き締めに端を発する信用崩壊であった。こうした政府・日銀のバブル潰し=加熱した投機マネーの変化は少し前からその兆候を見せていた。株式市場においては1989年の大納会(12月29日)に終値の最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、湾岸危機と原油高や公定歩合の急激な引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。こうした状況に追い討ちをかけたのが総量規制であった。
1980年代後半「過剰さ」はオタクだけでなく、狭い国土の日本では土地価格は上がっても下がることはない、そんな不動産神話は企業ばかりか個人にまで広く行き渡り、銀行も個人融資を積極的に行った時代であった。そして、バブル経済が崩壊した結果、日本全体の土地資産額は、1990-2002年で1000兆円減少。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1400兆円とされている。
実はバブル崩壊の影響が企業における経済活動だけであれば、その復活もまた可能かもしれない。しかし、当たり前のことであるが、生活者個々の生活に直接・間接にわたる影響は、極論ではあるが「今尚続いている」と考えている。住宅ローン破綻など数値に現れている影響についてはわかりやすいが、心理的なものについてはほとんで分析されたことがない。そこでバブル前後の社会現象を比較すると以下となる
<着目すべきバブル期の主な社会現象>
1981年 映画「機動戦士ガンダム」 田中康夫「なんとなく、クリスタル」 川久保玲、山本耀司パリコレ進出 1982年 西武百貨店「おいしい生活」キャンペーン 1983年 東京ディズニーランド開園 「無印良品」青山1号店オープン 1984年 「チケットぴあ」営業開始 マハラジャ 麻布十番」オープン 1985年 「ゆうやけニャンニャン」放送開始 「8時だよ! 全員集合」放送終了 「ビックリマンチョコ」販売開始 「男女雇用機会均等法」施行 1986年 「岡田有希子」自殺、後追い自殺多発 1987年 「ビックリマンチョコ」大ブーム 1988年 「Hanako」創刊、「平凡パンチ」休刊 1989年 「株価3万八千円超え」 *消費税3%導入 1991年 バブル崩壊
<着目すべきバブル崩壊後10年の主な社会現象>
1992年 残業がなくなり「父帰る」が話題
就職氷河期が始まる
1993年以降 流通の売り上げに影響が出てくる
1994年には一世を風靡したジュリアナ東京も閉店
1995年以降 「デフレ」というキーワードと共に
吉野家、マクドナルド、ユニクロ(御三家)が注目
1997年拓銀が経営破綻
山一証券破綻
*消費税5%導入 以降デフレが加速する
なおバブル崩壊が庶民に与えた影響を描いた著書である 「ホームレス中学生」が225万部を売り上げる。
デフレにはバブル崩壊が今なお底流している
一言で言うならばそれまでの「豊かさ」の意味合いを再度考える時間が続いている。それは「投機」に対する考え方に現れており、極論ではあるがバブル期お金がお金を過剰に産む投機経験をしてきたことによる。一定の投資に対するリターンではなく、何倍何十倍にも変換できる「投機」は是としないということである。これは欧米のような保有資産を株式で持つのではなく、いわゆるリターンの少ない貯金のままであるのはこうした理由からである。0金利時代にあっても預貯金比率が高いのはこうした理由からである。いくら政府日銀が株価を高くし個人投資家の投資を期待しても活況を見せないのもこうした背景からである。バブル崩壊という経験は単なる世界経済の変動、例えば2008年のリーマンショックが与えた影響どころではない。「単なる」という形容詞をつけたのも、バブル崩壊は多くの生活者の「生活・経済」を変えただけでなく、ある意味「人生」を変えた転換であったということだ。つまり、人生観をも変えたということである。
神話とは「こころ」のなせるものである。情緒的な表現になるが、神話崩壊とは「こころ」が壊れてしまったということだ。この崩壊を直接経験したのがバブル世代・新人類を中心に団塊世代という消費の中心世代であった。更にいうならば、団塊ジュニアは1990年代初頭の第一次就職氷河期を経験し、新人類の子供達の一部は家庭崩壊に陥り、更に子供の一部は都市漂流民となった。1980年代新人類の結婚観を「成田離婚」とネーミングされ話題となったが、実はこの世代以降離婚率が増加する。つまり、シングルマザーが増加するということである。こうした社会現象が生まれた背景の一つ、いや中心にバブル崩壊があり、それは消費においても「デフレマインド形成」へとつながっている。 団塊世代が多くの金融資産を持ちながら、子供や孫にはお金を使ってもそれ以上は使わない。新人類世代も高齢社会の只中にいて、両親の介護に没頭し、1980年代の頃のような「自由な行動」「自由な消費」に向かうことができない状況だ。 彼ら世代の子供達もまた、間接的にバブル崩壊を経験しており、その価値観の根底には「冒険」より「安定」、「消費」より「貯蓄」、といった内向き傾向となり、デフレマインドに繋がっていく。
1993年消費に大きな変化が出始める
1990年代に入り主な仕事の一つが「流通」に関するものであった。担当していたクライアントであるSC(ショッピングセンター)の売り上げが激減する。その現象は数%ではなく、その多くは二桁、20数%のSCも出てきた。出店するテナント・専門店の経営もさることながらデベロッパーの賃料経営も厳しくなる。そのデベロッパーの依頼からであるが、その売り上げを分析してわかったことは消費価値観が変わったということであった。単なる景気の良し悪しといったことではなく、何が売れ、何が売れないか、その業種や価格帯に共通した「変化」が現れていた。そうした分析結果をまとめたのがt次の図である。
生活は継続が基本であり、しかし取り入れやすい方向、より小さく、より日常消費へと向っていく。小さなことの第一は小さな価格であり、デフレへとストレートにつながる。また、日常に向かうとはカジュアルで構えない消費、となる。こうしたデフレ消費の代表として吉野家、マクドナルド、ユニクロが挙げられた。
それまでの興味あを入り口とした断絶する昭和マーケットと平成マーケット
バブル崩壊とは直接影響を受けない平成世代による消費市場はどうかと言えば、数年前のキーワード「草食男子・肉食女子」という構図が如実に表している。かなり前のブログになるが、この世代について次のようにブログに書いたことがあった。 『本来であれば欲望むき出しのアニマル世代(under30)は草食世代と呼ばれ、肉食女子、女子会という消費牽引役の女性達も、境目を軽々と超えてしまう「オヤジギャル」の迫力には遠く及ばない。私が以前ネーミングしたのが「20歳の老人」であったが、達観、諦観、という言葉が似合う世代である。消費の現象面では「離れ世代」と呼べるであろう。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たない、欲望を喪失しているかのように見える世代である。唯一離さないのが携帯をはじめとした「コミュニケーションツールや場」である。「新語・流行語大賞」のTOP10に入った「~なう」というツイッター用語に見られる常時接続世界もこの世代の特徴であるが、これも深い関係を結ぶための接続ではなく、私が「だよね世代」と名付けたように軽い相づちを打つようなそんな関係である。例えば、居酒屋にも行くが、酔うためではなく、人との関係を結ぶ軽いつきあいとしてである。だから、今や居酒屋のドリンクメニューの中心はノンアルコールドリンクになろうとしている。』
あまり世代論に偏ってはいけないが、バブル期、バブル崩壊に直接間接関わった世代における価値観とは根底から異なることが分かるであろう。「デフレ」という言葉はデフレ経済のそれであって、今や多様な使われ方をしているが、新人類を始めバブル(崩壊)経験世代にとってはデフレマインドは消費心理の底流としてあるが、このunder30(確か10年ほど前に日経新聞が特集を組みネーミングした)はデフレとは無縁なマーケットとしてある。私は「欲望喪失世代」との表現をしたが、それは団塊世代や新人類との比較においてであって、under30にとってはこれが普通の消費感覚となっている。つまり、全く異なる価値観のマーケットが存在しているということである。こうした一般論としてバブルを語ることができないZ世代と同じである。
1997年11月
バブル崩壊後その崩壊の象徴とも呼べる企業破綻が11月に起きた。周知の山一証券の破綻・廃業である。不動産神話の崩壊に続く破綻することはないとした金融神話の崩壊である。実はちょうど同じ時期に北海道拓殖銀行も破綻する。バブル崩壊への対策として「顧客満足」というキーワードに沿って札幌の専門店さん(札専塾)と勉強会を行っていた。勤務先ジャパンライフデザインシシテムズの代表であった谷口氏と共に11月17日午後札幌市内の会議室で勉強会を行い、その後破綻発表のあった拓銀の定山渓にあった保養所で食事をした。参加された専門店の多くはメインバンクが拓銀で今後どんな取引となるか話題は破綻の話ばかりであった。いつもならば満室となある保養所は私たち札専塾のメンバーだけで広い館内は閑散としていたことを鮮明に覚えている。
リニューアルの時代を迎える
バブル崩壊は個人の消費変化に応えるように企業もまた変わっていくことが急務となった。1900年代半ば以降バブル崩壊による急激な売り上げ減少への対応、いわゆる「りニューアル」である。まずは私自信の実体験からのリニューアルを取り上げてみたいが、その最初に取り組んだのが大船ルミネウイングであった。ウイングという名前がついているのは大船駅東口の再開発に京浜急行も参加していることによる。
東京郊外の神奈川の駅ビルであるがJR東海道本線、JR湘南新宿ライン、JR横須賀線、JR根岸線、湘南モノレールが直結する商業施設である。シニア世代にとっては松竹大船撮影所のある駅である。『男はつらいよ』シリーズなど多くの作品が制作されたが、現在は閉館されており、公園となっている。
過不足調査から始める
その調査は大きくは「売り上げ分析」と駅東側にある商業施設の分析によってリニューアルのコンセプトを探った。バブル崩壊が消費を大きく落としたのは全体としては客数減少に現れていた。
そうした減少を踏まえ、個々の専門店の売り上げ分析として次のとうな特徴が、見られた
・例えばユニクロの落ち込みは小さかったが、若い世代のファッションブランドであるセシルマクビーは大きく売り上げを落としていた。周知のように渋谷109を代表する人気ブランドであったが、後に退店することとなる。宝飾品など高価格帯の専門店は売り上げを落としていたが、ユニクロなどを除き落ち込みは客数減少によるものであった。また、大船駅利用者には周知のことであるが、湘南モノレール到着ホームからJR線のホームへは館内を通っていくのだが、その導線上の通路には小さな食品専門店があり、客数減による大きな落ち込むはなかった。
・もう一つの過不足調査は大船ルミネウイングを中心とした市場調査である。大きくは西口のバスターミナルにはほとんど松魚施設はなく東口にイトーヨーカドーを中心に昔ながらのいわゆる商店が密集し近隣の生活者はこの東口にある商品で買い物がなされていた。湘南モノレールや西口バスターミナル利用者はこの東口商店街を利用することは極めて少なかった。生鮮三品を始め日常使用の商品については業種としては充足してはいたが、生活を彩る新しさ、珍しさ、楽しさはほとんどなく、横浜や都心の商業施設で買い求めるといった消費行動が多く見られた。つまり、デフレの騎手と呼ばれるユニクロですら売り上げを落とし、東口にある青果を扱う市場の賑わいもバブル前と比較して少ないいということは単なる景気悪化対応では無いということだ。勿論、東口の商店街歩きをする中で、地元顧客に愛されている商店もある。その代表であるとおもうが、駅から数分のところにある鎌倉食堂なんかはその代表であろう、食堂の定番であるアジフライ定食を思い出す。こうした事例もあrったが、新しいコンセプトによるリニューアルが必要であるというのが過不足調査の結論であった。
新たな取り組み
こうした売り上げや市場から見ることができる消費の「過不足」と共に大船ルミネウイングの長年の課題の一つに東側地下350坪の活用があった。当時はデッドスペースとしてゲームセンターにしており、ゲーム好きの中高生の利用でしかなかった。駅東口の階段下の横からしか入れない構造となっており、その活用が待たれていた。
そこで上記過不足調査の結果を踏まえたリニューアルプランを立てることとなった。350坪という面積は一つの「ライフスタイル」を提供できるものであり、横浜や都心の商業施設を利用しなくても地元、大船でも利用できるプランとして。勿論、ライフスタイルを実感できるものの第一は「食」であり、都市がもつ新しさ、珍しさ、面白さのある賑わいである。そのためには湘南モノレールの2FホームからB1Fの350坪までの新たな銅線をエスカレーターによって作る、そんな着眼であった。そのためにはどれだけ魅力あるライフスタイルをMDとして編集できるかであった。当時所属していた会社にはテナントリーシングの機能を持たなかったので、コンセプトプランとして提案した。その概要として以下のとおりであった。
■ 「食」の中心として例えば「ザ・ガーデン」や「クイーンズ伊勢丹」を置き、生鮮3品については例えば鮮魚であれば「魚力」 さらには惣菜を充実させるためにRF1や柿安ダイニングなどを組み合わせる。勿論、デベロッパーの方針からあテナント誘致が行われrのだが、この「食」の充実戦略は変わってはいない。
■既に書いたようにいわゆるブランド専門店ではなく、日常利用ではあるが小洒落たリーズナブルはあ専門店を誘致し、傾向として生活雑貨的なMD専門店が多く編集された。
結果、リニューアル前と比較しどんな変化を創出できたかと言えば、
<それまでのブランド専門店を集めたファッションビルから、日常生活の中心となる食品や生活雑貨を中心とした新しいライフスタイルを集積したSCへの転換であり、業種別の売り上げ構成を大きく変えたリニューアル。と言えよう。勿論、日常利用、来館頻度が増え消費額が増えたことは言うまでもない。>
こうしたリニューアル計画は近隣のJRによSCへとつながっており、茅ヶ崎ルミネや浜松メイワン、京急上大岡ウイングへとリニューアルは広がった。更にはヒルトップガーデン(現目黒アトレ)も駅に隣接した隣のビルを借り受けることが可能となったことからリニューアルの原型の一つが出来上がったと言えよう。その目黒のリニューアル担当者は「今までのリニューアルにおけるMDは全てファッション専門店の組み合わせ編集であったが、食品を中心としたライフスタイルMDによる提案はほとんどなかった」と話していたことを思い出す。勿論リニューアっる前の売り上げに対し30%のアップであった。
こうした転換の背景には「ルミネ」は「パルコ」という先進的な商業施設を一つのモデルとしていたこともあり、新しさや珍しさ、面白さがファッションという文化価値に偏りすぎていたことからの脱却であったと言えよう。(津副)」
ところで今回のブログのタイトルとして「マーケティングの旅」としたが、「過去」に遡っての体験だけでなく、その当時の認識と「今」という時代認識を重ね合わせたブログでもあり、そうした意味を含め旅ではなく、ノート「マーケティング・ノート」とした。その変化体験の前に「バブル経済」とは何か、「何」が崩壊したのかを確認しておくこととする。
ヒット商品応援団日記No820(毎週更新) 2024.4,3
「
激変の時代へ」
バブルとその崩壊
流通に現れた消費変化、
元禄と昭和その成熟消費文化
過剰からデフレへ、失われた30年へ
崩壊への歴史的経過バブルとその崩壊
流通に現れた消費変化、
元禄と昭和その成熟消費文化
過剰からデフレへ、失われた30年へ
バブル崩壊は1991年の大蔵省による「土地関連融資の抑制について」(総量規制)に加えて、日本銀行による金融引き締めに端を発する信用崩壊であった。こうした政府・日銀のバブル潰し=加熱した投機マネーの変化は少し前からその兆候を見せていた。株式市場においては1989年の大納会(12月29日)に終値の最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、湾岸危機と原油高や公定歩合の急激な引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。こうした状況に追い討ちをかけたのが総量規制であった。
1980年代後半「過剰さ」はオタクだけでなく、狭い国土の日本では土地価格は上がっても下がることはない、そんな不動産神話は企業ばかりか個人にまで広く行き渡り、銀行も個人融資を積極的に行った時代であった。そして、バブル経済が崩壊した結果、日本全体の土地資産額は、1990-2002年で1000兆円減少。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1400兆円とされている。
実はバブル崩壊の影響が企業における経済活動だけであれば、その復活もまた可能かもしれない。しかし、当たり前のことであるが、生活者個々の生活に直接・間接にわたる影響は、極論ではあるが「今尚続いている」と考えている。住宅ローン破綻など数値に現れている影響についてはわかりやすいが、心理的なものについてはほとんで分析されたことがない。そこでバブル前後の社会現象を比較すると以下となる
<着目すべきバブル期の主な社会現象>
1981年 映画「機動戦士ガンダム」 田中康夫「なんとなく、クリスタル」 川久保玲、山本耀司パリコレ進出 1982年 西武百貨店「おいしい生活」キャンペーン 1983年 東京ディズニーランド開園 「無印良品」青山1号店オープン 1984年 「チケットぴあ」営業開始 マハラジャ 麻布十番」オープン 1985年 「ゆうやけニャンニャン」放送開始 「8時だよ! 全員集合」放送終了 「ビックリマンチョコ」販売開始 「男女雇用機会均等法」施行 1986年 「岡田有希子」自殺、後追い自殺多発 1987年 「ビックリマンチョコ」大ブーム 1988年 「Hanako」創刊、「平凡パンチ」休刊 1989年 「株価3万八千円超え」 *消費税3%導入 1991年 バブル崩壊
<着目すべきバブル崩壊後10年の主な社会現象>
1992年 残業がなくなり「父帰る」が話題
就職氷河期が始まる
1993年以降 流通の売り上げに影響が出てくる
1994年には一世を風靡したジュリアナ東京も閉店
1995年以降 「デフレ」というキーワードと共に
吉野家、マクドナルド、ユニクロ(御三家)が注目
1997年拓銀が経営破綻
山一証券破綻
*消費税5%導入 以降デフレが加速する
なおバブル崩壊が庶民に与えた影響を描いた著書である 「ホームレス中学生」が225万部を売り上げる。
デフレにはバブル崩壊が今なお底流している
一言で言うならばそれまでの「豊かさ」の意味合いを再度考える時間が続いている。それは「投機」に対する考え方に現れており、極論ではあるがバブル期お金がお金を過剰に産む投機経験をしてきたことによる。一定の投資に対するリターンではなく、何倍何十倍にも変換できる「投機」は是としないということである。これは欧米のような保有資産を株式で持つのではなく、いわゆるリターンの少ない貯金のままであるのはこうした理由からである。0金利時代にあっても預貯金比率が高いのはこうした理由からである。いくら政府日銀が株価を高くし個人投資家の投資を期待しても活況を見せないのもこうした背景からである。バブル崩壊という経験は単なる世界経済の変動、例えば2008年のリーマンショックが与えた影響どころではない。「単なる」という形容詞をつけたのも、バブル崩壊は多くの生活者の「生活・経済」を変えただけでなく、ある意味「人生」を変えた転換であったということだ。つまり、人生観をも変えたということである。
神話とは「こころ」のなせるものである。情緒的な表現になるが、神話崩壊とは「こころ」が壊れてしまったということだ。この崩壊を直接経験したのがバブル世代・新人類を中心に団塊世代という消費の中心世代であった。更にいうならば、団塊ジュニアは1990年代初頭の第一次就職氷河期を経験し、新人類の子供達の一部は家庭崩壊に陥り、更に子供の一部は都市漂流民となった。1980年代新人類の結婚観を「成田離婚」とネーミングされ話題となったが、実はこの世代以降離婚率が増加する。つまり、シングルマザーが増加するということである。こうした社会現象が生まれた背景の一つ、いや中心にバブル崩壊があり、それは消費においても「デフレマインド形成」へとつながっている。 団塊世代が多くの金融資産を持ちながら、子供や孫にはお金を使ってもそれ以上は使わない。新人類世代も高齢社会の只中にいて、両親の介護に没頭し、1980年代の頃のような「自由な行動」「自由な消費」に向かうことができない状況だ。 彼ら世代の子供達もまた、間接的にバブル崩壊を経験しており、その価値観の根底には「冒険」より「安定」、「消費」より「貯蓄」、といった内向き傾向となり、デフレマインドに繋がっていく。
1993年消費に大きな変化が出始める
1990年代に入り主な仕事の一つが「流通」に関するものであった。担当していたクライアントであるSC(ショッピングセンター)の売り上げが激減する。その現象は数%ではなく、その多くは二桁、20数%のSCも出てきた。出店するテナント・専門店の経営もさることながらデベロッパーの賃料経営も厳しくなる。そのデベロッパーの依頼からであるが、その売り上げを分析してわかったことは消費価値観が変わったということであった。単なる景気の良し悪しといったことではなく、何が売れ、何が売れないか、その業種や価格帯に共通した「変化」が現れていた。そうした分析結果をまとめたのがt次の図である。
生活は継続が基本であり、しかし取り入れやすい方向、より小さく、より日常消費へと向っていく。小さなことの第一は小さな価格であり、デフレへとストレートにつながる。また、日常に向かうとはカジュアルで構えない消費、となる。こうしたデフレ消費の代表として吉野家、マクドナルド、ユニクロが挙げられた。
それまでの興味あを入り口とした断絶する昭和マーケットと平成マーケット
バブル崩壊とは直接影響を受けない平成世代による消費市場はどうかと言えば、数年前のキーワード「草食男子・肉食女子」という構図が如実に表している。かなり前のブログになるが、この世代について次のようにブログに書いたことがあった。 『本来であれば欲望むき出しのアニマル世代(under30)は草食世代と呼ばれ、肉食女子、女子会という消費牽引役の女性達も、境目を軽々と超えてしまう「オヤジギャル」の迫力には遠く及ばない。私が以前ネーミングしたのが「20歳の老人」であったが、達観、諦観、という言葉が似合う世代である。消費の現象面では「離れ世代」と呼べるであろう。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たない、欲望を喪失しているかのように見える世代である。唯一離さないのが携帯をはじめとした「コミュニケーションツールや場」である。「新語・流行語大賞」のTOP10に入った「~なう」というツイッター用語に見られる常時接続世界もこの世代の特徴であるが、これも深い関係を結ぶための接続ではなく、私が「だよね世代」と名付けたように軽い相づちを打つようなそんな関係である。例えば、居酒屋にも行くが、酔うためではなく、人との関係を結ぶ軽いつきあいとしてである。だから、今や居酒屋のドリンクメニューの中心はノンアルコールドリンクになろうとしている。』
あまり世代論に偏ってはいけないが、バブル期、バブル崩壊に直接間接関わった世代における価値観とは根底から異なることが分かるであろう。「デフレ」という言葉はデフレ経済のそれであって、今や多様な使われ方をしているが、新人類を始めバブル(崩壊)経験世代にとってはデフレマインドは消費心理の底流としてあるが、このunder30(確か10年ほど前に日経新聞が特集を組みネーミングした)はデフレとは無縁なマーケットとしてある。私は「欲望喪失世代」との表現をしたが、それは団塊世代や新人類との比較においてであって、under30にとってはこれが普通の消費感覚となっている。つまり、全く異なる価値観のマーケットが存在しているということである。こうした一般論としてバブルを語ることができないZ世代と同じである。
1997年11月
バブル崩壊後その崩壊の象徴とも呼べる企業破綻が11月に起きた。周知の山一証券の破綻・廃業である。不動産神話の崩壊に続く破綻することはないとした金融神話の崩壊である。実はちょうど同じ時期に北海道拓殖銀行も破綻する。バブル崩壊への対策として「顧客満足」というキーワードに沿って札幌の専門店さん(札専塾)と勉強会を行っていた。勤務先ジャパンライフデザインシシテムズの代表であった谷口氏と共に11月17日午後札幌市内の会議室で勉強会を行い、その後破綻発表のあった拓銀の定山渓にあった保養所で食事をした。参加された専門店の多くはメインバンクが拓銀で今後どんな取引となるか話題は破綻の話ばかりであった。いつもならば満室となある保養所は私たち札専塾のメンバーだけで広い館内は閑散としていたことを鮮明に覚えている。
リニューアルの時代を迎える
バブル崩壊は個人の消費変化に応えるように企業もまた変わっていくことが急務となった。1900年代半ば以降バブル崩壊による急激な売り上げ減少への対応、いわゆる「りニューアル」である。まずは私自信の実体験からのリニューアルを取り上げてみたいが、その最初に取り組んだのが大船ルミネウイングであった。ウイングという名前がついているのは大船駅東口の再開発に京浜急行も参加していることによる。
東京郊外の神奈川の駅ビルであるがJR東海道本線、JR湘南新宿ライン、JR横須賀線、JR根岸線、湘南モノレールが直結する商業施設である。シニア世代にとっては松竹大船撮影所のある駅である。『男はつらいよ』シリーズなど多くの作品が制作されたが、現在は閉館されており、公園となっている。
過不足調査から始める
その調査は大きくは「売り上げ分析」と駅東側にある商業施設の分析によってリニューアルのコンセプトを探った。バブル崩壊が消費を大きく落としたのは全体としては客数減少に現れていた。
そうした減少を踏まえ、個々の専門店の売り上げ分析として次のとうな特徴が、見られた
・例えばユニクロの落ち込みは小さかったが、若い世代のファッションブランドであるセシルマクビーは大きく売り上げを落としていた。周知のように渋谷109を代表する人気ブランドであったが、後に退店することとなる。宝飾品など高価格帯の専門店は売り上げを落としていたが、ユニクロなどを除き落ち込みは客数減少によるものであった。また、大船駅利用者には周知のことであるが、湘南モノレール到着ホームからJR線のホームへは館内を通っていくのだが、その導線上の通路には小さな食品専門店があり、客数減による大きな落ち込むはなかった。
・もう一つの過不足調査は大船ルミネウイングを中心とした市場調査である。大きくは西口のバスターミナルにはほとんど松魚施設はなく東口にイトーヨーカドーを中心に昔ながらのいわゆる商店が密集し近隣の生活者はこの東口にある商品で買い物がなされていた。湘南モノレールや西口バスターミナル利用者はこの東口商店街を利用することは極めて少なかった。生鮮三品を始め日常使用の商品については業種としては充足してはいたが、生活を彩る新しさ、珍しさ、楽しさはほとんどなく、横浜や都心の商業施設で買い求めるといった消費行動が多く見られた。つまり、デフレの騎手と呼ばれるユニクロですら売り上げを落とし、東口にある青果を扱う市場の賑わいもバブル前と比較して少ないいということは単なる景気悪化対応では無いということだ。勿論、東口の商店街歩きをする中で、地元顧客に愛されている商店もある。その代表であるとおもうが、駅から数分のところにある鎌倉食堂なんかはその代表であろう、食堂の定番であるアジフライ定食を思い出す。こうした事例もあrったが、新しいコンセプトによるリニューアルが必要であるというのが過不足調査の結論であった。
新たな取り組み
こうした売り上げや市場から見ることができる消費の「過不足」と共に大船ルミネウイングの長年の課題の一つに東側地下350坪の活用があった。当時はデッドスペースとしてゲームセンターにしており、ゲーム好きの中高生の利用でしかなかった。駅東口の階段下の横からしか入れない構造となっており、その活用が待たれていた。
そこで上記過不足調査の結果を踏まえたリニューアルプランを立てることとなった。350坪という面積は一つの「ライフスタイル」を提供できるものであり、横浜や都心の商業施設を利用しなくても地元、大船でも利用できるプランとして。勿論、ライフスタイルを実感できるものの第一は「食」であり、都市がもつ新しさ、珍しさ、面白さのある賑わいである。そのためには湘南モノレールの2FホームからB1Fの350坪までの新たな銅線をエスカレーターによって作る、そんな着眼であった。そのためにはどれだけ魅力あるライフスタイルをMDとして編集できるかであった。当時所属していた会社にはテナントリーシングの機能を持たなかったので、コンセプトプランとして提案した。その概要として以下のとおりであった。
■ 「食」の中心として例えば「ザ・ガーデン」や「クイーンズ伊勢丹」を置き、生鮮3品については例えば鮮魚であれば「魚力」 さらには惣菜を充実させるためにRF1や柿安ダイニングなどを組み合わせる。勿論、デベロッパーの方針からあテナント誘致が行われrのだが、この「食」の充実戦略は変わってはいない。
■既に書いたようにいわゆるブランド専門店ではなく、日常利用ではあるが小洒落たリーズナブルはあ専門店を誘致し、傾向として生活雑貨的なMD専門店が多く編集された。
結果、リニューアル前と比較しどんな変化を創出できたかと言えば、
<それまでのブランド専門店を集めたファッションビルから、日常生活の中心となる食品や生活雑貨を中心とした新しいライフスタイルを集積したSCへの転換であり、業種別の売り上げ構成を大きく変えたリニューアル。と言えよう。勿論、日常利用、来館頻度が増え消費額が増えたことは言うまでもない。>
こうしたリニューアル計画は近隣のJRによSCへとつながっており、茅ヶ崎ルミネや浜松メイワン、京急上大岡ウイングへとリニューアルは広がった。更にはヒルトップガーデン(現目黒アトレ)も駅に隣接した隣のビルを借り受けることが可能となったことからリニューアルの原型の一つが出来上がったと言えよう。その目黒のリニューアル担当者は「今までのリニューアルにおけるMDは全てファッション専門店の組み合わせ編集であったが、食品を中心としたライフスタイルMDによる提案はほとんどなかった」と話していたことを思い出す。勿論リニューアっる前の売り上げに対し30%のアップであった。
こうした転換の背景には「ルミネ」は「パルコ」という先進的な商業施設を一つのモデルとしていたこともあり、新しさや珍しさ、面白さがファッションという文化価値に偏りすぎていたことからの脱却であったと言えよう。(津副)」
2023年12月23日
◆2023年ヒット商品版付を読み解く
ヒット商品応援団日記No819(毎週更新) 2023.12,23.
ここ数ヶ月私の専門である主にコンセプトプランの企画書や分析資料などの整理に追われブログの更新が進まなかった。それらについては年が明けたら「マーケティングノート」として公開したいと思っている。
ところで日経MJによるヒット商品版付については例年通り読み解くこととする。
誰もが注目した事象としては横綱大関に挙げられたものについては理解納得するが、消費あるいはマーケティングといったビジネス視点では新鮮味がないものとなっている。2023年という1年は「コロナ禍」を終えた」年であり、「コロナ禍」前とどのような変化が生まれたかを消費という視点で見ていくことが必要であると考える。以下、そうした視点からこの1年を振り返ってみることとする。
どんな「日常」「変化」が戻ってきたのか
一番の変化は人と人との関係が「感染」を防ぐために規制されたことであった。ビジネスで言えば、「リモート」という言葉に象徴されたようにオフィスに出社せず自宅での仕事へと変化し小さな仕事部屋が生まれ、通勤ラッシュが激減した。コロナ明けの状況はどうかというとリモートで済む仕事へと向かった領域もあるが3年前の通勤へと戻った企業は多く見られた。
そうした延長線上に忘年会もあった。面白いことに敬遠気味であった若い世代も今年の忘年会にはぁなり参加したようだ。勿論ゲームなどの遊びが中心でノンアルコールでの参加ではあるが。
こうしたビジネスに大きな変化を生み出したのが生成AIであった。その対応については既にブログに書いたのでここではコメントしないが、新たな情報リテラシーがこれからも企業ばかりでなく個人にも問われる時代となった。以前ブログにも書いたが、リアル、実感、と言ったアナログな感性がますます重要な時代になったということだ。リモートでは得られないことをこのコロナ禍で学んだ。
ところで、もう一つの話題に挙げられた大谷翔平については大谷翔平らしさと共にこの時代らしい一つことを学んだ。それは7億ドルという巨額な契約金もさることながらその契約金の90数%は10年契約終了後に得るという契約である。しかもそれは無利子であるという。普通であれば何らかの事業に投資し資金運用をと考えるがそうした「合理的な方法」を選びはしなかった。それよりもその資金を使って有望な選手獲得に使った方がドジャースの未来にとって良いという判断である。すでにアスリートの枠を超え「経営」の領域にまで広がっている。その象徴だと思うが、10年契約の中に契約破棄できるとした項目がある。それはマーク・ウォルター・オーナー、アンドルー・フリードマン編成本部長のいずれかが役職を退いた場合に、退団という権利行使が可能となるとのこと。今日の常勝チームを作り上げ、MLBの世界進出を狙う経営陣である。大谷翔平がドジャースを選んだ理由、「勝ちにこだわる」とは良き経営陣によってであることがわかる。ある意味非合理的な判断、アナログ的な判断であると言える。
こうした判断が生まれたのもエンゼルスの6年間、怪我をし勝てないチームの実態を経験したからである。謙虚な大谷翔平がドジャース入団の会見で繰り返しエンゼルスへの感謝の気持ちを述べたのもこうした背景からだ。
消費マインドは順調に回復しつつあるが
年末年始の移動も回復傾向にあり、コロナ禍前の70%ほどとなっている。但し、海外旅行については円安もあって以前のようには当分の間は戻らないであろう。逆に円安の恩恵を受けたのはインバウンド市場で再びオーバーツーリズムが課題に上がっている。但し、インバウンド需要も今までの観光地から地方の隠れたところへと変化している。これは団体旅行を終え個人旅行となり、SNSのガイドによるものが大きく分散化している結果である。こうした傾向の芽は既にコロナ禍以前に世界の旅行ガイドであるトリップアドバイザーなどによって紹介され、例えば大阪西成のお好み焼き屋に訪日観光客が集まり賑わいを見せたように。こうした傾向はSNSによって拡散し、日本人が見過ごしてきた、いや知らない横丁裏通りが観光地となっている。勿論、円安の恩恵を受け1週間以上の長期滞在型旅行へと変化し地方のホテル・旅館など景気回復へと向かっている。一方、年末年始の日本人の旅行客はコロナ禍前の2800万人と回復しつつあるが、宿泊費などの高騰もあって、やりくりが大変な状態となっている。
毎年行われる新語・流行語大賞も阪神タイガースの優勝から「アレアレ」と言った関西の人間にした通用しないものとなっていたり、YOASOBIのアイドルが注目されたり、つまり一部の人間にしか支持を得ないような「拡散」したものとなっている。こうした傾向の背景には物価の高騰による「重苦しさ」があり、今年を表す一語が「税」であったように数年後に待ち構えている少子化対策、防衛費などの「増税」を感じ取っているからである。しかも賃金アップを超える物価高騰といったインフレはこれから先も続くことから、コロナからの解放を素直に喜べない心理である。ヒット商品番付を見てもわかるが、誰もが納得する商品は極めて少ない。今人気となっているのは業務スーパーやコストコ、あるいは地域の安売りスーパー、飲食で言えば食べ放題やデカ盛り飲食店など、つまりデフレ再来を思わせるような消費が注目されている。
年末にかけて自民党におけるパーティ裏金づくりへの検察による捜査があり、「政治とカネ」という問題は今尚続いていることが表へと出てきた。あるいは軽自動車大手のダイハツが開発に欠かせない多くの検査に不正が明らかになった。これら全てを俯瞰的に見れば、失われた30年、問題を引きずった30年であり、次に向かう転換期のラストシーン現象であると言えよう。(続く)
ここ数ヶ月私の専門である主にコンセプトプランの企画書や分析資料などの整理に追われブログの更新が進まなかった。それらについては年が明けたら「マーケティングノート」として公開したいと思っている。
ところで日経MJによるヒット商品版付については例年通り読み解くこととする。
誰もが注目した事象としては横綱大関に挙げられたものについては理解納得するが、消費あるいはマーケティングといったビジネス視点では新鮮味がないものとなっている。2023年という1年は「コロナ禍」を終えた」年であり、「コロナ禍」前とどのような変化が生まれたかを消費という視点で見ていくことが必要であると考える。以下、そうした視点からこの1年を振り返ってみることとする。
どんな「日常」「変化」が戻ってきたのか
一番の変化は人と人との関係が「感染」を防ぐために規制されたことであった。ビジネスで言えば、「リモート」という言葉に象徴されたようにオフィスに出社せず自宅での仕事へと変化し小さな仕事部屋が生まれ、通勤ラッシュが激減した。コロナ明けの状況はどうかというとリモートで済む仕事へと向かった領域もあるが3年前の通勤へと戻った企業は多く見られた。
そうした延長線上に忘年会もあった。面白いことに敬遠気味であった若い世代も今年の忘年会にはぁなり参加したようだ。勿論ゲームなどの遊びが中心でノンアルコールでの参加ではあるが。
こうしたビジネスに大きな変化を生み出したのが生成AIであった。その対応については既にブログに書いたのでここではコメントしないが、新たな情報リテラシーがこれからも企業ばかりでなく個人にも問われる時代となった。以前ブログにも書いたが、リアル、実感、と言ったアナログな感性がますます重要な時代になったということだ。リモートでは得られないことをこのコロナ禍で学んだ。
ところで、もう一つの話題に挙げられた大谷翔平については大谷翔平らしさと共にこの時代らしい一つことを学んだ。それは7億ドルという巨額な契約金もさることながらその契約金の90数%は10年契約終了後に得るという契約である。しかもそれは無利子であるという。普通であれば何らかの事業に投資し資金運用をと考えるがそうした「合理的な方法」を選びはしなかった。それよりもその資金を使って有望な選手獲得に使った方がドジャースの未来にとって良いという判断である。すでにアスリートの枠を超え「経営」の領域にまで広がっている。その象徴だと思うが、10年契約の中に契約破棄できるとした項目がある。それはマーク・ウォルター・オーナー、アンドルー・フリードマン編成本部長のいずれかが役職を退いた場合に、退団という権利行使が可能となるとのこと。今日の常勝チームを作り上げ、MLBの世界進出を狙う経営陣である。大谷翔平がドジャースを選んだ理由、「勝ちにこだわる」とは良き経営陣によってであることがわかる。ある意味非合理的な判断、アナログ的な判断であると言える。
こうした判断が生まれたのもエンゼルスの6年間、怪我をし勝てないチームの実態を経験したからである。謙虚な大谷翔平がドジャース入団の会見で繰り返しエンゼルスへの感謝の気持ちを述べたのもこうした背景からだ。
消費マインドは順調に回復しつつあるが
年末年始の移動も回復傾向にあり、コロナ禍前の70%ほどとなっている。但し、海外旅行については円安もあって以前のようには当分の間は戻らないであろう。逆に円安の恩恵を受けたのはインバウンド市場で再びオーバーツーリズムが課題に上がっている。但し、インバウンド需要も今までの観光地から地方の隠れたところへと変化している。これは団体旅行を終え個人旅行となり、SNSのガイドによるものが大きく分散化している結果である。こうした傾向の芽は既にコロナ禍以前に世界の旅行ガイドであるトリップアドバイザーなどによって紹介され、例えば大阪西成のお好み焼き屋に訪日観光客が集まり賑わいを見せたように。こうした傾向はSNSによって拡散し、日本人が見過ごしてきた、いや知らない横丁裏通りが観光地となっている。勿論、円安の恩恵を受け1週間以上の長期滞在型旅行へと変化し地方のホテル・旅館など景気回復へと向かっている。一方、年末年始の日本人の旅行客はコロナ禍前の2800万人と回復しつつあるが、宿泊費などの高騰もあって、やりくりが大変な状態となっている。
毎年行われる新語・流行語大賞も阪神タイガースの優勝から「アレアレ」と言った関西の人間にした通用しないものとなっていたり、YOASOBIのアイドルが注目されたり、つまり一部の人間にしか支持を得ないような「拡散」したものとなっている。こうした傾向の背景には物価の高騰による「重苦しさ」があり、今年を表す一語が「税」であったように数年後に待ち構えている少子化対策、防衛費などの「増税」を感じ取っているからである。しかも賃金アップを超える物価高騰といったインフレはこれから先も続くことから、コロナからの解放を素直に喜べない心理である。ヒット商品番付を見てもわかるが、誰もが納得する商品は極めて少ない。今人気となっているのは業務スーパーやコストコ、あるいは地域の安売りスーパー、飲食で言えば食べ放題やデカ盛り飲食店など、つまりデフレ再来を思わせるような消費が注目されている。
年末にかけて自民党におけるパーティ裏金づくりへの検察による捜査があり、「政治とカネ」という問題は今尚続いていることが表へと出てきた。あるいは軽自動車大手のダイハツが開発に欠かせない多くの検査に不正が明らかになった。これら全てを俯瞰的に見れば、失われた30年、問題を引きずった30年であり、次に向かう転換期のラストシーン現象であると言えよう。(続く)
タグ :ヒット商品番付
2023年07月05日
◆マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」後半
ヒット商品応援団日記No818(毎週更新) 2023.7,5,
急速に広がる時代の転換、情報消費へ
それまでの物質的な欠乏時代を経て、モノの豊かさから個人の好みを求めた時代への進化の一つがモノではなく、物語という「情報」を消費する新たな消費時代を迎えることとなる。前述のDCブランドもそうした消費であるが、誰もが知っているキャラクター「キティちゃん」も1980年代の前半に誕生し、何よりも西武百貨店の広告「おいしい生活」という糸井重里氏のコピーがその豊かさの本質を如実に表している。必要なモノを求めるのではなく、好き嫌いといった好みでモノを消費する「おいしい」時代への転換で、そんなコピーに若い世代の共感を得た時代ある。
1980年代半ばそうした情報消費を端的に表したのがロッテが発売したビックリマンチョコであった。シール集めが主目的で、チョコレートを食べずにゴミ箱に捨てて社会問題化した一種の事件である。つまりチョコレートという物価値ではなく、シール集めという情報価値が買われていったということである。しかも、一番売れた「悪魔VS天使」は月間1300万個も売れたというメガヒット商品である。ビックリマンチョコのHPを少し前に見たが今年で40周年になるという。これからも「ドッキリさせます」と書いてあったが、過剰情報の時代に向かっていくに従い「びっくり度」は相対的に薄れていき「悪魔VS天使」の時のようなヒットは生まれてはいない。
こうした質的調査を必要とした時代は1980年代で、より平易に言えば好き嫌いと言った「好み」が消費の中心となり、価格もそうした心理に応えるようにそれまでの価格を上回るそんな現象が至るところで見られるようになった。例えば、若い世代を中心に渋谷のマルイには長い行列ができ、その先はDブランド(デザイナー$キャラクターズブランド)の専門店であった。当時の「好み」の傾向を言えば、女性は肩パッドの入ったそれまでの男性のようなスタイルの洋服を、一方男性は逆に肩パッドが入っていないなで肩の洋服を、と言ったような女子の男性家、男性に女性化と言った「第3の感性」とでも表現したくなるような新たな「市場」が生まれた。
そして、この時代の消費、心理市場の鍵を教えてくれた人物がいた。
変化の時代、P、ドラッカーとの出会い
「情報」が消費を左右する、しかも恐ろしい程のスピードを持って。こうした激変の時代を解き明かしてくれたのがPドラッカーであった。ビジネスの師と呼ばれたP、ドラッカーの著書との出会いが変化への「実感」に道筋を与えてくれた。。その著書の中で「創造する経営者」の中で「未来を知る方法は、ふたつある」とし、 一つは、自分で創ることである。成功してきた人、成功してきた企業は、すべて自らの未来を、自ら創ってきた。 もう一つは、すでに起こったことの帰結を見ることであると指摘してくれた。そして行動に結びつけることであると。これを彼は、「すでに起こった未来」と名付けた。個々のマーケティング課題に使うために、以下のような手順・整理を私なりにまとめてみた。
1、未来を知る
その「既に起った未来」で次のように説明してくれている。
1、「既に起っている変化とは何か」を問いつつ社会とコミュニティを観察すること
2、「その変化が一時的なものではなく、本当の変化であることを示す証拠はあるのか」を問うこと。
3、「その変化に意味と重要性があるのであれば、それはどのような機会をもたらしてくれるのか」を問うこと。ドラッカーは自らを経営学者とは呼ばないで、社会生態学者と呼んだのは極めて本質的なことであることがわかる。
「既に起こった帰結」とは、次々と起こる変化、消費の変化はもとより社会の変化を観察すること。そして、それら変化は一時的なものではなく、大きな潮流としての変化、生活価値観の変化であることを検証する。更に、この変化は意味あるもの、つまり重要なことであると認識した時、その市場機会をもたらすものであるかどうかを問うこと。
例えば、30年前から指摘されきた「少子高齢化」のように動かしがたい事実を集め、それがどんな方向へと進んでいくのかを見定めていく方法である。1990年代後半経済企画庁長官になった堺屋太一さんが生産年齢人口がマイナスに転じたと警鐘を発していたが、今やその「未来」が現実となってしまったということである。
2、変化を読む、未来を知る
この「動かしがたい事実」という変化はどんなところに出てきているのか。それは官公庁が出している社会実情データであり、企業が実施し公開された各種の調査結果から読み取れた変化でもある。そして、何よりも重要なことは、その変化が何故生じたのか、その背景を探ることにつきる。
その背景とは、どんなJpopや歌謡曲が流行ったのか、関心を集めたTV番組、映画はどうであったか、どんな書籍やマンガが売れているのか、その年の新語・流行語はどんな傾向であったか。一見無関係な事象のように見えるサブカルチャー現象。
あるいは今までとは違って注目・関心を集めた展示会やイベント。最近では新たな観光名所となった東京スカイツリーのように、社会関心事の変化の傾向。時には犯罪といった社会的事件や政治情況や選挙結果に至るまで。
例えば、数年前からunder30、30歳未満の草食系と呼ばれる若い世代の特徴の一つとして、まるで欲望を失ってしまったかのように、車離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、といった「離れ現象」が数多く見られる。しかし、この若い世代が物心つく頃には旧来の既成概念や価値観が次々と崩壊し、経済の停滞と併行した収入の減少、非正規雇用の増大・・・・・・・鬱屈した時代の空気のなかで生きてきた世代である。40代以上の大人世代の価値観、消費関心事とは当然異なるということである。
そして、こうした興味・関心事がどのように情報として流通していくのか、メディアの変遷、変化が強く影響を与えている。マスコミと言われた時代から、インターネットによるWeb2.0の世界へ、そして今またソーシャルメディアに代表されるWeb3.0の世界へと。通信端末も携帯電話からスマートフォンへと変化してきた。従来の売り手と買い手といった消費の概念も大きく変化し始めている。
結果、ライフスタイルや消費傾向を映し出している百貨店を始めとした各流通業態も変化してきた。どんな業態が伸び、どんな業態が衰退しているか、といった商業統計まで。そこから生まれるヒット商品の数々。それらは何故売れたのか、何に着眼したことによるものなのか。
こうした生活者の興味・関心事、消費傾向を定点観測していくなかに、変化の意味合いを問うていくこと。そして、その先に未来を見ていこうということである。
3、過剰な情報と変化の時代
「過剰」、この時代のキーワードの一つである。消費という視点に立つと、過剰なモノ、過剰な情報、過剰な選択肢、そして、過剰なスピード。つまり変化の本質が1990年代と比較し劇的に変わった時代のただ中にいるということにつきる。その根底には「情報の革新」があることは誰もが実感するものとしてある。結果どんなことが起きるか、巨大な台風のなかにあって、何を決めるか、生活の隅々細かいことに至るまで、その判断の入り口は「情報」となる。
消費という視点に立つと劇的に変わったことの一つに情報発信者・主人公が逆転したことであろう。
勿論インターネットの普及によってであるが、マスメディア(=オピニオンリーダー)からパーソナルメディア(=個人・大衆)へと情報発信者の主人公が劇的に転換したことである。消費においては「食べログ」のようなランキングサイトやレシピ投稿サイトであるクックパッドの日常利用、あるいはツイッターによるパーソナルメディアの活用といったネット情報の活用は当たり前のものとなった。
2つの情報、定量情報と定性情報
消費変化を巨視的に見て行くと、昭和と平成の商品を買う時の購買指針・方法に大きな違いが生まれてきた。昭和においてはまだまだモノが不足していた時代の差別化手法として、モノの卓越性、名声、贅沢さといったプレステージ感を創造するために「ブランド化」がマーケティングの中心となった。
例えば広告をうまく多用するサントリーでいうと、若いサラリーマンの飲むウイスキーはまず「トリス」か「サントリーレッド」であった。次に「サントリーホワイト」、そして「角」、目標は「サントリーオールド」。勤続年数と共に所得も増え、次のクラスの目標としてのブランド=自己確認でもあり、社会的な見られ方もまたあった時代である。素直な気持ちで言えば”早くオールドを飲みたいな”という所得=価格=一種のプレステージがあった時代と言えよう。価格もそうしたマーケットポジションを踏まえた価格帯となっていた。サントリーのウイスキーの例のように、1960年代からの顧客設定は所得&デモグラフィック的属性を踏まえた「マス顧客」であった。
一方、平成においてはモノは溢れ、購買の指針となるべき情報も過剰で、ランキング情報を指針として活用することとなる。ランキングを上位とするための「やらせ」が横行することから、信頼できる口コミやお試し体験などを併用する。
昭和から平成への変化は、「マス(塊)」→「分衆・小衆」→「個人/私」、今や「one to one」マーケティングへと移行してきた。こうした変化の予兆は既に1980年代後半に起っていた。当時、郷ひろみと結婚した二谷百合江の「愛される理由」が100万部を超えるベストセラーになった。そこにはモノ不足への飢餓感は全くなく、あるのは精神的飢餓感が至る所に見られた本であった。一言でいうならば「モノ充足」を終え、「心の充足」へ、次へと移行した時期であり一つの転換点としてあった。そして、その後1990年代後半から本格的なインターネット時代を迎える。過去10年間で流通する情報量は500倍以上と言われているが、昭和と比較したとすれば、恐らく1000倍以上もの過剰情報時代の購買となった。販売手法もマスメディアを主としたブランドマーケティングとネットメディアであるSNSといった人と人とのつながりを活用したマーケティングの違いとなる。
今や量的なマス情報から、質的なパーソナル情報、しかも心の底に眠る潜在的な心理情報を探ることへとマーケティングも変わってきた。例えば、あのamazonのマーケティングであるが、「Aの本を購入する人はBやCも買っています」というメッセージが表れるが、これも顧客の興味関心を広げ、あるいは深める手法。量的情報を質的情報へと転換させ、より多くの購買を促進させる見事なマーケティングである。こうした手法は小売りにも取り入れられており、例えば野菜売り場には野菜炒め用の調味料が置かれているように。
未来を拓くであろうか、AIのゆくえ
実はこの延長線上に話題となっているAIがある。簡単に言ってしまうと定性情報(単語から文章まで、あるいは画像の情報)全てを「量化」する高度な技術を背景にネット上の膨大な量の情報を瞬時に取り出せるシステムによって可能となった。そのシステムを簡略化して言うと次のようなものである。
『高度な自然言語処理能力を持つ「大規模言語モデル(LLM)」に大量のデータを学習させることで、人間と見分けがつかないくらいスムーズに文章を作る。』
今から10年ほど前Googjeが翻訳アプリを開発し公開したことがあった。当初は固有名詞などの翻訳には間違いが多く単なる翻訳の「入口」程度であったが、次第にその精度を高めるためのアプリが開発されなんとか使い物になるようになったが。今話題となっている対話型AIのチャットGPTもソフトウエア自身の学習により、その精度は高まっていくであろう。調査という古い手法で言うならば、定性情報の定量情報化によってその精度が高められていくのだが、一般的平均的な答えは得られても納得共感する答えにはなり得ない。つまり、出てきた結果が正しいとは限らない。膨大なデータから確率に基づいて出てくるもので、意味を理解して作られた文章ではない。その答えは、「もっともらしさ」で、「正しさ」ではない。
人を動かす感情、笑いや悲しみ、あるいは驚き怒りと言ったこころに迫る答えは得られないと言うことである。
技術の進化は凄まじく、その恩恵は日々受けている。雇えば、20年ほど前の回転寿司の「にぎり」の評価についも所詮ロボットなとと思っていたが、次第に職人が握るようなシャリとなった。牛丼の「すき家」ではないが、深夜の「ワンオペ」を可能にしたのもロボット調理器具類であった。国内市場から世界へと進出しているジャパニーズレストランの背景にはこうした調理器具類があることは言うまでもない。コロナ明けの日本に外国人観光客が相次いで訪日しているが、観光理由の一つが日本の「食」である。例えば、海外にも一風堂は進出し人気となっているが、日本国内には次なる一風堂を探しに訪日する観光客も多い。つまり日本はラーメンの「聖地」になったと言うことである。それは秋葉原がアキバになったのと同じでオタク化が始まっていると言うことである。その聖地となったのも、やはり「人」がいたと言うことである。ロボット調理器具を超えた「何か」に魅了されたと言うことである。
ところで過剰な情報の時代、しかもその情報による変化をどのように読み解くか、ビジネスマンであれば誰もが考えることである。AIが多くの領域で使われることとなるが、便利な社会になる反面、夥しいフェイクな現象社会にもなる。1991年代インターネットの出現が「玉石混交」と指摘されたが、AIの運用ルールを定めることも必要であるが、実は石とするのか玉とするのか一人一人が問われる時代になったと言うことである。別な表現をするならば、AIによる「らしい商品」とこれぞ本物(事実)を明確に使い分けする眼力を持つことが問われていると言うことだ。つまり、過剰な情報時代、過剰ならしさ情報の時代にあってどれだけ自身の能力を磨き続けられるかとなる。
「らしさ情報」を抜け出す
AI研究の先駆者である新井紀子さんは日本の教育、詰め込み、受験勉強にあると指摘する。覚えることに注力ばかりして、考えることをしない教育。結果、決定的に「読解力」を失わせてしまったと指摘する。覚えることは必要ではあるが、問題はその先にある。今や膨大な情報をスーパーコンピューターに任せ、「らしさ」の先にあるものを探り考えることへと向かわなければならないと言うことだ。例えば、今日ある大企業となった創業者はほとんどが「失敗」の連続であった。本田宗一郎をはじめソニーも松下も・・・・・・現役企業の創業者の中で注目し取り上げてきた人物の1人がユニクロの柳井正社長である。大きな失敗した事業では海外進出、ロンドンでの失敗が記憶に残っているが、2001年5月、野菜事業へ乗り込むというニュースは多くのビジネスマンにとって驚きであった。しかし、柳井社長にとっては決して突飛なアイデアではなく、野菜を中心とした農産物は、生産から流通、販売までの工程に無駄が多いために価格が高止まりしているとし、ユニクロで培った生産から販売までを一貫するオペレーションを導入できるのではと言う着眼であった。後に明らかになったのが実は「食品を一生の仕事としてやりたい」という社員発のアイデアが採用されたものであった。このアイデアを発案した社員とは、EC事業の部長をしていた柚木治氏。その高品質商品が、「永田農法」と呼ばれる栽培法であった。
永田農法とは肥料や水を極限まで減らし、植物が生きようとする力を最大限に活かすというものであり、漫画「美味しんぼ」にも取り上げられた画期的な農法であった。
スタート当初は会員制によるもので会員数は1万3500人と好調な勢いであったと記憶している。 しかし、その会員属性は独身世帯などに偏りがあったため、客単価は予想を大きく下回る。さらに、スタートダッシュ以降の会員獲得も伸び悩み、2003年6月期の売上高は計画の約半分の6億5000万円、経常損益は9億3000万円の赤字で、黒字化には程遠い状態であった。そして、次に実店舗の出店攻勢に出る。2003年5月、松屋銀座店地下の売り場に出店するのだが、当時私も売り場を見学したのだが、品揃えも少なく、店はガラガラで主婦が売り場を見ながらその日のメニューを決めると言う利用のあり方に答えるものではなかった。ああこれではダメだなと言うのが当時の印象であった。数少ない棚の中から購入したのが永田農法によるトマトジュースで確かに品質は良く美味しかったと記憶している。しかし、棚がガラガラであったのは品揃え=安定供給ができなかったと言う農産品小売の基本原則がかけていたと言う失敗であった。ちなみにその現場リーダーであった柚木治氏は急成長しているguの社長である。
失敗は人ばかりでなく、企業も育てていく。仮説と言う思惑の先にたどり着くには多くの経験を必要とすることだ。AIと言う便利なツールに依存せず、「らしさ」の向こう側を目指すにはAIが不得手とする暗黙知の世界を視野に入れることである。
マーケティングの基本、生活者の実像に迫る
多くのマーケッターが目標とすることの最初が消費の実像である。その実像に迫る理論として行動経済学(behavioral economics)がある。一言で言えば経済学と心理学が融合した学問で、人間の「人々が直感や感情によってどのような判断をし、その結果、市場や人々の幸福にどのような影響を及ぼすのか」を研究する学問と言える。行動経済学は2002年に提唱されたものであったが、そうした理論が公開される前、私は現場で極めてアナログ的な方法でその実像の一端を明らかにしようと試みらことがあった。
それは良くある電鉄会社の高架下にあるSC(ショッピングセンター)の来館者調査であった。SC担当の社長が急逝されたことがあり、後任の新社長は是非直接調査結果の分析を聞きたいとのことであった。前述の情報のあり方、定性情報の重要さを指摘したように来館者へのアンケート調査におけるフリーアンサー部分をアンケート自筆の部分をコピーにとり、それらをキーワードごとにまとめたシートを作ったことがあった。筆跡など少しでも答えてくれた消費者の人物像を実感して欲しかったからである。つまり、「実感」を持って、顧客の意見を感じてもらうことであった。極めてアナログな手法で手間がかかるレポートであったが、少なくとも実像の近く、「らしさ」の先にはたどり着けたと思っている。
再び問われてくるリアルな経験
少し前に銀座のロレックス専門店への強盗事件が起きたが、実行犯の4名は16才から19才という10代の若者であったことに驚かされた。ネット上のSNSなどには公然と「闇バイト」勧誘のメッセージが数多くあり、まさにバイト感覚で高額報酬につられいとも簡単に犯罪に加担してしまう。バラバラとなった個人化社会の象徴、社会経験のない育ちかた、SNSといった「仲間内」といった狭い小さな社会で生きてきた結果であると指摘はできるが、それで済まされる問題ではない。
今から20年ほど前になるが、団塊の世代が定年退職時期を迎え、それまでの「経験」を継承する動きが特に製造業において盛んに行われることがあった。熟練社員の動きなどをVTRに撮ってわかりやすくしたり、若い世代をベテラン社員のアシスタントにして、学んだり、形式知はもとより暗黙知すらも継承できるような試みすら行われたことがあった。
多くの人が期待をしているZET世代を中心とした若い世代に決定的に欠けているのが「経験」である。倍速世代とも呼ばれ、高速道路しか走ったことがない、一般道はよほどのことがない限り使わない、そんな世代である。既に世界中で起きているAI詐欺はあらゆるジャンルで起きるであろう。生成AIによる画像を見ても誰もが本人であると認識してしまうほどの技術が至る所で実行されようとしている。リアルか否か、現実なのか否か、過剰な情報の中で迷路のような世界が広がろうとしている。
これからビジネスをしていく上で重要なものとなるのは、実はリアル店舗であり、対面販売、適切な会話であり、何よりも心地よい人間らしい、人柄が溢れた顧客関係となる。例えば、特定のアパレルファッションは売れているが、今なお売れているのが中古の洋服である。勿論その安さもあるが、中古商品の「いわれ」や「歴史」のような物語への興味が購買へと向かわせている。店のスタッフとの会話が楽しみで店を訪れる、ある意味中古ファッションのコミュニティの「芽」ようなものとなる。SNSといった狭い仲間内から一歩外へと踏み出した「社会」である。これからの専門店は単なる販売拠点からテーマを持ったコミュニティ、人と人とが交流する場所へと向かうであろう。つまり、販売スタッフ、「人」の人間性、素敵さが問われてくると言うことである。勿論、「通販」といった便利さを享受しながらであるが、豊かさの意味が広がっていくこととなる。
こうした予測をするのも作家五木寛之が書いた「下山の思想」ではないが、登山とは異なった山の風景から見える消費風景である。今年の富士山登山はコロナ禍を終え登山道には多くの行列ができるであろう。しかし、一方では富士山の素敵さは五合目から下の裾野にあるとしたツアーが隠れた人気となっている。「下山からの風景」で、今まで繰り返しブログにも書いてきた表通り観光から、横丁路地裏観光への変化と同じである。「未来」の風景をどう見るか、マーケティングの課題は尽きない。
急速に広がる時代の転換、情報消費へ
それまでの物質的な欠乏時代を経て、モノの豊かさから個人の好みを求めた時代への進化の一つがモノではなく、物語という「情報」を消費する新たな消費時代を迎えることとなる。前述のDCブランドもそうした消費であるが、誰もが知っているキャラクター「キティちゃん」も1980年代の前半に誕生し、何よりも西武百貨店の広告「おいしい生活」という糸井重里氏のコピーがその豊かさの本質を如実に表している。必要なモノを求めるのではなく、好き嫌いといった好みでモノを消費する「おいしい」時代への転換で、そんなコピーに若い世代の共感を得た時代ある。
1980年代半ばそうした情報消費を端的に表したのがロッテが発売したビックリマンチョコであった。シール集めが主目的で、チョコレートを食べずにゴミ箱に捨てて社会問題化した一種の事件である。つまりチョコレートという物価値ではなく、シール集めという情報価値が買われていったということである。しかも、一番売れた「悪魔VS天使」は月間1300万個も売れたというメガヒット商品である。ビックリマンチョコのHPを少し前に見たが今年で40周年になるという。これからも「ドッキリさせます」と書いてあったが、過剰情報の時代に向かっていくに従い「びっくり度」は相対的に薄れていき「悪魔VS天使」の時のようなヒットは生まれてはいない。
こうした質的調査を必要とした時代は1980年代で、より平易に言えば好き嫌いと言った「好み」が消費の中心となり、価格もそうした心理に応えるようにそれまでの価格を上回るそんな現象が至るところで見られるようになった。例えば、若い世代を中心に渋谷のマルイには長い行列ができ、その先はDブランド(デザイナー$キャラクターズブランド)の専門店であった。当時の「好み」の傾向を言えば、女性は肩パッドの入ったそれまでの男性のようなスタイルの洋服を、一方男性は逆に肩パッドが入っていないなで肩の洋服を、と言ったような女子の男性家、男性に女性化と言った「第3の感性」とでも表現したくなるような新たな「市場」が生まれた。
そして、この時代の消費、心理市場の鍵を教えてくれた人物がいた。
変化の時代、P、ドラッカーとの出会い
「情報」が消費を左右する、しかも恐ろしい程のスピードを持って。こうした激変の時代を解き明かしてくれたのがPドラッカーであった。ビジネスの師と呼ばれたP、ドラッカーの著書との出会いが変化への「実感」に道筋を与えてくれた。。その著書の中で「創造する経営者」の中で「未来を知る方法は、ふたつある」とし、 一つは、自分で創ることである。成功してきた人、成功してきた企業は、すべて自らの未来を、自ら創ってきた。 もう一つは、すでに起こったことの帰結を見ることであると指摘してくれた。そして行動に結びつけることであると。これを彼は、「すでに起こった未来」と名付けた。個々のマーケティング課題に使うために、以下のような手順・整理を私なりにまとめてみた。
1、未来を知る
その「既に起った未来」で次のように説明してくれている。
1、「既に起っている変化とは何か」を問いつつ社会とコミュニティを観察すること
2、「その変化が一時的なものではなく、本当の変化であることを示す証拠はあるのか」を問うこと。
3、「その変化に意味と重要性があるのであれば、それはどのような機会をもたらしてくれるのか」を問うこと。ドラッカーは自らを経営学者とは呼ばないで、社会生態学者と呼んだのは極めて本質的なことであることがわかる。
「既に起こった帰結」とは、次々と起こる変化、消費の変化はもとより社会の変化を観察すること。そして、それら変化は一時的なものではなく、大きな潮流としての変化、生活価値観の変化であることを検証する。更に、この変化は意味あるもの、つまり重要なことであると認識した時、その市場機会をもたらすものであるかどうかを問うこと。
例えば、30年前から指摘されきた「少子高齢化」のように動かしがたい事実を集め、それがどんな方向へと進んでいくのかを見定めていく方法である。1990年代後半経済企画庁長官になった堺屋太一さんが生産年齢人口がマイナスに転じたと警鐘を発していたが、今やその「未来」が現実となってしまったということである。
2、変化を読む、未来を知る
この「動かしがたい事実」という変化はどんなところに出てきているのか。それは官公庁が出している社会実情データであり、企業が実施し公開された各種の調査結果から読み取れた変化でもある。そして、何よりも重要なことは、その変化が何故生じたのか、その背景を探ることにつきる。
その背景とは、どんなJpopや歌謡曲が流行ったのか、関心を集めたTV番組、映画はどうであったか、どんな書籍やマンガが売れているのか、その年の新語・流行語はどんな傾向であったか。一見無関係な事象のように見えるサブカルチャー現象。
あるいは今までとは違って注目・関心を集めた展示会やイベント。最近では新たな観光名所となった東京スカイツリーのように、社会関心事の変化の傾向。時には犯罪といった社会的事件や政治情況や選挙結果に至るまで。
例えば、数年前からunder30、30歳未満の草食系と呼ばれる若い世代の特徴の一つとして、まるで欲望を失ってしまったかのように、車離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、といった「離れ現象」が数多く見られる。しかし、この若い世代が物心つく頃には旧来の既成概念や価値観が次々と崩壊し、経済の停滞と併行した収入の減少、非正規雇用の増大・・・・・・・鬱屈した時代の空気のなかで生きてきた世代である。40代以上の大人世代の価値観、消費関心事とは当然異なるということである。
そして、こうした興味・関心事がどのように情報として流通していくのか、メディアの変遷、変化が強く影響を与えている。マスコミと言われた時代から、インターネットによるWeb2.0の世界へ、そして今またソーシャルメディアに代表されるWeb3.0の世界へと。通信端末も携帯電話からスマートフォンへと変化してきた。従来の売り手と買い手といった消費の概念も大きく変化し始めている。
結果、ライフスタイルや消費傾向を映し出している百貨店を始めとした各流通業態も変化してきた。どんな業態が伸び、どんな業態が衰退しているか、といった商業統計まで。そこから生まれるヒット商品の数々。それらは何故売れたのか、何に着眼したことによるものなのか。
こうした生活者の興味・関心事、消費傾向を定点観測していくなかに、変化の意味合いを問うていくこと。そして、その先に未来を見ていこうということである。
3、過剰な情報と変化の時代
「過剰」、この時代のキーワードの一つである。消費という視点に立つと、過剰なモノ、過剰な情報、過剰な選択肢、そして、過剰なスピード。つまり変化の本質が1990年代と比較し劇的に変わった時代のただ中にいるということにつきる。その根底には「情報の革新」があることは誰もが実感するものとしてある。結果どんなことが起きるか、巨大な台風のなかにあって、何を決めるか、生活の隅々細かいことに至るまで、その判断の入り口は「情報」となる。
消費という視点に立つと劇的に変わったことの一つに情報発信者・主人公が逆転したことであろう。
勿論インターネットの普及によってであるが、マスメディア(=オピニオンリーダー)からパーソナルメディア(=個人・大衆)へと情報発信者の主人公が劇的に転換したことである。消費においては「食べログ」のようなランキングサイトやレシピ投稿サイトであるクックパッドの日常利用、あるいはツイッターによるパーソナルメディアの活用といったネット情報の活用は当たり前のものとなった。
2つの情報、定量情報と定性情報
消費変化を巨視的に見て行くと、昭和と平成の商品を買う時の購買指針・方法に大きな違いが生まれてきた。昭和においてはまだまだモノが不足していた時代の差別化手法として、モノの卓越性、名声、贅沢さといったプレステージ感を創造するために「ブランド化」がマーケティングの中心となった。
例えば広告をうまく多用するサントリーでいうと、若いサラリーマンの飲むウイスキーはまず「トリス」か「サントリーレッド」であった。次に「サントリーホワイト」、そして「角」、目標は「サントリーオールド」。勤続年数と共に所得も増え、次のクラスの目標としてのブランド=自己確認でもあり、社会的な見られ方もまたあった時代である。素直な気持ちで言えば”早くオールドを飲みたいな”という所得=価格=一種のプレステージがあった時代と言えよう。価格もそうしたマーケットポジションを踏まえた価格帯となっていた。サントリーのウイスキーの例のように、1960年代からの顧客設定は所得&デモグラフィック的属性を踏まえた「マス顧客」であった。
一方、平成においてはモノは溢れ、購買の指針となるべき情報も過剰で、ランキング情報を指針として活用することとなる。ランキングを上位とするための「やらせ」が横行することから、信頼できる口コミやお試し体験などを併用する。
昭和から平成への変化は、「マス(塊)」→「分衆・小衆」→「個人/私」、今や「one to one」マーケティングへと移行してきた。こうした変化の予兆は既に1980年代後半に起っていた。当時、郷ひろみと結婚した二谷百合江の「愛される理由」が100万部を超えるベストセラーになった。そこにはモノ不足への飢餓感は全くなく、あるのは精神的飢餓感が至る所に見られた本であった。一言でいうならば「モノ充足」を終え、「心の充足」へ、次へと移行した時期であり一つの転換点としてあった。そして、その後1990年代後半から本格的なインターネット時代を迎える。過去10年間で流通する情報量は500倍以上と言われているが、昭和と比較したとすれば、恐らく1000倍以上もの過剰情報時代の購買となった。販売手法もマスメディアを主としたブランドマーケティングとネットメディアであるSNSといった人と人とのつながりを活用したマーケティングの違いとなる。
今や量的なマス情報から、質的なパーソナル情報、しかも心の底に眠る潜在的な心理情報を探ることへとマーケティングも変わってきた。例えば、あのamazonのマーケティングであるが、「Aの本を購入する人はBやCも買っています」というメッセージが表れるが、これも顧客の興味関心を広げ、あるいは深める手法。量的情報を質的情報へと転換させ、より多くの購買を促進させる見事なマーケティングである。こうした手法は小売りにも取り入れられており、例えば野菜売り場には野菜炒め用の調味料が置かれているように。
未来を拓くであろうか、AIのゆくえ
実はこの延長線上に話題となっているAIがある。簡単に言ってしまうと定性情報(単語から文章まで、あるいは画像の情報)全てを「量化」する高度な技術を背景にネット上の膨大な量の情報を瞬時に取り出せるシステムによって可能となった。そのシステムを簡略化して言うと次のようなものである。
『高度な自然言語処理能力を持つ「大規模言語モデル(LLM)」に大量のデータを学習させることで、人間と見分けがつかないくらいスムーズに文章を作る。』
今から10年ほど前Googjeが翻訳アプリを開発し公開したことがあった。当初は固有名詞などの翻訳には間違いが多く単なる翻訳の「入口」程度であったが、次第にその精度を高めるためのアプリが開発されなんとか使い物になるようになったが。今話題となっている対話型AIのチャットGPTもソフトウエア自身の学習により、その精度は高まっていくであろう。調査という古い手法で言うならば、定性情報の定量情報化によってその精度が高められていくのだが、一般的平均的な答えは得られても納得共感する答えにはなり得ない。つまり、出てきた結果が正しいとは限らない。膨大なデータから確率に基づいて出てくるもので、意味を理解して作られた文章ではない。その答えは、「もっともらしさ」で、「正しさ」ではない。
人を動かす感情、笑いや悲しみ、あるいは驚き怒りと言ったこころに迫る答えは得られないと言うことである。
技術の進化は凄まじく、その恩恵は日々受けている。雇えば、20年ほど前の回転寿司の「にぎり」の評価についも所詮ロボットなとと思っていたが、次第に職人が握るようなシャリとなった。牛丼の「すき家」ではないが、深夜の「ワンオペ」を可能にしたのもロボット調理器具類であった。国内市場から世界へと進出しているジャパニーズレストランの背景にはこうした調理器具類があることは言うまでもない。コロナ明けの日本に外国人観光客が相次いで訪日しているが、観光理由の一つが日本の「食」である。例えば、海外にも一風堂は進出し人気となっているが、日本国内には次なる一風堂を探しに訪日する観光客も多い。つまり日本はラーメンの「聖地」になったと言うことである。それは秋葉原がアキバになったのと同じでオタク化が始まっていると言うことである。その聖地となったのも、やはり「人」がいたと言うことである。ロボット調理器具を超えた「何か」に魅了されたと言うことである。
ところで過剰な情報の時代、しかもその情報による変化をどのように読み解くか、ビジネスマンであれば誰もが考えることである。AIが多くの領域で使われることとなるが、便利な社会になる反面、夥しいフェイクな現象社会にもなる。1991年代インターネットの出現が「玉石混交」と指摘されたが、AIの運用ルールを定めることも必要であるが、実は石とするのか玉とするのか一人一人が問われる時代になったと言うことである。別な表現をするならば、AIによる「らしい商品」とこれぞ本物(事実)を明確に使い分けする眼力を持つことが問われていると言うことだ。つまり、過剰な情報時代、過剰ならしさ情報の時代にあってどれだけ自身の能力を磨き続けられるかとなる。
「らしさ情報」を抜け出す
AI研究の先駆者である新井紀子さんは日本の教育、詰め込み、受験勉強にあると指摘する。覚えることに注力ばかりして、考えることをしない教育。結果、決定的に「読解力」を失わせてしまったと指摘する。覚えることは必要ではあるが、問題はその先にある。今や膨大な情報をスーパーコンピューターに任せ、「らしさ」の先にあるものを探り考えることへと向かわなければならないと言うことだ。例えば、今日ある大企業となった創業者はほとんどが「失敗」の連続であった。本田宗一郎をはじめソニーも松下も・・・・・・現役企業の創業者の中で注目し取り上げてきた人物の1人がユニクロの柳井正社長である。大きな失敗した事業では海外進出、ロンドンでの失敗が記憶に残っているが、2001年5月、野菜事業へ乗り込むというニュースは多くのビジネスマンにとって驚きであった。しかし、柳井社長にとっては決して突飛なアイデアではなく、野菜を中心とした農産物は、生産から流通、販売までの工程に無駄が多いために価格が高止まりしているとし、ユニクロで培った生産から販売までを一貫するオペレーションを導入できるのではと言う着眼であった。後に明らかになったのが実は「食品を一生の仕事としてやりたい」という社員発のアイデアが採用されたものであった。このアイデアを発案した社員とは、EC事業の部長をしていた柚木治氏。その高品質商品が、「永田農法」と呼ばれる栽培法であった。
永田農法とは肥料や水を極限まで減らし、植物が生きようとする力を最大限に活かすというものであり、漫画「美味しんぼ」にも取り上げられた画期的な農法であった。
スタート当初は会員制によるもので会員数は1万3500人と好調な勢いであったと記憶している。 しかし、その会員属性は独身世帯などに偏りがあったため、客単価は予想を大きく下回る。さらに、スタートダッシュ以降の会員獲得も伸び悩み、2003年6月期の売上高は計画の約半分の6億5000万円、経常損益は9億3000万円の赤字で、黒字化には程遠い状態であった。そして、次に実店舗の出店攻勢に出る。2003年5月、松屋銀座店地下の売り場に出店するのだが、当時私も売り場を見学したのだが、品揃えも少なく、店はガラガラで主婦が売り場を見ながらその日のメニューを決めると言う利用のあり方に答えるものではなかった。ああこれではダメだなと言うのが当時の印象であった。数少ない棚の中から購入したのが永田農法によるトマトジュースで確かに品質は良く美味しかったと記憶している。しかし、棚がガラガラであったのは品揃え=安定供給ができなかったと言う農産品小売の基本原則がかけていたと言う失敗であった。ちなみにその現場リーダーであった柚木治氏は急成長しているguの社長である。
失敗は人ばかりでなく、企業も育てていく。仮説と言う思惑の先にたどり着くには多くの経験を必要とすることだ。AIと言う便利なツールに依存せず、「らしさ」の向こう側を目指すにはAIが不得手とする暗黙知の世界を視野に入れることである。
マーケティングの基本、生活者の実像に迫る
多くのマーケッターが目標とすることの最初が消費の実像である。その実像に迫る理論として行動経済学(behavioral economics)がある。一言で言えば経済学と心理学が融合した学問で、人間の「人々が直感や感情によってどのような判断をし、その結果、市場や人々の幸福にどのような影響を及ぼすのか」を研究する学問と言える。行動経済学は2002年に提唱されたものであったが、そうした理論が公開される前、私は現場で極めてアナログ的な方法でその実像の一端を明らかにしようと試みらことがあった。
それは良くある電鉄会社の高架下にあるSC(ショッピングセンター)の来館者調査であった。SC担当の社長が急逝されたことがあり、後任の新社長は是非直接調査結果の分析を聞きたいとのことであった。前述の情報のあり方、定性情報の重要さを指摘したように来館者へのアンケート調査におけるフリーアンサー部分をアンケート自筆の部分をコピーにとり、それらをキーワードごとにまとめたシートを作ったことがあった。筆跡など少しでも答えてくれた消費者の人物像を実感して欲しかったからである。つまり、「実感」を持って、顧客の意見を感じてもらうことであった。極めてアナログな手法で手間がかかるレポートであったが、少なくとも実像の近く、「らしさ」の先にはたどり着けたと思っている。
再び問われてくるリアルな経験
少し前に銀座のロレックス専門店への強盗事件が起きたが、実行犯の4名は16才から19才という10代の若者であったことに驚かされた。ネット上のSNSなどには公然と「闇バイト」勧誘のメッセージが数多くあり、まさにバイト感覚で高額報酬につられいとも簡単に犯罪に加担してしまう。バラバラとなった個人化社会の象徴、社会経験のない育ちかた、SNSといった「仲間内」といった狭い小さな社会で生きてきた結果であると指摘はできるが、それで済まされる問題ではない。
今から20年ほど前になるが、団塊の世代が定年退職時期を迎え、それまでの「経験」を継承する動きが特に製造業において盛んに行われることがあった。熟練社員の動きなどをVTRに撮ってわかりやすくしたり、若い世代をベテラン社員のアシスタントにして、学んだり、形式知はもとより暗黙知すらも継承できるような試みすら行われたことがあった。
多くの人が期待をしているZET世代を中心とした若い世代に決定的に欠けているのが「経験」である。倍速世代とも呼ばれ、高速道路しか走ったことがない、一般道はよほどのことがない限り使わない、そんな世代である。既に世界中で起きているAI詐欺はあらゆるジャンルで起きるであろう。生成AIによる画像を見ても誰もが本人であると認識してしまうほどの技術が至る所で実行されようとしている。リアルか否か、現実なのか否か、過剰な情報の中で迷路のような世界が広がろうとしている。
これからビジネスをしていく上で重要なものとなるのは、実はリアル店舗であり、対面販売、適切な会話であり、何よりも心地よい人間らしい、人柄が溢れた顧客関係となる。例えば、特定のアパレルファッションは売れているが、今なお売れているのが中古の洋服である。勿論その安さもあるが、中古商品の「いわれ」や「歴史」のような物語への興味が購買へと向かわせている。店のスタッフとの会話が楽しみで店を訪れる、ある意味中古ファッションのコミュニティの「芽」ようなものとなる。SNSといった狭い仲間内から一歩外へと踏み出した「社会」である。これからの専門店は単なる販売拠点からテーマを持ったコミュニティ、人と人とが交流する場所へと向かうであろう。つまり、販売スタッフ、「人」の人間性、素敵さが問われてくると言うことである。勿論、「通販」といった便利さを享受しながらであるが、豊かさの意味が広がっていくこととなる。
こうした予測をするのも作家五木寛之が書いた「下山の思想」ではないが、登山とは異なった山の風景から見える消費風景である。今年の富士山登山はコロナ禍を終え登山道には多くの行列ができるであろう。しかし、一方では富士山の素敵さは五合目から下の裾野にあるとしたツアーが隠れた人気となっている。「下山からの風景」で、今まで繰り返しブログにも書いてきた表通り観光から、横丁路地裏観光への変化と同じである。「未来」の風景をどう見るか、マーケティングの課題は尽きない。
タグ :マーケティング
2023年07月02日
◆マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」前半
ヒット商品応援団日記No818(毎週更新) 2023.7,2
体調が優れず3ヶ月ほどブログの更新ができなかった。その間これからのブログをどうするか考えていたが、過去のの実務経験と「今」を重ねてマーケティングを考えてみたいとの結論に至った。過去の経験をどこまで思い出せるか、更にうまく書けるかどうか自信はないが、とにかく前へ進めていくつもりだ。
ブログを始めてから20年近くになる。当時は全国のブログ数が70万に満たないネットメディアであった。消費を中心に生活者の動向をレポートしてきたのだが、よりブログ情報を深めるために長文になり、テーマを決めてのシリーズとなった。その最初が「街から学ぶ」で時代の変化が街に映り込む、その変化を観察しレポートした。更には時代の大きな変化である1990年代初頭のバブル崩壊やコロナ禍といった生活に劇的変化をもたらしたテーマを「未来塾」として公開し今日に至っている。そして、今回過去50年マーケティング実務の経験を通じ得られた、今なお大切にしてきた経験(特に暗黙知)を公開していく予定である。ある意味50年の「まとめ」のようなものだが、「過去」に遡りつつ「今」を考える、そんな分析をしてみたい。
“過去のなかに未来を見る
「街から学ぶ」にも書いたことだが、東京のヤネセン(谷中・根津・千駄木)を歩くと常に感じることであるが、「どこか懐かしい」と。特に根津から谷中にかけての路地はその多くは曲がりくねった通りで、狭い路地裏に木造住宅が密集している。そうした横丁・路地裏を歩くということは、いわば「記憶の生産」をしているようなもので、その生産に際しては、実は自分のお気に入りの風景や出来事を重ねている。つまり、現実の横丁・路地裏を歩いている訳ではない。
20年ほど前になるが、若い世代の間で揚げパンブームになったことがあった。それは過去印象深かった学校時代の「何か」、仲間との遊びや授業を揚げパンと一緒に思い起こし食べているということである。
つまり、それらは全て過去の忠実な再現ではない。そこに新しい「何か」を付与して思い出すのである。
Old New、古(いにしえ)が新しい、という意味はまさにそうした「何か」を意味したキーワードとしてある。
“レトロ、下町、というコンセプトは単に「古さ」を懐古することではなく、ある意味未来への入り口、過去のなかに未来を見るという創造的な試みということである。
学ぶべき点は、今顧客はどんな課題・興味を抱えているのか、失われた30年と言われ、大きな曲がり角に立つ今日、解決すべきは興味を入り口としたコンセプト着眼と創造的なテーマづくりである。そのために拙い体験ではあるが、自身の「過去」を振り返りつつ、マーケティング体験を書くこととした。”
ところで「マーケティング」というと何をする仕事かと言えば、簡単に言ってしまえば言葉どおり「市場・顧客をどうつくっていくのか」そのための一連の仕事である。広告代理店の企画部門に身を置いた広告企画以外の最初の大きな仕事がサンキスト社の広島での「ライフスタイル調査」であった。サンキスト社については未来塾においてそのブランディングについてレポートしているのでここではその入り口となったライフスタイル調査についてレポートすることとした。
サンキスト社は米国の柑橘類の生産者組合で本格的に日本への輸出を始める時期であった。そして、市場をどうつくっていくのかその第一歩が広島におけるマーケティングの旅の始まりであった。その後多くの調査を経験してきたが、「ライフスタイル」の調査というのは初めての経験であった。
その「ライフスタイル」と言うキーワードも高度経済成長機を経て、豊かさが実感できる時代の象徴でもあった。カラーテレビ(color TV)、クーラー(cooler)、自家用乗用車(car)が、それぞれの頭文字を取り「3C」と呼ばれて普及していった新しい生活時代。1970年代団塊世代が社会へと出て家庭を持ち、新しい生活をニューファミリーとともにそんな生活をライフスタイルと呼んだ。ちなみに1974年には東京江東区にセブンイレブンの1号店が誕生する。1970年代とは生きるための必需消費から便利さや好みや楽しみといった選択消費への転換の時代であった。
調査から始まった旅
そのライフスタイル調査対象地域として広島を選んだのは、「民力」つまり人口をはじめとした経済力、学校をはじめとした教育の充実度、商業施設や語録施設など多くの指標が全国平均に近かったことによる。つまり全国を市場として考えた訳で、候補地には静岡も挙げられていた。後にサンキストオレンジジュースのテスト販売エリアとしたのが静岡であった。
ところでそのライフスタイル調査であるが、柑橘類の消費実態などの調査項目の他に、どんな生活志向を持っているか、健康をはじめとした生活における価値観の項目も多数ある面接調査であった。つまり、使用実態の裏側にある「価値観」を探ることからいくつかの「クラスター(かたまり)」を見出し、その「意味」を分析する事が調査の主眼であった。コンピュータを使ったいくつかのクラスターの分布を見ながらその「意味」、つまり市場開発の可能性その着眼点を探ることは極めて興味深いものであった。その大きなクラスターは今で言うところの「健康生活志向」でちょうど高度経済成長を果たし豊かさの象徴として市場をポジションすることとなった。図式化すれば、豊かさ=健康=ビタミンC=サンキストレモン、訴求するメディアはTV広告ではなく、徹底した雑誌広告でレモンの黄色を強く印象付ける戦略を採った。勿論、レモンを使ったレシピは雑誌から店頭のPOPまで訴求することとなった。戦略を組み立てるには調査が不可欠で、そのことによって以降のマーケティング活動、更にはビジネスを大きく変えていくものであった。
調査と実感、その第一歩
実はそのライフスタイル調査であるが、ここで学んだことは分析の手法もさることながら、数字で表される「結果」(情報)をどう読み取るかでそこにはどれだけ実感できるかであった。
若いアシスタントであった私を調査対象となった広島を旅させてくれたのは、そのフィールド実感、現場実感を少しでも取得させてあげようと言う配慮からであった。このことは後のほとんどの活動の基礎となった。過剰な情報が日々生まれる今日において、「何」を選び読み解くかその第一歩となった。つまり、実感を伴わない情報は意味のないことであると理解した。
その広島であるが、被曝からの復興が進み数年後には政令指定都市として100万人の人口となる日本の典型的な地方都市である。冒頭写真の夜行列車に乗ったか記憶は定かではないが、東京駅発の特急で翌朝広島駅に着く列車であった。初めての寝台夜行ということから翌朝首筋が痛んだことは記憶に残っている。
広島というと原爆の被災地ということから現場資料館を訪ねることから始めたが、薄暗い館内に焼け焦げた被覆や被災者の写真が展示されており、その悲惨さに眼を背けてしまいたいほどであった。一方、訪れた目的であるサンキストレモンの売り場のある天満屋、広島と岡山の売り場を観察し、写真を撮ったのだが、売り場の方から館内撮影は禁じられていると指摘されバックーヤードに連れて行かれたことを覚えている。名刺を出して事なきを得たのだが。その時の感想であるが、原爆資料館を観てきた後ということから天満屋いう当時は中国地方を代表する百貨店、豊かさを象徴させる新しい商品に溢れた商業との「差」を実感したことを覚えている。
選択消費時代の「調査」
1970年代を生きるための必需消費から選択消費時代への転換の時代であると書いたが、顧客市場を分析するための調査も大きく変ってくることとなった。その「選択」の中心には「ブランド」というが大きな物差しとなっており、ブランドを形成する心理要因が消費に大きく関わってきた。それまでの生きるに必要な必需消費の中心は「食」でありその消費に占める比率をエンゲル係数とよび、その変化を調べる事が調査の第一歩であった。しかし、そのエンゲル係数のウエイトが次第に調査の中心ではなくなってくることとなる。
新しい、面白い、珍しい、そんな商品やサービスは雑誌メディアに取り上げられ、百貨店にはそうした豊かさが店頭に並び消費は活性化した。その中心は若い世代、しかも女性たちであった。詳しくは「昭和文化考」を読んでいただきたいが、ブランド消費が大きな要因となっており消費心理、つまりこの時期から心理市場化しており、調査の分析はこの心理分析へと向かうこととなった。
つまり、モノ不足の時代にあっては「需要と供給」といったマクロ経済学のモデルを一つの仮説として量的
課題、例えば「モノシェア」を上げるための「仮説」が調査の大きなテーマであったが、今日の豊かな時代の「心理」が強く働く市場下にあっては従来とは異なる「心理市場モデル」とでも言うべき新たな方法が必要となっていた。その時整理したのがtし「心理市場下での2つぃの構図」であった。
つまり、従来からあるる調査の転換、質的な調査のあり方を整理したものである。消費という現実社会としては、モノ消費から情報消費、もっと端的に言えば顧客における「物語消費」への転換であった。
この図はアンケートなど多くの調査設問の中の自由解答部分、フリーアンサー(定性情報)」の重要性のために書いた図である。
ところでそのポスト団塊世代が起こした一大消費ブームが「DCブランド」であった。「丸井(OIOI)」や「PARCO」などのファッションビルやデパートの周辺には前日から行列ができるほどの盛況でニュースにも
取り上げられるほどの社会現象であった。周知のように松田光弘・菊池武夫・三宅一生・川久保玲・高橋幸宏のメンバーが渋谷PARCO PART2の広告として、「デザイナーブランド」にコメントを寄せたことから始まる。
中でも今尚活躍されている川久保玲氏のファッションブランド「コム・デ・ギャルソン」はそのコンセプトの斬新さに当時の若者は熱狂した。マス・メディアにはほとんど登場しない、ある意味伝説の人物であり多くの川久保玲評があるが、それまでの「美」の概念をここまでもかと変えた衝撃は大きかった。
女性らしい体に沿ったライン、カラフルで華やかな色使い、といった「既成」を破壊するかのよう
なゆったりとした黒、しかも所々まるで穴が空いたようなデザイン。既成にとらわれない、自立した強い女性のための服である。
一方、男性服ブランドの「コム・デ・ギャルソン オム プリュス」はこれまた既成概念にとらわれた「男らしさ」から男を自由にした服で、肩パッドのないシワシワのジャケットや花柄のデザイン。 川久保玲氏による生き方としてのファッションは、あのシャネルを思い起こさせる。当時のヨーロッパ文化のある意味破壊者で、丈の長いスカート全盛の時代にパンツスタイルを生み、男っぽいと言われながら、
水夫風スタイルを自ら取り入れた。肌を焼く習慣がなかった時代に黒く肌を焼き、マリンスタイルで登場した。そして自分が良いと思えば決して捨て去ることはなかった。過去の破壊者、自由に生きる恋多き女、激しさ、怒り、・・・多くの人がそうシャネルを評しているが、シャネルにとっての服とは、そうした生き方や生活、アイディア等、全てが一つのスタイルとして創られたことにある。川久保玲氏もまさに「自由な生き方」を着る、そんな服である。当時はクールジャパンなどといった言葉は無かったが、世界に誇る新しいデザイン潮流が誕生していた。)後半へ続く)
体調が優れず3ヶ月ほどブログの更新ができなかった。その間これからのブログをどうするか考えていたが、過去のの実務経験と「今」を重ねてマーケティングを考えてみたいとの結論に至った。過去の経験をどこまで思い出せるか、更にうまく書けるかどうか自信はないが、とにかく前へ進めていくつもりだ。
マーケティングの旅(1)
「旅の始まり」
豊かさと共に始まった新たなマーケティング
調査分析と実感
そして心理市場の出現と生成AI
「旅の始まり」
豊かさと共に始まった新たなマーケティング
調査分析と実感
そして心理市場の出現と生成AI
ブログを始めてから20年近くになる。当時は全国のブログ数が70万に満たないネットメディアであった。消費を中心に生活者の動向をレポートしてきたのだが、よりブログ情報を深めるために長文になり、テーマを決めてのシリーズとなった。その最初が「街から学ぶ」で時代の変化が街に映り込む、その変化を観察しレポートした。更には時代の大きな変化である1990年代初頭のバブル崩壊やコロナ禍といった生活に劇的変化をもたらしたテーマを「未来塾」として公開し今日に至っている。そして、今回過去50年マーケティング実務の経験を通じ得られた、今なお大切にしてきた経験(特に暗黙知)を公開していく予定である。ある意味50年の「まとめ」のようなものだが、「過去」に遡りつつ「今」を考える、そんな分析をしてみたい。
“過去のなかに未来を見る
「街から学ぶ」にも書いたことだが、東京のヤネセン(谷中・根津・千駄木)を歩くと常に感じることであるが、「どこか懐かしい」と。特に根津から谷中にかけての路地はその多くは曲がりくねった通りで、狭い路地裏に木造住宅が密集している。そうした横丁・路地裏を歩くということは、いわば「記憶の生産」をしているようなもので、その生産に際しては、実は自分のお気に入りの風景や出来事を重ねている。つまり、現実の横丁・路地裏を歩いている訳ではない。
20年ほど前になるが、若い世代の間で揚げパンブームになったことがあった。それは過去印象深かった学校時代の「何か」、仲間との遊びや授業を揚げパンと一緒に思い起こし食べているということである。
つまり、それらは全て過去の忠実な再現ではない。そこに新しい「何か」を付与して思い出すのである。
Old New、古(いにしえ)が新しい、という意味はまさにそうした「何か」を意味したキーワードとしてある。
“レトロ、下町、というコンセプトは単に「古さ」を懐古することではなく、ある意味未来への入り口、過去のなかに未来を見るという創造的な試みということである。
学ぶべき点は、今顧客はどんな課題・興味を抱えているのか、失われた30年と言われ、大きな曲がり角に立つ今日、解決すべきは興味を入り口としたコンセプト着眼と創造的なテーマづくりである。そのために拙い体験ではあるが、自身の「過去」を振り返りつつ、マーケティング体験を書くこととした。”
ところで「マーケティング」というと何をする仕事かと言えば、簡単に言ってしまえば言葉どおり「市場・顧客をどうつくっていくのか」そのための一連の仕事である。広告代理店の企画部門に身を置いた広告企画以外の最初の大きな仕事がサンキスト社の広島での「ライフスタイル調査」であった。サンキスト社については未来塾においてそのブランディングについてレポートしているのでここではその入り口となったライフスタイル調査についてレポートすることとした。
サンキスト社は米国の柑橘類の生産者組合で本格的に日本への輸出を始める時期であった。そして、市場をどうつくっていくのかその第一歩が広島におけるマーケティングの旅の始まりであった。その後多くの調査を経験してきたが、「ライフスタイル」の調査というのは初めての経験であった。
その「ライフスタイル」と言うキーワードも高度経済成長機を経て、豊かさが実感できる時代の象徴でもあった。カラーテレビ(color TV)、クーラー(cooler)、自家用乗用車(car)が、それぞれの頭文字を取り「3C」と呼ばれて普及していった新しい生活時代。1970年代団塊世代が社会へと出て家庭を持ち、新しい生活をニューファミリーとともにそんな生活をライフスタイルと呼んだ。ちなみに1974年には東京江東区にセブンイレブンの1号店が誕生する。1970年代とは生きるための必需消費から便利さや好みや楽しみといった選択消費への転換の時代であった。
調査から始まった旅
そのライフスタイル調査対象地域として広島を選んだのは、「民力」つまり人口をはじめとした経済力、学校をはじめとした教育の充実度、商業施設や語録施設など多くの指標が全国平均に近かったことによる。つまり全国を市場として考えた訳で、候補地には静岡も挙げられていた。後にサンキストオレンジジュースのテスト販売エリアとしたのが静岡であった。
ところでそのライフスタイル調査であるが、柑橘類の消費実態などの調査項目の他に、どんな生活志向を持っているか、健康をはじめとした生活における価値観の項目も多数ある面接調査であった。つまり、使用実態の裏側にある「価値観」を探ることからいくつかの「クラスター(かたまり)」を見出し、その「意味」を分析する事が調査の主眼であった。コンピュータを使ったいくつかのクラスターの分布を見ながらその「意味」、つまり市場開発の可能性その着眼点を探ることは極めて興味深いものであった。その大きなクラスターは今で言うところの「健康生活志向」でちょうど高度経済成長を果たし豊かさの象徴として市場をポジションすることとなった。図式化すれば、豊かさ=健康=ビタミンC=サンキストレモン、訴求するメディアはTV広告ではなく、徹底した雑誌広告でレモンの黄色を強く印象付ける戦略を採った。勿論、レモンを使ったレシピは雑誌から店頭のPOPまで訴求することとなった。戦略を組み立てるには調査が不可欠で、そのことによって以降のマーケティング活動、更にはビジネスを大きく変えていくものであった。
調査と実感、その第一歩
実はそのライフスタイル調査であるが、ここで学んだことは分析の手法もさることながら、数字で表される「結果」(情報)をどう読み取るかでそこにはどれだけ実感できるかであった。
若いアシスタントであった私を調査対象となった広島を旅させてくれたのは、そのフィールド実感、現場実感を少しでも取得させてあげようと言う配慮からであった。このことは後のほとんどの活動の基礎となった。過剰な情報が日々生まれる今日において、「何」を選び読み解くかその第一歩となった。つまり、実感を伴わない情報は意味のないことであると理解した。
その広島であるが、被曝からの復興が進み数年後には政令指定都市として100万人の人口となる日本の典型的な地方都市である。冒頭写真の夜行列車に乗ったか記憶は定かではないが、東京駅発の特急で翌朝広島駅に着く列車であった。初めての寝台夜行ということから翌朝首筋が痛んだことは記憶に残っている。
広島というと原爆の被災地ということから現場資料館を訪ねることから始めたが、薄暗い館内に焼け焦げた被覆や被災者の写真が展示されており、その悲惨さに眼を背けてしまいたいほどであった。一方、訪れた目的であるサンキストレモンの売り場のある天満屋、広島と岡山の売り場を観察し、写真を撮ったのだが、売り場の方から館内撮影は禁じられていると指摘されバックーヤードに連れて行かれたことを覚えている。名刺を出して事なきを得たのだが。その時の感想であるが、原爆資料館を観てきた後ということから天満屋いう当時は中国地方を代表する百貨店、豊かさを象徴させる新しい商品に溢れた商業との「差」を実感したことを覚えている。
選択消費時代の「調査」
1970年代を生きるための必需消費から選択消費時代への転換の時代であると書いたが、顧客市場を分析するための調査も大きく変ってくることとなった。その「選択」の中心には「ブランド」というが大きな物差しとなっており、ブランドを形成する心理要因が消費に大きく関わってきた。それまでの生きるに必要な必需消費の中心は「食」でありその消費に占める比率をエンゲル係数とよび、その変化を調べる事が調査の第一歩であった。しかし、そのエンゲル係数のウエイトが次第に調査の中心ではなくなってくることとなる。
新しい、面白い、珍しい、そんな商品やサービスは雑誌メディアに取り上げられ、百貨店にはそうした豊かさが店頭に並び消費は活性化した。その中心は若い世代、しかも女性たちであった。詳しくは「昭和文化考」を読んでいただきたいが、ブランド消費が大きな要因となっており消費心理、つまりこの時期から心理市場化しており、調査の分析はこの心理分析へと向かうこととなった。
つまり、モノ不足の時代にあっては「需要と供給」といったマクロ経済学のモデルを一つの仮説として量的
課題、例えば「モノシェア」を上げるための「仮説」が調査の大きなテーマであったが、今日の豊かな時代の「心理」が強く働く市場下にあっては従来とは異なる「心理市場モデル」とでも言うべき新たな方法が必要となっていた。その時整理したのがtし「心理市場下での2つぃの構図」であった。
つまり、従来からあるる調査の転換、質的な調査のあり方を整理したものである。消費という現実社会としては、モノ消費から情報消費、もっと端的に言えば顧客における「物語消費」への転換であった。
この図はアンケートなど多くの調査設問の中の自由解答部分、フリーアンサー(定性情報)」の重要性のために書いた図である。
ところでそのポスト団塊世代が起こした一大消費ブームが「DCブランド」であった。「丸井(OIOI)」や「PARCO」などのファッションビルやデパートの周辺には前日から行列ができるほどの盛況でニュースにも
取り上げられるほどの社会現象であった。周知のように松田光弘・菊池武夫・三宅一生・川久保玲・高橋幸宏のメンバーが渋谷PARCO PART2の広告として、「デザイナーブランド」にコメントを寄せたことから始まる。
中でも今尚活躍されている川久保玲氏のファッションブランド「コム・デ・ギャルソン」はそのコンセプトの斬新さに当時の若者は熱狂した。マス・メディアにはほとんど登場しない、ある意味伝説の人物であり多くの川久保玲評があるが、それまでの「美」の概念をここまでもかと変えた衝撃は大きかった。
女性らしい体に沿ったライン、カラフルで華やかな色使い、といった「既成」を破壊するかのよう
なゆったりとした黒、しかも所々まるで穴が空いたようなデザイン。既成にとらわれない、自立した強い女性のための服である。
一方、男性服ブランドの「コム・デ・ギャルソン オム プリュス」はこれまた既成概念にとらわれた「男らしさ」から男を自由にした服で、肩パッドのないシワシワのジャケットや花柄のデザイン。 川久保玲氏による生き方としてのファッションは、あのシャネルを思い起こさせる。当時のヨーロッパ文化のある意味破壊者で、丈の長いスカート全盛の時代にパンツスタイルを生み、男っぽいと言われながら、
水夫風スタイルを自ら取り入れた。肌を焼く習慣がなかった時代に黒く肌を焼き、マリンスタイルで登場した。そして自分が良いと思えば決して捨て去ることはなかった。過去の破壊者、自由に生きる恋多き女、激しさ、怒り、・・・多くの人がそうシャネルを評しているが、シャネルにとっての服とは、そうした生き方や生活、アイディア等、全てが一つのスタイルとして創られたことにある。川久保玲氏もまさに「自由な生き方」を着る、そんな服である。当時はクールジャパンなどといった言葉は無かったが、世界に誇る新しいデザイン潮流が誕生していた。)後半へ続く)
タグ :ま0ケティング
2023年03月19日
◆春雑感
ヒット商品応援団日記No817(毎週更新) 2023.3,19
東京では桜が見ごろになり、人出も増えてきた。3年にわたるコロナ禍も終えWBCにおける日本代表の活躍もあって気持ちが晴れてきたからであろう。周知のように花見は江戸中期から始まり、梅見、桜見、桃見と季節の移ろいを楽しんできたが、場所によってはコロナ禍以前の宴会もできるようになった。
世代によって春の迎え方は異なるが、まず思い出すのが「春よ、来い」(はるよ こい)で、松任谷由実が1994年10月にリリースした 曲である。多くの人が早く春が来て欲しい、そんな思いを見事に歌った名曲であろう。
実はおもしろいことに、昭和のヒットメーカーである阿久悠さんに「春夏秋秋」という曲がある。「春夏秋冬」ではない。1992年に石川さゆりに書いた曲で、
♪ああ 私 もう 冬に生きたくありません
春夏秋秋 そんな一年 あなたと過ごしたい・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
来ませんか 来ませんか 幸せになりに来ませんか・・・・・
冬の時代が長かった女性を想い歌ったものだが、四季は生活の中に変化をもたらし、そこに喜怒哀楽を重ねたり、情緒を感じたり、美を見出したり、季節の変化という巡り合わせを楽しんできた。
コロナ禍の3年に加え、ウクライナ戦争に物価高といった「冬」のような季節の1年であったが、桜の開花と共にWBCにおける大谷選手をはじめとした若いチームが一つになってひととき冬を追い払ってくれた。にわかフアンが増えたせいか準々決勝のイタリア戦では関東地区における世帯視聴率は48%に及んだ。このチームの主要メンバーはあのZ世代である。
ところでコロナ禍の3年間、冬の時代を過ごしてきた学生にとってやっと訪れた春である。好きなミュージシャンのライブにも行けない、友人と街歩きもできない、ほとんどの学校行事は縮小もしくは中止で、部活も思いきりできなかった。日常の学校生活の基本である人と人との接触すら制限された。そして、卒業を迎える。
この季節思い出すのは2009年春、NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲「手紙」である。アンジェラ・アキが歌った「手紙」のことを思い出す。当時は「冬」ではなく、春夏秋冬、四季のある時代であるが、その「手紙」は悩み多き世代に向けた応援歌である。ところで当時のブログに次のようなコメントを書いた。
『アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける。そして、生まれたのが「手紙」という曲だ。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌である。
♪大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけれど
苦くて甘い今を生きている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じて歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう
ありのままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送る「ガンバラないけどいいでしょう」を歌う昭和の吉田拓郎とどこかでつながっている。
また、卒業、NHKの全国学校音楽コンクールといえば、やはり「いきものがかり」 のYELLを思い出す。YELLの後半歌詞に次のようなフレーズがある。
・・・・・・・・・・
♪サヨナラは悲しい言葉じゃない
それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL
いつかまためぐり逢うそのときまで
忘れはしない誇りよ 友よ 空へ
僕らが分かち合う言葉がある
こころからこころへ 言葉を繋ぐ YELL
ともに過ごした日々を胸に抱いて
飛び立つよ 独りで 未来(つぎ)の 空へ
ところで人生の大きな節目である卒業の先には入学がある。新しい人生を歩むわけだが、その人生もよう、人もようを曲にした阿久悠さんは2002年自らの人生を石川さゆりに歌わせる。この自伝的な曲「転がる石」は次のような詞である。
♪十五は 胸を患って
咳きこむたびに 血を吐いた
十六 父の夢こわし
軟派の道を こころざす
十七 本を読むばかり
愛することも 臆病で
十八 家出の夢をみて
こっそり手紙 書きつづけ
・・・・・・
転がる石は どこへ行く
転がる石は 坂まかせ
どうせ転げて 行くのなら
親の知らない 遠い場所※
怒りを持てば 胸破れ
昂(たかぶ)りさえも 鎮めつつ
はしゃいで生きる 青春は
俺にはないと 思ってた
迷わぬけれど このままじゃ
苔にまみれた 石になる
石なら石で 思いきり
転げてみると 考えた
自らをも鼓舞する応援歌「ファイト」を歌った中島みゆきの人生歌と重なる。そして、「転がる石」の意味合いを阿久悠さんは次のように「甲子園の歌 敗れざる君たちへ」(幻戯書房刊)で次のように書いている。
『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』
ちょうど今選抜高校野球が始まった。ピカピカに磨き上げて舞台に立ったWBCのニュースの影に隠れてあまり話題には登らないが、いくつもの転がる石を見るであろう。準々決勝のイタリア戦で大谷翔平が見せたセーフティバントを栗山監督は「あれが大谷翔平で、野球小僧だと」評した。野球が好きで好きでなんとしてでも勝ちたいと思う気持ち、心情を「野球小僧」と評したのである。それはまだまだ転がる石を続けるという意味でもある。阿久悠さんの言葉を借りれば、コロナ禍という苔にまみれた3年であったが、やっと春を迎えることができた。(続く)
東京では桜が見ごろになり、人出も増えてきた。3年にわたるコロナ禍も終えWBCにおける日本代表の活躍もあって気持ちが晴れてきたからであろう。周知のように花見は江戸中期から始まり、梅見、桜見、桃見と季節の移ろいを楽しんできたが、場所によってはコロナ禍以前の宴会もできるようになった。
世代によって春の迎え方は異なるが、まず思い出すのが「春よ、来い」(はるよ こい)で、松任谷由実が1994年10月にリリースした 曲である。多くの人が早く春が来て欲しい、そんな思いを見事に歌った名曲であろう。
実はおもしろいことに、昭和のヒットメーカーである阿久悠さんに「春夏秋秋」という曲がある。「春夏秋冬」ではない。1992年に石川さゆりに書いた曲で、
♪ああ 私 もう 冬に生きたくありません
春夏秋秋 そんな一年 あなたと過ごしたい・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
来ませんか 来ませんか 幸せになりに来ませんか・・・・・
冬の時代が長かった女性を想い歌ったものだが、四季は生活の中に変化をもたらし、そこに喜怒哀楽を重ねたり、情緒を感じたり、美を見出したり、季節の変化という巡り合わせを楽しんできた。
コロナ禍の3年に加え、ウクライナ戦争に物価高といった「冬」のような季節の1年であったが、桜の開花と共にWBCにおける大谷選手をはじめとした若いチームが一つになってひととき冬を追い払ってくれた。にわかフアンが増えたせいか準々決勝のイタリア戦では関東地区における世帯視聴率は48%に及んだ。このチームの主要メンバーはあのZ世代である。
ところでコロナ禍の3年間、冬の時代を過ごしてきた学生にとってやっと訪れた春である。好きなミュージシャンのライブにも行けない、友人と街歩きもできない、ほとんどの学校行事は縮小もしくは中止で、部活も思いきりできなかった。日常の学校生活の基本である人と人との接触すら制限された。そして、卒業を迎える。
この季節思い出すのは2009年春、NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲「手紙」である。アンジェラ・アキが歌った「手紙」のことを思い出す。当時は「冬」ではなく、春夏秋冬、四季のある時代であるが、その「手紙」は悩み多き世代に向けた応援歌である。ところで当時のブログに次のようなコメントを書いた。
『アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける。そして、生まれたのが「手紙」という曲だ。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌である。
♪大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけれど
苦くて甘い今を生きている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じて歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう
ありのままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送る「ガンバラないけどいいでしょう」を歌う昭和の吉田拓郎とどこかでつながっている。
また、卒業、NHKの全国学校音楽コンクールといえば、やはり「いきものがかり」 のYELLを思い出す。YELLの後半歌詞に次のようなフレーズがある。
・・・・・・・・・・
♪サヨナラは悲しい言葉じゃない
それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL
いつかまためぐり逢うそのときまで
忘れはしない誇りよ 友よ 空へ
僕らが分かち合う言葉がある
こころからこころへ 言葉を繋ぐ YELL
ともに過ごした日々を胸に抱いて
飛び立つよ 独りで 未来(つぎ)の 空へ
ところで人生の大きな節目である卒業の先には入学がある。新しい人生を歩むわけだが、その人生もよう、人もようを曲にした阿久悠さんは2002年自らの人生を石川さゆりに歌わせる。この自伝的な曲「転がる石」は次のような詞である。
♪十五は 胸を患って
咳きこむたびに 血を吐いた
十六 父の夢こわし
軟派の道を こころざす
十七 本を読むばかり
愛することも 臆病で
十八 家出の夢をみて
こっそり手紙 書きつづけ
・・・・・・
転がる石は どこへ行く
転がる石は 坂まかせ
どうせ転げて 行くのなら
親の知らない 遠い場所※
怒りを持てば 胸破れ
昂(たかぶ)りさえも 鎮めつつ
はしゃいで生きる 青春は
俺にはないと 思ってた
迷わぬけれど このままじゃ
苔にまみれた 石になる
石なら石で 思いきり
転げてみると 考えた
自らをも鼓舞する応援歌「ファイト」を歌った中島みゆきの人生歌と重なる。そして、「転がる石」の意味合いを阿久悠さんは次のように「甲子園の歌 敗れざる君たちへ」(幻戯書房刊)で次のように書いている。
『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』
ちょうど今選抜高校野球が始まった。ピカピカに磨き上げて舞台に立ったWBCのニュースの影に隠れてあまり話題には登らないが、いくつもの転がる石を見るであろう。準々決勝のイタリア戦で大谷翔平が見せたセーフティバントを栗山監督は「あれが大谷翔平で、野球小僧だと」評した。野球が好きで好きでなんとしてでも勝ちたいと思う気持ち、心情を「野球小僧」と評したのである。それはまだまだ転がる石を続けるという意味でもある。阿久悠さんの言葉を借りれば、コロナ禍という苔にまみれた3年であったが、やっと春を迎えることができた。(続く)
タグ :WBC
2023年02月26日
◆変化する家族観
ヒット商品応援団日記No816(毎週更新) 2023.2,26
国会で焦点に浮上しているのが、性的マイノリティー、LGBTの人たちへの理解を増進するための法案の扱いだ。岸田首相は国会での発言として、「家族観や価値観、そして社会が変わってしまう課題なので、社会全体の雰囲気のありように思いをめぐらせた上で判断することが大事だ」と答弁している。この発言を聞いて、間違った社会認識の元での発言であるか、いかに時代錯誤でと感じる人も多かったかと思う。
私のブログを読まれた方にとっては周知のことだが、現在の日本人のライフスタイルの原型は江戸時代にある。ライフスタイルの根底には社会観を始め、家族観や自然観、死生観など多くの価値の元でのことだが、周知のように江戸時代の社会を作っていたのは一般庶民で武士階級ではなかった。地域や時代によっても異なるが、人口構成を見てもわかるように江戸時代の初期においては武士階級は7%程度で圧倒的多数は農民であった。いわゆる町人と呼ばれた商人や職人は5%程度であったが、江戸の町は人返し令が出るほどまでに膨れ上がり140万人とも120万人とも言われ町人比率は高かったと言われている。享保6年の調査では町人人口は50%を超えており、特に商業の発展は凄まじく、例えば火事が多かった江戸の近郊では植林が行われ木材を供給する林業が新たに生まれ、さらには火事で焼失を免れた木材についても再生して利用するといった今日でいうところのリサイクルも発達していた。あるいは日本橋には江戸前でとれた魚介類を商いする市場が開かれ、近くの海には生簀が作られいわゆる活魚すらあったほどである。今なお残る江戸文化はこの商業の発展に伴う町人によって作られたものである。
この町人文化についてはこれまで回数多く書いてきたのでこれ以上書くことはないが、江戸時代の町人における「家族観」や「夫婦観」はどうかと言えば、今日と比較しても「パートナーシップ」によって生活がなされており、いや「かかあ天下」という言葉が生まれたように実は女性上位の社会であった。
こうした日本が周知のように明治維新よって日本史上初めて国民国家が成立する。いわゆる近代化であるが、当時の世界は欧米列強による植民地政策は進んでおり、日本も富国強兵が急務となった。この富国強兵を制度化したのが、徴兵制度と徴税制度であった。この制度を適用するために武士階級における「家制度」を参考にしたと専門家は指摘している。この家制度とは家父長制度のことで、今日もなお形骸化しつつも残っている制度である。日清戦争、日露戦争という時代の国民意識は司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」を読むと実感できるかもしれない。
ところで戦後、徴兵制度はなくなり、家制度の柱でもあった天皇制は象徴天皇へと改変した。しかし、地方、特に農村部では家父長制度は色濃く残っていたが、戦後の産業変化に伴い地方から都市へと人口移動が進みいわゆる出稼ぎが日本経済を支えることとなる。家族制度で言えば、映画「ALWAYS三丁目の夕日」ではないが崩壊する家制度にあって、若い労働者を迎い入れた父性、母性は残っていた。もっと平易に言えば「人情」というDNAが江戸時代の町人文化とともに国民性の底流を成していたと言えなくはない。
こうした「昭和」については未来塾「昭和文化考」にて詳しく分析しているので再読してほしい。1980年代に入ると視聴率50%を超えていたお化け番組「8時だよ全員集合」が終了する。周知のように TVを前にした家族団欒の風景はなくなっていく。家父長制がなくなっていくことであり、また漫画家中尊寺ゆっこが描いたマンガが社会現象化していく。従来男の牙城であった居酒屋、競馬場、パチンコ屋にOLが乗り込むといった女性の本音を描いたもので多くの女性の共感を得たマンガであった。その俗称が「オヤジギャル」で流行語大賞にもなっていた。男尊女卑どころか女性上位時代の復活である。また、家族関係で言えば、団塊世代の親子関係は「友達親子」と呼ばれ互いに尊重していく関係が生まれる。つまり、この1980年代は家族単位から個人単位への転換であり、個人化社会の波が押し寄せ、個人価値優先の時代へと向かう。
実はこうした個人化社会は1990年代初頭のバブル崩壊によって更に大きく変化していくこととなる。今なお経済面ではデフレを解決できない状態となっているが、「個人化」という未知の世界に迷い込むことでもあった。バブル崩壊を強烈に印象づけたのがベストセラーとなった田村裕(漫才コンビ・麒麟)の自叙伝「ホームレス中学生」であろう。「ホームレス中学生」はフィクションである「一杯のかけそば」を想起させる内容であるが、兄姉3人と亡き母との絆の実話である。時代のリアリティそのもので、リストラに遭った父から「もうこの家に住むことはできなくなりました。解散!」という一言から兄姉バラバラ、公園でのホームレス生活が始まる。当たり前にあった日常、当たり前のこととしてあった家族の絆はいとも簡単に崩れる時代である。作者の田村裕さんは、この「当たり前にあったこと」の大切さを亡き母との思い出を追想しながら、感謝の気持ちを書いていくという実話だ。
そして、1990年代後半既成の価値観に囲まれた社会が崩壊し混乱した結果の一つとして、「ホームレス中学生」ほどではないが、家庭にも学校にも居場所を無くした若いティーンが街へと放浪することとなる。援助交際や薬物に手を出すティーンが社会問題となる。この頃言われたのが家庭崩壊である。
勿論、すべての家族が崩壊したわけではない、夫婦共稼ぎが一般化し、学校から自宅に帰っても話し相手もいない、食事も1人で、そんな家庭環境がティーンの放浪への入り口となる。それまでの「個室」といった住まいかた、暮らしかたも家族が集まることができるリビング中心の生活へと変化し、親子の「会話」が重要視されていく。
そして、次第に問題の本質が明らかになっていく。実は「居場所」がないという問題、つまり「引きこもり」という言葉が次第に社会の面へと出てくることとなる。家族との「会話」を拒否する人間が膨れ上がっていく。その延長線上に2019年5月28日川崎市登戸通り魔事件が起きる。自殺した犯人が極度の引きこもり状態にあり、いわゆる「80 50問題」という少子高齢社会の構造上の問題が明らかになる。80 50問題、中高年引きこもり61万人と報道された事件である。少子高齢社会が抱えた歪みから生まれた象徴的な事件であった。
「居場所を求める」というと、何か無縁時代の孤立した人間の居場所のことが焦点になってしまいがちであるが、生を受けてから死ぬまで人は居場所と共に生きる。その居場所は少し歴史を遡ってみたが、1980年代以降、生活の豊かさと共に多様化し、居場所を求めて街に漂流する少女たちのような社会問題もまた生まれてきた。
家族から個人へ、という潮流は再び家族へという揺れ戻しがあっても、その方向に変わりはない。この個人化社会の進行は常に「自分確認」を必要とする時代のことである。その最大のものがSNSにおける承認欲求であろう。どれだけフォロワーを作れるか、「いいね」をどれだけ集められるか、ひと頃の騒々しさはなくなってはいるが、誰もが「承認」してもらいたい、認めてもらいたい、そんな欲求は変わらない。しかし、自分確認どころかネット上にもいじめや嫉妬は渦巻いている。しかも、今やネット上のSNSには虚像・虚飾でないものを探すのが難しいほどである。現在を「アイデンティティの時代」と呼ぶ専門家もいるように、実はこうした過剰な情報によって「私」が見えなくなっているからである。「私」というアイデンティティが鮮明にならない、他者から「あなたは〇〇よ」と言ってほしい、その一言で安心したい、そんな時代である。
しかし、間違ってはならないが、「個人化」は家族を否定するものではない。東京や大阪といった都市での暮らし方は単身アパートからシェアハウスへと変化してきている。今や物件数は全国で5057件に及びその人気は定着している。周知のように自分の部屋とは別に、共同利用できる共有スペースを持った賃貸住宅のことで、共同住宅ならではの「共有」と「交流」を楽しめるあたらしい住まい方である。家族という視点から言えば、地方の実家との家族関係を維持しながら、新たな他人との関係を経験する暮らし方である。
かなり前になるが、シェアハウスが若い世代に人気が出始めた頃思い出したのは、江戸時代の庶民の暮らし方であった。江戸時代の庶民のほとんどはいわゆる「長屋」で、居住スペースは狭く、共同の炊事&洗濯場、共同のトイレ、ホコリの多かった江戸では銭湯が流行り社交場にもなったように「町単位」のコミュニティ が作られていた。
互いのプライバシーを配慮し、助け合い、リーダーには「大家」がいて町役人も兼ねたコミュニティが存在していた。江戸の町を「大江戸八百八町」と言われるが、実際には1000近くの町があって、今も残る祭りもそうだが多くの行事の他にも日常的に清掃など全員参加で競い合っていた。「町」というコミュニティ を家族という視座で見ていくとどんなコミュニティであったかが良くわかる。例えば、いくつか事例が残っているが、未婚女性が子供を授かるが子育てができなくて家出をしてしまう。そんな時コミュニティのりーダーである大家は授かった命だからと言って子育て経験のある女性にその子育てを任す。いまでいうネグレクトであるが、熊本の「赤ちゃんポスト」と同じで長屋という社会が子育てを行っていたということであった。
ところでシェアハウスもそうだが、家庭から離れた多様なコミュニティが生まれている。コミュニティとは、同じ価値観、同じ考え、同じ趣味、同じ生き方・・・・・・・「同じ」文化を共有する集まりのことで、新たな生活の単位にまで進化してきている。
実は貧困家庭の支援の一つとしてこども食堂がある。次第に全国へと拡大し、2022年度には7331箇所にまで広がっている。その多くは母子家庭であるが、子供の貧困からスタートした食堂は子育て支援へ、更には地域づくりへと進化し街のコミュニティの一角を占めるようになった。ジャーナリストの大谷昭宏氏はそのブログの中で「心もいっぱいになるこども食堂」と表現している。母親にとってこども食堂はもう一つのこころを満たしてくれる「家庭」であるということだ。つまり、「居場所」も多様化し進化してきているということである。
今回歴史を俯瞰して見てきたが、10年ほど前に無縁社会というキーワードが注目されたことがあった。きっかけは無縁死(孤独死)が32000人にも及んでいることからであった。バラバラとなった個人社会を繋ぎ直す試み、新たな縁をつくる試みは多くのところで始まっている。こうした中で、家族、個人が問い直され成熟へと向かっており、既に社会の変革は始まっている。
性的マイノリティー、LGBTと言った課題も性を含めた家族・個人の問い直しによって社会の面へと出てきた。日本もやっと正面から論議される段階にまで進化してきたということだ。江戸時代から変わらない価値観もあれば、時代に沿って変わることもある。しかし、400数十年前の江戸時代がいかに相互扶助の社会であったか、コミュニティの知恵など今一度振り返ることも必要であろう。(続く)
国会で焦点に浮上しているのが、性的マイノリティー、LGBTの人たちへの理解を増進するための法案の扱いだ。岸田首相は国会での発言として、「家族観や価値観、そして社会が変わってしまう課題なので、社会全体の雰囲気のありように思いをめぐらせた上で判断することが大事だ」と答弁している。この発言を聞いて、間違った社会認識の元での発言であるか、いかに時代錯誤でと感じる人も多かったかと思う。
私のブログを読まれた方にとっては周知のことだが、現在の日本人のライフスタイルの原型は江戸時代にある。ライフスタイルの根底には社会観を始め、家族観や自然観、死生観など多くの価値の元でのことだが、周知のように江戸時代の社会を作っていたのは一般庶民で武士階級ではなかった。地域や時代によっても異なるが、人口構成を見てもわかるように江戸時代の初期においては武士階級は7%程度で圧倒的多数は農民であった。いわゆる町人と呼ばれた商人や職人は5%程度であったが、江戸の町は人返し令が出るほどまでに膨れ上がり140万人とも120万人とも言われ町人比率は高かったと言われている。享保6年の調査では町人人口は50%を超えており、特に商業の発展は凄まじく、例えば火事が多かった江戸の近郊では植林が行われ木材を供給する林業が新たに生まれ、さらには火事で焼失を免れた木材についても再生して利用するといった今日でいうところのリサイクルも発達していた。あるいは日本橋には江戸前でとれた魚介類を商いする市場が開かれ、近くの海には生簀が作られいわゆる活魚すらあったほどである。今なお残る江戸文化はこの商業の発展に伴う町人によって作られたものである。
この町人文化についてはこれまで回数多く書いてきたのでこれ以上書くことはないが、江戸時代の町人における「家族観」や「夫婦観」はどうかと言えば、今日と比較しても「パートナーシップ」によって生活がなされており、いや「かかあ天下」という言葉が生まれたように実は女性上位の社会であった。
こうした日本が周知のように明治維新よって日本史上初めて国民国家が成立する。いわゆる近代化であるが、当時の世界は欧米列強による植民地政策は進んでおり、日本も富国強兵が急務となった。この富国強兵を制度化したのが、徴兵制度と徴税制度であった。この制度を適用するために武士階級における「家制度」を参考にしたと専門家は指摘している。この家制度とは家父長制度のことで、今日もなお形骸化しつつも残っている制度である。日清戦争、日露戦争という時代の国民意識は司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」を読むと実感できるかもしれない。
ところで戦後、徴兵制度はなくなり、家制度の柱でもあった天皇制は象徴天皇へと改変した。しかし、地方、特に農村部では家父長制度は色濃く残っていたが、戦後の産業変化に伴い地方から都市へと人口移動が進みいわゆる出稼ぎが日本経済を支えることとなる。家族制度で言えば、映画「ALWAYS三丁目の夕日」ではないが崩壊する家制度にあって、若い労働者を迎い入れた父性、母性は残っていた。もっと平易に言えば「人情」というDNAが江戸時代の町人文化とともに国民性の底流を成していたと言えなくはない。
こうした「昭和」については未来塾「昭和文化考」にて詳しく分析しているので再読してほしい。1980年代に入ると視聴率50%を超えていたお化け番組「8時だよ全員集合」が終了する。周知のように TVを前にした家族団欒の風景はなくなっていく。家父長制がなくなっていくことであり、また漫画家中尊寺ゆっこが描いたマンガが社会現象化していく。従来男の牙城であった居酒屋、競馬場、パチンコ屋にOLが乗り込むといった女性の本音を描いたもので多くの女性の共感を得たマンガであった。その俗称が「オヤジギャル」で流行語大賞にもなっていた。男尊女卑どころか女性上位時代の復活である。また、家族関係で言えば、団塊世代の親子関係は「友達親子」と呼ばれ互いに尊重していく関係が生まれる。つまり、この1980年代は家族単位から個人単位への転換であり、個人化社会の波が押し寄せ、個人価値優先の時代へと向かう。
実はこうした個人化社会は1990年代初頭のバブル崩壊によって更に大きく変化していくこととなる。今なお経済面ではデフレを解決できない状態となっているが、「個人化」という未知の世界に迷い込むことでもあった。バブル崩壊を強烈に印象づけたのがベストセラーとなった田村裕(漫才コンビ・麒麟)の自叙伝「ホームレス中学生」であろう。「ホームレス中学生」はフィクションである「一杯のかけそば」を想起させる内容であるが、兄姉3人と亡き母との絆の実話である。時代のリアリティそのもので、リストラに遭った父から「もうこの家に住むことはできなくなりました。解散!」という一言から兄姉バラバラ、公園でのホームレス生活が始まる。当たり前にあった日常、当たり前のこととしてあった家族の絆はいとも簡単に崩れる時代である。作者の田村裕さんは、この「当たり前にあったこと」の大切さを亡き母との思い出を追想しながら、感謝の気持ちを書いていくという実話だ。
そして、1990年代後半既成の価値観に囲まれた社会が崩壊し混乱した結果の一つとして、「ホームレス中学生」ほどではないが、家庭にも学校にも居場所を無くした若いティーンが街へと放浪することとなる。援助交際や薬物に手を出すティーンが社会問題となる。この頃言われたのが家庭崩壊である。
勿論、すべての家族が崩壊したわけではない、夫婦共稼ぎが一般化し、学校から自宅に帰っても話し相手もいない、食事も1人で、そんな家庭環境がティーンの放浪への入り口となる。それまでの「個室」といった住まいかた、暮らしかたも家族が集まることができるリビング中心の生活へと変化し、親子の「会話」が重要視されていく。
そして、次第に問題の本質が明らかになっていく。実は「居場所」がないという問題、つまり「引きこもり」という言葉が次第に社会の面へと出てくることとなる。家族との「会話」を拒否する人間が膨れ上がっていく。その延長線上に2019年5月28日川崎市登戸通り魔事件が起きる。自殺した犯人が極度の引きこもり状態にあり、いわゆる「80 50問題」という少子高齢社会の構造上の問題が明らかになる。80 50問題、中高年引きこもり61万人と報道された事件である。少子高齢社会が抱えた歪みから生まれた象徴的な事件であった。
「居場所を求める」というと、何か無縁時代の孤立した人間の居場所のことが焦点になってしまいがちであるが、生を受けてから死ぬまで人は居場所と共に生きる。その居場所は少し歴史を遡ってみたが、1980年代以降、生活の豊かさと共に多様化し、居場所を求めて街に漂流する少女たちのような社会問題もまた生まれてきた。
家族から個人へ、という潮流は再び家族へという揺れ戻しがあっても、その方向に変わりはない。この個人化社会の進行は常に「自分確認」を必要とする時代のことである。その最大のものがSNSにおける承認欲求であろう。どれだけフォロワーを作れるか、「いいね」をどれだけ集められるか、ひと頃の騒々しさはなくなってはいるが、誰もが「承認」してもらいたい、認めてもらいたい、そんな欲求は変わらない。しかし、自分確認どころかネット上にもいじめや嫉妬は渦巻いている。しかも、今やネット上のSNSには虚像・虚飾でないものを探すのが難しいほどである。現在を「アイデンティティの時代」と呼ぶ専門家もいるように、実はこうした過剰な情報によって「私」が見えなくなっているからである。「私」というアイデンティティが鮮明にならない、他者から「あなたは〇〇よ」と言ってほしい、その一言で安心したい、そんな時代である。
しかし、間違ってはならないが、「個人化」は家族を否定するものではない。東京や大阪といった都市での暮らし方は単身アパートからシェアハウスへと変化してきている。今や物件数は全国で5057件に及びその人気は定着している。周知のように自分の部屋とは別に、共同利用できる共有スペースを持った賃貸住宅のことで、共同住宅ならではの「共有」と「交流」を楽しめるあたらしい住まい方である。家族という視点から言えば、地方の実家との家族関係を維持しながら、新たな他人との関係を経験する暮らし方である。
かなり前になるが、シェアハウスが若い世代に人気が出始めた頃思い出したのは、江戸時代の庶民の暮らし方であった。江戸時代の庶民のほとんどはいわゆる「長屋」で、居住スペースは狭く、共同の炊事&洗濯場、共同のトイレ、ホコリの多かった江戸では銭湯が流行り社交場にもなったように「町単位」のコミュニティ が作られていた。
互いのプライバシーを配慮し、助け合い、リーダーには「大家」がいて町役人も兼ねたコミュニティが存在していた。江戸の町を「大江戸八百八町」と言われるが、実際には1000近くの町があって、今も残る祭りもそうだが多くの行事の他にも日常的に清掃など全員参加で競い合っていた。「町」というコミュニティ を家族という視座で見ていくとどんなコミュニティであったかが良くわかる。例えば、いくつか事例が残っているが、未婚女性が子供を授かるが子育てができなくて家出をしてしまう。そんな時コミュニティのりーダーである大家は授かった命だからと言って子育て経験のある女性にその子育てを任す。いまでいうネグレクトであるが、熊本の「赤ちゃんポスト」と同じで長屋という社会が子育てを行っていたということであった。
ところでシェアハウスもそうだが、家庭から離れた多様なコミュニティが生まれている。コミュニティとは、同じ価値観、同じ考え、同じ趣味、同じ生き方・・・・・・・「同じ」文化を共有する集まりのことで、新たな生活の単位にまで進化してきている。
実は貧困家庭の支援の一つとしてこども食堂がある。次第に全国へと拡大し、2022年度には7331箇所にまで広がっている。その多くは母子家庭であるが、子供の貧困からスタートした食堂は子育て支援へ、更には地域づくりへと進化し街のコミュニティの一角を占めるようになった。ジャーナリストの大谷昭宏氏はそのブログの中で「心もいっぱいになるこども食堂」と表現している。母親にとってこども食堂はもう一つのこころを満たしてくれる「家庭」であるということだ。つまり、「居場所」も多様化し進化してきているということである。
今回歴史を俯瞰して見てきたが、10年ほど前に無縁社会というキーワードが注目されたことがあった。きっかけは無縁死(孤独死)が32000人にも及んでいることからであった。バラバラとなった個人社会を繋ぎ直す試み、新たな縁をつくる試みは多くのところで始まっている。こうした中で、家族、個人が問い直され成熟へと向かっており、既に社会の変革は始まっている。
性的マイノリティー、LGBTと言った課題も性を含めた家族・個人の問い直しによって社会の面へと出てきた。日本もやっと正面から論議される段階にまで進化してきたということだ。江戸時代から変わらない価値観もあれば、時代に沿って変わることもある。しかし、400数十年前の江戸時代がいかに相互扶助の社会であったか、コミュニティの知恵など今一度振り返ることも必要であろう。(続く)
タグ :こども手当
2023年01月28日
◆常識という衣を脱ぐ
ヒット商品応援団日記No815(毎週更新) 2023.1,28
前回のブログでは昨年のヒット商品番付の「コスパ&タイパ」というキーワードの「落とし穴」について、東京・浅草かっぱ橋道具街の包丁や卸し金、フライパンなど8400超のアイテムを取り揃える料理道具の老舗専門店の飯田屋と海外進出で一つのジャンルを確立しつつあるうどんチェーン店丸亀製麺について、その事例をもとにその発想・着眼についてコメントした。
「コスパ&タイパ」の背景については、所謂「失われた30年」と言われるように停滞する日本、その社会が存在している。大きくはバブル崩壊以降の主要なテーマである「デフレ」がある。短絡的ではあるが、競争市場にあって「価格」を下げる事が唯一勝ち抜くと考えてしまったという事だが、消費生活者にとっては収入が増えない以上「低価格」商品を選ぶという悪循環が、この30年間であった。つまり、デフレ潮流の中でのコスト意識、時間活用意識であった。
前回のブログでクールジャパン、更にクールフードについて書いたが、その本質は足元にある「宝物」に日本人自身気付かないことにある。アニメやコミックが熱心な外国人オタクによって注目され、聖地秋葉原に集まるようになって、やっと日本のマスディアも取り上げるようになる。
コロナの規制緩和によって、インバウンド需要が徐々に増加へと向かっている。中国人観光客は一部の富裕層で、欧米や香港、台湾といったリピーター層が中心となっている。ある意味クールジャパン・オタクであり、この顧客層は従来の東京・京都あるいは大阪と言ったゴールデンルートや寿司・天ぷら・すき焼きといった定番の食事から、大きく異なる世界へと向かっている。その良き事例が先日発表されたNYタイムスで「ことし行くべき52か所の旅行先」で、盛岡市が2位に選ばれたように、日本人自身が知らないだけで世界の注目する観光地になっている。ちなみに52か国の中には博多中洲の屋台が入っている。こうした傾向はコロナ禍以前からもあって、ドヤ街と言われた大阪西成のお好み薬店に訪日外国人の人気が集ってていたのも、全てSNS・口コミそれにネット検索によって生まれている。私の言葉で言うと、表通りから横丁・裏路地へと向かっていると言うことだ。そこには日本人の知らない景観と食べたことのない郷土食が体験できると言うことである。
こうしたことはマスメディアのダメさ加減もあるが、少しだけ補足してあげるとすれば、インターネット時代のメディアに相当な遅れが生じてしまったことだ。特に、メディアの最大コストは取材などの人件費であるが、他のメディアとネットワークなどを組んでコスト削減しても、メディアを持った「個人」の発信力には敵わない。私の言葉で言えば、個人放送局の時代だと言うことだ。但し、その情報は玉石混交で嘘もあれば事実もある。結果、どう言う事が起きているか、インフルエンサーといったオピニオンの情報から自ら判断し「宝」を見極める方向へと向かっている。こうした中での「盛岡」である。
若い頃、ある企業のテストエリアに岩手県が選ばれたこともあって、盛岡には頻繁に訪れることがあった。勿論わんこそばに始まり冷麺といった盛岡名物を食べた記憶とともに、確か市内を流れる川には鮭が遡上する綺麗な街という印象であった。地元の担当者に沿岸部を含め案内してもらったが、そこには地元ならではの「食」が味わえた。いまだに思い出すのは魚屋さんがやっている居酒屋「おばちゃん」では魚の炭火焼とともに、匂いが気になることからあまり食する事がなかった「ほや」も美味しく食べる事ができたことや、今ではあたり前となったサンマの刺身も「おばちゃん」で初めて食べた思い出がある。(冒頭の写真を見ても分かるように高層ビルなど見当たらない森の多い美しい街である)
その頃から始まったのかもしれないが、札幌、仙台、名古屋、広島、松山、博多、鹿児島、那覇、そして大阪・京都・・・・・全国主要都市へと出かける事が多いビジネスであった。出張の楽しみはその都市ならではの「食」で地元の人たちに愛された日常食であった。例えば、仙台では炉端焼きの「地雷也」にも何回か行ったが、どこの店が忘れてしまったが、仙台子なすの浅漬けが美味しかったことを覚えているが、それらは全て横丁路地裏の店ばかりで豊かな日常食、私の言葉で言うと「郷土食」となる。東京ではほとんど食べることができない、固有な食で訪日外国人の「日本オタク」は探し出し仲間に教え合い楽しむ。ある意味都市にはない「日本体験」を求めた結果であろう。クールジャパンはアニメやコミックからクールフードへと広がってきている。
チェーン店にはそれなりの意味があり、均一な味をどこよりも安く提供すると言う必要な食の業態ではあるが、ここ数年前からの食堂や町中華ブームは全て「手作り」でオヤジの味、おばちゃんの味で他にはない固有のもので、それがサービスの原点となっている。その多くは後継者のいないまま一代限りとなってしまう事が多く、稀少な価値あるものである。そうした手作りが評価されるのも、言葉を変えれば「職人」の時代を再び迎えていると言うことである。「コスパ&タイパ」の真逆、コストも時間もかけた商品・サービスと言うことである。良く生産性という言葉を使うが、生産性の高さとは職人の技・技術の高さを指すものである。その技・技術に見合った価格が受容できる市場を探せば良いだけである。飲食店であれば、例えば50席を減らし20席にする、あるいは会員制にして1日1組にすると言った市場の大きさに従えば良い。宇宙開発のロケット技術にも町工場の精巧な技術が使われているが、そうしたニッチ・隙間市場を対象とし、更に売り上げをと考えるのであればその技術はどんなジャンルに転用できるか、新たな市場を開発するということである。
勿論、チェーン店においても多くの点でのサービス化は不可欠である。チェーンストアの誕生は米国で、多くの人種、言語も文化も異なる、さらには年齢も異なる人間を従業員としなければならない状況で生まれたのが「マニュアル」で均質な作業によって作られる商品が安く提供することが可能となり、成功すれば市場は大きくなる、そんな経営手法である。
殆どのチェーン店では自然災害をはじめ多くの犯罪を回避するためのリスク回避がマニュアルとして用意されている。ところがこうしたマニュアルでは解決できない事が日常的に起きるのがビジネスである。顧客要望に応えることから1980年代には「顧客満足」というキーワードが生まれた。実は若い頃勤務した外資系の広告会社の隣のチームが日本マクドナルドを担当していた。そのチームの応援として、銀座店でマニュアルには載っていない「要望」を店頭でやって欲しいというもので当時の社長であった藤田田さんの要請であった。そこで私が行ったのは「頼んだビッグマックにマスタードを塗って欲しい」という要望であった。マニュアルに書いていない要望に困ったクルーは店長を探しにバックヤードに駆け込んだことを覚えている。問われているのが顧客現場での対応力で、その柔軟さも商品の一つであり、「サービス」の本質であると。藤田田さんはある意味日本マクドナルドの創業者でマニュアルを生かしながら多くの「固有」なことを成し遂げた人物であった。その代表例が画一されたメニュー以外に日本人の好みにあった味のてりやきバーガー、しかもビーフではなくポークの「てりやきマックバーガー」を1989年に開発発売し人気メニューとなったことであろう。
ところでマニュアル化の先には機械化・ロボット化がある。敢えて「手作り」を持ち出したのもサービスとは何か、その価値の意味を再考する時代に来ていると考えたからである。観光旅行で言えば、日本観光のゴールデンルートと言われてきた成田から東京へ、浅草・銀座から富士山観光を経て京都へ、そして大阪へといったいわば表通り観光から地方へと移行している。その象徴が盛岡である。今までのガイドブックに書かれた一般的は旅行から、より日本らしさへと迫る、寺社観光から生活観光へ、寿司・すき焼きから郷土料理へ・・・・マニュアル化された日本から多様な生活文化のある日本へと変化してきている。日本人自身が知らないだけである。生活文化にはその土地ならではの、職人たちによる技がある。日本オタクにとって宝物である。そんな街の景観、日々の生活、食、・・・・これらの楽しみを提供すること、つまりサービス提供が待たれているということだ。そして、日本オタクから遅れて、日本の都市生活者が気づくであろう。
課題は給与が上がらない悪性インフレの時代にあって、どんな価値軸を持って顧客を迎えれば良いのかということである。日本観光オタクが教えてくれたのは「より本質に迫った商品・サービスの提供」ということであろう。その「本質」とは何かであるが、こだわり、オンリーワン、ここだけ、技・技術、・・・・・過去言い古されてきたキーワードばかりであるが、「常識」という衣を脱いで、創業の時の「思い」に今一度立ち返ってみるということだ。創業時、「何を大切にしてきたか」と言ってもかまわない。そして、多くの場合大切さの向こう側には「夢」があったはずである。
最近の企業CMの中ではホンダがそんな「夢」を「Hondaハート Hondaはどっちも創りたい。」と語りかけている。「役に立つこと」、「ワクワクすること」どっちも創りたい。誰かが嬉しくなることを。これがホンダの夢、創業者本田宗一郎が町工場から始めた「原点」である。(続く)
前回のブログでは昨年のヒット商品番付の「コスパ&タイパ」というキーワードの「落とし穴」について、東京・浅草かっぱ橋道具街の包丁や卸し金、フライパンなど8400超のアイテムを取り揃える料理道具の老舗専門店の飯田屋と海外進出で一つのジャンルを確立しつつあるうどんチェーン店丸亀製麺について、その事例をもとにその発想・着眼についてコメントした。
「コスパ&タイパ」の背景については、所謂「失われた30年」と言われるように停滞する日本、その社会が存在している。大きくはバブル崩壊以降の主要なテーマである「デフレ」がある。短絡的ではあるが、競争市場にあって「価格」を下げる事が唯一勝ち抜くと考えてしまったという事だが、消費生活者にとっては収入が増えない以上「低価格」商品を選ぶという悪循環が、この30年間であった。つまり、デフレ潮流の中でのコスト意識、時間活用意識であった。
前回のブログでクールジャパン、更にクールフードについて書いたが、その本質は足元にある「宝物」に日本人自身気付かないことにある。アニメやコミックが熱心な外国人オタクによって注目され、聖地秋葉原に集まるようになって、やっと日本のマスディアも取り上げるようになる。
コロナの規制緩和によって、インバウンド需要が徐々に増加へと向かっている。中国人観光客は一部の富裕層で、欧米や香港、台湾といったリピーター層が中心となっている。ある意味クールジャパン・オタクであり、この顧客層は従来の東京・京都あるいは大阪と言ったゴールデンルートや寿司・天ぷら・すき焼きといった定番の食事から、大きく異なる世界へと向かっている。その良き事例が先日発表されたNYタイムスで「ことし行くべき52か所の旅行先」で、盛岡市が2位に選ばれたように、日本人自身が知らないだけで世界の注目する観光地になっている。ちなみに52か国の中には博多中洲の屋台が入っている。こうした傾向はコロナ禍以前からもあって、ドヤ街と言われた大阪西成のお好み薬店に訪日外国人の人気が集ってていたのも、全てSNS・口コミそれにネット検索によって生まれている。私の言葉で言うと、表通りから横丁・裏路地へと向かっていると言うことだ。そこには日本人の知らない景観と食べたことのない郷土食が体験できると言うことである。
こうしたことはマスメディアのダメさ加減もあるが、少しだけ補足してあげるとすれば、インターネット時代のメディアに相当な遅れが生じてしまったことだ。特に、メディアの最大コストは取材などの人件費であるが、他のメディアとネットワークなどを組んでコスト削減しても、メディアを持った「個人」の発信力には敵わない。私の言葉で言えば、個人放送局の時代だと言うことだ。但し、その情報は玉石混交で嘘もあれば事実もある。結果、どう言う事が起きているか、インフルエンサーといったオピニオンの情報から自ら判断し「宝」を見極める方向へと向かっている。こうした中での「盛岡」である。
若い頃、ある企業のテストエリアに岩手県が選ばれたこともあって、盛岡には頻繁に訪れることがあった。勿論わんこそばに始まり冷麺といった盛岡名物を食べた記憶とともに、確か市内を流れる川には鮭が遡上する綺麗な街という印象であった。地元の担当者に沿岸部を含め案内してもらったが、そこには地元ならではの「食」が味わえた。いまだに思い出すのは魚屋さんがやっている居酒屋「おばちゃん」では魚の炭火焼とともに、匂いが気になることからあまり食する事がなかった「ほや」も美味しく食べる事ができたことや、今ではあたり前となったサンマの刺身も「おばちゃん」で初めて食べた思い出がある。(冒頭の写真を見ても分かるように高層ビルなど見当たらない森の多い美しい街である)
その頃から始まったのかもしれないが、札幌、仙台、名古屋、広島、松山、博多、鹿児島、那覇、そして大阪・京都・・・・・全国主要都市へと出かける事が多いビジネスであった。出張の楽しみはその都市ならではの「食」で地元の人たちに愛された日常食であった。例えば、仙台では炉端焼きの「地雷也」にも何回か行ったが、どこの店が忘れてしまったが、仙台子なすの浅漬けが美味しかったことを覚えているが、それらは全て横丁路地裏の店ばかりで豊かな日常食、私の言葉で言うと「郷土食」となる。東京ではほとんど食べることができない、固有な食で訪日外国人の「日本オタク」は探し出し仲間に教え合い楽しむ。ある意味都市にはない「日本体験」を求めた結果であろう。クールジャパンはアニメやコミックからクールフードへと広がってきている。
チェーン店にはそれなりの意味があり、均一な味をどこよりも安く提供すると言う必要な食の業態ではあるが、ここ数年前からの食堂や町中華ブームは全て「手作り」でオヤジの味、おばちゃんの味で他にはない固有のもので、それがサービスの原点となっている。その多くは後継者のいないまま一代限りとなってしまう事が多く、稀少な価値あるものである。そうした手作りが評価されるのも、言葉を変えれば「職人」の時代を再び迎えていると言うことである。「コスパ&タイパ」の真逆、コストも時間もかけた商品・サービスと言うことである。良く生産性という言葉を使うが、生産性の高さとは職人の技・技術の高さを指すものである。その技・技術に見合った価格が受容できる市場を探せば良いだけである。飲食店であれば、例えば50席を減らし20席にする、あるいは会員制にして1日1組にすると言った市場の大きさに従えば良い。宇宙開発のロケット技術にも町工場の精巧な技術が使われているが、そうしたニッチ・隙間市場を対象とし、更に売り上げをと考えるのであればその技術はどんなジャンルに転用できるか、新たな市場を開発するということである。
勿論、チェーン店においても多くの点でのサービス化は不可欠である。チェーンストアの誕生は米国で、多くの人種、言語も文化も異なる、さらには年齢も異なる人間を従業員としなければならない状況で生まれたのが「マニュアル」で均質な作業によって作られる商品が安く提供することが可能となり、成功すれば市場は大きくなる、そんな経営手法である。
殆どのチェーン店では自然災害をはじめ多くの犯罪を回避するためのリスク回避がマニュアルとして用意されている。ところがこうしたマニュアルでは解決できない事が日常的に起きるのがビジネスである。顧客要望に応えることから1980年代には「顧客満足」というキーワードが生まれた。実は若い頃勤務した外資系の広告会社の隣のチームが日本マクドナルドを担当していた。そのチームの応援として、銀座店でマニュアルには載っていない「要望」を店頭でやって欲しいというもので当時の社長であった藤田田さんの要請であった。そこで私が行ったのは「頼んだビッグマックにマスタードを塗って欲しい」という要望であった。マニュアルに書いていない要望に困ったクルーは店長を探しにバックヤードに駆け込んだことを覚えている。問われているのが顧客現場での対応力で、その柔軟さも商品の一つであり、「サービス」の本質であると。藤田田さんはある意味日本マクドナルドの創業者でマニュアルを生かしながら多くの「固有」なことを成し遂げた人物であった。その代表例が画一されたメニュー以外に日本人の好みにあった味のてりやきバーガー、しかもビーフではなくポークの「てりやきマックバーガー」を1989年に開発発売し人気メニューとなったことであろう。
ところでマニュアル化の先には機械化・ロボット化がある。敢えて「手作り」を持ち出したのもサービスとは何か、その価値の意味を再考する時代に来ていると考えたからである。観光旅行で言えば、日本観光のゴールデンルートと言われてきた成田から東京へ、浅草・銀座から富士山観光を経て京都へ、そして大阪へといったいわば表通り観光から地方へと移行している。その象徴が盛岡である。今までのガイドブックに書かれた一般的は旅行から、より日本らしさへと迫る、寺社観光から生活観光へ、寿司・すき焼きから郷土料理へ・・・・マニュアル化された日本から多様な生活文化のある日本へと変化してきている。日本人自身が知らないだけである。生活文化にはその土地ならではの、職人たちによる技がある。日本オタクにとって宝物である。そんな街の景観、日々の生活、食、・・・・これらの楽しみを提供すること、つまりサービス提供が待たれているということだ。そして、日本オタクから遅れて、日本の都市生活者が気づくであろう。
課題は給与が上がらない悪性インフレの時代にあって、どんな価値軸を持って顧客を迎えれば良いのかということである。日本観光オタクが教えてくれたのは「より本質に迫った商品・サービスの提供」ということであろう。その「本質」とは何かであるが、こだわり、オンリーワン、ここだけ、技・技術、・・・・・過去言い古されてきたキーワードばかりであるが、「常識」という衣を脱いで、創業の時の「思い」に今一度立ち返ってみるということだ。創業時、「何を大切にしてきたか」と言ってもかまわない。そして、多くの場合大切さの向こう側には「夢」があったはずである。
最近の企業CMの中ではホンダがそんな「夢」を「Hondaハート Hondaはどっちも創りたい。」と語りかけている。「役に立つこと」、「ワクワクすること」どっちも創りたい。誰かが嬉しくなることを。これがホンダの夢、創業者本田宗一郎が町工場から始めた「原点」である。(続く)
タグ :コスパ&タイパ
2023年01月10日
◆転換期の市場着眼
ヒット商品応援団日記No814(毎週更新) 2023.1,10
今年はどうなるのか、経済、景気の動向は極めて厳しいとする専門家がほとんどである。ウクライナ戦争は少なくとも今年中に終わることはない。欧米の経済も物価高騰は続き、中国経済もゼロコロナ政策の失敗から以前のような世界経済を牽引するパワーはない。日本国内においても電気料金の値上げを始め物価は上がり消費を活性化する動きはほとんどない。株価も2万3000円台にまで下がるとするとの専門家まもいるほどである。
概要は以上であるが、3年ほどのコロナ禍による巣ごもり生活を経験したが、「消費」への意欲は旺盛であると私は考えている。誰もが感じているように転換にある。
ところで昨年のヒット商品番付でも少し触れたが「コスパ&タイパ」というキーワードについてコメントした。今回のコストパフォーマンスは以前のLED電球ような技術革新によるものではなく、巣ごもり生活に応じた大量購入による消費で付帯的には冷凍庫や大型冷蔵庫が売れるといった「コスパ」である。こうした現象の裏側には「合理的」とした価値観によるものだが、その「合理」には経済合理性、つまり「よりお得」になるという思考に基づく。多種多様な商品、過剰とも思える多くの商品から選択する判断基準に対する一つの価値観である。そしてこうした価値観は時間の使い方、合理的な使い方にまで及ぶ。その象徴がZ世代に見られる「倍速」である。例えば、読むにふさわしいものか、観るに足るものであるかどうか、最後の「結論」から読み始めるといった時間の使い方で、そうした合理性に価値を置く思考である。
こうした価値観から生まれるものは、既存市場の縮小でしかない。過去あったものを合理的に整理するもので、そこには何の創造的なものは出てこない。デジタル世代とはよく言ったもので、極論を言えば0と1の間には何もないとする考えによるもので、つまり非合理世界には踏み込むことはない。
その良き事例が苦境から一躍有名店へとV字回復した東京・浅草かっぱ橋道具街の包丁や卸し金、フライパンなど8400超のアイテムを取り揃える料理道具の老舗専門店の飯田屋である。そんな調理アイテムを取り揃えるなんてと一見すると思うかもしれない。売れ筋ばかりを集める事が効率の良い経営であると思いがちであるが、実は非常識と思われた業態が数多くある。古くはネジをバラ売りするホームセンターのジョイフル本田や仏壇から車まで販売する鹿児島の巨大スーパーAZセンター、最近では業務スーパーなども当てはまる。この飯田屋六代目は顧客には決して「売ろうとするな」 という営業方針で何故V字回復できたかである。ちょうど飯田屋の事例をモーニングショーで取り上げていた。それは「大根おろし器」についてで、キメの細かいおろしができる調理器具はないかとの要望が多く寄せられ独自の開発に取り組む。試作のための金型費用は20数万円、しかも目の異なるもの数種類、合計100数十万かかったとのこと。そのTV番組のコメンテーターとして若い社会事業家が「そんなコスパの合わない開発」とコメントしていたが、実はまるで逆でヒット商品となり、キメの細かい泡のような大根おろしは名物料理にもなり、多くの料理人にとって必須専門店になったという。答えは「顧客現場」にあり、需要への確信である。「開発」とはリスクを伴うものであるが、その壁を破るのは「確信」である。専門性とはそうした世界のことを指す。一見非常識、非合理に見えることの中に、「合理」が潜んでいるということだ。大根おろし器という小さな隙間市場、ニッチ市場が次なる市場着眼になる。
最近こうした試みをするベンチャー企業を「グローバルニッチ企業」と呼んでいるが、実はかなり以前から海外へと進出する企業は多い。国内という小さな市場から世界という大きな市場の開発である。1960年~80年代にかけて日本企業はどんどん進出していった。その代表的な企業はホンダであり、ソニーであった。皆中小企業、町工場からのスタートである。ソニーの創業者はアイボというとロボット開発をしていた担当者に「他社に真似されるものを作りなさい」と説いた。創業者が亡くなりアイボの開発は中止されるのだが、その当時極めて残念なことだと感じていた。つまり、アイボにはこの中心となるテクノロジーは今でいうAI技術であったからだ。
こうした企業群はともかく国内という小さな市場から世界へと進出しているのが外食産業である。周知のようにラーメンの一風堂を始め最近注目されている企業の一つがうどんチェーン店「丸亀製麺」を運営する株式会社トリドールホールデイングスであろう。海外13の国と地域に合計で217店舗を展開している。アジア圏はもちろん、日本食ブームが起こっているアメリカやヨーロッパ圏でも店内調理による生の食感を楽しめるこだわりのうどんは大人気となっている。
そのうどんチェーン店の歴史を見ていくとわかるが地域色の強い業種であったが、2000年代後半からはなまるうどんを始め全国へと出店が加速する。東京でもその出店は激しくデフレ時代の外食として価格競争の只中に入ることとなる。その中で麺へのこだわりとトッピングに季節性を盛り込み飽きさせない工夫などから圧倒的な人気となったのが丸亀製麺であった。勿論うどんチェーン店だけでなく、多くの外食企業が競争相手となり、その競争力が世界へと向かわせる。寿司、天ぷら、すき焼き・・・・そしてラーメンに次ぐ「ジャパニーズレストラン」の一角をうどんが占めるようになる。日本食はアニメや漫画に次ぐクールジャパンにおける「クールフーズ」と呼んでもおかしくない大きな輸出産業になったということである。自動車産業ほどではないが、食材を始めロボット調理器具など各種メーカーも多い。全て中小企業である。ある意味中小企業がチームを作っての競争市場である。
クールジャパンという名称は外国人、アニメや漫画オタクがつけたもので、「オタク」とは少数の小さな隙間産業、ニッチ市場の主人公であった。日本人の知らないところで、秋葉原。アキバに多くの外国人オタクが集まった。聖地巡礼であるが、インバウンド市場が活発化する数年前に主にアジアの観光客は横浜のラーメン博物館を訪れ、本場のラーメンを食べることが日本観光の目的の一つとなっていた。コロナ禍に行われたオリンピック東京2020においても外国人スタッフや記者たちが外出制限下で頻繁に食べに行ったのがコンビニのおむすびであった。既に日本観光産業の重要なキーワードとなっているのが「クールフーズ」で、周知のように地方には日本人自身が知らない「郷土食」が豊富にあり、今年のインバウンド市場の目玉になるであろう。実は宝の山が足元にあるということである。リピーターとなった外国人オタクにとって、郷土食はそのおいしさもあるがその地域ならではの「文化食」で京都文化を食べるのと同じように「クールジャパン」を味わうということである。
視野を変えてみる、今までの常識となっている「それはコストに見合うのか」と言った古い概念を疑ってみるということである。どの企業も持っている資源、人材を含めてだが、生かし切る工夫を重ねていると思う。1960年代がそうであったように世界中を駆け巡って商売をした。バブル崩壊から30年、失われた時間は大きいが今一度原点に立ち返ってみることだ。戦後の昭和は「貧しかったが、夢があった」と懐古されているが、バブル崩壊後の日本は貧しくなっただけでなく、夢も持てなくなってしまった。今回は飯田屋や丸亀製麺を取り上げたが、少なくとも「夢」のある企業の一つであろう。(続く)
今年はどうなるのか、経済、景気の動向は極めて厳しいとする専門家がほとんどである。ウクライナ戦争は少なくとも今年中に終わることはない。欧米の経済も物価高騰は続き、中国経済もゼロコロナ政策の失敗から以前のような世界経済を牽引するパワーはない。日本国内においても電気料金の値上げを始め物価は上がり消費を活性化する動きはほとんどない。株価も2万3000円台にまで下がるとするとの専門家まもいるほどである。
概要は以上であるが、3年ほどのコロナ禍による巣ごもり生活を経験したが、「消費」への意欲は旺盛であると私は考えている。誰もが感じているように転換にある。
ところで昨年のヒット商品番付でも少し触れたが「コスパ&タイパ」というキーワードについてコメントした。今回のコストパフォーマンスは以前のLED電球ような技術革新によるものではなく、巣ごもり生活に応じた大量購入による消費で付帯的には冷凍庫や大型冷蔵庫が売れるといった「コスパ」である。こうした現象の裏側には「合理的」とした価値観によるものだが、その「合理」には経済合理性、つまり「よりお得」になるという思考に基づく。多種多様な商品、過剰とも思える多くの商品から選択する判断基準に対する一つの価値観である。そしてこうした価値観は時間の使い方、合理的な使い方にまで及ぶ。その象徴がZ世代に見られる「倍速」である。例えば、読むにふさわしいものか、観るに足るものであるかどうか、最後の「結論」から読み始めるといった時間の使い方で、そうした合理性に価値を置く思考である。
こうした価値観から生まれるものは、既存市場の縮小でしかない。過去あったものを合理的に整理するもので、そこには何の創造的なものは出てこない。デジタル世代とはよく言ったもので、極論を言えば0と1の間には何もないとする考えによるもので、つまり非合理世界には踏み込むことはない。
その良き事例が苦境から一躍有名店へとV字回復した東京・浅草かっぱ橋道具街の包丁や卸し金、フライパンなど8400超のアイテムを取り揃える料理道具の老舗専門店の飯田屋である。そんな調理アイテムを取り揃えるなんてと一見すると思うかもしれない。売れ筋ばかりを集める事が効率の良い経営であると思いがちであるが、実は非常識と思われた業態が数多くある。古くはネジをバラ売りするホームセンターのジョイフル本田や仏壇から車まで販売する鹿児島の巨大スーパーAZセンター、最近では業務スーパーなども当てはまる。この飯田屋六代目は顧客には決して「売ろうとするな」 という営業方針で何故V字回復できたかである。ちょうど飯田屋の事例をモーニングショーで取り上げていた。それは「大根おろし器」についてで、キメの細かいおろしができる調理器具はないかとの要望が多く寄せられ独自の開発に取り組む。試作のための金型費用は20数万円、しかも目の異なるもの数種類、合計100数十万かかったとのこと。そのTV番組のコメンテーターとして若い社会事業家が「そんなコスパの合わない開発」とコメントしていたが、実はまるで逆でヒット商品となり、キメの細かい泡のような大根おろしは名物料理にもなり、多くの料理人にとって必須専門店になったという。答えは「顧客現場」にあり、需要への確信である。「開発」とはリスクを伴うものであるが、その壁を破るのは「確信」である。専門性とはそうした世界のことを指す。一見非常識、非合理に見えることの中に、「合理」が潜んでいるということだ。大根おろし器という小さな隙間市場、ニッチ市場が次なる市場着眼になる。
最近こうした試みをするベンチャー企業を「グローバルニッチ企業」と呼んでいるが、実はかなり以前から海外へと進出する企業は多い。国内という小さな市場から世界という大きな市場の開発である。1960年~80年代にかけて日本企業はどんどん進出していった。その代表的な企業はホンダであり、ソニーであった。皆中小企業、町工場からのスタートである。ソニーの創業者はアイボというとロボット開発をしていた担当者に「他社に真似されるものを作りなさい」と説いた。創業者が亡くなりアイボの開発は中止されるのだが、その当時極めて残念なことだと感じていた。つまり、アイボにはこの中心となるテクノロジーは今でいうAI技術であったからだ。
こうした企業群はともかく国内という小さな市場から世界へと進出しているのが外食産業である。周知のようにラーメンの一風堂を始め最近注目されている企業の一つがうどんチェーン店「丸亀製麺」を運営する株式会社トリドールホールデイングスであろう。海外13の国と地域に合計で217店舗を展開している。アジア圏はもちろん、日本食ブームが起こっているアメリカやヨーロッパ圏でも店内調理による生の食感を楽しめるこだわりのうどんは大人気となっている。
そのうどんチェーン店の歴史を見ていくとわかるが地域色の強い業種であったが、2000年代後半からはなまるうどんを始め全国へと出店が加速する。東京でもその出店は激しくデフレ時代の外食として価格競争の只中に入ることとなる。その中で麺へのこだわりとトッピングに季節性を盛り込み飽きさせない工夫などから圧倒的な人気となったのが丸亀製麺であった。勿論うどんチェーン店だけでなく、多くの外食企業が競争相手となり、その競争力が世界へと向かわせる。寿司、天ぷら、すき焼き・・・・そしてラーメンに次ぐ「ジャパニーズレストラン」の一角をうどんが占めるようになる。日本食はアニメや漫画に次ぐクールジャパンにおける「クールフーズ」と呼んでもおかしくない大きな輸出産業になったということである。自動車産業ほどではないが、食材を始めロボット調理器具など各種メーカーも多い。全て中小企業である。ある意味中小企業がチームを作っての競争市場である。
クールジャパンという名称は外国人、アニメや漫画オタクがつけたもので、「オタク」とは少数の小さな隙間産業、ニッチ市場の主人公であった。日本人の知らないところで、秋葉原。アキバに多くの外国人オタクが集まった。聖地巡礼であるが、インバウンド市場が活発化する数年前に主にアジアの観光客は横浜のラーメン博物館を訪れ、本場のラーメンを食べることが日本観光の目的の一つとなっていた。コロナ禍に行われたオリンピック東京2020においても外国人スタッフや記者たちが外出制限下で頻繁に食べに行ったのがコンビニのおむすびであった。既に日本観光産業の重要なキーワードとなっているのが「クールフーズ」で、周知のように地方には日本人自身が知らない「郷土食」が豊富にあり、今年のインバウンド市場の目玉になるであろう。実は宝の山が足元にあるということである。リピーターとなった外国人オタクにとって、郷土食はそのおいしさもあるがその地域ならではの「文化食」で京都文化を食べるのと同じように「クールジャパン」を味わうということである。
視野を変えてみる、今までの常識となっている「それはコストに見合うのか」と言った古い概念を疑ってみるということである。どの企業も持っている資源、人材を含めてだが、生かし切る工夫を重ねていると思う。1960年代がそうであったように世界中を駆け巡って商売をした。バブル崩壊から30年、失われた時間は大きいが今一度原点に立ち返ってみることだ。戦後の昭和は「貧しかったが、夢があった」と懐古されているが、バブル崩壊後の日本は貧しくなっただけでなく、夢も持てなくなってしまった。今回は飯田屋や丸亀製麺を取り上げたが、少なくとも「夢」のある企業の一つであろう。(続く)
タグ :転換期
2023年01月01日
2022年12月11日
◆2022年ヒット商品番付を読み解く
ヒット商品応援団日記No812毎週更新) 2022.12,11
2022年度の新語・流行語大賞はヤクルトの「村神様」であった。周知のように三冠王、史上初5打席連続ホームラン、通算150本塁打、2試合連続満塁ホームラン……。そのすべてに「史上最年少」の冠がつく。序盤、中盤、終盤そしてサヨナラ。右に左にセンターに。特大アーチを量産する彼をファンは『神』とよび熱狂し、東京ヤクルトスワローズをリーグ優勝に導いた。
また、11月末から始まったサッカーワールドカップでは日本チームがドイツ、スペインに逆転勝ちををし、決勝リーグに進出し日本中を熱狂させた。世界中のメディアからは称賛と共に、「ジャイアントキリング」を言う言葉とともに予想外、いや実力であるとした論評がなされたが、日本国民の多くもある意味予想外の勝利であった。
こうした予想を超える願望を昔から「大いなる力」「人智が及ばない力」のことを「神様」あるいは「神がかった」ものとして表現してきた。この3年弱コロナ禍による鬱屈した心理を時は話してくれるものが求められてきた。その一つが「村神様」であり、サッカー日本チームの活躍であった。求められているのは「思うがまま自由に」と言うことに尽きる。巣ごもり生活でのノンアルコール生活に注目が集まる、そんな「不自由な生活」からの脱却である。
実はヤクルトの村上を始めサッカー日本チームの堂安、三苫、など主力選手は皆Z世代である。前回の未来塾「昭和文化考」でも書いたが、過去の既成や観衆、常識から離れ自由に生きていこうとする世代が消費のみならず多くの分野でもその「芽」が出てきたと言うことだ。
ところで2022年日経MJヒット商品番付は以下のものとなった。
東横綱 コスパ&タイパ 、 西横綱 #3年ぶり」
東大関 サッカーW杯日本代表 、西大関 ヤクルト本社
東関脇 ポケットモンスター、西関脇 ジブリパーク
東小結 ワンピース、 西小結 トップガン
前頭 ガチャ旅、地位かわ、SHEIN(シーイン)、ユニクロ、・・・
東の横綱は「コスパ&タイパ」。あらゆる商品の値上げが続く中で、費用対効果がより重視されるようになった。西の横綱は新型コロナウイルス禍で中止されてきたイベントやレジャーの復活を示す「#3年ぶり」を選んだ。新型コロナ禍も3年目となり、耐えるだけの生活からの脱却である。
周知のように2022年は円安やロシアのウクライナ侵攻の影響で、食品や日用品など幅広い分野で値上がりが続いた。10月の消費者物価指数(生鮮食品除く)は前年同月比3.6%上昇し約40年ぶりの伸び率となった。生活防衛意識が高まる中、費用対効果や時間効率を求める消費が加速。ディスカウント店のドン・キホーテや業務スーパーでの大容量品などコスパのいい商品の売れ行きがよかった。
も一つの「タイパ」であるが、これは何回かコメントしたがZ世代が「倍速世代」と呼ばれるように、タイム・時間を有効活用するタイムパフォーマンスのことである。ドラマや小説など時間のかかるものには最後の結論を読み、興味がなければ次のものへと変えていく。過剰情報時代の一つの知恵でもある。
コロナ禍3年間は消費をなんとか喚起させたいとした3年間でもあった。昨年度の 西小結 冷食エコノミーは松屋銀座店には 「冷食グルメ」の売り場ができたり、冷凍製造機も小型化・安価なものが市場化されるようになり、町中華メニューや居酒屋の焼き鳥などの冷凍食品自販機が新たに作られ売り上げの補助としたり経営の多角化を図る店も出てきた。面白いことにこうした工夫はメーカーサイドも電子レンジで作る「冷やし中華」なども作られ、注目を集めた。これは電子レンジによる解凍だが、麺にのせた「氷」は溶けずに解凍ができると言う面白アイディア商品である。
こうした小さな驚き商品は前頭に入った「ガチャ旅」にも広がる心理に着眼した旅行商品である。元々ガチャは羽田や成田と言った空港の片隅におかれ、帰国時に両替しにくい小銭で遊べる機会であった。その後ガチャの中に入る商品がグリコのおまけではないが進化してきたものである。サッカー日本チームの予想外・驚きまでははいかないが、小さな驚きを生むおもしろがり心理商品は数多く見られた。これも鬱屈したコロナ禍ならではの小さなヒット商品と言えよう。
今年の春以降物価の高騰、私に言わせれば収入が増えない「悪性インフレ」であるが、このインフレは欧米各国の物価考と比較しそれ程大きな値上げにはなっていない。それはバブル崩壊以降の「デフレマインド」が底流にあり、各企業は思い切った値上げに踏み切る事が出来ないとした専門家もいる。今年のヒット商品番付にも「コスパ」を始めファッション通販「SHEIN(シーイン)」や、1日5分という超短時間のプログラムと月額3278円で新しい需要を発掘したRIZAPのジム「ちょこざっぷ」も支持を集めた。これらは従来の訳あり型商品・サービスとは異なるデフレ商品よ言えよう。
但し、JTBによれば年末年始の国内旅行者を2100万人と予測、海外旅行は15万人、第8波でも「予定通り出かける」が65%と消費意欲は旺盛である。その消費はコロナ禍は続いており物価高でもあり、慎重なものと言える。そうした意味で大きなヒット商品というより、今年のような小さなヒット商品、電子レンジで食べる「冷やし中華」の冷凍食品のようなアイディア商品、小さな単位で価格心理を抑えるといった心理商品が求められていくであろう。同じような傾向の中で、2021年と2022年の消費変化から見て取れるヒットの内側である。ちなみに2021年は次の番付であった。(続く0
2021年
東横綱 Z世代、 西横綱 大谷翔平
東大関 東京五輪・パラリンピック、西大関 サステナブル商品
東関脇 シン・エヴァンゲリオン劇場版、西関脇 イカゲーム
東小結 ゴルフ、 西小結 冷食エコノミー
2022年度の新語・流行語大賞はヤクルトの「村神様」であった。周知のように三冠王、史上初5打席連続ホームラン、通算150本塁打、2試合連続満塁ホームラン……。そのすべてに「史上最年少」の冠がつく。序盤、中盤、終盤そしてサヨナラ。右に左にセンターに。特大アーチを量産する彼をファンは『神』とよび熱狂し、東京ヤクルトスワローズをリーグ優勝に導いた。
また、11月末から始まったサッカーワールドカップでは日本チームがドイツ、スペインに逆転勝ちををし、決勝リーグに進出し日本中を熱狂させた。世界中のメディアからは称賛と共に、「ジャイアントキリング」を言う言葉とともに予想外、いや実力であるとした論評がなされたが、日本国民の多くもある意味予想外の勝利であった。
こうした予想を超える願望を昔から「大いなる力」「人智が及ばない力」のことを「神様」あるいは「神がかった」ものとして表現してきた。この3年弱コロナ禍による鬱屈した心理を時は話してくれるものが求められてきた。その一つが「村神様」であり、サッカー日本チームの活躍であった。求められているのは「思うがまま自由に」と言うことに尽きる。巣ごもり生活でのノンアルコール生活に注目が集まる、そんな「不自由な生活」からの脱却である。
実はヤクルトの村上を始めサッカー日本チームの堂安、三苫、など主力選手は皆Z世代である。前回の未来塾「昭和文化考」でも書いたが、過去の既成や観衆、常識から離れ自由に生きていこうとする世代が消費のみならず多くの分野でもその「芽」が出てきたと言うことだ。
ところで2022年日経MJヒット商品番付は以下のものとなった。
東横綱 コスパ&タイパ 、 西横綱 #3年ぶり」
東大関 サッカーW杯日本代表 、西大関 ヤクルト本社
東関脇 ポケットモンスター、西関脇 ジブリパーク
東小結 ワンピース、 西小結 トップガン
前頭 ガチャ旅、地位かわ、SHEIN(シーイン)、ユニクロ、・・・
東の横綱は「コスパ&タイパ」。あらゆる商品の値上げが続く中で、費用対効果がより重視されるようになった。西の横綱は新型コロナウイルス禍で中止されてきたイベントやレジャーの復活を示す「#3年ぶり」を選んだ。新型コロナ禍も3年目となり、耐えるだけの生活からの脱却である。
周知のように2022年は円安やロシアのウクライナ侵攻の影響で、食品や日用品など幅広い分野で値上がりが続いた。10月の消費者物価指数(生鮮食品除く)は前年同月比3.6%上昇し約40年ぶりの伸び率となった。生活防衛意識が高まる中、費用対効果や時間効率を求める消費が加速。ディスカウント店のドン・キホーテや業務スーパーでの大容量品などコスパのいい商品の売れ行きがよかった。
も一つの「タイパ」であるが、これは何回かコメントしたがZ世代が「倍速世代」と呼ばれるように、タイム・時間を有効活用するタイムパフォーマンスのことである。ドラマや小説など時間のかかるものには最後の結論を読み、興味がなければ次のものへと変えていく。過剰情報時代の一つの知恵でもある。
コロナ禍3年間は消費をなんとか喚起させたいとした3年間でもあった。昨年度の 西小結 冷食エコノミーは松屋銀座店には 「冷食グルメ」の売り場ができたり、冷凍製造機も小型化・安価なものが市場化されるようになり、町中華メニューや居酒屋の焼き鳥などの冷凍食品自販機が新たに作られ売り上げの補助としたり経営の多角化を図る店も出てきた。面白いことにこうした工夫はメーカーサイドも電子レンジで作る「冷やし中華」なども作られ、注目を集めた。これは電子レンジによる解凍だが、麺にのせた「氷」は溶けずに解凍ができると言う面白アイディア商品である。
こうした小さな驚き商品は前頭に入った「ガチャ旅」にも広がる心理に着眼した旅行商品である。元々ガチャは羽田や成田と言った空港の片隅におかれ、帰国時に両替しにくい小銭で遊べる機会であった。その後ガチャの中に入る商品がグリコのおまけではないが進化してきたものである。サッカー日本チームの予想外・驚きまでははいかないが、小さな驚きを生むおもしろがり心理商品は数多く見られた。これも鬱屈したコロナ禍ならではの小さなヒット商品と言えよう。
今年の春以降物価の高騰、私に言わせれば収入が増えない「悪性インフレ」であるが、このインフレは欧米各国の物価考と比較しそれ程大きな値上げにはなっていない。それはバブル崩壊以降の「デフレマインド」が底流にあり、各企業は思い切った値上げに踏み切る事が出来ないとした専門家もいる。今年のヒット商品番付にも「コスパ」を始めファッション通販「SHEIN(シーイン)」や、1日5分という超短時間のプログラムと月額3278円で新しい需要を発掘したRIZAPのジム「ちょこざっぷ」も支持を集めた。これらは従来の訳あり型商品・サービスとは異なるデフレ商品よ言えよう。
但し、JTBによれば年末年始の国内旅行者を2100万人と予測、海外旅行は15万人、第8波でも「予定通り出かける」が65%と消費意欲は旺盛である。その消費はコロナ禍は続いており物価高でもあり、慎重なものと言える。そうした意味で大きなヒット商品というより、今年のような小さなヒット商品、電子レンジで食べる「冷やし中華」の冷凍食品のようなアイディア商品、小さな単位で価格心理を抑えるといった心理商品が求められていくであろう。同じような傾向の中で、2021年と2022年の消費変化から見て取れるヒットの内側である。ちなみに2021年は次の番付であった。(続く0
2021年
東横綱 Z世代、 西横綱 大谷翔平
東大関 東京五輪・パラリンピック、西大関 サステナブル商品
東関脇 シン・エヴァンゲリオン劇場版、西関脇 イカゲーム
東小結 ゴルフ、 西小結 冷食エコノミー
タグ :ヒット商品番付
2022年11月20日
◆未来塾(46) 昭和文化考・後半
ヒット商品応援団日記No811毎週更新) 2022.11,20
個人化社会の進行
1980年代注目すべきは社会構造が大きく転嫁していくことにある。例えば、当時核家族という言葉が使われるようになり、住まいも個室化するようになる。それを象徴するように、お化け番組と言われたTBSの「8時だよ全員集合」が1985年に終了する。更に年末のNHK紅白歌合戦は1984年78.1%を最後に右肩下がりとなる。つまり、家族での生活から、子供たちには個室があてがわれ、家族団欒という言葉は仕事なった。「豊かさ」が新たな社会構造の変化を促したと言うことである。
つまり、社会の単位が「家族」から個人へと変化し、私がそうした個人を「個族」と呼んだ。家族から個族への変化である。以降平成・令和と時代が変わっても「個人化」というライフスタイルの傾向は変わらない。勿論、家族の大切さ、家族価値の再考もあって個人と家族の間で揺れ動くことはあってもである。例えば、住宅メーカーの場合、「個室」はプライバシーを保つことになるのだが、閉ざされた空間であることから家族内の「会話」もまた乏しくなる。そうしたことからコミュニケーションが行えるリビングなどへの工夫なされるようになる。
消費においても、2000年代にはシングル女性の個人行動、特に旅行に注目が集まり、「ひとリッチ」という言葉も生まれる。更には、「一人鍋」がヒットし、あれこれちょっとづつ、個食、小食、が基本となる。こうした個人中心の価値観が広く浸透して行くこととなる。
一方、個人中心社会はあるいみで「バラバラ社会」のことでもあり、そのバラバラを解消するために「仲間社会」が生まれる。この仲間社会からは「いじめ」が生まれ、社会問題化したことは周知の通りである。あるいは地域のコミュニティの消滅にも向かわせ、大きな時代潮流の「負」の側面でもある。
「昭和」は新しい、おもしろい、珍しいか?
今「昭和」が若い世代において注目されている。リニューアルした西武園遊園地ではないが、昭和をテーマとしたテーマパークからクリームソーダがカフェの人気メニューになったように、新しい、おもしろい、珍しい「時代」として受け止められている。昭和を生きたシニア世代による郷愁としてではなく、現在のブームを創っているのは昭和の中にある「人間臭さ」「息遣い」にあるのではないかと思っている。
今や商業施設の賑わいづくりの定番にもなったレトロな雰囲気は若い世代にとってはまさに「新鮮」そのものであったということだ。渋谷パルコ、虎ノ門ヒルズ、渋谷横丁、心斎橋パルコ・・・・・・・・・・それら賑わいづくりのモデルになったのが吉祥寺のハーモニカ横丁である。賑わいとは街の息遣いの事である。詳しくは「未来の消滅都市論」を読んでほしいが、街の魅力がどのようにつくられてきたか一つのモデルとなっている。吉祥寺という街は都心・新宿と郊外・立川とのちゅかにある街で、消費のエリア間競争翻弄されてきた街であった。吉祥にには3つの百貨店があったが勝ち残ったのは東急百貨店のみで大型商業施設の多くは再編した経緯がある。街の活性化策として対象となったのが、駅前の一等地ハモニカ横丁であった。横丁に一歩入るとタイムスリップしたかのような商店・飲食店街が密集している路地がある。ハモニカ横丁と愛称されているが、そのハモニカの如く狭い数坪の店が並んでいる。餃子のみんみんのように、地元の人から愛されてきた店も多いが、一種猥雑な空気が漂う横丁路地裏にあって、なかにはおしゃれな立ち飲みショットバーや世界のビールやワインを飲ませるダイニングバーもあり、若い世代にはOLD NEW(古が新しい)といった受け止め方がなされている、そんな一角がある。人の温もりが直接感じられるそんな一角である。そんな時代の傾向を「観光地化」と名付けた。いわゆる都市観光である。観光の魅力は新しい、面白い、珍しい出来事体験である。日本アカデミー賞を受賞した「Always三丁目の夕日」に出てくる昭和の街並みに生きる三丁目の住民との出会いがあたかも追体験できるかのような錯覚を感じさせてくれる。その錯覚とは遠く懐かしさを感じさせてしまうもので、今や死語となってしまった父性と母性、お節介好きのおばさんに頑固親父、人間味を調節感じさせてくれる街。そんな当たり前の暮らし、日常の魅力である。三丁目の住人の一人になりたくで街を訪れるということである。[
「錯覚」という表現wp使ったが、ひとときの「昭和体験」をしたということである。これが観光地化の本質である。
昭和の風景、外へと向かうエネルギー 「食」
日本は地政学的にも多くの外国の人との交流によってモノや文化を取り入れてきた歴史がある。沖縄に今なお残るニライカナイ伝説では海の向こうには黄泉の国があると。海を通じて他国、他民族あるいは神と交流してきたと言う伝説である。面白いことにその沖縄には文明、文化の交差点を表した言葉が残っている。それは「チャンプルー」、様々のものが混ざり合った、一種の雑種文化の代名詞のようなものである。「食」で言えば、ゴーヤチャンプルーとか豆腐チャンプルーといった多くの食材を炒め合わせるチャンプルーのことである。
ところでその雑種文化から昭和の時代にもメガヒット商品が生まれている。コロナ禍によってインバウンド市場は激減してしまったが、訪日外国人が食べたい日本食NO1は、寿司でもすき焼きでもない、実はラーメンである。ラーメン市場も成熟市場であるが、本場中国麺の「日本化」ではない。ある意味、「和食」と“いう固有な世界と同じあり方、オリジナリティのある世界にまで進化した「食」である。少なくとも海外からのラーメン認識はそうである。極論かもしれないが、日本において和食がネイティブフーズだとするならば、ラーメンもネイティブフーズと考えても良いのではないかと思う。
雑居から雑種への進化については分かりやすい事例があっる。中国四川料理を日本に持ち込んだ珍県民が次のように言っている。
「私の中華料理少しウソある。でもそれいいウソ。美味しいウソ」と、日本の味覚に合わせたアレンジを行った。」
現在の日本では当たり前になっている「回鍋肉にキャベツを入れる」「ラーメン風担担麺(中国では汁なしが一般的)」「エビチリソースの調味にトマトケチャップ」、「麻婆豆腐には豚挽肉と長ネギ」というレシピは、建民が日本で始めたものだと言われている。例えば、麻婆豆腐は中国では山椒が効いていて「麻」はしびれるという意味。このアレンジこそが今日の日本での中国料理、とりわけ四川料理の普及に多大なる効果を発揮することになった。エビチリのトマトケチャップアレンジについては、中国本土でも、現在はそのような料理が見受けられると、陳建一が見聞したという。
こうした「進化」した食で世界を席巻したのはやはりラーメンになるであろう。ブランド化されたラーメン専門店は世界各地に進出し、インバウンド市場の多くは本場日本のラーメンを食べたいという訪日外国人が多く存在しているという。
昭和の風景、内へと向かうエネルギー 「食」
昭和の「食」でブームとなっているものに喫茶店の「クリームソーダ」や「ナポリタン」ががあるが、同じラーメンで言うならば「町中華」となる。ブランド化されたラーメン専門店ではなく、住宅地などどに少し前まではどこにでもあったあの町中華である。定番メニューで言えば「醤油ラーメンとなるが、手軽で安く食べ飽きないラーメンである。なるとにシナチク、それに焼き豚・・・・・・そんなラーメンである。
また、同じ傾向にあるのが食堂である。ダイニングバーではなく、抜かしながらの亜北道である。青森には100年食堂として残ってはいるが、東京ではどんどん少なくなってしまった。町中華も食堂も後継者不足から絶滅危惧業態になってしまった。手間暇かけて作る食より、セントラルキッチンで作られたチェーン業態の方が「経営」としては合理的であるという考えから今や探すのに苦労するほどである。但し、後継者がいる店の場合は若い後継者のアイディアや工夫により同じラーメンであっても地域の顧客に合わせたメニュー開発により繁盛店になっている。
こうした絶滅危惧専門店の継承を図る動きもあるが、残念ながら次第に市場からは無くなっていくこととなる。
未来塾(1)(2)では昭和の出来事の中で注目すべき「コト起こし」を中心にその発想など学ぶべきことを取り上げてきたが、そうした中、今「昭和レトロ」がブームとなっている。その対象の中心は若いZ世代とその上のミレニアム世代である。昭和を生きた世代にとって、そんな出来事が過去あったなと少しの郷愁を感じるだけである。そうした「下山途中」の人間にとって「登山の風景」を語ることはいささか面映さを感じてしまう。今回は「昭和文化考」としてできる限り昭和という時代の雰囲気・空気感を想起できるような注目すべき事象を取り上げた。
体験としての「昭和」
実は若い世代に決定的に足りないのが「経験」「実感」である。「倍速世代」と言われるように、過剰情報を処理するために倍速処理する。映画であればラストシーン・結末を見てから観るか観ないかをを決めるように駆け足で登山しているように見える。駆け足にさせているのが経験不足、いや未経験を埋めるためであるように思える。そうした倍速行動を促す一つを私は「昭和体験」と呼んでみた。
昭和世代にとって時代の風景は荒廃の中からのスタートであった。生きることに必死ではあったが、決して暗くはなかった。それは今日より明日、明日より明後日と、希望の持てる時代、それを感じることができた時代であった。それを可能にしたのは、それまでの「価値観」が戦争によってことごとく壊され、新たな価値観が求められ、それらを創る川へと変化したからであった。ある意味「前例」などないゼロスタートであったからで、そこには自由に発想し、行動できる時代であった。映画「Always三丁目の夕日」ではないが、「貧しかったけれど夢があった」とは、「自由」があったと置き換えても構わない。
ビートルズの日本公演に刺激された日本のミュージシャンは多く、それはジャンルを超えたものであった。その刺激によってJPOPも生まれたように、多くの若い世代は自由に登山できた時代であった。こうした音楽の聴取者はラジオの深夜放送で育った。その代表的番組が1965年から始まった『オールナイトニッポン』である。今も継続放送されてはいるが、倍速世代はニコ動やTikTokへと移り、町中華のラーメン同様絶滅危惧番組に向かっている。勿論、この深夜番組からはあの中島みゆきや吉田拓郎が生まれたことは知らない。
ところでその「昭和体験」の楽しみ方であるが、その特徴の一つが「体験確認」、つまり体験の記録をとることにある。所謂インスタグラムなどで公開する「映える」記録である。それは新大久保の韓国街での新メニューを殺エルするのとほとんど変わらない。若い世代がハマっているクリームソーダも古びたレトロな喫茶店でのもので、食べたい理由は二番目でまずは写真を撮ることにある。新大久保のコリアンタウンもそうだが、観光地体験ということである。繰り返し食べにくる人間もいるとは思うが、倍速世代にとって「登山」は駆け足で登ることであり、今日はこの山、明日は・・・・と体験を重ねるということである。
1980年代に男社会・大人社会に対し挑戦的であった「オヤジギャル」とは異なり、倍速世代はおとなしい。
数年前から、SNSなどを中心に盛んに使われ始め、2021年の「新語・流行語大賞」ではトップ10候補の「ノミネート3されたキーワードに「推し活」がある。昭和世代にとってはまるでわからない概念であるが、「推し」の対象は、アイドルやお笑いタレント、アニメ、キャラクター、漫画、ゲームから、歴史や鉄道、スポーツなどと幅広く存在する。ファンやオタクとは異なり、さらに一歩進んだ概念である。
元々「推す」という言葉が発生したのは、あのアイドルグループ「AKB48」に遡れる。彼女達の熱狂的ファンは最も応援しているメンバーを「推しメン」(”推しメンバー”の略)や単に「推し」と呼ぶようになり、それがいつからか他のアイドルやアイドル以外のゲームやアニメキャラなどでも使われるようになり、現在はさらに発展して「推し活」となる。アキバの雑居ビルから生まれたAKB48については分析してきたので過去のブログを見ていただきたいが、AKB48せん風の凄さは理解いただけるであろう。その延長線上に「推し活」があるということである。そして、多くの「推し」の対象の一つに昭和レトロもあるということである。
「居心地の良さ」にレトロ時間がある
何故か喫茶店が若い世代にも「推し」の一つとなっている。少し暗い落ち着いた空間のレトロな喫茶店でクリームソーダを飲むのだが、映える写真を撮ることも目的の一つであるが、人気のスターバックスとは異なる「時間」を感じていると私は考えている。大仰に言えば歴史や伝統への興味であるが、「ゆっくりとした時間」過剰な情報が行き交う日常とは遮断した「時間」を求めてのことと思う。駆け足登山をする倍速世代に突tれも居心地の良いう「時間」があるということであろう。昭和世代にとっては慣れ親しんだいつもの喫茶店、そんな日常「時間」があるということである。
そんな喫茶店の一つとして若い世代に人気の街吉祥寺にモデルのような喫茶てrんを取り上げたことがあった、未来塾(1)では次のように書いたことがあった。
『吉祥寺に詳しい知人に聞いたところ昭和レトロな喫茶店にも若い世代の行列ができているとのこと。聞いてみると吉祥寺駅南口近くの喫茶店「ゆりあぺむぺる」。宮沢賢治の詩集『春と修羅』に登場する名前からつけた喫茶店である。変化の激しい吉祥寺にあって、実は1976年にオープンして以来ずっと変わらずこの場所にあり、地元の人に愛されている老舗喫茶店である。勿論、クリームソーダも人気のようだが、他にもチキンカレーなどフードメニューもあるとのこと。』
このように2つの世代が交差している店だが、共通していることは穏やかで居心地の良い時間があるということだ。その居心地の良さとは、昭和世代にとっては「日常」ではあっても、倍速世代にとっては未体験の休憩時間である。
昭和」探検隊
昭和を振り返ってみると今なお続くものもあれば既に無くなってしまったものもある。昭和という時代を終え30年度度経つが、倍速世代を中心に「昭和」の見直しが始まったという感がしてならない。それは単なるリバイバル・復興と言った「過去」の再生ではなく、「ニュー昭和」とでも言いたくなるようなことである。何故そうした発想が生まれたかは、このコロナ禍の2年半若い世代の「行動」を観てきたが、ウイルスの拡散という悪者説がマスメディアの定説となっていることに対し、それは間違いであるとブログを通じて書いてきた。結論から言えば、倍速世代にとって、例えば人流抑制の効果について「その根拠は何か」そして「それは合理的であるか」を問うているだけで多くのことを否定している訳ではない。例えば、路上呑みが問題であると多くのマスメディアは指摘していたが、「何故8時までの飲酒は良くて、それ以降は感染拡大になるのか。「その根拠は何か、科学的な説明。路上と言うオープンエアのもとでの
飲酒の方が感染拡大にはならないのでは」」と問うているのだ。路上飲みの風景は良いとは思わないが、合理的な価値観世代にとっては路上飲みの方がより健康的ではという考えである。詳しくはブログを再読してほしいが極めて素直で優しい世代である。
そして、これからどんな「ニュー昭和」が生まれていくか楽しみである。例えば、「昭和の街」と言っても町全体が残っている場所はほとんどない。多くは再開発されていて路地裏横丁に一部残るだけとなっている。あるとすれば観光地となった「谷根千」ぐらいであろう。その中心となっている谷中銀座商店は次のような理念を持って活動している。分かりやすいのでHPの一部を転載する。
『時代と共に激変する商流の中で、今、商店街の存在価値が問われています。 時代の流れに適応しながらも、古き良き商習慣を大切に、商店街という文化を次世代に残していく、それが私たちの使命だと考えています。』
「残したいのは商店街という文化である」と明言している。町歩きを通じた時代観察を始めて10数年経つが吉祥寺とともに回数多く訪れた街である。詳しくは「未来の消滅都市論」を呼んでいただきたいが、若い世代が好みそうな店などどんな変化があるかわからないが、倍速世代にとっても格好の探検できる街であろう。ある意味谷根千は都心でありながらここ一帯だけが開発から取り残された「地域」で、THE昭和とでも言いたくなるところである。
思い出消費と未来消費
2009年、リーマンショックの翌年低迷する景気にあって突如として過去を振り返る消費が市場の多くを占める年なった。バブル崩壊の1990年代にもこうした危機にあって同じような「過去回帰型消費が出没した。例えば2009年の日経BJのヒット商品番付では大ヒットではないが前頭に次のような商品が消費されていた。
『アタックNeo、ドラクエ9、ファストファッション、フィッツ、韓国旅行、仏像、新型インフル対策グッズ、ウーノ フォグバー、お弁当、THIS IS IT、戦国BASARA、ランニング&サイクリング、PEN E-P1、ザ・ビートルズリマスター盤CD、ベイブレード、ダウニー、山崎豊子、1Q84、ポメラ、けいおん!、シニア・ビューティ、蒸気レスIH炊飯器、粉もん、ハイボール、sweet、LABII日本総本店、い・ろ・は・す、ノート、』
デフレが加速する中、復刻、リバイバル、レトロ、こうしたキーワードがあてはまる商品が前頭に並んでいる。花王の白髪染め「ブローネ」を始めとした「シニア・ビューティ」をテーマとした青春フィードバック商品群。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」は出荷本数は優に400万本を超えた。居酒屋の定番メニューとなった、若い世代にとって温故知新であるサントリー角の「ハイボール」。私にとって、知らなかったヒット商品の一つであったのが、現代版ベーゴマの「ベイブレード」で、2008年夏の発売以来1100万個売り上げたお化け商品である。この延長線上に、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」や神戸の「鉄人28号」に話題が集まった。あるいは、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラだ。売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」であり、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。
ヒット消費の中心は団塊世代、下山途中の世代であるが、若い世代にもそうした消費のの傾向は広がっていった。
今回の昭和レトロブームはコロナ禍という「危機」による時代背景があることは事実であるが、倍速世代を中心とした若い世代へと広がっていくのかというと少し異なるものと考えている。倍速世代にとっての「昭和」は過去ではなく、過去の中に「未来」を観ているような気がしてならない。その「未来」とは未体験への興味・関心からであるが、これから小さなヒット商品が生まれてくると予測される。
そうしたヒット商品の多くはそのデザインにある。今流行っている家電商品の一つにアラジンのトースターがある。アラジンといえば、下山途中のシニア世代にとってはあのストーブのアラジンである。そのアラジンのトースターは機能も進化しているが、やはりそのデザインにある。丸みを帯びたレトロタイプである。
ところで「文化」は継承され時代に即した「何か」を取り入れ進化し、次代へと向かう。昭和という時代の雰囲気・空気感を思い起こしてもらいために主な出来事を選んできたが、中でもヒットが生まれるものの一つが「昭和歌謡」であろう。前述の阿久悠に代表される歌謡曲もそうだが、沢田研二の「勝手にしやがれ」にも注目が集まれ、現役である沢田研二のコンサートに倍速世代が聴きにくることも考えられる。また、かなり以前のブログに書いたことだが、休止中の「いきものがかり 」が確か青森でのコンサートで石川さゆりが歌った「津軽海峡・冬景色」をカバーしたという。例えば、中島みゆきが作詞作曲した「宙船(そらふね)」はTOKIOに歌わせたものがが、倍速世代のミュージシャンにカバー曲として提供するなどしたら日本の音楽界も活況を呈することであろう。
大きな転換期を迎えている
大きな転換期と言えば1990年代初頭のバブル崩壊を含めた1990年代であろう。それまでの昭和であった時代の価値観が大きく変わったことは周知恥の通りである。不動産神話をはじめ、潰れないと言われた大企業、金融企業、・・・・・製造業は中国へとその拠点を移し産業の空洞化も起きていた。実はそれ以上に大きな変化の予兆を指摘していたのが、団塊世代の名付け親で当時経済企画庁長官であった堺屋太一さんであった。生産年齢人口が減少へと変わったと警鐘を鳴らしたのだが、マスコミをはじめ殆ど注目されることはなかった。生産年齢人口とは働き・消費する人口のことであり、日本の国力基礎となる指標である。勿論その指標には少子高齢社会という問題も含まれている。
そして、1990年代を象徴するキーワードとして「デフレであったが、バブル崩壊後の国内消費を救ったのはデフレ企業であったが、視野を世界に広げてみると激烈な競争市場になっていた。実は数年前に「転換期」というテーマで日本産業の変化を調べたことがあった。その中で昭和と平成の違い・変化について次のように書いた。
『戦後の日本はモノづくり、輸出立国として経済成長を果たしてきたわけであるが、少なく とも10 年単位で見てもその変貌ぶりは激しい。例えば、産業の米と言わた半導体はその生産額は 1986年に米国を抜いて、世界一となった。しかし、周知のように現在では台湾、韓国等のメーカーが台頭し、 ランキングではNo1は米国のインテル、No2は韓国のSamsung で ある。世界のトップ10には東芝セミコンダクター1社のみとなっている。 あるいは重厚長大 産業のひとつである造船業を見ても、1970年代、80年代と2度にわたる「造船大不況」期を乗り 越えてきた。しかし、当時と今では、競争環境がまるで異なる。当時の日本は新船竣工量で5割 以上の世界シェアを誇り、世界最大かつ最強の造船国だった。しかし、今やNo1は中国、No2は 韓国となっている。 こうした工業、製造業の変化もさることながら、国内の産業も激変してきた。少し古いデータであ が、各産業の就業者数の 構成比を確認すればその激変ぶりがわかる。
第一次産業:1950年48.5%か1970年19.3%へ、2010年には4.2% 第二次産業:1950年15.8%か1970年26.1%へ、2010年には25.2% 第三次産業:1950年20.3%か1970年46.6%へ、2010年には70.6%』
周知のことであるが、世界との競争で唯一勝ち残ったのはトヨタをはじめとした自動車産業であった。一方欧米、特に米国においてはGAFAに代表されるIT企業が世界を席巻した。「IT」の場合、モノづくりは二義的なことでインターネットによる「情報活用」による今までなかった新しいビジネスである。
何故、GAFAのようなビジネスが生まれなかったのかと言えば、昭和の創業型経営者から平成のサラリーマン経営者へと変化し、資本のグローバル化の波に飲み込まれてしまい思い切った「新しい試み」に躊躇するいわばサラリーマン経営者になってしまったということがその要因の一つであろう。もう一つ挙げるとすれば「バブル後遺症」から脱却できなかったということだ。唯一創業型経営を続けているのはソフトバンクやユニクロであり、失敗を恐れない経営であることを見れば明らかであろう。
実はこうした失敗を恐れることを嫌い傾向は広く日本社会へと広がっている。リスクの少ない生き方、働き方、が求められ、出る杭いは打たれるではないが、そんな人材は極めて少ない社会となっている。ロシアによるウクライナ侵攻から始まった世界の「変化」を見てもわかるが、数年前までのグローバルビジネスとは異なる局面へと激変している。まるで欧米対ロシアと言ったブロック経済のような新たな「壁」がつくられつつある。戦後の昭和が「自由なビジネス」を求めて世界中くまなくセールスした時代であったが、「自由」を実現する苦労から、「壁」をどう壊していくか柔軟でしたたかなビジネスへの転換である。つまり、新たな「競争が始まっている。
もうひとつ時代の転換を感じさせる出来事が起きた。周知の安倍元総理銃撃事件である。その衝撃は容疑者の犯行の背景に旧統一教会への恨みがあったとの報道である。「まだ統一教会って活動してたのか!というのが率直な感想で、その名は霊感商法と共にメディアを通じて知っていた程度で、「何故」という思う疑念が起きた。これから社会的に問題である団体と政治との関係会えういは被害者の救済など議論されていくと思うが、戦後の「昭和」の裏側に潜む問題であり、「昭和」の影を避けて通ることの出来ない課題である。そして、こうした問題こそ「昭和世代」が責任をもって解決すべきことでもある。
それは何よりも「登山」途中の若いZ世代が自由に歩くことができる環境づくりでもある。消費だけでなく、広く新しい価値観のもとで新しい社会を創っていく世代であると確信をしているからだ。昭和世代が敗戦によって過去の「既成」から自由であったように、Z世代はバブル崩壊という敗戦にも似た転換期以降に生まれた。ある意味「昭和」という過去の既成から自由な世代ということだ。戦後の昭和世代が残したものはGDP世界3位の経済大国ではなく、既成からの「自由」であると考えるからだ。
そのZ世代が好きなバンドの一つに「いきものが」かり がある。その定番曲に「ブルーバード」(2008年)という曲がある。 人気アニメ『NARUTO -ナルト- 疾風伝』の主題歌にもなった曲で、あああの曲かと思う人も多いかと思う。この曲をキーワードとして言うならば、「自由への希求」であろう。「昭和」時代の価値観から離れ、「自由」を求める世代ということだ。つまり、新しい価値創造はこの世代から始まるといっても過言ではない。
個人化社会の進行
1980年代注目すべきは社会構造が大きく転嫁していくことにある。例えば、当時核家族という言葉が使われるようになり、住まいも個室化するようになる。それを象徴するように、お化け番組と言われたTBSの「8時だよ全員集合」が1985年に終了する。更に年末のNHK紅白歌合戦は1984年78.1%を最後に右肩下がりとなる。つまり、家族での生活から、子供たちには個室があてがわれ、家族団欒という言葉は仕事なった。「豊かさ」が新たな社会構造の変化を促したと言うことである。
つまり、社会の単位が「家族」から個人へと変化し、私がそうした個人を「個族」と呼んだ。家族から個族への変化である。以降平成・令和と時代が変わっても「個人化」というライフスタイルの傾向は変わらない。勿論、家族の大切さ、家族価値の再考もあって個人と家族の間で揺れ動くことはあってもである。例えば、住宅メーカーの場合、「個室」はプライバシーを保つことになるのだが、閉ざされた空間であることから家族内の「会話」もまた乏しくなる。そうしたことからコミュニケーションが行えるリビングなどへの工夫なされるようになる。
消費においても、2000年代にはシングル女性の個人行動、特に旅行に注目が集まり、「ひとリッチ」という言葉も生まれる。更には、「一人鍋」がヒットし、あれこれちょっとづつ、個食、小食、が基本となる。こうした個人中心の価値観が広く浸透して行くこととなる。
一方、個人中心社会はあるいみで「バラバラ社会」のことでもあり、そのバラバラを解消するために「仲間社会」が生まれる。この仲間社会からは「いじめ」が生まれ、社会問題化したことは周知の通りである。あるいは地域のコミュニティの消滅にも向かわせ、大きな時代潮流の「負」の側面でもある。
「昭和」は新しい、おもしろい、珍しいか?
今「昭和」が若い世代において注目されている。リニューアルした西武園遊園地ではないが、昭和をテーマとしたテーマパークからクリームソーダがカフェの人気メニューになったように、新しい、おもしろい、珍しい「時代」として受け止められている。昭和を生きたシニア世代による郷愁としてではなく、現在のブームを創っているのは昭和の中にある「人間臭さ」「息遣い」にあるのではないかと思っている。
今や商業施設の賑わいづくりの定番にもなったレトロな雰囲気は若い世代にとってはまさに「新鮮」そのものであったということだ。渋谷パルコ、虎ノ門ヒルズ、渋谷横丁、心斎橋パルコ・・・・・・・・・・それら賑わいづくりのモデルになったのが吉祥寺のハーモニカ横丁である。賑わいとは街の息遣いの事である。詳しくは「未来の消滅都市論」を読んでほしいが、街の魅力がどのようにつくられてきたか一つのモデルとなっている。吉祥寺という街は都心・新宿と郊外・立川とのちゅかにある街で、消費のエリア間競争翻弄されてきた街であった。吉祥にには3つの百貨店があったが勝ち残ったのは東急百貨店のみで大型商業施設の多くは再編した経緯がある。街の活性化策として対象となったのが、駅前の一等地ハモニカ横丁であった。横丁に一歩入るとタイムスリップしたかのような商店・飲食店街が密集している路地がある。ハモニカ横丁と愛称されているが、そのハモニカの如く狭い数坪の店が並んでいる。餃子のみんみんのように、地元の人から愛されてきた店も多いが、一種猥雑な空気が漂う横丁路地裏にあって、なかにはおしゃれな立ち飲みショットバーや世界のビールやワインを飲ませるダイニングバーもあり、若い世代にはOLD NEW(古が新しい)といった受け止め方がなされている、そんな一角がある。人の温もりが直接感じられるそんな一角である。そんな時代の傾向を「観光地化」と名付けた。いわゆる都市観光である。観光の魅力は新しい、面白い、珍しい出来事体験である。日本アカデミー賞を受賞した「Always三丁目の夕日」に出てくる昭和の街並みに生きる三丁目の住民との出会いがあたかも追体験できるかのような錯覚を感じさせてくれる。その錯覚とは遠く懐かしさを感じさせてしまうもので、今や死語となってしまった父性と母性、お節介好きのおばさんに頑固親父、人間味を調節感じさせてくれる街。そんな当たり前の暮らし、日常の魅力である。三丁目の住人の一人になりたくで街を訪れるということである。[
「錯覚」という表現wp使ったが、ひとときの「昭和体験」をしたということである。これが観光地化の本質である。
昭和の風景、外へと向かうエネルギー 「食」
日本は地政学的にも多くの外国の人との交流によってモノや文化を取り入れてきた歴史がある。沖縄に今なお残るニライカナイ伝説では海の向こうには黄泉の国があると。海を通じて他国、他民族あるいは神と交流してきたと言う伝説である。面白いことにその沖縄には文明、文化の交差点を表した言葉が残っている。それは「チャンプルー」、様々のものが混ざり合った、一種の雑種文化の代名詞のようなものである。「食」で言えば、ゴーヤチャンプルーとか豆腐チャンプルーといった多くの食材を炒め合わせるチャンプルーのことである。
ところでその雑種文化から昭和の時代にもメガヒット商品が生まれている。コロナ禍によってインバウンド市場は激減してしまったが、訪日外国人が食べたい日本食NO1は、寿司でもすき焼きでもない、実はラーメンである。ラーメン市場も成熟市場であるが、本場中国麺の「日本化」ではない。ある意味、「和食」と“いう固有な世界と同じあり方、オリジナリティのある世界にまで進化した「食」である。少なくとも海外からのラーメン認識はそうである。極論かもしれないが、日本において和食がネイティブフーズだとするならば、ラーメンもネイティブフーズと考えても良いのではないかと思う。
雑居から雑種への進化については分かりやすい事例があっる。中国四川料理を日本に持ち込んだ珍県民が次のように言っている。
「私の中華料理少しウソある。でもそれいいウソ。美味しいウソ」と、日本の味覚に合わせたアレンジを行った。」
現在の日本では当たり前になっている「回鍋肉にキャベツを入れる」「ラーメン風担担麺(中国では汁なしが一般的)」「エビチリソースの調味にトマトケチャップ」、「麻婆豆腐には豚挽肉と長ネギ」というレシピは、建民が日本で始めたものだと言われている。例えば、麻婆豆腐は中国では山椒が効いていて「麻」はしびれるという意味。このアレンジこそが今日の日本での中国料理、とりわけ四川料理の普及に多大なる効果を発揮することになった。エビチリのトマトケチャップアレンジについては、中国本土でも、現在はそのような料理が見受けられると、陳建一が見聞したという。
こうした「進化」した食で世界を席巻したのはやはりラーメンになるであろう。ブランド化されたラーメン専門店は世界各地に進出し、インバウンド市場の多くは本場日本のラーメンを食べたいという訪日外国人が多く存在しているという。
昭和の風景、内へと向かうエネルギー 「食」
昭和の「食」でブームとなっているものに喫茶店の「クリームソーダ」や「ナポリタン」ががあるが、同じラーメンで言うならば「町中華」となる。ブランド化されたラーメン専門店ではなく、住宅地などどに少し前まではどこにでもあったあの町中華である。定番メニューで言えば「醤油ラーメンとなるが、手軽で安く食べ飽きないラーメンである。なるとにシナチク、それに焼き豚・・・・・・そんなラーメンである。
また、同じ傾向にあるのが食堂である。ダイニングバーではなく、抜かしながらの亜北道である。青森には100年食堂として残ってはいるが、東京ではどんどん少なくなってしまった。町中華も食堂も後継者不足から絶滅危惧業態になってしまった。手間暇かけて作る食より、セントラルキッチンで作られたチェーン業態の方が「経営」としては合理的であるという考えから今や探すのに苦労するほどである。但し、後継者がいる店の場合は若い後継者のアイディアや工夫により同じラーメンであっても地域の顧客に合わせたメニュー開発により繁盛店になっている。
こうした絶滅危惧専門店の継承を図る動きもあるが、残念ながら次第に市場からは無くなっていくこととなる。
「下山からの風景」に学ぶ
未来塾(1)(2)では昭和の出来事の中で注目すべき「コト起こし」を中心にその発想など学ぶべきことを取り上げてきたが、そうした中、今「昭和レトロ」がブームとなっている。その対象の中心は若いZ世代とその上のミレニアム世代である。昭和を生きた世代にとって、そんな出来事が過去あったなと少しの郷愁を感じるだけである。そうした「下山途中」の人間にとって「登山の風景」を語ることはいささか面映さを感じてしまう。今回は「昭和文化考」としてできる限り昭和という時代の雰囲気・空気感を想起できるような注目すべき事象を取り上げた。
体験としての「昭和」
実は若い世代に決定的に足りないのが「経験」「実感」である。「倍速世代」と言われるように、過剰情報を処理するために倍速処理する。映画であればラストシーン・結末を見てから観るか観ないかをを決めるように駆け足で登山しているように見える。駆け足にさせているのが経験不足、いや未経験を埋めるためであるように思える。そうした倍速行動を促す一つを私は「昭和体験」と呼んでみた。
昭和世代にとって時代の風景は荒廃の中からのスタートであった。生きることに必死ではあったが、決して暗くはなかった。それは今日より明日、明日より明後日と、希望の持てる時代、それを感じることができた時代であった。それを可能にしたのは、それまでの「価値観」が戦争によってことごとく壊され、新たな価値観が求められ、それらを創る川へと変化したからであった。ある意味「前例」などないゼロスタートであったからで、そこには自由に発想し、行動できる時代であった。映画「Always三丁目の夕日」ではないが、「貧しかったけれど夢があった」とは、「自由」があったと置き換えても構わない。
ビートルズの日本公演に刺激された日本のミュージシャンは多く、それはジャンルを超えたものであった。その刺激によってJPOPも生まれたように、多くの若い世代は自由に登山できた時代であった。こうした音楽の聴取者はラジオの深夜放送で育った。その代表的番組が1965年から始まった『オールナイトニッポン』である。今も継続放送されてはいるが、倍速世代はニコ動やTikTokへと移り、町中華のラーメン同様絶滅危惧番組に向かっている。勿論、この深夜番組からはあの中島みゆきや吉田拓郎が生まれたことは知らない。
ところでその「昭和体験」の楽しみ方であるが、その特徴の一つが「体験確認」、つまり体験の記録をとることにある。所謂インスタグラムなどで公開する「映える」記録である。それは新大久保の韓国街での新メニューを殺エルするのとほとんど変わらない。若い世代がハマっているクリームソーダも古びたレトロな喫茶店でのもので、食べたい理由は二番目でまずは写真を撮ることにある。新大久保のコリアンタウンもそうだが、観光地体験ということである。繰り返し食べにくる人間もいるとは思うが、倍速世代にとって「登山」は駆け足で登ることであり、今日はこの山、明日は・・・・と体験を重ねるということである。
1980年代に男社会・大人社会に対し挑戦的であった「オヤジギャル」とは異なり、倍速世代はおとなしい。
数年前から、SNSなどを中心に盛んに使われ始め、2021年の「新語・流行語大賞」ではトップ10候補の「ノミネート3されたキーワードに「推し活」がある。昭和世代にとってはまるでわからない概念であるが、「推し」の対象は、アイドルやお笑いタレント、アニメ、キャラクター、漫画、ゲームから、歴史や鉄道、スポーツなどと幅広く存在する。ファンやオタクとは異なり、さらに一歩進んだ概念である。
元々「推す」という言葉が発生したのは、あのアイドルグループ「AKB48」に遡れる。彼女達の熱狂的ファンは最も応援しているメンバーを「推しメン」(”推しメンバー”の略)や単に「推し」と呼ぶようになり、それがいつからか他のアイドルやアイドル以外のゲームやアニメキャラなどでも使われるようになり、現在はさらに発展して「推し活」となる。アキバの雑居ビルから生まれたAKB48については分析してきたので過去のブログを見ていただきたいが、AKB48せん風の凄さは理解いただけるであろう。その延長線上に「推し活」があるということである。そして、多くの「推し」の対象の一つに昭和レトロもあるということである。
「居心地の良さ」にレトロ時間がある
何故か喫茶店が若い世代にも「推し」の一つとなっている。少し暗い落ち着いた空間のレトロな喫茶店でクリームソーダを飲むのだが、映える写真を撮ることも目的の一つであるが、人気のスターバックスとは異なる「時間」を感じていると私は考えている。大仰に言えば歴史や伝統への興味であるが、「ゆっくりとした時間」過剰な情報が行き交う日常とは遮断した「時間」を求めてのことと思う。駆け足登山をする倍速世代に突tれも居心地の良いう「時間」があるということであろう。昭和世代にとっては慣れ親しんだいつもの喫茶店、そんな日常「時間」があるということである。
そんな喫茶店の一つとして若い世代に人気の街吉祥寺にモデルのような喫茶てrんを取り上げたことがあった、未来塾(1)では次のように書いたことがあった。
『吉祥寺に詳しい知人に聞いたところ昭和レトロな喫茶店にも若い世代の行列ができているとのこと。聞いてみると吉祥寺駅南口近くの喫茶店「ゆりあぺむぺる」。宮沢賢治の詩集『春と修羅』に登場する名前からつけた喫茶店である。変化の激しい吉祥寺にあって、実は1976年にオープンして以来ずっと変わらずこの場所にあり、地元の人に愛されている老舗喫茶店である。勿論、クリームソーダも人気のようだが、他にもチキンカレーなどフードメニューもあるとのこと。』
このように2つの世代が交差している店だが、共通していることは穏やかで居心地の良い時間があるということだ。その居心地の良さとは、昭和世代にとっては「日常」ではあっても、倍速世代にとっては未体験の休憩時間である。
昭和」探検隊
昭和を振り返ってみると今なお続くものもあれば既に無くなってしまったものもある。昭和という時代を終え30年度度経つが、倍速世代を中心に「昭和」の見直しが始まったという感がしてならない。それは単なるリバイバル・復興と言った「過去」の再生ではなく、「ニュー昭和」とでも言いたくなるようなことである。何故そうした発想が生まれたかは、このコロナ禍の2年半若い世代の「行動」を観てきたが、ウイルスの拡散という悪者説がマスメディアの定説となっていることに対し、それは間違いであるとブログを通じて書いてきた。結論から言えば、倍速世代にとって、例えば人流抑制の効果について「その根拠は何か」そして「それは合理的であるか」を問うているだけで多くのことを否定している訳ではない。例えば、路上呑みが問題であると多くのマスメディアは指摘していたが、「何故8時までの飲酒は良くて、それ以降は感染拡大になるのか。「その根拠は何か、科学的な説明。路上と言うオープンエアのもとでの
飲酒の方が感染拡大にはならないのでは」」と問うているのだ。路上飲みの風景は良いとは思わないが、合理的な価値観世代にとっては路上飲みの方がより健康的ではという考えである。詳しくはブログを再読してほしいが極めて素直で優しい世代である。
そして、これからどんな「ニュー昭和」が生まれていくか楽しみである。例えば、「昭和の街」と言っても町全体が残っている場所はほとんどない。多くは再開発されていて路地裏横丁に一部残るだけとなっている。あるとすれば観光地となった「谷根千」ぐらいであろう。その中心となっている谷中銀座商店は次のような理念を持って活動している。分かりやすいのでHPの一部を転載する。
『時代と共に激変する商流の中で、今、商店街の存在価値が問われています。 時代の流れに適応しながらも、古き良き商習慣を大切に、商店街という文化を次世代に残していく、それが私たちの使命だと考えています。』
「残したいのは商店街という文化である」と明言している。町歩きを通じた時代観察を始めて10数年経つが吉祥寺とともに回数多く訪れた街である。詳しくは「未来の消滅都市論」を呼んでいただきたいが、若い世代が好みそうな店などどんな変化があるかわからないが、倍速世代にとっても格好の探検できる街であろう。ある意味谷根千は都心でありながらここ一帯だけが開発から取り残された「地域」で、THE昭和とでも言いたくなるところである。
思い出消費と未来消費
2009年、リーマンショックの翌年低迷する景気にあって突如として過去を振り返る消費が市場の多くを占める年なった。バブル崩壊の1990年代にもこうした危機にあって同じような「過去回帰型消費が出没した。例えば2009年の日経BJのヒット商品番付では大ヒットではないが前頭に次のような商品が消費されていた。
『アタックNeo、ドラクエ9、ファストファッション、フィッツ、韓国旅行、仏像、新型インフル対策グッズ、ウーノ フォグバー、お弁当、THIS IS IT、戦国BASARA、ランニング&サイクリング、PEN E-P1、ザ・ビートルズリマスター盤CD、ベイブレード、ダウニー、山崎豊子、1Q84、ポメラ、けいおん!、シニア・ビューティ、蒸気レスIH炊飯器、粉もん、ハイボール、sweet、LABII日本総本店、い・ろ・は・す、ノート、』
デフレが加速する中、復刻、リバイバル、レトロ、こうしたキーワードがあてはまる商品が前頭に並んでいる。花王の白髪染め「ブローネ」を始めとした「シニア・ビューティ」をテーマとした青春フィードバック商品群。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」は出荷本数は優に400万本を超えた。居酒屋の定番メニューとなった、若い世代にとって温故知新であるサントリー角の「ハイボール」。私にとって、知らなかったヒット商品の一つであったのが、現代版ベーゴマの「ベイブレード」で、2008年夏の発売以来1100万個売り上げたお化け商品である。この延長線上に、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」や神戸の「鉄人28号」に話題が集まった。あるいは、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラだ。売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」であり、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。
ヒット消費の中心は団塊世代、下山途中の世代であるが、若い世代にもそうした消費のの傾向は広がっていった。
今回の昭和レトロブームはコロナ禍という「危機」による時代背景があることは事実であるが、倍速世代を中心とした若い世代へと広がっていくのかというと少し異なるものと考えている。倍速世代にとっての「昭和」は過去ではなく、過去の中に「未来」を観ているような気がしてならない。その「未来」とは未体験への興味・関心からであるが、これから小さなヒット商品が生まれてくると予測される。
そうしたヒット商品の多くはそのデザインにある。今流行っている家電商品の一つにアラジンのトースターがある。アラジンといえば、下山途中のシニア世代にとってはあのストーブのアラジンである。そのアラジンのトースターは機能も進化しているが、やはりそのデザインにある。丸みを帯びたレトロタイプである。
ところで「文化」は継承され時代に即した「何か」を取り入れ進化し、次代へと向かう。昭和という時代の雰囲気・空気感を思い起こしてもらいために主な出来事を選んできたが、中でもヒットが生まれるものの一つが「昭和歌謡」であろう。前述の阿久悠に代表される歌謡曲もそうだが、沢田研二の「勝手にしやがれ」にも注目が集まれ、現役である沢田研二のコンサートに倍速世代が聴きにくることも考えられる。また、かなり以前のブログに書いたことだが、休止中の「いきものがかり 」が確か青森でのコンサートで石川さゆりが歌った「津軽海峡・冬景色」をカバーしたという。例えば、中島みゆきが作詞作曲した「宙船(そらふね)」はTOKIOに歌わせたものがが、倍速世代のミュージシャンにカバー曲として提供するなどしたら日本の音楽界も活況を呈することであろう。
大きな転換期を迎えている
大きな転換期と言えば1990年代初頭のバブル崩壊を含めた1990年代であろう。それまでの昭和であった時代の価値観が大きく変わったことは周知恥の通りである。不動産神話をはじめ、潰れないと言われた大企業、金融企業、・・・・・製造業は中国へとその拠点を移し産業の空洞化も起きていた。実はそれ以上に大きな変化の予兆を指摘していたのが、団塊世代の名付け親で当時経済企画庁長官であった堺屋太一さんであった。生産年齢人口が減少へと変わったと警鐘を鳴らしたのだが、マスコミをはじめ殆ど注目されることはなかった。生産年齢人口とは働き・消費する人口のことであり、日本の国力基礎となる指標である。勿論その指標には少子高齢社会という問題も含まれている。
そして、1990年代を象徴するキーワードとして「デフレであったが、バブル崩壊後の国内消費を救ったのはデフレ企業であったが、視野を世界に広げてみると激烈な競争市場になっていた。実は数年前に「転換期」というテーマで日本産業の変化を調べたことがあった。その中で昭和と平成の違い・変化について次のように書いた。
『戦後の日本はモノづくり、輸出立国として経済成長を果たしてきたわけであるが、少なく とも10 年単位で見てもその変貌ぶりは激しい。例えば、産業の米と言わた半導体はその生産額は 1986年に米国を抜いて、世界一となった。しかし、周知のように現在では台湾、韓国等のメーカーが台頭し、 ランキングではNo1は米国のインテル、No2は韓国のSamsung で ある。世界のトップ10には東芝セミコンダクター1社のみとなっている。 あるいは重厚長大 産業のひとつである造船業を見ても、1970年代、80年代と2度にわたる「造船大不況」期を乗り 越えてきた。しかし、当時と今では、競争環境がまるで異なる。当時の日本は新船竣工量で5割 以上の世界シェアを誇り、世界最大かつ最強の造船国だった。しかし、今やNo1は中国、No2は 韓国となっている。 こうした工業、製造業の変化もさることながら、国内の産業も激変してきた。少し古いデータであ が、各産業の就業者数の 構成比を確認すればその激変ぶりがわかる。
第一次産業:1950年48.5%か1970年19.3%へ、2010年には4.2% 第二次産業:1950年15.8%か1970年26.1%へ、2010年には25.2% 第三次産業:1950年20.3%か1970年46.6%へ、2010年には70.6%』
周知のことであるが、世界との競争で唯一勝ち残ったのはトヨタをはじめとした自動車産業であった。一方欧米、特に米国においてはGAFAに代表されるIT企業が世界を席巻した。「IT」の場合、モノづくりは二義的なことでインターネットによる「情報活用」による今までなかった新しいビジネスである。
何故、GAFAのようなビジネスが生まれなかったのかと言えば、昭和の創業型経営者から平成のサラリーマン経営者へと変化し、資本のグローバル化の波に飲み込まれてしまい思い切った「新しい試み」に躊躇するいわばサラリーマン経営者になってしまったということがその要因の一つであろう。もう一つ挙げるとすれば「バブル後遺症」から脱却できなかったということだ。唯一創業型経営を続けているのはソフトバンクやユニクロであり、失敗を恐れない経営であることを見れば明らかであろう。
実はこうした失敗を恐れることを嫌い傾向は広く日本社会へと広がっている。リスクの少ない生き方、働き方、が求められ、出る杭いは打たれるではないが、そんな人材は極めて少ない社会となっている。ロシアによるウクライナ侵攻から始まった世界の「変化」を見てもわかるが、数年前までのグローバルビジネスとは異なる局面へと激変している。まるで欧米対ロシアと言ったブロック経済のような新たな「壁」がつくられつつある。戦後の昭和が「自由なビジネス」を求めて世界中くまなくセールスした時代であったが、「自由」を実現する苦労から、「壁」をどう壊していくか柔軟でしたたかなビジネスへの転換である。つまり、新たな「競争が始まっている。
もうひとつ時代の転換を感じさせる出来事が起きた。周知の安倍元総理銃撃事件である。その衝撃は容疑者の犯行の背景に旧統一教会への恨みがあったとの報道である。「まだ統一教会って活動してたのか!というのが率直な感想で、その名は霊感商法と共にメディアを通じて知っていた程度で、「何故」という思う疑念が起きた。これから社会的に問題である団体と政治との関係会えういは被害者の救済など議論されていくと思うが、戦後の「昭和」の裏側に潜む問題であり、「昭和」の影を避けて通ることの出来ない課題である。そして、こうした問題こそ「昭和世代」が責任をもって解決すべきことでもある。
それは何よりも「登山」途中の若いZ世代が自由に歩くことができる環境づくりでもある。消費だけでなく、広く新しい価値観のもとで新しい社会を創っていく世代であると確信をしているからだ。昭和世代が敗戦によって過去の「既成」から自由であったように、Z世代はバブル崩壊という敗戦にも似た転換期以降に生まれた。ある意味「昭和」という過去の既成から自由な世代ということだ。戦後の昭和世代が残したものはGDP世界3位の経済大国ではなく、既成からの「自由」であると考えるからだ。
そのZ世代が好きなバンドの一つに「いきものが」かり がある。その定番曲に「ブルーバード」(2008年)という曲がある。 人気アニメ『NARUTO -ナルト- 疾風伝』の主題歌にもなった曲で、あああの曲かと思う人も多いかと思う。この曲をキーワードとして言うならば、「自由への希求」であろう。「昭和」時代の価値観から離れ、「自由」を求める世代ということだ。つまり、新しい価値創造はこの世代から始まるといっても過言ではない。
タグ :Z世代
2022年11月13日
◆未来塾(46) 昭和文化考・前半
ヒット商品応援団日記No811毎週更新) 2022.11,13
未来塾の更新に時間が経昭和ってしまったが、戦後の発展成長の歴史に記憶すべき「昭和文化」、その風景について書き留めることとした。
ここ2回ほど未来塾では「下山から見える風景」として昭和の時代、特に昭和30年代にどんな出来事が生まれていたかを書いてきた。そこには「貧しくても夢があった」という言葉のように、何も無い時代に新しく何事かを「創る」無名の人たちがいたことを強く想起させるものであった。今日のライフスタイルの原型が江戸時代にあったように、わずか半世紀ほど前の「過去」を忘れてはならないという思いもあっていくつかの事例を挙げた。ただ同時にいま一つ時代の風景が鮮明にならないことも自覚した。それは昭和という時代の雰囲気、多くの人たちの息遣いが実感できていないということに辿り着いた。そうしたことから今回のテーマはいささか大仰ではあるが「昭和文化考」とした。
そして、この昭和文化を先導したのは戦後生まれの団塊世代であり、その先導を促進したのが雑誌とテレビ、ラジオというメディアであった。
戦前という過去からの解放が始まる
「敗戦」とはそれまでの多くの政治あるいは経済・社会の諸制度を根底から新たにつくり直すことでもあった。そして、そうしたつくり直しの第一歩が1964年(昭和39年)の東京オリンピックで復興のシンボルであったことは周知の通りである。一方、庶民の生活における復興は「闇市」から始まり、上野のアメ横もサラリーマンの街新橋の駅前ビルなど多くの商店街が売る側も買う側も自然発生的につくられた「市場」であった。(詳しくは「商店街から学ぶ」を参照してください)勿論、未整備な商業であり、今日で言うところの違法な商売もあったが、市場に集まる人たちによって過去に囚われい制度として今日に至る。ある意味で過去からの解放、自由な生き方・生活の仕方が始まったと言っても良いかと思う。つまり戦後文化はあらゆる意味で「自由」を求めるものとしてあった。「貧しくでも夢があった」とは、この「自由」な環境を背景としてある。つまりゼロからのスタートとは既成のない世界からのスタートであった。この「既成」からの自由であるとは、それまでの「大人」からの自由であった。前回書いたジブリ作品「となりのトトロ」における「大人」であり、子供たちは競って自分たちの「トトロ」を追い求めた。その子供とは戦後生まれの「若い世代」のことであった。
若者文化という言葉がメディアに登場する
1960年代と言えば戦後の荒廃がまだまだ残る中、高度経済成長が始まる時代である。ちなみに高度経済成長とは、1954年~1973年という19年間もの長い間の成長期である。よく中国の高度成長と比較されるが、一番低い年度で6.2%の成長でその多くは10%台という極めて高い経済成長を果たした時期である。収入も増えこの時代の消費の特徴は3種の神器と呼称された、3C(車、クーラー、カラーテレビ)が流行った時代である。生きてゆくことだけに必死であった時代を終え、豊かさを追い求める時代に入ったということである。実はその1964年に雑誌「平凡パンチ」が創刊される。貧しさから抜けはじめた時代を象徴するような雑誌であった。
出版社である平凡出版(現在のマガジンハウス)も戦後生まれの出版社で、当時の若い世代の興味関心事である車やファッション、さらには従来タブーとされてきたセクシーグラビアなどを取り上げ圧倒的な支持を得る。創刊から2年後の1966年には100万部を突破する。少しづつ経済的豊かさが進み、若い世代の関心はフッションへと向かう。
その中心は石津健介によるVANジャケットやJUNであった。こうした若者は当然であるが街へと向かう。1990年代後半渋谷109周辺が若い世代の表現舞台になったが、1964年当時は銀座のみゆき通がその舞台であった。その通りに集まる若者をメディアは通りの名前から「みゆき族」と呼んだ。当時の写真が残っていたので載せることにしたが、裾を短くしたコットンパンツに持ち物といえば紙袋であった。これが若い世代にとっての先端的なお洒落であった。1990年代渋谷109に集まったストリートファッションはガングロ・山姥ファッションであったが、みゆき族はその先駆けであった。
戦前の画一的な洋服から自由で思うままのファッションの源流はこのみゆき族から始まったと言っても過言ではない。米国文化の影響が色濃く残るが、一人ひとりの好みの表現、今日で言うところの「個性」への関心が生まれ、1970年代、1980年代へと日本のファッションへと向かう第一歩となった社会的事件であった。
こうした若者文化の事象は一例であって、以降の1970年代、1980年代という復興から成熟期、いや爛熟期へと向かうが、その原点は過去あった「既成」との決別で、振り返ってみればサブカルチャー。カウンターカルチャー誕生であったと言えなくはない。勿論、戦前にあった残すべき物の回復も必要であったが、この時代そうした整理を行う余裕はなかった。
新しい音楽への冒険が始まる
この時期1966年、日本全国を熱狂へと巻き込んだザ・ビートルズの最初で最後の来日公演が開催される。それまでのアイドル・バンドから本格的なアーティストへと変貌した、ビートルズにとってターニング・ポイントとも言える来日公演であった。
この公演が行われた場所は日本武道館で、日本武道振興の場所としてあり、ロック・コンサートなど行うとはといった批判もあった。ある意味で異例中の異例、それまでの「既成」を覆したミュージックイベントであった。
前座を務めたのは亡くなった内田裕也、尾藤勲、それにドリフターズであった。このビートルズショックは日本の若いミュージシャンをはじめ中高生にまでロックブーム、エレキブームを巻き起こす。
こうした社会的事件とでも表現したくなるような出来事の背景には、日本経済の生きる術、産業の転換が進んでいた。そもそも音楽、歌の発祥は労働歌にあった。ビートルズの音楽はある意味労働とは無縁の音楽である。
生きるため、その労働を癒し、明日へと労働の苦しさを忘れるために歌った音楽とは全く別次元の音楽であった。周知のように労働の苦しさ癒す音楽がブルースであったが、実はブルースは日本にも古来から存在していた。歌は自己投影、心の投影としてあるが、苦しさではなく、英国生まれのロックミュージックという新しい刺激、その「楽しさ」が若い世代の感性を揺さぶった。
日本産業の変化と共に歌も変化していく
少し古い比較データであるが次のような変化がわずか50数年の間に起きている。
□第一次産業(農林漁業)の従事者の割合は、
1955 年の 21.0% から 2008 年の 1.6%まで継続して低下。
□第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の割合は、
1955 年の 36.8%から 1970 年には 46.4%まで上昇し、2008 年には 28.8%まで低下。
□第三次産業(サービス 業、卸売・小売業など)の割合は、
1955 年の 42.2%から 2008 年には 69.6%まで上昇。
この比較内容をコメントすると、1955年という年度はいわゆる高度経済成長期のスタートの時期であり、そのピークである1970年における製造業従事者の割合は46.4%で2008 年には 28.8%まで減少している。実はその差は大きく17.6%も減少し、バブル崩壊後の製造業の国内空洞化と言われている数字である。製造業による輸出立国と言われてきた日本とはまるで異なる産業構造に既に転換してしまっている事実である。円安による輸出が増えるどころか輸出入は赤字化し、海外投資などによる所得収入によってなんとか貿易を成立させているのが実態である。中国が世界の工場となって時間が経つが、最早従来のモノづくり貿易立国ではなくなっているということだ。失われた30年というが進む方向を見出せないままの30年はこうした産業構造からもわかる。
横道に逸れてしまったが、「歌」という視点から見ていくと、更にその変化がわかる。例えば、第一次産業(農林漁業)の労働歌と言えばその代表的な歌謡は民謡であろう。ソーラン節や大漁節などであるが、いまや日本の伝統芸能に組み込まれ、漁師町の日常に残る歌ではなくなっている。
第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の労働歌・愛唱歌のなかに、ビートルズを含めた欧米の音楽が続々と日本に押し寄せる。そして、咀嚼しながら次第に日本固有の労働歌、というより愛唱歌が生まれてくる。「歌謡曲」の誕生である。
この歌謡曲の黄金期をつくった一人が阿久悠であった。この時代の日本レコード大賞受賞5回のヒットメーカーであり、小説家でもあり、無類の高校野球好きとして知られているが、実はヒット曲を調べていくと時代変化、揺れ動く様の「目撃者」であることがわかってくる。
阿久悠は大学卒業後広告代理店に勤めるが作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)グループサウンドブームの先駆けであったが、他にはフォークソングや後にJ POPへと繋がる音楽業界のまさに勃興機であった。
こうしたエレキバンドは勝ち抜きバンド合戦などその裾野が広がっていく。この裏には日本にエレキ部0むを巻き起こしたギターリスト寺内たけしの活躍持ってのことだが、音楽が一つのカルチャーとして一般庶民・和歌も鬼浸透していくことになる。このブームを更に進化させたのが、1971年にスタートする「スター誕生」というオーディション番組であった。今で言うところの素人発掘番組でスターを育てる趣旨であるが、こうして誕生したのが、桜田淳子、山口百恵、森昌子、新沼謙治などである。1970年代の日本歌謡界のスターが一つの文化を作ることとなる。ちなみに、審査員のヒットりに阿久悠も加わっている。
「スター誕生」という名称であるが、今日いうところのアイドルとは少し異なる存在であった。その象徴であったのが「山口百恵事件」であろう。山口百恵の風貌は素朴、純朴、誠実、といった言葉が似合う幼さが残る歌手としてデビューするのだが、そうした「少女」とは真逆な「大人」の性的さをきわどく歌い、そのアンビバランツな在り方が一つの独自世界をつくったスター(初期のアイドル)である。確か週刊誌であったと思うが、百恵が歌っている最中、風かなにかでスカートがめくれたパンチラ写真が掲載され話題となったことがあった。その時、百恵はその雑誌社に本気で抗議し、「少女」であることを貫いたのである。
そして、周知のように山口百恵は映画で共演した三浦友和と結婚するのだが、日本国中といったら言い過ぎであるが、その結婚に対して大きなブーイングが起きる。結果、「私のわがままな生き方を選びます」とコメントし、1980年に21歳という若さで引退する。百恵エピソードは数多く語られているが、1970年代という時代を駆け抜けた「少女アイドル」であった。
こうした経緯を見ていくと、のちのアイドルであるAKB48の指原莉乃が恋愛御法度の禁を破っで福岡に「転勤」し、復活したことと比べ大きな違いが見て取れる。
日本固有のサブカルチャーが手塚治虫によって誕生する
戦後のサブカルチャー誕生に欠かせない一人が漫画家手塚治虫である。戦前にもソンソ意欲さん漫画はあったが、戦後の新しい地平を確立したのが手塚出会った。周知のように1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がける。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。
と言うのも、子供向けの娯楽は戦前戦後とほとんど無かった時代であった。漫画のルーツを調べた専門家によればいわゆる紙芝居で戦後街頭紙芝居として復活する。(紙芝居の歴史は古く平安時代の『源氏物語絵巻』であるという説もある。その歴史を調べることは任にないことから、食べることすら容易では無かった戦後間もない頃の紙芝居を取り上げた。)
この紙芝居はTVが普及するにしたがって衰退していくのだが、多くの漫画家はこの紙芝居の愛好家であったと専門家は指摘している。そして、この紙芝居は東京のみならず関西でも広く浸透しており、大阪出身の手塚治虫もその一人であったという指摘もある。また、紙芝居の手法は間違いなくアニメ製作へと引き継がれていく。そして、少女漫画、劇画、ギャグ漫画、・・・・・・・多様なコンテンツの漫画が生まれるが、「あしたのジョー」や「巨人の星」といったヒット作を背景に、漫画雑誌が若い世代を中心に広く読まれるようになる。
漫画の歴史エオ分析することは私の任ではないので、明らかに時代を「感じさせてくれる」雑誌といえば、男性しであれば週刊少年マガジン(講談社 1959- 毎週水曜日発売)、
週刊少年サンデー(小学館 1959- 毎週水曜日発売)
週刊少年ジャンプ(集英社 1968- 毎週月曜日発売)
週刊少年チャンピオン(秋田書店 1969- 毎
少女向けでは、マーガレット(集英社 1963- 毎月5日20日発売)月2回刊)あるいはSho-Comi(小学館 1968- 毎月5日20日発売)月)などが発刊され漫画メディアは時代の主要メディアになっていく。そして、周知のように名称もコミック誌になり、テーマ別のコミック誌であるパチンコ、時代劇、ゴルフ、麻雀、釣り、など分化し、コミックマーケットという同人誌にまで進化していく。その進化の原点は1960年代にあったということである。
ちなみに1965年の「ハリスの旋風」を皮切りにマガジンの快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」なども連載を始め、1967年1月にはついに100万部を突破する。
新しい価値創造へと向かう70年代
1960年代は次の豊かさを実現するある意味環境づくり・助走の期間であった。その環境とは戦後生まれの団塊世代が本格的に働き、消費するという転換期を迎える。食べるために働いた時代で物の豊かさを求めた時代が60年代であったのに対し、70年代は物を求め物を満たすことが必要であった時代で、団塊の世代は「ニューファミリー」と呼ばれた。そして、今日を予見するような消費の「芽」が一斉に出てくる。
例えば、所得も増え単に物を満たすだけではない、そんな新しい価値をもった消費が現われてくる。1975年には便利さを売るセブンイレブンの1号店が誕生し、あのキャラクターのハローキティも生まれている。1976年には海外渡航者数が300万人を超える。こうした豊かさを背景に1980年代には多くの未来の芽が更に成長していく。
ファッション分野で言うと、80年代初頭には川久保玲や三宅一生さといった世界的なデザイナーによるデザイナーズ&キャラクターブランドが市場に新しい潮流をつくる。従来の男は男、女は女といった区別による考え方から、女性は男の良さを取り入れ、例えば肩パッドの入ったスーツを着こなし、男性は女性の柔らかなラインを取り入れたスーツを着るといった具合に。そうしたファッションの総称としてDCブランドと呼ばれ、セールを行う丸井には行列ができ社会的な注目を集める。つまり、物の価値がデザインといった情報的価値が求められていく時代の先駆けであった。
1980年代半ばそうした情報の消費を端的に表したのがロッテが発売したビックリマンチョコであった。シール集めが主目的で、チョコレートを食べずにゴミ箱に捨てて社会問題化した一種の事件が起きる。つまりチョコレートという物価値ではなく、シール集めという情報価値が買われていったということである。しかも、一番売れた「悪魔VS天使」は月間1300万個も売れたというメガヒット商品である。こうした現象も高度経済成長期ほどではないにしても安定成長となり、所得も着実に増え続けてきた背景がある。
「昭和文化」の爛熟期へと向かう
こうした消費変化を捉えたのがブランド戦略であった。モノ価値から情報価値への転換で、その中心は「女性」であった。1985年には男女雇用機会均等法が制定され、それまでの「女性らしく」あるいは男と女は違う」と言う旧来の固定観念が次から次へと変わっていく。DCブランドは更に個性的なブランドを生み出し競争はブランド間競争となる。そうした無名のブランド、小さなマンションメーカーと呼ばれたショップが原宿周辺に集まる。今日の竹下通りの原型がつくられていく。
こうしたファッションを中心としたテーマ集積を受けて、1980年代前半原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国で、ラジカセを囲み路上で踊るグループが出没する。次第に参加グループも多くなり、社会現象化する。いわゆる「竹の子族」の誕生である。1960年代銀座に集まった「みゆき族」に対し、踊りを組み込んだパフォーマンス集団へと進化していく。歩行者天国の廃止とともに竹の子族は消えていくのだが、ファッションの整地のポジションを確立していくこととなる。
1980年代は女性が社会という舞台に上がってきた転換期であった。団塊の世代はニューファミリーとして家庭づくりへと向かい、消費の舞台には上がってこなかったが、その下の世代は社会へと現われてくる。
この時代の空気感を作詞家阿久悠は沢田研二に「勝手にしやがれ」(1977年レコード大賞)を歌わせている。男と女の「すれ違い」をテーマとした歌である。
』 窓際に寝返りうって、背中できいている やっぱりお前は出て行くんだな・・・・・・』 別にふざけて 困らせたわけじゃない 愛というのに照れてただけだよ・・・・・・・
思い出していただけただろうか。後に阿久悠は「歌謡曲の時代」(新潮文庫)」の中で、”1970年代の男と女の気分が出ていると。更にその気分とは”真っ直ぐに、熱烈に愛することに照れてしまう”そんな気分を作詞したと書いている。
その象徴であると思うが、漫画家中尊寺ゆっこが描いたマンガで、従来男の牙城であった居酒屋、競馬場、パチンコ屋にOLが乗り込むといった女性の本音を描いたもので多くの女性の共感を得たマンガであった。その俗称が「オヤジギャル」。もう一つが物質的には満たされたお嬢様である二谷百合枝が郷ひろみとの出会いから結婚までを描いた「愛されれる理由」が75万部という1989年のベストセラーになる。つまり、物は充足するが何か心は満たされていない、そんなテーマの本であった。豊かさが次の段階へと進化してきたということである。新婚旅行から成田に帰国後離婚する華っぷりが多発し「成田離婚」として社会的な注目を集める。こうした背景には、女性からの一方的な期待、依存に応えることができないことが明らかになり、即離婚に移る女性が多く出現した結果でもあった。
昨年の東京オリンピック開催に際し、その理念とした多様性・平等といったことが話題となったが、既に1980年代においてその「芽」は出ていたと言うことである。
そして、1989年の暮れには株価は4万円近くにまで上がり、家計支出に占める食費や住居費といった生活必需品が50%を切り、娯楽や教育費の支出が50%を超える。後に「バブル期」と言われる時代である。
日本経済も日米摩擦はあるものの、造船竣工においては世界シェアー50%、半導体生産においても50%のシェアーを誇り経済は発展をしていた。そうした経済成長を背景に4月15日 に東京ディズニーランドが正式に開園する。また1987年にはリゾート法(総合保養地域整備法)が制定され、日本各地でいわゆるリゾート開発が行われる。多様な余暇産業が急速に進んだ。ゴルフ、スキー、マリーナ、リゾートホテル、といった大型施設を始めプール、スパ、ゲームセンター等が全国至る所で開発された。結果についてどうであったか、以前ブログにて書いたことがあるので今回は付け加えることはしないが、地方財政を悪化させ、過大なリゾート需要による実施、しかも画一的な開発によって・・・・・・・・・・結果は廃墟となり、いまなお野ざらしの状態の施設は多い。いわゆるリゾートバブルの崩壊である。こうした負の遺産も同時に起きていたことを忘れてはならないであろう。
なお、1989年4月初めての消費税3%がが導入される。このように日本経済が好調であったことから、大きな反対もなかった。
こうしたいわば転換期の日本については「転換期から学ぶ」(1)~(5)において主に生活価値観の変化、パラダイム転換について分析しているのでご参照ください。(後半へ続く)」
未来塾の更新に時間が経昭和ってしまったが、戦後の発展成長の歴史に記憶すべき「昭和文化」、その風景について書き留めることとした。
記憶の解凍
平凡パンチ、ビートルズ来日、アイドル、漫画、
新たな戦後文化の勃興、
昭和レトロブームの主人公、Z世代と昭和世代
新たな戦後文化の勃興、
昭和レトロブームの主人公、Z世代と昭和世代
ここ2回ほど未来塾では「下山から見える風景」として昭和の時代、特に昭和30年代にどんな出来事が生まれていたかを書いてきた。そこには「貧しくても夢があった」という言葉のように、何も無い時代に新しく何事かを「創る」無名の人たちがいたことを強く想起させるものであった。今日のライフスタイルの原型が江戸時代にあったように、わずか半世紀ほど前の「過去」を忘れてはならないという思いもあっていくつかの事例を挙げた。ただ同時にいま一つ時代の風景が鮮明にならないことも自覚した。それは昭和という時代の雰囲気、多くの人たちの息遣いが実感できていないということに辿り着いた。そうしたことから今回のテーマはいささか大仰ではあるが「昭和文化考」とした。
そして、この昭和文化を先導したのは戦後生まれの団塊世代であり、その先導を促進したのが雑誌とテレビ、ラジオというメディアであった。
戦前という過去からの解放が始まる
「敗戦」とはそれまでの多くの政治あるいは経済・社会の諸制度を根底から新たにつくり直すことでもあった。そして、そうしたつくり直しの第一歩が1964年(昭和39年)の東京オリンピックで復興のシンボルであったことは周知の通りである。一方、庶民の生活における復興は「闇市」から始まり、上野のアメ横もサラリーマンの街新橋の駅前ビルなど多くの商店街が売る側も買う側も自然発生的につくられた「市場」であった。(詳しくは「商店街から学ぶ」を参照してください)勿論、未整備な商業であり、今日で言うところの違法な商売もあったが、市場に集まる人たちによって過去に囚われい制度として今日に至る。ある意味で過去からの解放、自由な生き方・生活の仕方が始まったと言っても良いかと思う。つまり戦後文化はあらゆる意味で「自由」を求めるものとしてあった。「貧しくでも夢があった」とは、この「自由」な環境を背景としてある。つまりゼロからのスタートとは既成のない世界からのスタートであった。この「既成」からの自由であるとは、それまでの「大人」からの自由であった。前回書いたジブリ作品「となりのトトロ」における「大人」であり、子供たちは競って自分たちの「トトロ」を追い求めた。その子供とは戦後生まれの「若い世代」のことであった。
若者文化という言葉がメディアに登場する
1960年代と言えば戦後の荒廃がまだまだ残る中、高度経済成長が始まる時代である。ちなみに高度経済成長とは、1954年~1973年という19年間もの長い間の成長期である。よく中国の高度成長と比較されるが、一番低い年度で6.2%の成長でその多くは10%台という極めて高い経済成長を果たした時期である。収入も増えこの時代の消費の特徴は3種の神器と呼称された、3C(車、クーラー、カラーテレビ)が流行った時代である。生きてゆくことだけに必死であった時代を終え、豊かさを追い求める時代に入ったということである。実はその1964年に雑誌「平凡パンチ」が創刊される。貧しさから抜けはじめた時代を象徴するような雑誌であった。
出版社である平凡出版(現在のマガジンハウス)も戦後生まれの出版社で、当時の若い世代の興味関心事である車やファッション、さらには従来タブーとされてきたセクシーグラビアなどを取り上げ圧倒的な支持を得る。創刊から2年後の1966年には100万部を突破する。少しづつ経済的豊かさが進み、若い世代の関心はフッションへと向かう。
その中心は石津健介によるVANジャケットやJUNであった。こうした若者は当然であるが街へと向かう。1990年代後半渋谷109周辺が若い世代の表現舞台になったが、1964年当時は銀座のみゆき通がその舞台であった。その通りに集まる若者をメディアは通りの名前から「みゆき族」と呼んだ。当時の写真が残っていたので載せることにしたが、裾を短くしたコットンパンツに持ち物といえば紙袋であった。これが若い世代にとっての先端的なお洒落であった。1990年代渋谷109に集まったストリートファッションはガングロ・山姥ファッションであったが、みゆき族はその先駆けであった。
戦前の画一的な洋服から自由で思うままのファッションの源流はこのみゆき族から始まったと言っても過言ではない。米国文化の影響が色濃く残るが、一人ひとりの好みの表現、今日で言うところの「個性」への関心が生まれ、1970年代、1980年代へと日本のファッションへと向かう第一歩となった社会的事件であった。
こうした若者文化の事象は一例であって、以降の1970年代、1980年代という復興から成熟期、いや爛熟期へと向かうが、その原点は過去あった「既成」との決別で、振り返ってみればサブカルチャー。カウンターカルチャー誕生であったと言えなくはない。勿論、戦前にあった残すべき物の回復も必要であったが、この時代そうした整理を行う余裕はなかった。
新しい音楽への冒険が始まる
この時期1966年、日本全国を熱狂へと巻き込んだザ・ビートルズの最初で最後の来日公演が開催される。それまでのアイドル・バンドから本格的なアーティストへと変貌した、ビートルズにとってターニング・ポイントとも言える来日公演であった。
この公演が行われた場所は日本武道館で、日本武道振興の場所としてあり、ロック・コンサートなど行うとはといった批判もあった。ある意味で異例中の異例、それまでの「既成」を覆したミュージックイベントであった。
前座を務めたのは亡くなった内田裕也、尾藤勲、それにドリフターズであった。このビートルズショックは日本の若いミュージシャンをはじめ中高生にまでロックブーム、エレキブームを巻き起こす。
こうした社会的事件とでも表現したくなるような出来事の背景には、日本経済の生きる術、産業の転換が進んでいた。そもそも音楽、歌の発祥は労働歌にあった。ビートルズの音楽はある意味労働とは無縁の音楽である。
生きるため、その労働を癒し、明日へと労働の苦しさを忘れるために歌った音楽とは全く別次元の音楽であった。周知のように労働の苦しさ癒す音楽がブルースであったが、実はブルースは日本にも古来から存在していた。歌は自己投影、心の投影としてあるが、苦しさではなく、英国生まれのロックミュージックという新しい刺激、その「楽しさ」が若い世代の感性を揺さぶった。
日本産業の変化と共に歌も変化していく
少し古い比較データであるが次のような変化がわずか50数年の間に起きている。
□第一次産業(農林漁業)の従事者の割合は、
1955 年の 21.0% から 2008 年の 1.6%まで継続して低下。
□第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の割合は、
1955 年の 36.8%から 1970 年には 46.4%まで上昇し、2008 年には 28.8%まで低下。
□第三次産業(サービス 業、卸売・小売業など)の割合は、
1955 年の 42.2%から 2008 年には 69.6%まで上昇。
この比較内容をコメントすると、1955年という年度はいわゆる高度経済成長期のスタートの時期であり、そのピークである1970年における製造業従事者の割合は46.4%で2008 年には 28.8%まで減少している。実はその差は大きく17.6%も減少し、バブル崩壊後の製造業の国内空洞化と言われている数字である。製造業による輸出立国と言われてきた日本とはまるで異なる産業構造に既に転換してしまっている事実である。円安による輸出が増えるどころか輸出入は赤字化し、海外投資などによる所得収入によってなんとか貿易を成立させているのが実態である。中国が世界の工場となって時間が経つが、最早従来のモノづくり貿易立国ではなくなっているということだ。失われた30年というが進む方向を見出せないままの30年はこうした産業構造からもわかる。
横道に逸れてしまったが、「歌」という視点から見ていくと、更にその変化がわかる。例えば、第一次産業(農林漁業)の労働歌と言えばその代表的な歌謡は民謡であろう。ソーラン節や大漁節などであるが、いまや日本の伝統芸能に組み込まれ、漁師町の日常に残る歌ではなくなっている。
第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の労働歌・愛唱歌のなかに、ビートルズを含めた欧米の音楽が続々と日本に押し寄せる。そして、咀嚼しながら次第に日本固有の労働歌、というより愛唱歌が生まれてくる。「歌謡曲」の誕生である。
この歌謡曲の黄金期をつくった一人が阿久悠であった。この時代の日本レコード大賞受賞5回のヒットメーカーであり、小説家でもあり、無類の高校野球好きとして知られているが、実はヒット曲を調べていくと時代変化、揺れ動く様の「目撃者」であることがわかってくる。
阿久悠は大学卒業後広告代理店に勤めるが作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)グループサウンドブームの先駆けであったが、他にはフォークソングや後にJ POPへと繋がる音楽業界のまさに勃興機であった。
こうしたエレキバンドは勝ち抜きバンド合戦などその裾野が広がっていく。この裏には日本にエレキ部0むを巻き起こしたギターリスト寺内たけしの活躍持ってのことだが、音楽が一つのカルチャーとして一般庶民・和歌も鬼浸透していくことになる。このブームを更に進化させたのが、1971年にスタートする「スター誕生」というオーディション番組であった。今で言うところの素人発掘番組でスターを育てる趣旨であるが、こうして誕生したのが、桜田淳子、山口百恵、森昌子、新沼謙治などである。1970年代の日本歌謡界のスターが一つの文化を作ることとなる。ちなみに、審査員のヒットりに阿久悠も加わっている。
「スター誕生」という名称であるが、今日いうところのアイドルとは少し異なる存在であった。その象徴であったのが「山口百恵事件」であろう。山口百恵の風貌は素朴、純朴、誠実、といった言葉が似合う幼さが残る歌手としてデビューするのだが、そうした「少女」とは真逆な「大人」の性的さをきわどく歌い、そのアンビバランツな在り方が一つの独自世界をつくったスター(初期のアイドル)である。確か週刊誌であったと思うが、百恵が歌っている最中、風かなにかでスカートがめくれたパンチラ写真が掲載され話題となったことがあった。その時、百恵はその雑誌社に本気で抗議し、「少女」であることを貫いたのである。
そして、周知のように山口百恵は映画で共演した三浦友和と結婚するのだが、日本国中といったら言い過ぎであるが、その結婚に対して大きなブーイングが起きる。結果、「私のわがままな生き方を選びます」とコメントし、1980年に21歳という若さで引退する。百恵エピソードは数多く語られているが、1970年代という時代を駆け抜けた「少女アイドル」であった。
こうした経緯を見ていくと、のちのアイドルであるAKB48の指原莉乃が恋愛御法度の禁を破っで福岡に「転勤」し、復活したことと比べ大きな違いが見て取れる。
日本固有のサブカルチャーが手塚治虫によって誕生する
戦後のサブカルチャー誕生に欠かせない一人が漫画家手塚治虫である。戦前にもソンソ意欲さん漫画はあったが、戦後の新しい地平を確立したのが手塚出会った。周知のように1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がける。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。
と言うのも、子供向けの娯楽は戦前戦後とほとんど無かった時代であった。漫画のルーツを調べた専門家によればいわゆる紙芝居で戦後街頭紙芝居として復活する。(紙芝居の歴史は古く平安時代の『源氏物語絵巻』であるという説もある。その歴史を調べることは任にないことから、食べることすら容易では無かった戦後間もない頃の紙芝居を取り上げた。)
この紙芝居はTVが普及するにしたがって衰退していくのだが、多くの漫画家はこの紙芝居の愛好家であったと専門家は指摘している。そして、この紙芝居は東京のみならず関西でも広く浸透しており、大阪出身の手塚治虫もその一人であったという指摘もある。また、紙芝居の手法は間違いなくアニメ製作へと引き継がれていく。そして、少女漫画、劇画、ギャグ漫画、・・・・・・・多様なコンテンツの漫画が生まれるが、「あしたのジョー」や「巨人の星」といったヒット作を背景に、漫画雑誌が若い世代を中心に広く読まれるようになる。
漫画の歴史エオ分析することは私の任ではないので、明らかに時代を「感じさせてくれる」雑誌といえば、男性しであれば週刊少年マガジン(講談社 1959- 毎週水曜日発売)、
週刊少年サンデー(小学館 1959- 毎週水曜日発売)
週刊少年ジャンプ(集英社 1968- 毎週月曜日発売)
週刊少年チャンピオン(秋田書店 1969- 毎
少女向けでは、マーガレット(集英社 1963- 毎月5日20日発売)月2回刊)あるいはSho-Comi(小学館 1968- 毎月5日20日発売)月)などが発刊され漫画メディアは時代の主要メディアになっていく。そして、周知のように名称もコミック誌になり、テーマ別のコミック誌であるパチンコ、時代劇、ゴルフ、麻雀、釣り、など分化し、コミックマーケットという同人誌にまで進化していく。その進化の原点は1960年代にあったということである。
ちなみに1965年の「ハリスの旋風」を皮切りにマガジンの快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」なども連載を始め、1967年1月にはついに100万部を突破する。
新しい価値創造へと向かう70年代
1960年代は次の豊かさを実現するある意味環境づくり・助走の期間であった。その環境とは戦後生まれの団塊世代が本格的に働き、消費するという転換期を迎える。食べるために働いた時代で物の豊かさを求めた時代が60年代であったのに対し、70年代は物を求め物を満たすことが必要であった時代で、団塊の世代は「ニューファミリー」と呼ばれた。そして、今日を予見するような消費の「芽」が一斉に出てくる。
例えば、所得も増え単に物を満たすだけではない、そんな新しい価値をもった消費が現われてくる。1975年には便利さを売るセブンイレブンの1号店が誕生し、あのキャラクターのハローキティも生まれている。1976年には海外渡航者数が300万人を超える。こうした豊かさを背景に1980年代には多くの未来の芽が更に成長していく。
ファッション分野で言うと、80年代初頭には川久保玲や三宅一生さといった世界的なデザイナーによるデザイナーズ&キャラクターブランドが市場に新しい潮流をつくる。従来の男は男、女は女といった区別による考え方から、女性は男の良さを取り入れ、例えば肩パッドの入ったスーツを着こなし、男性は女性の柔らかなラインを取り入れたスーツを着るといった具合に。そうしたファッションの総称としてDCブランドと呼ばれ、セールを行う丸井には行列ができ社会的な注目を集める。つまり、物の価値がデザインといった情報的価値が求められていく時代の先駆けであった。
1980年代半ばそうした情報の消費を端的に表したのがロッテが発売したビックリマンチョコであった。シール集めが主目的で、チョコレートを食べずにゴミ箱に捨てて社会問題化した一種の事件が起きる。つまりチョコレートという物価値ではなく、シール集めという情報価値が買われていったということである。しかも、一番売れた「悪魔VS天使」は月間1300万個も売れたというメガヒット商品である。こうした現象も高度経済成長期ほどではないにしても安定成長となり、所得も着実に増え続けてきた背景がある。
「昭和文化」の爛熟期へと向かう
こうした消費変化を捉えたのがブランド戦略であった。モノ価値から情報価値への転換で、その中心は「女性」であった。1985年には男女雇用機会均等法が制定され、それまでの「女性らしく」あるいは男と女は違う」と言う旧来の固定観念が次から次へと変わっていく。DCブランドは更に個性的なブランドを生み出し競争はブランド間競争となる。そうした無名のブランド、小さなマンションメーカーと呼ばれたショップが原宿周辺に集まる。今日の竹下通りの原型がつくられていく。
こうしたファッションを中心としたテーマ集積を受けて、1980年代前半原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国で、ラジカセを囲み路上で踊るグループが出没する。次第に参加グループも多くなり、社会現象化する。いわゆる「竹の子族」の誕生である。1960年代銀座に集まった「みゆき族」に対し、踊りを組み込んだパフォーマンス集団へと進化していく。歩行者天国の廃止とともに竹の子族は消えていくのだが、ファッションの整地のポジションを確立していくこととなる。
1980年代は女性が社会という舞台に上がってきた転換期であった。団塊の世代はニューファミリーとして家庭づくりへと向かい、消費の舞台には上がってこなかったが、その下の世代は社会へと現われてくる。
この時代の空気感を作詞家阿久悠は沢田研二に「勝手にしやがれ」(1977年レコード大賞)を歌わせている。男と女の「すれ違い」をテーマとした歌である。
』 窓際に寝返りうって、背中できいている やっぱりお前は出て行くんだな・・・・・・』 別にふざけて 困らせたわけじゃない 愛というのに照れてただけだよ・・・・・・・
思い出していただけただろうか。後に阿久悠は「歌謡曲の時代」(新潮文庫)」の中で、”1970年代の男と女の気分が出ていると。更にその気分とは”真っ直ぐに、熱烈に愛することに照れてしまう”そんな気分を作詞したと書いている。
その象徴であると思うが、漫画家中尊寺ゆっこが描いたマンガで、従来男の牙城であった居酒屋、競馬場、パチンコ屋にOLが乗り込むといった女性の本音を描いたもので多くの女性の共感を得たマンガであった。その俗称が「オヤジギャル」。もう一つが物質的には満たされたお嬢様である二谷百合枝が郷ひろみとの出会いから結婚までを描いた「愛されれる理由」が75万部という1989年のベストセラーになる。つまり、物は充足するが何か心は満たされていない、そんなテーマの本であった。豊かさが次の段階へと進化してきたということである。新婚旅行から成田に帰国後離婚する華っぷりが多発し「成田離婚」として社会的な注目を集める。こうした背景には、女性からの一方的な期待、依存に応えることができないことが明らかになり、即離婚に移る女性が多く出現した結果でもあった。
昨年の東京オリンピック開催に際し、その理念とした多様性・平等といったことが話題となったが、既に1980年代においてその「芽」は出ていたと言うことである。
そして、1989年の暮れには株価は4万円近くにまで上がり、家計支出に占める食費や住居費といった生活必需品が50%を切り、娯楽や教育費の支出が50%を超える。後に「バブル期」と言われる時代である。
日本経済も日米摩擦はあるものの、造船竣工においては世界シェアー50%、半導体生産においても50%のシェアーを誇り経済は発展をしていた。そうした経済成長を背景に4月15日 に東京ディズニーランドが正式に開園する。また1987年にはリゾート法(総合保養地域整備法)が制定され、日本各地でいわゆるリゾート開発が行われる。多様な余暇産業が急速に進んだ。ゴルフ、スキー、マリーナ、リゾートホテル、といった大型施設を始めプール、スパ、ゲームセンター等が全国至る所で開発された。結果についてどうであったか、以前ブログにて書いたことがあるので今回は付け加えることはしないが、地方財政を悪化させ、過大なリゾート需要による実施、しかも画一的な開発によって・・・・・・・・・・結果は廃墟となり、いまなお野ざらしの状態の施設は多い。いわゆるリゾートバブルの崩壊である。こうした負の遺産も同時に起きていたことを忘れてはならないであろう。
なお、1989年4月初めての消費税3%がが導入される。このように日本経済が好調であったことから、大きな反対もなかった。
こうしたいわば転換期の日本については「転換期から学ぶ」(1)~(5)において主に生活価値観の変化、パラダイム転換について分析しているのでご参照ください。(後半へ続く)」
タグ :昭和文化考
2022年10月09日
◆元気ですか~
ヒット商品応援団日記No810毎週更新) 2022.10,9
アントニオ猪木が亡くなった。最後は難病との戦いの末であったが、亡くなる間際までその生き様をYouTubeで公開し、まさに闘魂の人であった。TVを始め追悼の映像が流されたいたが、誰もが強く記憶に残っているのはその「元気すか~」というメッセージであろう。前回のブログで「失なわれた30年」、つまりバブリ崩壊以降裏側の出来事について書いたが、その30年前の昭和を象徴する1人がアントニオ猪木であった。アントニオ猪木流に言えば、「元気」を失った時代にいるということである。
予測した通り、物価高騰の嵐の中に入り、さらに電気料金などの値上げも予定されている。最早従来のやり方、自己防衛手法では乗り越えられないところまで景気は悪化する。一方、百貨店の売り上げは好調で貴金属宝飾などの売り上げが大きいとされている。株価の好調さもあるが、なんと言ってもシニア世代を中心とした保有金融資産が2000億円を超えている。つまり、昭和の時代を表した「一億総中流」は死語隣となった。その中流層は一部資産形成そうへと向かったが多くの「中流」は平均所得から大きく下がった層へと向かっていった。米国ほどではないが、新たな「格差社会」が生まれているということである。そpれは総じて暗くギスギスした社会にいるということだ。
少し前に亡くなったコメディアン志村けんも昭和を代表とした1人であるが、「笑い」もまた、失った。
なかなか先に進んでいない昭和の時代風景についてブログに公開できていないが、振り返ってみるとそこには時代と戦う人たちへの「応援歌」があった。昭和のヒットメーカーであった阿久悠については数回書いたのでここでは触れないが、一貫して戦う人たちを応援してきたんtyーじシャンの1人があの中島みゆきである。1970年代後半研ナオコに歌わせた「「あばよ」が大ヒットしミュージシャンの位置を確固たるものとする。中でも中島みゆきらしさが強く出た歌が1900年代の「地上の星」や「宙船」である・。「失恋歌の女王」、「女の情念を歌わせたら日本一」などとよく形容されるが、「人生」のなかで常にぶつかる戦いへの応援歌がその本質である。阿久悠はそんなか時代を「歌もよう人もよう」といったが、中島みゆきは今なお昭和を生きてくれているミュージシャンと言えよう。
というのも初期の曲はまさに「失恋」をテーマとした曲が多かったが、バブル崩壊以降は混乱する「時代」をどう生き抜いたら良いのかそんな「人生」をテーマとした曲が多くなる。例えばヒット曲のなかったTOKIOから歌わせてほしいとのことから生まれた「宙船」の歌詞は次のように「生き様」を歌っている。
宙船/作詞作曲中島みゆき
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか
流されまいと逆らいながら
船は挑み 船は傷み
すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
この時代から10年。応援歌も変化する。その代表的な曲が「いきものがかり」が歌った「YELL」(2009年)であろう。周知のようにNHK全国学校音楽コンクール中学校の部の課題曲として制作された曲である。
YELL - いきものがかり
「"わたし"は今どこに在るの」と
踏みしめた足跡を 何度も見つめ返す
枯葉を抱き 秋めく窓辺に
かじかんだ指先で 夢を描いた
翼はあるのに 飛べずにいるんだ
ひとりになるのが 恐くてつらくて
優しいひだまりに 肩寄せる日々を
越えて僕ら 孤独な夢へと歩く
思春期の揺れ動く心の様(さま)を描いた時代の名曲である。いきものがかり と同時代を生きるある意味人生歌とでも呼びたくなるヒット作であるが、他にも「さくら」や「ブルーバード」などヒット作も多い。阿久悠流にいうならば「平成の応援歌」であり、いわば歌謡曲である。
応援歌として広く口ずさまれたのも歌詞に強いメッセージが込められているからである。アントニオ猪木を昭和を代表する1人としたのも、平成から令和と停滞・混迷が続く時代の応援歌の変化からもわかるように、「失われた30年」とは元気を失った30年ということだ。そうした時代模様を見ていくと求められているのはまさに元気そのものであると言える。ちなみにYELL を歌っていたのはあのZ世代である。彼らもまた「昭和レトロ」を遊びながら社会と戦っているということだ。(続く)
アントニオ猪木が亡くなった。最後は難病との戦いの末であったが、亡くなる間際までその生き様をYouTubeで公開し、まさに闘魂の人であった。TVを始め追悼の映像が流されたいたが、誰もが強く記憶に残っているのはその「元気すか~」というメッセージであろう。前回のブログで「失なわれた30年」、つまりバブリ崩壊以降裏側の出来事について書いたが、その30年前の昭和を象徴する1人がアントニオ猪木であった。アントニオ猪木流に言えば、「元気」を失った時代にいるということである。
予測した通り、物価高騰の嵐の中に入り、さらに電気料金などの値上げも予定されている。最早従来のやり方、自己防衛手法では乗り越えられないところまで景気は悪化する。一方、百貨店の売り上げは好調で貴金属宝飾などの売り上げが大きいとされている。株価の好調さもあるが、なんと言ってもシニア世代を中心とした保有金融資産が2000億円を超えている。つまり、昭和の時代を表した「一億総中流」は死語隣となった。その中流層は一部資産形成そうへと向かったが多くの「中流」は平均所得から大きく下がった層へと向かっていった。米国ほどではないが、新たな「格差社会」が生まれているということである。そpれは総じて暗くギスギスした社会にいるということだ。
少し前に亡くなったコメディアン志村けんも昭和を代表とした1人であるが、「笑い」もまた、失った。
なかなか先に進んでいない昭和の時代風景についてブログに公開できていないが、振り返ってみるとそこには時代と戦う人たちへの「応援歌」があった。昭和のヒットメーカーであった阿久悠については数回書いたのでここでは触れないが、一貫して戦う人たちを応援してきたんtyーじシャンの1人があの中島みゆきである。1970年代後半研ナオコに歌わせた「「あばよ」が大ヒットしミュージシャンの位置を確固たるものとする。中でも中島みゆきらしさが強く出た歌が1900年代の「地上の星」や「宙船」である・。「失恋歌の女王」、「女の情念を歌わせたら日本一」などとよく形容されるが、「人生」のなかで常にぶつかる戦いへの応援歌がその本質である。阿久悠はそんなか時代を「歌もよう人もよう」といったが、中島みゆきは今なお昭和を生きてくれているミュージシャンと言えよう。
というのも初期の曲はまさに「失恋」をテーマとした曲が多かったが、バブル崩壊以降は混乱する「時代」をどう生き抜いたら良いのかそんな「人生」をテーマとした曲が多くなる。例えばヒット曲のなかったTOKIOから歌わせてほしいとのことから生まれた「宙船」の歌詞は次のように「生き様」を歌っている。
宙船/作詞作曲中島みゆき
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか
流されまいと逆らいながら
船は挑み 船は傷み
すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
この時代から10年。応援歌も変化する。その代表的な曲が「いきものがかり」が歌った「YELL」(2009年)であろう。周知のようにNHK全国学校音楽コンクール中学校の部の課題曲として制作された曲である。
YELL - いきものがかり
「"わたし"は今どこに在るの」と
踏みしめた足跡を 何度も見つめ返す
枯葉を抱き 秋めく窓辺に
かじかんだ指先で 夢を描いた
翼はあるのに 飛べずにいるんだ
ひとりになるのが 恐くてつらくて
優しいひだまりに 肩寄せる日々を
越えて僕ら 孤独な夢へと歩く
思春期の揺れ動く心の様(さま)を描いた時代の名曲である。いきものがかり と同時代を生きるある意味人生歌とでも呼びたくなるヒット作であるが、他にも「さくら」や「ブルーバード」などヒット作も多い。阿久悠流にいうならば「平成の応援歌」であり、いわば歌謡曲である。
応援歌として広く口ずさまれたのも歌詞に強いメッセージが込められているからである。アントニオ猪木を昭和を代表する1人としたのも、平成から令和と停滞・混迷が続く時代の応援歌の変化からもわかるように、「失われた30年」とは元気を失った30年ということだ。そうした時代模様を見ていくと求められているのはまさに元気そのものであると言える。ちなみにYELL を歌っていたのはあのZ世代である。彼らもまた「昭和レトロ」を遊びながら社会と戦っているということだ。(続く)
タグ :アントニオ猪木
2022年09月11日
◆失われた30年の裏側
ヒット商品応援団日記No809毎週更新) 2022.9,11
かなり前になるが「昭和と平成のはざまというタイトルで1990年代初頭のバブル崩壊によって何が変わったのか、消費を軸にブログ未来塾に書いたことがあった。若いミレニアム世代やZ世代にとって「昭和」はどこか懐かしい新しい「レトロ」な世界と感じていると思うが、実は「平成」という時代がどんな時代であったか、その意味を問い直す発言が多くなったきた。その際使われる言葉が「失われた30年」である。
その「失われた」ものは何かといえば、それまで「ジャパンアズナンバー1」とされてた技術力であり、その象徴であるような産業の衰退であった。半導体製造、造船の竣工、自動車産業・・・・・周知の通り今なお成長を果たしているのが自動車産業ぐらいである。世界を見渡せば価格競争力をつけるために中国の工場化が進み、国内の産業空洞化が進んでいく。当時、そんな変化を多くの神話の崩壊として、報道された。曰く、決して値下がりすることはないとした不動産神話からはじまり、潰れることはないとした大企業神話の崩壊・・・・・・その象徴が1998年の山一証券、北海拓殖銀行の破綻であろう。一方、消費面では賃金が上がらないことから多くの企業は「デフレ」がテーマとなった。その延長線上にはコスト競争に勝つために非正規雇用の仕組みに進んだことも承知の通りである。こうした変化についてはパラダイム転換としてブログに書いてきたので参照してほしい。
さて、こうした失われた30年の裏側で何が起っていたか、ここ数ヶ月に渡って私たちは目撃している。まず、安倍元総理銃撃事件である。一瞬政治テロと誰もが思っていたが、その裏には旧統一教会によって家庭崩壊させられた青年によるものであることがわかってきた。若い世代にとっては聞き慣れない「統一教会」は1980年代半ば以降霊感商法という社会的事件を起こした宗教の衣を被った団体である。1990年代半ばに起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件の影に隠れ以降もその活動を続けていたという事実である。この30年間、壺や印鑑を教団への献金としていたが、それら商法の違法性は多くの裁判によって敗訴することから、次第に強制的な「献金」手法へと変化してきたことは報道の通りであるが、いづれにせよマスメディアも取り上げないまま30年間続けられていた。しかし、安倍元総理銃撃事件によって旧統一教会による被害が合同結婚式によって生まれた宗教二世という新たな被害者が生まれていることが「表」へと出てきた。更にはこうした直接的な被害者の他に選挙応援などを通じ「政治」に巧みに入り込んでいる事実も明らかになった。与党自民党の事故点検によれば衆参国会議員の半数近くが旧統一教会との「接点」を持っていたと公開された。驚くべきことに指示の中枢に入り込んでいたという事実である。政治がどのように歪められてきたかなど明らかではないが、30年間知られることなく、被害者は生まれていた。大きく家dば戦後の昭和史、「安倍晋三とは何者であったのか」など表ではない、「裏」の世界が表へと出てくるであろう。
もう一つ進行しているのが2020東京オリンピックに関する贈収賄疑惑(事件)である。報道の通り東京地検による捜査中であり、裁判も行われていないことから疑惑としたが、特捜からのリーク情報によれば紳士服のaokiをはじめ角川出版など複数のスポンサー企業の受託収賄という元電通専務で組織委員会元理事である高橋容疑者による汚職である。
そもそもオリンピックについては1984年のロス五輪以降その過度な商業主義、つまり「お金のなる木」として問題とされてきたが、日本においても金塗れのスポーツビジネスであったということであろう。よくオリンピックビジネスは「お金になる」のですかと質問されるが、私の少ない経験でもスポーツが持つ「構造上」からも常に「お金」がつきまとう。
あるJリーグのコンサルタントをしたことがあるが、卓越したスポーツ選手には大きな報酬が与えられて当然であるが、その選手の周辺の一つにとってもお金のなる構造があることを知った。選手の獲得には関係者だけでなく、親類、知人までもを巻き込んだ獲得が繰り広げられ、そこには常に「お金」が動くという構造であった。勿論、現在では合理的なものとして改善されていると思うが、スポーツは常にそうしたリスクを背負っているということだ。
オリンピック選手になり、メダルでも垂れれば企業はそ広告塔として所属を求め、選手もいわばタレントして活躍できる場を得ることとなる。つまり、企業にとっても、選手にとっても、新たな市場、オリンぴっという市場を手に入れることができるということである。この市場については「新しい市場」であることから、それまでの経験や人的なネットワークが求められ、それを可能としたのが電通である、その中心にいた高橋容疑者であったということである。
その電通であるが、少し前に未来塾「パラダイム転換から学ぶ」の中で高橋まつりさんの死、過労死事件について書いたことがあった。それは1990年代のインターネット普及、その市場化に大きく遅れたことを指摘したことがあった。働き方の転換について書いたものだが、高橋容疑者こそ戦後の電通の躍進を果たした創業雨滴人物である吉田さんを思い起こされる古いビジネスマンの典型であった。現在の電通マンは違うと思うが、「人の成長こそこれからのビジネスの活路」を目指していると思うが、今回の汚職疑惑(事件)を苦々しく思っていることであろう。ある意味昭和の遺物、異物が巻き起こした現象の一つだ。
失われた30年と言えば、バブル崩壊以降の経済低迷。アベノミクスで言えば、3本の矢、3つの戦略の内決定的にかけているのが「成長戦略」である。嫌な言い方であるが、昭和の財産を変革することなく、バブルの修復に専念し、次なる産業を見いだせることができなかった30年、平成であったということである。
少し前のブログに「悪性インフレ始まる」と書いたが、所得は増えないまま物価は上がり生活は急速に苦しくなった。ウクライナ戦争を起因し、エネルギー価格は高騰した。勿論、為替も1ドル145円、150円は目前と言われている。利上げをすれば景気は悪くなり、利払いも大きな負担となる。手も足も出せばう、「ダリ魔さん状態」に追い込まれた30年ということができる。
この30間で新たな産業として成長したのは「観光産業」「インバウンドビジネス」だけである。コロナ禍前まではオーバーツーリズムであると指摘されるほどの急成長であった。訪日外国人は2018年は3,413万人、インバウンド市場は推定売上7兆円。地方創生が叫ばれた30年であったが、このインバウンド市場はビザの緩和と地方による観光クルーズ船誘致を始め誘致を含めた営業によって得られた成果であった。戦略というより、現場におけるおもてなし・サービス精神の賜物・戦術によるものだ。
1990年代後半、生産年齢人口が現象に向かった時、日本は小子高齢社会という「次」を見据えた戦略を必要としたのだが、結果無為無策のまま30年経過してしまった。今回の円安を米国との金利政策の差であると説明されるが、無為無策によって衰退した「国力」によるものだと指摘する専門家もいる。緩慢な死という言葉があるが、今その瀬戸際に立たされているのが「日本」である。しかも、ロシアによるウクライナ侵攻によって、新たな冷戦が生まれた。「新冷戦」と呼ばれているようだが、1991年ソ連が崩壊し自由主義世界・グローバル世界へと向かったが、再び新たな冷戦・壁がつくられつつある。
実は昨年9月1日経済評論家で、ジャーナリストの内橋克人さんが亡くなったと小さく報じられた。常に働く人の立場、現場に寄り添ってきた人であるが、ある意味無為無策の30年と書いてしまったが、権力におもねらず、弱い人たちの側に立ち続けた、89年の生涯であった。NHKの「クローズアップ現代」に頻度多く出演していたので記憶に間違いがあったかもしれないが、例えば非正規雇用の問題に触れ、経営者による使い勝手の良さという市場主語から人間主語へと転換できるか 新しい経済学が必要であると力説されていたことを思い出す。(続く)
かなり前になるが「昭和と平成のはざまというタイトルで1990年代初頭のバブル崩壊によって何が変わったのか、消費を軸にブログ未来塾に書いたことがあった。若いミレニアム世代やZ世代にとって「昭和」はどこか懐かしい新しい「レトロ」な世界と感じていると思うが、実は「平成」という時代がどんな時代であったか、その意味を問い直す発言が多くなったきた。その際使われる言葉が「失われた30年」である。
その「失われた」ものは何かといえば、それまで「ジャパンアズナンバー1」とされてた技術力であり、その象徴であるような産業の衰退であった。半導体製造、造船の竣工、自動車産業・・・・・周知の通り今なお成長を果たしているのが自動車産業ぐらいである。世界を見渡せば価格競争力をつけるために中国の工場化が進み、国内の産業空洞化が進んでいく。当時、そんな変化を多くの神話の崩壊として、報道された。曰く、決して値下がりすることはないとした不動産神話からはじまり、潰れることはないとした大企業神話の崩壊・・・・・・その象徴が1998年の山一証券、北海拓殖銀行の破綻であろう。一方、消費面では賃金が上がらないことから多くの企業は「デフレ」がテーマとなった。その延長線上にはコスト競争に勝つために非正規雇用の仕組みに進んだことも承知の通りである。こうした変化についてはパラダイム転換としてブログに書いてきたので参照してほしい。
さて、こうした失われた30年の裏側で何が起っていたか、ここ数ヶ月に渡って私たちは目撃している。まず、安倍元総理銃撃事件である。一瞬政治テロと誰もが思っていたが、その裏には旧統一教会によって家庭崩壊させられた青年によるものであることがわかってきた。若い世代にとっては聞き慣れない「統一教会」は1980年代半ば以降霊感商法という社会的事件を起こした宗教の衣を被った団体である。1990年代半ばに起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件の影に隠れ以降もその活動を続けていたという事実である。この30年間、壺や印鑑を教団への献金としていたが、それら商法の違法性は多くの裁判によって敗訴することから、次第に強制的な「献金」手法へと変化してきたことは報道の通りであるが、いづれにせよマスメディアも取り上げないまま30年間続けられていた。しかし、安倍元総理銃撃事件によって旧統一教会による被害が合同結婚式によって生まれた宗教二世という新たな被害者が生まれていることが「表」へと出てきた。更にはこうした直接的な被害者の他に選挙応援などを通じ「政治」に巧みに入り込んでいる事実も明らかになった。与党自民党の事故点検によれば衆参国会議員の半数近くが旧統一教会との「接点」を持っていたと公開された。驚くべきことに指示の中枢に入り込んでいたという事実である。政治がどのように歪められてきたかなど明らかではないが、30年間知られることなく、被害者は生まれていた。大きく家dば戦後の昭和史、「安倍晋三とは何者であったのか」など表ではない、「裏」の世界が表へと出てくるであろう。
もう一つ進行しているのが2020東京オリンピックに関する贈収賄疑惑(事件)である。報道の通り東京地検による捜査中であり、裁判も行われていないことから疑惑としたが、特捜からのリーク情報によれば紳士服のaokiをはじめ角川出版など複数のスポンサー企業の受託収賄という元電通専務で組織委員会元理事である高橋容疑者による汚職である。
そもそもオリンピックについては1984年のロス五輪以降その過度な商業主義、つまり「お金のなる木」として問題とされてきたが、日本においても金塗れのスポーツビジネスであったということであろう。よくオリンピックビジネスは「お金になる」のですかと質問されるが、私の少ない経験でもスポーツが持つ「構造上」からも常に「お金」がつきまとう。
あるJリーグのコンサルタントをしたことがあるが、卓越したスポーツ選手には大きな報酬が与えられて当然であるが、その選手の周辺の一つにとってもお金のなる構造があることを知った。選手の獲得には関係者だけでなく、親類、知人までもを巻き込んだ獲得が繰り広げられ、そこには常に「お金」が動くという構造であった。勿論、現在では合理的なものとして改善されていると思うが、スポーツは常にそうしたリスクを背負っているということだ。
オリンピック選手になり、メダルでも垂れれば企業はそ広告塔として所属を求め、選手もいわばタレントして活躍できる場を得ることとなる。つまり、企業にとっても、選手にとっても、新たな市場、オリンぴっという市場を手に入れることができるということである。この市場については「新しい市場」であることから、それまでの経験や人的なネットワークが求められ、それを可能としたのが電通である、その中心にいた高橋容疑者であったということである。
その電通であるが、少し前に未来塾「パラダイム転換から学ぶ」の中で高橋まつりさんの死、過労死事件について書いたことがあった。それは1990年代のインターネット普及、その市場化に大きく遅れたことを指摘したことがあった。働き方の転換について書いたものだが、高橋容疑者こそ戦後の電通の躍進を果たした創業雨滴人物である吉田さんを思い起こされる古いビジネスマンの典型であった。現在の電通マンは違うと思うが、「人の成長こそこれからのビジネスの活路」を目指していると思うが、今回の汚職疑惑(事件)を苦々しく思っていることであろう。ある意味昭和の遺物、異物が巻き起こした現象の一つだ。
失われた30年と言えば、バブル崩壊以降の経済低迷。アベノミクスで言えば、3本の矢、3つの戦略の内決定的にかけているのが「成長戦略」である。嫌な言い方であるが、昭和の財産を変革することなく、バブルの修復に専念し、次なる産業を見いだせることができなかった30年、平成であったということである。
少し前のブログに「悪性インフレ始まる」と書いたが、所得は増えないまま物価は上がり生活は急速に苦しくなった。ウクライナ戦争を起因し、エネルギー価格は高騰した。勿論、為替も1ドル145円、150円は目前と言われている。利上げをすれば景気は悪くなり、利払いも大きな負担となる。手も足も出せばう、「ダリ魔さん状態」に追い込まれた30年ということができる。
この30間で新たな産業として成長したのは「観光産業」「インバウンドビジネス」だけである。コロナ禍前まではオーバーツーリズムであると指摘されるほどの急成長であった。訪日外国人は2018年は3,413万人、インバウンド市場は推定売上7兆円。地方創生が叫ばれた30年であったが、このインバウンド市場はビザの緩和と地方による観光クルーズ船誘致を始め誘致を含めた営業によって得られた成果であった。戦略というより、現場におけるおもてなし・サービス精神の賜物・戦術によるものだ。
1990年代後半、生産年齢人口が現象に向かった時、日本は小子高齢社会という「次」を見据えた戦略を必要としたのだが、結果無為無策のまま30年経過してしまった。今回の円安を米国との金利政策の差であると説明されるが、無為無策によって衰退した「国力」によるものだと指摘する専門家もいる。緩慢な死という言葉があるが、今その瀬戸際に立たされているのが「日本」である。しかも、ロシアによるウクライナ侵攻によって、新たな冷戦が生まれた。「新冷戦」と呼ばれているようだが、1991年ソ連が崩壊し自由主義世界・グローバル世界へと向かったが、再び新たな冷戦・壁がつくられつつある。
実は昨年9月1日経済評論家で、ジャーナリストの内橋克人さんが亡くなったと小さく報じられた。常に働く人の立場、現場に寄り添ってきた人であるが、ある意味無為無策の30年と書いてしまったが、権力におもねらず、弱い人たちの側に立ち続けた、89年の生涯であった。NHKの「クローズアップ現代」に頻度多く出演していたので記憶に間違いがあったかもしれないが、例えば非正規雇用の問題に触れ、経営者による使い勝手の良さという市場主語から人間主語へと転換できるか 新しい経済学が必要であると力説されていたことを思い出す。(続く)
タグ :失われた世代
2022年08月25日
◆2022年夏
ヒット商品応援団日記No808毎週更新) 2022.8,25
1ヶ月ほと前のブログで第七波のコロナ禍を次へと続く移行期(エンデミック【endemic】)であると書いた。単純化して言えば、季節性インフルエンザと同じような病気になryであろうと言う専門家の考えを取り入れたのだが、1ヶ月前の感染者数は全国では1日20万人を超え、東京でも3日連続して3万人を超えた、そんな状況であったが、現在もその感染者数は増減はあるが減少傾向に向かっているとは言い難い状況となっている。
3年ぶりの行動制限のない夏休みとなったが、コロナ禍前の水準まではいかないが、新幹線・航空利用は大幅に戻り、沖縄などリゾート地にも賑わいを見せた夏であった。コロナ禍も2年目を迎える頃から人流抑制策が感染拡大に効果があるのか、その科学的根拠が示されないことから生活者自身のそれまでの学習経験に基づいて行動判断する傾向が強うくなってきていた。その行動抑制判断の一番には「感染者数」であり、次に病床の利用率、感染しても治療が受けられるかどうか、そのれらを主な指標として、仕事や通学あるいは旅行などの外出などを決めていた。
今年の夏の第七波オミクロン株は専門家も驚くほどの感染力であったが、感染者の多くは軽症もしくは無症状であり、その多くは10代以下の若者・子供たちであった。こうした初期の報道・専門家のアナウンスによって、個々人の「行動判断」が決められてきた。今年のお盆休みにはワクチン接種は勿論、旅行前の検査など多くの人は行列までして準備をしての夏休みであった。
しかし、どんなことがこの1ヶ月に起こったかは日々の報道を見れば明らかな「事態」となった。まず、検査を受けることが難しく、しかも高原検査の場合陰性であっても油断できない精度であったり、更にはコロナ症状、高熱、喉の痛み、倦怠感が出ても発熱外来外来に電話してもつながらず、つながっても入院するには多くの時間を必要とし、初期治療が行えない状況が生まれた。救える命が救えない、疲弊した現場医療が崩壊しつつある事態へと至っている。
感染者も「電話がつながらない状況」を感じており、「不安」が増幅する。更には高齢者、基礎疾患のある感染者の死亡例が増えてきており、過去最大の人数となっている。但し、コロナウイルスによるものであるのか、それとも他の疾患によるものなのか、今一つ明確にはなっていないのだが。こうした患者の急増に対し、医療機関や保健所では、感染者情報を管理する政府の情報把握システム「HER―SYS(ハーシス)」への患者情報の入力業務が負担となっており、重症化リスクの高い患者の健康観察や入院調整業務への影響が懸念され議論となっているが、そもそも感染者を拡大させない方策こそが求められているのだが。感染源の多くは子どの場合が多く、隔離することが極めて難しい。ましてや夏休みである。家庭内感染の防止策に特効薬はないも事実である。結果は昨年夏の医療崩壊とは内容として異なってはいるが、生活者が2年半コロナ学習を行なってきたのに対し、政府行政、特に感染症の専門家と呼ばれる人たちはウイエウスの変異などの研究は行えても感染症の対象である「人間研究」、どんな行動を起こすか学習してこなかった。私の言葉で言えば「ライフスタイル研究」を行なってこなかったといことだ。政府分科会にはマクロ経済学者は参加してはいるが、社会学者や社会心理学者が参加していないことからも分かるように、対策を立てられない理由がある。「ウイズコロナ」社会を目前にしているが、マスク是非論ではなく、新たな行動指針を提示すべき時に来ている。そして、それは消費行動を見れば生活者は新たなライフスタイルを求め始めている。
ところで海外からの観光客の受け入れを一部再開したが、思うように伸びていない。再開の影響が反映された7月の訪日外国人客数について、日本政府観光局(JNTO)は17日、14万4500人だったと発表した。コロナ禍前の2019年7月(299万人)と比べると95・2%減と低い水準のままだ。ちなみに7月に観光目的で入国した人は7903人にとどまっている。
入国規制もあるが、日本国内の感染状況、世界で最大の感染者数ということから既に規制緩和されている感慨の観光客も日本観光を敬遠するのは当然である。ましてや世界の観光スタイルは個人観光が中心であり、ガイド付のツアーなど論外である。残念ながらインバウンド需要は当分の間見込めないということだ、星野リゾートの星野さんは日本の休暇制度、年末年始やお盆休みなどの「分散化」が必要であると自説を強調しているが、これも簡単なことではない。このコロナ禍によって需要が拡大したものも数多くある。例えば、以前から静かなブームとなっていたキャンピングはグランピングを生み出し、軽キャンブームも今なお続いている。100円ショップのダイソーにはキャンプグッズがかなり品揃えされており、日常生活にも広く浸透している。つまり、「旅」の概念も変わってきているということだ。
以前から繰り返し提案していることの一つに「横丁・路地裏」観光があるが、その根底には日本人がまだまだ知らない「魅力」が眠っていることの掘り起こしである。多くの地方ではこうした村おこしがなされているが、今注目されている地方の一つが山梨県小菅村だ。コンセプトは「村丸ごとおもてなし」で村民自身がホテルのスタッフとなり、「村」ならではの小さな小さな魅力をサービスするホテルである。新しいホテルを建設するのではなく、既にある使われなくなってしまった古民家や村にある自然の魅力を掘り起こし組み立てて提供する構想力によるもものである。テーマを設定しイベントによる村おこしは数多くあるが、山梨県小菅村の場合はコンセプトを徹底できたことによる。村民の共感と納得、そして何よりも強いリーダーシップを必要としている。
地方創生の中心となっていたインバウンド需要が見込めないことから、今一度原点に立ち返ってみるということだ。そして、この原点こそインバウンド需要のキーワードにもつながっていくということでもある。
2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、エネルギー価格の高騰をはじめ物価の高騰、悪性インフレが本格化した。そして、安倍元総理の銃撃事件から旧統一教会と政治との癒着、更には2020東京オリンピックの背景に贈収賄があったと地検が動き、・・・・・・勿論オミクロン株の猛威が日本全国に吹き荒れ医療現場が再び機器的状況となった。一言で言えば多くの「事件」が直接間接多くの人の身体や心を掻き乱した。混迷・混乱の半年であった。
「3年ぶり」という言葉が多くの出来事に使われた夏であった。全国各地で行われた花火大会にも、イベントにも使われた。そんな2022年の夏であるが、やはり「夏」は高校球児が集まった甲子園であろう。優勝は仙台育英であったが、優勝インタビューでは次のように監督が挨拶していた。
『入学どころか、たぶんおそらく中学校の卒業式もちゃんとできなくて。高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんです。青春って、すごく密なので。でもそういうことは全部ダメだ、ダメだと言われて。活動してても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で。でも本当にあきらめないでやってくれたこと、でもそれをさせてくれたのは僕たちだけじゃなくて、全国の高校生のみんなが本当にやってくれて。・・・・・・すべての高校生の努力のたまものが、ただただ最後、僕たちがここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います。』
多くの人はこのコメントに共感したことと思う。高校野球というとあの無類の高校野球好きであった阿久悠さんを思い出す。その阿久悠さんは「甲子園の詩 破れざる君たちへ」の中で次のようなメッセージを残している。
『舞台は人を変える
人を作る
亜r5羽ひとは才能に気づき
ある人は気弱を発見して狼狽する
しかし、
大部隊は結果に責任を持たない
変えるだけである』
仙台育英が優勝し白河の関を越えたと報道されるが、「変えた」のは蔓延するコロナウイルスに対し多くの制限の中で果敢に戦い勝利したということであろう。それは新型コロナウイルスという「舞台」での戦い方教えてくれ、次の一歩に進んだということだ。勿論、それは高校野球にとどまらず日常生活を送る生活者のにも、事業者にも・・・・・・辛い黙食にも耐えていることもたちにも言えることだ。(続く)
1ヶ月ほと前のブログで第七波のコロナ禍を次へと続く移行期(エンデミック【endemic】)であると書いた。単純化して言えば、季節性インフルエンザと同じような病気になryであろうと言う専門家の考えを取り入れたのだが、1ヶ月前の感染者数は全国では1日20万人を超え、東京でも3日連続して3万人を超えた、そんな状況であったが、現在もその感染者数は増減はあるが減少傾向に向かっているとは言い難い状況となっている。
3年ぶりの行動制限のない夏休みとなったが、コロナ禍前の水準まではいかないが、新幹線・航空利用は大幅に戻り、沖縄などリゾート地にも賑わいを見せた夏であった。コロナ禍も2年目を迎える頃から人流抑制策が感染拡大に効果があるのか、その科学的根拠が示されないことから生活者自身のそれまでの学習経験に基づいて行動判断する傾向が強うくなってきていた。その行動抑制判断の一番には「感染者数」であり、次に病床の利用率、感染しても治療が受けられるかどうか、そのれらを主な指標として、仕事や通学あるいは旅行などの外出などを決めていた。
今年の夏の第七波オミクロン株は専門家も驚くほどの感染力であったが、感染者の多くは軽症もしくは無症状であり、その多くは10代以下の若者・子供たちであった。こうした初期の報道・専門家のアナウンスによって、個々人の「行動判断」が決められてきた。今年のお盆休みにはワクチン接種は勿論、旅行前の検査など多くの人は行列までして準備をしての夏休みであった。
しかし、どんなことがこの1ヶ月に起こったかは日々の報道を見れば明らかな「事態」となった。まず、検査を受けることが難しく、しかも高原検査の場合陰性であっても油断できない精度であったり、更にはコロナ症状、高熱、喉の痛み、倦怠感が出ても発熱外来外来に電話してもつながらず、つながっても入院するには多くの時間を必要とし、初期治療が行えない状況が生まれた。救える命が救えない、疲弊した現場医療が崩壊しつつある事態へと至っている。
感染者も「電話がつながらない状況」を感じており、「不安」が増幅する。更には高齢者、基礎疾患のある感染者の死亡例が増えてきており、過去最大の人数となっている。但し、コロナウイルスによるものであるのか、それとも他の疾患によるものなのか、今一つ明確にはなっていないのだが。こうした患者の急増に対し、医療機関や保健所では、感染者情報を管理する政府の情報把握システム「HER―SYS(ハーシス)」への患者情報の入力業務が負担となっており、重症化リスクの高い患者の健康観察や入院調整業務への影響が懸念され議論となっているが、そもそも感染者を拡大させない方策こそが求められているのだが。感染源の多くは子どの場合が多く、隔離することが極めて難しい。ましてや夏休みである。家庭内感染の防止策に特効薬はないも事実である。結果は昨年夏の医療崩壊とは内容として異なってはいるが、生活者が2年半コロナ学習を行なってきたのに対し、政府行政、特に感染症の専門家と呼ばれる人たちはウイエウスの変異などの研究は行えても感染症の対象である「人間研究」、どんな行動を起こすか学習してこなかった。私の言葉で言えば「ライフスタイル研究」を行なってこなかったといことだ。政府分科会にはマクロ経済学者は参加してはいるが、社会学者や社会心理学者が参加していないことからも分かるように、対策を立てられない理由がある。「ウイズコロナ」社会を目前にしているが、マスク是非論ではなく、新たな行動指針を提示すべき時に来ている。そして、それは消費行動を見れば生活者は新たなライフスタイルを求め始めている。
ところで海外からの観光客の受け入れを一部再開したが、思うように伸びていない。再開の影響が反映された7月の訪日外国人客数について、日本政府観光局(JNTO)は17日、14万4500人だったと発表した。コロナ禍前の2019年7月(299万人)と比べると95・2%減と低い水準のままだ。ちなみに7月に観光目的で入国した人は7903人にとどまっている。
入国規制もあるが、日本国内の感染状況、世界で最大の感染者数ということから既に規制緩和されている感慨の観光客も日本観光を敬遠するのは当然である。ましてや世界の観光スタイルは個人観光が中心であり、ガイド付のツアーなど論外である。残念ながらインバウンド需要は当分の間見込めないということだ、星野リゾートの星野さんは日本の休暇制度、年末年始やお盆休みなどの「分散化」が必要であると自説を強調しているが、これも簡単なことではない。このコロナ禍によって需要が拡大したものも数多くある。例えば、以前から静かなブームとなっていたキャンピングはグランピングを生み出し、軽キャンブームも今なお続いている。100円ショップのダイソーにはキャンプグッズがかなり品揃えされており、日常生活にも広く浸透している。つまり、「旅」の概念も変わってきているということだ。
以前から繰り返し提案していることの一つに「横丁・路地裏」観光があるが、その根底には日本人がまだまだ知らない「魅力」が眠っていることの掘り起こしである。多くの地方ではこうした村おこしがなされているが、今注目されている地方の一つが山梨県小菅村だ。コンセプトは「村丸ごとおもてなし」で村民自身がホテルのスタッフとなり、「村」ならではの小さな小さな魅力をサービスするホテルである。新しいホテルを建設するのではなく、既にある使われなくなってしまった古民家や村にある自然の魅力を掘り起こし組み立てて提供する構想力によるもものである。テーマを設定しイベントによる村おこしは数多くあるが、山梨県小菅村の場合はコンセプトを徹底できたことによる。村民の共感と納得、そして何よりも強いリーダーシップを必要としている。
地方創生の中心となっていたインバウンド需要が見込めないことから、今一度原点に立ち返ってみるということだ。そして、この原点こそインバウンド需要のキーワードにもつながっていくということでもある。
2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、エネルギー価格の高騰をはじめ物価の高騰、悪性インフレが本格化した。そして、安倍元総理の銃撃事件から旧統一教会と政治との癒着、更には2020東京オリンピックの背景に贈収賄があったと地検が動き、・・・・・・勿論オミクロン株の猛威が日本全国に吹き荒れ医療現場が再び機器的状況となった。一言で言えば多くの「事件」が直接間接多くの人の身体や心を掻き乱した。混迷・混乱の半年であった。
「3年ぶり」という言葉が多くの出来事に使われた夏であった。全国各地で行われた花火大会にも、イベントにも使われた。そんな2022年の夏であるが、やはり「夏」は高校球児が集まった甲子園であろう。優勝は仙台育英であったが、優勝インタビューでは次のように監督が挨拶していた。
『入学どころか、たぶんおそらく中学校の卒業式もちゃんとできなくて。高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんです。青春って、すごく密なので。でもそういうことは全部ダメだ、ダメだと言われて。活動してても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で。でも本当にあきらめないでやってくれたこと、でもそれをさせてくれたのは僕たちだけじゃなくて、全国の高校生のみんなが本当にやってくれて。・・・・・・すべての高校生の努力のたまものが、ただただ最後、僕たちがここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います。』
多くの人はこのコメントに共感したことと思う。高校野球というとあの無類の高校野球好きであった阿久悠さんを思い出す。その阿久悠さんは「甲子園の詩 破れざる君たちへ」の中で次のようなメッセージを残している。
『舞台は人を変える
人を作る
亜r5羽ひとは才能に気づき
ある人は気弱を発見して狼狽する
しかし、
大部隊は結果に責任を持たない
変えるだけである』
仙台育英が優勝し白河の関を越えたと報道されるが、「変えた」のは蔓延するコロナウイルスに対し多くの制限の中で果敢に戦い勝利したということであろう。それは新型コロナウイルスという「舞台」での戦い方教えてくれ、次の一歩に進んだということだ。勿論、それは高校野球にとどまらず日常生活を送る生活者のにも、事業者にも・・・・・・辛い黙食にも耐えていることもたちにも言えることだ。(続く)
タグ :甲子園
2022年07月24日
◆エンドミックを迎えている
ヒット商品応援団日記No807毎週更新) 2022.7,24
第7波の感染が急速に拡大している。全国では1日20万人を超え、東京でも3日連続して3万人を超えた。今回のオクロン株は感染力が強く子どもを中心に拡大し、家族から次々と20代。30代と言った若い世代へと感染する事例が増えている。そして次第に働き盛りである保育士など社会インフラにも大きな影響が出てきた。発熱外来など臨床現場では受診どころは検査すらできない状態となった。検査を受けられない検査難民が出る始末で、3年目を向けても何回同じことを繰り返すのかという声が上がっている。但し、ワクチン接種効果及び医療経験から重傷者極めて少なくなっている。そして、また2類から5類への変更論議がまたして繰り返される。
ところで最近注目されているキーワードの一つがエンデミック【endemic】で医療・公衆衛生で、ある感染症が、一定の地域に一定の罹患率で、または一定の季節に繰り返し発生することを指す言葉で、つまり季節性インフルエンザへと「移行期」にあたるものとして説明されている。勿論、一部の専門家によるせつで、政府の公式コメントではない。ただ、症状は軽症・無症状が多く、重症化する感染者は少ないこと。また、入院病床に余裕があること、こうした背景から感染抑止の対策はほとんどなされてはいない。但し、こうしたコロナ戦略を生活者にわかりやすく理解をしてもらうには軽症・中等症向けの経口治療薬が必要で、塩野義のコロナ経口薬「ゾコーバ」は緊急承認ならず7波の対応には間に合わないこととなった。つまり、個々の生活者、個々の事業者が自己判断をして行動するしかないということだ。
今回の流行は家庭内感染が中心であり、飲食店などでの感染はわずか数%ということから人流抑制策は打てず、ある意味「無策」な状況にある。夏休み前の旅行需要予測ではコロナ禍前には戻らないもの航空予約などは80パーセント近くまで戻しているとの報道もあった。しかし、感染者の拡大に対し生活者の反応どうかと言えば、予約をキャンセルするのではなく、自己防衛策という基本に立ち返って夏休みを過ごすこととなる。
コロナ禍も3年目を迎え旅行先や移動手段、移動先での旅行先での楽しみ方など十分検討しての夏休となる。まず、旅行の準備段階としてのワクチン接種、あるいは簡易検査から始まり、・・・・・・いや既にパンデミック、爆発的感染が始まっているため緊急に体制を整えるべきは発熱外来であり、既存の病院で対応できなければ「臨時」の発熱外来となる。おそらく地方自治体ではその用意をしているかとお思う。つまり、発熱などの症状が出た場合どうすれば良いのかであり、診察の予約電話が通じない状態になっており、検査キットを無料配布するとの方針であるが、どれだけスピーディに行えるかが疑問である。理解ある病院は既に駐車場などの簡易診療所を作り対応しているが収容できていないのが現状である。以前東京都は軽症者向けの臨時施設を作ったが、そうしたことが必要となっているということだ。東京では連日1日3万人以上の感染者が出ているということを直視すべきである。空港などで無料の簡易検査行なってどうするというのか。陽性であったら旅行をやめるというのか、そんな意味のない検査こそ論外である。不安を解消する第一歩はまずは検査であり、できうるならば医師の診断である。読売新聞によれば行政のPCRは1週間待ち、民間検査場は連日長蛇の列とある。検査の意味はなにかと言えば「自己防衛」の一つであるということだ。
「ウイズコロナ」に向かうにはもう一つ不安解決策があるとすれば、それは「これから」どうすべきかという指針である。ワクチン2回接種場合によっては3回接種でも感染しており、2年半前のワクチン期待は既に半減している。ワクチン接種の回数と再感染の道観関係の正確なデータはない。ただ、重症化しにくいということは臨床現場から得られているだけである。季節性インフルエンザのように年一回ワクチン接種を行う時代を迎えるということであろう。
最新の情報ではないが、夏祭りなどのイベントが中止、もしくは規模縮小して行うところは増えてきている。受け入れ先のホテルや旅館、あるいはレジャー施設は十分な感染対策を行っていることと思うが、顧客のがわもこの2年半の学習経験を積んだ生活者であるということを前提としなければならない。
この2年半で急速に増えた過ごし方・楽しみ方の一つにグランピングがある。本格的なキャンプブームは続いているが、そこまでしなくても自然の中でキャンプを楽しみたいという要望に応えたものだが、夏であれば川遊びや昆虫採集、中には温泉付きのグランピングもある。コロナ禍が始まった当初の休日の過ごし方は、ジョギングやサイクリング、あるいは河川敷でのグルフ練習など「オープンエア」な空間での楽しみ方で、その先にグランピングがあったということだ。
昨年の夏はどうかと言えば、東京オリンピックを終え、それまでの感染拡大はお盆休みに入る時期から急速に減少へと向かった。昨年のウイルスはデルタ株で今年はオミクロン株、ワクチン接種の違いがあるが昨年の夏は生活者特に若い世代の自己防衛判断による自主的な感染回避行動、密なところを避けたり、友人との飲酒などを控えたり、・・・・・こうした一種本能的な行動抑制によるものだと私は理解している。ただ、今年の感染の中心は子どもたちである。子供に抑制行動を取らせることは極めて難しい。
移動も新幹線や航空、あるいはマイカーと言った一種「管理」された空間、遊びも「オープンエア」なところでと言ったものとなる。「ウイズコロナ」とな窮屈な社会であるということだ。だがこの7波を乗り越える中で、新たなコロナとの付き合い方も生まれてくる。(続く)
第7波の感染が急速に拡大している。全国では1日20万人を超え、東京でも3日連続して3万人を超えた。今回のオクロン株は感染力が強く子どもを中心に拡大し、家族から次々と20代。30代と言った若い世代へと感染する事例が増えている。そして次第に働き盛りである保育士など社会インフラにも大きな影響が出てきた。発熱外来など臨床現場では受診どころは検査すらできない状態となった。検査を受けられない検査難民が出る始末で、3年目を向けても何回同じことを繰り返すのかという声が上がっている。但し、ワクチン接種効果及び医療経験から重傷者極めて少なくなっている。そして、また2類から5類への変更論議がまたして繰り返される。
ところで最近注目されているキーワードの一つがエンデミック【endemic】で医療・公衆衛生で、ある感染症が、一定の地域に一定の罹患率で、または一定の季節に繰り返し発生することを指す言葉で、つまり季節性インフルエンザへと「移行期」にあたるものとして説明されている。勿論、一部の専門家によるせつで、政府の公式コメントではない。ただ、症状は軽症・無症状が多く、重症化する感染者は少ないこと。また、入院病床に余裕があること、こうした背景から感染抑止の対策はほとんどなされてはいない。但し、こうしたコロナ戦略を生活者にわかりやすく理解をしてもらうには軽症・中等症向けの経口治療薬が必要で、塩野義のコロナ経口薬「ゾコーバ」は緊急承認ならず7波の対応には間に合わないこととなった。つまり、個々の生活者、個々の事業者が自己判断をして行動するしかないということだ。
今回の流行は家庭内感染が中心であり、飲食店などでの感染はわずか数%ということから人流抑制策は打てず、ある意味「無策」な状況にある。夏休み前の旅行需要予測ではコロナ禍前には戻らないもの航空予約などは80パーセント近くまで戻しているとの報道もあった。しかし、感染者の拡大に対し生活者の反応どうかと言えば、予約をキャンセルするのではなく、自己防衛策という基本に立ち返って夏休みを過ごすこととなる。
コロナ禍も3年目を迎え旅行先や移動手段、移動先での旅行先での楽しみ方など十分検討しての夏休となる。まず、旅行の準備段階としてのワクチン接種、あるいは簡易検査から始まり、・・・・・・いや既にパンデミック、爆発的感染が始まっているため緊急に体制を整えるべきは発熱外来であり、既存の病院で対応できなければ「臨時」の発熱外来となる。おそらく地方自治体ではその用意をしているかとお思う。つまり、発熱などの症状が出た場合どうすれば良いのかであり、診察の予約電話が通じない状態になっており、検査キットを無料配布するとの方針であるが、どれだけスピーディに行えるかが疑問である。理解ある病院は既に駐車場などの簡易診療所を作り対応しているが収容できていないのが現状である。以前東京都は軽症者向けの臨時施設を作ったが、そうしたことが必要となっているということだ。東京では連日1日3万人以上の感染者が出ているということを直視すべきである。空港などで無料の簡易検査行なってどうするというのか。陽性であったら旅行をやめるというのか、そんな意味のない検査こそ論外である。不安を解消する第一歩はまずは検査であり、できうるならば医師の診断である。読売新聞によれば行政のPCRは1週間待ち、民間検査場は連日長蛇の列とある。検査の意味はなにかと言えば「自己防衛」の一つであるということだ。
「ウイズコロナ」に向かうにはもう一つ不安解決策があるとすれば、それは「これから」どうすべきかという指針である。ワクチン2回接種場合によっては3回接種でも感染しており、2年半前のワクチン期待は既に半減している。ワクチン接種の回数と再感染の道観関係の正確なデータはない。ただ、重症化しにくいということは臨床現場から得られているだけである。季節性インフルエンザのように年一回ワクチン接種を行う時代を迎えるということであろう。
最新の情報ではないが、夏祭りなどのイベントが中止、もしくは規模縮小して行うところは増えてきている。受け入れ先のホテルや旅館、あるいはレジャー施設は十分な感染対策を行っていることと思うが、顧客のがわもこの2年半の学習経験を積んだ生活者であるということを前提としなければならない。
この2年半で急速に増えた過ごし方・楽しみ方の一つにグランピングがある。本格的なキャンプブームは続いているが、そこまでしなくても自然の中でキャンプを楽しみたいという要望に応えたものだが、夏であれば川遊びや昆虫採集、中には温泉付きのグランピングもある。コロナ禍が始まった当初の休日の過ごし方は、ジョギングやサイクリング、あるいは河川敷でのグルフ練習など「オープンエア」な空間での楽しみ方で、その先にグランピングがあったということだ。
昨年の夏はどうかと言えば、東京オリンピックを終え、それまでの感染拡大はお盆休みに入る時期から急速に減少へと向かった。昨年のウイルスはデルタ株で今年はオミクロン株、ワクチン接種の違いがあるが昨年の夏は生活者特に若い世代の自己防衛判断による自主的な感染回避行動、密なところを避けたり、友人との飲酒などを控えたり、・・・・・こうした一種本能的な行動抑制によるものだと私は理解している。ただ、今年の感染の中心は子どもたちである。子供に抑制行動を取らせることは極めて難しい。
移動も新幹線や航空、あるいはマイカーと言った一種「管理」された空間、遊びも「オープンエア」なところでと言ったものとなる。「ウイズコロナ」とな窮屈な社会であるということだ。だがこの7波を乗り越える中で、新たなコロナとの付き合い方も生まれてくる。(続く)
タグ :エンデミック
2022年06月26日
◆第二の転換期を迎えている
ヒット商品応援団日記No806毎週更新) 2022.6.25.
NTTグループが、7月から社員半数の3万人は原則自宅での在宅勤務とするなどの新制度を7月から導入するとの報道に話題が集まっている。出社については出張扱いとなり、降雨機利用も可とするものでコロナ禍から生まれた新しい働きかtである。一方、米国の電気自動車大手のテスラをはじめ既に在宅勤務は一つの働き方として定着している。テスラのリーダーイーロン・マスクは少数の中心となる幹部人材には出社を要請するが、その他の作業要員は在宅勤務とするとも。勿論、その少数である開発担当者技術者には高い報酬を提供するが、在宅作業に従事する社員は総じて低賃金となる。NTTがテスラと同じような賃金制度となるかは不明であるが、失われた30年と言われる日本も個別企業単位で改革が始まったということであろう。
今何が起きているのかというと、在宅・出社と言った問題ではなく、その本質はそれまで「人手」に頼っていた「作業」はそのほとんどがコンピュータが行うこととなるということである。その代表的な業務が周知の「会計」である。つまり会計ソフトの開発は必要となるが、会計事務員など既に必要ではなくなったということである。
少し前のブログで「悪性インフレが始まった」と書いたが、エネルギーや原材料の高騰、円安などと言った「悪性」も主要因であるが、賃金を上げられない「働き方」に注目が集まっている。1990年代初頭のバブル崩壊以降構造改革がなされないまま今日に至っているのがこの「働き方改革」である。ある意味悪性インフレによって自ら変わらざるを得なくなったと自覚したということであろう。
実は5年前こうしたことに警鐘、いや問題提起をしていたのが、数学者で、国立情報学研究所 社会共有知研究センター センター長を務める新井紀子さんであった。
当時AI(人工知能)」というキーワードで「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを率いた方でこのブログでも何回か取り上げたことがあった。以前から「生産性論議」については飲食業のような労働集約型ビジネスは調理ロボットなどの活用でどんどん働き方が変わっていくと考えられていたが、新井紀子さんはホワイトカラーにも及びAIで代替できる人材とできない人材とに分断されるという指摘であった。まさにテスラモーターのような働き方である。
最近では慶應大学で財政学の教授である土居丈朗さんは「営業マンの数は減っていくのか?」と聞かれ、どんな職がAIによって置き換えられるのかを、Dimeの中で以下のように述べている。
『AIがワンパターンな仕事は判断できるので、定型化された仕事、ワンパターンな仕事は消える可能性がある。具体的に言うと、データがあってそこからグラフを作るような仕事は置き換わるだろう。・・・・・・・例えば銀行の融資係も置き換わるだろう。この人に貸し出しても大丈夫か、どういう人なら返してくれるか、これまで1~2人で判断していたことがコンピュータなら1分前後で判断できる。
働く人の多くを占める、営業マンはどうかと言うと、足で稼ぐタイプの営業は減る。準備、企画などAIに導いてもらい、データで示す営業スタイルになる。どこに訪問しても同じセールストークの営業マンはAIに置き換わる。営業マンの人数は減ることになるだろう。』と。
こうした事例を挙げるまでもなく既に始まっていると思うが、AIが顧客情報とビッグデータを分析して「もっとこういうところを営業すればどうですか?」とアドバイスしてくれる。そんな仕業環境であれば、営業マンは極端に少なくて済む。勿論、働き方も変わることとなる。
つまり、これから生き残る仕事はAIとコンピュータを上手く操る仕事となる。AIの使い手になったり、AIを進化させたりする仕事だ。
そして、仕事の多くは経営目標の準じたテーマに沿ったプロジェクト単位になる。勿論、部長・課長と言った上下関係の職階で仕事が進むことはなくなる。プロジェクトリーダー単位の専門家集団で進んでいく。つまり能力単位となり、あるテーマではリーダーを務めることもあれば、チームメンバーになると言ったフレキシブルで自在な組織となる。能力ある人間は複数のプロジェクトに参加することとなり、AIに置き換わられる人間は単なるワーカーとなる。そして、言うまでもなくそうした働き方に報酬は反映されていくこととなる。
ところでAIができない、苦手とすることもある。新井さんは著書「AI vs 教科書が読めない子どもたち」の中で、AI は「意味」も「感情」も理解できない。実はこの意味や感情をを考える、その道筋となる読解力が決定的に足りないと指摘している。こうした読解力、読みこなす能力は詰め込み教育、偏差値教育によるもので、こうした教育を受けた人間が大きな転換期に立たされているということだ。そして、AIの対極が「人間力」であるとも付け加えている。
実は労働集約型ビジネスにおいては調理器具を含めロボット化が進んでいると書いたが、面白いことに現場スタッフの能力を引き出す試みが行われていた。外食産業、24時間営業・・・・・一見ブラック企業ではと思われ合致であるが、富士そばの場合はホワイト企業として人気となっている。正規社員以外多くのバイトで店舗構成されているが、業績次第ではあるが、アルバイトにもボーナスが出る、そんな能力次第に沿った賃金体系となっている。この富士そばではAI(ロボット)」にとって代わることができない仕組みが用意されている。それは店独自のオリジナルメニューをつくって販売するシステムだ。通常であればそばとカレーライスのようなセットメニュ0が定番となっているが、私が注目したのはカツ丼とカレーライス半々のメニューであったが、私にとっては別々に食べたいというのが素直な感想であった。社員の発想やる気を引き出すことファ目的であるが、一番大切なことは現場における「考える力」「顧客の好みを読解する力」と言った方が絵あかりやすい。現場である以上「作業」は必要不可欠であるが、それに加えて「考える」こと、AIにはできないことにトライする仕組みである。
参院選も近いこともあるが、先進国の中で賃金上昇のできない唯一の国であることが一つの争点となっている。戦後の働き方として終身雇用制度と年功序列制度があるが、前者は高齢者も働く時代であり維持することが必要と思う。しかし、年功序列型の運営、賃金制度は改革すべきであろう。
確か1990,年代後半であったと思うが、経済企画庁長官であった堺屋太一さんは「生産年齢人口がマイナスに転じた」として大きな時代に転換期であると警鐘を鳴らしたことがあった。銀行や証券会社が破綻する時期もあって、マスコミをはじめほとんど注目されることはなかった。少子高齢社会の「入り口」でもあったが、今日の問題点のほとんどが解決されないまま今日に至っている。生産年齢人口とは「働き消費する人口」のことであり、分かりやすい「国力」の基礎となる物差しである。バブル崩壊の後始末に追われ政治家も官僚も平成時代の日本の展望を示すことができなかった。
今回敢えてAIという道具を借りて働き方の指針を書いたのも1998年当時と同じ転換期を迎えていると感じたからである。バブル崩壊以降グローバル経済下にあって唯一成果を上げられたのはインバウンド市場の5兆円である。ビザの緩和策がその入り口を作ったが、地方自治体、観光業者は航空便の便数を増やす要請や団体クルーズ船の誘致など、あるいは地方が持つ資源を掘り起こしたり。。。。。「考える力」を発揮したからであった。事業規模から言えば大企業ではなく、飲食業のような中小企業と同じ「考える力」によって可能となった。「考える力」とは私の言葉で言えば、マーケティング力のことであり、市場・顧客を読み解く力のことである。変化する顧客をアナログ手法であれ、AIを活用しても良し、そのことによって自ら変わる転換期にあるということだ。(続く)
NTTグループが、7月から社員半数の3万人は原則自宅での在宅勤務とするなどの新制度を7月から導入するとの報道に話題が集まっている。出社については出張扱いとなり、降雨機利用も可とするものでコロナ禍から生まれた新しい働きかtである。一方、米国の電気自動車大手のテスラをはじめ既に在宅勤務は一つの働き方として定着している。テスラのリーダーイーロン・マスクは少数の中心となる幹部人材には出社を要請するが、その他の作業要員は在宅勤務とするとも。勿論、その少数である開発担当者技術者には高い報酬を提供するが、在宅作業に従事する社員は総じて低賃金となる。NTTがテスラと同じような賃金制度となるかは不明であるが、失われた30年と言われる日本も個別企業単位で改革が始まったということであろう。
今何が起きているのかというと、在宅・出社と言った問題ではなく、その本質はそれまで「人手」に頼っていた「作業」はそのほとんどがコンピュータが行うこととなるということである。その代表的な業務が周知の「会計」である。つまり会計ソフトの開発は必要となるが、会計事務員など既に必要ではなくなったということである。
少し前のブログで「悪性インフレが始まった」と書いたが、エネルギーや原材料の高騰、円安などと言った「悪性」も主要因であるが、賃金を上げられない「働き方」に注目が集まっている。1990年代初頭のバブル崩壊以降構造改革がなされないまま今日に至っているのがこの「働き方改革」である。ある意味悪性インフレによって自ら変わらざるを得なくなったと自覚したということであろう。
実は5年前こうしたことに警鐘、いや問題提起をしていたのが、数学者で、国立情報学研究所 社会共有知研究センター センター長を務める新井紀子さんであった。
当時AI(人工知能)」というキーワードで「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを率いた方でこのブログでも何回か取り上げたことがあった。以前から「生産性論議」については飲食業のような労働集約型ビジネスは調理ロボットなどの活用でどんどん働き方が変わっていくと考えられていたが、新井紀子さんはホワイトカラーにも及びAIで代替できる人材とできない人材とに分断されるという指摘であった。まさにテスラモーターのような働き方である。
最近では慶應大学で財政学の教授である土居丈朗さんは「営業マンの数は減っていくのか?」と聞かれ、どんな職がAIによって置き換えられるのかを、Dimeの中で以下のように述べている。
『AIがワンパターンな仕事は判断できるので、定型化された仕事、ワンパターンな仕事は消える可能性がある。具体的に言うと、データがあってそこからグラフを作るような仕事は置き換わるだろう。・・・・・・・例えば銀行の融資係も置き換わるだろう。この人に貸し出しても大丈夫か、どういう人なら返してくれるか、これまで1~2人で判断していたことがコンピュータなら1分前後で判断できる。
働く人の多くを占める、営業マンはどうかと言うと、足で稼ぐタイプの営業は減る。準備、企画などAIに導いてもらい、データで示す営業スタイルになる。どこに訪問しても同じセールストークの営業マンはAIに置き換わる。営業マンの人数は減ることになるだろう。』と。
こうした事例を挙げるまでもなく既に始まっていると思うが、AIが顧客情報とビッグデータを分析して「もっとこういうところを営業すればどうですか?」とアドバイスしてくれる。そんな仕業環境であれば、営業マンは極端に少なくて済む。勿論、働き方も変わることとなる。
つまり、これから生き残る仕事はAIとコンピュータを上手く操る仕事となる。AIの使い手になったり、AIを進化させたりする仕事だ。
そして、仕事の多くは経営目標の準じたテーマに沿ったプロジェクト単位になる。勿論、部長・課長と言った上下関係の職階で仕事が進むことはなくなる。プロジェクトリーダー単位の専門家集団で進んでいく。つまり能力単位となり、あるテーマではリーダーを務めることもあれば、チームメンバーになると言ったフレキシブルで自在な組織となる。能力ある人間は複数のプロジェクトに参加することとなり、AIに置き換わられる人間は単なるワーカーとなる。そして、言うまでもなくそうした働き方に報酬は反映されていくこととなる。
ところでAIができない、苦手とすることもある。新井さんは著書「AI vs 教科書が読めない子どもたち」の中で、AI は「意味」も「感情」も理解できない。実はこの意味や感情をを考える、その道筋となる読解力が決定的に足りないと指摘している。こうした読解力、読みこなす能力は詰め込み教育、偏差値教育によるもので、こうした教育を受けた人間が大きな転換期に立たされているということだ。そして、AIの対極が「人間力」であるとも付け加えている。
実は労働集約型ビジネスにおいては調理器具を含めロボット化が進んでいると書いたが、面白いことに現場スタッフの能力を引き出す試みが行われていた。外食産業、24時間営業・・・・・一見ブラック企業ではと思われ合致であるが、富士そばの場合はホワイト企業として人気となっている。正規社員以外多くのバイトで店舗構成されているが、業績次第ではあるが、アルバイトにもボーナスが出る、そんな能力次第に沿った賃金体系となっている。この富士そばではAI(ロボット)」にとって代わることができない仕組みが用意されている。それは店独自のオリジナルメニューをつくって販売するシステムだ。通常であればそばとカレーライスのようなセットメニュ0が定番となっているが、私が注目したのはカツ丼とカレーライス半々のメニューであったが、私にとっては別々に食べたいというのが素直な感想であった。社員の発想やる気を引き出すことファ目的であるが、一番大切なことは現場における「考える力」「顧客の好みを読解する力」と言った方が絵あかりやすい。現場である以上「作業」は必要不可欠であるが、それに加えて「考える」こと、AIにはできないことにトライする仕組みである。
参院選も近いこともあるが、先進国の中で賃金上昇のできない唯一の国であることが一つの争点となっている。戦後の働き方として終身雇用制度と年功序列制度があるが、前者は高齢者も働く時代であり維持することが必要と思う。しかし、年功序列型の運営、賃金制度は改革すべきであろう。
確か1990,年代後半であったと思うが、経済企画庁長官であった堺屋太一さんは「生産年齢人口がマイナスに転じた」として大きな時代に転換期であると警鐘を鳴らしたことがあった。銀行や証券会社が破綻する時期もあって、マスコミをはじめほとんど注目されることはなかった。少子高齢社会の「入り口」でもあったが、今日の問題点のほとんどが解決されないまま今日に至っている。生産年齢人口とは「働き消費する人口」のことであり、分かりやすい「国力」の基礎となる物差しである。バブル崩壊の後始末に追われ政治家も官僚も平成時代の日本の展望を示すことができなかった。
今回敢えてAIという道具を借りて働き方の指針を書いたのも1998年当時と同じ転換期を迎えていると感じたからである。バブル崩壊以降グローバル経済下にあって唯一成果を上げられたのはインバウンド市場の5兆円である。ビザの緩和策がその入り口を作ったが、地方自治体、観光業者は航空便の便数を増やす要請や団体クルーズ船の誘致など、あるいは地方が持つ資源を掘り起こしたり。。。。。「考える力」を発揮したからであった。事業規模から言えば大企業ではなく、飲食業のような中小企業と同じ「考える力」によって可能となった。「考える力」とは私の言葉で言えば、マーケティング力のことであり、市場・顧客を読み解く力のことである。変化する顧客をアナログ手法であれ、AIを活用しても良し、そのことによって自ら変わる転換期にあるということだ。(続く)
タグ :人口減少
2022年06月12日
◆経営を技術と勘違いしてはならない
ヒット商品応援団日記No805毎週更新) 2022.6.12
スシローが昨年秋景表法のおとり広告を行なったとして消費者庁が改善のための措置命令が行われ話題となっている。どんな「おとり」なのかについては詳細が公開されているのでここではその審議についてはテーマにはしない。全国626店舗という最大手の寿司チェーンであるがコロナ禍においても成長を上げてきた。業界のリーダー、プライスリーダーが今年の秋から一皿100円(税抜き)」を改定し値上げするとのことでこのブログにも取り上げた。ところがうに、かにといった寿司ネタの中でも特に食べたい寿司ネタのキャッペーンであるが、「品切れごめん」との表示はあるものの、キャッペーンが始まっても「品切れ」、つまり初日から販売していない店が数店あったがその理由が不明であると発表している。
少し前に牛丼の最大手吉野家の常務が社会人セミナーで若い女性戦略として「生娘がシャブ(薬物)漬けになるような企画」と発言し、吉野家の常務を解任されたとして話題になった。解任された伊東正明氏はマーケティングのプロとのことだが、「何か」がかけていると言わざるを得ない。
企業は成長と共に組織は複雑化し肥大化していく。知恵やアイディアもまた「外部」に頼ることとなり、経営はどんどん「数字」となり、「現実」から離れていくこととなる。現実とは勿論のこと「顧客」のことである。
私が若い頃隣のチームが日本マクドナルドのマーケティングを担当していた。創業者である藤田田社長からの要請で「顧客実態」を把握するために、店頭で今までなかった注文をして欲しいとの依頼があった。私も応援として銀座4丁目のマクドナルドでビッグマックを頼み「マスタードをつけてね」とメニューにはないサービス注文をしたことがあった。今までそんなことをオーダーされた経験はなかったのであろうバックヤードの店長に・・・・・・そんな光景を思い出した。おそらく誰よりも店舗に行き厨房に入った社長であった。周知のように世界中のマクドナルドでいち早くローカルメニューを作ったのは日本である。そのメニューが「てりやきマックバーガー」で牛ではなくポークパティを醤油味にしたヒット商品である。
藤田社長が亡くなってから日本マクドナルドは迷走するのだが、その後カナダの社長であったサラ・カサノバ社長を迎いいれる。そして、カサノバ社長が始めたのは店舗周りと顧客との対話であった。ある意味で藤田社長と同じ「現場経営」によって立て直したということだ。
もう一つのエピソードが大手流通業のイオンである。かなり前になるが当時イオンの専務であった谷口氏と歓談する機会があり、創業者である岡田卓也氏の実像をお聞きすることがあった。当時のイオンの本部は千葉幕張のビルではなく東京昭和通りに面した古いビルの一室での懇談であったが、1990年大阪で行われた花博で事故が起きた直後で”岡田は急遽大阪に飛んで行きました”と谷口専務が話され”岡田は1年300日以上全国の店舗を回っています”とも。幸いなことに事故による怪我人はいなくて事なきを得たとのことであったが、常に現場の消費者に思いを寄せていたという。この店舗回りについては実姉である小嶋千鶴子氏も同様で主に人事面で現場経営をしていたと。当時のイオンは店舗単位の発注で「欠品」が
多く、その自主性は評価されてはいたが、問題もまたあった。経営の答えは社員が育っていなかったことが原因で、それらは経営者の責任であるとし、現場を責めるようなことは一切なかった。
スシローの値上げ予告の数日後、あのユニクロも秋冬物からメイン商品であるフリースやライトダウンジャケットなどを1000円値上げするとの発表があった。ユニクロについては何回か取り上げたことがあったが、これもカジュアルウエアのマーケっよリーダーであり、大きな影響を生むことからであった。服飾衣料分野で多くのブランドが苦戦する中で業績を伸ばしているブランドであるが、確か数年前まで広告のみならずチラシの文面にまで柳井社長は目を通していたと聞いている。GAPに追いつけ追い越せと世界を舞台にして活動するウユニクロであることから今はそうしたでディテ=ルにまで目を通すことはないと思うが、経営者が常に顧客がどんな消費を見せるか考えているということだ。スシローがキャンペーン商品の在庫がないにもかかわらず広告キャンペーンを中止しなかった事とは正反対の理解である。
売り物が魚介類ということから品切れでも許してもらえると経営判断していたとすれば、経営失格で必ず消費者からは見向きもされなくなる。
かなり前えになるが、ユニクロのフリースが爆発的に売れたあことがあった。その決算の記者会見で、記者から「同じような類似商品を着たくないという消費者もいると思うが」との質問に対し、柳井社長は「常に品質の良い工業製品を作っている」と答えていた。記者は「工業製品」という言葉尻を捉えて「ファッション商品ではないのかと」反論し、逆に話題になったことがあった。そうした背景からと思うが、数年前ユニクロのコンセプトが「ワークライフ」に変わった。ライフスタイルブランドを目指したのだが、その先にはそのブランドを作る社員にとっても同様で「ワークライフバランス」を目指すこととなる。結果として、社員の給与は勿論のこと、残業などまさにワークライフバランス」を目指し、2017年本社機能を東京有明のオフィスへと移転まで行うという改革を行ったことは周知の通りである。この「有明プロジェクト」は一言でいえば、売り切れる量と生産量を一致させることにあり、情報を軸にすべてのワークフローを見直して無駄を省けば働き方改革にもつながるという改革である。当時は賛否もあったが、成功したと言えるであろう。
コロナ禍も3年目を迎え、収束に向かいつつあるが、消費心理は悪性インフレもあって、多くのことに「敏感」になっている。1990年代セブンイレブンの創始者である鈴木敏文氏は「消費市場は心理化された」と発言していたが、その心理は想像以上に敏感に反応するようになっている。持続化給付金詐欺をはじめネット上には無有の「詐欺」あるいは「詐欺まがい事象」が溢れている。ある意味「ささくれだった心理」で触れば即座に反応する時代である。経営は技術であると勘違いするエセ経営者が出てきたように思えるが、こうした困難な時代こそ消費する生活者に覚悟を持って向かい合わなければならない。コロナによって傷んだ経営を立て直すには現場経営しかない。スシローも吉野家もそのことを教えてくれる「反面教師」である。(続く)
スシローが昨年秋景表法のおとり広告を行なったとして消費者庁が改善のための措置命令が行われ話題となっている。どんな「おとり」なのかについては詳細が公開されているのでここではその審議についてはテーマにはしない。全国626店舗という最大手の寿司チェーンであるがコロナ禍においても成長を上げてきた。業界のリーダー、プライスリーダーが今年の秋から一皿100円(税抜き)」を改定し値上げするとのことでこのブログにも取り上げた。ところがうに、かにといった寿司ネタの中でも特に食べたい寿司ネタのキャッペーンであるが、「品切れごめん」との表示はあるものの、キャッペーンが始まっても「品切れ」、つまり初日から販売していない店が数店あったがその理由が不明であると発表している。
少し前に牛丼の最大手吉野家の常務が社会人セミナーで若い女性戦略として「生娘がシャブ(薬物)漬けになるような企画」と発言し、吉野家の常務を解任されたとして話題になった。解任された伊東正明氏はマーケティングのプロとのことだが、「何か」がかけていると言わざるを得ない。
企業は成長と共に組織は複雑化し肥大化していく。知恵やアイディアもまた「外部」に頼ることとなり、経営はどんどん「数字」となり、「現実」から離れていくこととなる。現実とは勿論のこと「顧客」のことである。
私が若い頃隣のチームが日本マクドナルドのマーケティングを担当していた。創業者である藤田田社長からの要請で「顧客実態」を把握するために、店頭で今までなかった注文をして欲しいとの依頼があった。私も応援として銀座4丁目のマクドナルドでビッグマックを頼み「マスタードをつけてね」とメニューにはないサービス注文をしたことがあった。今までそんなことをオーダーされた経験はなかったのであろうバックヤードの店長に・・・・・・そんな光景を思い出した。おそらく誰よりも店舗に行き厨房に入った社長であった。周知のように世界中のマクドナルドでいち早くローカルメニューを作ったのは日本である。そのメニューが「てりやきマックバーガー」で牛ではなくポークパティを醤油味にしたヒット商品である。
藤田社長が亡くなってから日本マクドナルドは迷走するのだが、その後カナダの社長であったサラ・カサノバ社長を迎いいれる。そして、カサノバ社長が始めたのは店舗周りと顧客との対話であった。ある意味で藤田社長と同じ「現場経営」によって立て直したということだ。
もう一つのエピソードが大手流通業のイオンである。かなり前になるが当時イオンの専務であった谷口氏と歓談する機会があり、創業者である岡田卓也氏の実像をお聞きすることがあった。当時のイオンの本部は千葉幕張のビルではなく東京昭和通りに面した古いビルの一室での懇談であったが、1990年大阪で行われた花博で事故が起きた直後で”岡田は急遽大阪に飛んで行きました”と谷口専務が話され”岡田は1年300日以上全国の店舗を回っています”とも。幸いなことに事故による怪我人はいなくて事なきを得たとのことであったが、常に現場の消費者に思いを寄せていたという。この店舗回りについては実姉である小嶋千鶴子氏も同様で主に人事面で現場経営をしていたと。当時のイオンは店舗単位の発注で「欠品」が
多く、その自主性は評価されてはいたが、問題もまたあった。経営の答えは社員が育っていなかったことが原因で、それらは経営者の責任であるとし、現場を責めるようなことは一切なかった。
スシローの値上げ予告の数日後、あのユニクロも秋冬物からメイン商品であるフリースやライトダウンジャケットなどを1000円値上げするとの発表があった。ユニクロについては何回か取り上げたことがあったが、これもカジュアルウエアのマーケっよリーダーであり、大きな影響を生むことからであった。服飾衣料分野で多くのブランドが苦戦する中で業績を伸ばしているブランドであるが、確か数年前まで広告のみならずチラシの文面にまで柳井社長は目を通していたと聞いている。GAPに追いつけ追い越せと世界を舞台にして活動するウユニクロであることから今はそうしたでディテ=ルにまで目を通すことはないと思うが、経営者が常に顧客がどんな消費を見せるか考えているということだ。スシローがキャンペーン商品の在庫がないにもかかわらず広告キャンペーンを中止しなかった事とは正反対の理解である。
売り物が魚介類ということから品切れでも許してもらえると経営判断していたとすれば、経営失格で必ず消費者からは見向きもされなくなる。
かなり前えになるが、ユニクロのフリースが爆発的に売れたあことがあった。その決算の記者会見で、記者から「同じような類似商品を着たくないという消費者もいると思うが」との質問に対し、柳井社長は「常に品質の良い工業製品を作っている」と答えていた。記者は「工業製品」という言葉尻を捉えて「ファッション商品ではないのかと」反論し、逆に話題になったことがあった。そうした背景からと思うが、数年前ユニクロのコンセプトが「ワークライフ」に変わった。ライフスタイルブランドを目指したのだが、その先にはそのブランドを作る社員にとっても同様で「ワークライフバランス」を目指すこととなる。結果として、社員の給与は勿論のこと、残業などまさにワークライフバランス」を目指し、2017年本社機能を東京有明のオフィスへと移転まで行うという改革を行ったことは周知の通りである。この「有明プロジェクト」は一言でいえば、売り切れる量と生産量を一致させることにあり、情報を軸にすべてのワークフローを見直して無駄を省けば働き方改革にもつながるという改革である。当時は賛否もあったが、成功したと言えるであろう。
コロナ禍も3年目を迎え、収束に向かいつつあるが、消費心理は悪性インフレもあって、多くのことに「敏感」になっている。1990年代セブンイレブンの創始者である鈴木敏文氏は「消費市場は心理化された」と発言していたが、その心理は想像以上に敏感に反応するようになっている。持続化給付金詐欺をはじめネット上には無有の「詐欺」あるいは「詐欺まがい事象」が溢れている。ある意味「ささくれだった心理」で触れば即座に反応する時代である。経営は技術であると勘違いするエセ経営者が出てきたように思えるが、こうした困難な時代こそ消費する生活者に覚悟を持って向かい合わなければならない。コロナによって傷んだ経営を立て直すには現場経営しかない。スシローも吉野家もそのことを教えてくれる「反面教師」である。(続く)
タグ :スシロー
2022年06月08日
◆夢中になれない時代
ヒット商品応援団日記No804毎週更新) 2022.6.8
持続化給付金詐欺が相次いでいる。経産省のキャリア官僚から始まり、組織だった詐欺まで各々異なるが、共通していることの一つが「若い世代」によるもので、個人事業主を対象とした申請者として名義貸しをした主に学生が多く、給付金詐欺の特徴の一つとなっている。特に巧妙なのが給付された100万円の内手数料20万円を除いた80万円を暗号資産への投資をするという誘い文句あったと報道されている。
実は令和の時代はどんな時代なのかを鮮明にするために未来塾で「昭和」の時代の価値観の比較をしてきた。その中で「新しい「生き方」が生まれた」価値観の一つとしてとして次のように書いたことがあった。
『もう一つの人生が『FIRE』と呼ばれるグループである。FIREというのは文字通りFinancial Independence『経済的自立』とRetire Early『早期退職』の造語である。株高を背景に『FIRE』は裾野を広げており、企業・仕事に縛られることなく、自由なライフスタイルを楽しむ、そんな生き方である。若い世代の価値観について貯蓄好きな合理主義者であるとブログにも書いてきたが、コロナ禍によって生まれた進化系で、その代表的な世代がミレニアム世代である。ミレニアル世代は、1980年から1995年の間に生まれた世代と定義されている。現在25歳から40歳を迎える世代で、以前日経新聞が「under30」と呼び、草食世代と揶揄された世代のことである。ちなみに消費において注目されているZET世代はミレニアム世代の下の世代である』
実はこのコロナ禍において静かに進行していたものの一つに暗号資産の法整備があった。銀行に預けても利息がない時代が長く続き誰もが金融に関する価値観が変わり始めていた。当時は仮想通貨と呼んでいた通貨は暗号資産へと変わった。今や7000種類以上の通貨が存在している。その通貨の特徴は少額から購入できる。こうしたことから初心者でも始めやすく、分散投資効果を高めるのに格好な通貨へと生まれ変わった。
暗号資産投資は、1,000円ほどの少額から購入できます。始める際の敷居が低く毎月のお小遣いの範囲で投資も可能なので、気負わず資産運用を始めることができ若い世代に急速に進行してきた。2021年2月、アメリカの電気自動車メーカー・テスラが、暗号資産・ビットコインを15億ドル(約1,600億円)購入。さらに、近い将来ビットコインをテスラ車購入の決済手段とする考えを明らかにして話題を集めた。つまり、投機ではなく「投資」へと大きな価値観変化が生まれていたということだ。
暗号資産運用のセミナーは至る所で行われ、資産形成の一つの方法となったが、今回の詐欺事件の特徴としてこうした投資セミナー開催の名を借りた給付金申請への勧誘を行っていたことは偶然ではない。年金をもらえない世代とも言われる若い世代にとって新たな資産形成は重要なものになったとしても不思議ではない。その発想の先にFIREがある。暗号資産の運用は「個人事業」という言葉に疑いも持たずに進んでしまう。
今回の詐欺事件の勧誘に使われたものの一つがSNSである。家族で詐欺行為をしたグループもいたが、勧誘を組織的に行ったグループの多くはSNSで、人から人へと勧誘の輪が広げたるという訳である。
ここ2回ほど「昭和」をテーマにブログを描いてきたが、令和と昭和の違い、価値観の違いはなんであるかと言えば「夢」が持てる時代であるかどうかとなる。夢中になれたかどうかと言っても構わない。少し前の未来塾で昭和の町工場、べンチャー企業であった自動車のホンダには「夢」が脈々と継承されている。ある意味「生き方」「生き様」の継承で、お金のない時代にあって本田宗一郎はまだ創業8年バイクの販売で急成長している時のインタビューで次のように答えていた。
「乏しい金を有効に活かすためには、まず何より、時を稼ぐこと」「うちのセールスマンは、給料を出さないお客さんなんです。このセールスマンを育てるには、品物を育てなければならぬということです」「エンジン屋はエンジンばかり、オートバイ屋だからおまえはオートバイしかできないというような考え方が、そもそも間違っているんだ」と。(「東洋経済新報」1954年11月13日号より)
社員を愛し、社員の可能性考え、一緒に油まみれになってオートバイをつくるとは夢の共有であったということである。まさに本田宗一郎らしい発想である。この時代問われているのは若い世代の生き方ではなく、所属する組織のリーダーに夢があるかである。持続化給付金詐欺事件は氷山の一角で、海面下には夢が持てない、夢中になれない時代あが広がっているっということであろう。
持続化給付金は約5.5兆円支給されている。少なくとも運転資金で困っていた個人事業主を助けることができた。そして、その多くは夢を追いかけることができたということである。新型コロナウイルスは収束に向かいつつあり、事業の再生へと向かわなければならない時期である。前回のブログで既に悪性インフレが始まっていると描いた。家計調査の4月度の数字が公開されたが、勤労世帯の収入は前年同月比実質 3.5%の減少。消費支出も前年同月比 実質 1.7%の減少 とのこと。 前回のブログで「悪性インフレ始まる」と書いたが、4月の家計調査の数字がそれをよく表している。日銀の黒田東彦総裁は、6日の講演で「家計の値上げ許容度も高まってきている」という見解を示したが生活者は許容などしていない。それどころか真逆で事業者も生活者も耐えているのが現実である。悪性インフレ解決には賃上げしかないが、その前にやるべきは「夢」を語り合うことだ。(続く)
持続化給付金詐欺が相次いでいる。経産省のキャリア官僚から始まり、組織だった詐欺まで各々異なるが、共通していることの一つが「若い世代」によるもので、個人事業主を対象とした申請者として名義貸しをした主に学生が多く、給付金詐欺の特徴の一つとなっている。特に巧妙なのが給付された100万円の内手数料20万円を除いた80万円を暗号資産への投資をするという誘い文句あったと報道されている。
実は令和の時代はどんな時代なのかを鮮明にするために未来塾で「昭和」の時代の価値観の比較をしてきた。その中で「新しい「生き方」が生まれた」価値観の一つとしてとして次のように書いたことがあった。
『もう一つの人生が『FIRE』と呼ばれるグループである。FIREというのは文字通りFinancial Independence『経済的自立』とRetire Early『早期退職』の造語である。株高を背景に『FIRE』は裾野を広げており、企業・仕事に縛られることなく、自由なライフスタイルを楽しむ、そんな生き方である。若い世代の価値観について貯蓄好きな合理主義者であるとブログにも書いてきたが、コロナ禍によって生まれた進化系で、その代表的な世代がミレニアム世代である。ミレニアル世代は、1980年から1995年の間に生まれた世代と定義されている。現在25歳から40歳を迎える世代で、以前日経新聞が「under30」と呼び、草食世代と揶揄された世代のことである。ちなみに消費において注目されているZET世代はミレニアム世代の下の世代である』
実はこのコロナ禍において静かに進行していたものの一つに暗号資産の法整備があった。銀行に預けても利息がない時代が長く続き誰もが金融に関する価値観が変わり始めていた。当時は仮想通貨と呼んでいた通貨は暗号資産へと変わった。今や7000種類以上の通貨が存在している。その通貨の特徴は少額から購入できる。こうしたことから初心者でも始めやすく、分散投資効果を高めるのに格好な通貨へと生まれ変わった。
暗号資産投資は、1,000円ほどの少額から購入できます。始める際の敷居が低く毎月のお小遣いの範囲で投資も可能なので、気負わず資産運用を始めることができ若い世代に急速に進行してきた。2021年2月、アメリカの電気自動車メーカー・テスラが、暗号資産・ビットコインを15億ドル(約1,600億円)購入。さらに、近い将来ビットコインをテスラ車購入の決済手段とする考えを明らかにして話題を集めた。つまり、投機ではなく「投資」へと大きな価値観変化が生まれていたということだ。
暗号資産運用のセミナーは至る所で行われ、資産形成の一つの方法となったが、今回の詐欺事件の特徴としてこうした投資セミナー開催の名を借りた給付金申請への勧誘を行っていたことは偶然ではない。年金をもらえない世代とも言われる若い世代にとって新たな資産形成は重要なものになったとしても不思議ではない。その発想の先にFIREがある。暗号資産の運用は「個人事業」という言葉に疑いも持たずに進んでしまう。
今回の詐欺事件の勧誘に使われたものの一つがSNSである。家族で詐欺行為をしたグループもいたが、勧誘を組織的に行ったグループの多くはSNSで、人から人へと勧誘の輪が広げたるという訳である。
ここ2回ほど「昭和」をテーマにブログを描いてきたが、令和と昭和の違い、価値観の違いはなんであるかと言えば「夢」が持てる時代であるかどうかとなる。夢中になれたかどうかと言っても構わない。少し前の未来塾で昭和の町工場、べンチャー企業であった自動車のホンダには「夢」が脈々と継承されている。ある意味「生き方」「生き様」の継承で、お金のない時代にあって本田宗一郎はまだ創業8年バイクの販売で急成長している時のインタビューで次のように答えていた。
「乏しい金を有効に活かすためには、まず何より、時を稼ぐこと」「うちのセールスマンは、給料を出さないお客さんなんです。このセールスマンを育てるには、品物を育てなければならぬということです」「エンジン屋はエンジンばかり、オートバイ屋だからおまえはオートバイしかできないというような考え方が、そもそも間違っているんだ」と。(「東洋経済新報」1954年11月13日号より)
社員を愛し、社員の可能性考え、一緒に油まみれになってオートバイをつくるとは夢の共有であったということである。まさに本田宗一郎らしい発想である。この時代問われているのは若い世代の生き方ではなく、所属する組織のリーダーに夢があるかである。持続化給付金詐欺事件は氷山の一角で、海面下には夢が持てない、夢中になれない時代あが広がっているっということであろう。
持続化給付金は約5.5兆円支給されている。少なくとも運転資金で困っていた個人事業主を助けることができた。そして、その多くは夢を追いかけることができたということである。新型コロナウイルスは収束に向かいつつあり、事業の再生へと向かわなければならない時期である。前回のブログで既に悪性インフレが始まっていると描いた。家計調査の4月度の数字が公開されたが、勤労世帯の収入は前年同月比実質 3.5%の減少。消費支出も前年同月比 実質 1.7%の減少 とのこと。 前回のブログで「悪性インフレ始まる」と書いたが、4月の家計調査の数字がそれをよく表している。日銀の黒田東彦総裁は、6日の講演で「家計の値上げ許容度も高まってきている」という見解を示したが生活者は許容などしていない。それどころか真逆で事業者も生活者も耐えているのが現実である。悪性インフレ解決には賃上げしかないが、その前にやるべきは「夢」を語り合うことだ。(続く)
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