2024年04月07日

◆マーケティングノート(2)後半

ヒット商品応援団日記No820(毎週更新) 2024.4,7.


マーケティングノート(2)後半



街と共にある駅、その商業施設

「街と共にある駅」とは至極当たり前のことのように考えてしまうが、街の未来を生活者住民、商業者も行政も多くの力を借りて共に取り組んでいくということでもある。大船ルミネウイングも東口の再開発の中から生まれリニューアルしたように未来へ向けた変化の中心にはその多くに「駅」がある。
今都心の千代田区議会で秋葉原の再開発が議論されているが、秋葉原、いやアキバはその街の歴史・生業をものの見事に映し出した街である。現在のJR秋葉原北口一帯はその昔は神田青果市場であった。また、駅西口南側には「電気街」という表示が示すように戦後ラジオなどの電気部品などを販売する商店が雑居する街でもあった。
神田青果市場の歴史は古く江戸時代からの神田須田町にあった市場であったが、、1928年に秋葉原北口一帯に移転したが、更には1991年には現在の北口一帯の高層ビル群へと再開発によって変貌する。そして周知のように神田青果市場は大田区へと移転する。
こうした再開発は2001年秋葉原北口の神田青果市場の跡地を中心とした東京都によるITをテーマとした再開発事業が始まる。事業の正式名称は「AKIHABARA CROSSFIELD(アキハバラ クロスフィールド)」。名称の由来について、「様々な専門領域の人や情報が集うとともに、これらがクロスして切磋琢磨することで、ITを活用した次世代のビジネスを創造する場になることを目指した」と説明している。
JR秋葉原駅駅北口の超高層ビルUDXビルである。先端IT企業の誘致にふさわしく日本の大手企業であるNTTグループや新日鐵住金グルーパや日立グループといった企業が多数入居している。ところで、秋葉原は千代田区の中心となるエリアであるが、昼間人口・就業者数は約72.5万人、夜間人口はわずか4.7万人といういわばオフィスと商業街という「昼の街」である。
こうした再開発から外れた場所も駅周辺にはある。再開発が持つ一つの特徴であるが、まさに秋葉原駅北側の近代的な高層ビル群とは正反対の猥雑な街並が駅西側及び南側に広がっている。周知の電子部品や電気製品のパーツ、半導体、こうした電機関連商品を販売している専門店街。あるいはオタクの聖地と呼ばれるように、コミック、アニメ、フィギュアといった小さな専門店。数年前話題となったメイド喫茶も、こうしたごみごみとした一種猥雑な街並に溶け込んでいる。まるで地下都市であるかのように、ロースタイルと言ったら怒られるが定番のリュックサックを背負ったオタクやマニア、あるいは学生が行き交う街である。一方、駅北側の超高層ビルの1階にはオシャレなオープンカフェのあるキレイな街並が作られている。そんな異なる2つのエリアを比較してみると以下のように整理することができる。

駅北口エリア                                           駅西側エリア
○超高層ビル群/地球都市                    ●アンダーグランド/地下都市
○IT先端企業、ソフト開発企業                ●電子部品、電気製品パーツ、半導体
○大型家電量販店/ヨドバシ                 ●電子部品販売中小零細街
○エリートサラリーマン・OL                     ●オタク、学生・フリーター・マニア
○オープンカフェ/風景                        ●メイド喫茶/風俗
○最先端技術/デジタル世界                ●漫画、アニメ、フィギュア/アナログ世界
○エスニック料理                                  ●おでん缶詰の自販機

秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使って対比させてみた。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質な欲望が交差する街、実はそれが秋葉原の魅力である。

マーケティングノート(2)後半



こうした異空間が交差する街は再開発によって起こる現象であり、例えば新宿西口の開発されたビル群との間JR硬貨横の思い出横町、吉祥寺駅北口の商業施設街とハモニカ横町、・・・・・こうした「今」と「昭和」が交差する場所は東京では当たり前の光景となっている。面白いのは「今」という再開発から外れた場所はどんな生き方があるのか、その典型的な場所が谷根千(谷中、千田き、根津)という戦災を免れた上野裏の地域で「昭和レトロ」をコンセプトにした観光地化である。

マーケティングノート(2)後半



ところでこうした先端技術を駆使したIT関連企業と共に、戦後間もない頃のITと言えば、それはラジオであった。同じ電気製品といっても前者をデジタルとすれば後者はアナログである。JR秋葉原駅の西側高架下は電気街口となっており、今なおそうしたパーツなどのアナログ製品が所狭しと販売されている。
しかし、昨年11月末そうした部品商店街の一つである「秋葉原ラジオストアー」が閉館した。JR秋葉原駅に隣接し、電機パーツ・機器ショップが多く入居する秋葉原の顔の1つであったが、「1つの時代の役割を終える事にいたしました」と64年の歴史に幕を下ろした。その役割を終えたとは、日本の家電メーカーの衰退と共に、そうした電気パーツなどはネット通販で購入することが多くなり、皮肉にも同じIT技術によって幕が引かれたということである。それでもなお、秋葉原電気街はマニアックな技術系オタクの聖地であることには変わりはない。

秋葉原がアキバと呼ばれオタクの街として発展したもう一つの「出来事」がある。2005年アキバオタクから生まれたのがAKB48であった。秋葉原北口から数分歩いたところにある雑居ビルのドンキ・ホーテが入る8階に専用劇場を設け、「会いにいけるアイドル」というコンセプトをもってスタートする。アイドルはあこがれの存在で遠くで応援するのが従来のフアンであった。こうした「既成」とは異なるところからスタートするのだが、最初の公演の観客はわずか72人でその内ほとんどが関係者であったと言われている。結果、2008年頃まではアキバオタクのアイドルと冷笑され、そのフアンスタイルの特異性や過剰さばかりがマスメディアを通じて報道されていた。

秋葉原、アキバにはサブカルチャーを生み出す街、オタクにとってその過激なこだわりを満足させる「何か」が存在していた。そのオタクの街を大きく転換させたのがAKB48であった。
数年前まで誰も見向きもしなかった、冷笑すらされたAKB48は次第にブレークしていく。卒業した前田敦子を見てもわかるが、「会いに行けるアイドル」という、どこにでも居そうな身近でかわいい少女はオタク達が創った日常リアルなアイドル物語と言えよう。そして、日本ばかりでなく世界各国にAKB48同様のチームが誕生している。

バブル崩壊は純文学といった既成文化の崩壊を進めたが、アニメや漫画といったサブカルチャーはアキバの地でオタクたちによって育てられ今や一大産業となった。コロナ禍を終え訪日観光客が85%まで回復したと言われているが、観光先が地方や横町露地歌の日本交友の生活文化体験へと変化して入るが、サブカルチャーの聖地である秋葉原を訪れるアニメオタクは多い。
十数年前までは日本の食文化の代表的なものは寿司やすき焼きであったが、勿論今なお訪日外国人にとって人気はあるが、今やラーメンが中心となり、コンビニのおにぎりに至る日常食が抗日外国人の目的の一つとなっている。こうした広がりはアニメや漫画のサブカルと同じようにクールジャパン、クールフーズとなっている。それは訪日観光客の変化、回数化が進み日本の生活文化、日常生活への興味関心が進化し、当然その傾向は地方へと広がる。その広がり進化を促進させているのがいうまでもなくSNSによるものである。

「失われた30年」と言われるが、確かに失ったものは多くあるが、残ったもの、いや新たに生まれたものもあった。日本アニメ、漫画、AKB48それら全て「サブ」であり、極々一部、の指示された世界、それは「既成」から外れたもの、一見非合理に見えるもの、「オタク」によって生み出されたものだ。
以前ブログにバブル崩壊の時代の「消費」について、次のように書いたことがあった。

『1980年代を「特異な時代」としたのは、その後の消費における新しい、面白い、珍しい商品やサービスが数多く市場に誕生してきたことにある。江戸時代との比較でいうと、江戸っ子の心を掴むキーワードは「珍」「奇」「怪」で、珍しい、奇をてらった、秘密めいた怪しげなものに惹かれた。例えば、天ぷらであれば上方では魚のすり身を揚げていたが、江戸では切り身に衣をつけて揚げる。寿司で言えば、時間のかかる押し寿司ではなく、酢飯にネタを握って素早く食べるように。似て非なるものを創ったのである。
 
江戸の場合は上方をモデルに「珍」「奇」「怪」という工夫・アイディアを付与し創造したのに対し、バブル期は欧米のメニュー業態をモデルに日本的な業態に変えていったということである。例えば、日本マクドナルドの成長についても日本版マクドナルドであり、1980年代半ばマクドナルドのハンバーガーにはミミズが入っているという「噂」を根本から否定するために、それまでの米国レシピから「100%ビーフ」に変更した。日本マクドナルドというより創業者の意向が強く反映した「藤田マクドナルド」であった。
あるいはダスキンが行なっているミスタードーナツの場合も、米国との契約上レシピ変更は不可であったが、確か1980年代契約を変更し、日本独自のメニューが可能となった。その本格的な独自メニューが1992年の新商品「飲茶」で、後に大ヒットとなるポン・デ・リングに繋がる。
つまり、ある意味今までの既成メニューとは全く異なる「商品」が生まれたという点にある。こうした例は米国生まれのコンビニ・セブンイレブンも同様で、米国のメニューや業態とは全く異なる日本独自の小売業を確立したのも1980年~1990年代であった。江戸時代から続いてきた異なる地域・文化の取り入れ方の工夫ではなく、全く発想の異なる今まで無かった「新」が生まれた点にある。
 
その理由は何であったか、それはあらゆる面で「自由」であったということである。過去にとらわれない「自由」、冒険ができる「自由」、とことん面白がれる「自由」、目標という前もった成果からの「自由」、サントリーの創業精神「やってみなはれ」もそうした自由な企業風土から生まれたものだ。そうした風土に触発されて「自由」を自覚することもあるが、その基本は多くの「しがらみ」を自ら解き放つことによって得られる実感である。勿論、そのことによって生まれる困難さや失敗を含めてであるが。
一方、受け手である生活者・消費者においては、壁を作らない「自由」、性別・年齢という壁を超えた「自由」、価格からの「自由」(安くても好きであればいいじゃないか)、こうした自由な選択肢があった時代である。今や当たり前となったセレクトショップも団塊ジュニアが作ったものだが、中国製でも気に入ればそれでいいじゃないかという「自由」が生まれていた。
 
バブルから学ぶこと・・・・・・「自由」であった時代
 
1980年代を「特異な時代」としたのは、その後の消費における新しい、面白い、珍しい商品やサービスが数多く市場に誕生してきたことにある。江戸時代との比較でいうと、江戸っ子の心を掴むキーワードは「珍」「奇」「怪」で、珍しい、奇をてらった、秘密めいた怪しげなものに惹かれた。例えば、天ぷらであれば上方では魚のすり身を揚げていたが、江戸では切り身に衣をつけて揚げる。寿司で言えば、時間のかかる押し寿司ではなく、酢飯にネタを握って素早く食べるように。似て非なるものを創ったのである。
 
江戸の場合は上方をモデルに「珍」「奇」「怪」という工夫・アイディアを付与し創造したのに対し、バブル期は欧米のメニュー業態をモデルに日本的な業態に変えていったということである。例えば、日本マクドナルドの成長についても日本版マクドナルドであり、1980年代半ばマクドナルドのハンバーガーにはミミズが入っているという「噂」を根本から否定するために、それまでの米国レシピから「100%ビーフ」に変更した。日本マクドナルドというより創業者の意向が強く反映した「藤田マクドナルド」であった。
あるいはダスキンが行なっているミスタードーナツの場合も、米国との契約上レシピ変更は不可であったが、確か1980年代契約を変更し、日本独自のメニューが可能となった。その本格的な独自メニューが1992年の新商品「飲茶」で、後に大ヒットとなるポン・デ・リングに繋がる。
つまり、ある意味今までの既成メニューとは全く異なる「商品」が生まれたという点にある。こうした例は米国生まれのコンビニ・セブンイレブンも同様で、米国のメニューや業態とは全く異なる日本独自の小売業を確立したのも1980年~1990年代であった。江戸時代から続いてきた異なる地域・文化の取り入れ方の工夫ではなく、全く発想の異なる今まで無かった「新」が生まれた点にある。
 
その理由は何であったか、それはあらゆる面で「自由」であったということである。過去にとらわれない「自由」、冒険ができる「自由」、とことん面白がれる「自由」、目標という前もった成果からの「自由」、サントリーの創業精神「やってみなはれ」もそうした自由な企業風土から生まれたものだ。そうした風土に触発されて「自由」を自覚することもあるが、その基本は多くの「しがらみ」を自ら解き放つことによって得られる実感である。勿論、そのことによって生まれる困難さや失敗を含めてであるが。
一方、受け手である生活者・消費者においては、壁を作らない「自由」、性別・年齢という壁を超えた「自由」、価格からの「自由」(安くても好きであればいいじゃないか)、こうした自由な選択肢があった時代である。今や当たり前となったセレクトショップも団塊ジュニアが作ったものだが、中国製でも気に入ればそれでいいじゃないかという「自由」が生まれていた。
 
「自由」を面白がる時代へ
 
こうした「自由さ」は戦前の価値観からの解放と共に、映画「Always三丁目の夕日」に描かれていたように「豊かではなかったが、そこには夢や希望があった」、そんな夢や希望を持ち得たのが昭和という時代であった。そこには夢や希望を追いかける「自由」が横溢していた時代のことでもあった。企業も個人も、何事かを生み出す「創業」時代であったということだ。平成の時代になり、特に2000年代になり盛んにベンチャーが叫ばれてきたが、ほとんど結果は得られてはいない。数年前から、ベンチャーキャピタルのいくつかのフアンドによる試みが始まっているが、社会を動かす潮流には程遠い。
ところで「自由」というと勝手気儘なことのように思いがちであるが、実は真逆の世界である。結果は誰でもない自分自身に返ってくるもので、だから面白いと思える人によってのみ「自由」はある。
江戸元禄の世を「浮世」と呼んでいるが、実は自己責任は明確にあった。平和な江戸時代には五街道が整備され、一定の制限はあるもののお伊勢参りのように旅行が盛んであった。その際必要となったのが通行手形で居住する大家(町役人・村役人)に申請し発行してもらう仕組みであった。今日のパスポートと同じようなものだが、手形に書いてあるのが「旅先で死んでもあり合わせのところに埋めてください」「亡骸は送り戻す必要はありません」といった主旨の一文が記載されていた。つまり、生きるも死ぬも自分の判断、他人のせいにしない」ということが理解されていた社会であった。
 
こうした自由を面白がれるには、周囲も、社会も、時代も「前」「未来」に向いていることが必要であった。しかし、バブル崩壊後の30数年、多くの神話崩壊と共に企業・個人にのしかかる「不安」、広く社会に広がる「不安」を前に「自由」になれる環境には程遠かった。一言で言えば、繰り返し言われていることだが「将来不安」ということになる。消費を含めた心が向かう先は「内側」ということになる。しかも、「過去」へと遡る傾向を強めていく心理市場については過去何度となく書いているのでここでは省略する。
 
また、このブログでも繰り返し書いてきている家計調査報告を踏まえると、勤労者世帯収入が増えないばかりか、リーマンショック以降社会保険料が増え、手取り給与(可処分所得)は減るだけでなく、企業側も半分負担していることからその負担も大きい。「自由」を面白がる環境条件が更に満たされなくなってきている。これが将来不安に直接繋がり、雇用形態も非正規雇用が4割を超えた。
 
ただ昨年夏以降、ユニクロ柳井社長の言葉ではないが、「デフレもまた良いものではないか」という発言に見られるように、企業も、生活者も自ら「デフレ的なるもの」の世界観からは既に脱却している。そうしたことを踏まえデフレは日常化し、死語になったとブログにも書いた。バブル崩壊によって生まれた個々の「不安」は勿論残ってはいるものの、昭和と平成の世代比較において考えるならば、バブル崩壊という「不安」視座から「消費」を見れば、昭和世代は崩壊経験もあり「リアルなものとしての不安」であり、平成世代のそれは「漠とした不安」である。昭和世代にとっての不安は具体的であり解決もまた可能である。しかし、平成世代の方が不確かであるが故に問題は深刻であるということだ。
ただ、「自由」という視座を持って考えるとすれば、国や社会といった大きな単位における制度や環境作りではなく、もっと小さな単位、家庭やコミュニティ、あるいは企業の部署単位や団体単位で「自由」に取り組むことは可能である。
 
既成から「自由」である企業がどんな成果を上げてきたか、例えば非常識経営と言われた岐阜にある電気設備資材メーカーである未来工業があり、最近ではブログにも取り上げた24時間営業の立ち食いそば「富士そば」もある。両社共に「人」を大切に考えた経営者による企業であり、従業員もそれに応えた企業である。未来工業においては社員から様々なアイディアを募集し商品開発や作業改善に役立てている。富士そばにおいても店独自のメニュー開発を促進し、一味違う店作りを行なっている。どちらも社員の自由な創意工夫が経営に大きく貢献し、勿論その成果配分は言うまでもない。そんな経営の仕組みを持った企業である。
今回はバブルのマイナス面ばかりが指摘されてきた20数年であったことに対し。敢えて「バブル期に生まれた<新しさ>」の背景に「自由」があったということに着眼した。「失われた30年」という言葉で、ビジネスもマーケティングにおいても全てを切り捨ててきたが、1980年という特異な時代を読み解いていくと、そこにこれから「先」の着眼も見えてきたように思える。発想を変えてコトに向かう、これもまた「自由」のなせる技である。

世代論は好きではないが、多くの専門家は指摘するようにその消費のユニークさからZ世代に注目が集まっている。それはバブル崩壊の「意味」から離れたところに生活しているからに他ならない。新しいデジタル機器を使いこなし、団塊世代が育った時代社会、つまり昭和レトロに興味を持ち、その新しさをいとも簡単位取り入れる軽やか消費など、その上の世代が「離れ世代」と呼ばれた現象とは正反対である。
本年度のアカデミー賞で、日本の作品として初めて視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」。受賞した山崎貴監督(白組)はあの「Always三丁目の夕日」のCGを監督した人物で、今回の「ゴジラ-1.0」はZ世代が中心となって制作したように、この世代が消費のみならずビジネスにおいても表舞台へと出てきた。規制から「自由」な世代として期待される意味がよくわかる気がする。過剰な情報時代にも「倍速」という方法で乗り越える軽やか世代で有る。(続く)



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Posted by ヒット商品応援団 at 13:01│Comments(0)新市場創造
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