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2007年01月31日

◆浮世の時代  

ヒット商品応援団日記No136(毎週2回更新)  2007.1.31.

江戸時代、庶民のライフスタイル全般を表した言葉が「浮世」である。今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。そこで、江戸時代の生活価値観、人生観を表すキーワードの背景を探ってみたい。

江戸は初期40万人ほどの人口であったが、次第にふくれあがり最終的には100万人〜120万人の世界都市となっていく。幕府は「人返し令」をつくり、江戸への流入を押さえようとするが、疲弊した地方からの流入をとどめることはなかった。人、モノ、金、情報、が江戸に集中し、地方の人間にとって魅力的であったと思う。今日の格差社会どころではなかった。この時代のライフスタイル変化の最大のものはなんと言っても、一日の食事回数が2回から3回になったことだと思う。当時は火事が多く、1日3回の食事をしないと力がでなかったためと言われているが、定かな研究をまだ目にしてはいない。恐らく、商工業も発達し経済的豊かさも反映していたと思う。その食事回数の増加を促したのが庶民にとっては屋台や行商であった。新たな業態によって新たな市場が生まれた良き事例である。この屋台から今日の寿司や蕎麦などが進化していく。いわゆる今日のファーストフーズである。江戸時代こうした外食が流行ったのも今日とよく似ている点がある。大雑把に言うと、江戸の人口の半分は武士で単身赴任が多く、庶民も核家族化が進み、独居老人も多かったという背景があった。今日で言うところの個人化社会である。「夜鳴きそば」という言葉がまだ残っているように屋台や小料理屋は24時間化し、更には食のエンターテイメント化が進み、大食いコンテストなんかも行われていたようだ。つまり、必要に迫られた食から、楽しむ食への転換である。その良き事例が「初鰹」で”初物を食べると75日寿命がのびる”という言い伝えから、「旬」が身体に良いとの生活風習は江戸時代から始まったようである。上物の初鰹には現在の価値でいうと20〜30万もの大金を投じたと言われている。こうした初物人気を懸念して幕府は「初物禁止令」を出すほどであった。料理本も200種類ほど出されており、今なお知られているのが「豆腐百珍」で、その後も「大根百珍」「卵百珍」という具合に料理もゲーム感覚となっていく。寿司に必要なさかなを江戸前と言って東京湾の小魚をネタにしていたが、常時食べられるようにいけすで魚を飼っていたという資料も残されている。今日でいうところの活魚である。江戸の後期には「冬場の焼き大福」「夏の冷水」「既に切ってあるごぼうや冬瓜」といった物にサービスを付加したものが売られ、幕府はこうした自由で便利になりすぎたとして規制するまでになったと言われている。

さて、1603年に江戸に幕府が置かれ、264年続く江戸時代を食を中心に見て来たが、今日の東京の戦後60数年の都市の生成過程と酷似していることに気づかれたと思う。経済的な豊かさを背景に、質素であった食は2食から3食へ、必要に迫られた食からエンターテイメントの食へ、自然時間に沿ったライフスタイルも深夜化、24時間化していき、更にはモノ価値から高度なサービス価値の創造へと進化してゆく。1700年代初頭は戦国の世から100年近くを経過し、心理的にも豊かな時代に向かっていた時代である。その象徴が旅でお伊勢参りがブームになっていく。こうした経済的豊かさの裏側には当然「負」の世界もある。今日のような親殺し子殺しもあり、歌舞伎の演目にもあるように「曾根崎心中」といった心中もある。以前快眠をテーマに江戸時代の睡眠実態を調べたことがあるが、強盗が多発しいつでも起きれるように柱にもたれて寝ていたといった資料も残されており、犯罪は多かったようだ。こうした犯罪もさることながら一番の不安は多発する火事で商家の裏にはすぐ建て直せるように材木を備蓄していた。更には、疫病という不安もあった。つまり、江戸の人はそうした不安の海に生きているという認識があり、一寸先は闇どころか板子一枚下は地獄で、人生はその海に浮かぶようなものだと思っていた。だから「浮世」とネーミングしたのだと思う。このように豊かさと不安、正と負が表裏となった生活は「今」という時代と同じだ。前号でふれたマスメディアとネットメディアの関係も、江戸幕府の広報である高札が表であり、浮世絵や浮世草子あるいは瓦版が庶民のメディアで裏の関係と同様である。つまり、表も裏も無い時代になってきたということだ。
今日を浮世と見るならば、商品のライフサイクルは短く、常に一過性のビジネス、ブームとの認識は不可欠である。今回の「発掘!あるある大辞典II」のねつ造も瓦版として見ていけば理解しやすいと思う。心中など実際にあった事件は歌舞伎や浄瑠璃という舞台に取り上げられ、今日のワイドショーのように注目・話題を集める。劇場化社会は既に江戸時代にあったのだ。ある意味、私たちは江戸時代の庶民と同様に、浮世という正と負を見据える醒めた目、憂う目が必要な時代だ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:53Comments(0)新市場創造

2007年01月28日

◆進化の視点 

ヒット商品応援団日記No135(毎週2回更新)  2007.1.28.

量から質への転換と言われて6〜7年が経過した。バブルの崩壊を受けて、質の意味する世界を本物志向、こだわり、本業、モノから情報とサービスへ、といったキーワードで語られることが多かったと思う。それはそれで間違ってはいないと思うが、今その質が意味する世界も変わって来たと思う。私はその代表はなんと言ってもネット上でgoogleがやって来た世界だと思っている。世界中のあらゆる情報、無限とも思える情報を検索するという量への挑戦を愚直なまでに行い、その検索によって得られた世界こそ、私たちのあらゆるものへの変革を促すという質的変化を与えてくれた。今晩食べる料理は何にしたいか、健康状態や好みなど、その時いいなと思うレシピや飲食店の情報はいとも簡単に得られる。googleの地図にも驚いたが、youtubeのインターネット上のニュースは偽情報や混沌さやを踏まえた意味での「正確」&「全体」が得られるようになった。もはや既存のマスメディアと比べスピード速く詳細で真実があると断言する人すら出て来ている。マスメディアはネット上に表れた情報源を追跡確認をしてニュースにするといった方法へと転換している。今回のアパグループの耐震偽装のニュースについても、イーホームズ代表の藤田東吾氏の行動やコメントは半年前からネット上で多くの情報が流されていた。マスメディアは表、ネット世界は裏、といった従来の表裏の世界は表も裏もない時代になった。これほどライフスタイルを含め多くの質的変化を促したものはない。

ところで、もう少し長いスパンでこの40〜50年の時代変化を見ていくとよく分かることがある。例えば、1960〜70年代の電話の多くは大代表電話でオペレーターが担当へとまわすのがサービスであった。1980〜90年代にはダイレクトに担当部署へとかかることがサービスになり、周知の如く今や本人の携帯電話に直接かける時代となった。更におさいふ携帯など、今や携帯はケイタイへと進化した。このように新しい価値を増殖してきた訳である。1990年代、豊かな時代と言われた内容はこうした新しい価値転換のことであった。特に、1990年代半ばからのデフレはこの価値転換を急速に迫って来た。この価値転換の裏側にIT技術の発展と市場のグローバル化があったことは周知の通りである。しかし、同時に圧倒的なそのスピードに人の感覚が追いついていけない問題もまた出て来た。スローフーズ、不眠症、スローライフ、隠れ家、裏道、LOHAS、ふるさと、道草散歩、・・・・・ある意味バランスを取ろうとする人間の本性、本能であると思う。脳科学の茂木健一郎さんは創造性には「空白」が必要だと指摘している。空白があると脳は自然に埋めようと働き、そこに新たな価値発想も生まれてくるという指摘だ。この6~7年を停滞期とネガティブにいうのではなく、「空白」の時代であると私は理解している。

このブログにも書いて来たが、「今」はちょうど次へと進むための「踊り場」にいるという認識をしている。私はマーケティングという、顧客創造、市場創造を専門職としてきた。この10年、次の新しい価値を探るために勿論顧客研究をしてきた。いつしか昭和の時代へ、明治の時代へ、そして今日のライフスタイルの原型が「江戸時代」にあることへとたどり着いた。長いプロセス、進化の視点を持たないと「今」がよく見えてこないという直感があったからである。別な視点に立つと、今回不祥事を起こした不二家についても創業への原点回帰が言われている。その意味は、創業時の創造性はその時が一番「完成形」に近いからである。時間経過と共に、企業規模も大きくなり、複雑化していく。ある意味「偽物」になっていくということだ。その偽物が「今」を作り出している。つまり、過去を振り返ることは未来につながることだと思う。このブログで一年半ほど前に江戸のライフスタイルについて書いたことがあるが、次回から再度ふれてみたいと思っている。例えば、江戸時代を称して、エコロジー社会であったと言われている。いわゆる循環型社会であるが、木は勿論のこと、紙、灰、蝋(ロウ)といったリサイクルから、古着屋、損料屋・・・多くのエコ・ビジネスが盛んであった。こうした発想は今ではJRの切符の再生利用から、沖縄では黒糖を採った後のサトウキビの再生利用=メタノール生産まで進んでいる。茂木さんではないが、発想の転換、脳に「空白」を作り新たな発想を得るために「江戸のライフスタイル研究」をテーマに次号から書いてみたい。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:51Comments(0)新市場創造

2007年01月24日

◆情報商品の罠

ヒット商品応援団日記No134(毎週2回更新)  2007.1.24.

またしても情報商品の一つであるマスメディアの偽造、ねつ造が発覚した。周知の関西テレビ「発掘!あるある大辞典II」における”納豆ダイエット”のコンテンツねつ造である。マスメディアにとって、番組は商品そのものである。平均視聴率15%弱という良い商品も実は単なるやらせを超えたねつ造そのものであったということだ。バラエティ番組における過剰表現、過剰演出とは次元の異なる「情報番組」におけるねつ造である。テーマとなった納豆に罪は無いが、多くの人が近くのスーパーに買いに行き、店頭には納豆が無くなるというマスメディアの威力、怖さをまたしても学習した。一昨年の耐震偽装を生む背景と視聴率という売上競争を生んだ構造は極めて酷似していることは誰もが感じることだ。競争という理由によって、「何でもあり」がマスメディアにおいても日常化しているのだと思う。昨年8月、私は「サプライズの終焉」というテーマで次のようにブログに書いた。

「短期的成果を求めた強いインパクト、効率の良いレスポンス、コミュニケーション投資に見合うサプライズ価値、こうしたコミュニケーション世界も、長い眼で見る持続型継続型の日常的対話コミュニケーション、奥行き深みのある実感・体感といった納得価値へと変わっていく。「猫だまし」のような、あっと驚かせて瞬間的に大きな売上げをあげていくビジネスから、小さくても「いいね」と言ってくれる顧客への継続する誠実なビジネスへの転換である。」

「発掘!あるある大辞典II」は「猫だまし」商品であったということだ。同じ時期に洋菓子不二家の不祥事があったが、賞味期限切れどころの話ではない。

今という時代はテレビ番組や株だけでなく、あらゆるものが情報価値商品となっている。例えば、オタクにとってお気に入りのフィギュアの原価を考えたらよく分かると思う。おそらく、原価構成のほとんどがモノ価値ではなく、キャラクターの物語性やデザインといった情報価値を買っている訳である。ファッションにおいても同様でデザインとかブランドという「らしさ」という情報、無形のものにお金を払っている。であればこそ、情報に嘘があってはならない。健康、美容といった商品は、切実な不安や問題を解決してくれるものだ。弱みに付け込むとはこのことだ。問題は情報にあるのではなく、情報の本質を踏まえた情報発信者のモラルと情報偽造・操作を許さない仕組みにある。「発掘!あるある大辞典II」のスポンサーである花王は当たり前のこととしてスポンサーを下り、番組自体も打ち切りとなった。花王のヒット商品である「ヘルシア緑茶」は特定保健用食品、トクホである。トクホを取得するには多くの臨床的データを用意しなければならず、時間とコストをかけた商品である。あのシビアな花王が自社商品ではなくスポンサードした番組とはいえ、よく認めていたと思う。関西テレビの担当者の処分も発表されたが、根本問題の解決にはならない。

例えば、株式の公開は英語ではゴーイング・パブリック(公となる/going public)と表記する。広く投資家から資金調達することは「公」の秩序に入ることなのだ。証券取引法の世界であれば、今回の事件は虚偽記載もしくは風説の流布で逮捕は免れない。しかし、こんなことを言うまでもなく、日本には近江商人の心得である「三方よし」を持っている。商いにおいては「世間よし」という「公」認識・責任をもたないことは罪悪ということだ。「企業は社会の公器である」と言ったのは松下幸之助創業者である。その理念は今も引き継がれ、欠陥商品があった事実に対し、今なお回収し続けている。関西テレビが”納豆ダイエット”以外にもねつ造があったかどうか調査すると言っているが、厳密に精査すれば間違いなくねつ造に近いモノは出てくる。「実証」と称して使用前・使用後の比較方法にしても、医療や調査の専門家にしたらあまりにもサンプル数が少なく、つまり誤差値が大きく「かもしれない」といった程度しか言えない情報ばかりである。しかし、番組構成のテンポは速く、視聴者が疑念を起こす間もなく、次へと進む。こうしたテクニックを用いられると、「かもしれない」から「きっとそうだ」更には「そうにちがいない」と断定へと向かう。こうした心理市場にあって、根本は情報発信者のこころの中にあるモラル、倫理しかない。いくら法、ルール、監視の仕組みを作っても、それを実行するのもまた人である。法やルールの裏側にある精神を自らのものとしない限り、また新手の「発掘!あるある大辞典II」が生まれてくる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:41Comments(1)新市場創造

2007年01月21日

◆デフレとインフレ 

ヒット商品応援団日記No133(毎週2回更新)  2007.1.21.

今、デフレとインフレ という奇妙で分かりにくい現象が同じタイミングで起きている。今回の日銀の金利引き上げの見送りに対する論議を俯瞰して見てみるとこの奇妙さがよく分かる。つまり、マンホールのふたや電線の盗難がニュースになっているが、銅をはじめとした鉱工業原材料は世界的なインフレで高く売れるため盗難といった現象が起きている。一方、マクドナルドの「メガマック」が若いサラリーマンの間で人気を呼んでいる。ビーフが4枚も入ったハンバーガーで、1個350円と安く、個数限定販売になっている。1990年代後半デフレの旗手と言われていたマクドナルドらしい新商品である。ざくっと簡単に整理してしまうと、流通=消費面ではデフレ、製造=コスト高ではインフレといった構造が浮かび上がってくる。私なりに単純化し整理すると、未だデフレ状態だから金利引き上げは中小企業に対し負担が大きいという考え方と、いやインフレ状況や預貯金という課題もあり金利を元に戻すべきという考え方のせめぎ合いであったと思う。デフレとインフレの同時進行、こうした現象の背景には日本が置かれている「グローバル化」があり、日銀の金利引き上げの是非もこの認識の違いによるものである。

このグローバル化は格差社会あるいは2極化という現象の背景でもある。好景気の象徴となった上場企業の利益の60〜70%は、実は輸出など海外市場で得られた利益と考えられている。一方、勤労者の収入は私が指摘したようにマイナスを続けている。詳しくは「いざなぎ景気と格差意識 」(2006.10.29./http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/2006/10/index.html)を参照して欲しい。
ところで昨年、東京日本橋に世界初の六ツ星ホテルマンダリンオリエンタル東京がオープンし、今年には六本木防衛庁跡地のミッドタウンの中に五つ星ザ・リッツカールトン東京がオープンする。日本の都市銀行や外資のスタンダードチャータード銀行では個人資産の運用を行うプライオリティバンキングサービスも行われている。つまり、東京ではなく世界都市TOKYOとしてみなければならないということである。また、一方ではこのブログでも何回か取り上げたので詳しくは書かないが、東京足立区のように生活保護世帯や給食費支援世帯も多く、商店街ではシャッターが下りている店舗が多く見られる。もし、格差というのであれば、東京の中にも格差はあるのだ。東京という市場の中でも格差、2極化は存在している。

さて、こうした市場状況でどのようなビジネスを行うかであるが、価格帯という設定を行う前に必ずしておかなければならないのが「誰を顧客とするのか」いう市場の規定である。以前、「中心化」というキーワードを書いたことがあるが、「情報」あるいは「経済」が中心部に集積されると、「中心」と「周辺」において大きな格差が生まれるというものだ。特に、情報も経済も中心で何が起こっているかを見極め、そのサービスを享受するために更に中心へと移動する。人もその情報とサービスの動きに応じて中心へと移動する。東京でも格差は生まれており、言葉の正確な意味では都心回帰ではなく、「中心回帰」となる。赤坂、六本木、品川、丸の内・日本橋・銀座などがその「中心」である。例えば、地方でも同じで、沖縄という市場を見ていくと那覇市は中心であり、糸満は周辺となる。こうした集中化現象をていねいに見ていくことが「誰を顧客」とするのかという課題に近づく道だ。ふるさと回帰やIタウン現象はと指摘する人もいると思う。それは都市(中心)が失ってしまった自然や歴史文化などを取り戻す動きと見れば良い。いずれにせよ、良い悪いの問題は別にして、これからも中心化は進んでいく。ある意味で世界市場の縮図として日本市場があると思う。当分の間、デフレもインフレも同時並行的に進み、また「格差」も単純に都市と地方といった論議を超えてまだら模様の如く複雑な市場構造になっていくと思う。もし、ヒット商品という言葉を正確にいうならば、規模の問題ではなく、想定した「顧客」「市場」のなかで圧倒的な支持を得る商品ということとなる。東京でのヒット商品が地方でもヒットするとは限らない。また、逆に地方でのヒット商品が東京でもヒットするとは限らない。増々、一般的平均的なヒット商品など無い時代に向かっている。(続く)  


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2007年01月17日

◆暗黙知「失敗」の継承

ヒット商品応援団日記No132(毎週2回更新)  2007.1.17.

今年は「2007年問題」という団塊世代の定年退職が始まる年である。30〜50兆円とも言われている退職金争奪戦は金融関連市場では既に始まっているが、その消費面についても1年近く前に取り上げたのでここでは団塊世代が経験から得た「こつ」「感」「技術」、暗黙知について私見を書いてみたい。暗黙知が注目され始めたのは、10年近くになるが、大量生産大量販売という工業化社会の時代から、次の時代、個人の欲求が多様になる時代と共に表れたキーワードである。今まではマニュアル通りに、いかに大量に安く作り大量に販売するかが課題であったが、周知の通り個人の多様な欲望欲求をていねいに答えるモノづくり、サービスが必要となった。そのためには経験則やそれに基づく感、技、知恵、アナログ感性という「見えないもの」が必要となる時代を迎えたからである。
既に数年前から製造現場ではこの暗黙知のバトンタッチが行われている。1つの方法は経験則をマニュアル化、データベース化する方法と若い世代を丁稚奉公のように学ばせる方法である。そもそもビジネスは丁稚奉公であると言ったのはP.ドラッカーであるが、日本の就労人口の70%以上を第三次産業が占めており、ホワイトカラーあるいはサービス従業者の「現代の丁稚奉公」が求められている。また、一方ではホワイトカラーエグゼンプションという時間労働ではなく、知恵やアイディアを生かした成果主義の考え方も出て来ている。このホワイトカラーエグゼンプションは別なテーマとして取り上げるつもりであるが、ホワイトカラーと言えども従来の総務や人事での単純集計業務などは既に安いコストのインドなどへアウトソーシングされており、本格的な知価社会が到来している。

さてこの知価社会における暗黙知の継承という課題であるが、一番継承しなければならないのが「失敗の継承」だと思っている。ビジネスが順調に進んでいる時には「失敗」は学べない。そして、失敗している時にも失敗を学べないものである。何十年という時間の中で多くの経験を積んで来た暗黙知には多くの「失敗という宝物」があると思っている。若い世代にとって唯一持っていないのがこの「失敗経験」である。私はこの失敗という暗黙知の継承には、2つの方法があると思っている。1つは「チーム」という考え方・方法である。プロジェクトチーム単位といった方が分かりやすいと思うが、各々が固有の専門分野を持ち、情報共有しながら、相互補完し合いながら「コト」を進めていく方法である。チームという多様な意見に基づくというリスクヘッジと共に、情報共有・相互補完という「場」こそが良き学習&経験となる。勿論、仲良しクラブのようなチームではない。チームリーダーが抜けてもそのチームから次のリーダーが自然と生まれてくる。こうした企業風土、ナレッジマネジメントを可能にしているのが、今なお成長し続けている渋谷109のファッション専門店である。
もう一つの方法は教育であるが、一般的な教育ではなく、「塾」といった小さな単位、しかも単なる技術学習ではなく、「失敗体験」の裏側にある精神、気持ち、心構え、といった生き方学習という方法である。リスクマネジメントとよく言われているが、小さな失敗体験こそが重要で、そのことこそ継承されなければならない。これが「現代版丁稚奉公」であると思う。そして、往々にしてこの失敗からヒット商品や新しい技術が生まれてくる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 15:27Comments(0)新市場創造

2007年01月14日

◆生きてる感じづくり 

ヒット商品応援団日記No131(毎週2回更新)  2007.1.14.

暗いニュースばかりの年初めであったが、2007年は「生」という生命力溢れるものへの支持が高まると書いた。例えば、ローカルニュースだけのようだが、「猫の駅長さん」という微笑ましく、癒されるニュースがyoutubeに出ていた。(http://www.youtube.com/watch?v=-Xf2LAFdbMI)和歌山電鉄貴志川線の再生に一役かった三毛猫「たま」の駅長就任である。チョット笑える、癒される、そんなお話の「生きてる感じ」のする、理屈っぽく言うと「感応力」を刺激してくれるニュースだ。こうした暗く、不安の時代には日常の中の身近な「小」がキーワードになる。小動物、小さな植物、小さな自然、小さな季節、小さな出来事、チョットうれしい、そんな「小」がテーマとなる。

以前、東京都の小中学校の校庭の芝生化についてふれたが、今年度から本格的に始まるようだ。既に44校が芝生になっているが、10年で2000校全ての校庭が芝生になる計画と聞いている。都市におけるヒートアイランド現象の緩和や子供達の運動能力の向上など多くの期待がこめられている。間接的とは思うが、不眠症やいじめなんかにも効果が出てくると思う。子供達一人ひとりに「生きてる感じ」を取り戻すことができると思う計画だ。しかし、よくよく考えれば、少し前までは東京でも至る所が野原であった。そこには季節の自然もあり、喧嘩もしたし、怪我もし、遊びもした、いわば学習の場であった。ある意味、「生きる学習」の場であった。アスファルトで覆われた校庭だけでなく、不必要なダムや道路のコンクリートなどを壊し、調和のある「快適さ」が求められていく。その快適さの本質には「生きてる感じ」があると思う。以前、「心のデドックス」というテーマで書いたことがあるが、まさにこころも身体も浄化してくれる方法の一つだ。

想像力の欠如、摩耗した感受性・感応力、こういった言葉を私は取り戻すべきものとして挙げてきた。日常の言葉で言えば「生きてる感じ」となるが、人によっては様々だと思う。帰宅して幼い子供の寝顔を見て、そう感じる人もいれば、青春フィードバックではないが、子供の頃を追想しながら感じる団塊世代もいる。何かに熱中、夢中になっている時に感じるという人もいる。つまり、感じる「時」づくり、あるいは「テーマ」「場」づくりがマーケティングの目標となる。今はまだ寒いが、2月に入れば春の息吹がそこここに出てくる。商品や売り場、スタッフのユニフォームに生命感が感じられるようなマーケティングを行うということだ。自然時という季節をうまく活用した小さなテーマ売り出しとして、「生きてる感じ」をどう創り、伝えていくかである。その時、「猫の駅長さん」ではないが、チョット笑える、そんなセンスが必要な時代だ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:39Comments(0)新市場創造

2007年01月10日

◆産土(うぶすな)

ヒット商品応援団日記No130(毎週2回更新)  2007.1.10.

年頭のブログでは「生」への気づきが高まるであろうと書いた。そして、先週には「生活文化」の時代へと向かうとも書いた。例えば、「生」×「生活文化」=?、皆さんはどのように考えるであろうか。私の答えは「自然リズムを取り入れた生活」「旧暦の生活歳時」になる。冬は冬らしく、あるいは春らしく全てのものが芽吹くように、といった「らしさ感」は都市においては失ってしまったものの一つである。日本における生活文化で誰もが取り入れているのが正月である。地方には地方固有の風土に培われた正月がある。雑煮や餅一つとっても全て異なっていることは周知の通りである。自然時という記念日の最大のものが正月である。勿論、今なお旧暦の正月が生活の中に根強く残っている沖縄のような地方もある。数年前から、旧暦カレンダーが東急ハンズや西武ロフトでは人気となっている。特に、若い世代にとっては「温故知新」で新しい「何か」を感じているのだと思う。

田舎暮らし、ふるさと回帰、スローライフ、家庭菜園、ある意味では呼吸のリズムに合わせた散歩なんかも、生命のもつリズム回帰でもある。あまりにも速いスピード、昼夜の境目のない無時間化に対する取り戻しである。以前、快眠をテーマに体内時計について調べたことがある。人間の生命リズムの一つであるサーカディアンリズムは1日25時間となっている。この1時間の調整を眼から入る太陽光によって体内時計が調整している。最近では、その他にも胃を始め複数の体内時計が存在していることが分かってきた。当たり前と言えばそうであるが、人間も自然の一部であり、何億年にもわたって今日へと至る自然のもつ生命リズムに全て従っているのだ。最近のライフスタイル傾向は、意識、無意識を問わず、そうした自然リズム、生命リズムへの気づきが高まっていることの証だと思う。

死語というより、ほとんど聞いたことの無い産土(うぶすな)という言葉がある。産土は地縁信仰、郷土意識に結びついた信仰、あるいはその土地固有の産物を指し示す言葉である。今では血縁信仰である氏子神社などと混在してしまっているが、一般的には神社として残っている。産土は地域の守り神だけでなく、安産の神とも関係があり、生まれた子供の初詣や成人式、七五三に守り神に詣でる風習は今なお残っている。こうした地縁信仰から生まれた産土はコミュニティ形成と深く結びついており、今課題となっている地域活性への一つのヒントとなる。つまり、自然リズム、生命リズムが地域の祭事という形で残っているということだ。その祭事には必ず「食」が守り神に捧げられる。特に、お菓子類はユニークな産土として、今なお残っているものの一つだ。「ぼたもち」と「おはぎ」の違いは分かるであろうか。あんこの違いでもなければ、餅の違いでもない。春と秋の彼岸に食べる季節の違いにある。名前の通り、牡丹の咲く春の彼岸に食べるのが「ぼたもち」で、秋の彼岸は「おはぎ」である。このように、もう半歩、もう一歩踏み込んで、コミュニティを見ていくと産土を始め面白い商品、面白い物語に巡り会う。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:28Comments(0)新市場創造

2007年01月07日

◆埋もれた生活文化への着目 

ヒット商品応援団日記No129(毎週2回更新)  2007.1.8.

昨年流行語大賞となった「品格」の口火をきったのが藤沢正彦さんが書かれた「国家の品格」であった。このベストセラーもさることながら、昨年後半からは書店には国家論や日本文化論の書籍コーナーが作られた。また、安倍政権誕生や憲法改正といった論議の延長線上にある国家論が政治の世界でも一斉に語られ始めた。一方、ビジネス現場はグローバル化しており、中国やインドあるいは米国といった国への出張は日常となっている。当然の如く、文化の違いを実感することとなる。グローバル化すればするほど、「国って何?」ということが一人ひとりに向かってくる。否応なく、日本、日本文化について考えざるを得なくなっている。

昨年までの消費の根っこには「私」があり、このブログでもマイブームや私生活物語について書いて来た。戦後初めて「私って何?」と自己のアイデンティティをテーマにしたのは作家三田誠広さんの「ぼくって何?」であったと思う。しかし、私探しという言葉に代表されるように、全てを「私生活」への向上=豊かさへと閉じ込めてしまった。今、この「私」が「公」、つまり社会との間で大きな溝が生まれたことに気づき始めた。昨年の「騒音おばさん」や「ゴミ屋敷問題」はそうした気づきを加速させた。公、社会を大きく広げれば国となる。私と国というテーマが更に具体的になってくる。年頭のブログでは「生」の時代に向かうと書いたが、「私」を突き詰めていくと「生」というテーマに行き着く。もう一つのテーマが「国」となる。ただ、否応なく国を意識せざるを得なくなるのがグローバル化である。つまり、「日本という国って何?」が消費においても様々な形で出てくると言うことだ。逆輸入という言葉があるが、外国から指摘されて、国や文化を意識することとなる。今話題の世界の日本食レストランなども、日本人が知らないうちに米国の2005年度のデータでは9000ほどの日本食レストランが既に存在している。イタリアミラノでは禅(ZEN)がブームとなっている。周知の通り、既に10年以上前から、アニメ、漫画は世界中に行き渡っている。知らないのは日本人だけである。

昨年、このブログで取り上げた「えんぴつで奥の細道」が100万部に迫るベストセラーになった。足下にある文化、過去だけでなく現在の文化を見つめ直す傾向は一層高まっていく。何回か取り上げた、「路地裏ブーム」は「路地裏文化ブーム」へと進化していくということになる。つまり、路地裏に潜む生活文化への注目ということだ。地域活性、コミュニティの再生が叫ばれているが、今なお続いている生活文化をどのように消費の舞台へと上げていくのか、2007年以降の大きなビジネステーマになる。一昨年、東京丸の内にオープンしたTOKIAビルには「赤垣屋」に代表される大阪や京都、あるいは地方の都市生活者の誰も知らない飲食店が次々と進出してきた。生活文化の浸透には「飲食」が一番分かりやすい。これからも飲食店など「食」に関する文化進出が続くと思うが、食以外の生活文化が進出、注目されていく。(続く)  


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2007年01月01日

◆2007年、生への気づき 

ヒット商品応援団日記No128(毎週2回更新)  2007.1.1.

新年あけましておめでとうございます。ブログを始めて1年5ヶ月、以前在職していた若いスタッフとの早朝勉強会の延長で書き始めたブログだが、3万件近くのアクセスになりました。感謝。昨年は年頭に書いた価値観の衝突・対立による混乱、カオスの時代そのままの一年であった。こんな予測は当たらない方が良いのだが、今年一年、そうした学習&体験を踏まえた一年であって欲しいと願っている。

昨年末、2006年の世相を表す言葉「命」についてふれたが、2007年は「生」という言葉の年であって欲しい。自然であれ、人であれ、「より良く生きる」ニュースが多い年であって欲しい。そうした願いは、ヒット商品のコンセプトにも表れてくると思っている。生命、生き生き、元気、鮮度、シズル感、・・・・こうしたコンセプト世界が中心となる。昨年ニュースとなった「根性だいこん」といったことではなく、生きている感じ、五感で感じるような「何か」に注目が集まる。感じ取る力を失いつつある都市生活者にとって、気づきを喚起する自然体験、体感プログラム、そうした時間の過ごし方に更に注目が集まるということだ。

「生」は、その始まりと終わりが象徴的である。誕生、芽生え、実、種、あるいは地球生命体という大きな視座に立てば、風、水、といったことも生の象徴となる。終わりはと言えば、はかなさ、生き様、散り際といった日本の精神文化につながっていく。いづれにせよ、「生きている感じ」「生き方」、その伝え方といったことが重要なポイントになる。今まで「言葉(=文字)」を使ってコミュニケーションしてきた。文字は便利な道具としてこれからも必要である。しかし、文字によって無くしてしまったものへの気づきが出てくる。音、言葉の響き、といった感応への気づきが高まる。意味や理屈から、感じ取る世界への変化、気づきである。言葉でいうと、マニュアルやメールではなく、口承、詩、歌、といった微妙なニュアンスによって伝わる時代だ。言い古された言葉だが、対話の時代を迎える。

感動というキーワードはスポーツだけでなく、日常の中にも小さな感動が求められていく。「生」によって感が動かされる時代ということだ。たった一言、小さなアクション、ピンポイント、スモールアイディア、こうしたことが重要な時代になる。どれだけ「生きている感じ」を創造できるか、そのアイディア競争となる。大自然ではなく、小自然。森林より、小さな野草。大きな動物より、小さな動物。小さな「生」への気づきが始まる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 08:42Comments(0)新市場創造