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2016年09月19日

◆デフレ時代の「行列の法則」 

ヒット商品応援団日記No658(毎週更新) 2016.9.19.

マクドナルドが¥550のバリューランチセットを発売したが、更に平日のランチに低価格メニュー¥400のバリューランチを発売すると発表した。ハンバーガーは「ビッグマック」か「チキンフィレオ」のどちらかを選べ、Sサイズのドリンクとのセットで、平日の午前10時半から午後2時までに限り、全国の店舗で売り出すとのこと。いずれも、単品で組み合わせた場合より50~80円安くなる。つまり、大規模なリストラを終え、本格的な低価格戦略に踏み込んできたということである。
「2016年上期ヒット商品番付を読み解く」にも書いたが、ユニクロにおける中価格帯ラインへの値上げの失敗、そして吉野家が豚丼を4年ぶりに同じ価格¥330で復活させ、これで1990年代後半からのデフレ御三家が足並みを揃えたことになる。以前から指摘してきたことだが、デフレは日常化していることが更に明らかになったということだ。

こうした日常化したデフレ型消費における突破口の着眼として、私は「こだわり」を挙げた。勿論、2年ほど前の「こだわり」メニューは、そのことによって値上げし、客単価を上げる戦略であったが、間違えていたということである。その「こだわり」は、低価格(今まで通りの価格)プラス「こだわり」であって、値上げの理屈にはならないということである。消費者はこのことをよく理解しているということである。「こだわり」は、純粋に顧客のための新たな価値でなければならないということだ。10年ほど前から指摘していることだが、生半可な付加価値など見破られる時代になっているということである。

ところでどんな「こだわり」をしたら良いのかである。その着眼について下記の「行列の法則」を参考にしてほしい。実は8年ほど前に整理したものだが、原則としては今も変わらない。

1. リミティッド limited
時の限定、場の限定、個数限定、対象者限定、生産過程の限定
2. プレ・アクション pre-action
どこよりも早く、先行性、前倒し先取性、テスト、プレ実験などによる実験
3. オンリー only,origin
独自性、特徴、オリジナリティー、ブランド力、記銘性、パーソナリティー
4. キーパーソン key person
看板娘、熱意ある心をもって汗をかく職人、リーダーシップの発揮
5. ライブ&ショー live&show
その時ならでは、旬、感動、実感、体験学習、今を生きる
6. ハッピー&ヒーリング  happy&healing
幸福感、癒し、充足感、安心感
7. コレクション collection
文化という固有世界、回数性、リピート率、ストックカルチャー、サブカルチャー、
8. パーソナルユース  personal use
私のお気に入り、個人を対象に据えた手軽なデザイン、大きさ、価格
9. ニュース&ジャーナル news&journal
話題性がある、注目度が高い、口コミで伝わりやすい
10、リーズナブルプライス Low Price
どこよりも安く、手軽に気軽に、コスパが良い、

例えば、リミティッドという限定にこだわる戦略は多くの専門店が取り入れている手法である。最近では行列の出来る店として注目されている神田神保町の焼きそば専門店「みかさ」は自家製麺ということから麺がなくなり次第閉店。こうした限定戦略は初期のラーメン専門店を始め、最近では自家製酵母によるパン屋さんも同様である。こうした専門店の場合、その多くはリーズナブルプライスとなっており、日常使いの場合は行列が絶えない店となる。勿論、顧客にとって意味ある「限定」であることは言うまでもない。

3番目のオンリーであるが、このオンリーには「今」という時代ならではの唯一性・希少性を売り物にする場合が特徴となっている。競争市場下における「差づくり」をテーマにした未来塾「テーマから学ぶ」おいて「今」ならではのアイディアを整理したのが以下の4つである。
1、迷い店:なかなかたどり着けない面白がり・ゲーム感覚を売り物にした「差」づくりの店
2、狭小店:都市が生み出したデッドスペースを活用した狭いを売り物
3、遠い店:例えば山頂のパン屋さんといったとにかく遠い場所
4、まさか店:デカ盛りのような量のまさか、価格のまさか、あるいはこだわり過ぎのまさか
いずれの場合も遊び心をくすぐった「面白店」である。勿論、こうした店を面白いと感じる顧客のみが行列を作っており、このアイディア次第で100点にもなれば0点にもなるといった世界である。

4番目の看板娘であるが、最近の看板娘は「おばあちゃん」や「まだ幼い子供」の場合が多い。美人といった看板娘はある意味どこにでもいるので、つまり一般化された世界から離れないと「差」を創ることは難しい時代である。
また、人間ばかりではなく、和歌山電鉄の駅長たまではないが動物も看板娘になる。ここ数年犬から猫にペット人気が移り、猫と遊べるカフェや旅館までが看板猫ではやる時代となっている。こうした「看板」は6番目のハッピー&ヒーリングのように癒されることを目的とする場合が多い。これもある意味、時代ならではの傾向であろう。

7番目のコレクションについては文化という歴史が堆積した固有性についてであるが、デフレ時代にはどうしても価格やコストパフォーマンスを伴わないと難しい時代にいる。ただし、少し視点を変えれば、アニメやコミックといった日本のサブカルチャーは、周知のようにアキバのようにまさに行列そころか聖地となっている。コレクションというと、収集家の世界のように思われがちであるが、私の言葉で言うならば、「オタク」となる。こだわりにこだわった世界こそオタクの世界である。例えば、アニメに描かれた風景のみならず色彩までをも追体験すべく、そのモデルとなった誕生の地を訪れる、聖地巡礼が全国各地で起こっている。そうした「こだわり」を起こさせるようなコンテンツの創造である。

9番目こそ情報の時代ならではのことで、SNSなどのネットワークによって行列ができる。そして、間違ってならないことは、行列という「ブーム」は必ず終わるということである。この情報・話題作りの場合、その多くは激安、激盛り、激辛、・・・・・・激であればあるほどまさかという「情報」を求めて行列ができる。行列という情報は、また次なる行列を呼ぶこととなる。しかし、激はさらなる激によってしか「次」に行くことはできない。そして、情報=「ブーム」は一過性であることを忘れてはならない。

こうして見ていくと分かるが、デフレマインドの壁を越えるにはリーズナブルプライスを基本に幾つかの組み合わせによって戦略を組み立てることが必要となる。これが8年前の行列と今の行列の違いである。そして。繰り返しになるがなんといっても「差」をつけるコンテンツ次第である。以前、そのコンテンツに触れて、新しい、珍しい、面白いコンテンツばかりでなく、過去のヒット作・ヒットメニューの復活劇が始まるとブログに書いたことがあった。吉野家の豚丼もそうした復活メニューであるが、過去のヒット作を見直してみることも必要な時代になった。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:34Comments(0)新市場創造

2016年09月11日

◆おめでとう、広島カープリーグ優勝 

ヒット商品応援団日記No657(毎週更新) 2016.9.11.

ここ数年、高校野球は観るが、プロ野球はTV観戦を含めほとんど観ない。しかし、広島カープが25年ぶりにリーグ優勝を決めた巨人戦については、広島フアンでも巨人フアンでもない私はNHKの試合中継を最後まで観てしまった。「観てしまった」という表現は、どこかでまだ高校野球のような心を熱くさせてくれる「何か」が残っているのではないかという気がしたからであった。それはプロ野球チームの投手交代に見られるように分業制合理主義に貫かれている戦いに魅力を感じなくなっていたからである。

メジャーリーグの大金を選ばず、好きな広島を選んだ「男・黒田」のおそらく最後のピッチングを観てみたかったこともあるが、逆転勝ちが多い広島というチームはどんなチームなのか、これも観てみたかった。体調が万全でなかったのか、やはり年齢的なものなのかわからないが、それに抗うように必死に懸命に投げる熱い黒田に心が動かされた。そして、初回に先制された広島は4回鈴木と松山のホームランによって逆転する。そして、直後巨人マイコラス投手の死球に激昂した黒田と新井が詰め寄る・・・・・なぜか高校野球のような「必死さ」を感じた。これが野球の本質なのだと思い、実は最後まで観てしまったのである。

周知のように広島カープの選手年俸の総額は巨人の半分である。戦後の広島カープ誕生後も球団経営は苦難の連続で有名な市民による「たる募金」によって乗り越えてきた。そして、新しくなった広島球場においてもこのたる募金が活躍したという。市民球団と言われる所以である。優勝を決めた巨人戦では広島地区の視聴率は50%を超えたと言われている。黒田も新井も好きな広島に戻ってこられたのも、こうした球団・市民があってこそである。
全国の町おこしとしてはB-1グランプリを始め、スポーツではマラソンやサイクリングなど数多くあるが、やはり元祖は広島カープであろう。町おこしといったイベント的なものとしてではなく、広島という地域コミュニティの軸となっている。それは戦後復興のシンボルとしての球団を体験しているシニア世代から、一昨年から話題となっているカープ女子まで、まさに市民総ぐるみによる球団である。そうした意味で、優勝決定戦の主役は誰かといえば、「市民一人ひとり」ということだ。

消費が低迷する中で、7月末には「ポケモン探し」による活性ぐらいしかないとブログで指摘をしたが、ヒット商品という視点に立てば、今回の「広島カープ優勝」は全国的な消費活性には繋がらないが、市民球団、コミュニティスポーツの在り方として多くの示唆を与えてくれている。
さらに、スポーツのジャンルを超えて言うならば、広島のチームメンバーが見せてくれた「必死さ」は、人の心を動かすという今日の心理ビジネスの根幹を成しているということである。必死で作ったラーメンと、仕事だから作るラーメンとでは自ずと味の違いがわかってしまう、そんな時代に生きている。

おめでとう、広島カープ、広島市民の皆さん。

(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:43Comments(0)新市場創造

2016年09月07日

◆未来塾(24)パラダイム転換から学ぶ 回帰から見える未来 後半

ヒット商品応援団日記No656(毎週更新) 2016.9.7.

第1回の「パラダイム転換から学ぶ」では日本の近世から近代への転換点である江戸から明治への変化について、その痕跡をもとに考えてみた。第2回ではそうした変化の源であり今日のライフスタイルの原型が作られた江戸の変化について考えてきた。そして、今回は戦後の大きな転換点であるバブル崩壊、昭和から平成へと向かう変化、最大の変化イデアル2つの回帰について考えてみることにした。




「パラダイム転換から学ぶ」

後半

回帰から見える「未来」


昭和から平成というこの30年弱に起こったパラダイム転換による現象から何を学ぶかである。このことは「今」と重なっており、ある意味直接的にビジネスに反映されることとなる。そうしたことを踏まえ、これからの学びは仮説に基づくものであると理解していただきたい。

パラダイム転換を迫ったものは勿論グローバル化であり、その中でも「時間」に対する転換が大きく、そうした転換内容を境目のない「24時間化・無時間化」とした。前回のテーマ「江戸と京」では、”日の出とともに起き、夕に眠る”といったライフスタイルは崩れ、今日を予感させるような夜半に商売する屋台業態が生まれていたと指摘をした。
あるいは個人化社会が進行し、社会の単位が家族から個人へと転換することによる新たな問題も生まれ、また新たな市場も生まれてきた。前回の「江戸と京」でも指摘したことだが、江戸の住民の半分は武士で、そのほとんどが単身赴任であった。しかも、全国から集まる、いわば雑居都市であり、何故か今日の「無縁社会」及び「グローバル社会」と同じような構造に符合していると。更には江戸も東京も生産することなく、消費のみの都市である。

回帰の背景:失われたものの回復

江戸時代と今日とがある意味つながっており、昭和から平成というパラダイムの転換は平成固有の変化だけでなく、明治以降の近代化による転換と共に失ってしまったものの回復傾向が、この平成時代に一挙に出てきている。いつの時代も時代の変化と共に、残すべきものと新しく変えていくこと、この狭間で悩むのであるが、この「失われたものの回復」は、実は2つの回帰、過去回帰と自分回帰による回復の背景にあった。この回帰することによる回復は大きな潮流としてあり、平成という時代の大きな特徴となっている。その回復は次の3つに整理することができる。
1、自然・健康
2、仲間・家族
3、歴史・文化




「自然・健康」は既に周知のことで都市化が進む街の生活者にとっては最大の関心事である。最近では宮崎駿監督の描くジブリの世界のような「ツリーハウス」といった一種の自然生活に注目が集まっている。そして、今なお自然が残っている地方へのIターン、移住もこうした背景からである。前回の「江戸と京」でも書いたが、都市生活者が取り戻したい自然との生活は家庭菜園やキャンピングの「次」のライフスタイル潮流としてある。
また、都市においても多摩川などをフィールドにした子供達の自然学校が開かれたり、銀座の周辺には日比谷公園や浜離宮など自然があることから、銀座のビルの屋上でミツバチを飼ってスイーツなどに蜂蜜を活用する、そんな都市の中で自然と向き合う動きも見られる。

また、無時間化が進む都市にあって自然を感じるための工夫が進化していく。例えば、「四季」をコンセプトとした「食」のみならず、今以上に季節感を楽しむ催事は盛んになる。春は桜だけでなく、その前後の梅や桃、そして、ツツジ、アジサイ・・・・・・こうした自然を感じるための様々な工夫、例えば「朝らしさ」「夏らしさ」・・・・・・「らしさ」MDとでも表現したくなるようなものである。この「らしさ」創りの着眼については、第1回の「パラダイム転換」に書いた「和回帰」ということになる。和の夏であれば、風鈴や打ち水といった夏らしさ作りが夏物商品の販売には必要になるということである。

次に「仲間・家族」の回復であるが、東日本大震災による気づきもあるが、その「縁」の取り戻しについてはSNSなどを使った「情報縁」による新たな縁づくりも見られる。古いキーワードであるが、「5つの縁」によって少なくとも昭和までは問題があるにせよ縁が保たれていた。血縁、地縁、有縁、職場などの職縁、仏教で言うところのご縁。そして今その5つの縁にプラスし、情報によって結ばれる情報縁の6縁となった。そして、バラバラとなった個人化社会にあって、関係の回復や縁づくりのために、まずすべき課題として「居場所」づくりが多様な人間関係の中で始まった。例えば、2000年代半ばのヒット商品であった一人鍋から家族全員で食べる鍋やバーベキューに変わり、企業や団体では福利厚生を踏まえた運動会が盛んになった。
また無縁社会のシニア世代の居場所づくりとして、数年前から注目しているのが、仙台にあるNPOが運営している「シニアサロン井戸端会議」である。月額1000円の会員制度であるが、リタイアしたシニアの社会貢献として経験などを持ち寄る活動もあるが、そのコアとなっているのが「居酒屋事業」である。つまり、誰でもが利用出来る「居場所」を作ったことがポイントとなっている。そして、その活動の視野の広がりは、例えば9月の活動のテーマである「若者vsシニアの井戸端会議」となっていることを見てもわかるように、新しいコミュニティづくりへの広がりが感じられる。

3つ目の歴史・文化については前述の過去回帰としてのアシュラーや歴女ではないが、社会現象としても大きく出てきている。その総称を和回帰とも言うが、その奥行きは深く広い。そして、次なるテーマとなるのが「グローバル化の中の日本語や日本美」といった固有の日本文化については次回とするが、そうしたテーマへの評価は海外・欧米によるところが大きい。クールジャパンもそうであるが、古くは江戸時代の浮世絵であり、日本人自身が逆に気付かされるほどである。
グローバル化の波はかなり前から、教育特に語学に大きな影響を及ぼし、地球の共通語である英語による教育を行う大学に人気が集中し、母国語デアル日本語による思考力が低下しているとの指摘すら出始めている。

家族から個人へ、その未来

回帰という2つの現象が社会に、生活に、消費にと出てくる背景には、「失われたものの回復」というメガ潮流ともう一つの大きな変化、パラダイム転換を促す変化が、昭和から平成への変化の過程で起きてきている。個人化社会、無縁社会、個人サイズ、縁の復活、こうした社会現象をもう少し俯瞰的に見ていくと、そこには大きな「単位変化」、「単位の物差しの変化」、社会を構成する単位変化が劇的に進んでいることがわかる。そうした社会の単位変化、「家族から個人へ」という変化を整理・図解すると次のようになる。




読んでいただくとわかると思うが、家族という依存的関係から自ら社会に向き合うという自立への転換。日本の選挙制度もやっと18歳からの選挙権へと変わったが、これも自立への制度的整備であろう。そして、社会に出ればそれまでの家族にあった一元的価値から、多様な人たち、多様な価値観を認め合う、そうした価値へと変化していく。結婚関係はどうかといえば、離婚率の増加、あるいは晩婚化を見ていくとわかるが、経済を含めた婚姻条件による婚姻から、一種の共感関係、それが生き方や信念といった人生観の共感関係の大切さへと向かうであろう。親子関係については、20年以上前になるが団塊親子を称し、友達親子と呼ばれたことがあった。まるで友達であるかのように、仲良し親子とも呼ばれた。当時はそうした関係に着眼して、母娘消費と呼んでいた。

消費面では「個人サイズ」というキーワードで表現したが、市場が心理化しており、「心理サイズ」が重要となっている。これも10数年前からの常識となっているが、「あれこれちょっとずつ」といった消費はそうした心理サイズの代表的事例であろう。また、物はすでに充足しており、特別に買う必要性はほとんどない時代である。デパ地下の売り出しを見ればわかるように、例えば春には「花見弁当」を売り、定番となっている「全国駅弁大会」も新しいメニューをプラスし、新鮮さを出し続けている。こうしたテーマに惹かれ、それでは食べてみるかという気が起きるのだ。
また、高齢社会を映し出しているかと思うが、元気なシニア世代が多い。後ろ姿を見たらほとんど年齢も性別もわからないほどである。物理的年齢から心理的年齢へと、この単位変化も極めて大きい。

また、時間についての考え方も、24時間化といういわば地球時間と個人の生活時間との間で生きている。仕事の場が地球サイズになり、スマホ一つでいつでもどこでも仕事をしなければならない時代である。そうした意味で、仕事時間とプライベートな時間をどう分けて生活するかが時代の課題にもなっている。
そうしたことをも踏まえてだが、際目のないボーダレス時代にあっては、地球温暖化といったことも実感する声明を感じる時代である。と同時に、自身の人生価値も大切にしたいと考える時代でもある。

こうした進行しつつある多くの「単位変化」、単位の物差し変化の先に、どんな社会へと向かうのか。これも推測ではあるが、個人単位の組合せ社会、有機的結合社会へと向かうであろう。家族も従属関係ではなく、互いに尊重し合う関係という家族、個々人組み合わせ家族、そんな時代に向かうのではないかと推測する。そうした家族生活、ライフスタイルはどう変わっていくのであろうか、当然消費のあり方も変わっていく。

自分確認の時代

家族から個人へ、という潮流は再び家族へという揺れ戻しがあっても、その方向に変わりはない。この個人化社会の進行は常に「自分確認」を必要とする時代のことである。
そこに生まれてくるのが2つの「記念日」市場、自己を褒め、ある時は慰めるといった「自己(確認)投資」市場。もう一つが他者との関係において生まれてくる「関係(確認)投資」市場。つまり、確認しないと不安になる、そんな新しい市場である。

この味がいいねと君が言ったから
7月6日はサラダ記念日    俵万智

1987年260万部というベストセラーとなった「サラダ記念日」の一首である。青春期にあって人と人との関係の中で、その想いを瑞々しい感性で歌ったものであるが、マーケティングという視点に立てば、今日の生活者心理に潜む「自分」認識を彷彿とさせる歌となる。
心がそう想えばどんな小さな、ささいな出来事も記念「時」となる。つまり、顧客に「そう想える」出来事を創ることによって、記念としての商品が販売できることへとつながる。




「ミーギフト」というキーワードが10年ほど前に若い女性の消費市場を代表するとして流行ったことがあった。自分にご褒美という意味であるが、自己確認を行う自己回復市場といっても差し支えない。近年のバレンタインデーにおけるギフトは、義理チョコはどんどん減少し、その多くがミーギフトとなっている。このようにすでにある行事や出来事における消費の多くはミーギフト=自家使用・自家消費ということである。俵万智さんが歌ったように、そう想えば全てが記念日、自己確認記念日になるということである。

もう一つの記念日消費が「関係消費」、バラバラとなった人間関係をつなぎ、さらにより深めたり、あるいは修復したりする「失われた縁の回復」である。
こうした記念日とは少しずれるが、東京新橋に和菓子の老舗「新生堂」に「切腹最中」という菓子がある。「忠臣蔵」の起こりとなった浅野内匠頭が切腹されたことにちなんだ商品であるが、面白いことにサラリーマンがビジネスで失敗し得意先などにお詫びするときの手土産に利用するという。”切腹最中にて、御免”というわけである。


生きるための必要に迫られた消費もあるが、物が買われることには自分確認であったり、人と人の関係を創ったり維持したりといった心の機微が動機となっている。これが心理市場の内容である。そして、マーケティングの役割はこうした小さな心理を捉えることがカギとなっている。

第1回のパラダイム転換から学ぶ「グローバル化」その概要編では、その最大の転換点であった江戸から明治という西欧化、外からの変化の取り入れ方について取り上げてみた。そして、垣根のない時代は既に江戸から始まっていたことと共に、外からの変化の取り入れ方とその揺れ戻しについて。具体的には新しい、珍しい、面白い「洋」の取り入れ方、そして「洋」一辺倒のライフスタイルから「和」への揺れ戻しについても分析してみた。
第2回では、そうした変化の取り入れ方は既に江戸時代にも「江戸と京」という関係の中で「下りもの」という形で生まれていた。そして、東京一極集中は江戸時代から始まっていて、個人化社会、しかも巨大な消費都市が既にあり、今日の東京の原型となっていた。
今回の未来塾はパラダイム転換とタイトルをつけたが、生活者が時々の「変化」にどう対応してきたか、特に消費という視座を持って読み解くことを主眼とした。極めて大きなテーマであり、簡単なレポートでないことは重々承知している。ただ、面白いことに江戸から今日に至る数百年を通じ、変わらぬ価値観、変化の受け止め方が見られる。山本七平はユダヤ人との比較の上で「日本人論」を書いた人物であるが、私にとってはユダヤ人ではなく、「外からの変化」という時代による比較によって、日本人の特異な消費を浮かび上がらせてみたい、そうした思いが強くなった。

そうした意味を踏まえ、第3回ではバブル崩壊を境とした昭和から平成という転換点ではどのような変化が生まれているか、社会現象を通じより詳細に具体的に読み解くことにした。
今回は「回帰」というキーワードを使って読み解くことにしたが、2009年一斉に消費の舞台に回帰現象が出現した。周知のリーマンショックの翌年であるが、大きな危機に直面した時、まるで揺れ戻したかのように「過去」に「自分」に戻ってくる、そうした傾向が強く特徴的に出た1年であった。
そして、第1・2回共に、社会現象として現れてきた事実を読み解くことを中心としたが、第3回ではそうした事象を踏まえた仮説を図解したものを多用してみた。掲載した図解は、概要・フレームの理解のためでどのように推論していただいても構わない。

ところで、日本の消費生活に大きな影響を及ぼしてきた3つのパラダイム転換点、江戸、明治、そして昭和から平成について分析してきた。パラダイム転換はどんな新たな変化、特に新たな消費を生んでいくのか、そのメカニズムについてはある程度理解した。第4回以降は、消費生活の変化を促すいわば今日的なテーマを取り上げることとする。例えば、年齢を問わず最大の関心事である「健康」はどのように変わってきたか、そしてこれからどんな健康が求められるか、昭和から平成への転換点を軸とした今日的テーマを取り上げてみたい。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:10Comments(0)新市場創造

2016年09月04日

◆未来塾(24) パラダイム転換から学ぶ 回帰から見える未来 前半

ヒット商品応援団日記No656(毎週更新) 2016.9.4.

第1回の「パラダイム転換から学ぶ」では日本の近世から近代への転換点である江戸から明治への変化について、その痕跡をもとに考えてみた。第2回ではそうした変化の源であり今日のライフスタイルの原型が作られた江戸の変化について考えてきた。そして、今回は戦後の大きな転換点であるバブル崩壊、昭和から平成へと向かう変化、最大の変化イデアル2つの回帰について考えてみることにした。



「パラダイム転換から学ぶ」

回帰する「時」、回帰する「私」。

回帰から見える「未来」


昭和から平成へのパラダイム転換

昭和から平成へ、そのパラダイム変化であるが、バブルが崩壊し、それまでの神話化した多くの価値観が崩れ去り、新たな価値観が突如として現れてきた。潰れないと言われてきた大企業神話、金融機関神話、狭い国土の日本にあっては値上がりすることはあっても値下がりすることはないという土地神話・・・・こうした神話がもろくも崩れ去るのだが、それでも1997年までは世帯収入は増えていた。しかし、1998年以降は逆に減少へと向かい始めた。当時の消費経済をデフレと呼んでいたが、パラダイム転換期の象徴としてあった。こうした混乱と停滯の中で生活者は立ち止まり、不確かな未来に向かうのではなく、「過去」へ、そして「私」という内なる世界へと回帰が始まる。多くのメディア、特に新聞メディアはそれを「失なわれた20年」と呼んでいた。そして、実は今日の日本の姿を予兆させるような転換点にもなっていた。1998年は生産年齢人口が減少に向かった年で、今日の人口減少時代のスタートとなった年であった。そうした転換を唯一指摘したのが堺屋太一さんであったが、当時は誰も見向きもしなかった。

こうした時代の停滞感が横溢する雰囲気と共に、昭和から平成というパラダイム転換の中で、生活全般に変化を及ぼしたのは何かといえば、やはり「時間」の変化であろう。1980年代後半の都市においては「24時間化」がテーマとなっており、金融ビジネスを中心に地球時間という「無時間化」が進行していた。コンビニも24時間営業しており、眠らない街という表現もこの頃生まれた。昼夜の境目、更には季節感すら無くした時間生活であった。その時間感覚の病変は、バブル崩壊後の1990年代半ば以降、特にIT技術の進化と共に「不眠」、更には精神的な「鬱」という形で現れてきた。「不眠」を単純化して言えば、眠りのリズムをコントロールする体内時計が、社会(ビジネス)時間のスピードについていけなくなったことによる。この反作用としてライフスタイルに現れてきたのが、自然時間に沿ったスローフードであり、スローライフである。
こうした時間感覚、スピード感覚についていけない、いわば自己防衛的な心理環境が生まれていた。それは、”以前はそうではなかったという思い”という、過去やかっての自分を振り返る、そんな回帰心理である、

ところで10年ほど前にコンビニのヒット商品として「揚げパン」に注目が集まったことがあった。あの懐かしい学校給食の人気メニューの一つであったが、その「揚げパン」の主要な顧客はシニア世代ではなく、当時の中高生であった。思い出消費の一つであるが、若いティーンにも過去に遡った消費はある。それを「プチ思い出消費」と私は呼んでみたが、コンビニの人気定番商品の一つとなっている。そうした学校給食のコッペパンも冒頭の写真のようなお洒落なコッペパン専門店が街に出てきている。
勿論、懐かしい揚げパンやジャムパンだけでなく、あんコッペやシナモンコッペ、あるいは惣菜コッペにはトレンドとなっている「鯖コッペ」のようなものまで。つまり、「過去」を食べるだけでなく、焼きたてのふわふわコッペに「今」というトレンドを挟んで食べる、そんな進化した専門店がじわじわと増えている。

こうした慣れ親しんだ「過去」は団塊世代をはじめとした昭和を生きて来た生活者だけの現象ではない。若い世代にとってもある意味新鮮な感じ、Newsなものとして受け止められており、それを「昭和レトロ」といったキーワードで表現されている。例えば、この未来塾でも取り上げた若者の街、トレンドを発信する吉祥寺駅前にある写真のハモニカ横丁もそんな街の一つとなっている。戦後闇市の匂いをさせながら、猥雑感のある裏通りには昔ながらの店と共に、洒落た日本酒の立ち飲みショットバーもある。その横丁の主要顧客は昭和のシニア世代というより、若い平成世代となっている。残された「過去」の中に、新鮮な「何か」を感じとっているということである。

回帰現象を促す個人化社会

昭和の時代ぐらいまでは「家」という社会単位で受け継がれてきた常識、やり方や方法に基づいて日常行動や消費が行われてきた。今、そうした過去の常識、例えば「家庭の味」とか「しきたり」「慣習」といったことへの遡及&見直しが始まっている。特に、核家族化が進んだことによる「子育て」などは深刻な問題にもなっている。夫婦共稼ぎは当たり前の時代にあって、経験を積んだ祖母に保育を頼んだり、そんな保育をボランティアするシニア世代も出てきた。若い世代にとって徹底的に足りないのは「経験」という引き出しである。つまり、自分の中に、いつの間にか得た情報によって「作られてしまった」常識や習慣を見直してみようという気づきが生まれる。過去という古い経験など唾棄すべきと勝手に思い込んできたことへの見直しである。
大きく言えば、この気づきがいわゆる過去回帰現象といわれていることの本質である。既に、第1回の「パラダイム転換から学ぶ」の主要なテーマであった「洋」に振れたライフスタイルから「和」への回帰を始め、極論ではあるが「過去」あったものに「回帰」というキーワードをつければ、それはそれで一つの世界が出来上がってしまうほどである。例えば、時間軸から見ていくとブームとなった「昭和回帰」や「′60年代回帰」、あるいは最近ではライフスタイルの原型となっている「江戸回帰」といった具合である。
あるいは回帰を「場所軸」から見ていくと、ブームとなっている「京都や奈良観光」は「日本の歴史・文化回帰」ということになる。更には、生まれ育った「ふるさと回帰」、その先にあるのが古民家ブームとなる。
簡単に図式化してしまうと、こうした「時」「場所」、更に言うならば「人」や「テーマ」に沿って、商品開発やサービス開発が行われ多くのヒット商品が生まれてきている。私はこうした過去へと遡る消費を「思い出消費」と名付けたが、こうした回帰世界はもはや常態化した社会へと広がってきている。
つまり、「過去」は単に古いものとしてではなく、潜在的にはそこに未来の芽を見出す行為としてある。意識されないまま眠っていた無意識が、何かのきっかけによって思い出され、結果「思い出」となる。その延長線上に消費がある。今、東京を始めライブハウスは団塊世代を中心に満杯である。かくいう私も同じであるが、過去のオールデーズを聞くことによって、青春という元気さに触発される。つまり青春フィードバックという元気の未来を見出しているのである。一方、若い世代にとっては、横のネットワークからは得られない未知の新しさを感じるものであり、まさにOLD NEW(古が新しい)という未来だ。

回帰現象の構図

バブル崩壊後の混乱にあって、人も企業も希望や夢が持ち得なくなった時、あるいは実感できなくなった時、未来を見出すために過去やあるいは原点へと向かう。それは意識しての場合もあれば、無意識の場合もあるが、大きくは次の2つの回帰現象となって社会へと現れてきた。

1、歴史という過去への回帰
2、原点基本への回帰
この2つの回帰の構図を図解すると次の図のようになる。

前述の吉祥寺ハモニカ横丁の昭和レトロは勿論「歴史過去回帰」現象の一つで、街から醸し出される雰囲気が心落ち着く優しい時間を提供してくれる生活世界のことである。そんな東京の下町レトロとして谷根千(谷中、根津、千駄木)というエリアを取り上げたことがあったが、周知のように今や一大観光地となっている。再開発が今なお進む東京にあって、林立する高層ビルの谷間や一角には規模は小さいものの、昭和の匂いがする町並みや商店街が残されている。




10数年ほど前になるが、京都の町屋に住みたいと、東京を離れ京都に移住する若者が増えたことがあった。あるいは、地方には築100年といった古民家も多く、住まいに、あるいは事務所にとリノベーションする若い世代も多くなった。柱や座敷、あるいは炊事場などに残された歴史の痕跡、
そこに住んでいた人や生活のぬくもりを感じさせてくれる、そんな優しい世界をレトロと呼んできた。このように回帰するとは過去や原点に帰ることによって見出す「未来」とは、映し出された過去であり、映し出された夢や希望であり、映し出された「好き」の世界であり、そして映し出された生きざまということになる。いわば、過去や原点をフックにして、未来をシュミレーションするということである。これが過去回帰の構図である。

消費の表舞台へと噴出した回帰現象

このように1990年代から続く過去回帰現象ではあるが、リーマンショックの翌年2009年には景気の後退・低迷さによるものと考えられるが、消費の表舞台へと一斉に出てきている。ちなみに日経MJによるヒット商品番付では次のような番付となっていた。

東横綱 エコカー、 西横綱 激安ジーンズ
東大関 フリー、    西大関 LED
東関脇 規格外野菜、西関脇 餃子の王将
東小結 下取り、   西小結 ツィッター
東西前頭 アタックNeo、ドラクエ9、ファストファッション、フィッツ、韓国旅行、仏像、新型インフル対策グッズ、ウーノ フォグバー、お弁当、THIS IS IT、戦国BASARA、ランニング&サイクリング、PEN E-P1、ザ・ビートルズリマスター盤CD、ベイブレード、ダウニー、山崎豊子、1Q84、ポメラ、けいおん!、シニア・ビューティ、蒸気レスIH炊飯器、粉もん、ハイボール、sweet、LABII日本総本店、い・ろ・は・す、ノート、

当時のブログに、私は「過去」へ、失われた何かと新しさを求めて」というタイトルをつけた。そして、2009年を、大仰に言うならば、戦後の工業化・近代化(都市化)によって失われたものを過去に遡って取り戻す、回帰傾向が顕著に出た一年であった。しかも、2009年の最大特徴は、数年前までの団塊シニア中心の回帰型消費が若い世代にも拡大してきたことにある。
復刻、リバイバル、レトロ、こうしたキーワードがあてはまる商品が前頭に並んでいる。花王の白髪染め「ブローネ」を始めとした「シニア・ビューティ」をテーマとした青春フィードバック商品群。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」は出荷本数は優に400万本を超えた。居酒屋の定番メニューとなった、若い世代にとって温故知新であるサントリー角の「ハイボール」。私にとって、知らなかったヒット商品の一つであったのが、現代版ベーゴマの「ベイブレード」で、2008年夏の発売以来1100万個売り上げたお化け商品である。(海外でも人気が高 く、2008年発売の第2世代は累計で全世界1億6000万個 を売り上げている。 )
この延長線上に、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」や神戸の「鉄人28号」に話題が集まった。あるいは、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラだ。
売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」であり、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。

仏像に魅入る女性たち

更に、2009年の特徴の一つが「歴史回帰」である。歴女ブームの火付け役となったのがアクションゲーム「戦国BASARA」で、累計150万本売ったとのこと。
そして、実は2009年3月31日から東京上野国立博物館で行われた「阿修羅展」には連日1万人を超える入場者があり、4月28日には30万人を超えたと報じられた。奈良・興福寺所蔵の天平文化を代表する仏像が一堂にそろう特別展であるが、入場者はというと、従来であるとシニア世代の愛好家がほとんどであったが、ところが20代、30代の若い女性がかなり多く見受けられた。またこの「阿修羅展」に先だって東京世田谷美術館で行われた「平泉 みちのくの浄土」も同様に若い世代の入場が多かった。そして、小柄で小顔の美少年のようだと、阿修羅像に魅入る女性達を「アシュラー」と呼んでいた。
このように過去を遡り過去の「何か」に共感し、歴史という見えない糸をたぐり寄せる「アナログ世界」は、いわば連続する世界と言うことができる。手繰り寄せるとは、想像できる確かさを感じることができることで、いわば千年の世界を旅することでもある。

もう一つの回帰、自分回帰へ

10数年前、「自分探し」という言葉が若い世代の間で流行ったことがあった。多分に情緒的な表現ではあるが、その本意とするところは自分の感性、自分の好きに素直になろうという意味であった。実はパラダイム転換とは多様な価値観が衝突しあうことである。そうした中で最も信じられるものは何か、それは自分であり、自己直感である。過剰情報の時代、あれもある、これもある、でも信じられるのは自分の直感やセンス。ある意味、自分回帰、「私」回帰のことである。

なぜこうした自己回帰志向が見られるようになったのか、それは家族という社会の単位が壊れ、個人単位の時代になったことによる。社会の単位は住生活の変化に表れてくるように、既に1990年代には単身的生活世帯(子供のいないDINKS世帯を含む)は50%を超えた。
こうした豊かさと引き換えに新たな問題も生まれてくる。周知のような家族の崩壊である。夫婦共稼ぎは当たり前のこととなり、離婚率は上昇、家族団らんという言葉は既に死語となっていた。
実は1960年代うさぎ小屋と言われた住居も、子供には個室があてがわれるようになり、いわゆる核家族化し、反面いままであった家族団らん的世界は崩壊していく。個人化社会が生活の隅々へと浸透していく。1985年、最高視聴率50.5%というお化け番組と言われたドリフターズの「8時だよ!全員集合」が終了した。

昭和と平成のはざまで

「歌が痩せていく」と語ったのは、昭和と平成の狭間を生きた数々のヒット曲を作った作詞家阿久悠であった。平成の始まりとと共に、歌謡曲という言葉が消えたという俗説を半分認めながらも、阿久悠は「歌謡曲というのはそんなひ弱なものではなく、時代を呑み込みながら巨大化していく妖怪のようなもので、めったなことでは滅びたりはしない」と語っていた。
その阿久悠は亡くなる前のインタビューに答えて、昭和と平成の時代の違いについて次のように話している。
「昭和という時代は私を超えた何かがあった時代です。平成は私そのものの時代です」と。
「私を超えた何か」を共有し得る時代感あるいは思いと言っても間違いではないと思うが、時代が求めた大いなる何か、と考えることができる。。一方、「私そのもの」とは個人価値、私がそう思うことを第一義の価値とする時代のことであろう。阿久悠が作詞した中に「時代おくれ」という歌がある。1986年に河島英五が歌った曲である。

妻には涙を見せないで
子供に愚痴をきかせずに
・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい
(「時代おくれ」 作詞阿久悠、作曲森田公一 、唄河島英五)

50代以上の人であれば、あの歌かと思い起こすことだろう。昭和という時代を走ってきて、今立ち止まって振り返り、何か大切なことを無くしてしまったのではないかと、自問し探しに出るような内容の歌である。1986年という年は、バブルへと向かっていく時に当たる。バブル期もそうであるが、阿久悠は以降の極端な「私」優先の時代を予知・予告していた。

そして、阿久悠は晩年「昭和にあって平成にないもの」を周知のように小林旭に歌わせた。代表作である「熱き心に」の8年後に、「あれから」(1993年)を作詞し同じように小林旭に歌わせている。
 心が純で 真直ぐで
 キラキラ光る 瞳をしてた
 はにかみながら語る 夢 大きい・・・・
純も、キラキラも、はにかみも、夢も、日本人が失ったものであったと阿久悠は感じたのだが、これらのキーワードは歌にではなく、違ったところで生きている。阿久悠がいみじくも語っていたが、日本人が失ったものを探し出すには2つの方法がある。1つが昭和の秋の最後を語ること、もうひとつが平成の春を語ることであると。

個族と家族

実は「個族(こぞく)」と名前をつけたのは私であるが、1990年代後半渋谷に集まってきたティーン、ガングロ山姥と呼ばれ覇砂羅ファッションをまとった彼女たちこそこの個族の芽であったと思う。学校にも、家族にも居場所がなかった彼女たちにとって、大人にとって一種異様にも感じられる渋谷という街は、彼女達にとっては居心地の良い自由な舞台空間であり、学校にも家庭にもない「居場所」であった。そして、何よりも「大人」になるための学習体験の場であった。私はそうした社会体験の場の象徴として渋谷109を「大人の学校」と呼んだ。それは時に、援助交際や薬物中毒といった、大人の罠にはまってしまうという社会問題も引き起こすのであるが。そうした清濁、善悪混在した一種の通過儀礼の空間としてあった。これはインターネット上の出会い系サイトを含め子供達の多くが通過しなければならない儀礼と同様である。
こうした「居場所」が渋谷109から駅前のスクランブル交差点へと移ったのが、ハロウィンフィーバーである。仮装した数千名の若者がスクランブル交差点に集まり、ただ行き交うだけのことであるが、個族にとって「お気に入りの自分」を発表する舞台となった。ネット上の舞台としてはインスタグラムがあるが、東京ディズニーランドから始まったハロウィンも独り歩きを始め独自な劇場となった。やはり渋谷は特別な街、誰もが注目するメディアであるからであろう。

また個族は若い世代だけのことではなく、高齢社会もまた個族を生み出し、独居老人が増加している。2010年NHKはこうした問題を指摘し「無縁社会」と呼び、NHKスペシャルで放送した。そして、社会問題化しているのか無縁老人の「孤独死」である。2003年には1441名だった東京23区内の孤立死が2012年には2727名に。10年間で約2倍にまで拡大しており、人間関係が希薄な都市においては年々増加傾向にある。

こうしたバラバラとなった個人、今まであった関係、縁を気づかせてくれたのが、あの2011年の東日本大震災3.11であった。家族、仲間、コミュニティ、故郷、忘れかけていた人と人との関係の大切さに気付かされ、新たな関係の再生へと向かいつつある。そうした「私」とは何かを気づかされ、そうした「私」を大切にしようと、回帰する「私」から未来を見ようとする志向である。そうした志向を「私」回帰と名付けたが、そうした回帰全体を図解すると次のようになる。

個人サイズの消費世界

こうした回帰というパラダイム転換の中で誰の目にも実感したのが消費の世界である。従来の消費の中心にファミリー、家族をイメージしていたが、この10数年前から個人を対象とした・マーチャンダイジング&マーケティングへと変貌してきた。その象徴として、2000年代中ば「一人鍋」がヒットし、「ヒトリッチ」といったキーワードが流行った。そうした個人化社会の進行に伴い、あらゆるものの単位革命が起きた。




それまでの物理的単位、量、サイズと共に、時間単位、スペース単位、あるいは金額の単位、それらの小単位化が進行してきた。それらは「食べ切りサイズ」「飲み切りサイズ」といった具合であったが、それらを称して私は「個人サイズの合理主義」と呼んできた。1990年代の個性化といわれた時代を経て、2000年代に入り好き嫌いを物差しに、若い世代では「私のお気に入り」というマイブームが起きた。しかし、周知のように中流層の崩壊といった経済的理由や就業への不安などによって急速に「お気に入り」から、「我慢生活=身の丈消費」へと移行した。そして、その個人サイズの合理主義の延長線上に実は質的変化も出てきた。こうした合理主義はデフレマインドと重なり、個人サイズはどんどん進化した。大きな潮流にはなってはいないが、断捨離といった超シンプルスタイルにまで凝縮してきた。

こうした若い世代のみならず、個人化はあらゆる世代にも特異な社会現象として出てきている。
例えば、既に2000年代前半から、働くシングルウーマンという言葉と共に、「ヒトリッチ」というキーワードが流行り「ひとり旅」がトレンドとなった。そして、お一人様用の小さな隠れ旅館や隠れオーベルジュが人気となり、言うまでもなく今なおその傾向は続いている。
ラーメン専門店もお一人様用、居心地良く食べてもらえるように従来の店作りを変えた。その代表例が、周知の豚骨ラーメンの「一蘭」である。カウンターの座席を間仕切りで個室のようにした人気店である。勿論、にんにくの有無。ねぎの種類。味の濃い味、薄味。秘伝のたれの量(辛め)などは、オーダーシートで細かく注文ができるパーソナルサービスである。最近では女性客だけでなく、訪日外国人の人気ラーメン店の一つにもなっている。
あるいは若い女性に限らず、カラオケ店もお一人様用サービスを数年前から始め、従来では難しかったゴルフの一人参加も可能なクラブも出てきている。
(後半へ続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造