2018年09月15日

◆災害列島の夏 

ヒット商品応援団日記No722(毎週更新) 2018.9.15.


平成最後の今年になって、6月には大阪北部地震、7月には西日本豪雨災害、そして、9月に入り巨大台風21号による関西直撃・関空麻痺、2日後には北海道では震度7の地震が起き全道ブラックアウト。北海道を始め被災した地域では今なお復旧・復興の苦難が続いている。この間、起こった災害に対し、想定外と想定内と思われることが混在し、新たな対応、個人においても新たな自覚が必要となっている。

少し前のブログに昭和と平成という時代の比較において、昭和という時代の空気感を「豊かではなかったけど・・・・・夢があった」と書いたが、バブル崩壊後の平成という時代を表現するならば、「豊かにはなったけど・・・・・・夢がない」 ということになる、そのように書いた。1990年代はバブル崩壊による産業構造の転換・空洞化と混迷。阪神・淡路大震災、オウムサリン事件。2000年代には経済立て直しの中のリーマンショック、そして2011年3月には東日本大震災が起きる。当時言われたことは新語流行語大賞に準じていうと次のようなキーワードとなる。
・想定外・安全神話・復興・瓦礫・帰宅難民・計画停電・メルトダウン・絆

今起こっていることは、東日本大震災の時のキーワードと同じであることに気付くであろう。「想定外」という言葉は死語になったと思っていたが、この間起こった災害には多くの「想定外」があった。西日本豪雨についても、岡山、広島、愛媛がその被災中心地域であるが、いわゆる瀬戸内という温暖な気候として考えられてきた。その温暖な気候は柑橘類の産地であり、豊かな魚介の恵みを得てきた地域である。それが停滞する梅雨前線による豪雨によって、河川の氾濫や浸水害、土砂災害が発生し、死者数が200人を超える甚大な災害となった。その背景には世界的な気候変動があると思うが、過去の経験から考えられる常識とは異なる「想定外」の災害である。
そして、北海道における震度7という想定外の巨大地震は既に分かっている活断層とは異なる未知の活断層による地震であることが分かっている。以前から言われてきたことだが、日本全国どこでも、いつでも巨大地震に遭う中で生活しているという自覚を促すものであった。つまり、自然は常に「想定外」であるということだ。つまり、コントロールなどできないということである。

ところで、東日本大震災における福島原発の事故による電力不足、その時言われた計画停電やブラックアウトの教訓が今回の北海道地震による苫東火力発電所の停止、その対応策に生かされていなかったことは極めて残念なことである。停止中の泊原発の再稼働をあてにした電力計画であったと指摘されても仕方のない経営であったと言わざるを得ない。福島原発による首都圏の計画停電がどれだけ産業や生活に影響を及ぼしたか、ブラックアウトという最悪の状態を回避するために輪番停電という段階的な方法による停電が順次行われた。一日3時間程度、10日間という限定的停電であった。電力会社であれば十分すぎるほど学んだはずである。当たり前のことだが、最悪のことを考えるのが社会インフラ企業の責務であり、想定外はないということである。当時そんな状況を「光と音を失った都市」というテーマで次のようにブログに書いた。

『計画停電という無計画停電は、消費のみならず日本経済をも破壊しかねないと指摘してきたが、小売業や専門店においても企業版ヤシマ作戦が既に始まっている。大型商業施設やチェーン店は独自の危機管理マニュアルを持っており、そのなかの停電マニュアルに沿って実施されているが、その中でもなるほどと思う計画節電を行い売上を回復させているのが日本マクドナルドである。マクドナルドは大震災後は東電管轄エリア内の約700店舗の内、24時間営業店を20店舗まで縮小し、あとの店舗も営業時間を限定する措置をとった。しかし、その後24時間営業店は205店まで拡大し、残る店舗も営業時間を拡大しているという。電力需要の少ない深夜時間を中心に営業時間を拡大させ、その代わりに店内照明は50%に落とし、階段等には危険があるため従来通りの照明を行う。そして、何よりもヤシマ作戦と同様に、外が明るい日中には店長判断でこまめに小さな単位の照明を落とす計画を実施。そして、その計画節電の目標は従来電力使用の50%であるという。(日経MJ 3/28の情報を踏まえて)』

しかし、節電できない業種、金属メッキ製造業や鋳物製造といった電力消費の大きな製造業は否応無く休業状態になったことを思い出す。また、計画停電の対象となった地域は自動車事故も多発した。当時、「便利さ」の裏側に潜むリスクを実感した。今、北海道の人たちは同じことを経験しているということである。
但し、北海道の地場コンビニのセイコーマートが冷蔵設備が機能しない中、飲料や乾電池など最低限の必需商品を販売していた。車のシガーソケットやバッテリーから電気を引っ張ってきたり、レジの代わりに電卓で計算したり。ガス調理施設のある店舗では暖かいおにぎりや惣菜を販売。現在は電力供給が大分復旧したので通常運営に近国はなっていると思うが、災害の初期やり得ることを知恵を出して運営していることは特筆すべき努力であろう。

ところで最大瞬間風速58.1メートルを記録した台風21号の関西直撃に対しては関空への連絡橋にタンカーが強風で流された衝突によって空港へのアクセスに大きな問題を残した。しかし、実はあまり指摘されていないことだが、台風直撃の前日にJR西日本が当日の運転を休止する旨を発表している。勿論、梅田やなんばに乗り入れている阪急電車など各社とも連携した休止である。結果、多くの企業や学校、商店も休みとなり、大阪の中心部は閑散となったが、人的被害や混乱は極めて少なかった。鉄道会社は移動の足という重要な社会インフラであり、電車を停めることはギリギリまで行わないことが常であった。しかし、今回の JR西日本の判断は英断であったと言える。つまり、気象庁の予測に対し想定された災害・混乱を未然に防いだ対策になったということである。一方、孤島と化した関空に閉じ込められた約8000人の利用客や従業員への対応は遅れ、特に脱出などの案内情報が錯綜し不満が続出したことは同じ社会インフラ企業である関空も、また北海道電力も、JR西日本の英断とは好対照であったと思う。

さて本題の災害に対する生活者心理、その先に見える消費の動向である。度重なる災害に対し、50年に一度あるいは100年に一度という災害への対応は、生活者の心理でいえば「万が一のため」の対策である。一種、保険のようなものでそうしたリスクを自己防衛策の中に組み込む認識へと向かっている。それは東日本大震災の時から始まったと思うが、「内なる安全基準」で、ある意味自己納得基準と言っても同じことである。安全に関する情報リテラシーを高める、学習するということである。
例えば、今回の北海道地震によって明らかになったことはすでに分かっている活断層ではない未知の活断層によるものであった。今までの活断層の上に建築物を建てることを避けるといった基準は最早当てはまらないということである。また、西日本豪雨のような雨による土砂災害ではなく、地震による土砂災害が起きた災害であり、火山灰の堆積地質がその原因であることも分かってきた。東京で言えば23区の半分ほどが武蔵野台地と呼ばれている火山灰の堆積上に都市が造られている。勿論、分かっている活断層も立川断層など数カ所あるが、未知の活断層も否定できない。そして、23区の東側の多くは海抜0メートル地帯であり、豪雨や高潮による災害が想定されている。既に区の垣根を超えて災害への対策はスタートしているが、身近なところにそうした想定災害が迫っているという認識の表れである。
3.11の後に防災グッズや最低限の水や食品などのセットはホームセンターを始め陳列棚が常設されるようになった。そして、節電を超えて家庭用蓄電池も注目され、電気自動車の需要は蓄電池替わりにもなることから加速していくであろう。

既に報道されているが北海道も大阪も観光産業は大きな打撃を受けている。北海道では人気の旭山動物園も地震後の来園者は一日約3000人で、例年のこの時期に比べて半分以下に激減したとのこと。定山渓温泉、登別温泉など旅館のキャンセルが相次いでいるという。観光協会の集計によれば50万人もの宿泊客のキャンセルがあり、総額100億円に及んでいるという。
関空の閉鎖、復旧がはっきりと見通せない状況は、訪日外国人客(インバウンド)による宿泊や買い物需要に沸く関西経済にとって大きな打撃になっている。京都観光についても定番の清水寺も台風後は参拝客が2割ほど減ったという。昨年度、大阪府を訪れた訪日外国人客数が1100万人、消費額も1兆1731億円になったが、先が見通せない関空復旧は日本の観光産業の大きな問題となっている。

よく風評被害というが、北海道も、大阪関空の場合も初期対応が極めてずさんで自ら悪い風評を作っていると言わざるを得ない。観光産業は平和産業であるが、ツーリストにとってみれば「安全・安心」のことである。災害を始め問題が起きたとき、できる限り早く何が起きたのかを正確な情報として届けることが不可欠で、その能力も体制も整備されていないということである。
ターミナルビルに取り残された利用客から、救助を求めたり、出られないことへの不満を訴えたりするツイッターの投稿が相次いだ。旅行客は、関西エアポートが手配した高速船とリムジンバスを使って空港から脱出したが、救助は深夜まで続いた。こうした状況下で、閉じ込められた旅行客の内七百人が中国人観光客で救出に当たった大阪の中国総領事館は夜のうちに多くのバスを手配し、5日午前には数百人の中国人を安全な場所まで送り届けた」と語ったという。この話が中国人旅行者は優先的に脱出できた」と誤解されそれが本国のネットユーザーに伝わり、「中国すげえ」「強大な祖国にいいねを送る」といった具合あに伝わっている。勿論、優先的ではなかったが、ネット社会ではこうした間違った情報が行き交うこと当然あり得ることである。関空の運営会社は英語でしか対応できなかったようだが、国際空港ではあり得ないことだ。

実は東京・新宿駅南口に新宿観光協会が訪日外国人向けのインフォメーションセンターを作った。「NOと言わないインフォメーションセンター」と呼ばれ、なんでも対応してくれるとしてネット上の口コミサイトで評判になっており、多くの訪日外国人が訪れている。こうした良い「風評」もつくることができるということである。このインフォメーションセンターでは英語は勿論のこと、中国語、韓国語、タイ語で問題解決を手伝っている。
旅行者だけでなく、災害の当事者にとってもこうした情報リテラシー・活用は「安全・安心」の大原則となっている。そして、単なる知識・理解としてのリテラシーは経験・学習を重ねることによって安全・安心の基準はより確かなものへと変化してくる。結果、「想定外」はどんどん減り、「想定内」が多くなる。つまり、リスク管理が進んでいくということである。
元々「想定外」という言葉は、2005年の流行語大賞に選ばれた言葉で、小泉劇場にも使われたが、主に堀江貴文・ライブドア社長がニッポン放送株問題のやりとりで発した『想定内(外)』である。流行語大賞自体が死語になっているとの指摘もあるが、当時は広く使われた言葉であった。しかし、その後不祥事や問題が起きた時の理解、あるいは言い訳に使われ、言葉の意味もまた漠然としてきた。しかし、ことは「災害」である。最早そうした原因についての表現としては使ってはならないということである。今回、想定内・外という比較で今起こっている問題について指摘をしたが、次の「安心」キーワードが求められている時代ということだ。(続く)  


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2018年09月03日

◆勝者と敗者 

ヒット商品応援団日記No721(毎週更新) 2018.9.3.

今年の夏は気象庁のみならず異常であったと多くの人は感じている。この異常気象によっていかに災害に弱い日本列島であったかを思い知らされた。勿論この異常は世界的なものでまだ科学としては実証されてはいないが地球温暖化にあると多くの人は感じ始めている。例えば梅雨のないカラッとした気候の北海道ではなく、梅雨をはじめ雨の多い北海道に変わろうとしているし、当然それまでの作物も異なってきている。また、今年は秋刀魚が昔ほどではないが昨年のような不漁ではなく、新物の秋刀魚も脂がのっており価格も手がとどくものであって、消費のテーブルにのってきた。何れにせよ、気候変動は生活の根底そのものを大きく変えるしまう「変動」である。

さてこの「変動」は気候だけでなく、社会のあらゆるところで起きていることがわかる。最近ではスポーツ界の不祥事が相次いでいる。女子柔道、女子レスリング、日大アメフト、アマチュアボクシング、そして今回の女子体操、・・・・・・セクハラ、暴力指導、パワハラ、挙げ句の果てはインドネシアアジア大会におけるバスケットボールチーム4人の買春。そこに通底しているのは巨視的に見れば東京オリンピックを控えての国際的な標準・常識に合わせる、いわばパラダイム(価値観)転換が行われているということであろう。
そして、その多くが内部告発によるものである。更に言うならば、誰もの関心事である東京オリンピックを前にしたタイミングであり、メディアも取り上げやすいタイミングになっていると言うことである。しかも、今回の女子体操・宮川選手へのパワハラ問題で公になった内容の中に代表選手選考問題が指摘されていた。実は91年には半数以上の選手がその採点に問題があると指摘しボイコットした事件があった。当時も告発された塚原光男氏は競技委員長、強化部長だった千恵子氏は主任審判も兼務する要職にあり、2人が指導する朝日生命クラブの選手に対し、不自然に有利な点数が出たとしてボイこっこした事件である。当時はマスメディアの関心事にはなく、取り上げられることは少なかったが、現在はSNSをはじめとした多様なメディアによって拡散のスピードもその範囲の大きさもある時代である。少し前の日本アマチュアボクシングにおける奈良(山根)判定と同じようなことが行われていたと言うことだ。勿論、第三者委員会による報告がなされていないので確定的なことは言えないが、少なくともパワハラといった問題だけでなく、日本のスポーツ界の構造的な問題が露わになったと言うことである。

ところで2015年のラクビーW杯における桜ジャパンの活躍、特に南アフリカ戦のトライに多くの人は感動した。帰国後の記者会見などで明らかになったことだが、その背景にはエディーコーチによる高度な科学技術を踏まえた過酷なトレーニングがあったことが分かった。そのトレーニングを影で支えたのがITベンチャー企業ユーフォリアの選手強化法で当時の日経ビジネスに詳しく紹介されている。スポーツも常に新しいトレーニング法を取り入れることが必要な時代にいるということだ。体格・筋力など世界に比べ劣っていることからその強化策として緻密なデータ管理を踏まえた強化策で2013年の年初から強化合宿など現場に導入され、以来2年にわたってコーチ、トレーナー、選手など全員がこのクラウドを使い続けた結果があの南アフリカ戦の結果になったと言うことだ。例えば、ベンチプレスやスクワットなどで持ち上げられる重量を、欧米トップ選手並みに近づけろ――。当時エディー氏は相当高い目標を掲げ、来る日も来る日も選手たちはトレーニングに励んでいた。代表メンバーが持ち上げられる重量と目標の間には大きな差があったからだ。ラクビーをしていた友人曰く、代表選手からの話として、その高い個人目標に悲鳴を上げ、笑いながら2度とエディのコーチは受けたくないと話していたとのこと。自身が納得し、トレーニングし、成果が出るまでは苦しかった・・・・・・しかし、チームの試合結果がその努力に報いる良き事例であった。暴力を持って行う指導&トレーニングなど論外である。

アマチュアスポーツにおける指導・コーチングが変化すべきことと共に、「アマチュア」の原則である教育や人間的成長より、勝利が第一ということがスポーツ運営の原則に置き換わってきていると感じることが多くなっている。オリンピックもロサンゼルス大会から過剰な商業主義へと転じたと良く言われている。いわゆる勝利至上主義である。スポーツを通じて、友情、連帯、フェアプレーの精神を培い相互に理解し合うことにより世界の人々が手をつなぎ、世界平和を目指す運動がアマチュアスポーツの精神であった。しかし、開催国の経済的負担が大きく、次第に負担軽減を図るためにいわゆる「スポーツビジネス」としてのオリンピックへと向かっていく。極論ではあるが、「勝つこと」が国威掲揚であると共に、「勝つこと」がスポーツビジネスを成長させるという考え方である。オリンピックの最大収入は「放映権」であり、「入場者収入」である。少し短絡的な言い方をすれば「勝つこと」が儲かるビジネスに直接繋がるということである。その最大の問題・病根がドーピングであり、IOCの最大課題となっていることは周知の通りである。そうした勝利至上主義から生まれてきたのが、各種団体の運営指導体制の多くは金メダル何個取得したかと言う「実績」によって人も制度も構成されて行く。結果どうなるか、勝利至上主義がアマチュアスポーツの新たな基本原則になって行くという歴史であった。

そして、何よりも選手ばかりか、受け手である観客がその勝利至上主義に喝采を送るのである。例えば、今回のアジア大会の女子レスリングのメダルはどうであったかマスメディアはその多くを取り上げようとしない。吉田沙保里、伊調馨と言うオリンピック金メダリストが出場しなかったとはいえ、若い世代は育っていたと言う。しかし、結果は銀メダル2つ、銅メダル2つは取ったが、金メダルには手が届かなかった。言うまでもなく、このアジア大会は世界の強豪が集まる大会ではない。去年の世界選手権と比べれば惨敗と言われて当然だろう。日本レスリング協会の栄和人・前強化本部長(58)が伊調馨選手へのパワハラで今年4月に辞任して以来、初の国際舞台であった。マスメディアもこの敗因を取り上げず、スポーツ評論家もコメントしない。勿論、あれほど女子レスリング選手が「勝つこと」に拍手を送ってきた「にわかフアン」もまるで関心を見せない。つまり、こうした勝利至上主義をつくってきたのは、当該団体幹部だけでなく、マスメディアも観客も同じようにこうしたスポーツの構造をつくり、支えてきたと言うことである。

ところで今年の高校野球は金足農業高校の活躍によってとても面白かった。友人の一人は応援に甲子園へと出かけたほどであった。その友人は金足農業の応援であったが、球場の雰囲気は地元大阪桐蔭ではなく金足農業の方であったとFacebookでコメントしていた。ある種判官贔屓の面もあったと思うが、そこまで高校野球に魅入られるのもその「懸命さ」にある。甲子園においても「勝者」と「敗者」はいる。大阪桐蔭の野球施設はプロ顔負けの設備が完備していると言う。一方、金足農業の方はといえば県立高校ということもあって貧弱な設備である。しかし、そうした判官贔屓を超えた一種の「爽やかさ」があった、そう私には感じられた。そうした意味で決勝戦も面白く、その点差は勝者・敗者の意味を感じさせなかった。何故か。そこには野球が大好きな青年の「一途さ」が見られたからだ。それは金足農業に対してだけでなく、大阪桐蔭の選手に対しても同様である。だから爽やかなのである。勿論、この爽やかさ、一途さの背景には「フェアプレイ」という競技ルールがあることは言うまでもない。ルールというよりスポーツ理念・精神と言ったほうが適切である。

無類の高校野球好きであった作詞家阿久悠さんは、「観る側」からの視点で1979年から2006年の亡くなる直前まで全試合・全球の目撃者として書いた書籍「甲子園の詩」(幻戯書房刊)が残されている。その中で「なぜにぼくらはこれ程までに高校野球に熱くなるのだろう」と自問し、「”つかれを知らない子供のように”と小椋佳が歌ったが、今の子供はつかれきっており、ただ一つ、つかれていないものに心を熱くするのだろう」と語っている。そして、出場する選手への応援歌として「転がる石」を引用しながらその意味合いを次のように書いている。(「転がる石」は阿久悠さんの自伝小説であると共に、後年石川さゆりに同名の曲を歌わせている。)

『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』

この「甲子園の詩」の副題は「敗れざる君たちへ」である。今年注目された決勝戦の2校・選手は優勝旗を持って甲子園球場を一周した。一方多くの「敗者」がいる。敗者は甲子園の土を持ち帰り、心の中にある石をこれからも磨き上げて生きるのである。阿久悠さんは「転がる石」にふれ、「自分も転がる人生であったし、転がることを嫌がって、立場や過去に囚われてしまったら、苔むす石になってしまう」とも語っている。その言葉を敷衍するならば、アマチュアスポーツ自体「転がること」が今問われており、既に苔むしてしまっているということだ。変わることができなかった時、観る側にとって東京オリンピックはつまらないものとなっていくことは間違いない。そして、勿論のこと観る側もまた変わらなければならないということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:16Comments(0)新市場創造