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2018年03月25日

◆「差」が見えた今年の春 

ヒット商品応援団日記No707(毎週更新) 2018.3.25.

新しい年度が始まるこの時期には新しい市場が生まれる時期でもある。新入社員、新入学生、あるいは転勤など新しい生活が始まり、各社、この時期に新商品を含め新しい試みが実施される。その中心は「新生活応援」というフレーズと共に、家電量販や室内インテリア、ビジネススーツ、あるいは新しい口座獲得のための金融機関など需要開発の真っ最中である。デフレが常態化し、しかも人手不足にあってどんな需要開発を目指しているか、主要な企業の戦略を見て行くこととした。

まず牛丼大手はどんな戦略・戦術で臨んでいるかというと、吉野家の場合毎週金曜日にソフトバンクとのコラボ企画「SUPER FRIDAY」を展開しており、業績に大きく貢献したプロモーションとなっている。その企画とはソフトバンクのスマートフォン所有者には牛丼並盛を1杯、所有者で25歳以下ならば2杯無料にするというお得プロモーションである。25歳以下という赤手に見られるように若い世代の需要開発を目指している典型的なプロモーションである。結果がどう出たたかというと、客単価はマイナス11.5%と大幅に減ったものの、客数はプラス54.0%と飛び抜けた形となり、売上もプラス36.3%と跳ね上がる結果となった。つまり集客をテーマとしたプロモーションが成功した典型的な事例となっている。
すき家の場合は新メニューのプロモーションを行っている。旬のあさり汁と牛丼とのセットメニューで「牛丼あさり汁たまごセット(通常価格(並盛):580円)」「牛丼あさり汁おしんこセット(通常価格(並盛):600円)」をお得な560円で販売している。ある意味王道的なプロモーションである。一方松屋の場合は逆に4年ぶりの値上げで、通常の牛丼にあたる「牛めし」の並盛りを290円から320円に引き上げた。米国産牛肉とコメの価格の上昇やアルバイト店員の人件費の高騰で採算が悪化しており、価格に転嫁したという。常態化したデフレ環境にあって、新たな需要の開発というよりも、経営の立て直し策の一つとなった結果である。

ところで大幅な非採算店舗の閉鎖によって経営を立て直したマクドナルドであるが、新商品の導入以外に面白い「夜もマクドナルドで!」キャンペーンを行っている。毎日17時から閉店までの時間帯にレギュラーメニューの定番バーガーを対象に、100円をプラスすると“パティが倍になる”倍バーガーを「夜マック」としたお得なプロモーションである。一時期「朝食」競争が激しかったが、「夜マック」という夜という時間帯需要の掘り起こしの試みでその結果が待たれるところである。このプロモーションを推進するために、「パティが倍」が無料になるデジタルクーポンが当たるルーレットキャンペーンを実施している。「100円ハンバーガー」の撤退、復活、あるいは高級バーガーと言った迷走、更には期限切れのチキンナゲット問題によって顧客離れを起こしたが、やっと需要開発という本来の経営に戻ったということであろう。

こうしたファストフードの最大の競争相手がコンビニであるが、中でもセブンイレブンは好評だった「朝セブン」を復活させ、パンとコーヒーがお得に買えるキャンペーンを実施している。周知のコーヒーとパンのセットが200円というキャンペーンである。実質としては最大40円引きになるキャンペーンで、リニューアルしたコーヒーの促進も兼ねたものとなっている。そして、更にコーヒーとサンドイッチのセットを300円で販売するという連続キャンペーンを実施。
一方、ファミリーマートの場合は、セブンイレブンをどう追いかけるかという根本課題に取り組んでいる。その一つがサークルKサンクスとの統合であり、顧客集客のためのフィットネスジム併設。対消費者につては「ファミキチ」という商品を擬人化した人物による商品プロモーションを行っているだけで、特別な需要開発の戦略はない。次にローソンであるが、一番力を入れているのがスマホ対応で、独自なローソンアプリを開発し、「Ponta」という共通カードサービスによるポイント取得やコンテンツ利用などスマホ世代にマーケティングのウエイトを高めている。また、ローソンの基本戦略は地方に根ざした丁寧な商品MDを展開、例えば健康寿命の短い青森県では減塩おむすびを販売するといった地域戦略を採っている。

ところで業種は異なるが東京ディズニーリゾートが新しいパスポートの発売に踏み切った。この「首都圏ウィークデーパスポート」は4月6日(木)~7月14日(金)の平日に入園できるパスポートで、通常大人 7,400円、中人 6,400円、小人 4,800円のところ、大人 6,400円、中人 5,500円、小人 4,100円で購入できるとのこと。いわゆる平日というアイドルタイムを活用するもので、行楽シーズンの混雑を緩和することでもある低迷が続く東京ディズニーリゾートであるが、2020年春にオープンする予定である「美女と野獣エリア(仮称)」などの新アトラクションまでのいわゆるつなぎ策である。

今まで活性化してなかったアイドルタイムの活用については業種が異なるため比較にはならないが、午後のアイドルタイムに「食べ放題」を実施した回転すしの「かっぱ寿司」がある。16年10月から緑色の「カッパ」でおなじみのロゴをやめ、皿を数枚重ねたロゴに変更。「脱カッパ」でイメージを刷新した。17年には「食べ放題」や「1皿50円」といったキャンペーンを実施してきた。「食べ放題」の時には流石の私も失敗すると指摘をしたが、既存店客数が前年同月比で18年2月まで28カ月連続で減少している。回転寿司市場は全体としては5%近く伸びており、スシロー、くら寿司、はま寿司各社独自性を追求し順調に伸ばしている中での経営である。

こうした各企業の取り組みを見て行くと各社固有の課題も見えてくる。勿論、競争市場下での課題解決である。以前、この競争をどう勝ち抜いて行くか、その「差」をどう創って行くかについて考えたことがあった。インテリア業界に一つの革命をもたらしたニトリのコンセプト「お値段以上のニトリ」とは何か、その「何か」について整理したことがあった。それは従来の価格差だけのデフレにおける「何か」ではなく、新しい「差」の創り方、デフレが常態化した今日の「差」の創り方として次の5つの整理をした。

●業態としての「差」;ex「俺のフレンチ」
●メニューとしての「差」;ex「よもだそば」、「くら寿司」
●価格における「差」;ex「味奈登庵(みなとあん)」、「いわゆる激安店」
●話題性などコミュニケーションの「差」;ex「迷い店」、「狭小店」、「遠い店」、「まさか店」
●人による「差」;ex「看板娘」、「名物オヤジ」

詳しくは未来塾「差分が生み出す第3の世界」を今一度見ていただきたいが、「差分」という概念を持ち出したのは、「差」によって生まれる、顧客の脳が創りあげる「お値段以上の何か」「新しい何か」「第三の世界」をめぐる競争のことである。こうした視点から今回の各社の需要創造の動きを見て行くとより鮮明なものになる。
例えば、吉野家の場合は上記の整理から見て行くと、話題性などコミュニケーションの「差」による集客効果が極めて大きかったということとなる。復活したマクドナルドの場合は、メニュー(夕食)としての「差」づくりであり、すき家も同様の戦略となる。セブンイレブンもこのカテゴリーの中に入るが、「朝セブン」のセットをパンからサンドイッチへと連続浸透させて行く試みで、朝需要の開発としてはマーケットリーダー、つまり王道の進め方と言えよう。こうした整理の根底には勿論のこと「お得」があるのだが、価格における「差」づくりだけでは顧客の選択肢には入らないということはかっぱ寿司の失敗例を見れば明確であろう。なお、快進撃を続けるUSJと比較し集客面で低迷が続く東京ディズニーリゾートであるが、アイドルタイムという経営ロスの改善を行うということで2020年の新アトラクション待ちということであろう。また、経営内容の改善という大きなくくりで見れば、値上げをした松屋も同様となる。
顧客に対する「差」づくりは、100社100様という異なる取り組み方が生まれ、これも常態化したデフレ時代の特徴の一つとなっている。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:25Comments(0)新市場創造

2018年03月18日

◆観光の概念が変わる

ヒット商品応援団日記No706(毎週更新) 2018.3.18.



昨年から消費の舞台に横丁路地裏をはじめとした「裏側」というキーワードを多く使うようになってきた。10年前に「わけあり」というキーワードを使ってきたが、それと同じような頻度で使うようになってきている。「わけあり」が主にデフレ時代の低価格化についてでありリーマンショックがその浸透を加速させてきた。「横丁路地裏」の場合は成熟時代の消費行動についてで、デフレが常態化した時代のキーワードである。実はこの横丁路地裏についても15年ほど前にも別な表現で使われていたことがあった。「隠れ家」あるいは「裏メニュー」「表通りから裏通りへ」、見えているようで、実は見えていなかったとの気づきが始まった結果のキーワードであった。あるいは見ないようにしてきたことへの反省でもあった。例えば誰も知らないところで細々と愚直にやってきたことが、表舞台へと出てくるということだ。サプライズという学習を経て、外側では見えなかったことを見えるように見えるようにと想像力を働かせるように気づき始めたということである。

こうした「裏側」への気づきは「昭和回帰」「ふるさと回帰」といった回帰現象にもつながっている。見るために過去を遡り、今を考えようとしているのだ。あるいは特に地方という未知への興味も根っこのところでは同じである。いかに知らないことが多かったかという自覚であり、自省でもある。横丁路地裏も然りということである。そして、裏はいづれ表となる情報の時代である。この裏が表に出ることを加速させているのが周知のインターネットということである。その象徴としてあるのがこれも周知の訪日外国人市場である。

年が明けても1月の訪日外国人は予測通り増加の傾向を示している。その増加の内容はリピーターであり、地方観光へと向かっていることによる。楽天トラベルによれば島根・鳥取という山陰地方が人気になっており、2017年度のランキングは以下とのこと。
2017年 訪日観光客 人気上昇都道府県ランキング(※前年同期比伸び率順)
1位 島根県 +135.0%
2位 三重県 +132.6%
3位 鳥取県 +130.9%
4位 宮城県 +123.1%
5位 鹿児島県 +119.1%
(母数が小さいので伸び率だけを注視してください)
その理由であるが、出雲大社や松江城、そして玉造温泉という訪日外国人の興味を満たす「観光コンテンツ」があるということと、最大の理由は何と言ってもアクセスが拡充したということに尽きる。そのアクセスであるが、2016年の香港航空による米子-香港線就航など、国際線の拡充が増加の主要因となっている。
また、大きく増加しているのが東北地方で中でも青森県の伸びが極めて大きい。ちなみに、2017年1~10月の東北6県でトップは青森は19万6千人で、宮城(18万5千人)、岩手(14万9千人)と続く。その理由であるが、青森県は北海道新幹線開業をにらみ、空路と新幹線、フェリーの青森―函館航路を最大限活用して交流人口を増やす「立体観光」戦略を推進。中国、台湾、香港、韓国の4カ国・地域を海外誘客重点エリアに位置づけている。空路では、青森空港初の中国定期便となる中国・奥凱航空の青森―天津線が5月に就航。大韓航空は高い搭乗率を受け、週3往復だった青森―ソウル線を10月から週5往復に増便するなど、海外とのアクセスの利便性が一段と高まった。客船誘致も早くから力を入れ、17年に青森港に寄港した大型クルーズ客船は22隻と東北トップ。19年には英国の豪華客船「クイーン・エリザベス」が青森港に初寄港する予定とのこと。そして、青森市の居酒屋「ねぶたの国たか久」は津軽三味線ライブなど青森の伝統文化を体験できるのが売りで、台湾人で連日賑わっているという。
このようにアクセスの拡充が行われた結果が地方に観光客を大きく誘致できた理由となっている。このように山陰地方も東北・青森も従来のゴールデンルート的発想からは生まれない観光地であった。私の言葉でいうならば、日本の「裏側」観光ということで、そのコンテンツは地方には無尽蔵にあると言うことだ。

ところで冒頭の写真についてであるが、大阪梅田の新梅田食道街にある笑卵(わらう)というカウンターだけのうどん・そばと卵を使った親子丼などを食べさせてくれる梅田のビジネスマンにはよく知られた店である。いくつかあるメニューの中でも人気なのが、うどん(そば)+卵かけ定食でワンコイン500円。なぜこんな写真を使ったかというと、訪日外国人の興味関心事は日本の「裏側」へ、「日常生活」へと向かっており、次に向かうのは都市の裏側が予測されるからである。写真の新梅田食道街はJR大阪駅と阪急梅田駅のはざま、しかもJR線の高架下にある食堂街で、大阪人にとってはよく知られた場所であるが、こうした場所にも訪日外国人は現れてくるということである。更に言うならば、店の名物メニューである「卵かけご飯」という日本人には慣れ親しんだ食ではあるが、訪日外国人にとっては20年前の刺身がそうであったように初めての「食」となる。つまり、こうしたサラリーマンの日常にも押し寄せてくるであろうということである。
この食堂街には立ち食い串カツの松葉本店や奴(やっこ)といった居酒屋などその多くは立ったままのスタイルの店が多い。ある意味、梅田のサラリーマンにとって聖地であり、東京であれば新橋の西側に広がる飲食街と同じである。こうした訪日外国人が東京新橋の路地裏にある例えば大露路という居酒屋に現れるかと言えば、すぐそこにまで来ていると言うことである。
こうした表から裏へ、既知から未知へ、あるいは現代から過去へ、といった傾向は観光だけでなく、食で言えば賄い飯のような裏メニューから始まりサラリーマンのワンコインランチにまで、勿論食べ放題も体験する、そんな訪日外国人が増えてきている。情報の時代がこうした興味を入り口とした小さな知的冒険の旅と化してきたということだ。



こうした興味関心事の「表」から「裏側」への変化は勿論訪日外国人市場だけではない。隠れ家や裏メニューといった「裏側」への興味は実は足元にも広がっていることに気づき始めた時代に生活している。足元とは地域で言えば国内であり、もっと狭い地元となり、楽しみ方としては「非日常」「特別」ではなく「日常」「普通」の中にある。つまり、視点を変えればそこは「新しい、面白い、珍しい」世界が広がっていることに気づかされ始めたたということである。こうした背景には所得が伸び悩んでいることが一番の理由であり、余暇市場としては縮小傾向にあり、今なおその傾向にある。余暇市場も成熟時代にあっていわゆる「身の丈消費」となっている。日本生産性本部による調査データが新聞記事にまとめられていたので掲載しておく。ちなみにこのデータは全体値であり、1年365日自由時間となったシニア世代がその余暇市場の多くを占めていることは言うまでもない。そして、このシニア市場のシンボル的旅行が周知の日帰りバス旅行である。温泉や旬のグルメ、食べ放題といったメニューのバスツアーであるが、この市場にも訪日外国人が少しづつ増え始めている。

昨年ブログにも書いたが、京都などの名所観光には訪日外国人も多く、日本人観光客はその多さにひいてしまい敬遠する傾向にあるという。このように2つの市場がクロスし、雑踏状態になった観光地も出てきている。そして、6月にはいわゆる民泊が実施されることになり、観光地のみならず生活者の住居地域にも多くの訪日外国人とのクロス状態が生まれることとなる。当然、街場の定食などの食堂にも食べに来るであろうし、銭湯を楽しむ人も出てくる。つまり、日常生活の中にどんどん入り込んでくるということである。
今年度の訪日外国人は3200万人と予測されているが間違いなく実現されるであろう。日本はマレーシアや香港、ギリシアの観光客数を超えて、オーストラリアやタイと同じような観光客が訪れるということである。つまり、世界で有数の観光地になったということである。この日本という狭い国土に、人口1億2700万人の街に、生活の中に、観光客が訪れるということである。

日本の「表」となる観光地は、新梅田食道街ではないが「裏側」にも興味関心事は向かって行く。東京であれば裏浅草や銀座であれば路地裏観光が進んで行く。実は日本は驚くほどの観光資源を持っている国である。それは日本人が知らないだけで、世界からは「未知」という魅力に満ちた国であると見られているのだ。クールジャパンと言われていた20年前と比べ、それまでのアニメやコミック、あるいはサムライ、忍者、禅、寿司、といった「日本イメージ」から大きく広がりを持った日本へと向かっている。ちょうど、家電製品の爆買いを終え、コンビニやドラッグストアでの買い物へと変化したように、日本の生活文化、日常へと進んできたということである。昨年秋に「もう一つのクールジャパン」というタイトルでブログを書いたが、もう一つどころではなく、路地裏にまで進出してきたということである。
これから桜の季節である。今年も多くの訪日観光客が花見に訪れるであろう。花見の名所は日本全国至る所にあり、日本が世界に誇れるものの一つが「四季」にある。四季から生まれた日本固有のライフスタイル、祭事や行事、食は勿論のこと暮らしの道具まで楽しむことができるコンテンツ王国であるということだ。今までブログを読んでいただいた読者は理解していただけると思うが、日本の産業構造が脱工業化へと変われるチャンスが生まれつつあるということだ。地方創生の新しい芽もまた生まれつつあるということでもある。但し、観光産業は平和産業である。そして、日本文化の成熟度がこれから試されるということでもある。より具体的に言うならば、「おもてなし」の心や宗教的寛容さ、さらには清潔で安全という日本ならではの魅力を観光商品の新しい価値として確立させて行くことが課題となる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:20Comments(0)新市場創造

2018年03月11日

◆都心からわずか10数分の秘境駅 

ヒット商品応援団日記No705(毎週更新) 2018.3.11.


新しい消費物語始まる」と元旦のブログに書いた。「その新しさ」とは”モノ充足から離れた成熟時代の「いいね文化」「共感物語」”という新しさで、SNS、特に Facebookやインスタグラムによるもので、その新しい物語の拡散スピードは極めて早く、しかも広く到達する。こうした傾向は情報の時代の特徴でもあるのだが、1990年代後半に多発した「ブーム」とは異なるものとなっている。その理由は周知のインターネットによるものである。

ところでその拡散世界は「商品」は言うに及ばず、大きく言えば「人物」から「自然」「歴史・文化」更には「出来事」、つまりインターネットに載るものであれば全てが拡散の対象となる。渋谷のスクランブル交差点からピコ太郎まであらゆるものが拡散する時代である。勿論、そこにはユーチューバーや炎上商法という「逆手」にとったものまで現れている。米国の調査では「フェイクニュース」ほど拡散スピードは早く、しかも広がる対象も広いことがわかっている。その根底には、いまだかって出会ったことのない世界への興味関心であって、一言で言えば「未知」ということになる。フェイクニュースも今までの常識とは異なる未知の情報ということだ。私の言葉でいうならば、新しい、面白い、珍しい世界となる。そして、これも持論ではあるが、未知は大通りではなく横丁路地裏にあると。

さて冒頭の写真を見てどう感じられたであろうか。JR鶴見線の国道駅の写真で、都心からわずか10数分で体感できる秘境駅である。廃線が相次ぐローカル線の秘境駅が鉄道フアンのみならず、TV放映され人気の観光スポットになっている。これも「未知」を面白がる世界の一つである。鶴見線は鉄道オタクには知られた鉄道路線である。その理由であるが、鶴見線は首都圏にあって秘境駅と呼ばれるように歴史遺構レトロラインとして現存している。この鶴見線が走るエリアは京浜工業地帯誕生の地であり、日本の工業化の痕跡が今なお残っている。現在は路線沿線の工場群に働く人達の通勤路線となっているが、昼間の利用客は極めて少なく、秘境駅と呼ばれる駅がほとんどとなっている。こうした歴史を体感できる良きレトロラインでもある。

鶴見駅から一つ目の国道駅はいわゆる無人駅となっている。駅高架下の通りは昭和初期の風情が漂う空間ではある。ちなみに古いデータであるが2008年度の1日平均乗車人員は1,539人である。こうした空間から、黒澤明作品『野良犬』をはじめ、2007年の木村拓哉主演テレビドラマ『華麗なる一族』最終話など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用されている。
高架下空間が異様なムードを醸し出す駅として、紹介されることもある。高架下通路は約50メートルで、居酒屋が一軒営業しているが、他は無人の住居と店舗跡となっている。

実は全てではないが、こうした未知はどこにあるのかを探るには、1980年代までは「オピニオンリーダー」という存在からの情報であったが、今やその役割は「オタク」に代わった。勿論、オタクとは特定分野に人一倍思い入れがあり、こだわる人物を指すのだが、その分野はそれまでコミック・アニメから極めて広い世界へと広がっている。20数年前までは奇人変人と言われてきたが、現在は「その道の専門家」としてSNSなどでは有名人扱いとなっている。最近は落ち着いてきたが、ブログの浸透とともに、例えば「ラーメン食べ歩き」から始まり「ラーメン二郎の食べ歩き」になり、地方の「ご当地ラーメン食べ歩き」へとどんどん進化している。今までは美しい景観写真はプロカメラマン専用の世界であったが、例えばインスタグラムの浸透によって、夕日を背景に友人たちがモデルを務めた写真を撮る、一種の「自撮り」が至る所で見られるようになった。これも「自撮り」という自分表現の進化であろう。つまり、以前は横丁路地裏の存在がいきなり表通りになったようなものである。結果、「いきなり観光地」になる時代である。そして、このオタクの一人が訪日外国人であるということも指摘しておきたい。
この「いきなり」の後に観光地だけでなく、飲食店やメニュー、あるいは裏通りであったり、趣味から始めた手作りショップであったり、小さな村の昔ながらの祭りや行事ですら、興味関心事であれば世界中からいきなり人が集まる、そんな時代になったということだ。

ところでこのブログを書いている最中に、朝鮮半島の非核化という課題に対し米中対話が実現するかどうかという大きなニュースが飛び込んできた。報道によれば案の定米朝対話が水面下で行われてきていたとのことで、「いきなり」発表もそうした背景からであることがわかった。国際関係の専門家ではないのでコメントする立場にはないが、起こった現象には必ずその「理由」「原因」があるということだ。更には社会から注目されていた佐川国税庁長官が辞任し、森友学園への国有地売却に関する決裁文書に書き換えがあったと認める方針がわかってきた。これも文書の書き換えの裏側、その理由も次第にわかってくるであろう。
敢えてこんな「いきなり」を例に挙げたのも、そこに至る小さな変化は必ず起きているということである。古くはガルブレイスが「不確実性の時代」を書いたのは第一次世界大戦」「恐慌」を転換点に大きく変わって行く時代を不確実な時代と呼んだのだが、私は小さな単位ではあるが、戦後の社会経済の転換点はバブル崩壊であると指摘をしてきた。ガルブレイスの言葉を借りれば、不確実ではあるがそれは「確実」なこともあったということでもある。皮肉でもなんでもなく、立ち止まり、少し引いた目で見ることによって、起こった事象の理由を読み解いて決断することはできる。私の場合、10年近く街歩きをしているが、少なくとも「街」に変化が現れるということは、「確実」に近づくとことであった。例えば、話題となった行列店も訪れるコとはあるが、1ヶ月後、3ヶ月後、そして1年後もまた観察することにしている。つまり、「いきなり」の理由は何かを明らかにすることであった。1ヶ月後とはコンセプト・話題力はどの程度なのか、3ヶ月後とは手直しした結果はどう出ているか、そして、1年後はビジネスとしてこれからどうすべきか、というビジネスの確実性を追求していく方法である。

さて、冒頭の写真、国道駅・JR鶴見線という戦前から京浜工業地帯が今尚歴史遺構として現存している面白さである。ある意味、時代の裏側を体感する面白さである。鶴見線で使われる列車は年代物で鉄道オタクだけのものにしておくのではなく、工場群の通勤列車のためほとんどの駅は無人駅である。また、海芝浦駅に向かう支線のほとんどが、東芝京浜事業所の敷地内を走る。ホームは京浜運河に面しており、海に一番近い駅と言われている。対岸には東京ガス扇島LNG基地、首都高速湾岸線の鶴見つばさ橋などがある。こんな「裏側」も観光地になる可能性があるということだ。秘境駅を走ることから1日に数本という支線もあるので事前に十分列車ダイヤを調べて行くことをお勧めする。こうした眼を持って時代の変化を見ていくことによって、「いきなり」もまた異なる見え方ができるということである。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:23Comments(0)新市場創造

2018年03月06日

◆未来塾(32)昭和から平成へ、そして新元号の時代へ (後半)  

ヒット商品応援団日記No704(毎週更新) 2018.3.6.

新しい時代の迎え方を学ぶ


雑踏する大阪黒門市場
戦後の闇市が商店街になり、再開発から取り残されたエリアや商店街を「昭和レトロ」というコンセプトの下で再生させてきた事例を見てきた。そして、平成の時代になり、昭和回帰という潮流が社会に消費にと表の舞台に出てきたが、新元号となる数年後には、果たして「昭和」は残るであろうか、また「平成レトロ」回帰が昭和と同じように舞台へと上がるであろうか。今後昭和を生きてきた世代が少なくなっていくが当分の間は超高齢者市場として残っていく。そして、新たな時代を創っていくであろう平成世代はどうであろうか。
新時代の幕開けとなる2020年の東京オリンピックを境に、訪日外国人は4000万人を優に超えて行くであろう。観光産業を軸にしたグローバル化の波は都市部だけでなく、地方にも及ぶ。こうした産業構造の大転換を含め、これまでのテーマ型市場はどう変わって行くのか、変わらずにいくのか、昭和と平成という時代が創った市場のこれからを学んで行くこととする。

昭和と平成の構図、その心象風景

数十年という単位で時代を見て行くと、昭和が太平洋戦争による焼け跡からの復興であるのに対し、平成はバブル崩壊後の阪神淡路大震災、東日本大震災という未曾有の自然災害からの復興であった。昭和は戦争からの、平成は自然災害からという違いはあるが、共に焼け野原からからの復興である。
生活という視点に立つと、昭和の時代の「焼け野原」には闇市、露店、屋台、物々交換、平成の時代の「バブル崩壊」にあっては、大企業神話の崩壊と倒産・リストラ、災害からのボランティア・炊き出し支援、仮設商店街、・・・・内容は異なるものの共通しているのは「復興」のイメージである。その復興の象徴として路地裏商店街、小さな簡易店舗、更に屋台やフリーマーケット、あるいは歌謡曲、こうしたものが「昭和レトロ」への興味喚起剤としてつくられている。

東京中央区月島のもんじゃストリートも晴海通りの裏路地の商店街にあり、モダンで綺麗な造りにはなっているが、昭和の駄菓子屋の雰囲気を残した店内となっている。阿蘇の黒川温泉も川沿いに建ち並ぶ旅館街であるが、これも昭和の鄙びた山間の温泉街の風景が造られている。東京谷根千の谷中銀座酒店街も下町らしく会話が弾む距離間の店づくりとなっており、吉祥寺のハモニカ横丁も六角橋商店街も前述のように狭い路地に密集した小さな店が並ぶ、闇市の露店・屋台の雰囲気を醸し出すつくりとなっている。つまり、各々が担ってきた歴史に基づく固有の地域文化を絵解きしたようなそんな昭和の原イメージがつくられている。
「昭和レトロ」は一つの概念・コンセプトではあるが、このように個々異なるイメージの風景となっていることが分かる。

豊かにはなったけれど・・・・・夢がない

冒頭の昭和30年代という時代の空気感を「豊かではなかったけれど・・・・・夢があった」と書いたが、バブル崩壊後の平成という時代を表現するならば、「豊かにはなったけれど・・・・・・夢がない」ということになる。バブル崩壊後生まれた「夢」はどんなものなのか、社会に共有されないまま今日に至っているのではないか。言葉を変えていうならば、成熟時代の「夢」は何かということになる。
映画「Always三丁目の夕日」に描かれた昭和30年代の向こうには昭和39年の「東京オリンピック」というわかりやすい夢があった。”もはや戦後ではない”という言葉は、1956年度(昭和31年)の『経済白書』の序文に書かれた一節である。一般庶民における「戦後」は、やはり東京オリンピックを目指し、新幹線や高速道路に象徴されるような日本の国土が一変することを通して実感されるものであった。皮肉なことに、当時造られた高速道路をはじめとした社会インフラはその耐久期間を超えて大規模なメンテナンス時期を迎えている。人口ばかりでなく、あらゆるインフラが高齢化していると実感されているのだ。

ところでバブル崩壊後の平成の社会変化をキーワード化していくと、昭和という右肩上がりの成長時代との比較では真逆のような変化が続いていく。例えば、
1990年代/リストラ ・大企業神話の崩壊 ・産業の空洞化 ・阪神淡路大震災 ・オウムサリン事件 ・山一證券や拓銀破綻 
2000年代/ITバブル と崩壊・リーマンショック・・・・・・・・・・・そして、3.11東日本大震災。
この東日本大震災が起きた2011年の新語・流行語大賞にノミネートされた言葉が以下のようなものであった。
・想定外 ・安全神話 ・復興 ・瓦礫 ・帰宅難民 ・計画停電 ・メルトダウン ・絆
この年の大賞は「なでしこジャパン」となったが、「絆」と「帰宅難民」がトップ10に入っている。震災の当日、大津波が押し寄せ次々とあらゆるものを飲み込んでいく光景がライブ中継され、多くの人が声を上げることが出来ないほどであった。そして、戦争体験のあるシニアのほとんどがまるで戦災を受けた焼け野原のようだと。そして、日本は2回にわたって戦争体験をしたとも。その象徴とも言える言葉が「想定外」であった。以降、「想定外」という言葉は禁句となり、いつでも起こり得る日本列島の宿命であるとして強く記憶されることとなる。
東日本大震災3.11の4日後のブログに私は「商品が消えた日」というタイトルで次のように書いていた。

『さて消費についてであるが、大震災の翌日からスーパーの陳列棚から商品が消えた。こうした情況は土曜日より日曜日の方がひどくなり、翌月曜日の14日には生鮮三品を始め牛乳や卵、パン、豆腐といった日配品は全く商品が無く、空の棚だけが並んでいる状態となった。こうした葉もの野菜や鮮魚に代表される鮮度商品の欠品は当然であると思ったが、今回の消費特徴はお米とか缶詰、カップラーメンなどが同様に一切の商品が無いという点であった。ドラッグストアはどうかというと、トイレットペーパーといった紙製品がこれまた欠品となっており、卓上コンロ用のガスボンベや懐中電灯用の電池なども全て欠品となっている。つまり、自己防衛の巣ごもりへ冬眠生活へと、まるで買いだめのような消費へと向かったということだ。』

そして、2週間後のブログには「光と音を失った都市」というタイトルで次にようにも書いた。

『東京の今はどう変容しているか、電車やバスを利用し、都心を歩いたら実感出来る。全ての人が感じるであろう、とにかく暗い。計画停電によるところが大で、夜は勿論であるが、昼間でも極めて暗い。それは特定の店とか通りとか、電車のなかだけとか、あるいは駅だけとか、そうした特定の「場所や何か」が照明を落としている暗さではない。全てが暗いのである。更に、人通りが極めて少なくなった感がする。電車の運行本数が減ったにもかかわらず電車内においてもである。つまり、人が「移動」していないということだ。勿論、百貨店や専門店といった商業施設も営業時間を短く制限しているところが多く見受けられる。話題となるイベントや催事といった集客もほとんどが休止となった。今なお、日を追うごとに亡くなられた方が増え、更に行方不明の方までもが増え続けていることを考えれば無理のないことではある。』

そして、「戦争体験」とは無縁であった若い世代の心には漠とした社会「不安」だけが鬱積していくこととなる。勿論、正規非正規といった雇用面や収入が増えないといったこともあるが、「夢」は遠くのものと感じている。つまり、バブル崩壊後の度重なる大災害、一種の「戦争体験」を消化できないまま今日に至っている。「想定外」という言葉を飲み込むには、まだまだ時間を必要とするということである。
この若い世代を欲望喪失世代として「草食男子」あるいは若干旺盛な「肉食女子」などと揶揄しがちであるが、災害などのボランティアの中心世代として活動していることを見ても分かるように「優しい」世代である。ボランティア元年と言われたのがあの阪神淡路大震災であったことはある意味象徴的である。東日本大震災はもとより、御嶽山の噴火、熊本地震、北九州豪雨災害、こうした自然災害には多くのボランティアが活動しているのは周知の通りである。

バブル崩壊からの復興キーワードは「デフレからの脱却」?

2020年には2回目の東京オリンピックが開催されるが、バブル崩壊後の「復興」のシンボルにはなり得ない。その最大理由は今なおバブル崩壊の「清算」が、国、企業、個人においてなされていないからである。もう一つの理由は後述するがその清算の主人公が団塊世代から平成世代へと移ったということである。

まず国においてはどうかと言えば、これは推測ではあるが、戦後復興のキーワードであった”もはや戦後ではない”という言葉に当てはまる平成の言葉は”デフレの時代を終えた”という宣言であろう。バブル崩壊からの復興・立て直しにおける経済のキーワードが「デフレからの脱却」であった。つまり、デフレ経済の清算が未だ終えていないという状況にある。何故、デフレから脱却できないかといえば、これは私論であるが、結論から言えばグローバル化によって、従来のデフレ概念の物差しとは異なる時代を迎えていることによる。そのグローバル化の象徴が訪日外国人という観光産業であり、コミックやアニメといったクールジャパンビジネス。この世界を拡大解釈するとすれば世界でブームとなっている日本食関連の輸出拡大といった言わば「クールジャパン産業」の勃興・・・・つまり、従来の製造業・輸出中心の産業構造が大きく変わってきており、デフレの概念もまた変わってきているということである。

企業においてはどうかと言えば「パラダイム転換から学ぶ」において整理したように、バブル崩壊以降物の見事に日本の産業構造が変わってしまった。その象徴の一つがバブル期まではダントツ1位、世界の造船竣工の約半分を誇っていた造船王国は今どうなっているかを調べればその激変ぶりが分かるであろう。当時の製造業で今なお世界に誇っているのは自動車産業ぐらいとなっている。こうした変化を象徴するかのように、「モノづくり日本」という言葉がメディアに登場することが少なくなった。世界に誇った日本の「技能」がどんどん低下し続けている。昨年行われた技能オリンピックでは獲得金メダル数は1位中国が15個、2位のスイス(11個)、3位の韓国(8個)、日本はわずか3個で9位に終わっている。モノづくりをはじめとした「職人」の世界はこんな現状となっていること忘れてはならない。ちなみに、過去を遡れば2007年においては獲得金メダル数1位は日本であったが、以降は韓国が1位となり、2017年には中国がトップになった。「技能」とはつまるところ「人」によるものである。ここにも高齢化の波が押し寄せているということである。

ところで個人の場合はどうかと言えば、バブル崩壊を一番大きく影響を受けた世代としてはポスト団塊世代である。ちょうど人生で一番の買い物である「住居」という不動産価値は大きく下がり、購入時組んだ住宅ローンが大きな負担となる。つまり、資産崩壊が個人においても始まったということだ。そして、同時に前述の日本産業が一変する結果、「リストラ」が始まる。職を失うか、もしくは給与の減額という、それまでの働き方ではやっていけない時代が到来する。団塊世代の子供達は就職時期を迎え、リストラという言葉と共に「就職氷河期」という言葉も生まれた。そして、ポスト団塊世代もバブルの清算を終えない人も多く、数年後には高齢期を迎えることとなる。

「昭和レトロ」という居場所、そのイメージ

平成の時代は「崩壊」という言葉と共に始まっていく。こうした混沌とした社会崩壊の空気を吸ってきたのが、後に草食世代、欲望喪失世代と言われた平成世代であった。ある意味、崩壊から生まれた世代であると言っても過言ではない。バブルのなんたるかを知らない、ただ崩壊だけが原イメージとして残っている世代ということだ。
この世代にとって「昭和」はまるで新しい時代としてのイメージとなる。つまり、戦後の荒廃した焼け野原からの復興イメージではなく、再開発から残った街並み、古びた商店街や飲食街は今まで体験したことのなかった新しいイメージとしての昭和である。「古が新しい」とはこのことを指す。整然としたキレイな街ではなく、不規則で雑然とした街にはどことなく手で触ることができる、一種居心地の良い場所、つまり「自由な」空間であると言えよう。1990年代「都市漂流」という言葉が流行ったことがあった。家庭崩壊という言葉が表していたように、自由な居場所を求めての漂流であったが、「昭和レトロ」は彼ら世代にとっては一つの「居場所」になったということだ。
また、六角橋商店街の「昭和」はその闇市の名残を残す景観だけでなく、ふれあいの街と標榜しているように、商店のおばさんおじさんには母性、父性が感じられる「優しい商店街」となっている。

実はこの居場所は昭和を生きてきた団塊世代ともクロスする場所となる。団塊世代にとっての「昭和」は過去という「ノスタルジー」を楽しめる場所であるが、平成世代にとっては新しい世界である。今回取り上げた吉祥寺ハモニカ横丁の飲食街は、「アルコール離れ」と言われてきた若い世代の人気スポットになっている。若干ブームの気配がするのが大阪駅ビル「ルクアイーレ」の地下にある「バルチカ」という路地裏の飲食街である。
更に面白いことは、この「昭和レトロ」は日本好きな訪日外国人にとっても居心地の良い居場所となっている。旅好きの口コミサイト「トリップアドバイザー」における日本のレストランランキングを見てもわかるように、メニューでいうと「お好み焼き」であり、家庭的なサービスの、いわゆる庶民的な下町飲食である。数十年前の「富士山芸者」という日本イメージに代わる新しい日本イメージになる可能性があるということだ。

人は危機に直面する時、「過去」の中に未来を見ようとする

「過去回帰」は年齢を重ねたシニア世代固有の現象ではない。かなり前のことであるが、「揚げパン」が若い世代、特に中学生の間で人気商品となり、コンビニの棚にも並ぶようになったことがあった。その背景には小学校の学校給食の人気メニューの一つで、卒業しても食べたいという欲求にコンビニが応えたということであった。この現象を私は「思い出消費」と名前をつけたことがあった。中学という社会は「危機」ではないが、それまでの小学校という社会とはまた異なる大人への入り口となる社会である。つまり、「思い出」という自分が思い浮かべたい記憶をたどることに年齢差はない。今までとは異なる「何か」に直面する時、過去の中に「明日」を見ようとするのは極めて自然なことである。
バブルが崩壊した1990年代にはこうした過去回帰現象が数多く見られた。こうした回帰は回数多く現象化する。実はリーマンショックの翌年2009年に景気の後退・低迷さによるものと考えられるが、消費の表舞台へと一斉に出てきている。ちなみに日経MJによるヒット商品番付では次のような番付となっていた。

東横綱 エコカー、 西横綱 激安ジーンズ
東大関 フリー、    西大関 LED
東関脇 規格外野菜、西関脇 餃子の王将
東小結 下取り、   西小結 ツィッター
東西前頭 アタックNeo、ドラクエ9、ファストファッション、フィッツ、韓国旅行、仏像、新型インフル対策グッズ、ウーノ フォグバー、お弁当、THIS IS IT、戦国BASARA、ランニング&サイクリング、PEN E-P1、ザ・ビートルズリマスター盤CD、ベイブレード、ダウニー、山崎豊子、1Q84、ポメラ、けいおん!、シニア・ビューティ、蒸気レスIH炊飯器、粉もん、ハイボール、sweet、LABII日本総本店、い・ろ・は・す、ノート、

当時のブログに、私は「過去」へ、失われた何かと新しさを求めて」というタイトルをつけた。そして、2009年を、大仰に言うならば、戦後の都市化によって失われたものを過去に遡って取り戻す、回帰傾向が顕著に出た一年であった。しかも、2009年の最大特徴は、数年前までの団塊シニア中心の回帰型消費が若い世代にも拡大してきたことにある。
ヒット商品番付にも、復刻、リバイバル、レトロ、こうしたキーワードがあてはまる商品が前頭に並んでいる。花王の白髪染め「ブローネ」を始めとした「シニア・ビューティ」をテーマとした青春フィードバック商品群。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」は出荷本数は優に400万本を超えた。居酒屋の定番メニューとなった、若い世代にとって温故知新であるサントリー角の「ハイボール」。私にとって、知らなかったヒット商品の一つであったのが、現代版ベーゴマの「ベイブレード」で、2008年夏の発売以来1100万個売り上げたお化け商品である。(海外でも人気が高 く、2008年発売の第2世代は累計で全世界1億6000万個 を売り上げている。 )
この延長線上に、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」や神戸の「鉄人28号」に話題が集まった。あるいは、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラだ。
売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」であり、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。
リーマンショックという消費が縮小して行く中にあって、消費経済力のあるシニア世代がヒット商品を産んでいることがわかる。

平成という時代の原イメージを創るのは「個人」

さて、来年5月には新元号が始まり「平成」という時代が終わる。平成の時代を生きてきた世代、1980年代後半からの世代でバブル崩壊を肌身に感じてきた世代はどんなイメージを持っているだろうか? 物質的には豊かにはなったが、「夢」が無いと書いた。この書き方も言葉の意味することもシニア世代による昭和との比較においてのものである。
この平成世代に向けた映画「君の名は。」が一昨年大ヒットしたが、監督である新海誠氏は同じアニメ映画であるジブリの宮崎駿監督や「シン・ゴジラ」で注目を浴びた庵野監督とは全く異なった来歴の人物である。周知のように新海誠氏は在学時代からのゲーム育ちの人物として知られ、2000年代に入りアニメ映画を製作している。いわゆるファンタジーアニメ映画であるが、その繊細な描写、映像美はそれまでのジブリ作品と比較し、群を抜くものではある。
ところで新海監督がデビューした2000年代前半にはライトノベル「涼宮ハルヒシリーズ」が隠れたベストセラーとして中高校生に読まれた時代でもある。エキセントリックな美少女高校生、涼宮ハルヒが設立した学校非公式クラブSOS団のメンバーを中心に展開する「非日常系学園ストーリー」である。書籍以外にもアニメやゲームにもなっており、累計発行部数は2000万部と言われている。

ライトノベル、ゲーム、アニメ、こうした世界はサブカルチャーの一大潮流を創っていることとは思うが、「夢」を描くとなると社会という現実の生活や生き方からは離れてしまう。宮崎駿監督の復帰次回作はベストセラーとなった「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)のタイトルから取ったという。主人公の中学生、コペル君が様々な出来事を経験して自分の生き方に目覚めていくというストーリーの小説であり、社会への一つの「力」となる作品が推測される。「夢」はわかりやすく人から人へと広がることによって「力」となる。そこには理屈っぽい言葉はいらない。しかし、単なる想像の世界、ファンタジーだけであったら、広がることなく「個人」の内なる世界で終わる。

遠くに見えるがいつかは現実になるかもしれない、そうした原イメージとなる「何か」が必要とされている。戦後の復興が東京オリンピックや東京タワーであったように。しかし、「団塊の世代」とネーミングしたのは堺屋太一さんであるが、「団塊」という「かたまり」となってビジネスや社会を動かしてきた。平成世代は真逆の「個人」という最小単位、しかも人口ピラミッドを持ち出すまでもなく圧倒的な少数派である。しかし、その「個人」は誰もが驚くような新しい世界の創造者になる予感がしてならない。

「好き」をつなぐ、「個人」、そして「日本」

平成世代の夢は「何か」と書いてきたが、ちょうど平昌オリンピックと重なった時であった。核問題・米朝という政治問題から始まり、閉幕式も政治で終わった冬季オリンピックであったが、その中身である競技については多くの人が「夢」の入り口を実感できたかと思う。
獲得したメダル数、いや「スポーツ競技」を超えて、多くの人がそれぞれの想いが生まれたことと思う。どのように受け止めたか異なると思うが、メダリストも、残念ながら果たせなかったアスリートからも、仲間、チーム、絆、応援、感謝、・・・・・そして、悔しさ。何か「昭和」を感じさせるものであった。いや、昭和というより、日本人、日本人のメンタリティといった方がふさわしい。男子フィギュアスケートで2大会連続して金メダリストになった羽生結弦はその代表的な選手であろう。
そして、そこには平成時代の「個人」がいるということだ。しかし、それが社会の「夢」へ、崩壊からの再生へと繋がって行くかどうかはわからない。少なくとも羽生結弦の場合は、3.11によって被災したふるさと宮城県の復興にはこれからも大きく貢献して行くであろう。団塊世代のような「かたまり」になって広がる、そんな時代ではなくなっているということだ。

平昌オリンピックに参加したアスリートに共通していたことは、競技への「好き」を、「想い」をそれまで応援してくれた多くの人々に、企業・団体に、結果を持って返していきたいということであった。この「好き」を未来への入り口とすることによって向こう側にある夢もまた明確になって行く時代であるということだ。カーリング娘のメンバーの一人が記者会見で語っていたが、”何もないこの北見で夢は内にだけはあったが、この北見が夢を叶えさせてくれた”、と。「好き」を繋いでくれたのは北見の人たちであったということである。
「物の豊かさ」という一見すると成熟した社会のように思えるが、成熟とは「好き」を入り口とした生き方を求める個人のことである。そして、復興もまたそうした個人によってなされるということだ。100人の平成世代がいれば、100の夢、100の復興があるという時代である。

勿論、バブル崩壊からの復興というイメージで新元号の時代が語られることはない。しかし、間違いなく平成世代が主人公として語ることになる。しかも、個人の内なる思いが熟成することによって、小さなイメージが創られ表現される。そして、その中から平成という時代が清算されるということだ。
そして、この「好き」こそが崩壊したコミュニティ再生の第一のキーワードになるということである。「好き」の先には、企業の再生があり、町おこしがあり、その先には地方創生があるということでもある。今回歩いた横浜六角橋商店街も地元神奈川大学生の力を借りでアーチや街路灯の整備を行っているのも単なる地元だからだけではない。「ふれあいのまち」に応えた、「優しい世代」が地元にいるということである。六角橋という街が「好き」な人達が集まれば、その結果一つのテーマコミュニティパークとなる。

ところで、消費面でどんなテーマとなるか未だ確かなことは言えないが、「昭和レトロ」というテーマに新しさを感じる平成世代ではあるが、「昭和」もまた少しづつ変わって行くことだけは間違いない。以前ブログにも取り上げたことがあるが、大阪駅ビルルクアイーレの地下に「バルチカ」という飲食街がある。「バル」というおしゃれなネーミングではあるが、飲食街の内容を見れば路地裏飲食街の趣である。その中でも人気の高いバル「コウハク」の目玉メニューは、おでんではなく洋風おでんと日本酒ではなくワインである。しかも安い。これが平成の若い世代の居酒屋である。この平成世代を表現するに、「昭和の孫」とでも呼びたくなるような世代である。このように「昭和レトロ」という着眼は残るが時代の好みと共に少しづつ変わって行くということだ。勿論、今のままの「昭和レトロ」がこれからも存続して行くことはないということでもある。
繰り返しになるが、テーマ・マーケティングとはこうした変化を取り入れ続けて行くということである。新時代を迎えるとは、「過去」の何を残し、何を「新しく」取り入れて行くかということに尽きる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:17Comments(0)新市場創造

2018年03月04日

◆昭和から平成へ、そして新元号の時代へ (前半) 

ヒット商品応援団日記No704(毎週更新) 2018.3.4.

来年5月には新元号の時代が始まり、平成が終わる。そして、新しい時代が語られると同時に、「平成」がどんな時代であったか、経済や社会だけでなく、消費においても多くの特集が組まれることであろう。今回のテーマである「新時代の迎え方」というそれまでのパラダイム(価値観)に大きな変化をもたらすものであるかどうか、昭和と平成の時代変化を今一度整理し、消費を中心にその変化の有無と方向を考えてみることとする。



ところで3年半ほど前に始まった未来塾では、「テーマの時代がやってきた」として、東京谷根千を始めとした多くの街やエリアにおいて、人を惹きつける「テーマ」の魅力について学んできた。何故テーマなのかはその都度明確にしてきたが、競争市場下にあって、テーマに沿った集積力は他社・他エリアとの比較で大きな競争力となることがわかってきたからであった。勿論、そのテーマに人を惹きつける魅力があってのことだが、よりわかりやすくするために、人が集まるという意味で、「観光地化」というキーワードを使ってきた。

例えば、都心の再開発によって子供相手の駄菓子屋が次々と無くなり、店先で売られていた「もんじゃ焼き」もどんどん廃れていった。そうした状況にあって中央区月島のもんじゃ焼きの店が裏通りの商店街に集まり「もんじゃストリート」と呼ばれるほとの街並みとなり、多くの観光客がもんじゃ焼きを目的に来街するようになった。テーマは昭和時代のもんじゃという商品・メニューであるが、他にも九州阿蘇の温泉街黒川温泉の再生も同じテーマ集積によるものであった。ゴーストタウン化した温泉街の再生テーマは「自然の雰囲気」で、そのテーマを生かすにはと考えたのが露天風呂で、全旅館がその露天風呂を造ることとなる。そして、「すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去する。その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には昭和の鄙びた湯の町情緒が蘇ったという事例である。そして、黒川温泉が一つのテーマパークとなった合言葉が「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」であることは、温泉旅館という業界を超えて広く知られるまでになっている。
(写真は黒川温泉組合のHP、季節の写真館より/冬には竹灯を川沿に灯す幻想的なイベントを開催している)
これが新しい時代をテーマを持って迎えた事例で、協力しあうことによってテーマ集積というより強い魅力を創ることに成功した良き事例となっている。このように100の町や村があれば、100の自然や歴史文化という資源を持ち、それらを再生、リノベーションし新たに構築していくことは100通りのテーマパークになるということである。「昭和レトロ」というテーマであれば、100の「昭和レトロ」があるということである。

豊かではなかったけれど・・・・・夢があった

戦後荒廃した昭和の日本、その時代の空気感を一言で言えば、「豊かではなかったけれど・・・・・夢があった」ということであろう。これは第29回日本アカデミー賞となった映画「Always三丁目の夕日」に描かれた昭和33年の東京を象徴した言葉である。西岸良平さんのコミックを原作にした昭和30年代の東京を舞台にした映画である。ここに描かれている生活風景は単なるノスタルジックな想いを想起させるだけではない。そこには物質的には貧しくても豊かな生活、母性・父性が描かれていて忘れてしまった優しさがあり、そうした心象風景で泣かせる映画である。

映画に描かれた集団就職、路面電車、ミゼット、フラフープ、横丁路地裏、他にも月光仮面、力道山、テレビ、メンコやビー玉、それら全てを含めた生活風景である。
そして、東京という都市ですらまだまだ荒れ果てた中にも自然は残っていた。都心から少し離れた郊外には田んぼや畑があり、クヌギ林にはカブトムシやクワガタが沢山いた。いわゆる里山があった。つまり、日本が近代化に向かって走る前、昭和30年代半ばまでの10年前後、団塊世代にとっての心象風景は、やはり路地裏にある生活の臭い、物不足の中にあっても走り回った遊び、少し足を伸ばせば里山があり、四季を明確に感じさせてくれる自然、そんな風景であったと思う。

闇市を母体にした商店街

戦後の物不足に対応した、いわば生きていくために自然発生的に誕生した市場で、公的には禁止された市場であることから「闇市」と呼ばれていた。実は東京銀座(三原橋辺り)もそうした闇市を母体とした街であるが、中でも戦後の雰囲気を色濃く残しているのが写真の上野のアメ横である。
その歴史を辿ると「自然発生的」という意味がわかる。終戦からわずか5日後に開かれたのが新宿マーケット(その一部が新宿西口の思い出横丁)。次には池袋駅西口、渋谷、新橋、神田、上野など、都心近くの主要駅周辺に続々と市場が開かれ、やがて郊外の駅前、道路沿いにも出現していく。赤羽、板橋、十条、吉祥寺、中野、荻窪、三軒茶屋、大井町、横浜伊勢佐木町・野毛・・・・・・・こうした闇市のほとんどが露天商によるもので、物の横流しといった犯罪や安全・衛生面などから1951年末までに規制が強化され、東京の場合は翌年からそのほとんどが消えていくことになる。こうした闇市は大阪にもあって、梅田には駅前のダイヤモンド地区や梅田裏の十三、あるいは鶴橋や西成にもあった。
しかし、露店は消えてはいくが、店舗を構えた恒常的な商店街、飲食街は残っていくこととなる。その代表例が前述の上野アメ横で近くの再開発ビルに露店は収容され、新橋であれば駅西側に再開発されたニュー新橋ビルへと移転していく。このように再開発の進行と共に闇市は商店街へと変わっていく。

こうした闇市のような商店街、横丁・路地裏の商店街に人が集まるのは、そこには売り買いの「やりとり」「会話」という「人」が介在する商売・消費の原型が残されているからである。欲しい商品は何か、何が安いか、その訳は・・・・・・・・パソコンで検索すればたちどころに「答え」が出る時代にあって、一見非合理にも見える商売に惹かれるのは何故なのか。それは上野アメ横の年末暮れの商売を見ればわかるが、何故この品物が良いのか、どこまで安くできるか、こうした「やりとり」の楽しさ、「買い物の楽しさ」があるからである。
商売の原型は大阪にあると言われるが、店頭の値段を見て「なんぼにしてくれる」とあいさつ代わりに聞くのが買い手で、「そんな無茶な」と答えるのが売り手のあいさつというやりとりである。露天商と言えば、映画「フーテンの寅さん」を思い浮かべるが、百貨店でよく行われている「催事販売」のような商売である。
もう一つが「規制」から自由であるということであろう。勿論、法に違反してはならないが、売り手・買い手共に自由に商売ができるということである。突き詰めれば、売り手にとっても、買い手にとっても、どれだけ「得」が得られるかということである。身近な例であれば、インターネット空間が誕生することによって、誰もが参加することによって新しい「何か」が創られ成し遂げられるオープンソースのような自由な試みが可能となる、それと同じような「自由な場所」ということだ。

再開発によって生まれた「昭和」

戦後の商業は闇市のような露店から新たな商業施設への移転、商店街の形成へと向かう。つまり再開発事業の進行と共に街がつくられて行った。映画「Always三丁目の夕日」が描いた「昭和」は、東京タワーに象徴されるような「夢」のある復興期の東京が舞台であった。周知のように数年後に行われる東京オリンピック開催を目指し、高速道路や新幹線などの建設が急ピッチに進む、そんな夢の象徴が東京タワーの建設であった。
こうした急成長はある意味「東京一極集中」の第一段階であったが、再開発事業から取り残された地域も出てくる。
平成の時代に入り、バブル崩壊によってそれまでの成長期から停滞期へと向かうわけだが、この取り残された地域の再生が始まる。その代表事例が東京の谷根千(谷中・根津・千駄木)と言われる下町の地域で、上野の西側の住宅地であり、寺町でもある地域である。上野の裏と言った方が分かりやすい地域で、都民からは桜の谷中霊園やツツジの根津神社のある地域程度の理解でしかなかった。しかし、戦災をあまり受けなかったことから古い木造家屋やアパートが残っており、また谷中銀座商店街も古き下町の商店が立ち並ぶまさに再開発から取り残された地域であった。実は取り残された分、「ザ・下町」とでも呼べるような昭和の匂いがする地域であった。この地域一帯を谷根千(ヤネセン)として注目を集めるようになったのは、4人の主婦による「谷根千」という地域雑誌創刊から始まる。(詳しくは未来塾「谷中銀座・下町レトロ」を参照)
この地域に残したいその理念として、「下町レトロ」というコンセプトによる小さな地域雑誌であるが、この考え方に共感した地域住民や寺の住職が再生へと向かう。ここで注目すべきは当時はリノベーションという言葉は一般化してはいなかったが、「既にあるモノを生かした町づくり」が行われた点にある。つまり、戦災に遭わなかった建物、街並み、そして住民自身・・・・つまり残すべき「下町」による町づくりが始まる。再開発から取り残された「昭和」が地域のコンセプトになったということである。
東京江東区の砂町銀座商店街や今回取り上げた横浜六角橋商店街も同じである。大阪で言うならば、通天閣・ジャンジャン横丁、あるいは梅田であれば高架下の新梅田食道街となる。それぞれ残すべき昭和あるいは下町の「何か」によってつくられ、その「下町レトロ」もそれぞれ異なってくる。実はその違いに「魅力」があり、人を惹きつける。
谷根千・谷中銀座商店街における残したい「下町」と大阪通天閣・ジャンジャン横丁における「下町」とでは全く異なる。下町とは、そこに住む人たちの息遣いや温もりが感じられる日常であり、生活のことであり、一言で言うならば地域固有の「生活文化」ということになる。その生活文化の象徴をビジュアルにするならば、谷中銀座商店街の場合は商店街に通じる坂の上「夕焼けだんだん」からみる商店街の風景であり、大阪通天閣・ジャンジャン横丁の場合はやはり巨大看板の向こうに見える通天閣のタワー風景ということになる。

吉祥寺ハモニカ横丁の場合

「昭和レトロ」というテーマで再生した成功事例の街の一つが吉祥寺ハモニカ横丁である。実はハモニカ横丁は前述の「もんじゃストリート」や「黒川温泉」のように一つのテーマ集積力によって再生した訳ではない。
その背景には吉祥寺という街の成長と衰退の歴史がある。吉祥寺ハモニカ横丁も戦後の闇市からスタートした小さな駅前商店街であった。実は日本の小売流通の変遷を吉祥寺も映し出している。そのドラスチックな変化をもたらしたのは「百貨店」であった。高度経済成長期、いざなぎ景気によって所得も増え豊かさを求めるようになり、その豊かさの象徴が百貨店という業態であった。そして、郊外である吉祥寺も例外でなく次のように大手百貨店が次々と進出する。
■1971年伊勢丹吉祥寺
■1974年近鉄百貨店東京店
■1974年東急吉祥寺店
この百貨店進出に一番影響を受けたのがいわゆる街の小売店で、ハモニカ横丁の小売店は次から次へと脱落して行く。闇市の跡地ということから八百屋や鮮魚店といった小売店だけでなく、衣料販売を始め当時人気のあった鉄道模型店や金魚屋まであった。そして、この百貨店自体も次のようにドラスチックに変わって行く。
□伊勢丹吉祥寺店→2009年コピス吉祥寺(ショッピングセンター)へ
□近鉄百貨店東京店→2001年吉祥寺三越+大塚家具→2006年ヨドバシカメラへ
■東急吉祥寺店→現在も営業

こうした変化はハモニカ横丁の店々にも押し寄せ1990年代末には退店もしくは業態転換して行く。バブル崩壊がこうした動きを加速させて行くのだが、業態転換の口火を切ったのは電気店経営から飲食店経営へと転換したカフェ「ハモニカキッチン」と言われている。そして、2000年代から若い世代向けのダイニングバーや日本酒の立ち飲みバーといった飲食店が増え、活況を見せるようになる。もう一つ見ておかなければならないのが、この横丁路地裏の「昭和」の風情を造ったのが新国立競技場の設計に携わっているあの建築家隈研吾氏をはじめとしたリノベーションによるものであった。谷根千の再生も4人の主婦による地域雑誌創刊があったように、ハモニカ横丁も「次」を目指した人たちによって「今」が創られていることが分かる。
ハモニカ横丁に一歩入るとタイムスリップしたかのような感がするのだが、そうした世界をOLD NEW(古が新しい)といった受け止め方がなされているのもこうしたリノベーションによるものであろう。
一種猥雑な空気が漂う横丁路地裏にあって、人の温もりがするどこか懐かしさのある路地裏飲食街である。こうした「昭和」もハモニカ横丁の隣には若い世代のトレンドファッションを集積するパルコがあり、周辺にはおしゃれな専門店が多く、こうした「新旧対比/昭和と平成」の面白さも提供している街である。そして、吉祥寺駅南側には武蔵野の自然が残る井の頭公園があり、ファミリーで楽しめる動物園・ミニ遊園地もある。10年ほど前から吉祥寺が「住んでみたい街No1」と言われるのも、こうした街歩き、回遊する楽しさのある街ということでもある。
このように再開発され平均化された街並みとは異なる吉祥寺ならではの横丁路地裏飲食街が生まれ、吉祥寺という街の魅力をつくる大きなアクセントとしての役割を果たしている。
ここにも100通りの「昭和レトロ」の楽しみ方があるということだ。

横浜六角橋商店街の場合

ところで横浜には特色のある3大商店街がある。1つは過去未来塾でも取り上げた興福寺松原商店街で「ハマのアメ横」と言われる元祖訳あり激安商店街である。2つ目が落語家桂歌丸師匠の地元で知られる横浜市南区の「横浜橋商店街」。3つ目が神奈川大学・横浜キャンパスのある東急東横線白楽駅前にある横浜市神奈川区の「六角橋商店街」。
今回はその六角橋商店街を取り上げることとした。この六角橋商店街のHPにはその商店街のコンセプトとして「ふれあいのまち」とある。ふれあうほど近い存在、売り手も買い手も、顔どころか気持ちまで分かる距離の地元に密着した商店街ということだ。

地元に愛されるわけ

六角橋商店街の歴史は古く戦前の東急東横線の開通(白楽駅)と神奈川大学の移転から始まる。商店街の位置を簡単にいうとすれば、白楽の駅前から神奈川大学へ向かう道筋約300mに170店舗が集まる連合商店街である。この商店街は大きな表通りの六角橋商店街大通りと並行した狭い道幅1.8mの仲見世通の2つで構成されている。歩けばすぐ分かるが、この仲見世は昭和の面影を残すレトロな商店街で、いわゆる全国チェーン店がほとんどない地場の商店構成となっており、谷根千の谷中銀座商店街や砂町銀座商店街とよく似た商店街となっている。
この六角橋商店街が注目されたのは、町おこしならぬ「商店街起こし」を次々と今なお実行してきた点にある。いわゆる売り出しやイベントで、その中でも早い時期から「ドッキリヤミ市場」というフリーマーケットを始め、「うまいもの市」やプロレスやジャズ演奏などのイベント、更には地域密着の小さなイベントである近隣小中学生を中心に募集していた「横丁アート」展示といったように地域に根ざした商店街である。特に、毎回2000人が訪れる「ドッキリヤミ市場」は21年目を迎え、六角橋商店街の看板イベントとなっている。
こうした個々の商店が協力し合うことと、神奈川大学の協力を得たイベントだけでなく商店街のアーチや街路灯などの環境整備事業に学生のデザイン力を借りるまさに地域密着型商店街として注目を集めてきた。ある意味、衰退していくシャッター通り商店街にあって、「生き残る術を持ったモデル商店街」と言えよう。

個性ぞろいの店々

六角橋商店街が注目を集めるきっかけとなったのは2012年TV東京による街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンタテイメント「出没!アド街ック天国」によるものであった。当時の放送を見て興味を思えたが、その後の商店街の「変化」はどうであるか今回の街歩きの目的の一つでもあった。
黒川温泉のテーマパークとなった合言葉が「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」であった。横浜六角橋商店街に当てはめると、「六角橋商店街全体が昭和の市場 通りは路地 商店は露店・屋台」となる。一つ一つの店舗は吉祥寺ハモニカ横丁の店舗と同じように小さな店舗がほとんどである。地場商店街ということで、近隣のお客さんはよく理解しているからであると思うが、各店定休日も違えば営業時間も違う。店舗構成も一通りあって、やはり神奈川大学生向けと思われるが家系ラーメン店が多くなっている。
狭い路地裏、昭和の雰囲気・・・・・・・こうした世界から想像されるのが街場の洋食店となるが、あのTV東京の番組「孤独のグルメ」にも紹介された「キッチン友」というご夫婦のお店がある。また、レトロな雰囲気の珈琲専門店「珈琲文明」にも立ち寄りたかったのだが、水曜定休ということで断念した。
個性的で面白い商店の一つにアンティークウオッチの「ファイアー・キッズ」という専門店がある。勿論高額なアンティークウオッチの代表格であるロレックスやオメガもあるが結構知らないブランドウオッチも多数あって、腕時計好きにはたまらない専門店である。
こうしたレトロな専門店と共に「ザ・昭和」とでもいうべき専門店がある。表通りにあるなんとも昭和な「柿崎水魚園」という写真の店である。昔風にいうならば街の小さな金魚屋さんである。確か以前には吉祥寺のハモニカ横丁にも金魚屋さんがあったと聞いているが、時代は水族館ブームとは言うものの、ここ六角橋商店街には今尚営業している珍しい専門店である。

昭和のコンビニ商店街

「昭和レトロ」な商店街というと、吉祥寺ハモニカ横丁を始め江東区の砂町銀座商店街、谷中銀座商店街、全て異なる「昭和」の魅力を発揮し、観光地化が進んでいる。この横浜六角橋商店街は同じ「昭和」であっても昭和の生活感が色濃く残っている商店街と言える。
今回味わうことができなかった店の一つが、おでんを売る「かずさや」という小さな店である。夕方近くになると店先のパイプ椅子に座っての居酒屋になる、そんな生活感を残した店である。

というのも商店街から一歩路地に入ればそこは住宅街で、六角橋商店街はそんな住民の「生活市場」になっていて、これも商店街生き残り策の一つであろう。それが可能となるのも、商圏が小さく同じ横浜の興福寺松原商店街のように広域で集客しなければならない商店街ではない。ある意味、小さな商圏内での「昭和のコンビニ」といった便利で使いやすい商店街ということだ。
こうした地元住民と生活を共にする商店街のこれからであるが、他の商店街と同じ様に空き店舗も出始めているようだ。課題は「後継者」の有無に尽きる。ここでも高齢化時代の問題が表へと出てきているということである。ただ写真の小さなカフェは芋の蜜からつくられたスイーツショップ「あめんどろや」である。
若い女性向けのおしゃれな和風甘味店で、推測するに最近オープンした店のようである。こうした「新しさ」も地元住民に応えたものであると言えよう。コンビニと同様、新陳代謝もまた必要ということだ。(後半へ続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造