◆スポンサーサイト

上記の広告は2週間以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書くことで広告が消せます。  

Posted by スポンサー広告 at

2021年02月23日

◆再び、回帰が始まる  

ヒット商品応援団日記No780(毎週更新) 2021.2.23.



前回のブログ未来塾もそうであったが、テーマは不要不急の中に「何」を見出すかと言うコロナ禍の「時代」をどう受け止めるかであった。既に昨年夏に書いたブログでは4月ー6月における家計支出の実態を見ればわかるように旅行や外食あるいはファッションといった不要不急の支出がいかに大きかったか、つまり大きく言えば日本経済の根幹を成しているのは「不要不急」であったと言うことである。
前回の飲食事業を対象としたのも飲食の「何」を求めて店に足を向けているかを個別事例を少し分析してみた。まず求められているのが不安などの心をひととき解きははなってくれる「何か」であり、飲食が持つライブ感、しずる感であった。デリバリーと言う方法を否定はしないが、求められているのは飲食店が顧客の前で調理する、採れたての素材、焼き立て、煮立て、炊き立て、・・・・・・・そうした「感」を求めて顧客は店を訪れる。顧客と店をつなぐものは何かということである。

つまり、「不要不急」消費とは、それまであった日常を立ち止まって考えてみる。季節らしさ、多くの行事の意味、人との何気ない会話・雑談、あるいは挨拶ですら大切であったことを失って初めて気づかされたと言うことだ。「回帰」と言う言葉がある。過去に回帰する、家族に回帰する、あるいは地域に回帰する、・・・・・多くの使われ方をするが、コロナ禍の1年を経験し、危機の中で「何」に回帰していくのかと言うことである。
それまでの「らしさ」を少しでも取り戻すために、例えば巣ごもり生活の気分転換を図るためのこだわり調理道具が売れたり、以前のようにライブイベントに行きたいがライブ配信で我慢する、大きな声で声援を送りたいが無観客試合のTV画面に向かって応援する・・・・・・こうしたもどかしい1年を経験して来た。

人は多くを失った時、立ち止まり「何か」に向かう。1990年代初頭のバブル崩壊の時はどうであったか以前未来塾で取り上げたことがあった。その中でレポートしたことだが、今日のライフスタイルの原型は江戸時代にあると言うのが持論であり、不要不急と言えば元禄時代を思い浮かべる。元禄バブルと言われるように庶民文化が大きく花開いた時代であるが、実は江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。
この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代であった。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年~)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。まさに不要不急の江戸文化を創ったと言っても過言ではない。

ところで元禄期の後半には鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、周知の8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、市場は競争市場となり、米価も下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。翌年行われたのが両国での鎮魂の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。

こうした江戸時代の庶民心理を言い表した言葉が「浮世」であった。浮世とは今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。

江戸の文化は庶民の文化であったと書いたが、それは寄せ集め人間達が江戸に集まってプロジェクトを作り、浮世と言う「新しい、面白い、珍しい」こと創りに向かったことによる。それは1980年代の昭和の漫画が1990年代には平成のコミックと呼ばれ、オタクも一般名詞になったのとよく似ている。そして、浮世絵がヨーロッパに知られるきっかけになったのは、当時輸出していた陶器やお茶の包装紙に使われ、一部のアーチストの目に止まったことによる。同じように、アニメやコミックも単なるコンテンツとしてだけではなく、他のメディアとコラボレーションしたり、ゲームやフィギュアにまで多くの商品としてMDされるのと同じである。浮世絵もアニメやコミックもそれ自体垣根を超えた強烈なメディアとなって江戸の文化、クールジャパンのインフラを創ってくれているということである。バブル崩壊前後の庶民文化を見ていくと、それまで隠れていた「何か」が面へと一斉に出て来たと言うことであろう。
浮世絵もアニメもコミックも、いわばマイナーなアンダーグランド文化から生まれた産物である。そして、庶民文化とは長屋文化、別な表現を使うとすれば、表ではない横丁路地裏文化ということである。

さてこうしたコロナ禍によってどんなライフスタイル転換を余儀なくされているか前回の未来塾で一つの仮説を論じてみた。一言で言えば「感」の取り戻しである。実感、共感、感動、ライブ感、生身、温もり、肌感、生きてる感じ、・・・・・こうした「感」をどう取り戻すかであった。
真っ先に思い浮かべるのがミュージシャンの活動であろう。この10数年音楽のデジタル化インターネット配信によって周知のように音楽業界も大きく変わって来た。CDは売れなくなり、ライブイベント収入によって経営はかろうじて成立して来た。しかし、「密」を避けることからライブイベントの多くは自粛へと向かった。ミュージシャンも音楽業界も、演奏のライブ配信によってなんとか異なる道を探ろうとして来た。それは目の前で作ってくれる出来立てのラーメンではなく、出前館によるデリバリーされたラーメンを食べるのと同じである。これは顧客が求めているのは心揺さぶられる「感」であって、インターネットを介した「感」ではない。この2つの感の違いは「作り手(ミュージシャン)」と「受けて(観客・フアン)」とが繋がっていないことによる。つまり、繋がっている感じがないことが大きな違いを生んでいると言うことだ。
出来もしないことを書くようだが、例えば人気のミュージシャン「ゆず」のスタートは路上ライブからであった。周知のように横浜伊勢崎町での路上ライブであるが、スタート当初は足を止めてくれり客はほとんどいないライブであったが、次第に聴きに来る客は増え、1年後には7500人が集まったと言われている。ちょうど秋葉原の雑居ビルでスタートしたAKB48と同じである。回帰という言葉を使うならば「原点回帰」と言うことだ。

また、不要不急の代表的なものの一つがスポーツである。日本においても無観客試合や観客の人数を制限したりしていくつかの試みが行われている。ドイツのサッカーの場合無観客試合+TV中継を行っているが、サポーターはどんどん少なくなり本来のサッカーの原点から大きく後退してしまっていると言われている。放映権料が一定程度収入として得られることを優先、つまり経済を優勢することによってフアン離れが起きていると言うことである。一昨年のラグビーのワールドカップの盛り上がりは選手たちの活躍もあるが、そのプレーへの応援が力となり、一体感こそが感動を生みと成功へと向かわせたことを思い起こす。

さて「回帰」は多くのところで広がりつつある。例えば、昨年の夏感染拡大を気遣って帰省自粛が行われた。この時社会現象として現れたのが東京のアンテナショップを訪れる人たちが多くみられた。故郷へ帰ることはできないが、少しでも故郷を思い出させてくれるモノを買い求めてのことであった。これもコロナ禍が生み出した故郷回帰である。
また、苦境であった百貨店にも多くの人が出かけるようになり賑わいを見せている。中でも食品を中心とした地方物産展が好評である。旅行はできないがせめても地方の美味いものを食べたい、ひととき旅気分をということだ。これも日常回帰の一つであろう。
ところでもうすぐ3.11東日本大震災を迎えるが、その年の流行語大賞は「絆」であった。10年経った今、復旧はなし得ても復興はまだ遠い。ただいくら遠くても故郷回帰という原点は絆によって繋がっているということだ。
また、テレワークという自宅での就業を余儀なくされ、昨年春頃まではストれるからDVなどが煮えられたが、コロナウイルスを避けての遊びなどが盛ん位みられるように為った。ブログにも採算書いて来たことだが、オープンエアでのキャンプや紅葉ハイキング、あるいは鎌倉や箱根と言った近場の小旅行が盛んに行われた。ある意味、今また「家族一緒」の日常に立ち戻ったと言っても過言ではない。

コロナ禍と言う危機を経験し、立ち止まり、足元を見て、次へと冷静に向かおうとしている。バブル崩壊の時のような大きなパラダイム転換はないが、やはり多くの「回帰」がみられるようになった。不要不急、感の取り戻し、と言えばもうすぐ桜の季節である。今年の花見という江戸時代から続く最大イベントは宴会抜きのものになりそうだが、それもまた良しということだ。(続く)
  
タグ :コロナ禍


Posted by ヒット商品応援団 at 13:01Comments(0)新市場創造

2021年02月17日

◆未来塾(43) コロナ禍の飲食事業事例「後半)    

ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.17.




「5つの飲食事例」に学ぶ


今回取り上げた事例はわずかで、他の飲食事業者に全て当てはまるものではない。ただ今回の事例はコロナ禍にオープンした飲食事業、もしくはオープンして3年に満たない事業であり、ある意味正面からコロナ禍に立ち向かった事業事例である。そして、立ち向かい方もそうであるが、業態ごと、専門分野ならではのアイディアや知恵を見出すことができる。そして、小売業はアイディア業であると言われてきたが、事業の根底には揺るぎない信念のようなものが見えてくる。ウイルスという見えない敵との戦いであればこそ、信念といういささか精神論的ではあるが、事業を支える姿が見えてくる。


「不安」が横溢する心理市場

昨年夏未来塾では「もう一つのウイルス」と言うタイトルで、「自粛警察」をはじめとした社会現象を取り上げたことがあった。周知のようにそれら心の奥底に潜むウイルスは続いており、今や「マスク警察」から更に「不織布マスク警察」へと。こうした過敏な反応は一種のヒステリー現象・社会病理に近いものとなっている。あのIps細胞研究所の山中教授は昨年春HP開設に際し、情報発信については「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」を基本に発信していくと述べ、HPの情報もその都度改訂・修正されている。
実は不安を作り出すのは「情報」であり、しかも「不確かな情報」に因ることが多い。勿論、不確かどころか全くのデマ情報とまでは言わないが、憶測、推測、個人的な思い込み、・・・・・こうしたことから「うわさ」が生まれる。うわさはうわさへと伝播拡散することはSNS社会にあっては周知の通りで、そのうわさを根拠にマスメディア、特にTVメディアは取り上げあたかも事実であるかのように伝わることとなる。
その象徴例が昨年春のパチンコ店の取り上げ方で、まるでクラスター発生源であるかの如きであった。しかし大きなクラスターは一度も起きてはいないのが「事実」である。後にメディアの責任を痛感したと述べたのはジャーナリストの大谷昭宏氏だけで、TV局・番組が訂正したことは聞いたことがない。同じように、東京由来のウイルスと言われた新宿歌舞伎町は確かに感染者が多かったことは事実であるが、都知事は「夜の街」が感染源であるかの如き発言を繰り返し、ここでも「悪者」である根拠を検証することなくそのまま報道する。(詳しくは未来塾にて新宿区長の発言を含め経緯を書いているので参照していただきたい)」
次に悪者となったのが明確な根拠がないまま移動をすれば感染は拡大すると言った一般論からの推測によるGotoトラベル感染拡大説である。次に取り上げられたのは感染者数の割合が多く行動範囲の大きな「若者」感染源説である。(詳しくはブログ「伝わらない時代の伝え方」を参考としてください。若い世代の行動を消費面から分析しています。)
こうした不確かな情報発信はTV局が自前の取材スタッフで全てをまかなうことができないと言う事情があるからである。その情報の見極めは「その確かな根拠は?」と問えば、自ずと答えが出る。よく情報リテラシーの議論が出るが、情報の活用能力の前に「その情報の根拠」を問うことから始めることだ。

気分を変えるアイディア

残念ながら不安・ストレスは増幅することはあってもなくなることはない。感染防止のための努力は勿論のことであるが、今必要なことは「ポリシー」「信念」であり、目指すべき飲食の在り方、私の言葉で言えば時代に即した「コンセプト」を明確にすることに尽きる。時代に向き合う姿は顧客に一定の「安心感」を与えることができる。昔からある「お任せ」と言う安心感である。これらは「専門世界」「プロ」ならではの「確かさ」を提供することである。変わらぬ安定感、いつもの味、いつものスタイル、明るさ、こうして生まれる満足の提供ということだ。
つまり、自店の世界に引き込む、創ろうとする雰囲気を最大限表現することが重要となる。それが「ひととき」という短い時間であっても、不安の無い時間を創るということにつながる。今回の事例でいうと、大阪「ミクり」のテーマ「二十四節気」の世界に入り込んでもらうということである。二十四節気と言えば、夏至や冬至、あるいは立春や立夏などを思い浮かべるが、24の季節を表す名前がつけられている暦の世界だ。ある意味旧暦の季節に想いを巡らす暮らしの世界がテーマであり、そのメニューとなった古の文化を食べることとなる。そのようにひととき不安から離れた時間を過ごしてもらうということである。
「挽肉と米」の場合も、店づくり・空間づくりの世界観を感じさせてくれるが、なんといっても目の前で焼いてくれるハンバーグである。焼く匂い、音、立ち上る煙さえ、美味しさのシズル感を掻き立ててくれる。しかも次から次へと食べ終わった頃を見はらかったかのように熱々のハンバーグが届く。食べ方も自由自在自分の世界に没頭させてくれる時間だ。
どちらもその満足感は異なるが、ひととき不安とは無縁の時間を過ごさせてくれる。

「若い世代」の居場所づくり

昨年夏「密を求めて若者は街へと向かう」といういささか刺激的なタイトルでブログを書いた。今になって感染拡大のあたかも犯人のように「若者」を見立てる「大人」(主にTVメディア報道)の言説が盛んに見られるようになった。(詳しくはブログを参照していただきたい。)
1967年「書を捨てよ、町へ出よう」と呼び掛けたのは寺山修司であった。寺山が主催した天井桟敷の舞台は新宿花園神社であったが、現在の舞台は渋谷へと変わった。今までの鬱屈した生活から「自由」に何にでもひととき変われる」街へと向かうという心情にそれほどの違いはない。そこには私の持論であるが、「新しい、面白い、珍しい」何かが常にあり、欲望を刺激するのが「都市」がもつ魅力ということだ。
ところで2015年の国勢調査によれば、地方では過疎化高齢化が深まり、都市においては人口流入に歯止めが効かず単身世帯が増加している。ちなみに東京23区の場合、単身世帯は過半数を占めている。
また、東京における人口流入増加は仕事を求めた若い世代とともに学生によるところが大きく、学生数は約260万人に及んでいる。高齢化ばかりが話題となっているが、東京はやはり「若者」の街である。「密」の中心に若い世代がいるということである。
東京という街の歴史を調べていくとわかるのだが、日本で初めて「都市化」が進められたのが江戸であった。周知のように中央集権国家の礎はここから始まっている。また、この都市化は新たな商業を発展させ、元禄に代表されるような消費都市の萌芽を見せる。消費都市とは「不要不急」によって成立する。そして、この魅力は幕府が開かれた当初江戸は40万人都市であったが、地方から江戸を目指す人は多く、120万〜140万人にまで膨れ上がる。つまり、江戸も今も人を惹き寄せるのは「新しい、面白い、珍しい」を求めた結果である。
話が横道に外れてしまったが、「新しい、面白い、珍しい」が日々起きている街が渋谷であり、事例の渋谷横丁もその一つとなっている。ここ数年渋谷は連続した再開発によって街の様相は高層ビルによって一変した。それら高層ビルにも多くの専門店などが入っているが、「大人の街」コンセプトによってテナント編集されているせいか、若い世代にとっては敷居の高さ、入りにくさを感じてしまうものとなっている。ラフな格好で気軽に使える店は少ない。そうした中の渋谷にあって、安い価格で飲み食べることのできる渋谷横丁は「居心地の良い」居場所になっている。それは閉じられたビル内の飲食店ではなく、通りに面した店づくりは入り易い居場所となっている。

ところで界隈性というキーワードがある。賑わい、活気ある雰囲気、なぜか心地よい・・・・・・・そこには効率とか生産性とか、ある意味「〇〇すべき」といったベキ論に押し潰されそうになる日常からひととき解放してくれる、そんな雰囲気が満ち溢れる街のことを指すキーワードである。組織ではなく個人として出会い交流できる街、異なる価値観を持つ多様な人と出会える、そんな街が渋谷である。勿論、過去には薬物に手を出したり、援助交際といった「大人」の罠に囚われたことがあったが、現在そうしたことはほとんど聞いたことがない。
もう一つの事例として取り上げた日比谷オクロジの場合であるが、JR東日本の高架下ということからも「隠れ家」というコンセプトは理に叶ったものである。その隠れ家であるが、「ワインと天ぷら」と言った新しい組み合わせメニューをメインとした専門店など従来の銀座にはない「新しさ」を感じることができる。出店する業種もさることながら、まず超えなければならないのが前述の「銀座価格」である。銀座にある老舗飲食店も顧客によって育てられ今日があり、そこに文化もある。新しい銀座の「居場所」として、「育てがいのある専門店は何か」を今一度考えてみることも必要であろう。

価格の壁を超える「満足感」

誰を主要な顧客とするか、そのための業態やメニューによって全て異なるが、価格を決める一つの指標となるのが今までにない「満足感」である。5つの事例を通して学ぶべきは、1年近い巣ごもり生活で求められているのが「新しい、面白い、珍しい」メニューであり、サービススタイルであり、手頃な価格であることがわかる。巣ごもりという「鬱屈感」をひととき解放してくれるという満足感である。とにかく「気分」を変えてくれる店ということになる。今回取り上げた店や商業施設は、デリバリー・宅配といったスタイルの店ではない。例えば、「挽肉と米」の店を考えてもわかるっように単なる「焼きたて」ではなく、焼き上げるまでの音や朦々として煙すらも満足感に繋がっている。シズル感と言って仕舞えばそれで終わってしまうが、こうした「感」を取り戻したいということだ。デリバリーの出前館のCMに熱々のままのラーメンデリバリーが描かれているが、湯切りした麺を丼に入れる・・・・・・・こうした「ライブ感」を味わうことはできない。ただ熱いだけのラーメンの味気なさの違いである。
実はコロナ禍が起きるまでは、こだわり、わけあり、と言ったキーワードによってメニューが編集されてきた。その結果としての「価格」であった。ミシュランの星を獲得した店も、少し前までは成長を見せていたチェーン店も、等しく苦境に立たされている。「移動」が抑制されていることから、観光産業もさることながら駅弁の代表的な企業である焼売弁当の崎陽軒は売り上げは前年比4割であると報道されている。また、昨年4月歌舞伎座前の弁当屋「木挽町辨松」が152年の歴史を閉じて廃業へと向かった時感じたことだが、伝統を引き継ぐ食文化すらもコロナ禍の前では無力であった。しかし、そうした中で小さくても光る飲食店はあり、顧客は強く支持していることも事実である。

新しい満足感による再編

「食」はライフスタイルの中心である。この1年コロナ禍によって食の原点を今一度思い起こさせてくれた感がしてならない。パラダイムチェンジという言葉がある。過去の価値観を大きく変え、全く異なる世界・価値観世界を指す言葉であるが、今回のコロナ禍がもたらしたことは、パラダイムチェンジではなく、「食」とは何か、飲食業とは何か、を問い直させたということであろう。
巣ごもり生活の中にあっても、不安やストレスが充満したこころがひととき和み、思わず美味しかったと呟きたくなる、そんな「飲食」が求められているということだ。ある意味当たり前のことであり、原点に帰ることである。顧客支持はどこにあるのか、どこにあったのかを今一度見直してみるということである。時間が経ち、スタッフが多くなればなるほど、この「原点」から離れてしまいがちである。あのユニクロは創業感謝祭や新規店オープンには牛乳とアンパンを今なお来店顧客に配っている。それは創業時、オープンした時に配った「想い」を忘れないためである。創業の精神に常に立ち返るということだ。

ところでその満足感であるが、「巣ごもり」という閉じられた世界から解放してくれるものはなにかと言えば、「ライブ感」「シズル感」「季節感」「鮮度」・・・・・・つまり実感ということである。「密」であることを禁じられた中、「散」となった個々人が実感できる「何か」を取り戻したいということであろう。
コロナ禍の1年間、生活者はウイルスを避けながら、日常を楽しむ工夫をしてきた。例えば、キャンピング需要は更に大きくなり、ジョギングを始めハイキングなどオープンエアな環境に身を置く傾向が強く出てきた。自然を感じ取る、季節・花々・気温・匂い・風・・・・・・・今まであった「らしさ」を取り戻したいということであろう。
思い出して欲しい、1980年代消費を活性させたのは「鮮度」であった。旬を素材に、採れたて、焼きたて、煮立て、調理したて、、出来立ての美味しさを求めたことを。現在はそんな鮮度を「実感」してもらうことを主眼としたサービス業態が求められている。それは名店の鍋セットから始まり、焼き台を含めた「焼き鳥セット」や「焼肉セット」までが人気となっているのが「巣ごもり」消費である。つまり、いつの時代も「ライブ感」を提供するということだ。

「不要不急」を楽しむ時代

今回は飲食事業に的を絞ってコロナとの向き合い方を学んできたが、その裏側には顧客自身の変化が見え隠れしている。昨年春巣ごもり消費の代表的なものとして「ゲーム」需要に触れたことがあった。そのゲーム需要の中心に任天堂やSONYがあるのだが、SONYのプレイステーション5は製造が追い付かないほどで決算にも大きく貢献し経常利益は1兆円を超えると発表されている。最近では新しいSNS「クラブハウス」も夜8時以降出歩くことができないことから、音声のみの会話だけだがそのライブ感から世界中で人気となっている。これは人に会えない時代の不要不急の楽しみ方の一つであろう。クラブハウスの会話の本誌yしは一種の無駄話である。コロナ禍以前がそうであった日常の無駄話、友人関係だけでなく著名人との話もできることから、コロナ禍から生まれた「不要不急」なSNSである。昨年4月に実施されたテレワークが次第に元の出社状態に戻ってしまったのも、人間関係の中にこの「無駄」が必要であったということだ。
命をながらえるための必需消費だけでは生きてはいけなくなっている。無駄を含めた選択消費の時代であることを強く気づかせてくれた事例は多い。つまり、コロナ禍にあっても戦後間もない頃の生きるための必需消費の時代には後戻りできないと言うことである。団塊の世代以上の高齢者は必需消費の時代を経験していて我慢することはできるが、若い世代にとってはまさにコロナ禍は未経験、実感を得ることができない時代ということだ。不要不急という言葉は、「大人」の言葉であり、若い世代にとっては意味を持ち得ない言葉になっているということである。

ライフスタイル変化の兆し

コロナ禍の1年、見えてきたのは「無駄」をどう遊ぶか楽しむか、そんなライフスタイルである。よくコロナに慣れてしまった緩みと言った表現をTVメディアは使うが、それは生活者自身が自制、セルフダウンの仕方を学んできた結果であることを忘れている。
「不要不急」を悪の根源であるかのような言説を採る専門家や政治家は多くいるが、何をしても自由だということではない。生活者はどうしたら感染を防止しながら「楽しめる」かをウイルスの知識を踏まえて判断し、行動している。生活者はこうした学習情報を持ち、既にTVメディアのいい加減さに気づき始めている。少なくとも今回取り上げた専門店や商業施設は、こうした賢明な生活者によって支えられていることだけは事実である。
先日厚労省は2回目の抗体検査の結果を発表した。その抗体保有率は東京0.91%(前回0.10%)、大阪0.58%(同0.17%)、宮城0.14%(同0.03%)だった。新たに対象に加えた愛知は0.54%、福岡は0.19%。その評価であるが、どの地域も1%以下の低さである。英国などの抗体保有率は20%を超えているが、何故日本は低いのかと言う疑問が起きる。昨年春ips細胞研究所の山中教授が日本人の感染率の低さの理由を指摘をした「ファクターX」が1年経っても解明されていない。いずれにせよ1日も早いワクチン接種が待たれるが、少なくとも生活者は感染防止をしながら少しでも「不要不急」を楽しんでいるかがわかる。
昨年5月コロナ禍の出口論、ウイズコロナの論議が盛んであったが、消費の面からは答えの一つとして不要不急の楽しみ方が浮かび上がって来た。

「不要不急を楽しむ」などと言うと、また感染の犯人、悪者にされそうだが、全く逆で生活者は極めて注意深く楽しむ術を身につけ始めている。またここ数週間の感染者の減少傾向は若い世代の感染が減少したことによるもので、今なお感染者が多いのは介護施設や病院でのクラスター発生に依るものが多い。
今、一番我慢しているのは若い世代であり、細心の注意を払って、不要不急を楽しんでいる。バイトのシフトの合間に、多くの友人と会い騒ぎたいが、特別仲の良い友人と二人だけで昼間に会う。オランダでは若者による暴動すら起きていると報道されているが、日本の「若者」は消費の表舞台には出てこないとして5〜6年前、「草食男子」などと揶揄された世代である。真面目で大人しい世代であり、身近な仲間や関係先、勤め先やバイト先には感染の迷惑をかけない気配りのある世代である。
そして、あたかも合理主義を旨としたデジタル世代であるかのように見る「大人」が多いが、そうではなくてアナログ世界に関心を持ち遊ぶ世代である。実は吉祥寺を若い世代の街として観光地化した大きな要因の一つが昭和の匂いがするレトロなハモニカ横丁であることを「大人」は知らない。(詳しくは「街から学ぶ 吉祥寺編」を一読ください。)」

若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。
江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。
何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。
若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。
  
タグ :コロナ禍


Posted by ヒット商品応援団 at 14:33Comments(0)新市場創造

2021年02月14日

◆未来塾(43) コロナ禍の飲食事業事例「前半)    

ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.14.

今回の未来塾は2回目の緊急事態宣言が発出され、時短営業と言う苦境に立たされている「飲食事業」を事例として取り上げてみた。1年近く巣ごもり生活が続いているが、そうした中にあって外出する顧客はいる。感染防止は当然図られている「飲食店」であるが、そうした顧客を惹きつける工夫やアイディアが随所に見られる。今回はそうsした魅力を5つの事例を通して学ぶこととした。




  コロナ禍から学ぶ(4)

「コロナ禍の飲食事業事例」

「不要不急」の中に楽しさを見出す。
「気分転換」と言う満足消費。
ライフスタイル変化の兆しが見え始めた。


再び落ち込む消費

再び緊急事態宣言が発出され、飲食事業者を中心に更に時短営業が延長されることになった。昨年の4月には既に生活行動の範囲がご近所エリアへと萎んでしまうとブログに書いたが、昨年の夏以降生活行動は徐々に広がりを見せてきた。しかし、年明け早々の第3波に続き緊急事態宣言の発出によって再び小さくなった。TVメディアは「人出」を昨年の4月の時と比較し増加していると報じているが、昨年4月は食品スーパーやドラッグストア以外はほとんど自粛している状況と比較し増加していると解説しているが、そんなことは当たり前で今回の時短要請は「限定的」であり、ウイルスの正体もこの1年で「未知」から「既知」へと変わり、行動もそうした中で変化するのは当然のことだ。
第一回目の緊急事態宣言が発出された昨年5月の家計調査の結果について未来塾(2)で次のように書いた。

『コロナ禍5月の消費について家計調査の結果が報告されている。二人以上世帯の消費支出は調査が開始された2001年以降最低の消費支出(対前年比)▲16.2となった。ちなみに4月は▲11.1、3月は▲6.0である。緊急事態が発令された最中であり、例年であれば旅行に出かけ、外食にも支出するのが常であったが、当然であるが大きなマイナス支出となっている。ちなみに、旅行関連で言うと、パック旅行▲ 95.4、宿泊料▲ 97.6、食事代▲ 55.8、飲酒代▲ 88.4、となっている。更には映画や・演劇、文化施設や遊園地などの利用もマイナス▲ 94.8~▲ 96.7と大幅な減少となっている。勿論、外出自粛などから衣料や化粧品の支出も大きく減少していることは言うまでもない。』

この消費における結果が戦後最悪の4−6月GDP27.8%減に大きく反映していることとなった。7月以降11月までの消費についても持ち直す傾向は見せるものの依然として低水準となっている。推測するに感染の悪化の端緒となった12月はまだしも、年が明けた1月以降は全国へと感染拡大が広がり昨年5月と同様の結果、特に飲食事業の悪化は言うまでもない。
この1年コロナ禍によって失われた消費のほとんどがいわゆる「不要不急」の支出であることがわかる。しかも、都市経済を支えているのが、この不要不急による支出であるということだ。

「情報」の根拠が問われている時代

今回言うまでもなく過剰な情報の中での「事例」を取り上げることとした。コロナ禍でなければ私自身が街を歩き会話しながら感じたままを「ことば」にしてきたが、2回目の緊急事態宣言下にあって、友人・知人の力を借りて事例から学ぶこととした。その理由は特にTVメディアの情報にあるのだが、根拠を明示しないまま放送することによる悪しきイメージ定着によって、本来認識すべき「正しく 恐る」ができないような状況が生まれてしまったからである。まさに実際に経験する、実感こそが必要な「時」であると考え友人たちの体験を借りて事例を学ぶこととした。渦中の飲食業がどんな生き方、工夫アイディアを駆使しているかを広く公開したかったからである。苦境の中にあって、飲食業はどんな頑張りを見せているか5つの事例を通して学ぶこととした。

気分を変えてくれる消費

ところで首都圏近郊の駅に隣接する中規模SC(ショッピングセンター)の売り上げについて、専門店として出店している友人から次のようなレポートが届いている。
『緊急事態宣言で再び飲食店は時短営業で、重飲食:71%、軽飲食:75%と青息吐息状態。では中食で食物販が良いのかというと、103%でカバーできていない。どこに消えているのか館内だけでは見えてきませんが、多分、出前館やUberEatsなどのデリバリーと、ネットスーパーやAmazon freshなどです。
来館者数が、平日で89%、土日は81%と戻らず家から出ていないのが顕著です。たまプラーザ東急は10月頃の“平時”でも18:00閉店でしたしある意味「保守・品行方正」のエリアなので、人出が少ないのでしょう。例外的に極端に良いのがミスタードーナツで、1/8からの限定商品がバカ当たりで開店前から連日30~50人並び途絶えません。』
このレポートからもわかるように行動範囲も時間も狭まり、つまり首都圏近郊のサラリーマン家庭の主婦層は外出を自粛していることから結果消費も落ち込んでいることが実感できる。既に昨年春のブログには「非接触型」ビジネス、デリバリーサービスや宅配サービスなどの需要が一般化しているが、それは「我慢」のなかのサービス需要であって本音の需要ではない。
その証拠ではないが、面白いことにミスタードーナツ の季節商品キャンペーンには多くの人が集まり、行列ができている。巣ごもり生活にあっても新しい、面白い、珍しいといったそれこそ不要不急なスイーツに人が集まっているという象徴例であろう。
「気分消費」という言葉がある。いや正しくはそうした言葉を使っているのは私ぐらいであるが、「不安」が横溢する時代にどうすればそうした「気分」を変えることができるかを考える生活者がいかに多いかがわかる。ミスタードーナツ のキャンペーン商品の事例は不安な中にあってひととき「気分」を変えてくれる商品であり行列してでも買い物したいということだ。
今回の未来塾はこうした「小さな楽しみ」を提供している飲食店に焦点を当てて、どんな楽しみ着眼をしているかを学ぶこととする。また、本来であれば首都圏だけでなく、大阪まで広く取材し、その実感を踏まえたスタディとしたいのだが、緊急事態宣言の発出もあり、友人・知人の力を借りてのレポートとした。

ハンバーグ専門店「肉と米」の場合




実はコロナ禍真っ只中の昨年6月に東京吉祥寺東急百貨店裏にオープンした焼きたてにこだわったハンバーグ専門店である。数年前からカフェを始め新しい専門店がオープンしているとのことであったが、「新しい、面白い、珍しい」大好き人間である友人が出かけて経験した店で今なお人気の絶えない店となっている。
冒頭写真のように焼き立てのハンバーグが網の上に届き、宮城米の羽釜ご飯と味噌汁が届き、目の前の炭火で焼かれたハンバーグが食べ終わる頃をみはらかって合計3個が食べられる。勿論、ハンバーグはそのままでもよし、大根おろしもよし、食べる醤油もあり、・・・・・・・・このボリュームの挽肉と米 定食 が1300円(税込)と言う。
タイミングよくサービスしてくれる珍しい専門店で味やボリューム以上の満足感を提供してくれる店である。また友人は店づくりについても次のようにコメントしてくれている。

『味もおいしいのですが、何より演出に心を惹かれるお店だと感じます。エンターテインメント性が高く、ハワイに昔からある観光客向けのステーキハウス「田中オブ東京」を思い出しました。』

円形の20席ほどの店だが1日200人ほとの顧客が来店すると言う。向かい合わせのテーブル席ではなく、円形のレイアウトによる席作りは感染防止のことも考えてのことと思う。
また行列ができて密になってしまうことから、ウェイティング名簿制を導入している。名簿を書くことができる時間は、インスタをご確認のこと。
営業時間は11;00 〜15;00、17;00 〜21;00 (時短営業になり現在は20;00まで。なお売り切れ次第で終了となる。




コンセプトである焼き立てハンバーグを丁寧にをサービスしてくれる一方、水や箸休めなどはセルフスタイルをとっており、そのメリハリのついたスタイルも満足度を高めることとなっている。
この「挽肉と米」の場合はレストラン業態にあって、テイクアウトなどの方法を採らず、ある意味専門店の「王道」の生き方を貫いたと言うことであろう。結果、コンセプト通りの味、価格、サービス、そして何よりももてなす雰囲気・スタイルの「満足感」を提供していると言うことである。鬱屈した日常から離れ、ひととき満足が得られたと言うことだ。ちなみに友人の話では近々渋谷に2号店をオープンさせるとのこと。

ダイニング&カフェ「ミクリ」の場合








大阪市西区土佐堀にある和食の店である。レトロな倉庫を改装したそうで、店内はコンクリート打ちっぱなしの壁を全面白く塗装している。一方で、無垢材のテーブル、椅子が「和」の雰囲気を演出していて、落ち着いた空間となっている。
友人の話によると「経営者は奈良県出身のデザイナーらしく、料理は吉野杉の板に乗って出てくる。先付の一品と、その日のメニュー、二十四節気を説明するカード(横13センチ、縦6・5センチ)が最初に登場する。主菜と8種類の料理は、山海の珍味ならぬ“山の恵み、海の幸せ”を感じさせる。カードに二十四節気を愛でる短い文章が添えられている。1年の二十四節気の最初は1月の「小寒」。年神様と一緒にいただくおせち料理がコンセプトだった。」と話してくれた。
都市生活の中で失ってしまったものの一つが自然で、その中でも「四季」は生活の節目を感じさせてくれる重要なものの一つである。友人はこれまでに、二十四節気のうち、八種類を連続していただいたとのこと。「二十四節気」達成という楽しみ方、季節を巡る楽しさは顧客の回数化を図ることもあり、見事な戦略となっている。
そうした季節を巡る小さな楽しみ方には、勿論感染防止も万全である。「入店時には、スタッフが体温を測ってくれて、もちろんマスク厳守。座席は透明のアクリル板で、一人ずつ仕切っている。そういう設備面とともに、店の雰囲気が“コロナ禍”を遠ざけているように思わせてくれる」とのこと。季節感を味わってもらうことと安心感とがうまく調和させた店づくりである。

テイクアウト専門店「おみそ善」の場合

多くの飲食店がテイクアウトメニューをつくり、デリバリー事業者に委託したり、あるいはテイクアウト分野に進出したり、従来の業態からの転換を図る飲食事業者が急増している。昨年春のブログにも書いたが、店舗をいわばメニュー製造の工場として機能させ、テイクアウトだけでなくネット通販や移動販売などを活用するといった業態である。あるいは非接触業態である自販機の活用も広がっている。
但し、例えば数年前に話題となった神奈川相模原にある「レトロ自販機」も進化している。「タイヤ交換の待ち時間に楽しんでほしい」と言う顧客要望から始まった自販機であるが、うどん・そば、ラーメン、ハンバーガー、トースト、ポップコーンなど調理機能が付いた自販機のほか、ご当地アイス、ポッキー、駄菓子、玩具付きお菓子、焼き鳥などのビッグ缶、瓶コーラ、タイの清涼飲料水など、テーマに分けて計27台を店舗の一角に設けた仮設小屋に並べる。駄菓子の自販機は、同じ商品が並ばないように工夫。選ぶ楽しさを演出するため、10円~30円の商品を売るための工夫もしており、つまり自販機による「楽しさ」の提供へと進化している。自販機ですら止まることなくテーマを磨くことが必要であると言うことだ。

こうした業態の変更は店内飲食の売り上げ減少を補填する意味合いがほとんであるが、大阪肥後橋の「おみそ善」はテイクアウト専門店として2年ほど前にオープンした飲食店である。「おみそ善」に学ぶべきはテイクアウト業態の基本、専門店としての明確なコンセプト、その魅力が顧客を惹き付けると言う基本である。「コンセト」と言う言葉の理解であるが、一般的な言葉・概念で使われてきたが、新たな市場機会と言う着眼の意味をテクニカルだけの理解だけではない。現実ビジネスを考えれば、その着眼はある意味思い込みを超えた生き様である。でなければ事業の「持続」などあり得ない。「コンセプト」とはそうしたビジネス世界のことば・キーワードとしてあることを忘れてはならない。




このおみそ善は関西を中心に東京やNY、中国で「美と健康」をテーマにしたヘアサロン、エステ、ジムなど50店舗以上を展開する『ウノプリールグループ』の新規事業である。勿論、コンセプトは「美と健康」であり、味噌汁の効能に着目した専門店で味噌汁が11種類(各390円)をメインにおにぎりや淡簡単な副菜が用意されている。大阪肥後橋という立地はビジネス街ということから営業時間も朝8時からで「朝食セット」や「特製弁当」も用意されている。
友人が食べたのは写真の「粕汁」で大阪らしい季節の汁とのこと。友人はその時のことを次のようにコメントしてくれている。




『この店を知ったのは、関西のあるTV番組だった。仲のよさそうな兄弟2人が“味噌汁道”を究めようとする姿を映し出していた。TV放映されると、しばらくはお客さんが殺到する場合が多く、ほとぼりが冷めるころに行ってみた。すごく寒い日だったので、粕汁があればいいな、と思っていたら、ありがたいことに発砲スチロールのお椀のテイクアウトで470円だった。
 店の注文カウンターはアルバイトの女性が立ち、少し奥の厨房で兄弟がテキパキと働いているのが見える。粕汁は、出汁の旨さが口の中いっぱいに広がり、軽いお椀がズッシリ感じられるほどの具沢山だった。店の前の路上の腰掛石に座って、熱いうちにいただく。
 お椀を返しに行くと、厨房から「お味、いかがでしたか?」と声が聞こえる。ただ、美味しかったよ、では味がないと思い、「コイモが入っていたらもっと点数が上がるかな」と答えた。もちろん、クレームではないつもりである。返事は「はい、なるほど」と元気な声だった。続けて、テレビで見たよ、と告げた。「いろいろな番組に出していただいてます」と、笑顔が見えた。
 コロナ禍と戦う姿勢でもなく、悲壮感も見せず、恨みがましいセリフも出ず、街角の汁物屋さんはほんわか湯気の中である。』

コロナ禍の都市空間利用の新たな取り組み

2020年は多くの商業施設、専門店が休業や廃業の瀬戸際に晒された1年であったが、実は昨年コロナ禍にあって注目する2つの商業施設が誕生している。
新型コロナウイルスの感染拡大によってオープンが延期されてきた商業施設の一つは渋谷の宮下公園跡地の開発で7月28日新たな商業施設「MIYASHITA PARK(ミヤシタパーク)」である。東京以外の人には馴染みのない場所・宮下公園であるが、JR渋谷駅から原宿寄りに徒歩3分にある公園でホームレスが集まる場所として知られた一等地の公園である。もう一つがJR有楽町駅と新橋駅との間の高架下開発でJRの京浜東北線や新幹線の高架下でこれまた銀座と日比谷に挟まれた一等地の空間である。

まずMIYASHITA PARKであるが、大きくはスケート場やボルダリングウォールに加え、多目的運動施設を新設された区立宮下公園。もう一つが渋谷には極めて少なかったホテル。そして、注目されているのが商業施設で、この3つの空間によって構成されている。簡単に言ってしまえば、ショップなどの商業施設の上に公園があり、原宿寄りにホテルがあるという構図である。公園と商業施設、そしてホテルといった組み合わせは珍しいことではなく、公園とまでは言わなくても屋上緑化はかなり前から都市空間のつくり方としてはありがちなことで、実は賑わいを産み出し注目されているのは他にある。

賑わいを生む「渋谷横丁」




北海道から九州・沖縄まで地域のソウルフードや力士めし、喫茶スナックと多彩なアーティストのパフォーマンスが楽しめる全19店舗の飲食街である。写真と次のようなMAPクォ見ればどんな賑わい作りであるか理解できるかと思う。そして、写真は商業施設の HPからのものだが、「24時間」と明記されているように珍しい営業時間となっている。但し、今回の緊急事態宣言の発出により朝8時から夜8時までとなっている。

リニューアルした渋谷PARCO地下のレストラン街、少し前の虎ノ門ヒルズの虎ノ門横丁、それらの原型は吉祥寺のハモニカ横丁にあるのだが、昭和の匂いのするレトロな「街づくり」であり、若い世代にとってはOLD NEW古が新しい世界である。それまでの渋谷は「大人の街」へと脱皮するかのように高層ビルによる商業開発であったが、この渋谷横丁は若い世代の新しい人気スポットとなった。渋谷に生まれた裏通り文化であり、経験したことのない全国の「食」をあれこれ楽しめる安価な路地裏歩きである。
例えば、北陸食市のメニューであるが、イカの漬け丼999円、金沢のソールフードであるオムライスの上にフライをのせたハントンライス999円。東北食市であれば盛岡冷麺799円、牛タンカレー1299円と言ったように若い世代の懐を考えたメニュー価格となっている。

何故、横丁路地裏に賑わいが「都市」に生まれたのか、勿論それには大きな理由がある。もっと明確にいうならば、「賑わい」の孵化装置・インキュベーションの一つとして横丁路地裏があるということである。別な表現をするならば、「表通り」と共に「裏通り」に生まれてくる「何か」、それへの期待が生活者、特に若者に生まれてきたということである。その「何か」を総称するならば「文化」となる。
6年ほど前になるがそうした「裏通り」についてその象徴として秋葉原、アキバについて次のように書いたことがあった。
『秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使って対比させてみた。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質な欲望が交差する街、実はそれが秋葉原の魅力である。』(未来塾4 街から学ぶ 秋葉原編)

周知のように秋葉原にあった神田青果市場跡地の再開発に端を発した街秋葉原の変化を「2つの異質が交差する街」と位置付けてみた。再開発で誕生した高層ビルの裏側にある古びたビルからAKB48が生まれたのは偶然ではない。そして、オタクと呼ばれる熱狂的なフアンを生み、次第にマス化し、後に秋葉原駅北口の高架下にAKB劇場が新設されることとなる。裏通りから、表通りへと進化したということである。

新しいフードコート業態

1カ所で多様な飲食を楽しめる場としてフードコートが造られてきた。特に郊外のSCには必ずフードコートがある。10数年前までは1社に全てを任せる方式であったが、より顧客の好みに合わせた専門飲食店、例えば洋食やうなぎ、あるいは人気ラーメン店などを組み合わせるようになる。週末などはファミリーで満席状態を見せる業態となっている。
渋谷横丁を見ていくとわかるが、横丁という賑わいスタイルを採っているがメニューとしては全国のご当地飲食メニューから選べるようになっており、一種フードコート的である。そして、こうした専門店でしか食べることができない多様なメニューを集積することによって賑わいは加速する。
また、現在は緊急事態宣言が発出されいることから朝8時から夜8時までとなっているが、本来は24時間営業となっている。これも若い世代が集まる大きな要因となっていることは確かである。

残された唯一の超一等地の開発

ところで9月にJR有楽町駅から新橋駅間の内山下町橋高架下に誕生したのが商業空間「日比谷 OKUROJI(ヒビヤ オクロジ)」である。銀座と日比谷に挟まれた京浜東北線や山手線、東海道線の高架下といったほうがわかりやすい。それまでは倉庫や駐車場などに使用されていた空間で、誰もがその活用について不思議に思われてきた空間である。その空間300メートルに飲食店を中心に36店舗のテナントが入った商業施設である。

「オクロジ」というネーミングに表されているように、コンセプトは奥まった空間に「大人」のセンスを満たす商業施設となっている。新しい大人の「隠れ家」を目指す商業施設であるが、渋谷の宮下パークとは異なるコンセプト&ターゲットである。 「ヒビヤオクロジ」のコンセプトを最も良く表現しているのは新橋寄りにあるBarや焼き鳥、ラーメンなどのフードコートなどのある「ナイトゾーン」であろう。宮下パークと比較するとよくわかるが、「渋谷横丁」がナイトゾーンに該当する。







周知のように銀座はコロナ禍にあって空き店舗のビルが増え、更に大通りに面したビルにも空き店舗が増えるといった状況が生まれている。2020年の基準地価が発表されたが、訪日客の激減により大都市繁華街の地価下落は激しい。中でも銀座2丁目も5.1%下落し、9年ぶりのマイナスとなったように「賑わい」は回復基調にはない。果たして、銀座における「大人の隠れ家」が成立するにはどんな専門店を編集したら良いのかという課題がある。それはGINZA SIXにおける大量閉店に見られるように、銀座における「集客」が大きく落ち込み売り上げに満たない専門店が続出している。周知のようにGINZA SIXはインバウンド需要が大きいということもあるが、「銀座」というブランド価値が落ち込んでいるということである。こうした中での「価格戦略」の立て方ということとなる。




例えば、飲食ゾーンにあるうなぎ専門店、ひつまぶしの名店が出店しているが、その価格は果たして成立するのかという課題でもある。銀座には老舗のうなぎ専門店、竹葉亭や野田岩など数十店あり、若い頃から食べてきた敷居の低い竹葉亭などは鰻丼などは3500円程度でサラリーマンでも食べられる価格帯である。一方、オクロジ「うな富士」のうなぎ丼は4300円と少々高い価格設定となっている。
ところで、オクロジには「うな富士」とは異なるユニークな飲食店は出店している。それは大阪で人気の居酒屋「天ぷらとワインの店」大塩(おおしお)で、その入りやすい店づくりに表れているようにランチも1000円以下で食べられる設定となっている。大阪ではサラリーマンが通う梅田の駅前第3ビルの地下飲食街にありよく知られた飲食店である。
「隠れ家」というキーワードがメディアに登場したのは2000年代初頭で、東京霞町近辺の路地裏にある飲食店にTVや芸能関係者が利用したことから始まっている。そして、実は知る人ぞ知る「隠れ家」は高い価格によって決まるわけではない。例えば、サラリーマンの街新橋には居酒屋「大露地(おおろじ)」に代表されるように多くの知る人ぞ知る名店がある。そうした名店に仲間入りするには、「銀座価格」を超えた「何か」が必要だということである。
つまり、隠れ家とは継続して利用する、いわば常連客の店のことである。店の雰囲気、メニューの好み、店のスタッフサービス、そして何よりも回数利用できる「価格設定」が重要なポイントとなっている。顧客が回数を重ねるに従って、次第に「文化」も生まれてくる。新しい銀座文化の一つになるには「価格を超えた」飲食店の集積を目指すということだ。
実はこの試みを難しくさせているのが、このコロナ禍である。「隠れ家」は自由に行き交う中で、同じ楽しみを共有しえる「仲間」が集う場のことである。つまり、新しい大人の居場所づくりということだ。(後半へ続く)































  
タグ :コロナ禍


Posted by ヒット商品応援団 at 14:31Comments(0)新市場創造

2021年02月11日

◆コトの本質に迫らない不思議  

ヒット商品応援団日記No778(毎週更新) 2021.2.11.


インターネット時代がスタートした当初、流される情報は玉石混交と言われた。極端なことを言えば、嘘もあれば事実もあるということであった。実はインターネット上の情報のみならず、いわゆる地上波メディア、特にTVメディアは「嘘」ではないが、本質をついていない情報ばかりを流す時代となっている。勉強不足と言えば優しい表現になるが、現在のメディアは「無知」と言っても過言ではない。
冒頭の写真とコメントは私の友人が送ってくれたものだが、今話題となっているオリパラ組織委員会会長である森会長に関する「報道」についてである。元新聞記者である友人は次のようにコメントしてくれている。

「東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長の「女性蔑視」発言が尾を引いています。森会長を擁護するつもりは全くありませんが、五輪そのものが、もともと「男」だけの世界だったといえます。そう、かのクーベルタン男爵からして。1896(明治29)年の第1回アテネ五輪は、8競技とされますが、女性の参加はありません。クーベルタン自身が望まなかったから、という説さえあります。
さっそく、異論が出て、第2回パリ五輪から女子選手が出場。今では、柔道、レスリング、サッカー、マラソン、アイスホッケーなど、男子のものと思われていた競技も女子が活躍しています。
スポーツ自体が長く「男社会」でした。それが大きく変化していることを、森会長は理解できていない、あるいは理解したくない、ただ、それだけじゃあないですか。」

元スポーツ担当記者である友人の指摘である。日本のスポーツは昔から「運動部」と言われてきたように明治時代の富国強兵のための肉体を鍛錬するための「運動」をスタートとしている。記者であった友人は新聞社における「運動部」という名称が嫌で嫌でしょうがなかったと語っていた。そうした歴史を踏まえた論議がまるでなされていないのが日本の報道、特にTVメディアの取り扱いである。オリンピックも時代の変化と共に常に変わって来ており、男女平等もその一つである。
友人が不思議に思ったついでに私からもさらに大きな不思議がある。それは「男女差別」という認識についてある。数日後に未来塾でコロナ禍の「事例研究」の中の「若者感染悪者説」で「男女平等」に関する不思議さを次のように書いた。

『若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。
江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。
何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。
若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。』

無症状もしくは軽症で済んでしまう若い世代をあたかも「悪者」であるかのように言う、政治家やTVメディアに対してその間違いを指摘したかったことからこのようなブログを書いた。
情報リテラシーが言われて時間が経つが、実は今問われているのは情報の「根拠」である。元大統領であったトランプによる「フェイクニュース」事件をこの1年間FOXニュースとCNNミュース両方の視点による情報を見て来た。両陣営から発する情報の違いだけでなく、何故その違いの「根拠」を問わないのかであった。ただ、救いなのは米国の場合はその根拠を見極める努力はしていると思う。5年前の日本の報道は、間違ってもトランプは大統領になることはないと報道していた。それはCNNをはじめとした情報ソースを根拠としていたわけで、決定的に間違った報道を行ってきたと言う事実がある。
今回の森会長の女性蔑視発言も「男女差別」と断言するコメントがTVメディアに多いが、いわば伝言ゲームのように拡散している。森会長の発言を全文を読む限り、発言の背景に日本における「男社会」「スポーツ村社会」が残ってのことだと感じるが、メディアの常であるが「女性は会議を長引かせわきまえない」と言った断片を切り取って報道することの弊害は海外メディアへと伝わり、その報道が日本のメディアは反復するように報道する。伝言ゲームと言ったのはこうした「伝播」は、「うわさ」が広がる社会心理と同様で、友人と同様森会長を擁護する気はないが、事実からどんどん離れ本質を見失ってしまうこととなる。
ネット上では「私はわきまえない」と言った投稿が相次いでいる。その「わきまえる」とは物事の道理をよく知っている。心得ていることで、常に感情で反発するのではなく、「事実」に立ち返ることが必要となっていると言うことである。「物事の道理」と言うならば、森会長は7年も会長職についており、今始まったことではない。友人が言っているように「森会長は理解できていない、あるいは理解したくない、ただ、それだけじゃあないですか。」。つまり、適任ではないと今になってやっとメディアが言い始めたと言うことである。

森会長のスポーツ界における出身はラグビー」にあるのだが、一昨年のラグビーW杯を日本に招致した功績があるとしたスポーツジャーナリストは多い。確かにそうした一面はあるかとは思う。ただラグビーをやって来た友人に言わせると、若くして亡くなってしまった平尾誠二さんの情熱によるところが大きいと言う。“ミスターラグビー”と言われた平尾さんは周知のように、大学選手権3連覇、日本選手権7連覇と輝かしい実績を残してきた。その独創的なプレーと卓越したリーダーシップが人々を魅了した。しかし、日本代表の監督に就任して3年、勝てないことを理由に辞任に追い込まれる。監督時代にはそれまで少なかった外国出身の選手を次々と起用。日本代表のキャプテンにも、初めて外国出身の選手をすえる。つまり、あの「ワンチーム」の礎を作ったと言うことである。しかし、そのラグビーW杯を見ることなく末期癌で亡くなるのだが、平尾さんのラグビーに憧れ自らのラグビー競技に打ち込んだips細胞研究所の山中教授は平尾さんが綴った本の一節を今でも苦しい時読み返すとインタビューに答えている。
『“人間は生まれながらに理不尽を背負っている。大切なのは、なんとか理不尽な状況に打ち克って、理想の人生にできるかぎり近づこうと努力すること。その過程にこそ生きることの醍醐味というか喜びもある。”』

日本のスポーツ界もやっと次のステージへと向かおうとしている。森会長の辞任ばかりを話題としているがそうではない。これからも理不尽なことは起こるであろう。山中教授は「目の前に障害があったら、それを突破するというのも戦略だけど、あえてそこは通らずに避けて、パスをするなりキックをするなり、そういう手もあるやろうと。」とも語っている。つまり、長い戦いがこれから始まると言うことである。パスもよし、キックもよし・・・・・・・・頑張れ肉食女子。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:11Comments(0)新市場創造