2008年01月30日

◆新市場への着眼 

ヒット商品応援団日記No237(毎週2回更新)  2008.1.30.

ここ1〜2年ほど停滞するビジネスにあっていくつかの新しい模索が始まっている。その模索とは旧来であれば対立するもの同士、相容れないであろう異なる世界、といった一種の境界・区分を挟んだ試みである。例えば、大企業と中小企業、産業と生活、文明と文化、行政と市民、企業とNPO、あるいは最近の環境問題で言えば文明と自然といった境界を超える試みである。
以前「コミュニティ事業のゆくえ」(http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/2006/07/post_19db.html)というテーマで、スポーツで街起こしをしているアルビレックス新潟や欽ちゃん球団などを取り上げたことがあったが、更に境界でのつなぎ直しの試みが進化してきている。

1月27日(日)18:30〜のTBS系「夢の扉」(http://www.tbs.co.jp/yumetobi/)で放映された滋賀県におけるガソリンスタンドを経営され天ぷら油の廃油リサイクルなどがこうした試みである。見られた方もいると思うが、廃油を精製しバイオディーゼル燃料にして車の燃料にする試みである。オーナーである青山さんの志しに応え、ヤマト運輸が家庭用の廃油回収を引き受けたり、松下電器の工場では作業車の燃料に使い、更に彦根市ではゴミ回収とともに廃油回収を行い、ゴミ回収車の燃料に使う試みが始まったという内容であった。小さなガソリンスタンド、大手企業、行政、勿論廃油回収に取り組む市民、なかなか結びつかなかった世界がつなぎ直され始めた良き事例だ。

少し前に「スモールビジネスへの再編」というテーマで書いたが、もう少し生活圏、商圏、もっと身近なことでいうとライフスタイルといった視野で単位革命を考えていくと、つなぎ直しの模索が見えてくる。1国で難しければ、県あるいは市町村単位ではどうか。同じライフスタイルの考えに共感する仲間、同士単位ではどうであろうかと。
鳥取県と島根県の県境にある「大山・中海・宍道湖圏域」を経済同友会が中心となったつなぎ直す試み、あるいは「夜スペ」と名付けた進学塾を学校教育の中に組み込んて話題となった東京杉並の和田中学の「地域本部」(http://www.wadachu.info/toppage.php)の活動なんかも、つなぎ直しである。前者はヨーロッパの自由都市国家連合「ハンザ同盟」のような緩やかな創造圏、広域コミュニティづくりであり、後者は教育を通した個と集団とのつなぎ直し、コミュニティの再生である。

これからの新市場はこうした「境界」から生まれてくる。対立、区分、異なる次元、異なる立場・役割、こうした境界線上に、ありそうでなかった組み合わせによる着眼や連携によって新たな市場が生まれてくる。こうした発想でビジネスを行っている分かりやすいケーススタディがカタログハウスの「通販生活」である。「2008年春号」に”新しい快適。新しい素敵”というテーマで商品紹介がされている。その商品を簡略化してみると、「新進デザイナー」+「老舗メーカー」=バッグ、「注文靴メーカー」+「歩きやすさ」=量産靴、「名工」+「特注」=ジュエリー、といった具合である。「新進デザイナー」+「老舗メーカー」といった組み合わせはよくあるケースであるが、従来の既成から離れて発想してみることだ。

境界という世界が最も分かりやすいのが「性差」である。男性、女性、という境界=性差の無い時代、総じて中性化した時代だ。亡くなられた中尊寺ゆっこさんが描いた「オヤジギャル」から20年余経ったが、ユニセックスなどというキーワードは既に死語となっている。しかし、同時に中性化に対する揺り戻しが始まってきた。女性の側からは坂東真理子さんが書かれたベストセラー「女性の品格」がそうであり、資生堂のヒット商品「TSUBAKI」のコンセプトにもつながる世界である。一方男性の方であるが、ほとんど市場化されてはいない。せいぜい、マグロ漁など漁師の人達をテーマとしたTV番組程度である。中性化傾向が強く出ているのが実は男性であり、メンズエステやメンズジュエリーのようにこの傾向は当分続く。
いずれにせよ、多くのヒット商品はこうした境界から生まれてくる。(続く)  


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2008年01月27日

◆不信の増殖

ヒット商品応援団日記No236(毎週2回更新)  2008.1.27.

信用という見えざる資本が、食品偽装から株を始め世界の金融商品にまで毀損している時代となった。毀損などといった言葉で書くと他人事のように感じてしまうが、グローバリズムの波にもまれている日常生活が壊れ始めているということだ。昨年秋、サブプライムローンに関して書いたことがあったが、以降世界中至る所で信用から不信へと大きく振り子が振れている。

生活者視点での不信は、「見えない世界」であることと、「誰が損失=責任をとるのか不明確」であることに極まる。昨年、サブプライムローンによる損失はシティグループを始めとした大手金融機関は軒並み1兆円を超えると発表されていたが、2008年になり更に損失は膨らみシティグループは2兆4000億円もの損失になると発表された。更に、住宅ローンから一般のクレジットカードにまで飛び火し、信用収縮という貸し渋りが起きていると言う。住宅バブルではなく、アメリカンバブルへと向かっているということだ。格付け、保証、といった信用の仕組みが壊れ始めたということだ。

経済発展の歴史を辿ると、物と物との交換から、貨幣による流通を支えたのは「信用」であった。日本の場合は銭による全国レベルでの流通は13世紀後半からであるが、それ以前にも銭に替わる米、布、絹なども貨幣として使われていた。米に関しては11世紀には「替米(かえまい)」という為替手形が用いられており、物の調達や土地取得の支払い、交換手段に使われていた。勿論、国内ばかりか中国や朝鮮半島を含めた貿易など商業、金融業のネットワークができていた。この金融業に携わっていたのが、神人、山伏、山僧といった聖職者であった。神仏へ奉納される銭や米を資本に、出挙利銭という金融業が武力と神力を背景に営まれていた。これは網野史学によるが、元々中国の仕組みを律令国家の徴税の仕組みとして導入され、次第に商業等の発展に従い世俗社会にも広がっていく。この貨幣経済の発展には神仏の力=信用力が不可欠であったという。このことはヨーロッパでの資本主義の発展にプロテスタンティズムが深く関わっていたことと同じである。

ところで一昨年のノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行の無担保融資は、マイクロクレジットというユニークな「信用の仕組み」である。5人からなる互助グループが返済における連帯責任を負う仕組みで、返済率は98%を超える仕組みだ。融資を受けた5人は、その資金が有効に使われ成果が得られているか、相互にチェックし合い、サポートし合う仕組みである。5人という小さな単位であればこそ成立する保証の仕組みである。日本には同じような講という仕組みがあったが、今や沖縄に「模合い(もあい)」という仕組みしか残っていない。模合いというと学校や職場、地域、クラブなどで作る懇親会のように思われるが、マイクロクレジットまではいかないがビジネスにおける融資といった側面を併せもった小さな単位の信用保証の仕組みである。

私は金融のプロではないので分からないが、世界のGDPの約3倍のお金、1京6000兆円ものお金が動き回っている時代である。しかも資本主義の本質はあらゆるものを商品化し続けることにある。物ばかりか、情報も、企業も、人も限りなく商品として市場化していく。現代には神仏という聖なる力が無い時代であり、「信用」という一種のインフラを回復させていくには、小さな単位に戻すことが必要という感がしてならない。小さな単位とは、足下にあり、現実、実態に戻すことだと思う。また、情報偽装がいとも簡単にできる情報の時代であればこそ、情報公開の徹底、その透明性を追求し続けることが必要だ。(続く)  


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2008年01月23日

◆グローバリズムとローカリズム

ヒット商品応援団日記No236(毎週2回更新)  2008.1.23.

グローバリズムという言葉には多様な側面・意味合いがあるが、地球市場という垣根がなくなった一つの市場のこととして使っていくと、その対となったもう一つの市場概念はローカリズムとなる。その善し悪しは別として、グローバルスタンダードという共通価値概念があるが、ローカルはどうかというと「違い」「固有」価値ということになる。各国・ローカルはその「違い」「固有性」を輸出したり、あるいはそれらを生かして輸入したりしている訳である。中国は世界の工場という役割を果たしているが、日本の場合は円安を背景に車や鉄鋼を始め輸出によって利益を得ている。大企業ばかりか、中小企業、特に食品・飲食業も世界の日本ブームに乗って韓国、台湾、中国、シンガポール、タイ・・・へと事業進出を加速させていることは周知の通りである。輸入はどうかというと、これも円安を背景にした日本観光が拡大している。

資源大国というキーワードが即エネルギー資源大国と同義であるように言われているが、ローカリズムという視座に立てば、日本はありあまるほどの資源大国である。従来、言われてきたロボットや環境などの技術大国以外にも多くの資源を持っており、その一つが文化資源である。そのシンボルが京都ということだ。2010年には京都市では5000万人、京都府全体では8000万人を目標に観光整備が行われている。昨年、世界におけるリゾートホテルの中のリゾートホテルと言われているアマンリゾートが京都郊外に進出すると発表されたがこれもそうした背景からだ。勿論、京都ばかりでなく、円安を背景に北海道ニセコにはオーストラリアからのスキー客が押し寄せており、雪の存在を知らない台湾客も増加中と聞いている。また、大気汚染と食への不安から、北京オリンピックの直前合宿地に日本を選ぶ外国チームも多い。足下を世界の中のローカリズムとして見直して見ると、宝の山の一つが観光産業である。

もう一つの資源大国は長寿大国である。長寿の国のライフスタイルはこれからの輸出産業の中心となる。ある意味日本のLOHASを世界へと輸出するということだ。少子高齢化をマイナス面でしかとらえられない貧困さには辟易してしまうが、ポジティブに見ていく視座を持てば宝の山となる。ips細胞といった先端医療から食生活まで、世界における固有な健康資源を保有している。そして、アンチエイジング=若返りという発想から、老いる=豊かさへの発想へと転換が始まっている。勿論、若い世代においてサプリメント(若返り・美容)はこれからも売れていくが、老年を迎える団塊世代にとっては健美同源、つまり年相応の健康である美しさへと価値観は変わっていく。

ところで以前「消費都市TOKYO」というテーマで、市場の特性について触れたことがあった。結論からいうと、東京はグローバルなTOKYOという市場と地球市場から見ればローカルな東京という市場の2つの市場から成り立っているグローカル市場だ。つまり、TOKYOという市場を狙うことはそのままグローバル市場につながっている。また、国内市場という視点に立つと東京という都市市場の2つの側面を持った混在市場となっている。どんな市場を狙うのか、誰を顧客とするのかが最も重要なテーマとなっている。東京は一つの地球都市国家として見ていくことが必要で、そこには都市と地方が混在しているということだ。別の視点で見れば、グローバル市場への玄関口でもあり、世界へ向けた一大実験市場、テストの場でもある。例えば、ヒット商品という視点に立てば、ルイヴィトンがパリ観光のお土産であったように、お土産あるいは記念品といったことが大きなビジネスチャンスとなるであろう。

グローバリズム、ローカリズム、2つの波に洗われる都市が東京であり、新しい「何か」を見出していくには格好の場である。成功・失敗、善・悪、美しさ・醜悪さ、表と裏、光と陰、豊かさ・貧しさ、過去・未来、・・・・・・こうして書いていくと、まるでインターネット上の世界と同じである。グローバリズムとローカリズムの交差点にはあらゆるものが行き交い一種の混沌さをもっているが、少し見晴らしの良い場所から見ていくといくつかの傾向が見えてくる。昨年、鳥取の同じ応援団の仲間を伴って、抱えているテーマに沿って東京の街を歩いた。いわゆるビジネスガイド役をしたのだが、施設に出向き、店を見、スタッフと話をし、なによりもそこを訪れる顧客のありようを実感することはテーマ解決のヒントになったと思う。

サブプライムローンに端を発した金融危機、更には原油を始めとしたエネルギー高騰、こうした混乱とは内容も在り方も異なるが、1970年代のニクソンショック、つまり変動相場制への移行、更には第一次オイルショックによるスタグフレーションを経験し、産業の高度化がはかられた日本である。単なる楽観主義ではあるが、ローカリズムの世界から何かが産まれてくると信じている。(続く)  


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2008年01月20日

◆新しい現実

ヒット商品応援団日記No235(毎週2回更新)  2008.1.20.

2008年になり新車販売台数が前年比で7.6%減、35年前の水準に戻り、あのトヨタでさえ前年実績を6.2%も減らしたと報じられた。新車ばかりか、昨年上半期は好調であった手軽で安価なファーストフォードですら右肩下がりに転換しつつあり、CDや雑誌といったものも販売不振だ。私は既に昨年から、消費は厳選から減選へと向かっていると書いた。更には、価格という超えなければならない課題をメーカーも小売業も解決しないことには先へと進めないとも書いた。この根底には昨年国税庁が発表したように年収200万円未満の所得者が1023万人と21年前に戻るような経済情況にある。やっとマスメディアは景気後退を取り上げ始めたが、最早猶予はないというのが生活者心理だ。

1年半ほど前までは景気は順調で、昭和のいざなぎ景気を超えたと発表されたが、その景気はどこへいったのか。日銀による低金利政策による円安誘導を背景とした輸出企業の好調、更には中心部の再開発を中心とした不動産、あるいは不動産ファンドといった金融の活況によるもので構造改革の成果でもなんでもない。2006年12月に「景気と消費」というテーマで、消費は先行きの見通しによって行動へと移ると私は書いたが、所得を伸ばし内需を活性させることなく、無策のまま「先行き」が見えない一年という時間を費やしてしまった。日本のGDPの約60%が個人消費によるものだ。誰もはっきりとした言葉にはしていないが、「新しい不況の時代」を向かえている。物価は上がるが、所得は上がらず景気は悪いという情況を経済アナリストはスタグフレーションと呼ぶが、どんな呼び方をしようが新しい不況の時代に違いない。

テレビ東京の夜11時からの番組「ワールドビジネスサテライト」を見られた方もいると思うが、やっと日経も最近の消費傾向を定番消費・定番回帰というキーワードを使って消費心理の傾向を認め始めた。生活者の関心が、NEW製品からロングセラー商品へと回帰してきているというコメントと共に、三ツ矢サイダーや書籍では名作と言われている本をその定番回帰事例として挙げている。昨年から私が指摘している「使い慣れた確かさ」「信用できる確かさ」への回帰である。話題という情報、サプライズ手法に振り回された経験からの脱皮でもある。本業・本道、メイン商品、中心、過去、足下、あるいは老舗、信用と言っても良い・・・停滞する踊り場での「生活見直し回帰」ということだ。

この新しい不況時代を生き抜くビジネスヒント・アイディアは昨年一年間私が書いたブログを読んで欲しいが、確かさという「信」の置ける企業であり、商品ということに極まる。今、厳選から減選へと量的にも消費は収縮している。しかし、一度経験した消費水準=質を落とすことは言い得て難しいものだ。そうした消費心理に対しては基本は変えずに小さな単位で商品を作り価格を下げる方法である。既に大手コンビニでは地域価格の設定において、メインの弁当であれば、おかず等の量を減らし、その分の価格を安くするといった方法を採っている。そして、そのことをきちっと公開すれば良いのだ。

また、「確かさ」をどう販売するかがポイントとなり、「確かさ」のために行う「お試し」が通常販売であると認識することだ。そんなに安くは出来ないという声が聞こえてきそうであるが、期間や時間を限定したり、個数を限定すれば良い。生活実感に依拠しないマーチャンダイジングはあり得ない時代ということだ。また、この「確かさ」は足下に眠っている。「今、地方が面白い」というテーマで足下発掘について書いたことがあるが、次回はグローバリズムとローカリズムを対比させて書いてみたい。(続く)  


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2008年01月16日

◆しあわせ消費の時代

ヒット商品応援団日記No234(毎週2回更新)  2008.1.16.

笑いや歌は時代を映し出す鏡のようだと言われているが、その映し鏡が少しづつ変わってきている。昨年の流行語大賞にも選ばれた「小島よしお」は年が明けあらゆるバラエティ番組に出演している。少し前には「レイザーラモンHG」「ザ・たっち」「波田陽区」・・・・同じような使われ方をし、まるでコンビニで売られている商品が売れなくなれば2週間で棚から外される光景を見ているようだ。確かに視聴率という売上がとれなければ外されても仕方は無いが、そんな笑いという商品が少しづつ変わってきている。

昨年の「M-1グランプリ」で優勝したサンドウィッチマンの笑いは何かほっとさせるものであった。しゃべくり漫才という漫才の本道をゆく、大きな笑い、奇をてらった笑いではなく、マギー司郎の笑いのようにくすっと笑える本格漫才であった。所属事務所は誰も知らない小さな事務所に所属し、敗者復活戦から勝ち抜いたコンビである。今までは大手吉本興業という笑いの大量生産大量販売会社がTVのバラエティ番組というコンビニに大量供給してきた笑いであったが、それとは異なる質の笑いがサンドウィッチマンだ。

停滞、閉塞感が圧し包む時代にあって、「笑い」は歌と共にひとときこころを癒してくれるものだ。一年以上前からこのブログで「サプライズの終焉」というテーマで、劇場型のパフォーマンスは終わったと私は書いた。M-1におけるサンドウィッチマンはまさに時代が求める気分を実証してくれたようなものだ。これでもかこれでもかと、笑いを迫る「過剰さ」はもう終わったということである。諸説あるようだが、元々漫才は「萬歳」と言われ、江戸時代正月に門前で祝う祝福芸が起源であったと言われている。人を笑わせ楽しませてくれる、ひととき幸せにしてくれる話芸であることには間違いない。ある意味幸福世界を映し出したものとしてある。

1980年代後半、バブルの時代に「ひととき貴族」というキーワードに象徴されるひとときリッチ消費があった。20年を経た今、これからの消費は「ひととき幸福」というものになるであろう。少し前に書いた単位革命ではないが、小さな幸福、チョットうれしい、ひととき幸福、といった小さな日常の幸せ感がマーケティングやマーチャンダイジングに求められている。今、小売業や飲食などのサービス業で注目されているキーワードが「ひととき」である。例えば、毎月この日は感謝デーとして50%オフ、あるいはつめ放題100円、といった小さなお得=幸せ感づくりであるが、そこには笑いにつながるゲームなどの遊び感覚がポイントとなっている。

ゴージャス、セレブといった表現のシンボル的存在であった叶姉妹は、作られた姉妹、作られた像であることはそのスタートから分かっていたが、父親との金銭問題による憎悪が表に出てきていることが象徴するように、「ひととき貴族」から「ひととき幸せ」を実感、納得させるものであった。小売業的にいうと、ひとときくすっと笑えるような会話、そんな一言、店頭の雰囲気、そして小さな幸せをもたらしてくれるような商品ということになる。今日の動物園や水族館人気も生物のチョットした仕草や本能の愛らしさにもつながっている。あるいは、地域の町おこし等に使われるキャラクターなんかも同じだ。新しい市場創造ということでは、バラバラとなった個人化社会、個族の時代にあっては、笑いを伴う「しあわせ接着剤」が個と個をつなぎヒット商品となる。(続く)  


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2008年01月13日

◆潰れない会社の持続力 

ヒット商品応援団日記No233(毎週2回更新)  2008.1.13.

昨年は不二家を始め赤福、船場吉兆といった老舗ブランドの不祥事が続発した。今ブランド再生のために支援企業や社外役員によって、社会という風通しの良い会社へと動き出したが、いかにブランドがもろく壊れやすいものであるか実感したことと思う。ブランドイメージはコミュニケーションによって創造できるとした考えは、同時に裏ではそんなことをしていたのかといった不祥事情報によっていとも簡単に壊れてしまった。ある意味、情報によって創られた商品や企業は、負の情報によって得られたブランド価値を失うという情報の時代の特徴を良く映し出している。私はそうしたブランド創造のあり方を全て否定している訳ではない。しかし、そうしたイメージ戦略とは異なるところで、例えば不祥事があっても、やはり不二家が好きといってくれる顧客はいる。その顧客が実はブランド価値を創ってくれていたのだ。

広告代理店やマーケティング会社の多くは、ブランド価値の成長と見直しが今年のビジネステーマとなっていると思う。ブランド価値を情報による未来期待値の創造、つまり心理価値にウエイトを置いたものは、当然負の情報刺激が大きければ一挙に心理価値はマイナスへと大きく振れることとなる。しかし、本来ブランドとは使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた使用価値集積の結果であった。日本人はそれを暖簾と言ってきた。奉公人が独立をする時には、お祝いの品の中に暖簾が含まれており、世間の信用という何よりの資本財として扱われてきた。ブランドとは時を超えてなお社会が「これはいいよ」と言ってくれるものだと言うことだ。

ところでこうした老舗と言われ得る会社とはどの位の時を経てきたとお考えであろうか。人も企業も生き物で当然寿命がある。つぶれない、その持続力の源は何か、という良き事例がある。ブランドの原点とも言うべき世界最古の企業が大阪にある金剛組という宮大工の会社だ。TVでも1〜2度取り上げられたこともあるので知っている方もいると思う。創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている会社である。金剛組の最大の危機は明治維新で、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れ、寺社仏閣からの仕事依頼が激減した時だと言われている。更に試練は以降も続き、昭和恐慌の頃、三十七代目はご先祖様に申し訳ないと割腹自殺を遂げている。また、数年前にも経営危機があり、同じ大阪の高松建設が支援に動いたと聞いている。

何故、こうした支援が可能になったのか、それは金剛組の仕事そのものにあると思う。宮大工という仕事はその表面からはできの善し悪しは分からない。200年後、300年後に建物を解体した時、初めてその技がわかるというものだ。見えない技、これが伝統と言えるのかも知れないが、見えないものであることを信じられる社会・風土、顧客が日本にあればこそ、世界最古の会社の存続を可能にしたと思う。記者会見で、ご先祖様に申し訳ないと泣きながら、しかし「頭が真っ白になって」と息子に言う船場吉兆とは全く似て非なるものだ。私が尊敬するダスキン創業者鈴木清一は創業の日に「神様、お役に立たないのであればどうぞつぶしてください」と祈ったと言う。ところで、その船場吉兆であるが、民事再生法の申請に動いていると聞いている。(続く)  


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2008年01月09日

◆OLD NEWの豊かさ 

ヒット商品応援団日記No232(毎週2回更新)  2008.1.9.

前回スモールビジネスへの再編、小単位化について書いた。これは生活者レベルに置き直すと、小さければ無駄を無くすことが可能でエコロジーにも直接つながるテーマであった。おそらく「小」の世界を「エコ単位」と呼ぶ時代が来たということである。マイ箸やエコバックといった小さなヒット商品を入り口に、エコ単位によるライフスタイルが基本になっていくと思う。

ところで10年ほど前に、幕内秀夫さん(管理栄養士・フーズ&ヘルス研究所代表)が「粗食のすすめ」を提案され話題になったことがあった。しかし、当時は健康というより、ダイエットの方に消費欲求が強かったため、幕内さんは粗食を素食(そしょく)、シンプル&ナチュラルという意味に言い換えられた。私ならば、素食(もとしょく)と呼んで、長寿の素・健康の素である「普通回帰」、以前の普通とはひと味もふた味も違う素敵な「普通」を提案すれば良かったのではと思っていた。この普通を千年に渡り連綿と続けているのが京都である。

「素食」というと、何か貧しいように受け止められがちであるが、実は極めて豊かな「普通」を指し示す世界である。周知のように、ハレの日とケの日という四季の生活カレンダーが今なお生活に根づいているのが京都である。ケの日、つまり普段は「始末」して暮らし、ハレの日はパッと華やかに。そうしたメリハリのある生活習慣が、食=台所に深く浸透している。例えば、ハレの日=お祭りだと鯖寿司ということになる。ケの日だと、今月も「渋うこぶう(しまつして、という意)暮らせる様に」と、にしんと刻み昆布をめおとだきにして、あずき御飯も炊き、大根と人参のなますを付け合せるといった具合に。京都や滋賀では近江商人の心構えである「しまつしてきばる」という言葉を今でも日常的に使っている。「しまつ」とは単なる節約ではなく、モノの効用を使い切ること、生かし切ることであり、「もったいない」というエコライフにつながる意味合いの言葉だ。

今までの都市生活者のライフスタイルは、「変化」をいち早く取り入れ楽しむといったいわばフローによるライフスタイルであった。特に海外の話題、ニュースといった「鮮度情報」による消費が中心であったが、最早一般化し表層ばかりを追いかけることを見直し始めてきた。結果、興味・関心は過去へ日本文化へと移ってきた訳だ。これが和ブームであるが、今の若い世代にとっては、古(いにしえ)が新しい・OLD NEWということである。数年前から京の町家に住みたいと移住する若者が多く、時を重ねた日本文化に新しさを感じているのだと思う。一時期コンクリートによる打ちっぱなし家屋や施設が流行ったことがあるが、そこに文化という奥行き、ストックを感じることは無かった。今日の古民家ブームの本質は千年建築に代表される日本文化を楽しむということだ。

昨年「偽」というキーワードがあらゆるところを席巻したように、情報に振り回される生活から、時を経た「確かさ」「深み」のある生活への転換が始まっている。こうしたOLD NEWは京都だけではない。足下には多くのOLD NEWが眠っていて、アースダイバーではないが掘り起こせばよいのだ。しかし、ただ単に古ければ良いという訳ではない。時を重ねてきた「古(いにしえ)物語」が必要である。海から遠く離れ、鮮度という資源を持たない京都は、身欠きニシンや昆布といった塩乾物に手を加える知恵やアイディアを産み出した。このOLDをNEW足らしめるには、やはり知恵やアイディアが必要ということだ。(続く)  


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2008年01月06日

◆スモールビジネスへの再編

ヒット商品応援団日記No231(毎週2回更新)  2008.1.6.

昨年末の経済誌の2008年予測もそうであったが、元旦の新聞各紙のテーマのほとんどが地球温暖化を始めとした環境問題と投機マネーが引き起こす格差問題であった。その中でも日経新聞の一面は「沈む国と通貨の物語/漱石の嘆きいま再び」と題し、円の力の低下を国費留学生としてロンドンに留学していた夏目漱石のコメントを重ね合わせた記事であった。日経新聞ならではの取り上げ方であるが、漱石が訪れた当時のロンドンは産業革命真っ盛りで、大気汚染といった公害、新たな環境問題と資本家と労働者という格差・対立も生まれていた時期である。

以前このブログでも取り上げたことがあるが、文明の縮小という課題が本格的に生活の中で行われる時代を迎えている。今年の冬のヒット商品の一つに挙げられている「湯たんぽ」は、単なる安価でエネルギー消費を抑えるだけでなく、湯たんぽの袋にキャラクターを入れたりしてデザインを遊ぶ・楽しむといった消費だ。昨年亡くなった阿久悠さんの「時代おくれ」ではないが、過去を遡れば生き返る商品はいくらでもある。食でいうと、ホテルや料飲店での食べ残しという無駄を減らすために、各人が各人の好みや量をわきまえて食べられるような選択肢の提供=セルフ式が更に浸透するだろう。文明の縮小の意味する変化とは、人間の消費欲望を無くすということではなく、別の楽しみ方消費へと欲望を自己コントロールしていく方向へと明確に変わってきているということである。使い方などに知恵やアイディアをもって、エコライフを遊ぶ・楽しむということだ。別の視点に立つと、普通を楽しむ、日常を楽しむということである。

ところで、昨年前半の外食産業の低迷に加えて、後半ではファーストフードまで売上減少傾向を見せている。価格を軸に、厳選から減選へと向かってきている。昨年後半からの原材料の高騰による値上げは今年は多くの分野で本格化する。外食から内食へ、あるいは回数減が顕著に表れてくる。昨年後半から中小企業の倒産件数は増加傾向にあり、残念なことだが今年は更に増加していくだろう。1990年代初頭のバブル崩壊後、再構築されてきたビジネスは次のサバイバル段階を迎えている。

さて、こうした時代におけるビジネスをどう解決し、生き残っていくかである。1つは全てを分解し「スモールビジネス」として再構築していくことだ。小売りレベルでいうと、例えば従来効率優先であった10個入りを4個入りへ、更には2個入りへと単位を小さくしていく。売り場も品揃えという考えを見直して更に小さく圧縮する。メーカーもそうしたことを踏まえ、より特徴が明確な専門商品化を行う。つまり、独自・固有な商品づくりしかありえないということだ。また、生活者は全ての点で自己防衛的になっていく。提供すべきサービスは生活者自身が行うための方法や道具・場所の提供となる。そして、湯たんぽのように小さな遊び・楽しさが消費欲望を刺激する。

小単位化するのは物やスペースあるいは価格だけでなく、時間も、テーマもである。勿論、人もである。つまり、今一度ビジネス単位、事業規模を更に小さく分解し、自立を目指し再スタートしていくことだ。生活者の視点に立てば、小さな消費欲望に対し、ていねいに小さく応えていくということだ。発想はこうだ、一人ビジネス、一坪ビジネス、一コーナービジネス、一商品ビジネス、一時間ビジネス、一テーマビジネス、あるいはワンコインビジネス、「一(いち)」という最小単位でビジネスの可能性を追求していくことだ。地代・賃料の高い都市、特に東京ではそうした新業態が現れ始めた。

このように小さく小さく削ぎ落としてもなお残る物は何か、つまり日本文化の本質=小の豊かさに立ち戻ることでもある。前回の「ゴドーを待ちながら」を踏まえて言うならば、最早待つのではなく、「ゴドーは何であるか」自ら確かめる行動に移ることだ。小さな単位であれば無理なくリスクも少なくテストも可能だ。小さくトライすることの中に精霊は産まれてくる。精霊を産み出すのも人であり、そこには絶え間ない知恵と工夫が必要である。次回は元来エコ社会であった日本にあって、今なお庶民の生活に残っている京都の知恵、「削ぎ落とされた」生活文化、更に「時を重ねた」生活文化をテーマとしたい。(続く)  


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2008年01月01日

◆ゴドーを待ちながら 

ヒット商品応援団日記No230(毎週2回更新)  2008.1.1.

この十数年、何かが変わってくれるであろう、解決してくれるであろう人物や考え・意味が「今日」という部屋の扉を開けて入ってくることを待っていたように思う。タイトルの「ゴドーを待ちながら」 はアイルランドの作家サミエル・ベケットの戯曲であるが、やってきてくれるかどうか分からない不確かな何か、救世主あるいは神と呼んでもかまわないが、そのゴドー(Godot)という「不確かなもの」を待った十数年であった。

ブログを書き始めて約2年半になるが、市場の性格を「心理市場、精神化された市場」と表現し、生活者の心の動きを反映した市場傾向について繰り返し書いて来た。豊かな時代と言われてきた時代の傾向である。しかし、特に都市においては本当に豊かであろうか、物の豊かさ・便利さはあっても、依存症という言葉が象徴するように精神的な飢餓感は日に日に増していく傾向ばかりであった。そうした市場の性格について私なりの気づきを書いて来た訳であるが、「待っていた何か、ゴドー」が少しづつ明らかになり始めた。

マーケティングに携わる者であれば、ブランドは創っていくものであり、ブランドばかりか伝統ですら創られていく。それは、あらゆるものを商品化していくことでもある。1980年代には物語を遊ぶ、ゲームという物語消費として一大ヒットとなった「ビックリマンチョコ」を思い浮かべれば分かると思う。カード収集だけで、チョコをゴミ箱に捨てるといって社会問題化した商品である。こうした市場の興味情報の消費、物語消費の延長線上にブランド創造はあると私も考えてきた。ところが昨年の世相を表した「偽」ではないが、こうした興味情報消費の意味とする世界の本質は何かと多くの生活者が気づき始めてきたと思う。船場吉兆ではないが、但馬牛と佐賀牛の違いとは何か、ブランドの魅力とは何かということにもつながっていく。

私がライフスタイルの原型が江戸時代にあり、今なお底流として続いているとこのブログでも書いてきた。大仰に言うと、明治維新という産業革命・近代化という革命以前と以後の「変わったこと」と「変わらないこと」の明確化でもある。もっと積極的に言えば、変えても良いものと、変えてはならないものとの明確化ということだ。
その江戸時代であるが、江戸初期の人口は40万人程度の小さな都市であったが、後に人返し令がでるように130万人にまでふくれあがる。ロンドンやパリをしのぐ世界NO1の都市である。こうした都市化は郊外住宅を増加させ、自然破壊も行われ、あの宮崎駿監督が描く「もののけ姫」のように森に住む動物達との争いが起こる。結論からいうと、近代化を進める人間と森を住まいとする神々との闘いである。ところで江戸の人達はそうした神々は動物や草木といった自然ばかりか日常の道具にまで住んでいると考え大切にしていた。江戸時代はエコ社会というが、こうした共生思想の裏には自身を含めてあらゆるモノに精霊が住んでいるとの自然観があったからだ。モノを大切に粗末にしないとは、モノに住んでいる精霊を敬い畏れることでもあった。神も物の怪(もののけ)も人間も同じ世界に共生していると発想したのは国学者平田篤胤だが、そうした神々やお化け・妖怪の話は落語や歌舞伎のモチーフとして今なお残っている。

実はこうした神々や妖怪を産み出したのは人の心、脳であると指摘しているのは文化人類学者の中沢新一さんである。今日の物消費の多くは工業化されたマス生産のマス消費といった「使い捨て」で、つまりモノに住んでいる精霊などいないとする社会となっている。若い世代におけるスピリチュアルブームは人を含めた自然やモノに住んでいる精霊との交感を無意識のうちに希求しているように私には見える。この正月には数千万人の人が初詣へとでかけると思う。狐や狸を祀った神社もあれば、災難から守ってくれる道祖神まで、まさに八百万の神の国である。「待っていた何か」「変わらない何か」とは、こうした精霊たちかもしれない。精霊達はどこにいるのか、時間を遡り、原点を見つめ、辺境に眠る、あるいは地中奥深く掘削し、大きなものを最小単位に分解していくことの中に眠れる精霊達がいる。この一年、そんな精霊達の発見をブログにて書いてみたい。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:09Comments(0)新市場創造