2010年06月06日

◆ほどよい距離観

ヒット商品応援団日記No472(毎週2回更新)  2010.6.6.

ここ数回にわたって「だよね世代再考」から始まり、「過剰な関係消費(主にケータイ依存とツイッター)」、更には坂本冬美の「また君に恋してる」や「ライブな時代(本音論)」について書いてきた。少し整理すると、「だよね世代(草食系世代)再考」は属すべき共同体を失った世代論についてであり、「過剰な関係消費(主にツイッター)」はそうした世代にとって会話すべきほどよい関係について、本音の関係についてであり、「また君に恋してる」は近しい関係(団塊世代=夫婦、だよね世代=友人・仲間)についてであり、前回の「ライブな時代(本音論)」は顧客との交感関係についてであった。一見バラバラに見えるブログであるが、共通していることはそれぞれの「関係の距離間(感」)についてである。

人と人との関係、その距離感は時代や世代によって異なり、関係の結び方、コミュニケーションも異なる。結果、消費の在り方やヒット商品に何に着眼すべきという仮説も生まれる。そうしたことを意図して書いてきたつもりである。ただ、その背景には持論ではあるが、戦後60数年近代化の変遷に伴って失われた「共同体」についての認識がある。豊かなライフスタイルと引き換えに失ってしまったものの一つが共同体であり、それらを取り戻す、あるいは代替として多くの消費が生まれてきた。言葉を変えて表現すると、家族共同体、会社共同体、地域共同体といった有縁社会が崩壊し、個人と言う無縁社会が広がりつつある。特にバブル崩壊以降、従来からあった有縁関係が次から次へと崩壊し、更にはグローバル化した競争社会にあって主体性と自己責任が直接個人へと問われ、過度な不安、ストレスが充満する無縁社会が生まれてきた。そこに関係を遮断した現代の鬼っ子が産まれた。その象徴例が、2年前に起こった東京秋葉原の連続殺傷事件である。

さて、こうした無縁に対し、日本の場合、自己防衛的、本能的に反応したのが「家族回帰」であった。あるいは「過去・歴史回帰」も同様であり、ここ数年多くのヒット商品を誕生させたのは周知の通りである。ところで、同じような問題を抱える米国は移民の国で回帰すべき共同体を持たない。その代替共同体としてあるのがメガ・チャーチと呼ばれる巨大な宗教コミュニティであろう。
こうした回帰する家族共同体と共に、新たな共同体として現れたのがインターネットの世界である。周知の「2ちゃんねる」から始まり、SNSやツイッターへと進化してきた。ハンドルネームという匿名(=仮面)による仮想空間でのコミュニティであるが、私も参加を要請されているが、フェイスブックなどは仮想と現実行ったり来たりのコミュニティである。ある意味、仮面をかぶったままでの「ほどよい関係距離間(感)」である。

この2つの共同体であるが、奇妙なことに全く異なる認識・価値観のもとで進行している。例えば、家族共同体回帰の場合には豊かでも安全でもない、そんな日本社会に生活しているとの考えが前提となっている。一方、ネットコミュニティの場合は個人が集まるという豊かで安全な社会との認識の前提がある。恐らく、現実社会もネット社会についても、2つの考え方があるということであろう。どちらかが正しいということではなく、どう現実を見て、未来を描くのか、その違いとして2つの考え方がある。前回、こども手当について触れたが、その使い方にも違いは出て来る。前者の認識であれば将来を考えて子ども手当の多くは貯蓄へと回るであろう。後者であれば、社会体験等子の成長に今役立てる教育やディズニーランドへの家族旅行などに使われるということだ。勿論、どのような使われ方となるのか分からないが、この2つの価値観に基づく親子関係の距離観であることだけは確かである。

関係の距離感について面白かったのが坂本冬美が歌う「また君に恋してる」であった。詞だけを考えればベタな詞である。しかし、坂本冬美が淡々と歌うことによって若い世代にも支持された。ここには「男と女のほどよい距離感」がある。まとわりつくようなベタな関係・感じを払拭しさえすればマス市場としてヒットするということである。昨年のヒット商品であるベイブレードも単なるベーゴマ回帰ではなく、電子ベーゴマとすることによって昔の親子関係とは異なる距離感が想定され、ヒット商品として後押しをしたということだ。
また、地方においては新たに地域共同体を創ろうとUターン、Iターンが積極的に行われてきた。行政も多くの経済条件を用意してきたが、根本は既存住民と新規住民とのほどよい関係づくりである。実は、この関係を中心にした共同体、コミュニティのグランドデザインが求められている。そして、この再生・自立を可能にするのが経済でB級グルメや観光による町起こし、村起こしである。無縁でも、べたべたでまとわりつく関係でもない、ほどよい距離間が求められている時代だ。

消費は所得の関数であり、そしてどんな共同体に属するかによって消費内容が変化する。ある意味、重要な変数の一つである。このテーマは極めて重要で継続して書いていくつもりであるが、対象とする市場によって、その「共同体における距離感のほどよさ」が鍵となる。(続く)  


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2010年06月03日

◆ライブな時代

ヒット商品応援団日記No471(毎週2回更新)  2010.6.3.

先日ツイッターを取り入れたラジオ番組について少し書いたが、いとうせいこう×倉本美津留の「UST名人劇場」もツイッターと連動した番組で、ぶっつけ本番、リハーサル無しのバラエティ番組に注目が集まっている。その背景に何があるかだが、NHKの長寿番組「家族に乾杯」もツイッター的であり、以前ツイッターというメディアの本質を個人の「本音」の話しが可能なメディアとして書いた。現場の声、当事者の声、肉声、たった一人の顧客の声、に耳を傾ける時代になってきたということであろう。そうした意味で、ツイッターという個人放送局が果たす役割は大きい。

つまり、既成情報がいかに現場とかけ離れた声であり、評論家といった部外者の声であったり、テクニックを弄して作られた声であったり、多数顧客の平均値としての声であったということだ。こうした声、情報にリアリティを感じ取れない、どこか嘘の臭いがすると感じ始めている。こうした不確かな時代にあって、生活者は確かさを求め、自らお試し体験したり、目の前で行われる実演で確認したり、気の許せる友人や仲間の本音情報をガイド代わりに購入したり、サービスを受けたりする。店頭は実感劇場であると以前から言われてきたが、その実感とは五感であり、VMD(ヴィジュアルマーチャンダイジング)も単なるヴィジュアルを超えた五感で感じ取ってもらうということだ。

以前、渋谷109の代表的専門店であるエゴイスト代表の鬼頭一弥さんを取材したが、カリスマと呼ばれた販売スタッフは1日に何回も着替えモデルとして店頭に立つ。つまり、自らVMD化し、動き、顧客の五感に訴えていると聞いた。つまり、店頭を小さなファッションショーのステージにしたということである。デパ地下やスーパーのお惣菜売り場ばかりでなく、ファッションも、採れたて、もぎたて、作り立てという「動き」による「鮮度」を訴求していくということである。

巣ごもり生活という自己防衛に入って2年間ほど経つ。しかし、ここにきて節約疲れを含め消費欲望が頭をもたげてきたことは間違い無い。まだ身体は巣のなかにあるが、頭を出して外の空気を吸い風景を見始めている。しかし、身体は巣のなかにあり、まだまだ価格意識は強く、その価格合理性に対しては相変わらずシビアである。しかし、その巣のなかの身体に反応してもらうには、五感に訴えるライブ感、本音が感じ取れる肉声が必要であるということだ。

私は好きでライブハウスに良くいくが、同じミュージシャンが同じ曲を演奏しても毎回異なる感動がある。時には音を外したり、異なる編集によるものもある。観客のどよめきや歓声もライブならではの世界である。そして、その時の追体験としてCDやDVDを購入する。ともすると私たちはCDやDVDの売上ばかりを気にしてしまう。しかし、ミュージシャンの原点がライブであるように、本音の交感こそが必要となっている。
つまり、従来のコスト効率、生産性、あるいは過去そうであったことを傍らに置いて、顧客の前に立ち、一生懸命語りかけることだ。そこから「何か」が始まる。創業期、開店当初、スタートに当たって顧客への思いを想起することでもある。茶道には一期一会というおもてなしの心得があるが、この一瞬を何よりも大切にするということだ。過剰な情報が行き交い、それら情報に動かされる時代を突破するには本音しかない。(続く)  


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