2007年09月30日
◆再び、構造改革と格差
ヒット商品応援団日記No206(毎週2回更新) 2007.9.30.
福田新政権は小泉構造改革の負の部分を是正しながら、今後も構造改革を進めていくと表明し、10月1日その象徴である郵政民営化がスタートする。その構造改革の負とは都市と地方、大企業と中小企業あるいは所得格差として現れて来ているが、そもそも構造改革とは何か、何を目指していたのかという原点に帰った論議はほとんどされないままとなっている。
ちなみに、いざなぎ景気を超える景気も大企業や特定企業には当てはまるが、一方では小泉政権発足の前年度である2000年度と2005年度を比較すると正規雇用は256万人減り、逆に非正規雇用は360万人増加し1633万人に至っている。2000年度と最新のデータである2004年度の県民所得の推移を見ていくと、東京はほぼ横ばいであるが、地方では5%前後のマイナス、私がお役に立ちたいと考え委員になっている鳥取では9%のマイナスとなっている。厚労省は高齢化によるものであるとその背景をコメントしているが、貧富の差の指標となっているジニ係数は2005年度では過去最高の0.5263を示している。
こうしたデータを見るまでもなく、誰でも地方へ行き、半日も歩けばどれだけ疲弊しているか実感する。あるいは、負の部分、社会という表に出て来た事件や事象に多くの人は実感している。構造改革と簡単に言ってしまうが、「構造」であり、経済だけでなく、政治も、社会も変えていくということである。構造改革の先駆者、英国のサッチャーによる改革は成功した改革として言われているが、その成功と言われているのがグローバル化における低コストの実現と失業率の改善であった。しかし、サッチャー改革の最大の問題、負の部分は貧富の拡大と低所得者層の更なる困窮であった。市場原理に基づいた社会システム、「努力すれば報われ、怠けていれば困窮する」という考えによって、働く意欲が高まると期待したのだが、現実においては働きたくても技術や技能を持たない層が存在し、改革の痛みを直接受けた。
構造改革の必要性の一つとして、多くの経済アナリストが指摘しているように、ベルリンの壁の崩壊以降、東西という2つの経済圏が1つになり、更に通信インフラ等の整備と共に発展途上国も加わり、1つの地球経済圏に全ての国、企業、国民が向き合うことになるグローバル化という大波に起因している。この裏側にあるのがコミュニティの崩壊、アイデンティティの喪失である。特に、多くの先進国と同様に、日本の場合も地方、農水産業に表れて来ている。今、米国と同じように日本においてもアグリビジネス、農業の工業化へとキリンビールやトヨタなどの大企業が参入し始めている。確かに、自然を相手にしながらも効率性・生産性を追求することは必要である。
構えた構造改革ではないが、私が「人力経営」のために取材した「野の葡萄」と「叶匠寿庵」は自然を相手にしながら、効率性・生産性を追求している企業である。詳しくは本を読んでいただきたいが、「野の葡萄」というレストランではそこで使われる食材は福岡県岡垣町の社員及び契約農家や漁師の手によるものだけである。例えば、玄界灘で捕れる海の幸はイサキを捕りたくても鯖が捕れてしまうのが自然である。捕れた鯖をどうするか、全員で知恵やアイディアを出し合いメニューにし、更には無駄にしないために顧客へはブッフェスタイルという方法をとっている。
和菓子の「叶匠寿庵」は、自らを農工一体の人と呼び、滋賀県大津に63,000坪の寿長生の郷(すないのさと)で畑を耕し、そのテーマパーク内にて和菓子製造を行っている。その製造ラインにはトヨタのカイゼン方式が採用され、極めて生産性の高い方法が取られている。と同時に、例えば自ら鋤と鍬をもつことにより、畑の梅がどのように熟し、どんな時に使えば良いかわかると言う。
「野の葡萄」と「叶匠寿庵」は一つの道筋を示してくれている。「野の葡萄」が活動している福岡県岡垣町ではお年寄りも再び畑を耕すようになり、コミュニティが保たれている。「叶匠寿庵」の場合は、寿長生の郷と呼んでいるように日本ならではの今は失いつつある「郷」という社会が創られている。この2社には、市場での競争は善か悪か、経済合理性は善か悪か、といった二元論はない。
構造改革を平易にいうならば、自己責任のもとで、どんな事業が良いのか、利益の配分などを自分のことは自分で決めていくことだと思う。それが企業単位ばかりでなく、地域単位に広げれば地方分権となる。小さな単位で改革を進めていけば、知恵やアイディアも生まれ、痛みも豊かさも実感できる。この6年半学習してきたことは、一方的一律的な中央集権的構造改革ではなく、もっと小さな単位での改革、例えば地方に財源とその自由裁量権を渡し、自立へと歩み出すことこそが構造改革の第一歩だと思う。(続く)
福田新政権は小泉構造改革の負の部分を是正しながら、今後も構造改革を進めていくと表明し、10月1日その象徴である郵政民営化がスタートする。その構造改革の負とは都市と地方、大企業と中小企業あるいは所得格差として現れて来ているが、そもそも構造改革とは何か、何を目指していたのかという原点に帰った論議はほとんどされないままとなっている。
ちなみに、いざなぎ景気を超える景気も大企業や特定企業には当てはまるが、一方では小泉政権発足の前年度である2000年度と2005年度を比較すると正規雇用は256万人減り、逆に非正規雇用は360万人増加し1633万人に至っている。2000年度と最新のデータである2004年度の県民所得の推移を見ていくと、東京はほぼ横ばいであるが、地方では5%前後のマイナス、私がお役に立ちたいと考え委員になっている鳥取では9%のマイナスとなっている。厚労省は高齢化によるものであるとその背景をコメントしているが、貧富の差の指標となっているジニ係数は2005年度では過去最高の0.5263を示している。
こうしたデータを見るまでもなく、誰でも地方へ行き、半日も歩けばどれだけ疲弊しているか実感する。あるいは、負の部分、社会という表に出て来た事件や事象に多くの人は実感している。構造改革と簡単に言ってしまうが、「構造」であり、経済だけでなく、政治も、社会も変えていくということである。構造改革の先駆者、英国のサッチャーによる改革は成功した改革として言われているが、その成功と言われているのがグローバル化における低コストの実現と失業率の改善であった。しかし、サッチャー改革の最大の問題、負の部分は貧富の拡大と低所得者層の更なる困窮であった。市場原理に基づいた社会システム、「努力すれば報われ、怠けていれば困窮する」という考えによって、働く意欲が高まると期待したのだが、現実においては働きたくても技術や技能を持たない層が存在し、改革の痛みを直接受けた。
構造改革の必要性の一つとして、多くの経済アナリストが指摘しているように、ベルリンの壁の崩壊以降、東西という2つの経済圏が1つになり、更に通信インフラ等の整備と共に発展途上国も加わり、1つの地球経済圏に全ての国、企業、国民が向き合うことになるグローバル化という大波に起因している。この裏側にあるのがコミュニティの崩壊、アイデンティティの喪失である。特に、多くの先進国と同様に、日本の場合も地方、農水産業に表れて来ている。今、米国と同じように日本においてもアグリビジネス、農業の工業化へとキリンビールやトヨタなどの大企業が参入し始めている。確かに、自然を相手にしながらも効率性・生産性を追求することは必要である。
構えた構造改革ではないが、私が「人力経営」のために取材した「野の葡萄」と「叶匠寿庵」は自然を相手にしながら、効率性・生産性を追求している企業である。詳しくは本を読んでいただきたいが、「野の葡萄」というレストランではそこで使われる食材は福岡県岡垣町の社員及び契約農家や漁師の手によるものだけである。例えば、玄界灘で捕れる海の幸はイサキを捕りたくても鯖が捕れてしまうのが自然である。捕れた鯖をどうするか、全員で知恵やアイディアを出し合いメニューにし、更には無駄にしないために顧客へはブッフェスタイルという方法をとっている。
和菓子の「叶匠寿庵」は、自らを農工一体の人と呼び、滋賀県大津に63,000坪の寿長生の郷(すないのさと)で畑を耕し、そのテーマパーク内にて和菓子製造を行っている。その製造ラインにはトヨタのカイゼン方式が採用され、極めて生産性の高い方法が取られている。と同時に、例えば自ら鋤と鍬をもつことにより、畑の梅がどのように熟し、どんな時に使えば良いかわかると言う。
「野の葡萄」と「叶匠寿庵」は一つの道筋を示してくれている。「野の葡萄」が活動している福岡県岡垣町ではお年寄りも再び畑を耕すようになり、コミュニティが保たれている。「叶匠寿庵」の場合は、寿長生の郷と呼んでいるように日本ならではの今は失いつつある「郷」という社会が創られている。この2社には、市場での競争は善か悪か、経済合理性は善か悪か、といった二元論はない。
構造改革を平易にいうならば、自己責任のもとで、どんな事業が良いのか、利益の配分などを自分のことは自分で決めていくことだと思う。それが企業単位ばかりでなく、地域単位に広げれば地方分権となる。小さな単位で改革を進めていけば、知恵やアイディアも生まれ、痛みも豊かさも実感できる。この6年半学習してきたことは、一方的一律的な中央集権的構造改革ではなく、もっと小さな単位での改革、例えば地方に財源とその自由裁量権を渡し、自立へと歩み出すことこそが構造改革の第一歩だと思う。(続く)