2022年11月13日

◆未来塾(46)  昭和文化考・前半

ヒット商品応援団日記No811毎週更新) 2022.11,13

未来塾の更新に時間が経昭和ってしまったが、戦後の発展成長の歴史に記憶すべき「昭和文化」、その風景について書き留めることとした。

未来塾(46)  昭和文化考・前半



記憶の解凍

平凡パンチ、ビートルズ来日、アイドル、漫画、
新たな戦後文化の勃興、
昭和レトロブームの主人公、Z世代と昭和世代

ここ2回ほど未来塾では「下山から見える風景」として昭和の時代、特に昭和30年代にどんな出来事が生まれていたかを書いてきた。そこには「貧しくても夢があった」という言葉のように、何も無い時代に新しく何事かを「創る」無名の人たちがいたことを強く想起させるものであった。今日のライフスタイルの原型が江戸時代にあったように、わずか半世紀ほど前の「過去」を忘れてはならないという思いもあっていくつかの事例を挙げた。ただ同時にいま一つ時代の風景が鮮明にならないことも自覚した。それは昭和という時代の雰囲気、多くの人たちの息遣いが実感できていないということに辿り着いた。そうしたことから今回のテーマはいささか大仰ではあるが「昭和文化考」とした。
そして、この昭和文化を先導したのは戦後生まれの団塊世代であり、その先導を促進したのが雑誌とテレビ、ラジオというメディアであった。

戦前という過去からの解放が始まる

「敗戦」とはそれまでの多くの政治あるいは経済・社会の諸制度を根底から新たにつくり直すことでもあった。そして、そうしたつくり直しの第一歩が1964年(昭和39年)の東京オリンピックで復興のシンボルであったことは周知の通りである。一方、庶民の生活における復興は「闇市」から始まり、上野のアメ横もサラリーマンの街新橋の駅前ビルなど多くの商店街が売る側も買う側も自然発生的につくられた「市場」であった。(詳しくは「商店街から学ぶ」を参照してください)勿論、未整備な商業であり、今日で言うところの違法な商売もあったが、市場に集まる人たちによって過去に囚われい制度として今日に至る。ある意味で過去からの解放、自由な生き方・生活の仕方が始まったと言っても良いかと思う。つまり戦後文化はあらゆる意味で「自由」を求めるものとしてあった。「貧しくでも夢があった」とは、この「自由」な環境を背景としてある。つまりゼロからのスタートとは既成のない世界からのスタートであった。この「既成」からの自由であるとは、それまでの「大人」からの自由であった。前回書いたジブリ作品「となりのトトロ」における「大人」であり、子供たちは競って自分たちの「トトロ」を追い求めた。その子供とは戦後生まれの「若い世代」のことであった。

若者文化という言葉がメディアに登場する

未来塾(46)  昭和文化考・前半


1960年代と言えば戦後の荒廃がまだまだ残る中、高度経済成長が始まる時代である。ちなみに高度経済成長とは、1954年~1973年という19年間もの長い間の成長期である。よく中国の高度成長と比較されるが、一番低い年度で6.2%の成長でその多くは10%台という極めて高い経済成長を果たした時期である。収入も増えこの時代の消費の特徴は3種の神器と呼称された、3C(車、クーラー、カラーテレビ)が流行った時代である。生きてゆくことだけに必死であった時代を終え、豊かさを追い求める時代に入ったということである。実はその1964年に雑誌「平凡パンチ」が創刊される。貧しさから抜けはじめた時代を象徴するような雑誌であった。
出版社である平凡出版(現在のマガジンハウス)も戦後生まれの出版社で、当時の若い世代の興味関心事である車やファッション、さらには従来タブーとされてきたセクシーグラビアなどを取り上げ圧倒的な支持を得る。創刊から2年後の1966年には100万部を突破する。少しづつ経済的豊かさが進み、若い世代の関心はフッションへと向かう。
その中心は石津健介によるVANジャケットやJUNであった。こうした若者は当然であるが街へと向かう。1990年代後半渋谷109周辺が若い世代の表現舞台になったが、1964年当時は銀座のみゆき通がその舞台であった。その通りに集まる若者をメディアは通りの名前から「みゆき族」と呼んだ。当時の写真が残っていたので載せることにしたが、裾を短くしたコットンパンツに持ち物といえば紙袋であった。これが若い世代にとっての先端的なお洒落であった。1990年代渋谷109に集まったストリートファッションはガングロ・山姥ファッションであったが、みゆき族はその先駆けであった。
戦前の画一的な洋服から自由で思うままのファッションの源流はこのみゆき族から始まったと言っても過言ではない。米国文化の影響が色濃く残るが、一人ひとりの好みの表現、今日で言うところの「個性」への関心が生まれ、1970年代、1980年代へと日本のファッションへと向かう第一歩となった社会的事件であった。
こうした若者文化の事象は一例であって、以降の1970年代、1980年代という復興から成熟期、いや爛熟期へと向かうが、その原点は過去あった「既成」との決別で、振り返ってみればサブカルチャー。カウンターカルチャー誕生であったと言えなくはない。勿論、戦前にあった残すべき物の回復も必要であったが、この時代そうした整理を行う余裕はなかった。

新しい音楽への冒険が始まる

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この時期1966年、日本全国を熱狂へと巻き込んだザ・ビートルズの最初で最後の来日公演が開催される。それまでのアイドル・バンドから本格的なアーティストへと変貌した、ビートルズにとってターニング・ポイントとも言える来日公演であった。
この公演が行われた場所は日本武道館で、日本武道振興の場所としてあり、ロック・コンサートなど行うとはといった批判もあった。ある意味で異例中の異例、それまでの「既成」を覆したミュージックイベントであった。
前座を務めたのは亡くなった内田裕也、尾藤勲、それにドリフターズであった。このビートルズショックは日本の若いミュージシャンをはじめ中高生にまでロックブーム、エレキブームを巻き起こす。

こうした社会的事件とでも表現したくなるような出来事の背景には、日本経済の生きる術、産業の転換が進んでいた。そもそも音楽、歌の発祥は労働歌にあった。ビートルズの音楽はある意味労働とは無縁の音楽である。
生きるため、その労働を癒し、明日へと労働の苦しさを忘れるために歌った音楽とは全く別次元の音楽であった。周知のように労働の苦しさ癒す音楽がブルースであったが、実はブルースは日本にも古来から存在していた。歌は自己投影、心の投影としてあるが、苦しさではなく、英国生まれのロックミュージックという新しい刺激、その「楽しさ」が若い世代の感性を揺さぶった。

日本産業の変化と共に歌も変化していく

少し古い比較データであるが次のような変化がわずか50数年の間に起きている。
□第一次産業(農林漁業)の従事者の割合は、
1955 年の 21.0% から 2008 年の 1.6%まで継続して低下。
□第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の割合は、
1955 年の 36.8%から 1970 年には 46.4%まで上昇し、2008 年には 28.8%まで低下。
□第三次産業(サービス 業、卸売・小売業など)の割合は、
1955 年の 42.2%から 2008 年には 69.6%まで上昇。
この比較内容をコメントすると、1955年という年度はいわゆる高度経済成長期のスタートの時期であり、そのピークである1970年における製造業従事者の割合は46.4%で2008 年には 28.8%まで減少している。実はその差は大きく17.6%も減少し、バブル崩壊後の製造業の国内空洞化と言われている数字である。製造業による輸出立国と言われてきた日本とはまるで異なる産業構造に既に転換してしまっている事実である。円安による輸出が増えるどころか輸出入は赤字化し、海外投資などによる所得収入によってなんとか貿易を成立させているのが実態である。中国が世界の工場となって時間が経つが、最早従来のモノづくり貿易立国ではなくなっているということだ。失われた30年というが進む方向を見出せないままの30年はこうした産業構造からもわかる。

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横道に逸れてしまったが、「歌」という視点から見ていくと、更にその変化がわかる。例えば、第一次産業(農林漁業)の労働歌と言えばその代表的な歌謡は民謡であろう。ソーラン節や大漁節などであるが、いまや日本の伝統芸能に組み込まれ、漁師町の日常に残る歌ではなくなっている。
第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の労働歌・愛唱歌のなかに、ビートルズを含めた欧米の音楽が続々と日本に押し寄せる。そして、咀嚼しながら次第に日本固有の労働歌、というより愛唱歌が生まれてくる。「歌謡曲」の誕生である。

この歌謡曲の黄金期をつくった一人が阿久悠であった。この時代の日本レコード大賞受賞5回のヒットメーカーであり、小説家でもあり、無類の高校野球好きとして知られているが、実はヒット曲を調べていくと時代変化、揺れ動く様の「目撃者」であることがわかってくる。
阿久悠は大学卒業後広告代理店に勤めるが作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)グループサウンドブームの先駆けであったが、他にはフォークソングや後にJ POPへと繋がる音楽業界のまさに勃興機であった。
こうしたエレキバンドは勝ち抜きバンド合戦などその裾野が広がっていく。この裏には日本にエレキ部0むを巻き起こしたギターリスト寺内たけしの活躍持ってのことだが、音楽が一つのカルチャーとして一般庶民・和歌も鬼浸透していくことになる。このブームを更に進化させたのが、1971年にスタートする「スター誕生」というオーディション番組であった。今で言うところの素人発掘番組でスターを育てる趣旨であるが、こうして誕生したのが、桜田淳子、山口百恵、森昌子、新沼謙治などである。1970年代の日本歌謡界のスターが一つの文化を作ることとなる。ちなみに、審査員のヒットりに阿久悠も加わっている。

「スター誕生」という名称であるが、今日いうところのアイドルとは少し異なる存在であった。その象徴であったのが「山口百恵事件」であろう。山口百恵の風貌は素朴、純朴、誠実、といった言葉が似合う幼さが残る歌手としてデビューするのだが、そうした「少女」とは真逆な「大人」の性的さをきわどく歌い、そのアンビバランツな在り方が一つの独自世界をつくったスター(初期のアイドル)である。確か週刊誌であったと思うが、百恵が歌っている最中、風かなにかでスカートがめくれたパンチラ写真が掲載され話題となったことがあった。その時、百恵はその雑誌社に本気で抗議し、「少女」であることを貫いたのである。
そして、周知のように山口百恵は映画で共演した三浦友和と結婚するのだが、日本国中といったら言い過ぎであるが、その結婚に対して大きなブーイングが起きる。結果、「私のわがままな生き方を選びます」とコメントし、1980年に21歳という若さで引退する。百恵エピソードは数多く語られているが、1970年代という時代を駆け抜けた「少女アイドル」であった。
こうした経緯を見ていくと、のちのアイドルであるAKB48の指原莉乃が恋愛御法度の禁を破っで福岡に「転勤」し、復活したことと比べ大きな違いが見て取れる。

日本固有のサブカルチャーが手塚治虫によって誕生する

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戦後のサブカルチャー誕生に欠かせない一人が漫画家手塚治虫である。戦前にもソンソ意欲さん漫画はあったが、戦後の新しい地平を確立したのが手塚出会った。周知のように1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がける。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。

と言うのも、子供向けの娯楽は戦前戦後とほとんど無かった時代であった。漫画のルーツを調べた専門家によればいわゆる紙芝居で戦後街頭紙芝居として復活する。(紙芝居の歴史は古く平安時代の『源氏物語絵巻』であるという説もある。その歴史を調べることは任にないことから、食べることすら容易では無かった戦後間もない頃の紙芝居を取り上げた。)
この紙芝居はTVが普及するにしたがって衰退していくのだが、多くの漫画家はこの紙芝居の愛好家であったと専門家は指摘している。そして、この紙芝居は東京のみならず関西でも広く浸透しており、大阪出身の手塚治虫もその一人であったという指摘もある。また、紙芝居の手法は間違いなくアニメ製作へと引き継がれていく。そして、少女漫画、劇画、ギャグ漫画、・・・・・・・多様なコンテンツの漫画が生まれるが、「あしたのジョー」や「巨人の星」といったヒット作を背景に、漫画雑誌が若い世代を中心に広く読まれるようになる。

漫画の歴史エオ分析することは私の任ではないので、明らかに時代を「感じさせてくれる」雑誌といえば、男性しであれば週刊少年マガジン(講談社 1959- 毎週水曜日発売)、
週刊少年サンデー(小学館 1959- 毎週水曜日発売)
週刊少年ジャンプ(集英社 1968- 毎週月曜日発売)
週刊少年チャンピオン(秋田書店 1969- 毎
少女向けでは、マーガレット(集英社 1963- 毎月5日20日発売)月2回刊)あるいはSho-Comi(小学館 1968- 毎月5日20日発売)月)などが発刊され漫画メディアは時代の主要メディアになっていく。そして、周知のように名称もコミック誌になり、テーマ別のコミック誌であるパチンコ、時代劇、ゴルフ、麻雀、釣り、など分化し、コミックマーケットという同人誌にまで進化していく。その進化の原点は1960年代にあったということである。
ちなみに1965年の「ハリスの旋風」を皮切りにマガジンの快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」なども連載を始め、1967年1月にはついに100万部を突破する。

新しい価値創造へと向かう70年代

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1960年代は次の豊かさを実現するある意味環境づくり・助走の期間であった。その環境とは戦後生まれの団塊世代が本格的に働き、消費するという転換期を迎える。食べるために働いた時代で物の豊かさを求めた時代が60年代であったのに対し、70年代は物を求め物を満たすことが必要であった時代で、団塊の世代は「ニューファミリー」と呼ばれた。そして、今日を予見するような消費の「芽」が一斉に出てくる。
例えば、所得も増え単に物を満たすだけではない、そんな新しい価値をもった消費が現われてくる。1975年には便利さを売るセブンイレブンの1号店が誕生し、あのキャラクターのハローキティも生まれている。1976年には海外渡航者数が300万人を超える。こうした豊かさを背景に1980年代には多くの未来の芽が更に成長していく。
ファッション分野で言うと、80年代初頭には川久保玲や三宅一生さといった世界的なデザイナーによるデザイナーズ&キャラクターブランドが市場に新しい潮流をつくる。従来の男は男、女は女といった区別による考え方から、女性は男の良さを取り入れ、例えば肩パッドの入ったスーツを着こなし、男性は女性の柔らかなラインを取り入れたスーツを着るといった具合に。そうしたファッションの総称としてDCブランドと呼ばれ、セールを行う丸井には行列ができ社会的な注目を集める。つまり、物の価値がデザインといった情報的価値が求められていく時代の先駆けであった。
1980年代半ばそうした情報の消費を端的に表したのがロッテが発売したビックリマンチョコであった。シール集めが主目的で、チョコレートを食べずにゴミ箱に捨てて社会問題化した一種の事件が起きる。つまりチョコレートという物価値ではなく、シール集めという情報価値が買われていったということである。しかも、一番売れた「悪魔VS天使」は月間1300万個も売れたというメガヒット商品である。こうした現象も高度経済成長期ほどではないにしても安定成長となり、所得も着実に増え続けてきた背景がある。

「昭和文化」の爛熟期へと向かう

こうした消費変化を捉えたのがブランド戦略であった。モノ価値から情報価値への転換で、その中心は「女性」であった。1985年には男女雇用機会均等法が制定され、それまでの「女性らしく」あるいは男と女は違う」と言う旧来の固定観念が次から次へと変わっていく。DCブランドは更に個性的なブランドを生み出し競争はブランド間競争となる。そうした無名のブランド、小さなマンションメーカーと呼ばれたショップが原宿周辺に集まる。今日の竹下通りの原型がつくられていく。
こうしたファッションを中心としたテーマ集積を受けて、1980年代前半原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国で、ラジカセを囲み路上で踊るグループが出没する。次第に参加グループも多くなり、社会現象化する。いわゆる「竹の子族」の誕生である。1960年代銀座に集まった「みゆき族」に対し、踊りを組み込んだパフォーマンス集団へと進化していく。歩行者天国の廃止とともに竹の子族は消えていくのだが、ファッションの整地のポジションを確立していくこととなる。

1980年代は女性が社会という舞台に上がってきた転換期であった。団塊の世代はニューファミリーとして家庭づくりへと向かい、消費の舞台には上がってこなかったが、その下の世代は社会へと現われてくる。
この時代の空気感を作詞家阿久悠は沢田研二に「勝手にしやがれ」(1977年レコード大賞)を歌わせている。男と女の「すれ違い」をテーマとした歌である。
』 窓際に寝返りうって、背中できいている やっぱりお前は出て行くんだな・・・・・・』 別にふざけて 困らせたわけじゃない 愛というのに照れてただけだよ・・・・・・・
思い出していただけただろうか。後に阿久悠は「歌謡曲の時代」(新潮文庫)」の中で、”1970年代の男と女の気分が出ていると。更にその気分とは”真っ直ぐに、熱烈に愛することに照れてしまう”そんな気分を作詞したと書いている。

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その象徴であると思うが、漫画家中尊寺ゆっこが描いたマンガで、従来男の牙城であった居酒屋、競馬場、パチンコ屋にOLが乗り込むといった女性の本音を描いたもので多くの女性の共感を得たマンガであった。その俗称が「オヤジギャル」。もう一つが物質的には満たされたお嬢様である二谷百合枝が郷ひろみとの出会いから結婚までを描いた「愛されれる理由」が75万部という1989年のベストセラーになる。つまり、物は充足するが何か心は満たされていない、そんなテーマの本であった。豊かさが次の段階へと進化してきたということである。新婚旅行から成田に帰国後離婚する華っぷりが多発し「成田離婚」として社会的な注目を集める。こうした背景には、女性からの一方的な期待、依存に応えることができないことが明らかになり、即離婚に移る女性が多く出現した結果でもあった。
昨年の東京オリンピック開催に際し、その理念とした多様性・平等といったことが話題となったが、既に1980年代においてその「芽」は出ていたと言うことである。
そして、1989年の暮れには株価は4万円近くにまで上がり、家計支出に占める食費や住居費といった生活必需品が50%を切り、娯楽や教育費の支出が50%を超える。後に「バブル期」と言われる時代である。
日本経済も日米摩擦はあるものの、造船竣工においては世界シェアー50%、半導体生産においても50%のシェアーを誇り経済は発展をしていた。そうした経済成長を背景に4月15日 に東京ディズニーランドが正式に開園する。また1987年にはリゾート法(総合保養地域整備法)が制定され、日本各地でいわゆるリゾート開発が行われる。多様な余暇産業が急速に進んだ。ゴルフ、スキー、マリーナ、リゾートホテル、といった大型施設を始めプール、スパ、ゲームセンター等が全国至る所で開発された。結果についてどうであったか、以前ブログにて書いたことがあるので今回は付け加えることはしないが、地方財政を悪化させ、過大なリゾート需要による実施、しかも画一的な開発によって・・・・・・・・・・結果は廃墟となり、いまなお野ざらしの状態の施設は多い。いわゆるリゾートバブルの崩壊である。こうした負の遺産も同時に起きていたことを忘れてはならないであろう。
なお、1989年4月初めての消費税3%がが導入される。このように日本経済が好調であったことから、大きな反対もなかった。
こうしたいわば転換期の日本については「転換期から学ぶ」(1)~(5)において主に生活価値観の変化、パラダイム転換について分析しているのでご参照ください。(後半へ続く)」


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