2008年05月01日
◆パラダイムシフトの予兆
ヒット商品応援団日記No261(毎週2回更新) 2008.5.1.
1990年代半ばから後半にかけて、その当時大きな変化が押し寄せてくるなという変な感覚をもったことがあった。それは氷河期を終えて次の段階に進んだインターネットの世界であり、その先行モデルに楽天市場があった。また、バリュー価格というキャッチフレーズのもと、デフレの旗手としてマクドナルドやユニクロに注目が集まった。そして、「顧客満足」というキーワードと共に、次の世紀に向けた顧客研究が盛んに行われた時期である。
当時は日本経済、というより日本人の生活価値観の多くを欧米、特に米国から取り入れたものが中心となっており、マーケティングにおいてもパラダイムシフト、価値観変化が盛んにスタディされた。マーケティングも民俗学からはじまり、心理学、更には脳科学へと進んできた。
この十年間ほどを振り返りどんな変化があったかというと、一つだけ挙げるとするならば「過剰さ」を削ぎ落としてきた十年であったと思う。周知の通り企業であれば統合再編が行われ、ヒト、モノ、カネの見直しが行われた。生活者レベルにおいても、生活の過剰さを削ぎ落としてきた。所有という価値から、厳選して使用することへの価値変化として。個性という名の一過的消費から、本当に好きな厳選されたお気に入りを末永く使う消費へ。また、ここ数年、情報についてもその過剰さの陰にあった偽装を体験し、自らの体験価値による消費へとシフトしてきた。
また、グローバリズムは企業の問題としてだけではなく、原材料高騰による値上げや中国製冷凍餃子事件によって、生活そのものがグローバリズムの仕組みに組み込まれていることを実感した。
さてこうした経験、学習から「何」が生まれてくるのであろうか。ここ1〜2年「時代の踊り場」という表現を私はしてきた。一言でいうと、次へのパラダイムへと移行する踊り場にいるとの認識である。この踊り場に新たな芽がでてきている。その芽とは大量生産大量販売という経済における「既成の基準」から外れたものへの着目である。大きく言えば生産における基準、流通における基準だ。例えば、農業における基準の多くは「農協基準」であり、その基準、規格から外れた商品をどう生かしていくかということだ。先日、TV番組で特集されていたが、小さな規格外みかん、従来であればジュースにするのだが、その美味しい小さなみかんを安く流通にのせる試みであった。見回せば、そうした既成、基準ばかりに埋もれている。以前少し触れたことがあるが、既成、基準との「境界」に新しい芽が生まれる。
全てを小さな単位で見ていく、これは私の持論であるが、そのことによって既成や基準による市場、顧客とは異なる新しい市場、顧客が見えてくるということだ。経済合理性という名の下で、捨てられ、外されてきたものを今一度見直してみようということでもある。一方では、削ぎ落としてきた「過剰」についての見直しもある。統廃合による学校の校舎、借り手のいないビルや工場、店舗、廃屋、無駄づかいによって生まれた各種施設。こうした建物ばかりでなく、人もお金も、過剰といわれるメディアについてもだ。少し前に「答え」のない試験問題について書いたが、大きな課題を一挙に解決するのではなく、一つひとつ、小さな単位で「答え」を出していけば良いのだ。それは新しい経済合理性に基づくパラダイムへとつながっていく。
P.ドラッカーではないが、「既に起こっていた未来」という芽は至る所に出始めている。それが大きな潮流になるのは、技術力と人をつなぐネットワーク力が重なり合った時だ。そして、それは既成や基準にしばられない若い世代によって可能となる。(続く)
1990年代半ばから後半にかけて、その当時大きな変化が押し寄せてくるなという変な感覚をもったことがあった。それは氷河期を終えて次の段階に進んだインターネットの世界であり、その先行モデルに楽天市場があった。また、バリュー価格というキャッチフレーズのもと、デフレの旗手としてマクドナルドやユニクロに注目が集まった。そして、「顧客満足」というキーワードと共に、次の世紀に向けた顧客研究が盛んに行われた時期である。
当時は日本経済、というより日本人の生活価値観の多くを欧米、特に米国から取り入れたものが中心となっており、マーケティングにおいてもパラダイムシフト、価値観変化が盛んにスタディされた。マーケティングも民俗学からはじまり、心理学、更には脳科学へと進んできた。
この十年間ほどを振り返りどんな変化があったかというと、一つだけ挙げるとするならば「過剰さ」を削ぎ落としてきた十年であったと思う。周知の通り企業であれば統合再編が行われ、ヒト、モノ、カネの見直しが行われた。生活者レベルにおいても、生活の過剰さを削ぎ落としてきた。所有という価値から、厳選して使用することへの価値変化として。個性という名の一過的消費から、本当に好きな厳選されたお気に入りを末永く使う消費へ。また、ここ数年、情報についてもその過剰さの陰にあった偽装を体験し、自らの体験価値による消費へとシフトしてきた。
また、グローバリズムは企業の問題としてだけではなく、原材料高騰による値上げや中国製冷凍餃子事件によって、生活そのものがグローバリズムの仕組みに組み込まれていることを実感した。
さてこうした経験、学習から「何」が生まれてくるのであろうか。ここ1〜2年「時代の踊り場」という表現を私はしてきた。一言でいうと、次へのパラダイムへと移行する踊り場にいるとの認識である。この踊り場に新たな芽がでてきている。その芽とは大量生産大量販売という経済における「既成の基準」から外れたものへの着目である。大きく言えば生産における基準、流通における基準だ。例えば、農業における基準の多くは「農協基準」であり、その基準、規格から外れた商品をどう生かしていくかということだ。先日、TV番組で特集されていたが、小さな規格外みかん、従来であればジュースにするのだが、その美味しい小さなみかんを安く流通にのせる試みであった。見回せば、そうした既成、基準ばかりに埋もれている。以前少し触れたことがあるが、既成、基準との「境界」に新しい芽が生まれる。
全てを小さな単位で見ていく、これは私の持論であるが、そのことによって既成や基準による市場、顧客とは異なる新しい市場、顧客が見えてくるということだ。経済合理性という名の下で、捨てられ、外されてきたものを今一度見直してみようということでもある。一方では、削ぎ落としてきた「過剰」についての見直しもある。統廃合による学校の校舎、借り手のいないビルや工場、店舗、廃屋、無駄づかいによって生まれた各種施設。こうした建物ばかりでなく、人もお金も、過剰といわれるメディアについてもだ。少し前に「答え」のない試験問題について書いたが、大きな課題を一挙に解決するのではなく、一つひとつ、小さな単位で「答え」を出していけば良いのだ。それは新しい経済合理性に基づくパラダイムへとつながっていく。
P.ドラッカーではないが、「既に起こっていた未来」という芽は至る所に出始めている。それが大きな潮流になるのは、技術力と人をつなぐネットワーク力が重なり合った時だ。そして、それは既成や基準にしばられない若い世代によって可能となる。(続く)
マーケティングノート(2)後半
マーケティング・ノート(2)前半
2023年ヒット商品版付を読み解く
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」後半
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春雑感
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Posted by ヒット商品応援団 at 18:33│Comments(0)
│新市場創造