2011年04月24日

◆無知であることの恥 

ヒット商品応援団日記No499(毎週更新)   2011.4.24.

3.11の震災当日から40数日が経過した。震災から1〜2週間の頃と、最近1週間ほどの間でマスメディアで使われていた言葉、キーワードと今や使われなくなった言葉が歴然としてきた。その一つが、地震や津波それらの防災や原子力発電の専門家の口から必ず出てきた「想定外」という言葉であった。時間が経つに従い、既に同じ規模の地震や津波は1896年に明治三陸地震津波が発生していたことが分かってきた。いや、専門家の多くは既に知っていて「想定外」という言葉を使っていたのだと思う。どのTV番組か忘れてしまったが、インタビューに答えた被災者である老人は、先代からの言い伝えで昔大津波があって高いところに避難しろと、それで助かったと。古来から自然との付き合い方、牙を剥く自然のやり過ごし方が高台に逃げろであった。
もう一つの言葉が原子力発電は「安全」であるとし、その神話が崩れ去ったと。何重にも防ぐことを行ってきた電源が津波によってことごとく使えないまま、原子炉を冷やす為に人力で放水する。科学技術の極みと言われてきた原子力発電が人力という超アナログ的活動によってなんとか持ちこたえている。

古来から神話には必ず神話をつくる人と必要とする人によって創られてきた。神話の創成は日本の場合二人の語り部によって創られてきた。その一人は、日本における共同体(国)誕生初期の頃であれば天皇制という共同体を支える朝廷の知識人で神話を統治に不可欠なものとして創り使ってきた。もう一人の語り部は個人の観念や家族や親族といった社会集団が求める観念(対幻想)を見聞きし全国を歩き広めた移動民、商人であった。今回の原発の「安全神話」の語り部は前者である国と原子力発電の専門研究者によるもので、後者はインタビューに答えていた老人のように代々言い伝えられてきた伝承神話である。

3.11から1種間ほど経ってから、東京を称し「光と音を失った街」であると私はブログに書いた。それから1ヶ月ほど経ったが、勿論夜になっても看板に光はなく、駅や電車内も照明を半減させている。しかし、そうした状態がごく普通であるかのように思えてきている。感覚的に慣れてきたこともあるが、どこかで過剰であったなという自覚もある。この明るさでもいいじゃないかということである。つまり、日常のライフスタイルがその質を変えてきたということだ。
3.11の衝撃は大きく、誰もが言葉を発することができなかった。義援金やボランティアという出来ることはやってきたと思う。そして、今は沈黙して東北の被災者の方達を見守るだけとなっている。そんな内なる自分に対し、吉田拓郎の「ガンバラないけどいいでしょう」というメッセージではないが、あるがままに生きてもいいんじゃないか、そんな無理しない自分に戻ってきたということだ。

つまり、日常へと戻ってきたのだが、3.11以前とその後とでは大きく変わってきている。それは「過剰」に対する認識であろう。地震や津波といった自然への畏怖、過剰なまでの衝撃映像から自分を取り戻すことであり、あるいは原発の「安全性」に対する過剰なまでの神話的認識、そうした無知に対する自覚である。
知らなかったことを知り、更には体験もした。結論から言えば、もう以前のようには戻れないということである。3.11を境に、ライフスタイルが大きく変わると指摘をしたのはこうした背景からである。

私もそうであるが、地震や津波といった自然の凄まじさと恵み、一方で人造の科学技術の極みと言われる原子力発電の恩恵を享受してきた都市の生活。それらの裏側に隠れていたものへの無知を恥じているが、一人ひとり変わることによって恥を超えることになる。生活という視点に立つと、あるがままの自然と人造の原発との向き合い方が問われているということだ。そのことは消費都市東京の在り方を変える。

今一度、エネルギー資源を持たない日本をどうすべきか再考する時を迎えている。それは風力や水力といった自然エネルギーとの対比として再考されるが、
1,そのエネルギー価格はどうであるか
2,安全性はどうヘッジできるのか
3,安定した供給は可能なのか
4,そして、環境への影響はどうであるか
現在の電力は発電、送電、販売という3つを地域的に独占した企業によって行われており、こうしたビジネスの仕組みを変えmオープンな市場として開放すべきといったビジネスとしての視座も必要であるが、何よりも消費生活としてどうであるかが重要であると思う。既に、3.11以降、電車は止まり多くの帰宅難民が出て、電話は一定時間不通となり、スーパーの棚から商品が消え、更に計画停電の経験もしてきた。そうした中から生まれてきた過剰への自覚が上記1〜4に対し、どのような判断に向かうかである。既に電気料金の値上げも検討され、不安定な電力供給(=節電)も学習してきた。このように1ヶ月半、多くのことを生活学習してきた。それはマスメディアが伝えるところの自粛した生活ではない。自覚と自粛とは決定的に異なることである。ヤシマ作戦のように節電したのも、桜の花見に行かなかったのも自覚の結果であって、自粛ではない。自覚とは意志そのものである。全て自覚したことによる行動であり、次なるライフスタイルの入り口に立ったということだ。それは無知であったが故の自覚である。その自覚はどこへと向かうか、消費という欲望表現を通じて見ていくつもりである。(続く)


同じカテゴリー(新市場創造)の記事画像
マーケティングノート(2)後半
マーケティング・ノート(2)前半
2023年ヒット商品版付を読み解く 
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」後半  
マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」前半  
春雑感  
同じカテゴリー(新市場創造)の記事
 マーケティングノート(2)後半 (2024-04-07 13:01)
 マーケティング・ノート(2)前半 (2024-04-03 13:59)
 2023年ヒット商品版付を読み解く  (2023-12-23 13:38)
 マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」後半   (2023-07-05 13:25)
 マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」前半   (2023-07-02 14:25)
 春雑感   (2023-03-19 13:16)

Posted by ヒット商品応援団 at 13:53│Comments(0)新市場創造
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。