2018年08月05日

◆未来塾(33)「消費税10%時代の迎え方」(2)前半 

ヒット商品応援団日記No718(毎週更新) 2018.8.5.



消費税10%時代の迎え方(2)

生き延びる商店街から学ぶ

コンセプトの異なる3つの商店街

砂町銀座商店街、興福寺松原商店街、谷中銀座商店街


2014年2月第1回「浅草」をスタートに多くの街や商店街の変化を観察してきた。数年前からは首都圏だけでなく大阪まで足を延ばし何が顧客を惹きつけ元気であるかを肌身で感じてきた。その街や商店街の変化は、誕生の歴史的背景や周辺商環境の変化、そして最近では何よりも訪日外国人市場という新たな市場によって街の風景もそれぞれ異なってきている。
ところで第一回では消費税が10%になってもなお顧客支持が得られるであろう専門店の「誕生物語」その広げ方と、今まで消費から遠い存在と考えられてきた20歳代の新たな若者市場の誕生について、大阪という今一番元気な街の変化として観察・レポートした。
こうした観察のたびに感じることだが、街や商店街は、例えば耕作放棄地が荒れ果てイノシシが住み着く土地へと変貌するように、手を加えない街や商店街は都市であっても閑散としたシャッター通りとなり、街全体が衰退していくこととなる。中小企業庁によれば5割を超える商店街で来街者は減少し、下げ止まりの傾向はあるものの空き店舗数は13%を超えている。来年秋には消費税10%時代を迎えることとなるが、第2回目は過去の消費税導入や大型商業施設をはじめとした商環境の激変を乗り超えてきた3つの商店街を取り上げ、その共通する「商業力」と個々の「独自力」を明らかにしてみた。その「力」とは何か、消費税10%時代を迎えるヒントとしていただきたい。

開発から取り残された地域の商店街

面白いことにこの3つの商店街に共通していることの第一は戦後の都市開発から取り残された地域の商店街である。取り残されてなお「何か」を力とし生き延びる、いや成長する源泉となっている。私の言葉でいうとコンセプトということになるのだが、戦後の荒廃した街から生まれた商店街である。言葉を変えていうならば、日本固有の小売業そのものである。禅宗には「無一物中無尽蔵」という言葉がある。文字通り、無一物とは本来執すべき一物も無い、何も無い戦後にあって、商人として何ものにも執着しない、無心で生きてきた商店街である。そうした意味で3商店街各々異なるコンセプトを持ち、その後の発展も全く異なる商店街として今日に至っている。商店街誕生の経緯を簡単に整理すると次のようになる。

町銀座商店街の場合

東京砂町銀座商店街のある江東区北砂は、豊洲や東雲、臨海副都心といったタワーマンションに象徴される開発地域とは異なり、東西を隅田川と荒川に挟まれ、北は都営新宿線と南は東西線とに囲まれた、つまりアクセスするには都営バスしかないある意味不便な場所に立地した商店街である。この商店街のある北砂は1945年の東京大空襲で焦土と化す。戦後になって店舗が増え始め1963年ごろに長さ670メートル、店舗数約180のほぼ現在の形になり、今もなお昭和の色影を残した下町の商店街として今日に至る。
ちなみに北砂の人口は約38,000人ほどである。周辺にはURの賃貸住宅や都営アパート、あるいは大規模マンション群が見られるが、砂町銀座商店街から脇道を一歩入ると、そこには木造家屋の古い住宅地となっている。商店街の北側と南側徒歩10分圏はこうした住宅地で、いわゆるご近所商店街となっている。
毎月10日には「ばか値市」と呼ばれる大安売りを行っている。平日で1日のべ15,000人、休日でのべ20,000人が訪れる。日本経済新聞2005年2月5日号の「訪れてみたい商店街」で、巣鴨の地蔵通り、横浜の元町に次いで3位に選ばれた、そんな商店街である。安さもさることながら、訪れてわかることだが、惣菜店の多さに象徴されるように日常生活に必要な商品を相対で販売する商店ばかりである。コンセプト的にいうならば、文字通り看板娘や名物オヤジのいる「ご近所商店街」である。

興福寺松原商店街の場合

「ハマのアメ横」と呼ばれる洪福寺松原商店街は横浜から相鉄線に乗り3つめの天王町駅から徒歩8分ほどのところにある。横浜の3大商店街の内、横浜橋通り商店街は横浜市営地下鉄阪東橋駅徒歩2分、六角橋商店街は東急東横線白楽駅の駅前にある。多くの商店街が駅前という好立地にあるのだが、松原商店街は砂町銀座商店街と同様に駅から離れたところにある。
昭和24年米軍の車両置き場として接収されていた天王町界隈や松原付近が解除返還される。住宅もまばらだった一角に昭和25年商店街1号店とも言うべき萩原醤油店が開店する。醤油1升につき3合の景品付きで値段も安く評判を呼ぶ。その後八百屋、乾物店、魚屋など相次いで店舗を構え現在では80店舗ほどの商店街である。
その松原商店街の歴史であるが、昭和27年には18店舗になるが、周辺の住宅はまだまだ少なく、ある程度広域集客することがビジネス課題となる。そこでつけたキャッチフレーズが「松原安売り商店街」であった。上野のアメ横も戦後の焼け野原からの、ゼロからの出発であった。そして、お客を呼ぶにはどうしたら良いのか、まだまだ物が不足している時代にあって、安く提供することが「上野のアメ横」も「ハマのアメ横」も同様の商売のポリシーでありその原点であった。平均の人出は平日約2万人、休日2万5千人。年末には県外からバスツアー客も来ることもあり、10万人にも及ぶ。コンセプト的にはハマの激安商店街となる。
この激安コンセプトを掲げた専門店はドン・キホーテをはじめ他にもあるが、商店街全体のテーマとした例は珍しい。上野のアメ横同様、松原商店街も年末の正月用食材の大売り出しには買い物客が大挙して押し寄せ文字通り「ハマのアメ横」となり、年末の風物詩となっている。

谷中ぎんざ商店街の場合

東京の中心部、特に下町と呼ばれた江東区や台東区の多くは戦災に遭い建物を含めその多くを焼失した。例えば、その象徴でもある上野アメ横のスタートは焼け野原のなかのバラックからのスタートであった。
その上野の北側にある台東区谷中から西側の文京区根津一帯は戦災を免れた昔ながらの木造住宅などの街並が今なお残っている。谷中ぎんざ商店街も昭和20年ごろから自然発生的に商店が誕生し、一つの商店街を形作っていく。
最寄り駅はJR日暮里駅あるいは地下鉄千代田線千駄木駅、根津駅であるが、地方の人にとっては上野公園の北側・西側と言った方がわかりやすい。東京に永く住む人にとっては谷中霊園のさくら、あるいはつつじの名所にもなっている根津神社があり、この一帯をヤネセン(谷根千)と呼んでいるがその中心にあるのが谷中ぎんざ商店街である。再開発が進み変貌する東京にあって、「昭和」「下町」といった生活文化の匂いが色濃く残っている地域である。
ところでJR日暮里駅から谷中ぎんざに向かう坂道(階段)も西日暮里三丁目ということもあり、その坂道から見る夕日が素晴らしく、多くの人は2005年の日本アカデミー賞を受賞した映画「Always三丁目の夕日」を思い浮かべる、そんな夕日の町である。
日本全国朝日と夕日の絶景スポットといわれる場所は数多くある。絶景マニアが撮影したい時と場所はこの時この場所という非日常の風景である。しかし、この谷中ぎんざ商店街を見下ろす坂の上からの夕焼けは絶景というより、だんだんと日が暮れていく日常の風景、今日一日お疲れさまとでも表現したくなるような、そんなありふれた時間の夕焼けである。感動するなどといった絶景ではなく、1日が終わりどこかほっとするそんな日常風景の夕焼けである。
まさに「下町レトロ」というコンセプトにふさわしいこの谷根千に観光客が続々と訪れるようになる。そして、今や日本人だけでなく訪日観光客の東京観光プログラムにも載るようになり、国内の「観光地化」の良きモデルとなっている。それは訪日観光客の日本への興味関心がクールジャパンから次第にその裾野を広げ、「下町レトロ」という日本の生活文化に向かっているということでもある。

ここで言うコンセプトとは商店街の誕生物語のことで、戦後の何も無いなかで個々の商店にとっては「生業」そのものであった。生きるための商売といっても過言では無い。その生業をある方向にまとめ「力」としたことが生き残る、いや今日の成長の「素(もと)」になっている。
この「素(もと)」とは小売業の本質で、徹底した顧客主義であり、それは売り手にとっては「売り切る力」のことでもある。「売り切る」とは、顧客にとってみれば単なる理解を超えた「納得・共感」のことである。いや「納得」と言う表現は誤解を招くので訂正するが、ある意味顧客が喜んで「買う」、自ら進んで「買う」ことに他ならない。その共感世界は3つの商店街各々異なるが、元を辿ればそれは誕生物語への共感ということだ。
顧客は「何」に共感するのか

必要でモノを買う時代、生きるためにモノを買う時代はすでに終えている。3つの商店街も戦後のモノ不足の時代にあって必死にモノを仕入れ販売してきた。そうした歴史を踏まえ今日に至るのだが、一定のモノ充足時代、多くの流通業が誕生し活動する競争下にあって、「何」を力とし、顧客の共感を得てきたかを学ぶこととする。
まず学ぶべきは3つの商店街にはいわゆる全国チェーン店は極めて少なく、そのほとんどが地場の商店である。シャッター通り化する時代にあって、地場の商店が中心になって商店街を構成し、多くの顧客を惹きつけ集客している点である。構成する商店は独立した事業者である。そうした事業者が目指す世界、コンセプトを共有できるか否かがまず超えなければならない最初の壁となる。

砂町銀座商店街の場合/手作りが持つ「力」

どの商店街もそうであるが、砂町銀座商店街も周辺にはアリオ北砂をはじめ大型商業施設に囲まれている。そうしたなか、何を「力」としているか、それは「生業」であることを力としていることに他ならない。小売業はアイディア業と言われるように、顧客が求めることを察知し、それにアイディアを加味して顧客に相対する。「工夫をまとった手作り商品」「作った本人が販売」「顧客反応を受け止めるのも本人」・・・・・・・・売上も何もかも本人次第、これが生業である。
ところでこうした生業の良さを強みに変えた小さなスーパーを思い出す。それは東北仙台郊外の小さな市場にも関わらず、全国から多くの流通業者が注目し学習しに通う主婦の店「さいち」である。人口わずか4700人の小さな温泉町に、1日平均5000個、土日祝日は1万個以上、お彼岸になると2万個もの「おはぎ」を売る。
その「さいち」は実は家庭で食べるお惣菜をスーパーで初めて販売したスーパーであるが、できるだけ人手を減らし、合理化して商品を安く提供するのがスーパーだと考える時代にあって、その真逆を進めたスーパーである。そんな非常識経営を進めていくのだが、そんな理由を次のように答えている。(2010年9月21日ダイヤモンドオンラインより抜粋引用)

『絶対に人マネをしないというのがさいちの原則です。マネをしたら、お手本の料理をつくった人の範囲にとどまってしまう。・・・・・先生や親方の所に聞きにいかずに、自分たちで考える。そうすると、自分がつくったものに愛情がわく。自分の子どもに対する愛情と同じです。』

「さいち」のお惣菜は500種類を超え、多品種・少量ということから、手間がかかり、利益が出ないのではという質問に対しては、
『全部売ってくれないと困る。そのためには、「真心を持って100%売れる商品をつくるのが、絶対条件ですよ」と、言っています。うちではロス(廃棄)はゼロとして原価率を計算しています。いくら原価率を低く想定しても、売れ残りが出てしまえば、その分、原価率は上がってしまいます。』

主婦の店さいちがそうであるように、砂町銀座商店街の多くが生業ならではの独自性を力に変えていることがわかる。チェーン店には無い「手作り」という独自が顧客の舌に応えているということである。しかも、「相対」という売り手と顧客とが真正面に向き合い、その日一番勧めたい商品、買いたい商品とを互いにぶつけ合う、勿論価格もであるが、売り切る力もこの相対によって培われる。そして、小売業は売り切ることの中に「信頼」が生まれる。その信頼が日々繰り返されることによって、感じ合う関係、共感関係にまで高めることへと向かう。

興福寺松原商店街の場合/元祖わけありの力

「ハマのアメ横」と自らそのように呼ぶ松原商店街であるが、その顧客を魅了する「安さ」は上野アメ横のそれとはいまひとつ異なる。それは2008年のリーマンショック後に急速に消費のキーワードになった「わけあり」は、実は松原商店街が元祖であった。
商店街創業のなかでも、今日の集客の中心的店舗である魚幸水産は当時からユニークな商法であった。三崎漁港や北海道から直接仕入れ激安で大量に売りまくる。今日でいうところの「わけあり商売」を当時から行っていたということである。入り口の奥まったところではマグロの解体ショーと共に、ブロックになったマグロを客と相対で値段をやり取りして売っていく、そんな実演商売である。これも上野のアメ横商売を彷彿とさせる光景が日常的に繰り広げられている。
魚幸水産と共に、商店街の集客のコアとなっているのが外川商店という青果店である。年末のTV報道で取り上げられる青果店であるが、次から次へと商品が売れ、売るタイミングを逃さないために、空となった段ボール箱をテントの上に放り投げ、一時保管するといった松原商店街の一種の風物詩にもなっている青果店である。
炎天下の昼時という最も買い物時間にはふさわしくない時であったが、テントの上には段ボールの空箱がいくつも積まれていた。
この外川商店も激安商品で溢れている。季節柄果物は桃の最盛期で1個100円程度とかなり安く売られている。この外川商店も魚幸水産と同様、見事なくらいの「わけあり商品」が店頭に並んでいる。写真の商品はきゅうりであるが、なんと一山100円である。そして、見ていただくとわかるが、見事なくらい曲がった規格外商品である。商店街には青果店は他にも3店ある。例えば、規格外ではないまっすぐなきゅうりを売っている青果店の場合、一山150円であった。

エブリデーロープライスというローコスト経営

松原商店街も上野のアメ横同様年末には多くの買い物客が押し寄せその爆発的な売上がニュースになり、風物詩っとして報道されるが、商店街の誕生から今日に至るまで毎日が特売日、エブリデーロープライスである。エブリデーロープライスは周知の世界最大の小売業であるウオルマートの経営ポリシーであるが、松原商店街も「売り出し」に経費をかけることなどしない、勿論折込チラシなどしない売上高経費率という視点から見れば各店共に10%程度の経費しかかけないローコスト経営商店街となっている。顧客の側もこうしたローコスト経営をよく理解したうえでの「安売り」であることに共感を覚えるのである。

谷中ぎんざ商店街の場合/新しい市場・変化を捉える力

谷中ぎんざ商店街は昭和20年頃に自然発生的に生まれる。ご近所相手の近隣型商店街として発展してきたが、商店街のHPにも書かれているが、現在に至るまでには大きな危機が3度あったという。”1度目は昭和43年の千代田線の千駄木駅開通による通行量の激変、2度目は昭和52年の近隣への大型スーパーの進出、3度目は昭和60年代のコンビニエンスストアーの続々の開店です。危機が訪れる度に商店街が一丸となり、1割引特売、商店街夏まつりの創設、スタンプによるディナー招待など、アイデアと工夫で乗り越えてきた。危機をバネにしてきた、われながら、たくましい商店街であると思っている”と書かれている。
交通アクセスによる人の移動変化は小売り商売にとっては極めて大きい。大型スーパーやコンビニの進出は全国同様の地場小売店の共通課題であるが、取り上げた砂町銀座商店街や横浜洪福寺松原商店街もまた、谷中ぎんざと同様乗り越えてきた商店街である。こうした商店街に共通することは、顧客主義に基づいた固有なテーマをもって一丸となったことにある。

テーマによって観光地となる、その集客効果

谷中ぎんざ商店街による来街調査では、平成に入り、谷根千工房による地域メディア戦略が浸透し、谷中・根津・千駄木の界隈が「谷根千」と呼ばれ注目が集まる。平成8年にはNHKのテレビ小説「ひまわり」の舞台となり、11年に商店街外観整備、13年にホームページ開設、18年には日よけの統一や袖看板の設置、さらに20年には猫のストリートファニチャー設置も実施し、商店街の観光や散策の地としての魅力を高めてきた。結果、平成26年の来街者調査では、金曜に約7千人、土曜には約1万4千人が訪れている。平成3年時には平日、休日とも約8千人であったことから、平日は約1割減、休日は7割増え遠くから多くの顧客が来街する商店街となっているとのこと。つまり、ヤネセンというエリアに注目が集まったことによって、平日の来街者(ご近所顧客)は減ったが、休日には多くの観光客が訪れ商店街として活性され、逆に成長したということである。つまろ、観光という変化を巧みに捉えたということである。
谷中ぎんざもそうであるが、観光地化の目安の一つが食べ歩きを含めた食である。砂町銀座もそうであったが、ここ谷中ぎんざも座って食べられるような工夫や食べ歩きしやすい包装など顧客の要望に応えている。そして、更に集客を促進しているのが人であり、砂町銀座ではあさり屋の看板娘(おばあちゃん)であったが、谷中ぎんざも同様で名物の谷中メンチも看板娘が元気に店頭に立って売っている。観光客にとって分かりやすい目印になっているということだ。

訪日観光客の関心事の一つが庶民の生活文化

谷根千の魅力をひと言で言うとすれば「下町レトロ」、つまり旧い街並みだけでなく、庶民の生活文化が残っている魅力のことである。ここ数年、訪日観光客が増えてきたが、それまでも寺町でもある谷根千には春には谷中霊園の桜、5月には根津神社のツツジといった散策に多くの日本人観光客は訪れていた。しかし、数年前から訪日観光客を惹きつけたのはこの庶民の生活文化にふれてみたいという要望に応えたエリアであることがわかる。実はこうしたブーム以前にこの庶民文化を提供してきた旅館が根津にある。
1982年に日本旅館としていち早く外国人の受け入れを開始し、今や宿泊客の約9割が外国人という「澤の屋旅館」である。その澤の屋旅館については以前ブログに取り上げ次のように書いたことがあった。

『ここ数年訪日外国人が泊まるゲストハウスとして注目されている東京根津の旅館「澤の屋」はまさに家族でもてなすサービス、いやもっと端的にいうならば「下町人情」サービスという「お・も・て・な・し」である。これも澤さん一家が提供する固有なサービス、日本の下町文化に絶大な評価を得ているということである。そして、重要なことは澤の屋だけでなく地域の街全体が訪日外国人をもてなすという点にある。グローバル経済、日本ならではの固有な文化ビジネスが既に国内において始まっているということである。』

澤の屋も今は注目されているが、訪日外国人受け入れ転換時は大分苦労されたようだ。英語も都心のホテルスタッフのようにはうまくない、たどたどしい会話であったが、それを救ってくれたのが家族でもてなす下町人情サービスであったとのこと。この家族サービスが口コミとなり、谷根千が東京の観光地の一つとなり、結果澤の屋の今に繋がっていると言うことである。
日本国内ではオタクと蔑まれてきたアニメやコミックがクールジャパンとして海外から高い評価を受け、秋葉原・アキバがその聖地になったように、常に「外」から教えられる日本である。ヤネセンが下町人情のアキバになれるかどうかこれからであるが、もう一つのクールジャパン物語の時代が始まったことだけは確かである。
こうした訪日観光客という新たな市場によって文字通り「観光地」となり、数年前から新たなホテルや和雑貨などの土産物店なども谷根千一帯に誕生している。3度にわたる危機をこの「観光地化」によって乗り越えてきた谷根千・谷中ぎんざ商店街であるが、これも一つの生き残り策と言えよう。(後半へ続く)

追記 人口減少時代の都市論については下記の拙著電子書籍をご一読ください。
「衰退する街 未来の消滅都市論」 Kindle版 ¥291




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Posted by ヒット商品応援団 at 13:17│Comments(0)新市場創造
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