2006年11月01日

◆個人化というストレス社会 

ヒット商品応援団日記No112(毎週2回更新)  2006.11.1.

今年の年頭ブログで混乱の一年になるだろうと書いたが、今いじめによる子供たちの自殺や大学受験のための履修科目の偽装など教育現場が混乱の極みとなっている。更には、親殺し、子殺し、幼児虐待、陰惨な事件も多発している。また、飲酒運転をはじめ、ゴミ屋敷や違法駐輪などの違法行為や迷惑行為が日常となっている。誰もがおかしい社会になっていると実感しているが、なかなか議論が噛み合ない。私はこうした混乱の背景には象徴的に言うと個人化の進行に伴う「家族の崩壊」があると考えている。5月7日号の「家族のゆくえ」で次のように私は書いた。
”ケータイによって、個人から個人へといつでもどこでも瞬時につながり、情報を取り入れることがいとも簡単になった。しかし、同時に情報によって翻弄される「個」でもあった。その象徴例と思うが、たった一人、若い個達は友を求め街へと「漂流する」か、「ひきこもる」ことになる。「夜回り先生」こと水谷修さんが街へと夜回りしながら掲示板を開設するのもこの時期からである。既に、家族は崩壊していた。まだまだ残すべき家族という「過去」があると声をあげて言う人は少なかった。”

結論から言うと、こうした混乱や事件の裏側には、社会の最小単位が個人となり、自己責任という名のもとに「私(生活)主義」が大きな価値観として占めるようになったことによる。よく言われる核家族化とはバラバラ家族のことであり、そこには自分だけがいて他者はいない。戦前あるいは昭和30年代ぐらいまでは家族が社会としての最小単位であった。そこには寺内貫太郎一家ではないが、働き者のがんこオヤジがいて社会への窓口であった。子はオヤジという社会を通して多くのことを学んだのである。今や歌舞伎や伝統を受け継ぐ職人の世界、あるいは結婚や葬儀などの冠婚葬祭時の形式にのみ「家」が存在している。そして、戦後社会では家に代わるものとして会社があり、名刺には肩書きが必ず書かれている。崩壊した家(家父長という階層)の代わりが会社であると指摘をしたのは丸山真男さんであるが、その家の代替物である会社は1990年代半ばから終身雇用制から個人契約制へと変化した。そして、初めて「公的」な私と「個人」としての私の2つの私に向き合うことになったのである。公的とは平易にいうと、世間であり、世間という法のもとで生きることである。しかし、法は常に時代変化の後を追う。また、個人単位の小さな日常にまでは介入しない。幼児を虐待していても親権を立てにするため幼児を社会へと奪い返すことはできない。
あるいは今回の履修科目偽装に見られるように、2つの私の狭間に悩む学校長の自殺、あるいは公という「みんなで渡れば怖くない」式の無責任体系が現出する。個人が2つの私を我がものとするにはまだまだ未成熟である。しかし、一番弱い子供やお年寄りに対して放置してはならない。

江戸時代には大家(おおや)という町の治安や長屋などの共有スペースの運営維持、店子(たなこ)の世話をするコミュニティのリーダーがいた。”大家といえば親も同然、店子といえば子も同然”といわれるように、夫婦喧嘩の仲裁から酔っぱらいの保護にいたるまで重要な役割を担っていた。大家とはその名のごとく大きい家の主であった。江戸の人口は120万人、大家は2万人いたと言われているので、60人ぐらいのコミュニティのリーダーであった。今も残る祭りが町単位で行われるのも、わが町を良くしていこうという競い合いの表現でもあった。介護や育児も町ぐるみで行い、そうしたことを誇りとしていた訳である。今、家族という単位は崩壊し、全ての解決場所が個人になった。いじめる方もいじめられる方も家庭に原因があると指摘する専門家も多い。全てが個人解決になることからストレス社会になるのは至極当然で、それは子供の世界にまで及び始めている。いじめが直接的なストレス社会の産物だとはいわないが、しかし一度立ち止まって考えることが必要だと思う。そんなこころの持ちように詩人の谷川俊太郎さんが一つの示唆をしてくれている。これは糸井重里さんが主催する「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で読者であるお母さんと子供のやりとりに答えたものである。

【質問六】
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)
追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした
   質問です。目をうるませながらの質問でした。
   正直、答えに困りました〜
   
■谷川俊太郎さんの答え
ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

「アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね」と答える谷川俊太郎さんの温かいまなざしに多くの人は共感すると思う。アタマという言葉を理屈という言葉に置き換えても、ココロを素直にと置き換えても、カラダを行動すると置き換えてもいいかと思う。そして、この答えはお母さんに対してだけではない。教育者にも、社会に対してもである。(続く)

追記 前号で福岡県岡垣町の「野の葡萄」についてレポートしますとお知らせしましたが、代表の小役丸さんはじめ素敵な方々と出会い、常に行列ができる店の心髄にふれさせていただきました。中途半端になることもあり、ブログではなく、きちっとした形にてレポートさせていただきます。

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Posted by ヒット商品応援団 at 13:42│Comments(0)新市場創造
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