2016年06月19日

◆転がる石

ヒット商品応援団日記No650(毎週更新) 2016.6.19.

タイトルの「転がる石」は、2002年阿久悠が作詞し石川さゆりが歌った曲である。
歌い始めには、十五は胸を患って、咳き込むたびに、血を吐いた、・・・・・という少々おどろおどろしい詞であるが、阿久悠には同名の小説があり、自伝的な内容となっている。胸を患って生き方を変えざるを得なくなった高校時代から、上京し、大学から広告代理店時代へ、そして放送作家から最初の詞を書くまでの小説である。その小説の中で口ずさむ歌として、

転がる石はどこへ行く、
転がる石は坂まかせ、
どうせ転げていくのなら、
親の知らない遠い場所・・・・・

その小説のフレーズを元にしたのが「転がる石」である。この曲を石川さゆりが歌う30年近く前に、あの大ヒット曲「津軽海峡・冬景色」を18歳の少女であった石川さゆりに歌わせている。「転がる石」は阿久悠の晩年の作詞である。自分も転がる人生であったし、転がることを嫌がって、立場や過去に囚われてしまったら、苔むす石になってしまう、後年自分も石川さゆりも転がり続けてきたと語っていた。

なぜ「転がる石」を思い出したかというと、今回の舛添狂騒劇の渦中の人物舛添要一は最後の最後まで違法ではなかったと非を認めず、しかも都民に向き合い謝罪することなく、6月21日をもって都知事を辞したというまさに転がる石となったことにある。恐らく、9月までは守ってくれりであろうと思っていた自民党から不信任案へと舵を切ったこと、はしごを下されたと指摘した政治ジャーナリストがいたが、舛添要一本人にとっては無念のうちに都庁を去り、坂を転げることになったということであろう。ジャーナリスト田原総一郎氏はそんな様を過剰なまでの自信によるものだと喝破したが、結果としては「転がる石」となった。しかし、前回のブログにも書いたが、TVによる虚像としての「舛添要一」ではなく、TVカメラの向こう側にいる都民にその実像としての舛添要一を見せて欲しかったと思う。

「転がる石」と言えばもう一人いる。それはあの清原和博である。覚せい剤取締法違反については「思い起こせ、甲子園の詩を」にも書いたのでその「転がる石」の経緯についてはここでは書かない。ただ裁判においてハマの大魔神佐々木主浩氏が情状証人として出廷し、清原和博との出会いなど「友人」としての思いを述べていた。そして、一緒に野球を通じた更生の道を探っていきたいとも。恐らく、共に野球をやってきた仲間の一人である桑田真澄氏も同様であろう。

ところでこうした「仲間」「友人」とのエピソードは誰にでも持っているはずであろう。例えば、そんな事例の一つとして、1970年代フォークのカリスマと呼ばれ一時代を築いた吉田拓郎にも「転がる石」はあった。アマチュアバンドからインディーズレーベルの契約社員へ、そして1972年CBSソニーに移籍し「結婚しようよ」が大ヒットする。1974年度の納税分では、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる。しかし、その後周知のように仲間と共に立ち上げ所属するフォーライフは大赤字となり、解散へと向かう。そして、吉田拓郎は曲を書けなくなるのだが、1970年代から交流のあった中島みゆきから『永遠の嘘をついてくれ』という曲が提供される。その時のエピソードだが、これ以上曲は書けないという拓郎に対し、一つだけ条件をつけ、これからも曲を書きミュージシャンとしてやってくれるならと、作詞作曲したと言われている。どこまで本当かわからないが、2006年9月の嬬恋コンサートで特別ゲストとして中島みゆきがこの『永遠の嘘をついてくれ』を拓郎と歌っていたが、これも「仲間」であればこその世界で、拓郎フアンもみゆきフアンもよく知られたエピソードである。

「転がる石」の意味合いを阿久悠は次のように「甲子園の歌 敗れざる君たちへ」(幻戯書房刊)で書いている。

『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』

これが勝者のみならず、いや転がる石となった敗者であればこそである。清原和博の場合、野球を通じた「友人」がいて、吉田拓郎にも中島みゆきがいるが、舛添要一にはそんな「友人」はいるのであろうか。30年来の付き合いであり、「朝まで生テレビ」に登場させた田原総一朗氏はインタビューに、そんな友人がいるとは聞いたことがないと答えていた。しかし、舛添要一が転がることを止め、苔むすことはないと思う。清原和博は麻薬から更生し、好きな野球を通じ、少年野球を目標に貢献してくれるであろう。吉田拓郎もその後肺がんになる迄音楽活動を続けてきた。舛添要一がどんな転がりを見せるか、まずは身近にいる支援者へのお詫び行脚から始めると思うが、もし政治家としての道を再び歩むこととなれば、出版とか、インタビュー記事などではなく、記者会見で都民に向かって直接自分の言葉で疑惑の説明更には「次」の坂道を話してほしい。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:46Comments(0)新市場創造