2015年05月10日

◆未来塾(16)「テーマから学ぶ」聖地巡礼 2つの原宿(前半)

ヒット商品応援団日記No613(毎週更新) 2015.5.10.

今回の未来塾のテーマは誰でもが知っているおばあちゃんの原宿巣鴨とげぬき地蔵尊と本家ティーンの原宿竹下通りを選んでみた。今回のテーマを「聖地巡礼」としたが、全国から信者・フアンを集めるという意味では共に「2大観光地」と言える。世代が全く異なる信者・フアンの聖地にも関わらず、その集客に共通する点が見事なくらい多い、そうしたことを含め2大観光地の構造を読み解いてみることとする。





      
「テーマから学ぶ」

聖地巡礼

おばあちゃんとティーンの原宿


写真左は年間800万人以上が参詣する「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている巣鴨とげぬき地蔵尊の「洗い観音」の写真である。一方、右の写真は若い世代では知らない人はいない、そして今や世界においてもアニメやコミックと共にクールジャパンの一つとなっている原宿ファッションのランドマーク・ラフォーレ原宿である。
今回のテーマを「聖地巡礼」としたが、全国から信者・フアンを集めるという意味では共に「2大観光地」と言える。ここ1年ほど多くのエリアや商店街をレポートしてきたが、共通する成功要因そのマーケティング着眼の一つは「観光地化」であった。興味関心事を楽しむ、その地に行かなければ得られない観光行動を促す試みが観光地化である。前々回のヤネセン(谷中、根津、千駄木)は広域エリアを観光地化させることによって、谷中ぎんざ商店街の集客数を倍増させ商店街の危機を脱することができた。また、前回の上野アメ横においては、年末の正月食材の売り出し以外の「次」の観光地として「夜市」の可能性について着眼した。今回はおばあちゃんとティーンの聖地、2大観光地の構造、世代が全く異なる信者・フアンの聖地にも関わらず、その集客に共通する点が見事なくらい多い、そうしたことを含め読み解いてみることとする。

ところで厳密な意味での「聖地巡礼」は宗教・信仰の対象となる本山、拠点となる寺院や神社を指す。数年前の日経新聞による調査によれば「巡礼の道」のランキングでは、第一位熊野古道、第二位四国八十八カ所、第三位お伊勢参りとなっているが、シニアのウオーキングブームを背景に厳しい修行にのぞむ修験の道もあれば、温泉に入ったり美味しいものを食べたりしながら寺社を巡る観光ルートもある。そうした意味合いを踏まえ、今や「聖地」という語の転用=拡大として心惹かれる特別な場所を聖地と呼んでいる。例えば、スポーツにおいては高校球児にとっては甲子園球場は高校野球の聖地になり、テニスであればウインブルドンとなる。更にはアニメやコミックのオタクにとっては秋葉原・アキバが聖地となる。
聖地には心ふるわせる「大いなるもの」の存在があり、その聖地を訪れ巡礼することでこころは安らぎ、癒され、何かを得て元気を取り戻すのだが、そんな巡礼の風習、いや生活の知恵を古来から日本人は持っていた。
今回の学びとしてのテーマは「どのように聖地」がこころの中で創造されてきたか、2つの代表的な聖地の事例、おばあちゃんの聖地とティーンの聖地を取り上げ、こころを魅きつける「大いなるもの」はどのように創られ人から人へと伝わり広がってきたか、その神話化の構造をマーケティングの視点をもって学んでみることとする。

歴史と伝説

ところで残された正確な史実に基づく歴史もあるが、そこからこぼれ落ちてしまう事実もある。学問の分野から言うと民俗学や社会学の領域になるのだが、こぼれおちてしまうものの一つが「伝説」やその先にある「神話」である。こうした領域をテーマとした一人があの柳田國男である。その柳田は口承伝承で伝えら れた過去についての言い伝え・語りを「伝説(傳説)」と呼び、その「歴史」との近さと遠さを考えよ うとした研究者である。その「伝説」であるが、文字によって固定される史料に拠るわけではないので、時間 を超えた「語り継ぎ」のあいだに入る人々それぞれの様々な思いや解釈によって少しづつ変わってくる。伝言ゲームではないが、語り継ぎがされるあいだに、様々な演出や脚色がなされる場合もある。しかし、「伝説」は、「むかし昔あるところに、○○であるそうな」のように、時期や場所、人物を 特定しない形式で語られる「昔話」よりは「歴史」に近い。「歴史」ほど厳密ではないが「伝 説」にもそれ固有の意味を持っている。

聖なる場所との関わり方

日本人には神仏という聖なるものとの関係を表す言葉として「縁」がある。縁には神仏のような見えざる世界との関係性として、例えば今も続いている寺社での縁日は、こうした聖なる神仏が降りてくる有縁の日という意味で縁日がある。
日本人の縁の結び方の特徴は寺社や聖なる場所を見ればよく分かる。私が好きな沖縄にも世界遺産でもある斎場御嶽(せいふぁうたき)という聖なる場所がある。神々の島と呼ばれている沖縄であるが、神が降り立ってくる場所が御嶽で、そこには形あるものは何一つ無い。つまり、神はこころの中に降りてくる、という心性世界をよく表している。斎場御嶽の先には、神々の島・久高島があり、その先東の海にはニライカナイという他界があるとされている。つまり、辺界、この世とあの世との境界に斎場御嶽はあるということだ。

□おばあちゃんの聖地、巣鴨とげぬき地蔵尊




とげぬき地蔵尊のある高岩寺は約400年前江戸時代に創建されたお寺で本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵の通称で知られるお寺である。実は歴史のあるお寺であるが、巣鴨には1894年に神田湯島から移転し、戦災で全焼し1957年(昭和32年)に再建されたものである。
ある意味空白の時間を経て今日があるのだが、そのとげぬき地蔵には語り継がれてきた「伝説」がある。その伝説となるコトの起こりについて高岩寺のHPに次のように書かれている。「高岩寺地蔵尊縁起霊験記」より

『正徳3年5月(徳川七代将軍家継の治世)、江戸小石川に住む田付氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、一人の男児を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。諸所の医者が手をつくしたが、病気は悪化の一途。彼女は生家に宿る怨霊によって女はみな25歳までしか生きられないという父母の話を夫に伝えた。
田付氏は悲しみの中に、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかはないと毎日一心に祈願を続けた。 ある日のこと田付氏の夢枕に一人の僧が立ち「自分の形を一寸三分に彫って河水に浮かべよ」という。田付氏が「急には彫り難い」と答えると「お前に仏像をあたえよう」といわれ、夢がさめた。不思議な夢と枕元をみると、木のふしのようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。
田付氏は夢にあった通りと不思議に思いつつも、地蔵尊の宝号を唱えながら形を印肉にしめして一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ、一心に祈った。
その日の夜午前2時頃、田付氏は妻の呼ぶ声にいってみると「今夢うつつの中に男があらわれ、長い棒と籠のようなものを持って枕上に立ちました。すると香染の袈裟をつけた一人の僧が出て来て蚊帳の外に引き出し、次の間で錫杖で背中をついて追い出してしまいました」といった。
このことがあって以来田付夫人の病気はしだいに快方に向かい、11月中旬には床をはなれ、以後無病になった。
田付氏がこの霊験を山高氏の家で話していると、一座の中に西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ、二枚をあたえた。西順は毛利家に出入りしていたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲み込んで大いに苦しんだ。西順が持っていた地蔵尊の御影一枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲み込んだ針がささって出て来た。(享保13年7月17日=八代将軍吉宗の治世、田付氏が自ら記して高岩寺に奉納された霊験記の一部。)』

江戸時代までは神を祭るのはほとんどが時の権力者によってであった。しかし、江戸時代になると八百万の神の国と言われるように多くの神仏が身の回りにいて、特にお地蔵さんは「人に近い仏様」として親近感をもって受け止める庶民信仰の対象となっていた。
例えば、「蕎麦食地蔵」(九品院/練馬区)の場合は、客の来ないそば屋がお地蔵さんにそばを供えたところ翌日小僧さんがそばを食べにきてくれて以降繁盛したという。ただ、いつも小僧さんが支払ってくれるのは古銭ばかり、不思議に思った店主がお地蔵さんのところにいくと、お地蔵さんの口にはそばのかすが残っていたという。お地蔵さんへのお賽銭をとっておいて、そば屋の支払いに充てた、そんなお地蔵さんである。他にも、「田植え地蔵」あるいは「道祖神」もそうであるが、「とげぬき地蔵」が今なおおばあちゃん達の庶民信仰としてつながっているのもこうした庶民の力になってくれる身近な仏様であったからであろう。

おばあちゃんのパワースポット「洗い観音」

更に、そうした信仰を広く厚くしたのが、高岩寺にある「洗い観音」の存在である。その「洗い観音」であるが、江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1657年)で、檀徒の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進した。

この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしか生まれる。これが「洗い観音」の起源と言われている。とげや針ばかりか、老いると必ず出てくる体の痛みや具合の悪いところを治してくれる、そんな我が身を観音様に見立てて洗うことによって、観音様が痛みをとってくれる。そんな健康成就を願う、まさにおばあちゃんにとって身近で必要な神事・パワースポットとしてある。写真のように観音様を洗うために多くの人が列をなしている。おばあちゃんの聖地の起源は「老い」という身近で日常の中にある不安を取り除いてくれるこころのお医者さんかもしれない。
ところで、高岩寺本堂には本尊の地蔵菩薩像(延命地蔵)は秘仏のため非公開となっている。そして、本尊の姿を刷った御影(おみかげ)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどしても、病気平癒に効験があるとされているが、「洗い観音」は「洗う」という分かりやすく実感できることから、TV報道は「とげぬき地蔵」を代表するものとして「洗い観音」を取り上げ、次第に「とげぬき地蔵」=「洗い観音」のようなイメージが全国において定着していく。
聖地巡礼という視点に立てば、ご本尊が「裏」(見えざる世界)とするならば、「洗い観音」は「表」(見える世界)という2重の構図となる。

□ティーンの聖地、原宿竹下通り&ラフォーレ原宿




ティーンの聖地としての起源はいつから始まったのか、ファッショントレンドの発信という視点に立つと、それは1972 年に地下鉄・明治神宮前駅が開業し、70 年代にMILK、ビギ、原宿プラザ(マンシ ョンメーカーのショップ)の開業頃であると思う。そして、原宿から千駄ヶ谷にかけてマンションメーカーが 集まり、更に大手アパレルメーカーである 樫山、レナウン、東京ブラウス、東京スタイルなどもこの原宿エリアに集まる。そして、1978年にラフォーレ原宿がオープンする。
こうしたファッション集積のなかでもやはり伝説のひとつとして熱心なフアンに語り継がれているのがMILKであろう。1970年4月に原宿セントラルアパートの片隅に洋服好きの姉妹が立ち上げた小さな小さな店である。周知のレース、リボンなどが多用されたティーンが夢見るようなロマンテイックな服である。そのMILKは次のようにその誕生を語っている。(HPより)

それは1970年のできごと。
雲が見えないくらい高い空の上で、
神様はちょうど朝食を食べ終わり、牛乳を飲んでいました。
ポトッ、ポトッ… 神様は手をすべらせ、原宿の街に牛乳をこぼしてしまいました。
「これは、いけない!」と思った神様は、そのこぼした場所を
女の子の為の“MILK”というステキなお店にしたのです。


私たちの言葉で言うと、コンセプトストーリーとしてショップネーミングの由来を通し見事に誕生物語が語られている。ファッションは特にそうであるが、あのシャネルも創業当時周りのファッション業界人からは奇人変人扱いされてきた。例えば、当時のヨーロッパ文化のある意味破壊者で、丈の長いスカート時代にパンツスタイルを生み、男っぽいと言われながら、水夫風スタイルを自ら取り入れた。肌を焼く習慣がなかった時代に黒く肌を焼き、マリンスタイルで登場した。そして自分がいいと思えば決して捨て去ることはなかった。MILKもその誕生については衝撃的であったと言われている。以降、「銀座三愛」、「鈴屋」、「マミーナ」といったブランドのなかでストリートファッションとして際立つセンスであった。

1980年代に入ると社会現象として話題になった竹の子族が原宿の歩行者天国に出没する。実は「竹の子族」という名称は竹下通りにある「ブティック竹の子」で購入した服を着て踊っていたことが由来の一つと言われている。その竹の子族の影響もあって、竹下通りは更に原宿ファッションの代名詞として発展する。そして、話題が原宿竹下通りに集中することとなり、ファッション情報を発信する先端メディアの街としてスタートする。

雑誌メディアの創刊が新しいファッションを後押しする

そして、こうした新しいファッションという自己表現をサポート・促進したのが新しく生まれたメディア群、特に雑誌であった。創刊されたばかりのファッション雑誌「アンアン」や「non-no」により原宿が紹介さ れ、「アンノン族」が街を闊歩し、原宿はファッションの中心地として全国的な知名を手に 入れることとなる。

そして、1980年代に入り一挙に雑誌ブームが到来し、 200を超える雑誌 が創刊される。「25ans(ヴァンサンカン)」婦人画報社、「写楽」小 学館、「miss HERO」講談社、「コスモポリタン」集英社、「ブルー タス」平凡出版(現・マガジンハウス)、「Big Tomorrow」青春出版社など。そして、翌年以降も、「ウィズ」講談社、 「FOCUS」新潮社、「ダ・カーポ」平凡出版、「Can Cam」小学館、「オリーブ」平凡出版、「ELLE JAPON」平凡出版、「マリクレール」中央公論社。更に女性誌創刊ラッシュが続き、 「ViVi」講談社、「LEE」集英社。
こうした女性誌の創刊は1980年代後半にも具体的な商品紹介をテーマとし、再びブームが起きる。
「She’s」主婦と生活社、「Caraway」文化出版局、「Hanako」マガ ジンハウス、「B-TOOL マガジン」ナツメ社、「Goods Press」徳間書店、「Begin」世界文化社。「Miss 家庭画報」世界文化社、「Caz」扶桑社、「CLiQUE」マガジンハウス、「ヴァンテーヌ」婦人画報 社、「SPUR」集英社、「ル・クール」学研、「CREA」文藝春秋、「any」西武タイム、「SAPIO」小学館、「サライ」小学館、「ガリバー」マガジンハウス、など。
ところで、当時の原宿ファッションを始めとしたサブカルチャーを紹介してきた宝島社が昨年12月新たな季刊誌「宝島エイジズ(AGES)」を発行した。その第一号にはRCサクセションやザ・ブルーハーツ、ラフィンノーズなどの80年代に名を馳せたミュージシャンをはじめ、ファッションブランドでは「ミルク(MILK)」や「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」などをフィーチャーしている。この再創刊にように今なお「伝説」が語り継がれているということである。

新しい文化の発信・裏原宿
ラフォーレ原宿のフロア構成に原宿ファッションの特徴が良く表れている。その代表に上げられるのがラフォーレミュージアムで「今」を映し出すイベントがオープン当初から行われてきた。最近では電子音楽のミュージシャンによるコンサートはもとより、チョット変わったところでは2014年には「東京チョコレートショー2014」が開催され、日本を代表するスイーツ・チョコレート店Ash Tsujiguchiやケンズカフェ東京など、20店舗以上が出店。有名ショコラティエが作るパンケーキやソフトクリームなど、ここだけでしか味わえないイベント限定商品も販売するといった具合である。もう一つの特徴が「LIMITED SHOP」という期間限定のショップで、その途切れることの無い出店である。つまり、小さな「変化」を発信する、そしてインキュベイトさせるそんな仕組みが当時から持っていた珍しいSCである。

そして、1990年代後半には、こうした最先端ファッションと共に生まれたのが「裏原」と呼ばれるファッションであった。「表」がメジャー・表通りであるのに対し、「裏」はマイナー・裏通りという構図である。前者は、例えば表参道にはシャネルを始め海外有名ファッションブランドの旗艦店が続々とオープンしたり、最近ではH&Mやフォーエバー21といったファストファッションの店も明治通沿いに並ぶ。そのかたわら、NIGOが神宮前四丁目にBAPEをオープンさせ、二丁目や三丁目界隈更にはキャットストリート(渋谷川跡)には新たなファッショントレンドの店が並び、「裏原宿」と呼ばれる一角が形成される。写真のショップはSevensであるが、70%もの商品は777円で収まるというティーンでも手が届く店も生まれる。次々と生まれる新しい芽、裏原宿一帯は「次」を産む、インキュベーション地帯となり、世界に発信する聖地となった。

しかし、2000年前後に生まれた裏原ファッション主にストリート系、ヒップホップ系のブランドは2000年代半ばにはその成長にかげりが見られるようになる。店がオープンする前に行列ができ、商品を並べると同時に売れていく、そうした「裏原」ファッションはブームという曲がり角を迎える。その最初の破綻が2000年に創業した「スワッガー」の自己破産であった。そして、更に曲がり角を広く知らしめたのが、2011年1月末に裏原宿系の人気ブランド「ア ベイシング エイプ」を手掛けるノーウェアが資金難から、セレクトショップを運営する香港企業に買収された一件であった。そして、ストリート系からトラッドへとテイストが変わっていくと。(日経ビジネスオンラインより)
「ブーム」は基本的には一過性で、渋谷109の代表的ブランドである「エゴイスト」の鬼頭社長にインタビューしたときも、この「一過性」の恐ろしさを指摘していた。そして、ブームは終わり裏原で育った若いデザイナーは次へと向かっているようだ。結果どのようなテイスト・スタイルのファッションが原宿に集積されたか、一言で言えば、ストリート系からファストファッションまでとなる。

・インポートスーパーブランド
・原宿アメカジ系
・裏原系
・セレクト系
・原宿ギャルスタイル系
・古着系
・ガーリースタイル
・ゴスロリ系
・ロック系などのハードファッション系
・不思議な世界観を持つ妖精系
・手作りファションを楽しむ手づくり系・リメイク系
・更にはファストファッションまで
上記は原宿ファッション大好き人間がネット上で整理してくれたものである。裏原のブームは終わったが、これだけ多岐にわたるファッションテイストが混在して成り立っている街は銀座にも、新宿にも、渋谷にも、勿論世界のどこを見てもない、原宿固有のファッション集積となっている。

2010年代に入り、それまでの表と裏の関係は混在しているというのが原宿の「今」の構図である。秋葉原・アキバもそうであるが、メジャーな出版会社や映画製作会社による書籍文化や映画文化に対し、マイナーなプロダクションによるコミックやアニメ。前者が「表」のカルチャーであるのに対し、後者が「裏」のカルチャーである。その「裏」カルチャーの代表作である「新世紀エヴァンゲリオン」が1995年に生まれ、今や「表」も「裏」もが集積する秋葉原・アキバになり、世界中からそのオタクとその予備軍たちを集める聖地になったことは周知の通りである。そうした意味で、原宿も混沌さはあるものの、その本質は表裏渾然とすることから生まれるエネルギーによって、新しい市場、新しい顧客層を獲得しつつあると言えるであろう。

□現代の新たな聖地
今から7年ほど前になるが、白米あきたこまちの包装に美少女イラストを起用してネット通販で売り出したことがあった。初めてということもあって、数ヶ月で2500件、30トンものあきたこまちが売れ、その萌え米誕生の地である、秋田県羽後町に若い男性が押し寄せ、マスメディアもその反響の大きさを報じたことがあった。その後、羽後町で生産される農作物に美少女イラストの包装がなされ販売されているが、その後の売れ行きはどうであろうか。実は売れたのは美少女イラストであって、あきたこまちではなかった。美少女イラストのオタク達が追跡したのがその聖地、誕生の地羽後町であった。ネット上という仮想現実世界からリアルな世界へとトレースする一種の聖地巡礼=実存という意味の確認であったということだ。
そして、聖地巡礼というキーワードでネット上を検索するとそのほとんどがアニメ誕生の地への巡礼となっている。そうした聖地を巡礼する若者の数は年間100万人に上るといわれ、地方都市に予期せぬ経済効果をもたらしている。そうした事例を確か3年ほど前にNHK「クローズアップ現代」がレポートしている。
虚構(アニメ)と現実(誕生の地)を行ったり来たり(巡礼)、どのように作られたのかという一種の推理ゲームのようなもので、アニメのもう一つの楽しみ方という見方もある。どのように作られていくのか、誕生の地で実感・共感していくことで、更に虚構の世界へと没頭していく、そうした楽しみ方ということである。

例えば、こうした楽しみ方は地方で売られているファッションも、誕生の地である裏原宿の本店で売られている同じファッションとは異なるものとなる、誕生の地を体験実感することでファッションもまた変わってくるということである。写真は3月の春休みの竹下通りの雑踏ぶりである。前回レポートした上野アメ横の年末の雑踏以上の凄まじさである。その多くは女子小中学生であったが、付き添いの両親とおぼしき40代の男女も多く見られた。
また、ビジネスのグローバル化に伴い多くの外国人が日本での仕事を選び訪日している。その多くがアニメなどクールジャパンの影響を受けており、日本に職を求めるのも、そうした誕生の地での職場という一種の「聖地」巡礼と言えなくはない。こうした訪日外国人の多くは日本の精神文化へのあこがれによるものであり、その結果オタク化した多くの外国人が日本のビジネスに携わる、あるいは日本で生活するようになる。つまり、日本が聖地になるということである。
(後半へ続く)






  


Posted by ヒット商品応援団 at 10:25Comments(0)新市場創造