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2014年03月31日

◆未来塾(3)「街から学ぶ」吉祥寺編

ヒット商品応援団日記No575(毎週更新)  2014.3.31.

今回の「街から学ぶ」では吉祥寺という都市を選んでみた。周知のように数年前から「住んでみたい街NO1」の街であるが、その理由は単なる緑の多い郊外といったイメージからではない。結論から言うと、吉祥寺は「マーケティングされた街」の一つのモデルとしてある。今回はそのマーケティングについて学んでみたい。



「街から学ぶ」

時代の観察

吉祥寺

1、住んでみたい街NO.1


人口減に悩む地方自治体にあって着実に30歳代の働き盛りを中心に人口を伸ばしている自治体の一つが千葉県流山市である。その流山市にマーケティング課が設置され、民間の手法を活用した「流山ブランド」づくりに注目が集まっている。実はこうした手法を踏まえた先駆的自治体が武蔵野市吉祥寺である。ここ数年東京で住んでみたい街ランキングを聞いたところ、自由が丘や二子玉川を抜いてNO.1となっているのが吉祥寺である。ある意味、吉祥寺は暮らしのブランドとして確立したということができる。
この写真は武蔵野を代表する井の頭公園から見たマンションである。都心からわずか10数分という至便な立地でありながら緑の多い住環境となっている。
こうした住環境を一番求めているのが30歳代の子育て世代である。そして、この子育て世代が暮らすうえで不可欠としているのが保育所の整備である。横浜市が待機児童0(ゼロ)を達成し話題となっているが、人口14万人ほどの武蔵野市は既に数年前から待機児童0を達成し、現在は自宅近くの保育施設への移動待機児童300名余を解消する段階へとすすんでいる。
こうした背景には自治体による長年にわたるマーケティング努力がある。
なんでもランキングではないが、全国自治体の「富裕度ランキング」という指標がある。「財政力指数」「1人当たりの地方税収」「納税者1人当たり課税所得額」この3つの分野を総合したものであるが、ここ数年は次のようなランキングとなっている。
第1位;武蔵野市(東京)
          浦安市(千葉)
          みよし市(愛知)
第4位;刈谷市(愛知)
第5位;調布市(東京)
浦安市は東京ディズニーリゾート、武蔵野市は吉祥寺という全国トップクラスの商業集積を擁しているうえ、いずれも市内には高所得層が居住する住宅街がある。みよし市(愛知)は、トヨタ自動車の工場と関連企業が立地しており財政面では恵まれた環境にある。

2、少子化を脱皮する街

待機児童0とはどのような変化をもたらすか、その直接的な変化とは今日の最大課題である「少子化」からの脱却である。武蔵野市も他の都市と同様に、平成 12(2000)年から 17(2005) 年にかけて 900~950 人程度の水準の出生者数で微減であった。ところが平成 18(2006)年を境に 1,000 ~1,050 人水準へと急激に増加した。なかでも 30 歳代の母親からの出生者が増加しており、出生構造が変化している。つまり、少子化に歯止めがかかったということである。
武蔵野市域では平成 16(2004)年に「サンヴァリエ桜堤」「デライトシティ」、平成 20(2008) 年には「桜堤庭園フェイシア」と大規模な住宅開発が続いており、住宅の1次取得者層に あたる 30 歳代人口の大量転入があった。結果、出生者も増加したということである。これらのファミリー向けマンション取得者層は、出産に対する意欲も平均よ り強いと想定され、他市区町村の例もみても、この層が出産可能年代に留まる数年の間は、 合計特殊出生率も一時的に高まる場合が多い。
こうした戦略的な住環境整備の他にも、0歳から3歳の子育て支援施設である「0123吉祥寺・はらっぱ」や農村漁村と協力し子どもたちが授業の一環として自然体験をするセカンドスクールなどを早くから実施してきた。特に子育て支援としての「0123吉祥寺・はらっぱ」は、親子でいつでも自由に来館し、楽しく遊び、子育てについて学びあう施設で、いわばコミュニティ広場となっている。

バブル崩壊後は他の都市と同じように商業は低迷

1990年代初頭のバブル崩壊の波は武蔵野市も例外ではなかった。都心から近い郊外住宅地である吉祥寺はまさに1970年代の生活者心理、一億総中流の象徴的な街であった。そのライフスタイルをリードしてきたのが百貨店であった。
1970年代の吉祥寺には3つの百貨店があった。オープン順にいうと、
■1971年伊勢丹吉祥寺
■1974年近鉄百貨店東京店
■1974年東急吉祥寺店

今なお苦戦が続く百貨店であるが、吉祥寺においてはその商業業態の転換がドラスティックに行われている。その業態転換の結果として
□1971年伊勢丹吉祥寺→2009年コピス吉祥寺(ショッピングセンター)
□1974年近鉄百貨店東京店→2001年吉祥寺三越+大塚家具→2006年ヨドバシカメラ
□1974年東急吉祥寺店→継続
ライフスタイルを文字通りリードしてきたのが百貨店であった。1980年代初めの頃であったと思うが、西武百貨店が「おいしい生活」という広告キャンペーンを展開し、話題になったことがあった。糸井重里氏によるコピーであるが、「おいしいことに理由はいらない。好きか嫌いかがテーマ」だとする、つまりマス市場を構成する中流層がモノ消費の舞台の中心にあることを前提とした広告キャンペーンであった。ある意味、生活者はモノの豊かさ、おいしい生活を求め百貨店へと足を運んだ。こうした百貨店という業態が右肩上がりに成長していく市場情況とパラレルな関係であった。つまり、百貨店がライフスタイル創造のリード役、シンボル的役割を果たしていた。

3、生活価値観転換への対応

バブルの崩壊によってそれまでのライフスタイルの根底にあった多くの価値観及び中流意識が崩壊する。いわゆる不動産価格は下落しないといった神話を入り口に、大企業神話、金融神話、終身雇用神話、多くの神話崩壊と共に、国内における産業の空洞化、グローバル経済化が始まり、1998年以降収入も減少へと向かう。消費現場ではユニクロや吉野家を筆頭に「デフレの旗手」が表舞台へと上がっていく。こうした傾向と共に、「違い」を求めた個性を売り物とした専門店群も出現する。この時代のライフスタイルをリードした流通はこうした多様な専門店を編集したSC(ショッピングセンター)であった。より独自な専門領域に特化したライフスタイル提案を行う。しかし、かたわらに神話崩壊による不安を抱えながらの「個性生活」、「上質な生活」がキーワードであった。
ライフスタイル変化としては、「おいしい生活」から「上質な生活」を経て、今「お得生活」が広がっている。つまり、「お得」であることへの知恵や工夫、アイディアが求められているということだ。消費の変数それぞれに「お得」であるかを加えて検討してみるということである。その「お得」は経済ばかりでなく、時間や便利さといったお得もある。その「お得」がどんな消費の移動を起こさせるものなのか、新たな隙き間市場として創造できるものなのか、マーケティングのストーリーを考えてみることだ。
吉祥寺の街、商業施設を見ていくと、生活価値観の変化を物の見事に反映した商業施設の編集となっている。

4、街をマーケティングする吉祥寺


こに「吉祥寺の魅力に関する調査」(平成15年9月)という武蔵野市が行った吉祥寺来街者調査がある。吉祥寺を含めた商圏における吉祥寺の魅力を明らかにするための調査である。民間企業、大型商業施設が開発を行うためには必要な調査であるが、行政がここまでの調査を行うのは珍しい。
ところでその結果の一つが武蔵野市による再開発事業としてあった伊勢丹撤退後の核テナントの誘致であった。顧客要請としては過剰な百貨店業態からの転換で、まず求められていたのがショッピングセンター(SC)という業態であった。そして、入札コンペが行われコピス吉祥寺として今日に至っている。

エリア間競争を勝ち抜く戦略

中央線沿線の商業集積度を見ていくと、西の立川には大型商業施設として伊勢丹、グランデュオ立川という2つの百貨店と立川ルミネというSCが多摩地区集客の磁場を形成している。吉祥寺は距離的には都心新宿に近いが、意味的には中央線の真ん中にある街である。通常のマーケティングの考え方とすれば、何もしなければ新宿と立川という2つの強い磁場に吸収されてしまう。

実はこうした商環境を超える戦略の一つが「専門量販店」の集積である。左の写真は近鉄百貨店撤退後にオープンした家電量販のヨドバシカメラである。その他にも吉祥寺駅井の頭公園口には手芸量販のユザワヤ、雑貨のロフトや無印良品、コピス吉祥寺には圧倒的な書籍数を有するジュンク堂書店、ブームとなっている登山やハイキングの集積度の高い石井スポーツ。こうした専門量販店と共に、以前から図抜けた食品専門店の集積を行っているJR吉祥寺駅のアトレ(旧吉祥寺ロンロン)や東急百貨店のフードショーがもう一つの集客磁場となっている。これがエリア間競争に勝っていく一つの戦略である。「専門量販店」というとその物量パワーに注目するが、裏返せば「テーマ」を持った専門集積と言ってもかまわない。つまり、エリア間競争とはテーマ競争ということである。

5、情報発信する街:ファッショントレンド


都市の魅力の一つが常に変化するその鮮度にある。「新しい、面白い、珍しい」、そうした魅力を吉祥寺は有している。そのなかでも時代の鮮度を一番表しているのがファッション専門店である。その中心にあるのがパルコであろう。住みたい街NO.!の吉祥寺には30歳代の子育て世代のみならず、20歳代の若者の流入も多い。その理由の一つが常に新しいトレンドを発信している商業があるからである。

東急百貨店裏にはインテリア雑貨などの小物を扱う小洒落た専門店が数多くあり、それらの店に並ぶようにおしゃれなカフェが通りを飾っている。あるいは桜を始め、四季が楽しめる井の頭公園に向かう通りには、世界各国から集めてきた雑貨専門店や古着ショップが並び、ここでもそうした通りにマッチしたカフェが若い世代を楽しませている。つまり、若者同士がドラマの1シーンではないが、歩いて絵になる街並がいたるところにあるということである。

6、情報発信する街:戦後の闇市が今なお残る路地裏


吉祥寺駅北口から一歩入るとタイムスリップしたかのような商店・飲食店街が密集している路地がある。ハモニカ横丁と愛称されているが、そのハモニカの如く狭い数坪の店が並んでいる。餃子のみんみんのように、地元の人から愛されてきた店も多いが、一種猥雑な空気が漂う横丁路地裏にあって、なかにはおしゃれは立ち飲みショットバーや世界のビールやワインを飲ませるダイニングバーもあり、若い世代にはOLD NEW(古が新しい)といった受け止め方がなされている、そんな一角がある。人の温もりがするどこか懐かしさのある路地裏飲食街である。
活力ある街は必ず相反する2面性を持っている。例えば、秋葉原にはスマホなどのアプリ開発をするIT企業が入居する高層ビル群とそこに働くサラリーマンやOL。一方、周知の萌えといった感性人間が集まるオタク達が来街するアキバという街。そこにはメイドカフェやAKB48シアター、あるいはガンダムカフェがあり、全国からオタク達を集客しているように。
この都市がもつ「2面性」という整理軸で吉祥寺の特徴を整理すると、パルコを始めとした時代の流行であるファッショントレンドを発信する表通り散策メディアと人が行き交う闇市の猥雑さや懐かしさを感じる路地裏散策メディア。こうした異質さが交差する街、それが吉祥寺である。

格子状の街並


ハモニカ横丁をはじめ吉祥寺北口一帯はその通りが格子状になっており、いわば「横丁路地裏の街」となっている。こうした横丁路地裏には商業施設や専門店あるいは飲食店が立ち並び、歩くに楽しい街並となっている。
吉祥寺という街を概観するに、月〜金というウイークデーは周辺住民の利用が多く、土日祝といった休日は東は荻窪から西は国分寺あたりまでの広域集客がはかられている。その磁場となる専門量販店と共に、こうした飲食店をはじめとした街並が人を引き付けている。こうした街並に不可欠なのがカフェで、休日には若い世代の利用が多い。こうした格子状の街並は同じJR中央線の中野駅北口の中野ブロードウエイ一帯にもあるが、吉祥寺のように行政が間に入った再開発とは異なる。そして、商業という視点に立つと、その集積密度は極めて高く、武蔵野市の財政に大きく寄与している。

激しい価格と個性の競争

吉祥寺に限らず競争は常に激しい。広域集客をはかる専門量販店もそうした品揃え、価格面において競争力をもって集客している。更に、その価格面での代表業態が「100円ショップ」である。ダイソー、キャンドーを始め、他にも低価格売り物にしたインテリア雑貨店が数多くある。また低価格を売り物としたドラッグストアも多く、日常利用のご近所商圏より更に広く集客をしている。
そして、もう一つの競争がラーメン競争である。つけ麺えん寺、麺屋海神、一風堂、麺屋武蔵虎洞、ホープ軒、天下一品、蒙古タンメン中本、春木屋、こうした個性溢れる40軒ほどのラーメン店が狭い横丁路地裏に密集している。ラーメンは国民食を超えて、世界へと進出する第二の和食へと進化している食である。勿論、競争結果としてのスクラップ&ビルトは日常となっている。こうした競争はある意味で東京(=世界)市場を圧縮した市場の一つとなっている。地方から、世界からテストマーケティングとして出店する企業やブランドが吉祥寺を対象としているのもこうした理由からである。

7、情報発信する街ー行列が出来る店

都内、いや全国に知れ渡っているといったら言い過ぎかもしれないが、吉祥寺には行列が絶えたことの無い店がある。その筆頭が和菓子の「小ざさ」である。写真のような行列は毎日続いている羊羹と最中を売っている店である。年商3億円、小さな店で坪売り上げは全国トップクラスである。
小ざさの羊羹は、1日150個限定で1人3個まで販売される。それを手に入れるためには夜明け前から行列に並び8時15分に配布される整理券を入手し、10時の開店時に券と引き換えに羊羹を入手することができる。そんな40年間行列が途切れたことの無い店である。

ところで、NYで3時間待ちのチョコレートビザの店が表参道ヒルズにオープンし、行列ができている。また、一時期行列の店として話題となったクリスピークリームドーナツも同様である。そうした話題商品はいくらでもある。いわゆる「ブーム」に乗った商品で、その話題持続時間はどんどん短くなってきている。果たしてこうした商品は小ざさのように40年も続けることができるであろうか。間違いなくできないというのが答えである。ところで、この小ざさの隣にはサトウという精肉店がやっている美味しい「メンチカツ」の店がある。揚げたてのメンチカツを買い求める顧客の行列が小ざさの隣にできる、そんな街が吉祥寺である。

街から学ぶ


1、既にあるものを生かした街づくりマーケティング

人口流出、過疎化、こうした対策の多くが企業や工場の誘致、あるいはUターンやIターンといった方法がとられてきた。こうした方法による対策も必要ではあるが、まずすべきことは当該市町村のコンセプトを明確にすることから始めなければならない。
武蔵野市の場合は平成12年に策定した都市像として「環境共生・生活文化創造都市むさしの」を掲げたが、今なおこのコンセプトに基づいた街づくりを行っている。もう少し言葉を添えるとするならば、「土地利用や道路計画といった物的な市街地像を描くことに重点を置くのではなく、 どのような生活を営むことができる都市をめざすのかといった観点を重視する」とある。こうした考えから、全てを区画整理の名の下に効率だけの高層ビルへと変貌させるのではなく、あの古い「ハモニカ横丁」が今なお活気ある商店街として存在しているのもうなづける話である。こうしたコンセプトを生かしきるためには「全体を見る視座」と都市を構成する諸要素の「編集力」、更には「市民参加」という同意が求められる。こうしたことができるのも3期目を迎えた前職が都市プランナーであった市長の存在は大きい。街づくりマーケティングとは、100の都市があるとすれば、100の固有があり、その固有を生かした100の街づくりがあるということである。そして、この街づくりを「村づくり」や「商店街づくり」、あるいは「店づくり」に置き換えても同じである。マーケティングが時代のキーワードになったということである。


2、街は常に新しい文化をインキュベートする

街は常に時代と呼吸し、生き物のように変化し続ける。このように書くと、田舎の場合は変化しないから違うよと言われるかもしれない。今から7年ほど前になるが、秋田県羽後町で生産された「あきたこまち」の包装に美少女イラストを起用してネット通販で売り出したことがあった。初めてということもあって、数ヶ月で2500件、30トンものあきたこまちが売れた。その萌え米誕生の地である、秋田県羽後町に若いオタク男性が押し寄せ、マスメディアもその反響の大きさを報じたことがあった。いわゆる美少女イラストの故郷訪問である。
その後、羽後町で生産される農作物に美少女イラストの包装がなされ販売されているが、その後の売れ行きはどうであろうか。実は売れたのは美少女アニメであって、あきたこまちではない。JAの全国ネットとして、一つのストーリーの元、各地のJAで美少女イラストの農産物の競演がなされたらどんな展開になっていたであろうか。間違いなく萌え米オタク達は美少女アニメコレクターとして各地の萌え米を購入するであろう。つまり、新たな出来事を継続発展させることが重要で、やり方次第ではあるが、美少女キャラという文化が生まれ、ネットを通じ世界へと販売が広がることも可能となる。
街も、村も、時代が求める「何か」に応えれば、必ず顧客は反応する。課題は孵化した小さな卵をどう育てていくかである。武蔵野市はかなり以前から市政への市民参加が活発で、こうした土壌が時代の文化を生んでいく。例えば、コピス吉祥寺の7階には武蔵野市立吉祥寺美術館があり、1階のウッドデッキの一角には定期的にライブが行われるスペースがある。コブクロ、いきものがたり、古くはゆずも路上ライブ出身者である。吉祥寺にもそうしたミュージシャンが生まれてくるかもしれない。

3、都市もブランドの時代へ

都市もブランド化するといったら、それは違うという人もいるだろう。情報の時代の都市と言えば、理解していただけると思う。情報発信という視座に立てば、商品ばかりか、人も、街も、通りも、出来事すらも情報を発信するメディアになる時代である。例えば、「人ブランド」という言い方をするならば、あの人が作ってくれた、あの人がサービスしてくれた、つまりカリスマと呼ばれるのもブランドであればこそである。1990年代末、渋谷の街がファッションストリートとなり、山姥・ガングロといった特異なファッションが生まれ、全国に知れ渡った。そして、渋谷109のエゴイストに初めてカリスマ店長が出現した。渋谷はshibuyaとなり、その強い情報発信力により、街も、ストリートも、ショップも、人もブランド化した。
ブランド価値、無形の資産ブランドという考えがビジネスに導入されてきた背景には、同じ機能を持つ商品がA社では100なのに、何故B社では120で売れるのかという、誰もが持つ心理的価値に着眼してきたことによる。その心理的価値とは何かであるが、武蔵野市の場合、「30歳代の子育て世代」へとマーケティングしてきていることが分かる。単なるイメージとしての「住んでみたい街」ではなく、待機児童0という「実」に裏付けされたブランドとしである。
従来のエリア間競争は商業競争を中心としてであったが、武蔵野市が教えてくれたことは、「暮らし」の競争、住宅デベロッパーも、小売店も、飲食店も、散策したい公園や街並づくりも、勿論病院や学校も、そして何より交通至便であること、つまりそれら全体としての都市間競争の時代に入ったということであった。

4、街は住民と共に成長する

武蔵野市の長期計画に高齢者への諸計画を想定している。委員会段階のようでその全容を手に入れてはいないが、新住民となった「30歳代の子育て世代」が高齢を迎えた時を考えているという。まさに長期計画であるがもっと身近なものとしてとらえるならば、住民と共に街も変化させていこうということである。
ビジネスの世界では、「一回の顧客を生涯の顧客にする」というサービス原則がある。何回も何回も利用していただこうという意味であるが、吉祥寺から他の都市へと移動することを前提にしないということである。生涯吉祥寺を愛し住んで欲しい、という長期計画である。つまり、今住む住民に愛されない街は、新住民にも愛されることなく、結果迎い入れることは無い。住んでみたい街NO.1ということはこうしたことであり、まさにマーケティングしているということである。
そして、重要なことは待機児童0といった「今」抱える問題解決と共に、この子育て世代が高齢を迎える「明日」への計画が始まっていることにある。新しい住民を迎い入れる「今」だけでなく、これから高齢を迎えるであろう「明日」への期待値を育む、こうしたことは住民参加によって可能となる。まさに、成熟する街を想定したマーケティングを行うということである。
住民を顧客に置き換え、住民参加を顧客からのヒアリングによって「明日」への芽を見いだしていく、武蔵野市を商業施設やショップに置き換えても同じである。


  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造