2009年09月27日

◆希望と消費

ヒット商品応援団日記No405(毎週2回更新)  2009.9.27.

巣ごもり生活に入り、既に2年近く経過した。私はこの数ヶ月間、巣ごもり生活から「何」を体験し、学び、どんな「次」に向かうのであろうか、を考えてきた。そうした意味を踏まえ、敢えて低価格わけあり消費ブームは終わり、代替消費(○○したつもり消費)に向かっているとも書いた。久しぶりに連休中に近くのエブリデーロープライス業態のOKストア用賀店を見に行った。周知のわけあり商品をどこよりも早く導入し、米国ウォルマートを見に行かなくてもOKストアを見れば、そのディスカウント業態がわかると言われているスーパーである。午前中にも関わらずかなりの人が買い物をしていて、ああごくごく普通のショッピング、日常化しているなというのが印象であった。つまり、わけあり商品理解が定着しているということである。

何故、大手新聞社が取り扱わないのか、おそらくは景気に悪影響を及ぼしかねないニュースであるという判断からと思うが、東京新聞はエコカー補助金の支払いが遅延し問題となっている実態を報じている。

『経済危機対策として導入された総額3700億円に及ぶエコカー補助金制度。6月に申請の受け付けが始まってから3カ月が過ぎた。これまでの申請件数は全国で64万件に上るが、実際の支払いは約2割の15万件にとどまる。経済産業省は「書類確認を慎重に進めているため」と釈明するが、補助金を購入理由にしたドライバーからは「いつ支払われるのか」との不満が噴出している。』(東京新聞 2009年9月24日 朝刊)

申請から審査〜支払いというオペレーションの不味さによる遅延もあるが、ディーラーへの問い合わせが殺到し、不満の声が多く上がっているという。ここで注目すべきは購入後振り込まれる補助金を当てにして購入している人がいかに多くいるかということである。それは需要の先食いであり、総額3700億円の補助金は280万台分の補助金であり、3ヶ月で64万台のエコカーが売れた訳だが、これから先200万台以上のエコカーが売れるかどうか。もし、売れないようであれば、この大不況の深刻さは、車購入の中心である中流層へとかなり広がっていると見なければならない。

先日までのシルバーウイークはどうであったか。40kmから50kmという長い高速道の渋滞ばかりのニュースのみで、その消費実態を報じるマスメディアはほとんどない。これも心理的悪影響を及ぼしかねないとの考えからであろうが、逆にその深刻さに気づいている生活者も多いであろう。この夏のお盆休暇を取り戻すべく、旅関連企業は低価格メニュー、例えば深夜バス利用による東京ディズニーリゾート観光といったように数多く用意してきたが、その成果については限定的であったようだ。ゴールデンウイークの時は安近短のドーナツ現象であったが、このシルバーウイークでは「近」が更に近場になり、東京では郊外の昭和記念公園といった自然の中で遊ぶ、つまりお金を使わない小さなドーナツ行楽となった。消費氷河期へと、また1歩向かっているように思える。

この1年半ほど所得が増えない時代の生活工夫、消費傾向を書いてきたが、消費から見るパラダイムチェンジは徐々に明確になってきた。消費は所得の関数ではあるが、確実にこの数年間の体験学習によって変わり始めている。その意味は単純に所得減少に比例した消費減少ではないということだ。わけあり消費や代替消費の先にある新しい価値観への転換という意味である。例えば、食では周知のように外食から中食、更に内食へと変わり、調理道具も土鍋人気のように手間をかけるようになった。家庭菜園はいつしかベランダ菜園へと広がり、安心ということもあるが、自ら育てて食べる食へと。勿論安さもあるが、野菜や鮮魚も直売所で購入する生活者も増えてきた。手間をかけることを惜しまない、逆にそれを楽しむことへと向かっている。

5〜6年前、「スイッチ族」という言葉が流行ったことがあった。スイッチひとつで常に快適な空間となり、スイッチひとつでプロ顔負けの料理が出来る。その象徴例がオール電化住宅であろう。最近では一人住まいでペットを飼っていても、携帯でどんな様子かチェックもできるし、場合によっては食事すら自動的にあげることができる。生活に必要なことはスイッチひとつで可能になる、そんなライフスタイルの象徴としてつけられたネーミングである。そうした便利で快適な生活も経済的理由から難しくなっている。しかし、一方では暑い時には避暑のために水やりなど工夫をする。最初は失敗したが、徐々に土鍋の扱い方もうまくなり、我が家自慢のメニューが増え、食卓を囲む楽しさが増えてきた。・・・・・・何か手間をかけることが、ごく普通の生活なんだと気づくようになってきた。そして、手間をかけたらその分美味しくもなり、快適にもなり、物や道具の大切さも実感する、そうしたことに気づき始めたということだ。

大量生産大量消費という時代が長く続いてきた。必要を感じ、物を満たすことに充足感を覚えた時代であったが、おそらく「必要」の在り方が変わってきたということである。企業は「必要」を差別化するために新たな「必要」、付加価値を創造し、これでもかとマーケティング&マーチャンダイジングしてきた。しかし、10年間で100万円所得が減少し、リーマンショックによる今回の大不況によって、多くのことを自己認識し始めた。「必要」とは何であったのかと。ある意味、日本人が古来から持ってきた慎み深さ、謙虚さ、勤勉さ、消費で言えば、質素、倹約、節約、そんな原点、昭和の時代に戻っていくように私には感じる。この10数年間社会現象として現れてきた多くの回帰現象の一つの帰結である。

先日、音楽プロデューサー小室哲哉が著書「罪と音楽」の出版に際し、インタビューに答えていたのが印象的であった。詐欺事件による有罪判決以降、毎日曲を書き、50曲以上になった。今までの曲は「分かりやすい曲」であったが、これからは違う曲を創ると。このインタビューを聞いて、ああやっと原点に戻ってきたなと実は感じた。「分かりやすさ」とは過剰な時代に生まれたキーワードである。「便利さ」と「分かりやすさ」はどこか共通しているところがある。ここ数年間というもの、作曲家作詞家はカラオケで歌われることを前提に曲が創られてきた。結果、どの曲も同じような曲ばかりとなる。当然であるが、時代が求めたメガヒット曲は生まれてこなくなってしまった。

昭和と平成の境目を生きた作詞家故阿久悠さんは、晩年「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念する。阿久悠さんが嘆いた歌が痩せていくとは、心が痩せていくということであった。
便利さと分かりやすさ、共に平成という時代に手に入れたものである。それと引き換えに、阿久悠さんの言葉を借りれば「心が無くなっていった」ということだ。あるいは、作家村上龍氏が「この国(日本)には何でもあるが、希望だけがない」と指摘したことにも相通じることだ。恐らく、村上龍氏は、仮説として「無くした希望の代償行為として過剰消費があったのではないか」という考えが根底にあるようだ。そして、どれだけ消費しても「心の充足」「希望」を得ることは無かった。これがバブル崩壊以降20年間にわたる生活、その先の巣ごもり生活から学んだ結論だ。手間を惜しまない、モノを大切にする、そうした昔からの日本文化に消費も立ち戻ったということである。消費氷河期を前にして、求められているのは希望であり、政治にも、経済にも、社会にも、もっと身近であれば働く場所においても、家族においてもである。便利さと分かりやすさの過剰を削ぎ落とした先に見出したもの、それは希望ということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:05Comments(0)新市場創造