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2009年09月13日

◆激変の中へ

ヒット商品応援団日記No401(毎週2回更新)  2009.9.13.

先日、鳥取に住む友人と話す機会があった。当然の如く話題は新政権のこれからとなったが、疲弊した地方にとって15兆円に及ぶ補正予算の執行は命綱のようなものだと友人は言う。たとえそれがひも付き補助金であっても、いわゆる景気の「二番底」を畏れ、今は必要であると。いや「二番底」という表現より更にひどい情況であると言った方が正確であろう。鳥取西部の境港に水木ロードを中心とした妖怪タウンがある。周知の漫画家水木しげるさんの生まれた地であるが、ゲゲゲの鬼太郎を始めとしたモチーフで町が飾られている。1993年オープン以降観光客は増え、一昨年には年間観光客数は147万人にも及び鳥取砂丘を超えた観光スポットに育ったところだ。衰退していた商店街も次第に活性化され妖怪土産等も広く販売するようになった良きモデルケースである。しかし、今年に入り、新型インフルエンザの影響もあって約3割ほど観光客が減っていると言う。更に、同じ西部にある大山リゾートはこの夏閑散とした状態であったとも。

私は、それではいつ変わるのですか、という言葉を口に出せずに呑み込んでしまった。勿論、正解などないことを分かっての問いであったが、同じような困難さは地方の至る所で起きていると思う。新政府は変化を提示し求めるが、地方、特に地方議会の多くは従来の自民党が多数派である。「変化」を間にして、国と地方とのねじれは当分の間解消することはない。当然のことであるが、混乱・混迷ばかりでなく、新政権による良き政策もスローダウンするであろう。既に、新政権発足前から、八ツ場ダム建設中止を始め、補正予算の執行が中止されるのであれば法的手段をとる可能性があると発言した宮崎県東国原知事まで出てきた。鳥取をかなり知っている私ですら、友人との会話で、意識の持ち方、認識の差は最後まで埋まることはなかった。恐らく、「変化」への臨み方は都市と地方との間で、利害関係の有無、変化の及ぶ直接・間接の差となって現れてくる。

新政権が「何を」どのように「変えていく」のか、次第に明らかになってきた。環境問題についても、2020年には1990年比CO225%削減も、その裏側には省エネ製品や技術の輸出、あるいは排出権取引の構想といった次なる産業への取り組みが見えてきた。その環境政策と矛盾するのではないかと短絡的に考えてしまいがちな高速道無料化についても、地方から段階的に実施するという現実的なものだ。全国実施される頃には日本ばかりか世界の自動車産業はHV車と電気自動車の時代になっているであろう。また、都市部で一番困っているのが保育所不足で働く主婦が最初に解決して欲しい問題である。恐らく、保育所の認可基準を家賃の高い都市部にも造れるように基準を改定するであろう。都市においては道路を造る前に、保育所を造るといった公共工事に予算化されるであろう。また、補正予算15兆円のゆくえについても、一律的にストップさせるのではなく、明確な基準を明らかにした上での実行ということだ。つまり、変化の内容が次第に明らかになってきた。

前回、政治に必要なのは「哲学」であると私は書いた。革新はいつしか当たり前の日常となり、明日も昨日と同じようになるであろうと、自分に言い聞かせる。その繰り返しによって「今」がある。それを危機認識の無さ、情況認識の手前勝手さと言ってしまえば、それで終わる話であるが、地方の多くは再び夕張のような悲惨な状態へと向かうかもしれない。ある人はそうした首長を選んだ住民自身の問題であると言うかもしれない。あるいは今回のように、政権が交代するのだから仕方がないと言うかもしれない。
ここ数年、私が地方で経験したことは、まず第一に相互に情報が届いていないという実感であった。都市、地方互いにどちらが悪いと言うことではない。私に言わせれば、同じ土俵に立っていない、あるいはどちらも自分勝手な無関心であったということである。

例えば、地方分権には多くの人は賛成であろう。財源も地方に委譲することも賛成であろう。しかし、何に使う財源なのか、何一つ明確に伝わってはいない。道路を造ろうが、橋を架けようが、地域住民の賛同のもとで行われれば良い。何のための道路なのか橋なのか、明確にすれば良いということだ。必要なことは、その道路や橋の「先」にあることである。造れば何十年間もの間使う訳であり、どんな町を目指すのか、どんな県を目指すのか、その構想次第である。その構想が相互に伝わらない、ということである。そして、その構想の根っこにあるのが、哲学である。
米国の道州制はそれぞれの州誕生の「いわれ」という哲学を背景にしたもので、単なる行政単位としての道州制ではない。哲学の違いが州法の違いとなって現れている。日本の地方分権も哲学こそが求められており、その哲学の基づく地域構想力ということだ。

このことは地方企業が都市市場を開拓していくことにおいても同様である。また、逆も同様である。哲学などと言うと、何か構えた話になってしまうが、それほど難しく考えることではない。前回、政権交代に触れて「小売りであれ、物づくりであれ、生き方、生きざまが見えることに支持が集まる。つまり、生活哲学の時代に向かっている」と書いた。生活哲学をコンセプトと言ってしまうと、やはりどこか軽くなってしまう。かといって、構えた重いものでもない。以前、日本人の生活思想に触れて次のように書いたことがあった。

『日本には「用の美」という考え、いや美学思想がある。勿体ない精神の根底にある美学、使い続ける美学、生活美学。少し理屈っぽくなるが、使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた顧客の使用価値集積の美学と言った方が分かりやすい。そこには「あっ」と驚くような美はないが、何故かしっくりする、手に馴染む、変わらないけれどそれがうれしい、そんな美への共感である。食で言えば、変わらぬ味、ふっと和む味、何度食べても飽きない味、そんな表現となる。そうした美への共感を元に、実は「信用」が生まれてくる。私たちは、それを「暖簾」と呼んできた。暖簾をブランドに置き換えても同じである。それは大企業であれ、商店街のお惣菜屋でも同じである。大きな価値潮流に置き換えて言うと、トレンドライフから、ロングライフへと価値の転換が起き始めているということだ。』

大きな生活者潮流はこのようなロングライフ価値へと向かうであろうが、そこに至までには「変えていくこと」と「変わらぬこと」の衝突が消費においても必ず起きる。いや、既に起きている。この変化への振り子の先の一つが「変えていくこと」としての低価格商品、わけあり消費という極である。もう一つの消費の極はと言うと、「変わらぬこと」としてのロングライフ商品、初回は少々高いが長期間の使用を考えれば結果安上がりとなる新合理的な消費である。しかし、現在はと言うと、まだまだロングライフ価値へのウエイトは低い。
榊原英資氏を始め多くの経済専門家は今年の冬場に「二番底」という更に景気が悪化すると指摘している。つまり、雇用は更に悪化し、所得も更に減るということである。12月のボーナスは惨憺たる情況になるということだ。消費においては、巣ごもり生活から、氷河期生活へと向かうかもしれない。しかし、ビジネス的には「変化」によって無くしてしまうこともあるが、また新たに生まれることもある。そうした激変の時に入った。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:50Comments(0)新市場創造