2018年02月18日

◆デフレを楽しむ時代へ  

ヒット商品応援団日記No703(毎週更新) 2018.2.18.

「デフレ脱去」では無い時代を迎えている。デフレが常態化した時代の経済を考える時期にきているということである。消費という世界でデフレという言葉が盛んに使われるようになったのは1990年代後半からであった。その象徴がデフレの御三家と言われたマクドナルド、吉野家、そしてユニクロであった。各社デフレを味方にしたことによる勝者であるが、規模のチェーンビジネス、専門特化集中したビジネス、そしてSPA(中抜き)という従来のビジネスを変えた革新的な経営によってであった。1998年4月には消費税5%が導入されるが、流通においてはイトーヨーカドー、イオンによる消費税分還元セールが大人気となる。更に、マクドナルドによる半額バーガーも大ヒット商品となる。そして、インターネット商店街(楽天)が本格稼働する。つまり、多くの企業は一斉に「新しい市場づくり」に向かうわけである。それは家計経済、消費者にとっての収入は周知の通り1998年以降右肩下がりとなる。そうした消費生活に応えるためであった。
次の図2枚は消費税の導入を軸にどのような消費変化が生まれたかを整理したものである。







さて1年半後の秋には消費税10%が導入される。過去政治的判断で先延ばしされた導入であるが、その消費に及ぼす影響・変化については今年の夏以降予測を書く予定である。実はこの「消費変化の推移」の図は2013年に書いたもので、2014年以降2017年までについてはブログを是非読んでいただきたい。特に、「主要な社会現象」もさることながら、「新たに生まれたメニュー&業態」の推移を俯瞰的に見ていけば、どれだけデフレ時代を乗り超えてきたかがよく分かる。そして、こうした推移を見ていくと分かると思うが、2008年のリーマンショック以降はそれまでの10年と比較しそれほど大きな変化はない。つまり、1998年から始まったデフレ克服の挑戦は2008年までの10年間でほぼ終えているということである。但し、リーマンショックによって、低価格志向がより強まり多くの分野で市場の縮小が起こり、例えばファミレスを始めとした外食産業ではリストラによる経営再建が行われた。。大きな業態変化があるとすれば、ネット通販の更なる拡大とメルカリに代表されるフリーマーケット・中古市場の台頭となる。そして、ここ数年消費市場という大きな市場変化の波を起こしたのは2つ、この点については以前から指摘してきた「オタク市場」と「訪日外国人市場」である。

デフレの時代と言われた1998年以降約20年近くどんなことが進行したかを整理すると以下のような「集中現象」が起こっていたことが分かる。その集中化とは一言でいうならば「中心化」である。つまり、多くの競争の結果が特定の中心に向かって起こる集中現象である。その中心の多くは次の3つである。

1、特定中心価格への集中・・・・・・・価格競争は特定の価格へと収斂し、その中での競争となる。基本単位100円、ランチ価格500円、ブッフェ(食べ放題)価格1000円単位。
例えば、増税によって一定の消費収縮は見せるが、それ以上に特定の方向へと「消費移動」が起きる。その移動の価格帯の中心点を見出すことが重要となる。
価格破壊、デフレ業態であるスーパーやディスカウンターにおいても日々進化を遂げている。安かろう悪かろうでスタートした「100円ショップ」も10年程経過し日常生活へと定着した。こうした手軽で、便利な使いやすい価格商品はその後も品質やアイディア面で進化してきている。そして、より専門店化し、オリジナル製品化へと向かっている。つまり、既に100円という価格の中身の競争となっており、その競争は更にし烈なものとなる。そして、こうした「100円均一」の潮流はコンビニへ、更には食品スーパー、居酒屋へと広がっている。
こうした分かりやすい価格の単位に顧客の関心は向かう。そして、競争がこの価格帯内で行なわれるが、課題は同じ価格ゾーン内での「消費移動」が行なわれる
 ことの発見が課題となる。過去、マクドナルドの「100円バーガー」が大ヒット商品となった時、同じ価格ゾーンの商品に大きな影響が出た。その代表的商品がインスタントラーメン(カップ&袋麺)で売上が大きく落ちる現象となって現れた。顧客は「100円バーガー」を大量に購入し、冷凍保存し、何日にも渡って食していたことが後の調査で分かっている。こうした消費移動が中心価格帯で起きるということである。

増税は価格もさることながら「お得」意識を先鋭化させる。どんな「お得」を提供できるかが競争軸となる。つまり、価格だけが競争になる訳ではない。500円ランチの競争相手はコンビニだけではなく、自分で作る「弁当族」でもあるということである。常に、「お得」の中心がどのように変化・移動しているかを見極めることが重要となる。つまり、中心価格帯内でのお得競争になるということである。言葉を変えて言うならば、例えば”品質の差はある”といくら頑張っても中心価格帯から外れた価格での競争は出来なくなるということである。(日本の家電製品が一時期韓国勢に負けた背景、ガラパゴス化と同様である)わけあり商品に見られるように、増税は「価格満足度」という競争軸に更に向かわせることとなる。
つまり、LEDがそうであるように、あるいはスマートハウスが象徴しているようにコストパフォーマンスという新しい合理的な価値観が生活全体に浸透していくということである。「最初は高いが、結果お得」商品で、HV車を始め冷蔵庫や洗濯機などの白物家電が省エネ・省資源を売り物に既に販売を伸ばしている。こうした商品は
従来(過去)の商品との比較においてお得感を明示していくのだが、今後は単品としてのお得から、生活全体のお得へとシュミレーションしていくことが予測される。つまり、従来(過去)型消費、単純に節約する行動とは別の発想への転換である。
また、ネット通販がその価格満足度を含め流通において唯一成長しているが、同様に成長しているのが「アウトレット」である。トレンドを追わない、1年遅れの商品で満足という顧客が増えている。これもお気に入り商品を安くという満足度である。あるいは山間の一軒家レストランに行列が出来ている場合もある。これらは他店が真似できない独自性をもっており、一定の規模ビジネスの場合は中心価格帯内での競争となる。この独自性は真似の出来ない「人」によるところが多い。”あの人だから”という固有な魅力が顧客を引き寄せる。そのお得感は固有であり、ワンコインの世界とは異なる価格満足度の世界である。

2、特定中心エリアへの集中・・・・・・・全国規模では東京への集中、地方であれば県庁所在地への集中、郊外であれば駅などへの集中、あるいは大規模商業施設への集中。
 例えば、 エリア間の競争においては、モノ集積、情報集積、人の集積、金融の集積、それら集積力が都市の魅力として人を引きつける。その魅力とは常に変化という刺激を与えてくれることに他ならない。新しい、面白い、珍しい「何か」と出会えるのが都市の魅力であり、商業はそうした「未知」を提供する競争の時代となっている。特に、東京はTOKYOであり、変化し続ける世界中の「今」を体験できる都市となっている。
結論から言うと、既にエリア間(都市と地方)の格差は起きているが、これまでの消費増税はこの傾向を更に強めていくこととなった。その最大理由は、「職」とそれによって得られる豊かさは都市にはあるということである。そして、東京、特に都心・湾岸エリアには今なお人口が流入し続けており、今後もこうした傾向は続くものと予測される。

3、特定中心情報への集中・・・・・・・話題情報発信の中心/あらゆるものがメディアとなる時代であり、それは都市(エリア)、商業・店、テーマ、人、
例えば、過剰な情報が行き交う時代の直中にあって、「何を」選択基準とするのか、顧客の側が持ち得ない情況となっている。そして、選択の基準として採用したのが、ランキング情報である。ところが「食べログ」という情報サイトでは、高い評価という「やらせ」が行なわれ発覚したが、情報をナビゲートすることの中からしか選択できない時代となっている。そうした情報の時代にあって、当たり外れのない、安心基準として「評判の店」「話題の商品」へと消費は向かう。結果、話題店、話題商品、話題エリアへの一極集中現象が起きる。
世代間、男女間、あるいは都市・地方との間、更には収入や好みといったことの興味・関心事の中心がどこにあるのかが、ビジネスの最大眼目となった。具体的には「テーマ」となって情報発信されるが、このテーマがいかに興味関心事の中心を言い当てているか、増税はそうしたテーマ競争をより鮮明化させる。つまり、「誰」を顧客とするのか、そして「どんなテーマをもって行なうか」が最大のビジネス上の課題となる。
情報発信力の無い、集積度も低い「地方」に活路はないのかというと決してそうではない。地域固有のテーマ性、都市にはない地方ならではのテーマをもったテーマパーク、コミュニティパークが街を村を再生させるキーワードとなる。

実はこうした中心化が進行する中で、新たな市場が生まれており、実は逆の現象が起こりつつある。それは今までの中心から少し外れた「地方」で、「路地裏」で、今まで当たり前のことから見向きもされなかった「日常」で、あるいは「生活」の中へと入り込んできたのが、周知の「訪日外国人市場」という新市場である。勿論、訪日を重ねたリピーター、日本が好きになった「日本オタク」である。20年ほど前、秋葉原を訪れる日本人アニメオタクの中に訪日外国人もいたが、次第にそのオタク度も人数も進行・拡大し、そのオタクの口コミなどから「日本オタク」による観光の裾野が広がってきた。これがクールジャパンの本質である。
実はこうした旅行好きにとって日本のデフレ経済はLCCの世界規模での拡充と共に極めて安価で普通の日本の生活体験が享受できる「日本観光」を生み出してくれることになった。その象徴となっているのが、数年前まで寂れた状態にあった大阪の下町通天閣・ジャンジャン横丁の再生である。一時期元気のなかった難波・道頓堀も訪日外国人銀座と化している。

ところで、「デフレ時代の消費経済 」を今一度考えてみると、消費への新視点が必要となっていることがわかる。というのも、1年半後には消費税が10%になる予定である。そして、これはどうなるかわからないが、日本から海外に出国する場合に新たな「税」を負担させると財務省は考えているようだ。つまり、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを見据えてのことだが、消費税10%は訪日外国人にとっても極めて大きな税でこのまま免税措置がなされるならば、訪日外国人市場、その消費市場は間違いなく7兆円以上の規模程度にはなるであろう。そして、この消費内容は従来の爆買い内容とは根本的に異なるものとなり、日本人の消費生活と重なり合う日常的に使うコモディティ商品である。更には都市部観光から地方へとその裾野が広がり、「地方創生」への転機になり得るであろう。昨年から観光立国などと言い始めているが、このこともまた「内」から変わるではなく「外」から、訪日外国人市場によって変わる日本がある。まあ、そのことは良いこととして、地方も単なる訪日外国人による観光収入だけでなく、実はグローバル化の意味・影響を一番実感しているのが実は地方である。何を求めて日本に来るのか、リピーターの理由を多くの調査結果を見ても分かるように、寺社仏閣や富士山観光といった従来の観光から日本の生活文化へと進化・深化してきた結果であることが分かる。その一つが地方・辺境の文化であり、横丁路地裏の日本文化、生活文化を観てみたい、実感体験してみたいという行動になって現れている。30年を超えるTV番組に「世界・ふしぎ発見!」があるが、日本への興味関心事はトヨタやソニーといった製品を生み出した国、あるいはコミックやアニメを生み出した国の人たちがどんな文化を持ち、どんな生活をしているかへの関心で、ある意味埋れた日本の「ふしぎ発見」観光である。その象徴が渋谷のスクランブル交差点であり、浅草雷門の巨大提灯や大阪であれば道頓堀の巨大ネオン看板である。

この日常化したデフレ経済にあって、日本人自身の消費意識も大きく変わり始めている。それは従来の消費が「お得」を軸に、より合理的な価格観が育ってきている。日常はつましく、ハレの日はちょっと華やかに、とは京都の生活の知恵であるが、そのちょっと華やかなプチ贅沢を楽しむ消費傾向が見受けられる。この消費傾向、プチ贅沢は、デフレが長く続くことによる「消費疲れ」が原因であるとよく言われるが、それは全く逆のことである。日常のつましい消費も、プチ贅沢も、共に「楽しむ」時代にすでに入っている。つまり、「デフレを楽しむ」と言うことである。もっと端的に言うならば、「つましさ」をも知恵やアイディアを持って楽しむと言うことである。
その消費観は、足元にある街場の店へと向かっている。TV番組「マツコの知らない世界」ではないが、散歩ブームを背景に、訪日外国人市場における「ふしぎ発見」と同じように、未だ知らないデフレ世界の発見へと向かっている。勿論、そこにある新しい、面白い、珍しいデフレを楽しむことである。こんなところに、こんな価格の商品がお店があったのか、と言うふしぎ発見の楽しさである。

こうした「デフレを楽しむ」消費行動は、それまでの「中心化」から少し外れたところへと向かっている。例えば、全国規模でチェーン展開する大手スーパーから特色ある地域スーパーへ、あるいは地域のファミレスへ、飲食店へ、専門店へ、更には地方の市場へと。今まで古い業態であると言われてきた食堂へ、あるいはオヤジだけと思われていた大衆酒場へ、立ち飲み酒場へ。例えば、リーマンショック後に生まれたキーワードである「せんべろ酒場」は、サラリーマン向けの酒場としてだけではなく、「千円でベロベロになれる」酒場として全国至る所にこのネーミングと共に生まれてきている。1年半ほど前に注目されたTV番組「孤独のグルメ」や「酒場放浪記」は今や全国いたるところで楽しまれている。そして、これからこうした情報が口コミサイト「トリップアドバイザー」にも載り、評価を受けたら、勿論訪日外国人も押し寄せるであろう。共に「日本のデフレ」「日本の生活文化」を楽しむと言うことである。生活の知恵とはかくもたくましいものである。最早デフレは脱却でも克服するものでもなく、楽しむものとして定着している。そして、1年半後に予定されている新消費税10%の導入に対してはよりシビアな目を持った消費者が待ち構えていると言うことである。その「シビアさ」とは、「お得」を超えた楽しませ方があるかどうかにかかっている。更に言うならば、これまで集中してきた「3つの中心/価格帯・エリア・話題」から少し外れた周辺へとシビアな目が向かい、その周辺にも競争が広がると言うことである。(続く)
  


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2018年02月04日

◆嘘と本当の狭間で 

ヒット商品応援団日記No702(毎週更新) 2018.2.4.


隠れたベストセラー「広辞苑」が10年ぶりに改訂された。前回の第6版以降定着した言葉約1万項目を追加し約25万項目を収録。毎年末に行われる新語・流行語大賞がまさにその年の「流行語」を選んでいるのに対し、広辞苑は「定着した言葉」が選ばれている辞書である。定着とは広く社会に流通し、使われたという意味である。新語・流行語の場合は大賞に選ばれた「一発芸人」と同じように翌年には社会の表舞台から知られずに消えて行く言葉ではない。
そうした収録・非収録の基準として、岩波書店は次のように事例を持って説明している。

広辞苑第6版が10年前に改訂された時には収録が見送られたが、今回、十分に定着したと判断され、第7版で収録されることになったのは、例えば「エントリーシート」「がっつり」「クールビズ」「コスプレ」「モラルハラスメント」など。
 逆に、今回も見送られたのは「アラサー」「アラフォー」「アラフィフ」「がん見」「ググる」「つんでれ」「ディスる」「ほぼほぼ」「ゆるキャラ」など。

「ゆるキャラ」なんかは収録しても良いかと思うが、こうした「現代語」の分野では「いらっと」「上から目線」「お姫様抱っこ」「口ぱく」「小悪魔」「ごち」「婚活」「自撮り」「勝負服」「乗り乗り」「無茶振り」などが入っている。

ところで昨年来米国のトランプ大統領による「戦略用語」として「フェイク(嘘)ニュース」という言葉がツイッターを通じて世界中に拡散されている。この「戦略用語」という意味は、政治の常套手段である「敵を創る」ことを通して、自分の主張世界をより強固にするという意味である。30年ほど前からビジネス・マーケティングの戦略用語に、「競合的に」(Competitive)戦うという競争戦略がある。他者・他社との戦い方を差別的優位をきわだらせるためで、トランプ大統領の場合は大手メディアを「敵」に見立てて、「戦略用語」として「フェイクニュース」という言葉を枕詞にして主張するということである。この戦略を採った場合、主張の鮮度を維持するためには、つまり政治的優位さを持続するためには常に「フェイクニュース」という枕詞を使い続けなければならなくなる。通常のビジネスの場合は、この競争戦略には大別すると、コスト(経済性)優位と、差別化(異なる世界)優位の2つになる。トランプ大統領の場合、前者をアメリカファースト(雇用・TPP離脱・パリ協定離脱など)であり、後者は前大統領オバマ(オバマケア・戦術核などの諸政策)となる。問題なのは、こうした立場の違いを踏まえた戦略の良し悪しではなく、「フェイク合戦」によって嘘と本当が混在し多くのものが見えなくなっていることである。情報的に言えば、部分・断片をつなぎ合わせても「全体」が見えなくなっているということである。

何故この「フェイク(嘘)ニュース」という言葉を取り上げたかというと、これからもトランプ大統領からは政権の鮮度を維持するために使われることと思うが、インターネットによってコミュニケーション世界が広がれば広がるほど、言葉、母語(日本語あるいは米語など)が重要になってきていることを認識しなければならない時代を迎えているからである。この「フェイクニュース」という英語を母語とする民族・米国民・英語圏の人たちの考え方・感じ方は少なからず日本人である我々にも影響を与えている。幸いなことに、日本の場合例えばフェイク論議は政府とメディア間では米国ほど深刻な問題・対立・分断にまでは至ってはいない。昨年の新語・流行語大賞には「忖度」が選ばれたが、語の意味は「他人の気持をおしはかること」という意味だが、その意味するところの世界で「忖度してはいけない場合」と「忖度すべき場合」を明確に分けて考え行動している。そこには母語としての「美意識」や「和精神」があり、それら世界から逸脱した社会規範や法に抵触する世界とを明確に自覚しており、いわば成熟した市民意識が醸成されている。昨年の森友問題における行政の「忖度」が問題視されたのは、法に抵触したか否かであった。このように「忖度論議」が大きく社会問題化したのも、「忖度」という言葉を使うことにより、その問題の実相に迫るということであった。このように言葉を使っているというより、言葉で問題が「明らかにされる」と言った方が明解であろう。つまり、言葉を道具として使っているようで、実は逆に使われているということでもある。

米国に忖度に当てはまる語があるかどうかわからないが、新語・流行語大賞に選ばれたのも、少なくとも日本の場合「母語」の精神世界がまだ生きているからである。ところで「フェイク」という言葉に関していうならば、日本語の世界としては、「嘘」とは事実とは異なること、騙す、偽り、まがい物、と言った意味であるが、実は極めて多様な意味合いが含まれている。宗教研究者ではないが、仏教では「嘘も方便」という言葉があるように、人を傷つけないため、敢えて嘘をつくこともある。こうしたことは一定の年齢まで日本語を生きてきた日本人であれば意味する世界を理解している。
消費においても、殺生を禁じられている禅宗の「精進料理」のように多くの「もどき料理」が今尚残っている。その代表例が周知の「がんもどき」である。いまではヘルシーな料理であることと共に、本物との味や食感の違いを楽しめる料理としても人気がある。こうした料理や素材は「カニカマ」というヒット商品を始め、大豆ハンバーグやなすやイワシを使った「うなぎもどき」など知恵や工夫の詰まった「食」を楽しんでいるのが日本人である。
ただし、古くは耐震偽装事件から始まり、「発掘!あるある大辞典」のような「やらせ」という情報偽装、成分内容や賞味期限の偽装、産地偽装、工業用米・汚染米を食用米への偽装という事件が起きた。その汚染米事件は、その後食用には使ってはいけない汚染米の使用を知っていて使った美少年酒造は破綻し、知らずに使ったがそれら全てを廃棄し、正直に記者会見を行った薩摩宝山(西酒造)は逆に正直であったことから見事に復活しヒット商品となった。こうした事象を見てもわかるように、「嘘」と「もどき」の世界をわきまえた日本人の精神世界をよく表している。

インターネットという過剰情報が交錯する時代にあって、分かり易さとスピードを求めて、常に対立する何かを設定し、Yes or No、白と黒、0と1といったデジタル化させながら「何か」を伝えていく時代となっている。今年に入り、この2つの世界を埋めるかのように、「いいね」文化、共感価値の時代に向かっているとブログに書いてきた。そうした共感感情を喚起させ共有するメディアが周知のSNS、インスタグラムである。1枚の写真で多くのことを語る、しかも表現したい「自分」をもである。昨年の新語・流行語大賞に選ばれた「インスタ映え」がこうした時代を物の見事に映し出している。
こうした共感共有時代はこれからも進化していくと思うが、言葉に潜む語りつくせない「言葉」がいつか奔出するのではないかと思うことがある。それはインスタグラム、写真が雄弁に語れば語るほど抜け落ちていくものを感じてしまうことと表裏にある。写真と母語との齟齬、写真という切り取られた世界の限界と言っても良いかもしれない。もっというならば、奥行きとしての「文化」を感じ取ることができないということである。インスタグラム、ビジュアルを否定する気は毛頭ないが、逆に足りない点をわきまえることの必要性を感じるということだ。

以前、トリックアート(だまし絵など)や差分という「見えていない別のもの」を感じ取る「脳の答え」について考えたことがあった。ある意味、”見えていないものを脳が勝手に見てしまう”世界、逆に”見えているのに見ていない”と感じてしまう世界も同様である。極論ではあるが、「嘘」であるとは言わないが、「勘違い」や「先入観」あるいは「思い込み」が消費面においても頻繁に起きてくるということである。競争が激化すればするほど、心理市場においてはこうした間違いが起きてくる。
冒頭の広辞苑の「定着」した語の収録ではないが、一呼吸間を置いた消費、別の言葉で言うならば「安心・安定」消費が求められてくる。時に高速道路を降りて、一般道を走るということでもある。

また、もう一つ必要なことは「言葉は音である」ということを忘れてはならないということである。音を失ったら、言葉は半分死んでしまう。言葉は何万年も昔から音とともにあったわけで、文字が生まれたのは、ほんの昨日のことである。
特に言葉で音が重要なのは、「いいね」時代、共感共有の時代にあっては、理屈という語の意味だけでなく,感情が、気持ちが、音には入っているということである。音と写真という、つまりあたかも店頭で顧客と直接対話しているかのような「動画」、ノンフィクション動画が「いいね」時代の主要なコミュニケーションになるであろう。その背景ではないが、 YouTubeに公開された動画で数百万回見られているそのほとんどは素人による投稿のものであることからも、その「リアリティ」こそが求められているということだ。前回「心が動かされるもの」として笑いと涙(泣く)を挙げたが、これもこの「リアリティ」「ライブ感」が求められているということにつながる。「嘘」とは言わないが、その情報が写真であれ、文字であれ、断片・部分情報ならざるを得ない時代である。少しでも「全体」「本当」に近ずくにはこのリアリティ・ライブ感が必要ということだ。(続く)

追記 冒頭の写真は横浜の激安商店街の小売店頭写真である。いつ行っても「本日限り」と表示されていて、厳密に言えば「期間限定表示」に違反したものとなる。30年も前に流行った限定表示による顧客誘引法の一つだが、その商店街を訪れる地元の人たちにとって、よく利用していることから最早「嘘」表示ではなくなっている。単なる「安さ」表示の形容詞程度となっているということである。勿論、法は一見の顧客を前提にしたものとしてあるが、少なくとも多くの生活者にとって嘘と本当については十分わきまえて購入・非購入している。しかし、この「わきまえる力」が学習されない生活者が多くなっていることも事実であるが。  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:32Comments(0)新市場創造

2018年01月28日

◆全国に広がる路地裏観光  

ヒット商品応援団日記No701(毎週更新) 2018.1.28.



一昨年からこれからの市場創造に欠かせない着眼として訪日外国人とオタクがあると指摘をしてきた。2017年度の訪日外国人は2869万人、その消費額は4兆4161億円であったと観光庁から発表があった。円安の副産物あるいはLCCなどの格安旅行が世界の至る所で可能になったことによるものだが、次は夜遊び消費がテーマであるとメディアは取り上げている。しかし、すでに北米などで放映されているアニメ映画の影響もあって「忍者モノ」などのエンターティメントショーは東京では新宿や浅草、赤坂などで活況を見せている。あるいは東京新宿のゴールデン街には口コミにより数年前から多くの訪日外国人が深夜まで酒を楽しんでいる。

実は一昨年から東京ディズニーリゾートや富士山、あるいは浅草寺雷門、京都伏見稲荷神社や清水寺といった従来型の観光ルートから、日本の生活文化を体験できる「路地裏観光」へとシフトしていくであろうと予測していた。そして、「日本観光応援団」のガイドサイトを昨年秋テスト的にFacebookで立ち上げることとした。勿論、表通りの観光地ではなく、まだ知られてはいない日本人の生活感が色濃く残る「路地裏観光地」をテーマとしたサイトである。面白いことに、そこには散歩ブームもあって、日本人観光客も「未知」を求めて集まっていた。ああ、日本人自身も実は知らないんだと言うのが素直な感想であった。以降、訪日外国人が行くであろう「路地裏観光地」、その街歩きをスタートさせた。未来塾で取り上げた「街」の多くはそうした視点からの選択でもあった。

例えば大阪の場合、既に観光地となっていたミナミの黒門市場を始め、道具屋筋を中心とした裏難波、勿論再生した通天閣・新世界ジャンジャン横丁から西成へ、更に木津卸売市場、あるいは梅田裏ではお初天神裏参道を始め中崎町から天満卸売市場・天神橋筋商店街、・・・・・・・・さて次はどの街をどのように歩こうかと考えた街の一つが「京橋」であった。マスメディアで取り上げられることの少ないこともあって、あまり注目されることのない京橋であるが、大阪人の生活がある意味まるごと残っている「ザ・大阪」とでも表現したくなる街である。中でも立ち飲み居酒屋通りや屋台村「とよ」に是非行きたいと昨年秋大阪の友人に伝えてあったのだが、残念ながら果たせなかった。ところが先日その「とよ」が訪日外国人も行く海鮮居酒屋としてTVで紹介されていた。「とよ」は大阪人であればよく知られた昔から行列ができる屋台の海鮮居酒屋であるが、まさか訪日外国人までもがと驚かされた。

この「とよ」を実感したいと思ったのは、行列店には必ずいる名物オヤジとこれでもかといったサービス精神旺盛なてんこ盛りメニューを味わって見たかった。「とよ」には江戸時代に生まれた屋台商売の原型、そして大阪らしいサービスの原型が残っているからである。また、京橋駅北口にはもう一つの原型、「立ち飲み」居酒屋が軒を連ねており、これも昭和レトロの風景が残されていて、「オヤジの街」と言われてきた京橋が若い世代にも人気の街になりつつあるという、そんな点も行ってみたい理由の一つであった。こうした街にもすでに訪日外国人が訪れているということだ。
立ち食い、屋台、安価、食べ歩き時代にはマッチした業態・価格が京橋には残されている。こうした業態は散歩ブームを背景に数年前から都市部の商店街でも行われるようになってきたが、食べ歩くというエリア・回遊ができるようなテーマ集積がなされている場所は極めて少ない。東京ではこうしたエリアとしては上野アメ横の「夜市」ぐらいであろう。このアメ横夜市にはすでに日本在住の中国や韓国、あるいは東南アジアや中東の人たちが集まり楽しんでいる。エスニックTOKYOの夜遊びの象徴のような街となっている。(詳しくは、未来塾「エスニックタウンTOKYO」を参照してください。)

このブログにも京都観光における名所観光と言われる伏見稲荷神社や清水寺、あるいは金閣寺や三十三間堂といった名所観光には観光客が溢れ出るほどの混雑ぶりで、日本人観光客は嫌気がさして「ひいて」しまい減少傾向すら生まれている。そうした背景から昨年あたりから京都は周辺の観光開発が進み広域観光が始まっている。
以前町おこし・村おこしをテーマに講演を行なった京都府南丹市美山町もそうした広域観光地の一つとなっている。「美山」という名前の通り、日本の自然を始めとした原風景が残る地域で、コンビニもいや信号一つないそんな田舎の村である。聞けば学校にはプールが無く、夏には綺麗な美山川で生徒たちは泳ぐそんな村である。その美山にもインバウンドの波が押し寄せているという。特に、飛騨高山の白川郷・五箇山にある合掌造り集落群ほどの集積はないが、萱ぶきの家の集落があり、台湾をはじめとした多くの観光客が訪れていると聞いている。こうしたかやぶき住宅の集落見学に加え、体験テーマを「米」に設定し、約6時間の滞在中にしめ縄や箸、おにぎり作り、餅つきを盛り込んだメニューを実施している。観光参加者も手作りチラシを京都市内のホテルなどに置いてもらって集めたとのこと。

また、鳥取の友人からは数年前に境港に中国からの観光船が寄港し、米子のショッピングセンターでは1日で3億円の売り上げがあったと言っていたが、その後山陰地域にも訪日外国人が増え続けているという。それまでのゴールデンルートと呼ばれた観光ルートは大きく全国へと広がっている良き事例の一つであろう。特に隣の島根県にも続々と訪日外国人が押し寄せているという。島根には周知の出雲大社があり、訪日外国人が好きな城(松江城)もある。さらには訪日外国人が体験してみたい温泉(玉造温泉)と畳座敷の和風旅館が多く存在していることも魅力となっている。日本人にとって極々普通の生活様式であるが、インバウンドビジネスにあっては既にある資源をもとに、「普通の生活」「日常生活」というその地域固有の生活文化が観光魅力になっているということだ。よく言われることだが、京都人にとって多くの寺社仏閣という世界文化遺産に囲まれて生活しているのだが、そんな歴史遺産は日常であり、特別意識するものとはなっていないことと同じである。

3年ほど前の「爆買い」が終わっても続く日本観光と言えば、渋谷のスクランブル交差点、浅草寺雷門の巨大提灯、大阪道頓堀の巨大ネオン看板といった観光ランドマークと共に、行ってみたい体験してみたいところといえば、全国各地にある城、和風旅館、露天風呂、地方ならではの「食」、更に日本ならではの自販機やガチャガチャ、100円ショップ、ドンキホーテのような激安ディスカウントストア、コンビニやドラッグストア、特色のある居酒屋、すき焼きや寿司の食べ放題、多様なラーメンの食べ歩き、・・・・・・・・こうしてインバウンドビジネスの推移と傾向を見ていくとわかるが、全て海外にはないものばかりである。国民食から世界のジャパニーズヌードルとなったラーメン然り、小さなことを言えば抹茶や抹茶菓子もそうである。こうした楽しみ方は日本人も訪日外国人も同じで、例えば最近ではシニア向けの日帰りバスツアーに訪日外国人も参加し始めているという。日帰りバスツアーと言えば、人気の「食べ放題」を中心とした1万円前後の安価な観光である。

ところでその訪日外国人がこんなところにも出没しているという事例については前回の未来塾でも取り上げてきた。その象徴として昔の日雇い労働者のドヤ街であった大阪西成、東京では山谷に、バックパッカー向けのゲストハウスが次々とリノベーションして誕生していると。そして、その周辺の飲食店が賑わっていて、トリップアドバイザーによる2017年度の人気ランキングNo1に大阪西成のお好み焼きの「ちとせ」がランキングされている。
こうした安価なゲストハウス需要に応えた一つにあのフーテンの寅さんのロケ地で知られている東京葛飾柴又に同じようなゲストハウスが出来て帝釈天への参道に訪日外国人が現れてきたという。その宿泊施設は「柴又BASE」で、葛飾区の旧柴又職員寮を、ドミトリーを備えたバックパッカー向けのホステル(宿泊施設)にリノベーションしたというものである。ちょうど2年半ほど前になるが、今で言うところの寅さん映画の「聖地巡礼」の地である柴又が廃れて行く状況を未来塾「テーマから学ぶ」(観光地競争の「今」)として書いたことがあった。都市も地方も、街も村も、商業施設も商店街も、通りですらもが「観光地化」と言う集客競争の時代で、柴又は観光地としては衰退の一途をたどるであろうと言う内容であった。(冒頭の写真は参道の土産物店)
2020年の東京オリンピック・パラリンピックを目処とした民泊の法整備が遅れており、急激に増え続ける訪日外国人の宿泊需要に追いつかないことから、前述の大阪西成や東京山谷や、あるいは東京の中央線沿線には多くのゲストハウスが生まれ活況を見せている。こうした状況下での宿泊施設の誕生によって、多くの訪日外国人が柴又を訪れ、帝釈天の参道商店街も変わって行くことと思う。この参道を歩けばわかるが、従来の日本人観光客相手の草団子などの土産物店が多く、飲食店としては川魚料理・うなぎや天ぷらといった店があるがどれも相応の高い価格の食事処となっている。訪日外国人が好む安価で楽しめる居酒屋などの飲食店は極めて少ない。恐らくそうした店ができるまでは、単なる宿泊のみで飲食をはじめとした「遊び」には他の街へと流れて行くことと思われる。土産物店はあっても、日本人が「いいな」と思う日常的に使える店がほとんどないと言うことだ。これから柴又帝釈天がどのように変わって行くか、注視して行くつもりである。

こうした地域固有の生活文化、日本人が当たり前のこととして気付かずにいた「日常」は、インターネットによって、口コミによって、想像以上に早く拡散して行っていると言うことである。これも「いいね」時代、共感連鎖時代の特徴としてあると言うことだ。2年ほど前、「わさび事件」という小さな文化の衝突があった。わさびは日本独自の香辛料で訪日外国人にとって、きわめて珍しいことから寿司などには大量につけて食べる事があった。関西のある寿司店で過剰にわさびをつけて出したところ、わざとやったとして「バカにしてる」とネット上で非難の声が上がりその寿司店が謝罪したことがあった。そうした文化の違いは、お互いに経験し合うことによって、その文化の奥にある「良さ」がわかっていくものである。京都の美山町で行なわれている体験テーマが「米」となっているが、ご飯として食べるためだけの米ではなく、多様な食べ方や残った藁を使ったしめ縄を使った山里の暮らし体験などもそうした文化の良さの一つであろう。そこには昔からの知恵やアイディアが込められた暮らしの文化がある。そこにも古来からの「勿体無い」精神があり、これも日本固有の暮らし文化ということだ。こうした文化理解には多くの時間を要すると思っていたが、インターネット時代・「いいね」時代の共感連鎖は極めて早いということである。勿論、「負」の連鎖も同様であることも忘れてはならない。(続く)

*なお、テストではあるが、京都の友人も数年前から京都や大阪の路地裏に残っている祭りや催事、更には食事処をレポートしてくれています。興味のある方は私の Facebookのホームにもシェアしてくれているので、どうぞご覧ください。
  


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2018年01月21日

◆こころが動く、2つのキーワード  

ヒット商品応援団日記No700(毎週更新) 2018.1.21.


株価が上がり、有効求人倍率も1.56倍と良く、一見好況であるかのような数字が政府からリリースされているが、一向に景気実感はないと多くの生活者は感じている。好況はごく一部の大企業で、99.7%が中小・小規模事業者である。これは当たり前のことで、景気実感は可処分所得が増え、自由に消費に向かうことによって生まれる。一昨年から一見ギャップに思えるこうした事象はギャップではなく、社会保険の負担増により企業にとって人手不足であっても賃金を上げずらい状況にあり、生活者も自由に消費に向かう状況にはない、こうした当たり前のことから好況感は生まれないということである。
しかし、こうした「状況下」にあっても、身の丈にあった小さな「楽しさ」を創り出しているのが今という「成熟時代の消費」である。1980年代のようなバブル期を「好況」とした、その比較における好況感を感じることはない。多くの生活者は客観的冷静に未来を見据えた「今」の生活を考えた賢明な消費となっている。

さて、「いいね」文化、共感が求められる時代についてブログを書いてきたが、既に一昨年からこうした傾向は顕著に出てきていた。あの作詞家阿久悠さんは「時代が私に歌謡曲を書かせた」と語っていたが、いつの時代も歌は多くの人の「心」の在りようを映し出している。2016年デビューシングル「あいたい」がロングセールスを記録した林部智史。その抜きん出た歌唱力もさることながら、幾度となく挫折を繰り返した歌手の生き様がその歌詞をより際立たせ「泣き歌の貴公子」と呼ばれた歌手である。
翌年、一度も事務所や大手レーベルに所属することなくデビューからショッピングモールを中心に活動を続けてきた半崎美子が「サクラ~卒業できなかった君へ~」で17年間の下積みを経てメジャーデビューする。林部智史が「泣き歌の貴公子」であるのに対し、半崎美子は「ショッピングモールの歌姫」と称され、聴く人の涙を誘う。半崎はショッピングモールでサイン会をやっていると、普段まったくCDを買ったことがないとか、60年生きていて初めてCDを買いましたっていう方がすごく多いと話す。半崎にとってのショッピングモールは日頃音楽とは無縁でいた主婦たちとの「出会いの場」であったと話し、勝手に歌っているのではなく、いろいろなことを内に抱えた人たちの心を自分のフィルターを通して歌っているとも。
聴く者の感情移入は歌の本質であるが、映画もまさに泣けるものとしてある。もっと日常的なものであれば、お茶の間に直接入ってくる広告CMにも泣けるものがある。東京ローカルのみであるが、東京ガスは数年前から泣かせるCMをシリーズで行なっている。「家族の絆編」といった父娘の交流をテーマとしたCMであるが、カテゴリーとしてくくるなら「いいねCM」とでも呼べるものだ。
私の持論の構図ではないが、林部智史も半崎美子も大手レコード会社から売り出された楽曲ではなく、ある意味マイナーなデビューである。前者が表通りであるならば、後者の二人は路地裏のミュージシャンである。そして、旧来の音楽市場が縮小していく中で、この二人は音楽とは無縁であった新しい市場を開発していると言える。この市場は小さなものではあるが、メジャーではないもう一つの心に効く市場を代表している。

こうした「泣く」という情動反応は多くの研究者が仮説を立てているが、その生理反応のメカニズムは解き明かされているが、心がそのように「何故」動くのかは分かってはいない。この情動には快情動と不快情動の2つしかないという。凄まじいスピードと変化という時代要請が私たちに及ぼす多大なストレス社会にあって、一人で向かわなければならない個人化社会。こうした社会にあって、「泣く」ことは一種のストレス解消法を身につけたものだと言われている。
人はそれまで経験し蓄積されてきた苦労や心配事、あるいは不安を「泣く」ことによって洗い流すことを身につけてきたという。脳科学者である茂木健一郎は泣く行為を「人間の脳が、自分が受け取れない何かを受けた時、流すもの。言わば”掛け流し”のようなもの」と説明している。受け止めきれない時の、一種の防御反応、発散作用であるとも言える。

こうした「泣くこと」が必要とされる時代にあって、もう一つの情動、掛け流すものに「笑い」がある。笑いによるNK細胞の活性化をはじめその生理的メカニズム、その効果については多くのケーススタディが既に報告されている。「笑い」は病院やお年寄りの介護施設で医療行為として実際に行われているのでここでは触れないがすでに「笑い療法士」という医療職も生まれている。この「笑い」の歴史もいつか学んでみたいと思っているが、これも「歌」と同様時代時代の有り様を見事に映し出していることだけは事実である。

ところでここ数年新しい市場の「芽」を探しに大阪に出かけているが、未来塾としてそんなテーマも取り上げている。生まれ変わった新世界・ジャンジャン横丁や快進撃を続けるUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)もそうだが、大阪は「顧客との関係」の原点が残っている街である。大阪の街を歩けばわかるが、これでもかと楽しませる「文化」が都市再生・町おこしの鍵となっていることがわかる。笑いでいうならば、江戸落語がお座敷芸であったのに対し、上方落語は神社や河原といった屋外の芸であったと言われているように、そこにはとことん笑わせる、満足させる芸が生まれる。足を止めて最後まで笑ってくれない限り料金をいただけない、そんな環境から生まれたお笑いの芸であったということである。こうした背景からであろう、大阪がお笑いの聖地と言われる所以である。ただここ数年の吉本興業所属の芸人は「芸」のないタレントが多く、TV局の低コスト運営も相まってバラエティ番組には粗製乱造タレントばかりとなっている。全てが吉本所属ではないが、流行語大賞にも登場する「一発芸人」ばかりとなっている。大阪で始まったMANZAIブームも「やすきよ」以降、島田紳助・松本竜介までで、後はダウンタウンぐらいであろう。

話は横道にそれてしまったが、この2つの情動、その「掛け流し」はストレスが直接「個人」に向かっていく時代にあっては、益々必要不可欠となる。それは音楽や映画、あるいは漫才のようなお笑いも含め、ビジネス発想の着眼の多くを占めることが推測される。前述の泣けるCMと同じように、笑えるCMもここにきて増加傾向にある。共に、過剰情報の中にあって、どれだけ目立つか、意外性や特異性を追いかけることばかりであったが、生活者の情緒・感情に訴求する方向に次第に進化してきている。
例えば、CMの世界で比較をするとよくわかる。ソフトバンクのスマホCMは犬のお父さんをはじめとした白戸家家族によるストーリー展開でその「意外性」の面白さであった。その後を追いかけたのがauのCM「三太郎シリーズ」で、これも浦島太郎や桃太郎、金太郎などの昔話を借りた意外性の世界ではあるが、それぞれのストーリー展開には「笑い」を誘うようにキャラクター設定による面白CMになっている。「いいね」時代での共感評価はauの方がダントツに高いことがわかる。ちなみに、auはCM総合研究所による2017年度のCM好感度No.1ブランドになっている。

以上については情動の動きが激しい時代をポジティブに考えてのことである。しかし、こうした感情の起伏の激しさは、ネガティブ面としては既に社会問題化していることも忘れてはならない。「キレる」という言葉がある。1990年代に生まれた言葉でお笑い芸人の西川のりおのギャグからと言われているが、昂ぶる感情を抑えることが出来ずに怒りの感情を直接ぶつける、あるいはエスカレートして凶行に走るといった場合に使われる言葉である。2000年にこうしたキレるとしか言いようのない意味不明、不可解な少年犯罪が多発し、マスメディアが多用することによって一般化した言葉である。そして、この抑えられない「感情」、茂木健一郎言うところの「掛け流す」ことが出来ない怒りの感情は広く一般化していく。それはモンスターペアレントあるいはモンスターペイジェントと呼ばれ、単なる教師や医師への苦情・クレーマーを超えた「情動」によるものとして今日まで続いている。最近では騒音などのお隣さん同士の問題が多発しているが、コミュニティが崩壊した個人化社会にあってはこうした問題が日常化しているのも、広く言うならばストレス社会における病理であろう。
そうした行為は、犯罪とは呼べないが、一般常識では理解できない、正体不明の行為として受け止められている。こころが動く、その激しさは負の側面として社会問題となっていることをも考えなければならない。極論ではあるが、たった一言、小さな行き違いによって「いいね」から「激昂」へと振れるということである。

さて課題としては心が動く時代のビジネスをどう考えるかである。「いいね」という共感時代にあっては良くも悪しくも大きく振れる顧客心理のことを考えなければならない時代にいる。それは値上げであれ、値下げであれ、価格に対する考え方・コミュニケーションをどうするのか。「本音」であっても、顧客によって真逆の受け止め方をされるということもある。つまり、昨年の総選挙の時もそうであったが、政治家のたった一言によってそれまでの生活者の心理フェーズがガラッと変わる、またその逆もある、そんな時代にいる。
実は適切な言葉ではないかもしれないが、今は「恋愛」のような心理社会にいると考えた方が良い。恋愛を経験した人間であればわかると思うが、自ら「好き」にならない限り、相手も好きにはならず、恋愛は成立しない。「いいね」が大きく振れる「今」にあっては、まず顧客を信じ「好き」になることから始めるということだ。好きを通じ「いいね」になれば良いが、また逆に「嫌よ」になればその関係は成立しないことになる。

今までのマーケティングは「個客」を相手に興味・関心事を探り「内なるこころ」に訴求することが基本であった。いいね時代の「共感」がキーワードになったと言うことは、まずこの「内なるこころ」の発見が必要となる。それは通販であれ、対面販売であれ、この「内なるこころ」を解き明かすことが、「誰を顧客とするのか」につながる。顧客を発見するとは「内なるこころ」の発見に他ならない。そして、「恋愛」市場という言い方をするとすれば、「好き」を「共感」という言葉に置き換えても良い。自ら「いいね」と共感することによって、顧客もまた共感するか否かということである。

もう一つの方法は既に「こころ」がどんな動きをしているかを分析解明している企業がある。周知のAmazonでは検索ページを開ければ、「よく一緒に購入されている商品」、さらには「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という表示がされている。商売としては「ついで買い」の促進であるが、この2つの項目は購入者の「こころの動き」(興味・関心事の変化)を分析把握するためのものとなっている。Amazonの場合は膨大な情報を分析し、ついで買いを促進し、顧客にとっては丁寧なサービス情報となり、目標とする「Amazonっていいね」へと向かわせることにある。
このことは街の青果店でも鮮魚店でも行なわれてきたことで、例えばその日安くなっている旬の野菜をお勧めしながら、”鍋にするならこれもいいよ”と言うのと同じである。顧客のためにどれだけ本気で向き合っているかによって、顧客のこころもまた動く。以前そんな事例としてカタログハウスの「お客様窓口」での対応を書いたことがあった。現在も行われていると思うが、カタログハウスでは顧客からの問い合わせや質問について、全て手書きのはがきで答えている。通販という見えない顧客と「手書き」というこころで会話しようとしているのである。ネット上でシステマチックに答える世界には便利ではあるが、そこには「人間」は介在しない。カタログハウスの場合は、「手書き」によって少しでも「人間」が答えている世界に近づこうとしており、それが顧客の側にも伝わる。一方、Amazonは真逆であるかのように思えるが、AI(人工知能)の世界ではないが、HPを訪れた顧客の心がどう動くのかデータ分析を通し、顧客満足を求め「人間」に近づこうとしている。どちらも「こころの動き」に応える試みである。

成熟時代のビジネスは、どのように顧客の「こころを動かす」かが最大のテーマとなった。Amazonのようなデジタル世界も、カタログハウスのようなアナログ世界にあっても、更に言うならば巨大なスーパーチェーンストアであっても、街の鮮魚店であっても、そこには必ず「人間」が介在する。そして、その「人間」に不可欠なものとして「泣き」「笑い」と言う2つの情動が求められていることだけは確かである。
ところで、高校野球に「こころ動かした」一人にあの作詞家阿久悠さんがいる。無類の高校野球フアンである阿久さんは、「見る側」からの視点で1979年から2006年の亡くなる直前まで全試合・全球の目撃者として書いた書籍「甲子園の詩」(幻戯書房刊)が残されている。その中で「なぜにぼくらはこれ程までに高校野球に熱くなるのだろう」と自問し、「”つかれを知らない子供のように”と小椋佳が歌ったが、今の子供はつかれきっており、ただ一つ、つかれていないものに心を熱くするのだろう」と語っている。そして、熱くさせる何かとは甲子園という大舞台で繰り広げられるる「泣き」「笑い」のドラマであり、それがこころを動かしていると。(続く)  


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2018年01月14日

◆価格価値を超えるもの 

ヒット商品応援団日記No699(毎週更新) 2018.1.14.



今年の中心テーマとして、「成熟時代の消費」を考えていくこととした。それは既に一昨年の夏ユニクロの決算発表の記者会見内容を踏まえたもので、新たな「価格」認識が必要な時代に向かっていると感じたからであった。既に何回かブログにも書いてきたので繰り返さないが、値上げの失敗を認め次なる改革が必要であるとの発表であった。この改革が眼に見える結果の一つとして現れてきているのが、昨年秋からのファーストりテーリングの出店内容、その規模によく出てきている。特に売上好調である低価格妹ブランドGUとユニクロブランドとのセットの出店によく出てきている。こうしたビジネス事例としてユニクロを取り上げるのも、柳井社長という創業者でありオーナー型リーダーによる経営であることから、その経営戦略とその結果が、他のサラリーマン型リーダーによる企業運営と比べて、わかりやすくよく見えているからである。

2008年のリーマンショック以降、多くの企業、特にチェーンストアは市場の縮小に伴い店舗閉鎖が相次いだ。勿論、「訳あり」というキーワードと共に「低価格」商品のヒットが続いたことは周知の通りである。その良き事例の1社が290円という安さを売り物にしたラーメンチェーン店の幸楽苑である。ある意味順調に成長してきた幸楽苑であるが、昨年業績悪化により全店の約1割弱の店舗閉鎖が実施されたように単なる低価格だけでは成立しないことも明らかになった。更には低価格を売り物としてきた焼き鳥居酒屋のチェーン店「鳥貴族」も昨年10月280円均一から298円均一へと値上げをした途端売上が3.8%減少となったとのこと。背景には原材料費やアルバイト人件費の高騰があるのだが、幸楽苑も鳥貴族も全て「客数減」による経営悪化である。言葉を変えれば、「消費のあり方」が変わってきているということである。

年頭のブログでは「新しい消費物語始まる」とし、成熟時代の消費をテーマとした。その「成熟」とはモノ充足から離れた「いいね文化」「共感物語」がその出発点となっているという指摘であった。その裏側にはデフレが常態化、日常化した時代の「新たな価値観」のことである。昨年夏頃から最早デフレは死語となったとの指摘をしてきたが、このような消費動向を誰も定義しないまま今日に至っている。そうしたことから今後は「ポストデフレ時代 」と呼ぶこととした。
私も「デフレ」という言葉を何回となく使ってきたが、その定義であるOECDによるもので「一般物価水準が継続的に下落する情況」をデフレとしている。但し、デフレ=不況ということではない。リーマンショック時の不況は脱したものの、いわゆるV字回復のような成長ではなく、停滞状況が続いているということである。

実は価格価値が下がり続ける経済の問題としてだけではなく、あらゆる面において旧来価値の「下落」が取り巻いていることを指摘してきた。例えば、価値の下落、その価値とは従来価値があるとされてきたものの下落である。その冴えたるものの一つが情報であろう。周知のように、インターネットによるブログやYouTube、あるいはFacebookといった個人情報の出現によって、既存メディアによる情報価値は総体的に下落した。その象徴例が既存雑誌が部数を落とし、あるいは廃刊していくなかで、宝島社の付録付き雑誌が部数を伸ばしたり、他の雑誌社も付録付き雑誌の発売へと追随した。書店は情報販売と共に、多様なグッズの販売をも引き受ける事象も副産物として生まれてきた。
つまり、価格を含めてだが、旧来価値の下落がその本質にあるということである。

そして、この「ポストデフレ時代」に新しい消費の芽、新しい価値を気付かさせてくれたのが訪日外国人とオタクであり、それは中心から「外れた」地方に、郊外に、表通りから少し入った横丁路地裏に、あるいは高層ビルの谷間にある「雑居ビル」の一室に、「地下」に、生まれ熟成している。この象徴例が、東京からみれば地方である大阪に、中心の梅田ではなく難波(道頓堀・道具屋筋)に、あるいは中心の裏路地にあたるようなベイエリア(USJ)や新世界(ジャンジャン横丁)に、人が押し寄せ活況を見せている。そして、人を魅きつけるキーワードが日本ならではの「生活文化」ということである。

こうした価値の進化(魅力)をエリアとしてみて行くと以上のようになるが、業界の中でも同じような「進化」と「下落=旧来型」がみられる時代となっている。前述の幸楽苑と比較されているのが日高屋であるが、日高屋の場合は安さの前に「至便な立地」と「時代にあったメニュー=野菜たっぷりタンメン」という柱が用意されている。そうした比較よりも、いわゆる「街中華」の店々の方がこうした他にはない手作りといった特徴、地場の顧客要請を踏まえた中華定食作りといった目の前にいる顧客を大切にした「進化」を遂げ生き残っている。例えば日高屋もそうであるが、立地商圏に合わせてサラリーマン向けの「ちょい飲み」需要にも応えるといった丁寧な商売が進化のもとになっているということだ。

そして、この進化の先には何があるかである。それは日高屋のコンセプトでもあるが「食堂」である。中華メニューを入り口としているのが日高屋や街中華店、あるいは「餃子の王将」も入るが、「和」を入り口にしたのが成長著しい「大戸屋」をはじめとした「やよい軒」や地域の特色ある「大衆食堂」である。東京で言えば、歴史のあるときわ食堂ということになる。メニューは豊富で、しかも安い。一時期、ファストフードチェーンによって、あるいは後継者がいないことから市場から撤退した「食堂」である。一般的に外食産業を不況業種のように見る専門家もいるが、それは一面的で食堂は健在である。昨年銀座の路地裏歩きから久しぶりに「三州屋」という大衆割烹で食事をしたが、満席でしかも次から次へと顧客は押し寄せていた。三州屋はまさに知る人ぞ知る路地奥の老舗店だが、顧客は周辺のビジネスマン以外にシニア層や外国人と多様で、大衆割烹というより街の「食堂」となっていた。食堂にはあれこれ好きなメニューを組み合わせる「楽しさ」もあるが、この三州屋には「鳥豆腐」という古くからの名物メニューがあって一つの「文化」となっている。いわゆる名物メニューである。入り口は異なるが「食堂」には選ぶ楽しさと共に、独自の「店文化」とでも呼べるような特徴メニューがあるということだ。

その「文化」とは何か、どんな力をもたらしてくれるのか、ということである。それは「文化」を感じた顧客によって力となる。「いいね」あるいは「共感」することを入り口に、回数を重ねフアンになり、オタクにもなり、そして信者にもなる。勿論、時間を必要とする。四半期単位の実績だけで評価される米国型経営には難しい。昨年の未来塾「生活文化の時代へ」の末尾にも書いたが、青森には「100年食堂」と呼ばれる大衆食堂が数多くあると。地域の人たちが100年かけて育てた食堂である。店の人たちだけでなく、顧客もまた受け継いで行くもので、そうした感じる「何か」を生活文化と呼ぶ。
そして、その生活文化の中心には必ず「あるもの」がある。それは使命感であり、それまで精進してきたこだわりで、もう少しビジネス的に言うならば、ポリシーとコンセプトということになる。使命感やこだわりは必ず「表」に出てくるものである。いや、表に出てこないものには使命感もこだわりもないということだ。「外見」は一番外側の「中身」であり、それは一つの「スタイル」となって、私たちに迫ってくる筈である。
例えば、この外見と中身の関係はデザインの本質でもある。「いいね」と感じるデザインは中身が素敵であると言うことである。デザイン価値とはそうしたものであって、長く使い続けたい、着続けたいデザインのことで、作ってくれた企業や人物の使命感やコンセプトを感じ楽しむことでもある。成熟時代の豊かさとは、こうした感じることができる豊かさのことで、ポストデフレの時代とは、「感の時代」を迎えたということだ。価格価値を超えるもの、それは「感じる」商品作りということだ。(続く)
  


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2018年01月08日

◆「いいね」時代の落とし穴 

ヒット商品応援団日記No698(毎週更新) 2018.1.8.

前回のブログではモノ充足から離れた成熟時代の「いいね文化」「共感物語」について書いた。ある意味、それまで気づかなかった、埋れていた生活文化への「いいね」であり、その共感物語が消費に繋がるという主旨であった。ただ「いいね」という表現はSNSのそれと直接結びつき誤解が生まれるかもしれないので前回のブログに続きこのテーマについて書き添えておくこととする。
実は何故「いいね」という共感に多くの人がひきよせられているかというその社会的背景を明確にしなければならない。マーケティングの基本に「問題点こそ市場機会である」という基本的な視座がある。これはことマーケティングという狭い分野だけでなく、周知のP.ドラッカーが自らを社会生態学者であると言わしめたように、「社会」を見据える視点のことでもある。

ところでこの視座を持って、何故「いいね」に人は魅了されているのかである。その背景には前回も少し触れたが、個人化社会の進行が大きくある。社会の単位が家族や会社という単位から「個人」へとその重心が移動してきたことによる。そこには当たり前のことであるが、「人は一人では生きられない」という心の「隙間」が生まれてくる。この隙間を埋めるかのように、他者の発言や表現内容に「共感」する。この共感の世界を広げることに成功したのがFacebookであるが、以降共感マーケティングやシェアーマーケティングといった販促策が登場してくる。社会心理から言えば、共感することによって自己承認欲求を満たすという構造である。

実は本当の共感とは、「あの人の気持ちがわかる」ことではなく、「共に通じ合っている感覚」のことである。つまり、「感じる」ことがベースとなっており、常にその感じ方は変化するということでもある。この事例として良いのかどうかわからないが、昨年の総選挙における希望の党の小池百合子代表の「排除発言」によってそれまでの「自分たち有権者のことをわかってくれていた」という共感は、一言で言えば「私とは通じ合っていなかった」という真逆の方向へと大きく振り子が振れた社会現象を目のあたりにしたことがあった。ある政治評論家は「それまでのいじめられっ子であった小池代表がいじめっ子になったしまった」と明確に指摘をしていたがその通りである。この排除発言によって引き起こされた「違うじゃないか」という感覚が真逆の結果を産んだということである。「感じ方」はたった一言で変わる事例である。

マーケティングにはロングセラーとベストセラーという2つの「売り方」がある。厳密に言えば、「顧客が求めた2つのあり方」と言ったほうが正確である。例えば、1990年代末、渋谷109で起きたベストセラー「事件」が当てはまる。その中心は周知の「エゴイスト」というファッション専門店でカリスマ店長という言葉と共にまさにベストセラーとなった。ファッションという「情報商品」には多く当てはまるのだが、「一挙に売れ、あっと言う間に売れなくなる」と言う極端な「ブーム」のことである。当時の状況を「エゴイスト」の代表である鬼頭さんにインタビューした折話してくれたのは「売るのを制限した」という、つまりブームを終わらせることであった。つまり、商品の持つ魅力によって売れたのではなく、今の言葉で言えば「いいね」連鎖が起きたからであったと話してくれた。「連鎖」は一定の範囲で必ず終わるということである。

「いいね」時代をどう乗り越えるかという課題を前にしているのだが、問題はその「いいね」の中身とその伝え方ということになる。「感覚」に訴えかけることは必要な時代である。昨年の流行語大賞になった「インスタ映え」はビジュアルという最も「感じる」ことができるメディアとなっている。今や飲食店に行けば、食事の前に写真を撮る人間が数多く見られる。その食事が美味しければリピーターになるが、ごく普通の食事であれば、他のインスタ映えする飲食店へと向かう。つまり、そうしたマーケットを顧客対象とするのであれば、次から次へとそのビジュアルをこれでもかと変えていくことが不可欠となる。しかし、それが驚くようなビジュアルで無くなった時、真逆の結果へと向かう。もう一つの方法はより深みのある商品・サービスへと磨き上げ続けることである。こうしたリピーターづくりの先にはブランド化、老舗へと向かうこととなる。
これらの違いを前回のブログでは前者を情報フロー型、後者を情報ストック型とネーミングしたが、どちらかの道を選ぶこととなる。

この「いいね」という言葉、感性世界の前段階として「かっわいい〜ぃ」という言葉があったことを思い出す。この「かっわいい〜ぃ」は物語消費時代における視覚の言語化現象である。1990年代後半から、この「かっわいい〜ぃ」という言葉はあらゆる世界へと浸透していくのだが、何がかわいいのか、どこがかわいいのか、といっても意味は全くない。「かっわいい〜ぃ」という言葉の裏側に自己愛を見る事も可能であり、また日本語理解の足りなさを指摘することも必要である。ただ、コミュニケーション、表現という視座に立つと、過剰なまでの情報の中で、「かっわいい〜ぃ」は直感的表現そのものと言える。「いいね」も同様の表現である。「かっわいい~ぃ」は日本ファッションのキーワードとして世界の共通語となっているが、「いいね」もまた世界共通の感性ワードという点もまた同じ時代のキーワードとなっている。
繰り返しになるが、この感性世界のあり方もまた常に変化していくことを忘れてはならない。(続く)  


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2018年01月03日

◆新しい消費物語始まる




ヒット商品応援団日記No697(毎週更新) 2018.1.3.

新年明けましておめでとうございます。
昨年最後に書いたブログは「生活文化の時代へ」と題した、成熟時代の消費を考えたものであった。その生活文化は、中心から「外れた」地方で、郊外で、表通りから少し入った横丁路地裏で、あるいは高層ビルの谷間にある「雑居ビル」の一室で、「地下」で、生まれ熟成しているとし、その魅力の一端を内容とした。そして、その裏通りの消費魅力を「文化共感物語」であると指摘をした。つまり、バブル崩壊以降の消費特徴であるモノ充足を終えた成熟時代の消費キーワードであった。

こうした指摘をしてきたのだが、くしくも朝日新聞と日経新聞の元旦号に同じような成熟時代の特徴をテーマとした記事が載っていた。朝日新聞は平成のライフスタイル変化の特徴として、ロックスター矢沢永吉を例にあげて、「成功とハッピーとは違う」とした矢沢の発言を取り上げ、他と比べることのない「ハッピーは自分が決める」とした個人化社会の変化をその内容としていた。成功という経済的充足とは違う自身の幸福を追求する時代に来ているという指摘である。
日経新聞の方では、総務省が行っている全国消費実態調査結果に基づいた指摘を行っている。それは5年前と比較し30歳未満男性では消費支出減15%、女性では5%減というデータをもとに、モノを持たない生活を志向し、昨年の流行語大賞となった「インスタ映え」ではないが、SNSでの「いいね」という共感価値を求めた消費行動となっていると。そして、この根底には認めてもらいたいとした「承認欲求」があるとした理由だが、私が以前から指摘してきた欲望喪失世代、離れ世代のネット上での「居場所欲求」のことである。

前者の欲求を心の豊かさ欲求と呼んでも構わないし、生きがい欲求と呼んでも同じである。後者を自己表現欲求と呼んでも良いし、いずれの場合も「モノ充足」から離れた欲望であることに変わりはない。”広告は詐術です。嘘八百の世界です”と言ったのは、雑誌「広告批評」を主宰し誰よりも広告の世界を熟知していたコラムニストの故天野祐吉さんであった。バブル崩壊以降、モノの実体から離れた嘘八百の世界を楽しめる環境はどんどん少なくなってしまった。その環境は周知の可処分所得の減少であり、何よりも働き方が変わったことによる。嘘八百を楽しめる余裕がなくなってきたことと共に、企業も消費者もモノの実体に迫ることによって価格意識は研ぎ澄まされ、それまでの生半可な付加価値といった嘘のベールが否応無く剥がされてしまう。結果、デフレマインドが形成されるわけだが、ランチは500円以内ですますが、一方午後のティータイムにはスターバックスで600円のドリンクを楽しむ。つまり、それまでの一面的なデフレ環境での「消費物語」が変わってきたということである。どんなにちっぽけに見える幸せでも、自分が良いと思えれば素敵じゃないか、という物語である。あるいは自己実現などと高邁なことではなく、「自分流に楽しく遊ぶ」ことであって、例えば2017年の大晦日カウントダウン時刻に渋谷のスクランブル交差点に集まることもまた自分流の遊びで、それもまた自己実現につながるということである。SNSにおける「いいね」共有をスクランブル交差点でも共有するということである。これも「いいね」文化の共有ということであろう。

矢沢永吉の言う「成功」は戦後日本の奇跡とでも呼べる復興・成長、モノの乏しい時代から充足を果たした時代に置き換えても違いはない。この成功のことをあの作家五木寛之は「下山の思想」の中で讃えているが、今や登山ではなく下山のあり方が求められれいると指摘をしていた。その指摘とは矢沢の言葉で言えば「ハッピー」ということになる。一般的にいうならばバブル崩壊以降目指した「心の豊かさ」ということになる。五木寛之は「下山」とは安全に、しかも確実に下山する、ということだけはない。下山のなかに、登山の本質を見出そうということだ、と書いている。勿論、成長を否定しているのではない。山を下り、しばし体をやすめ、また新しい山行を計画する、ということである。この登山は若い世代だけでなく、シニア世代にとっても登り方は違っても山行をするということである。そして、「下山」の時代とは、言い換えれば「成熟期」ということではあるまいかとも。

さてその登山の本質は何かということである。登山をすれば分かると思うが、登山と下山とでは「歩き方」が違う、気持ちも、何に重心を置くかも違う。登山の時に見える景色は「外」の世界へと向けられ、下山の時は「内」へと向かう。消費という視点に立てば、外とは欧米の文化であり、それが具現化された商品やスタイルのことである。内とは足元に埋もれた日本の文化であり、日常に広がる世界のことである。そして、登山に要した時間がバブル期までの60年とすれば、下山もまた60年かけて山を下りる。現在位置はと言えば、山頂から少し下りたところにいて、バブル期という山頂を懐かしむ人もいる。以前、「バブルから学ぶ」というテーマブログにも書いたが、マハラジャが復活しバブルの復活などとマスコミでは言われているが、ポスト団塊世代が当時を懐かしむ世界だけで、若い世代にまで広がることはない。

ここ2年ほど街歩きの中心を東京から大阪や京都へと広げてきた。というのも下山から見える消費風景に「いいね文化」、あるいは「共感物語」といった新しい芽がこの地域に見え始めているからである。その芽とは2017年度には2900万人に及ぶであろうと予測されている訪日外国人と小さくてもハッピーでありたいとするオタクという今まで無かった2つの市場によって生まれた風景である。街を歩けば、あるいはネット上の路地裏サイトを歩けば、必ずこの2つに出会うはずである。そして、この2つの市場に共通していることは、モノ充足から離れた成熟時代の「いいね文化」「共感物語」がその出発点となっている。「好き」は未来の入り口ということだ。そこからどんな文化が育っていくか、新しい消費物語が始まる。
今年もまた下山から見える消費の景色をより現場に近いところからブログを書いていくつもりである。(続く)
  


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2017年12月21日

◆未来塾(31)「生活文化の時代へ」(後半)


大阪新世界ジャンジャン横丁


常に「外」から教えられる日本

サブカルチャー、ポップカルチャー、あるいはサムライ、ニンジャ、・・・・・・「クールジャパン」と呼んだのは勿論海外の熱狂的なフアンであった。サブカルの街、オタクの街、アキバには1990年代後半から2000年代初頭にかけてクール(ステキ・かっこいい)と感じた主に欧米人のオタクが訪れていた。漫画やアニメ、特にアニメが一部のオタクから広くマスMDされることと併行して現れた現象で、ちょうどインターネットが普及し始めた時期でもあった。当時は言葉として呼ばれてはいなかったが、今日で言うところのバックパッカーで、オタクという表現と同じ様に若干蔑みの目て使われていた。バックパッカーという言葉にあるように、バックとはリュックサックのことで、このリュックスタイルは後に若い世代からシニアまで広く取り入れられることとなる。
それまでは文化というと、純文学であったり、伝承芸能の古典ものであったり、高尚なものとしての認識がまだまだ強い時代であった。こうした既成概念に穴を穿ったのは好きが高じた訪日外国人・バックパッカーと日本人オタクという「外」の人間であった。

少し時代を遡れば江戸の庶民文化の一つであった浮世絵が注目されたのも、ヨーロッパの印象派の画家や美術家によってであった。それは江戸時代の輸出品であったお茶や陶器の包装資材として浮世絵が使われていたのに目が止まったのがきっかけであったと言われている。ヨーロッパの文化はオペラが代表するように貴族社会や宗教社会から生まれ、それが次第に庶民へと浸透していった。一方江戸文化は庶民から生まれ、武家社会にも浸透していった特異な文化である。そうした江戸文化を代表するのが浮世絵であるが、その誕生は1680年ごろで絵師によって描かれた江戸のプロマイドのようなものであった。
1856年にパリの店で見つけられた北斎の「漫画」はヨーロッパの人々の日本の美術 への興味をふくらませ、明治維新以降広重や歌麿などの浮世絵が一大ブームとなる。その影響を「ジャポニズム」と呼んでいた。こうした「外」から指摘された構図は1990年代後半秋葉原にアニメやコミックを求めて集まった外国人オタクと同じである。つまり、当時の「ジャポニズム」とは今日の「クールジャパン」ということである。
そして、クールジャパンの聖地であるアキバを歩けばわかるが、現在は、秋葉原UDX内に東京アニメセンターがあるが、スタートは駅前の高層ビルの西側にある横丁路地裏にアニメやコミック、あるいはフィギュアなどのグッズ類を扱う店があった。今はどうかと言えば、訪日外国人オタク目当てだと思うが、約500台のガチャガチャが集約されたガチャポン会館も観光名所の一つになっている。
インターネット時代の横丁路地裏文化

インターンネットが普及して約20年になる。得られる情報量は10年前と比較して数百倍とも言われている。しかも、SNSやFacebookの浸透によって、夥しいコミュニティサイトが生まれ、マーケティングもこうしたコミュニティサイトをターゲット目標とすることとなり、それまでのマスメディア広告はその効果を失ってきたことは周知の通りである。そして、生活者の興味関心事の数だけコミュニティが生まれるのだが、そのコミュニティも数年前から単なる趣味やスポーツあるいはご近所ママ友の集まりから、「共感コミュニティ」とでも表現する様な考えや理念、それに基づく「物語」を持ったコミュニティへと進化してきている。
私の友人の主婦は有機農産物や手作りした食品あるいはフェアトレード商品を催事販売したり、インターネットオンラインで販売したりしてコミュニティを運営している。消費という視点に立てば、コミュニティメンバーはこうした「物語」を買う訳である。

こうした考えや理念といった「物語」については訪日外国人の旅行好きサイトである「トリップアドバイザー」に物の見事にその共感物語が出てきている。周知の様に旅行好きの口コミサイトであるが、2017年度の人気の日本のレストランランキングが次のようになっている。
1位;お好み焼き ちとせ(大阪市)
2位;ニーノ (奈良県奈良市/ピザ・パスタ)
3位;クマ カフェ (大阪府大阪市/ピザなど)
4位;お好み焼き 克 (京都府京都市)
5位;韓の台所 カドチカ店 (東京都渋谷区/焼肉)

全て小さな横丁路地裏の店で、隠れた名店ばかりである。1位の「ちとせ」は大阪は再開発から取り残された西成のディープな街にある。地下鉄の御堂筋線動物園駅から南に歩いて少しのところの路地裏にあるのだが、駅北側には最近注目を浴び始めた通天閣ジャンジャン横丁があると言った方がわかりやすい。大阪の人間に言わせると、知る人ぞ知る店だが、昔はあまり土地柄が良くないこともあって「ちとせ」までは行かないとのこと。そんな店に訪日外国人が押し寄せるのである。店の雰囲気もそうだが、昭和の匂いがするノスタルジックな昔ながらのお好み焼きである。訪日外国人が多いのは、日本最大級の「日雇い労働者の町」として名をはせた西成のあいりん地区が、国際的な「バックパッカーの街」に変貌を遂げているからである。東京でも同様で、浅草の北側にある山谷がバックパッカー向けの宿泊施設が急増しており、同じ現象である。
2位にランクされた「ニーノ 」(奈良市/ピザ・パスタ)はトリップアドバイザーによれば”英語の会話はうまくないが、家庭的なもてなしサービス”との評価。確か「ニーノ 」もそうであったと思うが、訪れた客の名前を漢字に置き換えて色紙に書いてプレゼントするサービスが喜ばれている。そんな気遣いが口コミとして伝わり、こうしたサービスが日本的なもてなしであると感じたからであろう。

観光庁の訪日外国人の要望調査には「畳の部屋の旅館に泊まりたい」、あるいは「温泉に入りたい」と言った点が挙げられているが、そうしたことを含め日本文化への興味関心は高い。訪日外国人をどこよりも早く受け入れてきた東京谷根千の「澤の屋旅館」が行ってきたのはこの家族的なもてなしサービスであった。
周知の様に谷根千は東京の中でも下町といわれ、古い町並が残る谷中に位置し、伝統的な下町の文化や人々にふれることができるエリアである。この澤の屋旅館はその宿泊料金も安く、これまでに89ヵ国、延17万人を超える外国のお客様が利用。ちなみに、和室1名で1泊5400円。朝食は324円となっている。
この澤の屋旅館は宿泊客の調査を行っており、結果を公開している。個人旅行における訪日理由が明確になっている。
「日本の歴史・文化・芸術に興味がある」が 54.5%でトップ。
以下、「日本が好き」50.0%、「日本人が好き」30.2%、「観光地を訪れる」27.5%、「日本の食に興味がある」 26.0%の順となっている。
そして、旅行で体験したことは、
「歴史的建築・景観(城・寺社)」81.9%、 「由緒ある日本旅館に宿泊」80.3%、「日本の伝統食(寿司・懐石など)」73.4%、「日本の日常食(う どん・そば・居酒屋など)」73.0%、「日常生活・文化(スーパーマーケット・ショッピングなど)」 68.3%等が上位に挙げられている。
こうした調査結果とトリップアドバイザーの人気のレストランランキングを重ね合わせてみると訪日外国人の行動が良くわかる。これがクールジャパンとしての日本文化である。

都市の中の横丁路地裏

秋葉原、アキバの街もそうであるが、駅前・中心部から少し外れた、裏通り、地下、・・・・・こうしたところに独特な文化が生まれる。今やメジャーとなったAKB48も駅前から少し外れた雑居ビルに誕生した。次には駅前高架下にステージが広がってきた。そして、現在は後を追う様にいわゆる「地下アイドル」が多くのミニミニ劇場から誕生している。それは都市中心部の高い地代・賃料では商売できないような、少数の特定顧客を相手にした一見マイナーな商売だが、その分自由で個性的な店々が誕生している。特定顧客相手だから、つまりリピーター顧客相手だから、利益を追い求めることに汲々となることなく、思い切った商売ができる。店やオーナーの考えや思いをストレートに発揮でき、それに共感する顧客が集まるということである。成熟時代の消費とは、生きるための必要から生まれるものではなく、どちらかと言えば前述のように店やオーナーの考えや理念(物語)に共感する「物語消費」となる。不必要に見えるが、実は生きがい・働きがいが求められる時代にあっては不可欠な要素となっているのだ。

ところで大阪の中心部梅田に人が集まる2つの路地裏がある。元々は大阪はサントリー誕生の地であり、酒飲み文化をその秀逸な広告によって広めた企業でもある。その酒飲み文化を創造してきた一人である作家開高健がその著書にも書いているが大阪ミナミに「関東煮(かんとうだき)」の有名店「たこ梅」がある。こだわりにこだわった店だが、かなり値段も高く日常的に回数多く利用できる店ではない。
こうした酒飲みの店ではなく、サラリーマン御用達とでも言える安くて美味しい肴を出してくれる老舗の大衆酒場がある。神戸灘の地酒「福寿」の直営店でサラリーマンの聖地とでも言える酒場である。梅田の駅前ビル1号館にあるのだが、阪神百貨店横の地下道を6~7分歩いたところのかなり古いビルのそれも一番奥にある店である。東京でいうならば新橋の「大露路」と言ったオヤジの居酒屋である。いつ行ってもほぼ満席状態で店内はそれこそオヤジ飲みの聖地の一つとなっている。サラリーマンの上司から部下へ、その部下が出世し、またその部下へと受け継がれてきたオヤジ飲みの店である。

同じ梅田にはもう一つ若い世代が集まる路地裏がある。大阪駅の駅ビルルクアイーレの「バルチカ」にある「赤白(コウハク)」という洋風おでんを目玉メニューにした人気店を中心とした裏通り飲食街である。東京もそうであるが、アルコール離れの若い世代向けの新しい業態を横丁のように編集した通りが誕生している。通称「バル横丁」と呼ばれているが、スペインのバル文化と日本の横丁文化を融合させた通りである。
ところでこのルクアイーレの裏通り「バルチカ」がフロアを拡大させている。周知のように伊勢丹が撤退した跡の食品フロアをどうするかという課題があったのだが、地下一階はユニクロとGUが入り、地下二階はどうなるのかと注視していたが以下のようなニュースリリースが発表され12月19日オープンさせている。

『現在営業中の「バルチカ」のフロア面積を約200坪から約640坪へと3倍に拡大、新たに18店舗が出店する。新たに加わる店は、「海老talianバル」や「大衆飲み処 徳田酒店」「松葉」など、ウラなんば、天満、京橋でコスパが高いと評判の繁盛店。梅田のど真ん中に、路地裏の人気店やミシュランのビブグルマン獲得店など、実力を兼ね備えた名店を集積。昼から飲めるのはもちろん、さまざまなジャンルの料理や酒がそろい、はしご酒も楽しめるエリアになる。』

横丁がエリアへと3倍に拡大させたとのことだが、新しい若者世代のバルの聖地が誕生したということであろう。そして、前述の福寿にはオヤジ酒場文化として吉田類の「酒場放浪記」があるが、若い世代のバル文化・ちょい飲み文化もまた生まれてくるということだ。

フラリーマンという「自分」を見つけようとする人達

1990年代半ば都市を漂流する少女達が現れ、薬物に手を出したり、援助交際といった問題など社会問題化したことがあった。当時、「無縁社会」という言葉はなかったが、個人化社会の進行に伴って生まれた若い世代の社会現象の一つであった。
今、若い世代だけでなく、働き盛りの世代、それも既婚男性が仕事を終え自宅にストレートに戻らずに一種の「自由時間」を楽しんでいる人物を「フラリーマン」と呼んでいる。これはNHKが9月にこのフラリーマンの姿を「おはよう日本」で放送したことから流行った言葉である。
都市においては夫婦共稼ぎは当たり前となり、夕食までの時間を好きな時間として使う、フラリーマンが増えているという。書店や、家電量販店、ゲームセンター、あるいはバッティングセンター…。「自分の時間が欲しい」「仕事のストレスを解消したい」それぞれの思いを抱えながら、夜の街をふらふらと漂う男性たちのことを指してのことである。
実はこうした傾向はすでに数年前から起こっていて、深夜高速道路のSAで停めた車内で一人ギターを弾いたり、一人BARでジャズを聴いたり、勿論前述のサラリーマンの聖地で仲間と飲酒することもあるのだが、単なる時間つぶしでは全くない。逆に、「個人」に一度戻ってみたいとした「時間」である。

ビジネスも家族との時間も、次から次へと凄まじいスピードで進んでいく時代にいる。結論から言えば、仕事関連の「関係」や妻との「関係」から、一歩引いて「自分を見つめる時間」を必要としているということだ。最近話題となっている「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著、漫画羽賀翔一)が100万部を超えた。あのアニメ監督宮崎駿氏の復帰第1作のタイトルも「君たちはどう生きるか」で制作を開始したという。
こうした自分を見つめ直す傾向は、「散歩」と同じ構造を持っている。「時間認識」という視点に立てば、目的のない散歩といういわば「道草」とはビジネスや生活を取り巻く多くの過剰さやハイスピードを一旦脇に置き、ごくごく普通である日常の自分に戻ることである。真面目なサラリーマンに多く見られる現象であるが、そうした頑張らない勇気をもってチョット休んでみよう、ということである。仕事仲間に対しても、妻に対しても、「頑張りすぎない」ことも必要な時代ということだ。停滞、混乱、閉塞、そんな時代であればこそ、道草が必要ということである。

成熟時代の「文化」を学ぶ


今まで「文化」はビジネスにはならないと考えられてきた。しかし、昨年日本ばかりか世界でヒットした新海監督によるアニメ映画「君の名は。」の興行収入は歴代4位の250億円であったとのこと。しかし、その映画の広がりは映画の舞台となった東京四谷須賀神社横の階段や飛騨高山の飛騨古川駅を訪れる聖地巡礼が多く見られている。こうした巡礼オタクは新海作品以外のアニメ映画も多く観ていることであろうし、他のビジネスへと広がりを見せている。その良き事例であると思われているのがランドセルのヒットであろう。「ちびまる子ちゃん」などのアニメに出てきたランドセルが海外のアニメ好きから話題となり、訪日外国人のお土産に買われているという。少子高齢社会にあって、ランドセル業界は右肩下がりの斜陽産業であったが、新たな需要が生まれたことでランドセルメーカーもその経営を持ち直している。
また、渋谷のスクランブル交差点が今日のような訪日外国人の観光名所となったのも、2003年に公開された映画「ロスト・イン・トランスレーション」がそのルーツであると言われている。この映画にはスクランブル交差点や新宿歌舞伎町など、外国人の好奇心をくすぐる風景があふれている。それは大阪なんばが広く知られるようになったのもガイドサイト「トリップアドバイザー」によることが大きかったことと同じで、「文化」の流通は思いがけないところにも大きく広がっていることがわかる。

観光地化の「鍵」となる文化

この未来塾でより課題を明確化するために「テーマから学ぶ」と題し、谷中ぎんざ(下町レトロ)、2つの原宿/竹下通り&巣鴨(聖地巡礼)、エスニックタウンTOKYO(雑の面白さ)、葛飾柴又(変化する観光地)、浅草と新世界(時代変化を映し出す)、そして、観光地化を促すための方法としての差分や遊び心、こうした人を惹きつける街やテーマ、それらを際立たせる方法を個別にスタディしてきた。この他にも「もんじゃ焼き」をテーマにした街として成功した東京中央区の月島や大テーマである「昭和レトロ」を具現化している吉祥寺ハモニカ横丁など街歩きをレポートしてきたが、その根底にある「文化」はそれぞれ異なるものであった。例えば、概念としての「下町レトロ」は谷中ぎんざも吉祥寺ハモニカ横丁もその文化は異なる。その魅力としては「Old New 」古が新しく魅力的であると若い世代は感じ、団塊世代にとっては懐かしさを感じる、つまりOldの受け止め方が異なると共に、その歴史の積み重ね、堆積もまた異なるからである。歓楽地として繁栄した東京浅草と大阪新世界はその歓楽地の衰退と共に「次」に何を目指すのかという点において異なり、新世界が通天閣とジャンジャン横丁を中心としたエンターティメントパークとして成功したのに比べ、浅草はそこまでの変わりようを果たしてはいない。

こうした「違い」は行政の支援もあるが、そこに住む人々、そこにある企業や団体の人たちの「考え」「思い」によって「地域文化」が創られる。谷中ぎんざのスタートは谷根千に住む4人の主婦が愛する街谷中のコミュニティ誌を作ることから始まる。谷根千は寺町でもあり、そこの住職や商店街の人たちも次第に参加し、地域全体が「下町レトロパーク」へと向かう。その中に前述の訪日外国人に人気の旅館「澤の屋」もメンバーとなっている。「何」を残し、「何」を変えていくか、決めて実践するのはその地域の「人々」である。
同じ下町レトロというテーマであっても谷中ぎんざと少し異なるのは中央区月島の「もんじゃストリート」である。下町の駄菓子屋の店先で売られていた子供向けのもんじゃ焼きは地域再開発と共に駄菓子屋もなくなりどんどん廃れていく。そのもんじゃを大人のもんじゃとして再スタートさせたのは「いろは」というもんじゃ焼きの店であった。ちょうど離れ小島のようであった月島に地下鉄有楽町線の開通というタイミングもあり、もんじゃストリートが次第に創られていく。そして、テーマとして確立させたのは、やはりメニューで明太子入りや餅入りといったもんじゃ焼きメニューが創られたことによってテーマパークは確立する。つまり、マーケティング&マーチャンダイジングがあったということである。ちなみにもんじゃストリートの正式名称は西仲通り商店街で、表通りである晴海通りから西に一本入った裏通りである。また、谷根千は戦災から免れた古い町並みが残る上野の裏手に位置したエリアである。

寸断される生活文化

東京では浅草寺、京都では伏見稲荷大社や清水寺といった歴史もあり、そのユニークな景観があるところはその文化価値は寺社自身以外にも、周辺の街も、更には国や行政も文化価値の継承を守りサポートする。ここではそうした継承されてきた観光地ではなく、いわゆる生活文化価値の誕生と継承をテーマとしており、生活する上で残すべき「何か」となる。そして、この生活文化が今日の生活に色濃く残っているのが、江戸時代の文化である。花火、花見、少なくはなっているが相撲や寄席、俳句などもそのフアンは400万人ほどいる。
ところでこの生活文化が熟成し、継承していくのは、小さな単位においては「家庭」であり、「村・町」であり、少なくなったが「国」の中においてである。
そこにおける「文化」とは祖父母から子へ、子から孫へと伝えられる生活の知恵のことである。今日においては、家族が崩壊し個族化した時代にあって、伝えられるべき文化は寸断されてしまっている。恐らく、唯一そうした生活文化が色濃く残っているのは京都であろう。勿論、京都も他の都市と同様に個族化してはいるが、四季折々の祭りや生活歳時が一種の生活カレンダー化されていて、生活文化が継承されている。祭りの日をハレ、日常をケと呼ぶが、これほどはっきりとした生活が残っているのは京都だけである。ハレの日はパッと華やかに、普段は「始末」して暮らす、そうした生活習慣である。ハレの日はどこまで残っているか京都の友人に確認してはいないが、例えば4月の今宮神社のやすらい祭りにはさば寿司を食べる、といった具合である。

この生活価値の一つである「始末」であるが、始末の基本は食べ物を捨てないという意味。素材を端っこまで使い切ったり、残ってしまったおばんざい(京の家庭料理/おふくろの味)を上手に使い回すといった生活の知恵である。それは単なる節約ではなく、モノの効用を使い切ることであり、「もったいない」という考えにつながるもので、エコロジーなどと言わなくても千数百年前から今なお続いている自然に寄り添って生きる生活思想だ。例えば、大根なら新鮮なうちはおろしてじゃこと一緒に食べ、2日目はお揚げと一緒に炊いて食べ、3日目はみそ汁の具にするといった具合である。この始末は日本古来のビジネスモデル、三方よしを創った近江商人の日常の心構えでもある。「しまつしてきばる」という言葉は、今なお京都や滋賀では日常的に使われており、近江商人の天性を表現した言葉である。

間も無く最大の「ハレ」の日である2018年の正月を迎える。ハレの日の祝膳であるおせち料理も代々伝わってきたおせちを作る家庭はどんどん少なくなり、百貨店や通販のおせちで祝う家庭がほとんどとなってきた。しかし、初詣には出かけるという一種バラバラな正月行事となる。年賀状はメールになり、TV番組も初笑いではなく箱根駅伝が正月の風物詩となった。都市においてはハレの日の迎え方も変わってきたということだ。ただ、故郷を持つ家族にとっては、混雑のなか帰省し、代々継承されてきた「正月」を迎えることとなる。

こうした寸断された生活文化にあって、都市商業文化に対し地方生活文化という構図が浮かび上がってくる。静かなブームが続いている田舎暮らしも、農業体験も、実は村や町単位で残されている生活文化体験のことである。ここ1~2年訪日外国人の個人旅行、特にリピーターの多くは地方へと向かっている。LCCによる空港の多くは地方ということもあって、東北や四国にまで旅行先が広がっている。ちょうど表通りが東京・大阪・京都観光だとすれば、地方は裏通り・横丁路地裏観光ということになる。ある意味、代々継承されてきた生活文化を体験できるということだ。都市生活者が忘れてきたことを、「外」から、訪日外国人から指摘され教えられる時代が来るかもしれない。
冒頭で書いた野の葡萄の理念「ここにある田舎をここにしかない田舎にしたい」とはまさに地方に眠っている「生活文化」のことである。そして、その田舎とは、その地・岡垣町の産物のみで作る「30種以上の野菜が摂れるビュッフェスタイル」で提供する「田舎」である。時代要請を捉えた都市生活に不足している健康コンセプトで創られた「田舎」である。葉物野菜以外は全て岡垣町産で目の前の玄界灘で獲れた魚は一船買いをし、獲れた魚次第でメニューもまた変わる。こうした「変化」をも楽しめる「田舎」である。

「文化起こし」への着眼

冒頭の藤沢の「さかな屋キネマ」のように、文化起こしは最初は「好き」を入り口に一人から立ち上がる。本業の方は順調のようで、道楽としての「映画上映」も商店街の活性に役立っていることと思う。今後さらに広げていくには、そうした道楽自体もビジネスとして考えていくことが必要となる。しかも、藤沢市という街全体としてである。東京谷根千の文化起こしは主婦四人から始まったが地域全体へと広げていく方法は100の地域があれば100通りの方法があるとしか言いようがない。それが「文化」の持つ固有独自性であり、真似のできない世界ということだ。

こうした「文化」を広げ継承していく方法の一つに江戸時代には「連(れん)」という方法があった。江戸時代の都市部で展開していた「連」は少人数の創造グループのことを指す出入り自由な「団体」のことである。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。その組織を表現するとすれば、適正規模を保っている。世話役はあっても、強力なリーダーはいない。常に全員が何かを創造しており、創る人、享受する者が一体。金銭が関わらない。他のグループにも開かれていて出入り自由。様々な年齢、性、階層、職業が混じっていて、ひとりずつが無名である。常に外の情報を把握する努力をしている。ある意味、本業をやりながらの「運動体」であり「ネットワーク」を持った「場」である。
例えば、江戸で流行ったものの一つに俳諧がある。俳諧は独吟するものではなく、座の文学なので「連」という形態を必要とする。「連」は俳諧を読むための場、そこに集まる人々のサロンを指していた。18世紀後半に流行った狂歌の連には落語家や絵師、作家、本屋などが集まり江戸の成熟した文芸をもたらした。江戸時代では、個人が自分の業績を声高に主張することはなかった。つまり、個人主義ではあっても、利己主義ではなかったということである。

こうした連のあり方を考えていくと、インターネットが普及し始めた時「オープンソース」という考え・理念がネット上に起こったことを思い浮かべる。その中でもオープンソースソフトウェアは、ネット上の有志によって組織された開発プロジェクトやコミュニティにおいて議論や改良が進められる。代表的なオープンソースのプロジェクトとして、リーナス・トーバルズが開始したUNIX互換のオペレーティングシステムであるLinuxを挙げることができる。その後もGoogleはオープンソースOS「Google Chrome OS」を開発している。自由に入手し無料で活用できるソフトウエアはネット社会が目指す理想でもある。
もっと簡単に言うとならば、ネット上で興味関心事を共有し、各人が知恵やアイディア、勿論技術を持ち寄って一つの「何か」を創り上げることが可能な世界である。かなり前になるが、作品名は忘れたが、ネット上で一つの映画が作られたことがあった。大きな映画館・劇場で有料上映される映画を表通りとするならば、こうしたオープンソースによる「何か」は裏通りから生まれたものと言えよう。

そして、今回のテーマである生活文化は中心から「外れた」地方で、郊外で、表通りから少し入った横丁路地裏で、あるいは高層ビルの谷間にある「雑居ビル」の一室で、「地下」で、生まれ熟成していることだけは確かである。そこで育まれた文化こそが、競争の激しいビジネス状況にあって強力な武器となる。そのためにも、垣根文化ではないが、互いに顔を合わせ個人のプライベートを守り維持しながらも、コミュニケーションし共有・共感することに関しては共に参加し行動する、そんな成熟した社会が待たれている。そこから新たな生活文化も生まれ育っていく。そして、この「文化」があって初めてブランドが創られ顧客はそれを育てていく。
例えば、そうした地域の生活文化を代表するような「100年食堂」が青森には数多くある。その名の通り100年以上受け継がれてきた食堂である。そして、冬は寒い地域であるが、1年を通し体だけでなく心も暖かくなる、そんな食堂であると多くの人が表現する。そこには100年続かせた青森の産物を調理する知恵と工夫の物語があり、他に代え難いブランドとなっている。京都以外にも埋もれた生活文化は多い。成熟した時代の消費とはこうした「文化共感物語」の消費を指す。モノ充足を終えた成熟時代の消費とは、心までもが豊かになる「文化消費」のことである。
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:17Comments(0)新市場創造

2017年12月19日

◆未来塾(31)「生活文化の時代へ」(前半)

ヒット商品応援団日記No696(毎週更新) 2017.12.19.

今回の未来塾は、モノ充足を終えた時代、成熟した時代の消費傾向である「生活文化価値」という大きなテーマの第一歩について、表通りではなく裏通りにある小さな文化に着眼して、その可能性について考えてみることとします。


神奈川県藤沢の自主上映会「さかな屋キネマ」
Facebookより


「生活文化の時代へ」

成熟時代の消費を考える
裏通り文化の魅力


今まで何冊かの「都市論」を読んでいるが、今一つしっくりこないことがあった。それは私自身が商業施設のコンセプトワークに携わっていることから、決してそうではないのだが、どうしても抽象論になってしまう、そんな同じ感を都市論にも感じていた。そんなことから「街歩き」を始めたのだが、そこで出会ったのは街の「変化」とそこに醸し出される独自な「表情・雰囲気」であった。もっと具体的に言うならば、そこに住む、あるいはそこを訪れる人たちの表情や生活の匂いであった。
そして、マーケティングという生業の私の場合、変化する街にあって「何故、そこに人が集まるのか」、「それは一過性ではなく持続しているのか」、またその逆についても同様の理由を見出したかった街歩きである。賑わいを見せる街もあれば、シャッター通り化した街もある。より結論として言うならば、生活者の消費エネルギーはどのように生まれ、変化し、また衰退していくかという課題、その課題に対する生活文化の果たす役割への関心であった。物不足の時代を終え、次は心の豊かさの時代であると言われて20年が経つ。多くの街を歩いてきたが、同じようでどこか違う、そんな違いの理由はその地域が育んできた歴史、生活文化の違いによるものだと気付き始めた。今回のテーマはある意味捉えどころのない「文化」、多様でしかし深い文化、変化し続ける生活文化にあって、その消費に及ぼす変化を把握する第一歩である。俯瞰的な視野に立てば、モノ充足後の「成熟時代の消費」に繋がる課題である。

「文化」の種を蒔き、育てる人たち

冒頭の写真は神奈川県JR藤沢駅北口の銀座通りにある魚屋が企画し運営する「さかな屋キネマ」の上映写真である。60年以上続く鮮魚店「ふじやす」の2代目が商店街の活性化を図りたいとのことで始めたいわば自主上映の映画館である。子供の頃、新潟の公民館で行われた映画に魅せられてのことだが、その映画「好き」を今なお追い求める人物は私に言わせれば「真性オタク」である。
その「さかな屋キネマ」は鮮魚店の2階にあるふじやす食堂をミニシアターにつくり替えた小さな町の映画館である。小さな映画館とはいえ、100インチのスクリーンやプロジェクター、スピーカーは用意されており、わずか30席だが立派な映画館である。映画館というと、それらの多くは都心もしくは郊外SCに集中しその多くの席数は500席以上で大きな映画館の場合は800~900席もある。あまり話題になる街でもない藤沢にこんな小さな映画館があるとは知らなかった。

この主催者である平木氏は「魚と映画の目利きには自信がある」とインタビューに答えていて、ほぼ隔月で上映会を行なっている。魚の目利きについては写真のような「まぐろ三昧丼」が極めて安い720円(税込)。鮮魚の本業共々確かなものであることは昼時には行列ができることによって実証されている。ちなみに、11月の上映は坂本欣弘監督による「真白の恋」。映画の目利きもかなりオタクである。
「道楽」という言葉がある。本業以外のものに熱中し、「道楽息子」などと使われ身をもちくづすといったように良いイメーで使われることは少ない。しかし、言葉の意味通り、「道」を「楽しみ」極めることであり、平和で豊かな時代となった江戸時代にあっては、園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽を三大道楽と呼んで流行っていた。文芸道楽では、俳諧、和歌、紀行文等があったが、現代では「映画鑑賞」もそれら道楽に入る。文化の究極とはそういうものである。食堂のスタッフに聞いたところ、来年の上映のスケジュールはまだ立ってはいないが落語はやっていますとのこと。首都圏から外れた藤沢で、道楽オヤジは健在である。

成熟した時代の象徴として江戸時代が挙げられるが、人返し礼が出るほどの江戸は世界一の120万人都市であった。その人口集中だけでなく、今もなお残っているが、玉川上水の水を江戸の中心部まで貯めることなく水を引き入れるという高度な文明、技術を持っていた。また、後に文明開化以降、欧米人が日本を訪れびっくりしたことの一つに庶民の長屋にまで植木や花が満ちていることだったという。その文化水準の高さの極みとして花があった。こうした園芸が流行したのは八代将軍家光の花好きが発端であったと言われている。園芸指南書は200冊を超え、数多くの植木市が開かれていた。東京では今なお浅草のほうずき市や入谷の朝顔市が残っている。写真は「江戸名所図会」に描かれた賑わう植木市の風景である。

街の誕生と衰退

この5年ほど首都圏を始め多くの街を歩き観察してきたが、雑踏で歩くことすら大変な街もあれば、人通りの絶えたシャッター通りと化した街もあった。人口減少・高齢化が進み後継者がいない山間の村には耕作放棄地が今なお増え続けている。人間の手が加えられない放棄地は次第に元の自然に戻っていく。結果、猪や鹿の棲家になり荒地になっていく。街も同様で、「手」を加えないと荒地になるということである。

勿論、衰退しつつある町や村、あるいは都市の商店街は手を拱いていたわけではない。周知の食による町おこしイベントの「B-1グランプリ」の第1回は2006年に青森県八戸市で開催された。その町おこしの目標の一つが「地方の6次産業化」を促すものとして実施されてきた。この「B-1グランプリ」が始まる数年前にこの「6次産業化」を目指し成功した企業があった。それは福岡県遠賀郡岡垣町の「野の葡萄」というレストラン事業会社で、リーダーである小役丸さんにインタビューし「人力経営」という本に書いたことがあった。一度見に来てくださいということで、本店のある岡垣町の駅に降り立ったのだが、駅前のロータリーにはコンビニひとつない田舎の駅であった。
野の葡萄が目指している「ここにある田舎をここにしかない田舎にしたい」というわかりやすい理念にも惹かれたのだが、6次産業化とはある意味地場の零細産業をシステムとしてビジネスを組み立てることでその情熱と共にアイディア溢れる仕組みづくりに感心したことがあった。また、同じ「人力経営」にも書いた滋賀県大津の和菓子「叶匠壽庵」も同様であった。面白いことに、両社の誕生の地には広大な土地にテーマパークを造り今なお進化しており、「食」を通じて楽しませるシンボルの役割を果たしている。

ところで「B-1グランプリ」もスタートして10年が経過した。第一回のグランプリである「富士宮やきそば」は一定の「産業化」が図られたが、徹底的に欠けているのはこの産業化へのシステム発想と実行力である。B-1グランプリはその役割を終えたと言ったら言い過ぎかもしれないが、その後数多くのフードイベントが組まれ埋没し、当初の鮮度ある情報を発信することすらなくなりつつある。
町の名物料理が全国区になるには産業化というビジネスにならなければならない。町の名物料理であれば、TV東京の「孤独のグルメ」によって興味のある視聴者は場合によっては全国から食べに来ることはある。しかし、それ以上でも以下でもなく、日常的に誰もが食べることのできる広がりはない。勿論、それでも地域の活性化という初期の目的は果たしているのだが、必要となっているのはやはり「経営」である。この経営によって広げることに「意味」があるのは、それを情熱を持ってやり遂げる「人」がいるのか、「資金」はどうか、必要とする周辺の産業と連携できるのか・・・・・・そして、目指すべきは、そうした経営は本当に「顧客」のためになるのか、そうした全体を考える経営が徹底的に欠けているということである。つまり、経営とは「継続」ということであり、このことを目指さない限り、単なる一過性のイベントで終わってしまうということだ。

情報のフローとストック

日本は島国という地政学的な特徴を持った国だが、江戸時代の鎖国政策を「閉鎖的」とした歴史教科書にかなり影響されてきた。しかし、その後の歴史家によって、海を越えて多くの人や文化の交流が庶民レベルで行われていたことがわかってきた。室町時代には日本からも丸木舟に乗って太平洋を越え南米のペルーにまで渡った記録がペルーの人口調査によって明らかになっている。ある研究者によれば欧米のみならずアジア諸国から多くのものが日本に入ってきた構図を「まるでパチンコの受け皿の様だ」と表現していた。欧米の「ササラ文化」と対比させ日本は「タコツボ文化」と言われてきたが、実は「雑種文化」であると指摘している。

そうした文化とのつきあい方であるが、世界中の新しい、面白い、珍しいものを積極的に取り入れてきた。その本格的なスタートは明治維新からであるが、その消化力は強く今も続いている。特に東京における戦後の再開発は激しく街の風景を一変させている。そして、街が持つメディア性、発信力の強さから、海外企業の多くは「原宿」を初進出のエリアとして選んできた。原宿はそうした変化型都市商業観光の街であるが、常にそうした変化を取り入れ続ける、流動的な傾向を私はフローと呼んでいるが、原宿から全国へと広がった専門店も多い。最近では若い世代に「話題」を発信するためにメーカーもあるいは地方自治体がイベントを行う場合もある。

ところで写真は体験型ケイジャンシーフードダイニング「Catch the Cajun Seafood(キャッチ ザ ケイジャン シーフード)」の手づかみ写真である。11月9日、原宿キャットストリーにオープンしたのだが、アメリカ西海岸やハワイなどで根付く”キャッチ(手づかみ)”スタイルのシーフードダイニング。テーブルの上に直接提供されたシーフードを手づかみで食べるスタイルである。原宿で一番新しいニュースであるが、どこまで広がるかおそらく主要都市のみであろう。

こうした変化型集客観光・フロー型の話題はブームとなり一挙に集客に向かい、そしてパタッと終わる場合が多い。逆に文化型観光集客は文化の本質がそうであるように「永いつきあい」へと向かう。つまり、リピーター化であるが、そのリピーター客によって「文化」は更に豊かになっていく。その良い事例として、過去度々話題を提供してきた東京谷中・谷根千(ヤネセン)も既に10年以上前から静かな観光ブームが始まっていた。そして、同じような表現をするならば、今なおブームは続き、更に広がりと深みが増した「文化物語」のある地域へと移行している最中だ。そして、その変化はヤネセンを訪れる一人ひとりによって創られている。学ぶべき点は「文化」への取り組み方である。

垣根というコミュニティ文化

日本の庶民住居の歴史を見ていくとわかるのだが、隣を隔ててはいるが、隣家の人と話ができる遮断されたものではなかった。それは江戸時代の長屋によく表れている。つまり、長屋という共同体、複数のファミリーの住まい方、生活の仕方にはオープンなコミュニティの考え方があった。その長屋は開かれたものではあるが、プライバシーを保ちながら、炊事場や洗濯あるいはトイレなど共同で使い合う、そんな生活の場であった。そうして生まれたコミュニティ発想から生まれ育てられたものが「垣根文化」である。

そうした生垣、竹垣は隣を隔てるだけでなく、生活そのものによって工夫され多様に作られ使われたものであった。しかし、コンクリートに覆われた都市にあって、100%遮断、隔絶された関係の都市構造となってしまった。まるで無菌社会のように、「他」を遮断する生活、ホテル生活をしているかのような生活となった。勿論、生活の経済合理性という一種の豊かさ革命がビジネスだけでなく、ごく普通の生活そのものの物差しになったからである。
東京や大阪といった都市のビルは高層化し、地下はビルとビルとを結ぶ地下街化が進み、人が集まれる広場はあっても、せいぜい待ち合わせ場所でしかなく、その場所で生活が育まれることはない。あったとして一過性のイベントに終わってしまい、持続されることはない。
戦後の60年代あたりまでは、垣根に面する道路は子供達の遊び場であった。一種のコミュニティスペースで、今なお再開発されていない下町の裏路地にはそんなコミュニティが残っている。

横丁路地裏の魅力とは

2000年代前半、都市の裏通りには「隠れ家」というマスコミや芸能界などの業界人が集まる飲食店に注目が集まったことがあった。そうした「隠れ家」ブームは一種の蛸壺の中のブームで、多くの人が足を踏み入れることは少なかった。実は隠れていた、埋れていた横丁路地裏の魅力を広く伝えたのはTV番組「ちい散歩」であった。関東ローカルのしかも午前中の番組ということから、視聴率を稼げない隙き間の時間帯であった。恐らくあまり期待されない番組としてスタートしたと思うが、実は今日ある散歩ブームの火付け役であったことはあまり知られてはいない。
実は都市生活者の興味・関心は表通り・大通りから中通へ、裏通り、横丁へ、路地裏へと「未知なる世界」を求めて多くの人の足は向かっていた。例えば、ガイド本も出ているが「東京の坂巡り」や「神社巡り」といった散歩である。こうした表から裏へ、既知から未知へ、現代から過去へ、といった傾向は散歩だけでなく、食で言えば賄い飯のような裏メニューブームにもつながり、情報の時代がこうした興味を入り口とした小さな知的冒険の旅を促していた。その代表が「ちい散歩」であった。

ちょうど同じ時期であったと思うが、「えんぴつで奥の細道」(ポプラ社)がベストセラーに躍り出た頃である。芭蕉の名文をお手本の上からなぞり書きするいわゆる教本である。全てPCまかせでスピードを競うデジタル世界ではほとんど書くという行為はない。ましてやえんぴつを持つことのない時代になって久しい。
「えんぴつで奥の細道」の編集者は「読む」ことばかりの時代にあって、「書く」とは路傍の花を見ながら道草を食うようなもの”と話されていたが、けだし名言で、今までは道草など排除してビジネス、いや人生を歩んできたと思う。このベストセラーに対し、スローライフ、アナログ感性回帰、奥行きのある大人の時代、埋もれた生活文化の時代、といったキーワードでくくる人が多いと思う。それはそれで正解だと思うが、私は直筆を通した想像という感性の取り戻しの入り口のように思える。ネット上の検索ではないが、全てが瞬時に答えが得られてしまう時代、全てがスイッチ一つで行われる時代、1ヶ月前に起きた事件などはまるで数年前のように思えてしまう過剰な情報消費時代、そこには「想像」を働かせる余地などない。「道草」などしている余裕などありはしない。そうした時代にあって失ってしまったものは何か、それは人間が本来もっている想像力である。自然を感じ取る力、野生とでもいうべき生命力、ある意味では危険などを予知する能力、人とのふれあいから生まれる情感、こうした五感力とでもいうような感性によって想像的世界が生まれてくる。地井さんの「ちい散歩」が支持を得てきたのは、ご本人の人なつっこいパーソナリティに加え、時代が創らせた番組であったと思う。
散歩という方法は想像力を喚起させてくれ、その先に「何」を発見したかである。それはそこに人が生活している「匂い」であり、「人間くささ」「日常の営み」といったものである。それら生活は「過去」が堆積し「今」になったもので、まさに想像力を喚起させてくれるものである。”ああ、こんなところに、こんな生活があったんだ”というコミュニティ文化の断片を発見するのである。「表」に出続ければ風化し鮮度を失ってしまうものであるが、そこに「人」が生活し続ける限り、コミュニティ文化は継承されていく。自動車ではなく人が歩く道、車が通れない、人のための道のどこにでもある横丁路地裏に文化は堆積する。(後半へ続く)  


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2017年12月10日

◆2017年ヒット商品番付を読み解く 

ヒット商品応援団日記No695(毎週更新) 2017.12.10.

日経MJによる2017年のヒット商品番付が発表された。2017年上期にも書いたのだが、昨年のようなヒット商品はほとんどなく、書くのをやめようかと思ったが、「ヒット商品が無い」こともまた消費低迷の傾向としてあり、その対策着眼についてコメントすることとする。以下が2017年の主要なヒット商品番付である。

東横綱 アマゾン・エフェクト 、 西横綱 任天堂ゲーム機 
東大関 安室奈美恵 、  西大関 AIスピーカー
関脇 GINZA SIX  、 関脇 ゾゾタウン
小結 シワ取り化粧品、  小結 睡眠負債商品 

2017年ヒット商品番付全体を象徴するキーフレーズには「決まり手はウチ充」とある。ウチは内・家で充は数年前に使われたリア充(リアル生活の充実)もじったキーフレーズである。デフレが常態化したここ数年、特にそうだが、成熟した時代の消費の最大特徴は生活者が「楽しみ」のつくり方、家族や友人などとの交換・交流の仕方、そして買い方を手に入れたことである。その楽しみは ありふれた日常で、しかも小さな「楽しみ」を小さな「金額」で満足させる方法を手に入れたことによる。
ここ数年私が指摘したことは、大きなヒット商品ではなく、例えば「孤独のグルメ」の様に地元にある一見ありふれた中華そば屋を楽しんだり、「好き」を入り口に手作りアクセサリーをネット上で販売したり、横丁路地裏散歩で見つけた風景を写真に撮りこれもインスタグラムに公開することを楽しんだり、そんなお気に入りの「楽しみ方」を手に入れた時代を「成熟」した時代と呼んできた。こうした消費潮流を表すかの様に、全国各地の産品をはじめとした固有文化に注目が集まってきている。いわゆる「わが町自慢」「ご当地自慢」である。こうした成熟時代を踏まえてのヒット商品である。

流通業態の変革が本格化した

東横綱のアマゾン・エフェクト、関脇GINZA SIX、関脇ゾゾタウン、共通しているものは日本における流通業態の大変革が本格化したということである。上期には物流サービスの「ヤマト運輸の値上げ」が入っていたが、まずはネット通販業態が生活のあらゆる商品分野に及んでいるということである。その象徴がアマゾン・フレッシュという生鮮食品の宅配サービスが都内の限定エリアで始まったことにある。書籍から始まったアマゾンであるが、顧客興味の把握をベースに次第にそのMDを広げていった、その一つの到達点が「生鮮食品」である。世界一の小売業であるウオルマートが有店舗業態であるのに対し、アマゾンは無店舗業態という比較もあるが、そうした競争の競争最前線にあるのが既存のスーパーマーケットである。このスーパーマーケット業態が数年前から実施しているのがネットスーパーであり、一定金額以上の買い上げへの宅配サービスである。
また、前頭には飲食店の出前・宅配サービスを代行するウーバーイーツが入っており、登録店は1000店を超え、対応エリアも拡大しているという。更に、番付には入っていないが、大手回転すしチェーンのスシローは鮮魚流通の羽田市場と組んで、朝取れ鮮魚を空輸し6時間で店頭に並ぶサービスが本格化している。あるいは鮮魚のみならず青果においては先行して実施されており、従来の「産直」の概念も変わりつつある。この様に、あらゆる領域で「物流」を軸に再編が本格化している。
次の流通変化としてGINZA SIXを挙げたが、百貨店のSC(ショッピングセンター)化という再編集の意味合いだけではない。日経MJをはじめ世界のラグジュアリーブランドを集めた延長線上で、高価格帯市場の成功事例の様に指摘をしていたが、それは一面的な見方である。「フェンディ」や「ディオール」といったブランドを指してのことだが、レストランにはあの大阪新世界ジャンジャン横丁の串揚げの「ダルマ」が入っている。ジャンジャン横丁の串揚げより少し高い価格になっているが、それでも安い「食」が用意されている。SCのデベロッパーであれば熟知していることだが、価格帯市場としてはある程度幅のある中でテナント編集するのは当たり前のことである。
更に若い世代にはファッション通販ZOZOTOWNは安くて使いやすい通販として急成長している。かなり前から通販と古着市場は伸びていると指摘をしていたが、ZOZOTOWNでは新品のブランドは勿論古着もあれば買取もしてくれる、しかも支払いは2ヶ月後という「うれしいシステム」になっている。嬉しいこと満載の通販ビジネスで、単なる通販の概念を超えた進化したビジネスとなっている。

AI(人工知能)はライフスタイルそのものを変えていく

少し前まではAIと言えば、将棋vs AIといった「知能」の卓越さや自動運転装置などの「技術」への応用が話題の中心であった。しかし、わずか数カ月で今回のAIスピーカーの様な生活を変えるそんな商品が出てきた。前者はまだまだ部分的世界であったが、身近な日常生活の良き「道具」として使われる様になった。価格としてはまだ少し高いが、これから安くなり普及していくであろう。
勿論、裏側にはインターネットという文字通り張り巡らされたネットワークがあっての話であるが、前述の流通業態の変革を促す世界と同じで早晩小売業とも連動していくであろう。PCの画面で注文するのではなく、AIに向かって話すだけで・・・・・支払いの決済はどうかと言えばAI機能に「顔認証」が付け加われば全て済む、そんなライフスタイルも間近に迫っている。既に有店舗のコンビニ・ローソンでは欲しい商品をカゴに入れれば自動的に持ち帰り包装され、支払いにはカードによる決済であるが、そんな無人の実験も始まっているぐらいである。そして、このAI機能はスマホやタブレット端末へと重なっていく。つまり、既に始まっているIot家電だけでなく、流通も大きく変わりライフスタイルそのものが変わっていくということだ。

それでは前述の流通業態はどう変わっていくかである。少し前のブログで米国で流行っている「ブラックフライデー」について書いたことがあった。消費活性のプロモーションであるが、日本ではブームにはならなかったが、米国ではそれなりの成果があったようだ。米国でも日本と同様小売は通販が主流となっており、有店舗はどこも苦戦している。そうした状況にあって唯一活況を見せている有店舗小売業があると言われている。それは世界最大の小売業ウオルマートである。その理由は通販で頼んだ商品の受け取り場所に、その巨大な4300店舗ネットワークを活用するということである。日本の場合でいうとコンビニがその受け皿になるということである。

この様にライフスタイルが変わり始め、至るところで「やり直し」が始まったということである。ところで西横綱に任天堂ゲーム機が入った。上期にもその「スイッチ」は順調な売れ行きを見せていたが、若干危惧もあった。それはゲームの潮流はスマホに移っていたからであるが、据え置き型プラス携帯という多様な遊び方機能を加えたことで、従来の任天堂フアンを呼び戻したのであろう。更に懐かしい「スーパーファミコン」が小さくなった復刻版も予約が殺到し好調とのこと。こうした背景から西の横綱に番付されたのだが、これも従来型ゲーム機の見直し、やり直しの成果であったということだ。

「価格」と「人手」という経営課題

今回の日経MJではあまり「価格」についてはドン・キホーテによる格安5万円台の4Kテレビが前頭に入っている程度であまり触れられてはいない。しかし、この価格の根底には「経営」という大きな山を越えなければならない課題がある。例えば、外食チェーンにおいて人件費や原材料のアップにより値上げが行われ始めているが、原材料は別にして人件費や家賃に見合わなくなったということからチェーンビジネスの本質的課題が生まれてきている。結果、採算の合わない店舗は撤退し、縮小していくだけとなっている。ブログにも書いたが、低価格を売り物に急成長してきたラーメンの幸楽苑ですら低価格だけではやっていけない山が立ちはだかっている。よく対比されるのが同じ業態の日高屋であるが、日高屋の場合は野菜たっぷりの「タンメン」という人気メニューがあり、そうした特徴がチェーンビジネスを維持させtている。あるいは牛丼大手のすき家も数年前人手不足から店舗閉鎖に追い込まれたことがあった。しかし、一方で24時間営業の立ち食いそな「富士そば」は順調である。何故か、それは前社の場合は深夜時間帯における「ワンオペ」「一人回し」という業態では最早人材は集まらずやっていけなくなったからである。つまり、「人手」をまるでロボットとして使っていたのに比べ、富士そばの場合は「人手」の人を生かしきる経営、例えば良き実績が上がればアルバイトにボーナスを出す経営、そんな人力経営との違いを見ればわかる様に、価格設定・人手という経営の「やり直し」が問われているということである。
また、このやり直しと共に山を越えている企業もある。その代表的事例はUSJ(ユニバーサルジャパン)で同じ様に値上げした東京ディズニーリゾートが低迷しているにもかかわらず、好調な集客が図られているのはやりすぎとも思われる「ここまでやるか」というMDにある。「この差・違い」は何かと言えば、徹底して顧客を喜ばせる、そんなアトラクションが至るところに溢れている。これも転換期の山を越える一つの戦略であろう。「価格」と「人手」という2つを軸に再編されるということだ。(続く)  


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2017年12月03日

◆またか! 変わらない日本の大相撲 

ヒット商品応援団日記No694(毎週更新) 2017.12.3.

最近話題になっている「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著, 羽賀翔一の漫画)が100万部を超えたと報じられている。内容自体もさることながら、難しいテーマを漫画ならではのわかりやすさ、手軽さがヒット作に向かわせていると思いブログに書こうと思っていた。ただ、ちょうど来週には日経MJによる2017年度ヒット商品番付が発表されるのでそこでヒットの理由を読み解くこととする。
ところで今回のブログのテーマであるが、先日横綱日馬富士の引退会見及び相撲協会の危機管理委員会の中間発表を見ていて、”ああなるほどそういうことだったのか”と腑に落ちた。それは暴行の理由として挙げたのは「弟弟子に礼儀礼節を指導し、それがいきすぎた」ということで貴の岩への謝罪は一切なかったことによく表れている。現在力士が所属する部屋は45ある。あるスポーツジャーナリストに言わせればもう一つモンゴル部屋があり、全部で46部屋あると。つまり、日本に不慣れなモンゴル力士の懇親会を指してのことだが、その根底には日本文化とモンゴル文化の違いが横たわっている。日馬富士が他の部屋のモンゴル力士を弟弟子として指導したのは先輩の義務でもあるとし、相撲界ではよくある話であるとしたことがよく表している。

周知のように神事・武道、興行・娯楽、スポーツ・競技という3つの要素を併せ持った日本固有の伝統文化を継承してきた相撲である。その起源を見て行くとわかるが、奈良時代から平安時代にかけて、武家相撲といった武道、五穀豊穣を祈った神事としての宮廷相撲、そして、庶民の間で行われた草相撲といったように、中国の影響を受けながら多様な相撲をその起源としている。現在のライフスタイルの起源の多くは江戸時代にあるのだが、相撲も歌舞伎や寄席、浮世絵といった人気娯楽の一つであった。
今日の興行として行われるようになったのがこの江戸時代である。当時は力士、与力、火消しの頭は江戸の三男と呼ばれ、庶民の人気者であった。相撲は屋外で行われ、雨が降ると中止になり、興行が数ヶ月に及ぶこともあったようだ。興行は”一年を20日で暮す良い男”と言われたように、20日で興行は終了する。ちなみに、十両という名称は年間十両の給料をもらえる力士のことである。
当時の相撲は今で言うところのガチンコ勝負で、力士同士が喧嘩することも多々あったようである。現在は土俵上には柱はないが、当時は柱があってここに刀がくくり付けられており、喧嘩になると親方が刀を引き抜いて仲裁に入る、そんな真剣勝負であった。また、行司も刀をさし、仲裁に入る場合もあったようである。
というのも大関になると部屋から引き抜かれ大名のお抱えになる力士もいる、つまり、侍の身分になるという大変名誉な職業であった。大名もメンツがあって、当然力士は真剣勝負になり、庶民はそうした勝負を楽しんでいた。こうした真剣勝負の世界にあっては、八百長などはあろう筈はなかった。実は、「八百長」という言葉が生まれ使われるようになったのは明治時代以降である。周知のように明治時代になると近代化の名の下に、廃仏毀釈が全国至る所で行われ、神事(神道としての様式)という側面を持つ相撲もその対象となり、存続が危ぶまれたが、伝統文化として今日に至っている。

ところで今から6年ほど前大相撲八百長事件が起き、大阪場所が中止に追い込まれ、大相撲の危機が叫ばれ改革へと動いた。思い起こせば、日本の伝統文化に対する認識がいかに喪失しているかを物語っている良き事例であった。当事者達のメールでの勝敗のやりとりを見ても、そこにあるのは人情相撲といった「情」による八百長ではなく、幕下に落ちないためのグループによる保身感覚、勝敗を売り買いする意識、その「軽さ」である。面白いことに、野球賭博事件の捜査に付帯したものとしてこの八百長が発覚したことである。前者は刑法事案となるが、後者は法にはふれないことであるが、当事者達にとってはそれほどの罪悪感がないように見える。それはメールによるやりとりという一種のゲーム感覚のようにも見える。そうした方法が更に罪悪感喪失を倍加させている。今回の暴行事件の裏にはモンゴル力士同士の星の回しあいがあるのではとの週刊誌報道もある。事実の真偽はわからないが、もしモンゴル力士の互助相撲が行われていたとすれば、誰も相撲観戦などしないであろう。言うまでもなく、そんな疑義が起きないような相撲内容でなければならない。

また、その前には2007年時津風部屋新弟子を「可愛がり」と称し、リンチまがいの暴行によって命を失くす事件が発生している。この事件も「可愛がり」という暴力に対する罪悪感がない事件で、その後日本相撲協会は徹底的に暴力を無くすように努力するとのことであったが、2010年の朝青龍による一般人への暴行事件を始め声明とは逆に暴力は連綿ととして貴の岩暴行事件に繋がっていたということだ。その背景には、今なお「可愛がり」という土俵上の「稽古」によって強くなったという体験認識を基本に相撲部屋は運営されている。問われているのはこの強くなるための「可愛がり」ではない、新たな稽古法が問われているとの認識が無いという点にある。
格闘技ではないが、2015年のラクビーW杯における桜ジャパンの活躍、特に南アフリカ戦のトライに多くの人は感動した。帰国後の記者会見などで明らかになったことだが、その背景にはエディーコーチによる高度な科学技術を踏まえた過酷なトレーニングがあったことが分かった。そのトレーニングを影で支えたのがITベンチャー企業ユーフォリアの選手強化法で当時の日経ビジネスに詳しく紹介されている。スポーツも常に新しいトレーニング法を取り入れることが必要な時代にいるということだ。暴力を持って行うトレーニングなど論外である。

さてもう一つの根本問題が日馬富士による「礼儀礼節」の指導である。勿論、一般論としての「礼儀礼節」ではなく、相撲道における「礼儀礼節」である。ある意味日本人の精神文化に関わることで、「道の文化」である。柔道、茶道、華道は元より職人が目指す日本の伝承文化の世界でもある。よく言われる例えであるが、欧米のスポーツは「勝負」、つまり勝ち負けを競い合う。日本の場合は「勝負」と「試合」とが重なり合っているスポーツが多い。試合とは「試し合い」で相手の力を借りて自分の腕を見極めることである。だから、相手に対し礼を持って「よろしくお願いします」と頭を下げるのである。これもよく言われることであるが、「勝負には負けたが、試合には勝った」。その逆もあるのだが、このように一見すると相矛盾する2つの意味を担ったスポーツ文化である。
ラクビー桜ジャパンの元コーチのエディさんは「試合」と「勝負」とを選手に明確に理解認識させ、勝つための過酷なトレーニングを個々の選手一人ひとりに課した結果が前述の試合結果になったということである。
相撲の難しさは「勝つこと」だけでなく、「試合」というつまり「礼を尽くす」という精神世界をも生きなければならないことにある。横綱の品格もこの両者を超えた世界にある。このことはモンゴル人力士だけでなく、日本人力士も同様である。これが古来から言われ続けてきた「道を極める」ということに繋がる。日本の伝統文化を継承する多くの名人が「まだまだ道半ばです」というのはこうした背景からである。横綱といえども「道半ば」であるとの自己認識が不可欠で、それが無い「横綱」は横綱では無い。

日馬富士の暴行事件の中間発表の理事会で現横綱白鵬の品格も問題となり親方共々厳重注意処分が行われた。九州場所での「物言い」の振る舞い、あるいは優勝後の日馬富士、貴の岩を土俵に戻したい発言、更には万歳三唱など「品格」の無さへの指摘である。これは個人的な好き嫌いであるが、白鵬が若くして優勝を重ねていた頃、大鵬親方のような差し身のうまい力士だなと感心していたが、ここ数年左の張り手から右のエルボードロップのようなカチ上げというワンパターン相撲ばかりで興味関心は失せてしまった。「勝つ」ことだけが全てに優先され、つまり勝つためなら禁じ手以外なら何をやっても構わない、そんな傲慢とも思える相撲に辟易したからである。これから論議されると思うが、貴乃花親方の考える相撲道と白鵬が今行なっている「相撲」とは全く異なるものである。相撲も娯楽だから白鵬のパフォーマンスも良いではないかとするそんな楽しみ方もあっても構わない。しかし、歴史ある伝承文化としての大相撲ではない。プロ格闘技であるプロレスやボクシングなどと同じようなスポーツ分野の相撲ということになる。勿論、そうなったら公益法人を返上してからであるが。
少しづつ全容がわかるにつれて貴乃花親方VS白鵬(モンゴル力士会)という図式の情報が興味本位で報じられているが、相撲道、横綱の品格、というおお相撲の本質、継承すべき文化の違いがあり、そのことを明確化できていない点にある。

日本古来の文化は、仏教も神道もそうであるが、Yes であり Noでもある、善であり悪でもある、奥行き深く、なかなか答えが得られない。歴史とは積み重ねであり、デジタルではなくアナログの世界である。そこに、相撲道という言葉がある。
いずれにせよ、こうした神事・武道、興行・娯楽、スポーツ・競技のバランスが崩れ変容しているにも関わらず変わることができないということであろう。この20数年、多様な娯楽・スポーツが楽しめるようになり、相撲興行もいわば競争のなかにある。興行というビジネスを担う人材ということに置き換えるならば、高い報酬が得られるサッカーや野球の方に若い人材は集まる。結果、収入面では日本の10分の一のモンゴルから人材が集まるようになる。それは決して間違ったことではないと思うが、こうした日本文化を体得して行くには極めて難しい。モンゴル力士だけでなく、日本人の多くの力士も伝統の意味合いを研修所では教わるが、教わった「角道」を土俵上でも体得する力士は少ない。

時代の変化を受け入れるとは、詰まる所伝統文化の何を残し、何を変えていくかであり、それは協会も力士も継承する者の責務である。あの横綱朝青龍が土俵上でガッツポーズをした時、アスリートとしての強さは認めるが横綱としての品格が欠如していると強く批判したのが元横綱審議委員の内館牧子さんであった。批判の理由として、相撲には武道、武士道としての精神を必要とする、とのコメントを思い起こす。武士道精神からは、たとえ人情相撲といえども許されないであろう。いわんや、八百長などは論外である。そして、「可愛がり」といった暴力世界からいち早く抜け出ることが必要となっているのだ。日馬富士は「礼儀礼節」の指導であったというが、暴力を持って行うなどは真逆のことである。病気療養中の内館牧子さんであったが、やっと回復し相撲観戦しているようだ。阿武咲を始め若い世代の相撲が殊の外面白いとスポーツ紙は報じていた。今回の暴行事件についてはコメントしていないが、「礼儀礼節」の考え違い、それも最高位の横綱による日本文化の考え違いをどうすれば良いのか是非聞いて見たいものだ。
少し前に「変わるなら 今でしょ!」とブログに書いた。何年経っても変わらない、またやらかしてしまった、そんな日本の大相撲も変わらざるを得ない時を迎えている。それは日馬富士の暴行事件の裏にある「相撲道」の変質、本質に関わる問題だからだ。変わり得なかった時、間違いなく相撲フアンは徐々に減少しつ続け、日本の伝承文化は廃れて行くこととなる。それにしても、一番の被害者である貴の岩を救ってあげなければならない。モンゴルでは英雄日馬富士を貶めた「悪人」になっているとのこと。障害事件の被害者に加えて、情報においても被害者になることが予測され、二重の被害者になる恐れがある。肉体的傷害が治ったとしても、心の傷が癒されることはなかなか難しい。貴の岩も引退などといった最悪事態にはならないことを願う。(続く)  


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2017年11月26日

◆「やり直し」は既に始まっている 

ヒット商品応援団日記No693(毎週更新) 2017.11.26.

前回「変わるなら、今でしょ」 というタイトルのブログを書いた。このブログを書いて大阪に向かったのだが、その大坂ではすでに「やり直し」が始まっていた。実は少し前に東京郊外横浜都築区のSCノースポート・モールのリニューアルを踏まえ、「新価格帯市場」という波が押し寄せていると指摘をした。その価格帯の象徴があのユニクロと妹ブランドGUで、特にGUのフロア面積がそれまでの標準店舗が約200坪であるのに対し、ノースポート・モールでは820坪となっている。更にこの価格帯戦略がキラーコンテンツの「何か」となり得るかはわからない」ともブログに書いた。
実は大坂で観察する目的は他にあったのだが、行けば定点観測しているSCの一つが大阪駅の駅ビル商業施設ルクアイーレである。オープンした当初三越伊勢丹によるフロアを見たときの感想は「従来の百貨店売り場・MD」で先行するしかも実績のある阪急および大丸百貨店に勝つことができるであろうか、従来の百貨店市場というパイの大きさはこれ以上大きくとはならない、そんな疑念が生じたことがあった。その数年後予測通り業績が低迷し撤退し始めるのだが、今なお地下2階の食品売り場はクローズされたままである。ところが地下1階の靴などの売り場が大幅にリニューアルされているのに驚かされた、驚いたのがノースポート・モールと同じユニクロ&GUがほぼ同じフロア面積で、この2ブランドでフロア全体を占めていることであった。正確な面積はわからないが、各400~500坪程度の規模になっている。やり直しは既に始まっており、その先頭をユニクロとGUが走り始めているということだ。
また、ルクアイーレの地下2階バルチカの「赤白」(コウハク)は変わらず流行っており、その今風の屋台のような店作りもさることながら代表的なメニューである大根の洋風おでんが1個180円という安さ。この「赤白」(コウハク)は阪急三番街を始め鉄板焼きなどの新しいメニューを追加し出店が加速している。

ところで今から3年半ほど前に未来塾「商店街から学ぶ」シリーズの第1回に「砂町銀座商店街」を取り上げたことがあった。砂町銀座商店街は東京江東区にある道幅3~5mという路地裏商店街で、周囲をアリオなど大型商業施設に囲まれ誰もがシャッター通り化するのではないかと思われていた。ところが人通りが絶えること無く、特に10日毎行われるバカ値市には人、人、人で溢れれ返る、そんな元気な商店街である。(詳細については「砂町銀座商店街」編をお読みください)
その元気な理由を以下のように整理したことがあった。
1、顧客の中心はお年寄り
2、商店街に不可欠な「界隈性」
3、名物商品と名物人物
4、人マネをしないという原則
勿論、「安さ」という魅力があるのだが、規格外商品であったり、大量仕入れによる「訳あり商品」の安さではなく、小さな商圏=仕入れ量も限られる砂町銀座のような中小零細商店にとっては「売り切ること」が経営を維持し持続させていく唯一の方法となっている。この「売り切る力」こそが商売の原点である。砂町銀座商店街の各店は生き続ける術として身につけたものであるが、ユニクロが今やろうとしていることはITを駆使して、需要を予測し、最適な生産を行い、デッドロスを出さない仕組みである。つまり「売り切る」システムの構築ということである。このことによって「価格帯」を維持し、しかも利益を出していこうということである。

デフレの日常化については1年以上前から指摘をし、可処分所得が増えない現状、その背景には企業の側も社会保険料の負担増などから給与アップを図ることができない、結果消費の低位停滞が進行していると書いてきた。更には、その内実としては保有資産の多くを持っているシニア世代はあまり消費に向かわないこと、あるいは一番消費旺盛である30代の関心事は消費には向かわず貯蓄へと向かっている、これが大雑把にいうと俯瞰的に見た消費天気図の模様である。(詳しくはデフレというキーワードでブログ内を検索してお読みください)
こうした消費模様にあって「やり直し」によって成長を遂げている企業や街はいくらでもある。1年前、その象徴である「大坂」「USJ」「新世界」「難波界隈」・・・・・こうした観察については未来塾でレポートしてきた。今回も大阪の街を歩いてきたのだが、私の持論である「横丁路地裏」に隠れた面白さに出会うことができた。(詳しくは未来塾あるいはFacebookにて公開する予定である。)
その着眼はこうである。SCという商業施設の内部であっても、オフィスビルとビルとの谷間にも、駅高架下にも、勿論既存の商店街の中にも、それぞれ横丁路地裏はある。語の正確な意味とすれば、横丁路地裏的な場所、空間は数多くあり、そこに隠れていた「何か」を発見することへと生活者、消費者の興味関心事は向かっている。一見するとつまらないありきたりの中にも、それこそ小さくても光る「何か」がある。今までは見過ごされてきたということだ。
隠れた「何か」、そこにある「大切なもの」の掘り起こしは、10年以上も前から東京谷根千では行われている。まだリノベーションという言葉が一般化していない時期である。古いアパートや一般家屋の再生、いや新たな誕生が行われ「昭和レトロ」なエリアへと変貌し一大観光地になった。今同じように、空き家やシャッター通り商店街、とりわけデッドスペースとなっていた横丁路地裏空間を若い世代向けの「バル」にしようという試みが始まっている。メニュー業態の異なる数坪の飲食店を10店舗ほど集めた小さな横丁であるが、賑わいを見せている。その先駆け的飲食街の一つが大阪梅田の「お初天神裏参道」である。裏参道というネーミングの通り、お初天神の少し手前の横丁路地裏である。あるいは阪急梅田駅外れの「かっぱ横丁」の飲食街も賑わいを見せている。実は今回行くことができなかった街の一つが大阪京橋駅北口の立ち飲み屋台ストリートである。洋食からステーキ、あるいは居酒屋メニューなどあるが、その中でも大阪人にはよく知られている屋台「とよ」に行ってみたかった。「とよ」には名物オヤジと共に名物メニューであるいくらやウニ、マグロなどの海鮮料理があるという。
勿論こうした行列の絶えない立ち飲みの店ばかりだが、前述の東京砂町銀座商店街の4大特徴と「顧客はお年寄り」という点を除けば、極めて似ている点にある。現在流行っている「バル横丁」もこの4大特徴をどこまで貫けるか、その持続性が課題であると思う。しかし、実行する前からできない理由を見つけても意味はない。やりながら「次」を考えれば良いのだ。

消費活性のためのプロモーションとして日本においても「ブラックフライデー」が実施されている。活況を見せているようだが、既に何年も前から砂町銀座商店街では「バカ値市」が行われ近隣の顧客を始めた恒例行事となっている。米国で始まった「ブラックフライデー」だが、ネット通販を中心とした小売業の趨勢の中にあって、唯一活況を見せている有店舗小売業があると言われている。それは世界最大の小売業ウオルマートである。その理由は通販で頼んだ商品の受け取り場所に、その巨大な店舗ネットワークを活用するということである。逆に解釈すれば、それほどまでに通販小売が進化し有店舗事業が低迷しているということだ。そして、日本も同様で、コンビニが今以上に通販の受け取り拠点になる。百貨店は既にやり直しが求められているが、SCもやり直しが始まっている。その再編集の鍵となるのがユニクロ&GUに見られる「価格帯市場」である。

つまり、デフレが常態化するとは、従来のやり方であれば相対的に「高い」という消費感覚を持たれてしまう、そんな時代に入っているということである。ユニクロの値上げの失敗に見られたように、その「価格」に見合う商品、魅力ある商品ではないという評価ということである。結果は、客数が大きく減少し、単価アップによる売り上げに届かないということになる。こうした時代にあって、例えば低価格路線で急成長した中華そばの幸楽苑が大幅な店舗閉鎖へと向かっている。他の低価格選択肢がある中にあっては、相対的に「高い」と感じられ始めたということだ。つまり、同じことをやっていてはいくら「低価格」であってもダメだということである。デフレの日常化とは、デフレスパイラルのフェーズに入ってきたということでもある。前回、「変わるなら、今でしょ」と書いたが、まだ遅くはない。
砂町銀座商店街ではないが、「売り切る」ためのやり直しである。ユニクロのようにシステムとしての売り切り方もあれば、以前ブログにも書いたが、「そこまでやるか」というぐらいのやり過ぎに踏み切ることも一つの方法だ。顧客に喜んでもらおうと、とことん、そこまでやるか、その旺盛なサービス精神を発揮するということである。別な視点に立って言うならば、とことん「こだわる」ということでもある。(続く)  


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2017年11月19日

◆変わるなら「今でしょ」     

ヒット商品応援団日記No692(毎週更新) 2017.11.19.

前々回「小さな単位発想が危機を救う」というタイトルでブログを書いたが、今回もその続きである。前回は創業期にはあった「大切なこと」が継承されないまま危機を迎えているという主旨であった。今回はもっと「今」ならではの危機を迎え、あるいは新たな市場を創るための発想着眼についてテーマとする。産業の転換を促すものとしてEV(電気自動車)の行方が議論されているが、消費という視点から見ていくと、少し前にブログに書いた「新たな価格帯市場」が大きな消費潮流になっている。この価格潮流が企業経営の危機を表へと出し、更に2年後の消費税10%導入によって更に深刻化させる。つまり、どう革新すべきか1990年代初頭のバブル崩壊による価値観の大転換点とまではいかないが、一つの転換期を迎えていることは間違いない。

ところでここ数年チェーンビジネス起こっている多くの危機は、特に飲食業において顕著なことは牛丼の「すき家」に象徴される「人手不足」、さらに課題として出てきたのが賃料に見合う「売り上げ・利益」が確保できない、という経営の根本に関わる課題である。結果どんな解決策が出てきているか、「規模縮小=撤退」というリストラ策である。こうした課題を引き起こしている消費は、物販であればネット通販であり、価格帯視点に立てば急成長しているフリーマーケットや中古ショップとなる。また、食品・飲食であれば「宅配」ということになり、その象徴が生鮮食品などのアマゾン・プライム会員サービスということになるであろう。
勿論、既存ビジネスも「人手不足」という課題であれば、スーパーやコンビニの場合、レジの自動化・セルフ化が急速に進行している。あるいはサービス業であれば、ロボット対応も導入され始めている。チェーン店の良さは均一な品質の商品・サービスをどこよりも安く提供するという規模のビジネスである。実はその規模(=市場)が大きく変化してきたということが根底にあるということである。
こうしたIT,IotあるいはAIといった技術革新による新しい業態による解決であるが、「人手」の活躍の拡大=生きがいに主眼を置いた企業もある。それはかなり前に事例として取り上げた雑貨専門店のロフトであり、24時間営業の「富士そば」などはまさに次なる「人力経営」であろう。こうした業態やサービスの大転換が人手を最大資源とする専門店で行われているということである。こうした2つの根源的な課題に取り組まない企業は残念ながら市場から退出を求められていく。

こうしたチェーン店はいわば表通りにあるビジネスであるが、一方では私が以前から着眼指摘してきた横丁路地裏の小さなビジネスから小さなヒット商品が生まれてきている。
この潮流は亡くなられた地井武男さんによるテレビ朝日の「ちい散歩」が火付け役となった「散歩ブーム」にある。この散歩ブームは鉄道沿線、地下鉄沿線、さらには路線バスの沿線、といった具合に今でも続いている。こうした街場にはまだまだ知らない世界が沢山あることに散歩によって気付かされる。それはTBS の「マツコの知らない世界」やTV東京の「孤独のグルメ」へとつながっていく。こうした「知らない世界」の道筋をつけてきたのは、専門家・プロの指摘ではなく、一見どこにでもいそうないわゆる「素人」であり、私の言葉で言えば「オタク」ということになる。
勿論、一方では専門家・プロからの「反撃」も出てきている。例えば、以前取り上げたことがあるフレンチのシェフ・水島弘史さんがすすめる、科学的にも理にかなった裏技、美味しい料理法なんかが当てはまる。しかも、フレンチではなく、日常誰でもが作るカレーライスといったメニューをプロの味にする裏技レシピといった「反撃」である。

面白いことにこうした転換期の「変化」を売り場に反映させているショッピングセンターがある。以前取り上げた大阪駅にあるルクアイーレである。あの伊勢丹・三越の失敗撤退跡にリニューアルされた売り場で、その象徴とも言える売り場が2つある。1つは2階のフロア「ワールドザッカマルシェ」でまさに小さな「雑」集積フロアとなっている。マルシェ、つまり市場感覚を生かしたオシャレで小さな専門店集積である。若い世代に人気の古着ショップと同じように、「知らない世界」と出会うことができる宝探しのような売り場編集である。
もう一つは地下2階にある「バルチカ」という飲食街である。行列の絶えないソース料理とワインが楽しめる「赤白(コウハク)」という店もあるが、ルクアイーレというショッピングセンター全体から見ればいわば横丁路地裏のような一角となっている。

もう一つの転換期としては、こうした既存の消費市場への対応とは別に新たに生まれてきているのが「訪日外国人市場」である。このブログでも何回も取り上げてきたが、本格的な対応を取らないと手遅れになると指摘をしておきたい。何故なら、今年に入っても訪日外国人客は増加しており、しかもリピーターが増え、それまでの団体旅行ではなく、個人旅行者数は全体の半数を超えてきた。しかも、再来年の2019年にはラクビーのW杯が開催されることもあるが、それよりもまず4月には現在の天皇陛下が退位され、新天皇が即位する。恐らく世界から国家元首級が70か国、王室VIPが20か国など大勢の賓客が駆けつけることになる。更には2019年の参院選前には、日本が主催するG20首脳会議が東京で開かれる。そして、2020年には東京オリンピックである。

多くの訪日外国人客の受け入れ体制、民泊の整備や交通機関のあり方が課題に上がっている。そうした観光インフラ的なこともさることながら、インターネットの時代ならではの課題について考えてみたい。
先ほどの「知らない世界」ではないが、訪日外国人の興味関心事はどこにあるのかある程度は把握できてはいるがまだまだわかってはいない。
日本という国を地球儀を前にして俯瞰的に見れば、ヨーロッパや米国と比較し、小さな小さな国土である。これを観光という視点に立てばどうなるかということである。1つは既に京都で起きていることだが、訪日外国人客の多さに、日本人観光客がひいてしまい、京都観光を避け始めているという事態になっている。以前にもブログに書いたが、京都新聞によれば京都市内の観光客は減少し、京都府は逆に増える傾向にあると。つまり、京都を代表する名所旧跡観光は減り、周辺の京都観光に向かっているということである。前者は表通り観光で、後者は横丁路地裏観光と言っても構わない。あるいは知名度のある観光地とまだ知られていない小さな観光地と置き換えても同じである。つまり、インターネットの時代にあっては、「表」と「裏」、「大」と「小」を組み合わせ、奥行きや深みをつけることが必要となるということである。京都の友人に言わせれば、訪日外国人もそうだが、日本人観光客も知らない京都らしい素敵な路地裏観光地や路地裏カフェが山ほどあると指摘をしている。

以前からホテルではなく畳座敷のある和風旅館へ宿泊したい、日本式の風呂、できれば露天風呂にも入りたい、そんな要望が強くあった。また、消費行動を見てもわかることだが、それまでの家電製品や寿司人気から目薬といった医薬品や化粧品、あるいは100円ショップや菓子類へと変化しており、私たちの日常消費へとどんどん近づいている。そして、食においては回転寿司から食べ放題へ、さらには居酒屋へと変化し、それまでの高級な寿司や天ぷらは卒業したかのごとくである。また、今流行り始めているのが、しゃれた文具製品や雑貨類で日本の「今」を感じさせる生活文化、「カワイイ文化」への関心である。土産類も小物であれば「漢字」をモチーフにしたTシャツや手ぬぐいなど「日本」を感じさせるものが買われているという。全て物理的にも価格的にも「小さな」ものばかりである。ここにおいても日常化、回数化がキーワードとなっている。そして、そのMDの先は何かと言えば日本の過去と今を実感できる「生活文化観光」ということになる。
つまり、特別なこと構えたことなど必要がないということである。民泊需要が高いのも価格がリーズナブルであることと共に、日本人の日常生活そのものへの興味が強いということである。漫画やアニメだけでなく、こうした生活文化そのものが「クールジャパン」の本質である。

要約すれば従来の市場が変わり、更に訪日外国人市場という新市場が生まれ拡大していく、そんな時代の転換期の入り口に来ている。そして、この2つの「変化」は一つになって、すぐそこにまで来ている。この変化の波は都市も地方も、大企業も中小企業も、チェーン店も街場のラーメン屋さんも、等しく押し寄せる。勿論、そこに生活する私たち生活者一人ひとりにも。この変化が深刻な危機に向かうのか、逆にチャンスとするのか、2年後の消費税10%導入によってより鮮明になっていくであろう。つまり、変わるなら「今でしょ」ということだ。(続く)
  


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2017年11月12日

◆続く無縁社会 

ヒット商品応援団日記No692(毎週更新) 2017.11.12.

座間の猟奇殺人事件による被害者の身元が判明し報道されている。こうした事件を取り上げたくはないのだが、無縁社会が引き起こす事件として、ある意味象徴的事件が起きてしまったことになんとも言えない思いにかられる。実は今から7年半ほど前に「無縁社会とツイッター」というタイトルで次のようにブログに書いたことがあった。

『昨年(2009年)のヒット商品の一つであったツイッターが更に広がりを見せているようだ。日経MJによれば昨年は月間利用者が250万人に及んでいると報じていたが、政治家を始め、企業の新製品の試食会やモニターリングなど多様な使われ方が表へと出てきた。当初は140文字以内のつぶやくミニブログであったが、その双方向コミュニケーションのスピード、即時性によって、新しい会話メディアとして定着し始めたということであろう。
そもそもプログの発展は、誕生した米国では主にビジネス用として使われていたが、日本に導入されるや「子育て情報」の交換・交流メディアとして、更には自分のペットを舞台へと上げるメディアとして成長してきた。日本の場合は、「話し相手・つながりを求めて」という動機であったということだ。その裏返しであるが、いかに話し相手がいないか、個人化社会の進化と共に生まれてきたメディアと言えよう。』

無縁社会は高齢社会の進行とともに、また若い世代においては家庭の崩壊、学校の崩壊によって生み出されたものだが、個人化社会という「つながり」を求めたコミュニケーションはツイッターやFacebookなどSNSへと発展していく。現在はどうかと言えば、ソーシャルメディアのユーザー数・年齢層・利用率などのデータが公開されている。

1、Facebook;国内月間アクティブユーザー数: 2,800万人 
2、Twitter;国内月間アクティブユーザー数: 4,500万人
3、LINE;月間アクティブユーザー数:7,000万人以上
4、Instagram;月間アクティブユーザー数: 2,000万人

複数のアカウントを持つユーザーの総計であるが、いかに個人メディアが浸透しているかがわかる。こうした膨大な「個」の表現世界を検索するには従来のGoogleやYahooでは最早スピードを持ってたどり着くことができなくなっている。何回かのキーワードを入れなければならなくなっている現実があり、若い世代の場合特にそうであるが、特別な興味関心事を共有する場合#(ハッシュ)タグをつけて行うことが一般化している。世界最大のSNSであるFacebookも少し前にこの#タグで検索できる方法が取り入れられほとんどのユーザーは無縁空間に向かって直接語りかけることが可能になった。

ところでこのツイッターであるが、無縁社会にあって、血縁、地縁、職縁といった動かし難い大きな観念から離れた、小さな軽い縁、ゆるい縁結びメディアである。インターネットというと、少し前までは「仮想世界」で仮想と現実を行ったり来たりするメディアであると理解されてきたが、実は仮想どころではなく、全て「現実」社会の出来事としてある。デジタルネイティブ世代という言葉があるように、仮想と現実の境目のない若い世代がネット社会の多くを占める時代となっている。ツイッターと同じ機能を持つ掲示板である2ちゃんねるとは根本異なる次元のコミュニケーション世界が広がっているということだ。
つまりトランプ大統領のツイッターではないが、ダイレクトに現実世界を動かすメディアとなっている。「インスタ映え」というキーワードがあるように、好きなラーメンを食べに行くのではなく、ちょっと面白いインスタ映えするラーメン屋に写真を撮りに行く、といった具合である。ツイッターやインスタグラムで公開された「写真」が素敵だとして一躍観光ブームが起こる、そんな時代にいる。誰も使ってはいないが、「ツイッター的リアリズム」というキーワードが思い浮かぶほどである。

このようにSNSでは個人単位の小さな興味からヒット商品が数多く生まれている。それが公開され「いいね」であれば急速に拡散して行く、バイラルマーケティングという言葉そのものの効果を生み出すメディアとなっている。語の真の意味を表現するならば、「バイラル」とはウイルス性、感染的の意味で、口コミでよく使われる「拡散希望」を可能とするメディアのことである。
こうした「拡散」して行く中で、今回の事件の場合は逆の世界で、「特定」「固有」の興味・関心事を共有する絞り込みを可能とするのが#タグという仕組みである。そして、今回の座間の猟奇殺人事件で使われた興味関心事の#タグが「自殺」であった。

若い世代の自殺願望の多くはいじめや受験・就職などの失敗が契機となっていると指摘されている。その心理の背景には間違った「自立」と「自己責任」認識があるとする専門家・教育関係者は多い。その認識は「自立」を家庭や帰属する組織から離れ独り立ちすることであると教えられてきた。自立とはこうした「社会」から離れ独り立ちすることではなく、「社会」の中で自分の果たす役割を全うすることにある。その時重要なことは自分でできることと、できないことをきちんと認識し、周りの仲間と補いながら役割を果たすこと、これが自立である。このことが家庭での子育ての第一義であり、学校もそれに沿った教育をすべきである。ある意味、偏差値を含めた「競争」がこうした教育を歪めてしまっているということだ。同様に、受験も就職も「自己責任」の一言で決めつけられる、そんな偏った個人化社会が背景としてある。

歪みつつある個人化社会にあって、今一度認識を新たにしなければならない。利他の精神という言葉が仏教にはある。自分のことはあとまわし、まず相手のことを考え行動する、これが「利他の精神」で利他に徹すると、結果は自分に返ってくる。つまり自利(自分の利益)は利他の結果であると。利他の心を持って周りの仲間に接しようとしてもそれを阻害する「いじめっ子」はいる。教師がわからないところでのいじめに対しては子の両親は徹底して教師・学校と戦うことだ。なぜなら、当たり前のことだが、「利他の心」を教えるのが学校教育で、受験などのスキルは2番目である。

今回の事件を受け、政府はSNSを含め不適切なサイトへの対策を強化すると報じられている。具体的には「自殺サイト」などの実態を把握し、サイトの削除や書き込み制限など対策の強化を図るとのこと。さらにネットを通じて自殺願望を発信する若者が適切な相談相手にアクセスできるよう取り組むという。
しかし、「自殺サイト」はさらに裏サイトへと変化していくだろう。勿論、防止策としては必要で、特にネット上での相談窓口の強化が必要となっている。少し前の「夜回り先生」こと水谷先生のような相談者が必要となっている。こうした対策は最後の防止策であり、その前に全てを「個」に解決を求める時代の傾向の中で、立ち返るべき基本はやはり家庭や学校である。ちょうど11年前に「いじめ」の問題にふれてブログに次のように書いたことがあった。それは糸井重里さんが主催する「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で読者であるお母さんと子供のやりとりに詩人谷川俊太郎さんが答えたものである。(再録)

『【質問六】
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)
追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした
   質問です。目をうるませながらの質問でした。
   正直、答えに困りました~
   
■谷川俊太郎さんの答え
ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。』

「アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね」と答える谷川俊太郎さんの温かいまなざしに多くの人は共感すると思う。アタマという言葉を理屈という言葉に置き換えても、ココロを素直にと置き換えても、カラダを行動すると置き換えてもいいかと思う。そして、この答えはお母さんに対してだけではない。教育者にも、社会に対してもである。
ただココロもカラダも使って答えるべき母親のいないひとり家庭が増えており、厚労省の平成27年度のデータでは146万世帯とのこと。今回の座間の事件の容疑者が特定されたきっかけは被害者田村愛子さんのお兄さんであり、田村愛子さんが行方不明になって懸命にツイッターなどで情報収集を行い、捜索活動をした結果であったと報じられている。そして、その田村愛子さんの育った家庭と言えば、母親と二人の子供の母子家庭で、母親が亡くなった今年事件に巻き込まれ犠牲になったという。想像するに、亡くなった母親はココロもカラダも使って二人の子育てをしていたことだろう。母親を失った喪失感が「自殺」に向かったとすれば無残としか言いようがない。
無縁社会とは「世間」という概念が無くなってしまった社会のことである。多くの人が「縁」を求めてネット空間に入って行くが、この空間に「世間」を創ることこそが問われているのだ。座間の猟奇殺人事件を教訓とするならば、アタマという規制も必要であるとは思う。しかし、同時にココロとカラダを使ったネット上の「夜回り先生」こそが必要な時代となっている。(続く)  


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2017年11月05日

◆小さな単位発想が危機を救う 

ヒット商品応援団日記No691(毎週更新) 2017.11.5.

「沈みゆく日本」 を感じさせる事件・不祥事が次々と報じられている。既に十分沈んでいるとの声が聞こえてもいる。沈みゆくという言葉はグローバル競争に負け続けているということだけでなく、その本質でもある「劣化」という言葉に置き換えた方が適切であろう。このブログの主旨はどんな小さなビジネス、街場の商店でも学ぶところは学ぼうというのが基本姿勢としてある。大仰に日本を論じるといった視点は基本持たないというのが特徴でもある。しかし、不祥事どころではない大企業の深刻な問題が続いている。旭化成建材、三菱自動車、東洋ゴム、日産自動車、神戸製鋼所、あるいは東芝といった企業だけでなく、新聞紙上の片隅に報じられた不祥事・事件がいかに多いか、フジサンケイ危機管理研究室がそうした企業事件・不祥事のリストをまとめている。それらは氷山の一角で、「何か」がおかしくなってきていると指摘する専門家は多い。

それらの多くは粉飾、データ改ざん、詐称、偽装、隠蔽、不正、・・・・・・・・事件・不祥事のほとんどが、それまでの贈収賄、談合、汚職、とは異なる内容となっている。そして、特徴的なことはこうした不正には金銭的な欲求が背景にあるわけではなく、特に安全性や品質のようなものが関わっており、間違っていることを認めることができない企業体質にある。企業のコンプライアンスということになるのだが、内部告発の仕組み化といってしまえばそれで終わってしまうが、匿名性が確保された「調査」のようなものが必要になっていると指摘する専門家もいる。つまり、ここまで病根は深いということである。

バブル崩壊前までは「日本企業の強さ」のためのガバナンスは「企業組織の文化」をいかに強くするかであった。もっと簡単に言ってしまえば、企業風土である。何も難しいことではなく、ソニーであれば周知の通り、創業者井深大氏、盛田昭夫氏以来、引き継がれているのが「ソニースピリッツ」。 誰も踏み込まない「未知」への挑戦を商品開発にとどまらず、あらゆる分野で実行してきた企業である。世界初のトランジスタラジオの開発以降、「トリニトロン」「ウォークマン」「デジタルハンディカム」 「プレイステーション」「バイオ」「ベガ」「AIBO」…。日本の企業としては初めてのニューヨ ーク証券取引所に株式を上場。公開経営あるいは執行役員制の導入。新卒者への学歴不問採用等。多くの日本初、世界初のチャレンジを行ってきているが、その根底には、創業精神 「他人がやらないことをやりなさい」という不可能への挑戦が、ソニーマン一人ひとりに根づいてい ることにある。AIBOの開発メンバーである当時の責任者土井氏に井深氏から次のように言われたと後日語っている。“土井君、創造性とは人に真似されるかどうかで 評価される。人に真似されるものを作りなさい”と。
こうしたポリシーは実はあのアップル社が継承し、次々と「他人がやらないこと」を成功させているが、今回やっと周回遅れのロボットAIBOの発売が報じられた。この周回遅れという意味はAIBOに搭載されたAI・人工知能の開発が遅れたという意味である。周回遅れでも忘れずに再チャレンジしようとすることは創業精神がまだソニーには生きているということであろう。

ところでもう一つ創業精神が継承されているブランドとしてあのシャネルがある。波乱万丈、成功と失敗を繰り返したシャネルであるが、この生き様が商品に映し出された例は珍しい。その生き様であるが、1910年頃マリーンセーター類を売り始めたシャネルは、着手の女として彼女自身が真先に試して着ていた。そして、自分のものになりきっていないものは、決して売ることはなかった。それは、アーティストが生涯に一つのテーマを追及するのによく似ている。丈の長いスカート時代にパンツスタイルを生み、男っぽいと言われながら、水夫風スタイルを自ら取り入れた革新者であり、肌を焼く習慣がなかった時代に黒く肌を焼き、マリンスタイルで登場した。そして自分がいいと思えば決して捨て去ることはなかった。スポーツウェアをスマートに、それらをタウン ウェア化させたシャネルはこのように言っている。“私はスポーツウェアを創ったが、他の女性たちの為に創ったのではない。私自身がスポーツをし、そのために創ったまでのこと”。勿論、 アクセサリーの分野でも彼女のセンスを貫き通した。“日焼けした真っ黒な肌に真っ白なイヤリング、それが私のセンス”。シャネルのマリンルックは徐々に流行する。
以降も次々と革新的な商品を生み出していく。例えば香水についても、過去の“においを消す香水”ではなく、“清潔な上にいい匂いがする香水”、つまり基本は清潔、それからエレガンスであった。そして、調香師エルネスト・ポーと出会い、「No.5」
 「No.22」が生まれるのである。コンセプトは“新しい時代の匂いを取り入れること”とし、どこにでもつけていける香水を創ったのである。

ここにあるのは革新、生き方、夢、情熱、仕事好き、初めて、・・・・・・・創業期にあった企業風土、企業文化である。今から10数年前、盛んにCSRの必要性が指摘されたことがあった。CSRとはCorporate Social Responsibilityのことであり、当時私は分かりやすく既にあった近江商人の心得「三方よし」を持ち出して企業の不祥事を分析したことがあった。その後、Social ・世間はグローバル化し、CSRも変化してきてはいるが、創業期はどうであったかを今一度考えてみることも必要であると思う。何故なら創業期には理想とするビジネスの原型、ある意味完成形に近いものがあるからである。ビジネスは成長と共に次第に多数の事業がからみあい複雑になり、視座も視野も視点もごちゃ混ぜになり、大切なことを見失ってしまう時代にいる。創業回帰とは、今一度「大切なこと」を明確にして、未来を目指すということである。「大切なこと」の多くは経営理念のように明文化しても機能することはない。理屈っぽく言えば、創業の精神・ポリシーの継承とは、形式知を学ぶのではなく、暗黙知こそ学ばなければならないということである。しかし、創業期の暗黙知を持っていた団塊世代は最早現場にはいない。

この難しいと思われてきた暗黙知の継承=現場社員一人ひとりへの浸透の成功事例は実はあのトヨタの「カイゼン」の中にある。カイゼンというと無駄の削減といった見られ方をしてきたが、その本質は小さな革新の積み重ねにある。目的は現場の一人ひとりが結果として「楽になる」ことで、この意識改革そのものが重要となっている。現場のちょっとした工夫やアイディアをすくい上げ、選択し、日々実践し、見直しし、磨き上げていくこと。こうした方法論は暗黙知を生産ラインや場合によっては商品開発にすら広げ活用することができる方法となっている。これは製造現場だけのことではなく、カイゼンの発想・着眼は小売業にも実は応用されている。小売現場の暗黙知は小さなことばかりである。ある百貨店の場合であるが、大きな売り場を4つに分け、さらに4つに分ける。そうすると少しずつ問題点も見えてくる。そこに知恵やアイディアを売り場に注ぎ込む。そして、小さな単位の売り場責任者を置く・・・・・・つまり小さな単位に分けることによって現場の知恵やアイディアを引き出し生かしていく現場経営が生まれる。この方法はあのドン・キホーテの売り場経営と同じである。

「大切なこと」とは、例えばユニクロのように創業者のリーダーシップによって危機が明らかになることもあるが、多くのサラリーマン社長による企業の場合はこうした一連の絶えざる小さな革新によってのみ継承されるということである。ユニクロのように大きく変えることはリスクもあって難しい、そう誰もが考える。しかし、小さな単位なら構えず実施できる。しかも、小さな単位とは日常の現場作業のことであり、それは慣習として日常化され継続される。つまり、暗黙知という「大切なこと」が継承されるということである。例えば、世界に誇る老舗大国日本であるが、危機を超える知恵はこうした発想によって成立している。老舗とは保守の真逆、絶えざる革新によってのみ継承された企業のことである。(続く)
  


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2017年10月29日

◆日本観光応援団の2回目は「もう一つのクールジャパン」   

ヒット商品応援団日記No690(毎週更新) 2017.10.29.

「観光地化」というキーワードを使ったのは10年前の5月のブログ「変わる観光概念」であった。ちょうど東京ミッドタウンと東京駅新丸ビルがオープンし、連日10数万人の観光客が押し寄せた状況を踏まえてのブログであった。勿論、都市観光の先駆的事例としては1990年代後半の渋谷109で、当時中学生の修学旅行先の一つが東京ディズニーランドと渋谷109であった。従来の観光資源としての自然や歴史文化といったものから、新しい、面白い、珍しい「何か」を求めて都市へ、特に東京に人が集まる現象から「観光地化」というキーワードが生まれた。そして、リーマンショック以降、最大の観光集客があったのは周知の東京の新名所となった東京スカイツリーで連日20万人超の観光客が押し寄せた。そうしたことを踏まえ、次のようにブログに書いた。
『東京タワーを「Always三丁目の夕日」が描いたように、あらゆるものが荒廃した戦後日本の復興のシンボル、夢や希望を託したタワーであったのに対し、東京スカイツリーにはそうした物語はない。あるのは世界一高い634mのタワー、その眺望である。しかし、それでも人が押し寄せるのは東京が複合的テーマパ-ク、観光都市として存在しているからである。
東京に象徴される都市商業を舞台化することによって更に世界中から集客する時代となった。その舞台空間は非日常的でそこに繰り広げられる、新しい、珍しい、面白い、そうした刺激に酔うことになる。』

実はこうした視点から訪日外国人市場に着眼し、「都市観光」をテーマにした「日本観光応援団」をスタートさせた次第である。そして、そのポイントは「複合的テーマパーク」というMD(マーチャンダイジング)にある。どんな魅力であっても、単一では一過性に終わるということである。Facebookの第一回で「銀座の歩き方」としたのも、「表通り」だけでなく「横丁裏通り」という「複合の街」によって観光地化が成立しているということであった。「表通り」だけではダメで、「裏通り」も必要で、その奥行きこそが観光地化には不可欠であるということである。つまり、この奥行きこそが「観光物語」を創るということでもある。

訪日外国人市場とはどんな市場なのかを表しているデータがある。訪日外国人の多くが訪日前に目を通すガイドサイト「トリップアドバイザー2017年」が発表されている。周知のように世界の旅好きの「口コミサイト」であるが、人気の日本のレストランランキングが次のようになっている。
(詳しくはトリップアドバイザー http://tg.tripadvisor.jp/news/
1位;お好み焼き ちとせ(大阪市)
2位;ニーノ (奈良県奈良市/ピザ・パスタ)
3位;クマ カフェ (大阪府大阪市/ピザなど)
4位;お好み焼き 克 (京都府京都市)
5位;韓の台所 カドチカ店 (東京都渋谷区/焼肉)
全て小さな横丁路地裏の店で、隠れた名店ばかりである。私が一昨年から街場の名もない名店に着目すべきとの指摘そのままのランキングとなっている。訪日外国人にとっても、日本人が日常送っている「生活」に興味があるということである。4年ほど前に原宿を取り上げた時のことだが、表参道の表通りから少し路地に入った場所に餃子専門店「東京餃子楼」に行列ができていた。三軒茶屋にある普通に美味しい専門店であるが、原宿にも出店しているのかと少し驚いたが、その行列のほとんどが訪日外国人であったことにさらに驚いたことがあった。当時は単純に訪日外国人も餃子が好きなんだなと思っていたが、まさに街場の餃子店にも興味関心があるということだ。更に言うならば、少し前から「体験旅行」がキーワードとなっているが、最近では地方の農村体験ツアーが始まっている。こうした農村生活を体験してみたいということも、日本人が持っている興味関心事とかなり重なり合っているということである。
ランキングされたレストランを見てもわかると思うが、英語に堪能なスタッフのいる店ばかりでなく、たどたどしい会話であるがファミリーなもてなしの店がほとんどである。都市部の旅館が衰退する中で、いち早く訪日外国人の受け入れを決断した東京谷根千の旅館「澤の屋」と同じである。顧客のことを思い、真摯に向き合う日本人の姿である。訪日外国人も、日本人も、実は「知らない日常生活」「埋もれた生活文化」が山ほどあり、そのことに応える、そんな当たり前のことが問われているのだ。

こうした背景から「日本観光応援団」を立ち上げたわけであるが、第二回の横丁路地裏観光は東京駅地下に広がるフードパークを取り上げてみた。駅ホームの下には日本全国の飲食店やお土産店が出店しており、既に「デパ地下」を超えた存在になっている。トリップアドバイザーのランキングを見てもわかるようにそれらランキング先は団体旅行のレストランではなく、個人旅行先そのものである。それら個人旅行は訪日外国人旅行者の半数を既に超え続けており、その移動のポイントとなっているのが「駅」である。数年前から駅への要望事項の第一位がWiFiの整備で、その意味することはスマホを頼りに旅行するというスタイルが基本になっているからである。
この東京駅地下のフードパークには日本全国の新しい、面白い、珍しい「食」が集積されており、それまでの出張サラリーマンの出がけに買う駅弁やお土産をとうに超えた商業施設となっている。日本人には慣れ親しんだ駅弁「峠の釜飯」なども紹介したが、訪日外国人にとっては見知らぬ地方に出会える「場」でもある。日本人観光客がNYを訪れる時、一度はターミナル駅「グランドセントラル オイスターバー」で食事をしたことと思う。NYらしさを感じる「食」の一つであるが、この東京駅地下のフードパークはそうした日本らしさの一つになりつつある。

そして、東京駅地下を取り上げたもう一つの理由がフードパーク「グランスタ」が表通りであるならば、東海道新幹線ホーム下にある東京駅一番街が横丁路地裏に当てはまり、いわば複合的なテーマパークになっていることにある。常に行列の絶えないラーメンの「六厘舎」を始め、立ち食い寿司の「函館 函太郎」や新業態の「横浜崎陽軒」など「ここだけ」という専門店が集まっている。つまり、日本の食の奥行きをさらに深めているということである。「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されて4年が経とうとしている。アニメやコミックといった日本が生んだ文化経済の次に、食文化、特に地方文化の登場が待たれている。
そうした東京駅地下のフードパークを訪日外国人向けに「もう一つのクールジャパン」として 下記のFacebook上で公開している。
「日本観光応援団  https://www.facebook.com/profile.php?id=100007701331478
なお、京都の友人が京都の横丁路地裏にある「食」や「祭り」などをFacebookの「ホーム」にてガイド投稿してくれているので是非ご一読ください。(続く)
  


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2017年10月22日

◆日本観光応援団のスタートです 

ヒット商品応援団日記No689(毎週更新) 2017.10.22.

ヒット商品応援団というブログをスタートさせて12年余、途中まで数えていたアクセス数も恐らく40万名、PVだと60万ほどになる。途中病気により中断したこともあったが、ヒット商品の誕生と衰退、その着眼について分析することから始まったブログも、より現場に即した「変化」を感じ取ることを目指して街歩きへと進んできた。それらは画像を多用した「未来塾」というテーマブログとしてやってきた。
こうしたブログ進展の中で数年前から取り上げてきたのが「訪日外国人市場」であった。この市場もあっという間に、ゴールデンルートと言われる東京ー京都ー大阪からLCCによる東北や四国、あるいはクルーズ船の寄港が多い九州へと一挙に拡大した。これらは変わらぬ円安と地方自治体の誘致によるものだが、それまでのパック化された団体旅行は半分以下となり、ファミリーや仲間あるいは個人といった自由に計画する日本旅行へと変化してきた。そして、ブログの中で「突然扉を開けて訪日外国人が現れる時代」、グローバルな情報の時代について指摘をしてきた。勿論、トリップアドバイザーを始めとしたガイド情報もあるが、更にネットに溢れている多くの情報の中から興味関心のある世界を目指して扉を開けにやってくる。そんな時代の只中にいる。

ところでそんな時代にあって、訪日外国人の興味関心事がどこにあるのか、既に顕在化した「観光」ではなく、埋もれている日本の魅力、ともすれば日本人自体も忘れている魅力を取り上げてガイドしたい欲求が生まれてきた。それはここ1年ほど東京の街だけでなく、大阪・京都の街の変化を見つめ「未来塾」のテーマブログとして書いてきた。そのテーマ着眼は「表通り」から「横丁・路地裏」まで、大きな変化から小さな変化まで、特に消費の日常・現場に即した「変化」についてであった。
京都を訪れた時、京都の友人はそれまでの観光地は訪日外国人で溢れかえり日本人観光客が減少し始めていると指摘した。そして、表通りの観光地から横丁路地裏の埋もれた観光地へと変化していくだろうとも。また、消費で言うならば、それまでの家電製品や化粧品・薬から100円ショップに代表されるようなアイディアグッズやコンビニへと変化してきている。こうした背景は訪日外国人市場の裾野の広がり、リピーターの増加によるものだが、これら変化は日本の消費市場自体を大きく変えていくものと考えている。

そこでタイトルにもあるように、訪日外国人市場のこれからを見据えたサイトをスタートさせることとした。サイト名はヒット商品応援団の意味合いと同じ「日本観光応援団」とした。勿論、既に多くのガイドサイトがネット上にあるので同じようなことをするつもりは無い。以前から指摘されてきたことだが、日本人自身は気づかないことを「外」「外国」から気づかされたと。この「気付き」がどこにあるのかをまずは探ることから始めることとする。
どんなサイトで公開するか、最適なのはWardPressでやることであると理解していたが、そこまでの作成技術が追いつかないこともあり、Facebookで行うこととした。この応援ガイドは長文になり、画像も多いことからFacebookは不向きではあるが、一つのテーマをいくつかに分けたコンテンツとしてやってみた。少々読みづらいと思うがお許しいただきたい。また、翻訳ソフトがうまく機能していないこともあって、和文・英文の併用とした。英文についてはうまい訳文とはなっていないのでこれもお許しいただきたい。

そこでその第一回のテーマは「銀座の歩き方:もう一つの楽しみ方」。勿論、観光ガイドには載っていない「もう一つの銀座」である。これら全て私自身の体験に基づくもので、久しぶりの銀座の街歩きによるものである。個人経験という狭い世界ではあるが、埋もれている魅力の着眼点を見出していただけたらと思う。
また、京都の友人からの投稿もあり、京都の路地裏や小さな祭りやイベントを取り上げてくれているので、こうした着眼の投稿を集めたサイトにし、文字どおり「日本観光応援団」のガイドサイトにしていきたいと考えている。

「日本観光応援団」;https://www.facebook.com/profile.php?id=100007701331478

なお、これからはヒット商品応援団のブログにおいては「ヒット商品の誕生と衰退への着眼、読み解き」と「大きな変化潮流をテーマとして把握分析する未来塾」、更に Facebookによる「日本観光応援団」の3つを取り組みます。(続く)
  


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2017年10月15日

◆リニューアルから見えてきた新価格帯市場

ヒット商品応援団日記No688(毎週更新) 2017.10.15.

ここ数週間訪日外国人市場を探るため、観光ガイドには載ってはいない日本の魅力を街歩きから見出すことに注力してきた。この仮説としての着眼点は来週からFacebookを通じて始めるのでご期待ください。
ところで本題であるが、タイトルにあるように「リニューアル」はそれまでの商業施設の課題解決のためのリニューアルのことで消費の潮流を見出すことをテーマとした。簡略化して言うとなると、時間経過と共に顧客要望にズレが生じ顧客が求める半歩先の「何か」を提示して、結果として売り上げや利益を回復する試みのことである。つまり、仮説ではあるが、顧客が求めている商品や価格帯などがリニューアル編集から透けて見えてくると言うことである。勿論、それが売り上げや利益に結びつくかどうかは、まずは1ヶ月ほど見ればわかる時代にいる。それほど顧客判断は早いと言うことである。

その商業施設のリニューアルであるが、首都圏の人であればある程度知っている横浜都筑区の中心、横浜市営地下鉄センター北駅隣の「ノースポート・モール」というショッピングセンターである。2007年に開業した郊外型の大型商業施設でSIASという投資顧問会社が開発し、テナントリーシングや運営をパルコが担当したSCである。スタート当初は幅広いテナント揃えを行なっており、駅からのペディストリアンデッキからの入り口2Fには渋谷109にも出店しているようなティーンズファッションショップが出店していた。つまり、ファッション専門店の比率も高く、年齢層もかなり幅広かった。
この都筑区という市場は、横浜市が港北ニュータウンとして大型開発した地域で、そうしたことから10数年前には「ベビーカーの街」として注目されたところである。そうしたことから阪急百貨店や東急SCなど大型商業施設が競って出店した地域である。そうしたことから、横浜市の中でも待機児童0と言われるように子育てしやすい緑の多い地域としても知られている。
こうしたことから各商業施設はその戦略を大きく変えていくこととなる。確か隣のセンター南駅の東急港北SCに出店していたGAPはGAPキッズの売り場を新設したり、阪急百貨店は従来の都心百貨店売り場作りからSCにおける専門店編集へと変更する。こうした中で、ノースポート・モールも東急不動産へと経営が移る。そして、今回10年ぶりにリニューアルし、そこから消費の潮流が透けて見える。

リニューアルコンセプトは、「港北NEW LIFE STYLE TOWN」として、9月15日にオープンし初日には千数百名が行列したと聞いている。そのリニューアルの狙いは2つある。
1つは明確な顧客設定で「子育て世代」に特化した専門店構成になっていること。もう一つが集積度の高い大型専門店を集めている点にある。そのリニューアル店舗は70店で約半数以上が変わる、そんなリニューアルである。
この2点を象徴しているのがユニクロ、ジーユー、無印良品の増床リニューアルで、特にその中でもジーユーは初の超大型店となっている。成長著しいジーユーであるが、標準店舗が約200坪であるのに対し、ノースポート・モールでは820坪となっている。そして、こうした大型専門店のみならず、ほとんどの店舗の商品ラインアップがウィメンズ、メンズ、キッズと、いわゆる子育てファミリーに徹底的に絞り込んだMDとなっている。例えば、複数のアパレルファッションブランドを展開しているアダストリアであるが、ファミリーブランドとして展開できる商品ラインを有しているGLOBAL WORKといったブランドが出店している。更にいうならば、大規模店舗を展開しているBOOK OFの場合も衣料についてはMODE OFとして同じような商品ラインアップ売り場が作られている。そして、こうした脱ファッションという視点で言うならば、ワールドの売り場ではindex始めいくつかのブランドを集めた売り場オペーククリップとして編集されており、ファッションブランドとしてはせいぜいこの売り場程度でリニューアル前のトレンドファッション売り場はほとんどなくなっている。つまり徹底した子育て支援集積がなされているということである。

このノースポート・モールは延床面積が14万1125.33m2、つまり約43000坪弱の大型商業施設である。店舗数は120店舗ほどで1店舗平均360坪弱となる。郊外型の場合は広域集客しなければならないことから坪数の大きな大型店舗化は常套手段ではあるのだが、ここまでの大きさは地方のSC以外には見られない。勿論、郊外であればこそできる店舗スペースで、私の言葉で言うならば「テーマ集積度の高さ」を追求できる商業施設である。そのテーマを価格帯として言うならばリーズナブルプライス、日常利用するにふさわしい値ごろ感のある専門店集積となっている。
この横浜市都筑区は横浜中心部にも近く、あるいは都心に出るのにも便利な地域であることから、いわゆるインポートブランドなどはそうした場所での買い物となる。阪急百貨店が苦戦し、SCのような売り場編集に舵取りを変更したのもこうした理由からである。こうした転換については、2009年の日経MJによるヒット商品番付を読み解くブログで次のように書いたことがあった。

『少し前にファミレスの元祖「すかいら~く」の最後の1店がクローズした時、新たな価格帯へと再編されてきたことを「新価格帯市場」というキーワードを使ってブログにも書いた。ファミレスにおいては客単価1000円の「すかいら~く」業態は客単価750円の「ガスト」業態に再編した。今回の番付にも、西の横綱の激安ジーンズは1000円以下、東の関脇の規格外野菜はわけあり価格、西の関脇の餃子の王将は安くて満腹、前頭のファストファッションは「フォーエバー21」のように上から下までコーディネートして1万円以下、更には韓国旅行、お弁当、sweet(宝島社)、・・・・・新たな価格帯市場を形成したシンボリックな商品が並んでいる。どれもこれもブログで書いてきた商品ばかりなので個々については触れないが、こうしたシンボリックな商品の価格帯を軸にして市場は再編されるということである。消費は収入の関数であり、この10年間で年間100万円収入が減少した時代にあっては至極当然のこととしてある。前回の番付に「ひき肉ともやし」が入っていて確かに不況期に売れる商品であるが、日経MJが載せることではないだろうと書いた。今回も同じ意味合いで「粉もん」(お好み焼き粉)が入っている。確かに、こうした不況型商品が売れる傾向は続いているということである。』

そして、こうした「価格」の津波は、あらゆる商品、流通業態、消費の在り方を根底から変えると断言した。そして、事実その通りに流通市場が再編されてきた。しかもアマゾンを始めとしたネット通販や今話題のメルカリをはじめとしたフリーマーケットの急速な拡大により、店舗販売からは見えないところでの消費が活性化してきている。つまり、有店舗商業はよほどの魅力が無い限り、店舗まで足を運ぶことがなくなってきたと言うことである。SC業界では郊外型SCの物販専門店の苦戦が言われているのもその背景にはこうした流通変化がある。
ところでノースポート・モールもそうであるが、郊外型SCが一番賑わっているフロアがあるとすればそれはフードコート、レストランフロアである。勿論、祝祭日であり、ウイークデーが込み合うことはない。ノースポート・モールもリニューアル以前からフードコートはあったのだが、新たにペッパーランチ、長崎ちゃんぽん、プラススパイス(カレーショップ)の3店舗が加わり充実させている。価格帯も600円から1000円未満と日常利用価格となっている。ファミリーユース、ママ友ユースという集える場、楽しみの場となっているということである。既に物を買う場というより、「集いの場」あるいは「娯楽の場」が集客のコアになっているということだ。10数年前から郊外型SCにはシネコンや大型ゲームセンターなどの集客装置が作られ休日集客が図られてきた。これらが表しているように、SCは物販店の編集によって、つまりモノを買うことだけでは成立しなくなってきたということでもある。

1年ほど前からデフレは日常化しそれが当たり前の消費となってきたと繰り返しブログに書いてきた。昨年のユニクロの値上げの失敗から始まり、無印やコンビニまでもが値下げに踏み切るたびに、生活者にとってそれら値下げは当たり前のこととして受け止められてきたということである。こうした消費変化を私は「もはやデフレは死語となった」と表現したが、ノースポート・モールのリニューアルを観察し、デフレの日常化が現実のフロアになったと強く感じた。
日本では昔から価格帯のことを松竹梅と表現してきた。この伝からいうと、「松」は百貨店における消費として縮小に向かい、「梅」はドンキ・ホーテに代表されるディスカウンターやアウトレットショップが続々と誕生し市場は拡大してきた。そして一番大きな「竹」という価格帯市場をめぐる競争が激烈なまでになされてきた。今、この「竹」というボリューム市場が分解し、それまでの「梅」に近い価格帯へと大きく移動してきた。ある意味、「竹」と「梅」とが重なり合いながら一つのSCの商品構成が行われている、それがノースポート・モールのリニューアルであると観察した。

実はこの「竹」価格市場の分解については多くの企業が失敗してきた。2014年春に新消費税が導入され各社それぞれの対応策が実施されてきたわけだが、低迷する百貨店業界にあって唯一増税にも関わらず前年比プラス1.1%と伸ばしたのが銀座三越であった。それはどの百貨店より早く免税手続きの世界最大手グローバルブルー(スイス)と提携し、伊勢丹新宿店、日本橋三越本店、銀座三越に免税店を設け訪日外国人受け入れを強化した結果であった。つまり、当時は「爆買い」と揶揄されたが、新たな市場開発の成果によってであった。ところがデフレの旗手と言われたファストフードはどうかといえば対応を間違えた結果となっていた。当時の状況を次のようにブログに書いた。

『次に外食チェーンの変化である。まず牛丼大手3社についてであるが、吉野家は牛丼並盛りを20円値上げして300円とし、松屋も10円引き上げた。一方、すき家は10円値下げで対抗した。既存店の客数を見るとすき家が4.8%減、松屋が4.4%減なのに対して吉野家は9.2%減と苦戦した。値上げした吉野家は落とした客数分を値上げによって補いきれなかったという結果である。すき家も値下げをしたにも関わらずマイナスであるのは人手不足による店舗閉鎖の影響によるものである。つまり、日常利用において20円の値上げは大きく吉野家は「暗」という結果となった。確か3月のブログにも書いたことだが、新メニューである牛すき鍋膳は冬場の季節メニューであり、次のヒットメニューが求められていると。ところが新メニューも無い上に値上げをして消費増税を迎えたことは、吉野家ブランドの過信であったということである。
また、普通の企業に戻ったマクドナルドであるが、100円マックを復活させて以前の市場を呼び戻そうとしているが相変わらず低迷したままで、4月の既存店売上高は、前年比3.4%減と3カ月連続で前年実績を下回った。ここ2年ほど迷走し続けたマクドナルドであるが、明るい材料もあり、特に若い女性を狙ったアボカドを使用したハンバーガーのように明快なメニューコンセプトに戻れば復活はあり得るであろう。』

そして、実は消費増税の壁を超えた企業がユニクロとニトリであった。ユニクロは国内既存店は6ヶ月連続のプラスで4月は前年比103.3%、ニトリは既存店売り上げは115.1%と2014年度に入り好調さを持続させていた。両社共に、2012年ごろから価格だけでなくデザインクオリティを高めた商品政策を取っており、こうした点が消費増税を超える顧客支持を得たということであった。しかし、そのユニクロも増税の壁を超えて「次」へと進めたのが例の値上げであった。周知の通り大幅客数減という失敗については昨年夏の柳井社長の決算発表の記者会見などのコメントについてブログに書いてきたのでここでは省略する。

一方、急成長してきた専門店もある。その代表例がユニクロの妹ブランドジーユーである。ノースポート・モールの820坪のジーユーを見て回ったが、ウィメンズ、メンズ、キッズというフルラインについても驚いたが、とにかく安いというのが第一印象であった。トレンドもそこそこ取り入れたカジュアル衣料だが、ユニクロと比較しても際立つ安さである。その代表的な商品が990円ジーンズということだろう。上から下まですべてで1万円以内という触れ込みで急成長しているForever21やH&Mと同じ価格帯を狙ったブランドである。ジャケット類は2990円、コート類ですら4990円と若い世代でも十分手がとどく価格帯である。ちなみにユニクロのコート類の価格帯は9900円~14900円と明確な違いとなっている。

もう一つ着目しておかないといけないのが日常利用の中心となる食品スーパーである。私も多くのSCのリニューアルを手がけてきたが、その第一の鍵は日常利用(=客数増)が図れるテナントをリーシングできるかどうかであった。具体的なSC名を言うことはできないが、最近においても郊外型SCの立て直しに食品スーパーが大きく貢献した事例を知っている。ノースポート・モールにおいては1Fにブルーミングブルーミーと富士ガーデンの2社が入っている。前社はいなげやグループの食品スーパー部門で、後社は精肉で実績のあるニュー・クイックのスーパー部門である。おそらく価格対応力のあるしかも生肉に特徴を出した食品スーパーで日常利用、周辺地元顧客を集客する狙いであったと思う。この2社いずれも価格対応力、値ごろ感のある品揃えが可能になることは間違いない。ただ食品スーパーは実際に使って食べて見ないことにはわからないことから断言はできないが。
ただ言えることは絞り込まれた子育て市場に対し、明快な「価格帯市場」が創られたと言うことである。そして、これからの売り上げなどの推移を見ていかなければならないが、これが標準価格帯、前述の「竹」と「梅」が混ざり合った市場が生まれるかもしれないと言うことである。2009年に私が仮説した消費の激変が大型商業施設丸ごと現実のものとなったと言うことである。
キラーコンテンツというキーワードがある。圧倒的な魅力によって新しい市場を開発・普及させる「何か」のことである。もっと平易に言えば、「強い目的買い」によって「ついで買い」を誘発するコンテンツといっても、それほど間違いではない。いずれにせよ、強く惹きつける「何か」のことであり、誰もがこのキラーコンテンツを探している。市場を一変させる、ある一つの物語、ある一つのプログラム、ある一つの使用方法であるが、その概念を広げればたった1店、たった1人、たった1メニューによって、市場が異なるフェーズ(相)へと移行してしまうコンテンツのことである。
価格という視点に立てば、そうした「何か」によって価格破壊が行われ、新しいスタイルが生まれるということである。そのことによって広がる新しい常識、新しい普通、それらが当たり前の消費生活になるということである。最近の事例で言うとすれば、「俺のフレンチ」など一連の業態はそれまでの「フレンチ」という概念を変えたミニキラーコンテンツと言えなくはない。今回観察した横浜都筑区のノースポート・モールの価格帯戦略がキラーコンテンツの「何か」となり得るかはわからない。しかし、周辺の商業施設に大きな影響を与えていることは間違いない。(続く)  
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2017年10月04日

◆「人気者」という罠

ヒット商品応援団日記No688(毎週更新) 2017.10.4.

政治をテーマとしたブログではないのでほとんど書くことはないが、2005年にブログをスタートさせた時期がちょうど小泉郵政選挙の時期と重なり、当時の小泉総理を1個の商品、小泉ブランドとして見立て、その戦略を消費論的に分析したことがあった。その中で使ったキーワードが「小泉劇場」で、劇場化社会におけるブランドの創造と衰退がテーマであった。というのも市場が心理化し、政治も、ブランドも、ある意味「未来への期待」がその本質にあることからであった。
ブランドは情報によって創られるものであるが、つまりコミュニケーションによってあるが、過剰な情報が行き交う時代にあって、ブランド・メッセージが届かない時代にいる。その突破戦略として採用されたのが劇場型コミュニケーションで、その名の通り、舞台があり、主役や脇役がいて、どんなパフォーマンスを行えば観客は喜ぶか、シナリオと演出が用意されるコミュニケーション手法である。そのパフォーマンスは、「わかりやすさ」と「驚き・サプライズ」にある。小泉劇場は物の見事にこの2つ、わかりやすさは”ワンフレーズポリテクス”であり、驚きは”自民党をぶっ壊す”であった。多くの国民は圧倒的な支持、いや共感・拍手を送り当時の支持率は80%近くであったことを思い起こす。恐らく戦後政治にあって初めての人気者であった。
そして同時に、この人気者も小泉劇場の無くてはならない脇役田中真紀子という女房役を外務大臣を解任することによって急激に支持率を落としたこともまた思い起こさせる。

周知の通り東京都知事選を勝利し、都議会選挙においても55議席という圧倒的な勝利を納め一躍人気者となった。前都知事の舛添氏の辞任の模様を1年数ヶ月前次のようにブログに書いた。

『メディアサーカスという言葉がある。過熱報道、集中報道といった意味合いの言葉である。舛添都知事に関する疑惑は東京ローカルの問題にもかかわらず、週末の舛添都知事との記者会見は民放各局はその模様を全国ネットでライブ中継するという異常なまでの報道であった。コミュニケーションの専門家であれば熟知していることだが、こうしたニュースが全国にわたって微に入り細に入り繰り返し伝えられ、一大狂騒劇と化した。
その舛添要一という人物についてであるが、「朝まで生テレビ」に颯爽と登場し、舌鋒鋭く多くの論客を圧倒した。以後政治家になり、母親を介護し、厚労大臣にまで上りつめる。そして、次の総理候補としてもてはやされた。それら人物像はTVによって創られたイメージの高さによってであり、「政治とカネ」の問題で辞職した猪瀬前都知事に代わって、大きな「期待」を持って誕生した都知事であった。しかし、TVによって創られたいわば「人気者」は、繰り返し、繰り返し、謝罪の言葉は言うものの、違法ではないもののその公私混同の「セコさ」や「屁理屈」が伝えられるとどうなるか。謝罪は本気でも本音でもなく、「嘘」と感じさせてしまう。当然「期待」は失望どころか、一気に「怒り」へと変容する。』

舛添氏を小池氏に置き換えてもその構図、劇場型社会は変わらない。そして、小池新党を立ち上げた小池新党(希望の党)は「安倍一強多弱政治」を変えようと民進党との合流(吸収合併)に臨み、一躍台風の目となった。一大サプライズである。ところが、民進党からの希望の党への合流は丸ごとは”さらさらない””削除する”という「一言」、更には政策協定書といういわば誓約書をとることなど、それまでの小池人気、希望の党への追い風がパタッと止むことになった。それは新聞各紙・TV局メディアによる世論調査に如実に出てきている。つまり、大きく「潮目」が変わったということである。
その変容について、小池氏を側面から応援していた元総理の細川氏は毎日新聞のインタビューに答えて次のようにコメントしている。
『「(安倍政権を倒す)倒幕が始まるのかと思っていたら、応仁の乱みたいにぐちゃぐちゃになってきた。政権交代までいかなくとも、せめて自民党を大敗させて、安倍晋三首相の党総裁3選阻止まではいってもらわないと」と語った。小池氏が衆院選に立候補する可能性は「恐らくないだろう」とも述べた。
小池氏は日本新党結党以来、折に触れ、細川氏からアドバイスを受けてきた。希望の党の公認を巡り、リベラル勢力や首相経験者を選別することに「同志として小池氏を手助けしたいと考えてきたが、排除の論理を振り回し、戸惑っている。公認するのに踏み絵を踏ませるというのはなんともこざかしいやり方で『寛容な保守』の看板が泣く」と強く批判した。
 同じく日本新党出身の前原誠司民進党代表については「名を捨て実を取ると言ったが、状況をみていると、名も実も魂も取られてしまうのではないかと心配になる」と述べた。
 さらに自身が日本新党を結成したことを振り返り「政権交代という大目標に立ち向かうときは怒濤(どとう)のように攻め立てなければ成功しない」と、候補者擁立などで混迷する「小池の乱」に苦言を呈した。ただ、「首相を目指すのであれば、保守やリベラルにこだわらず、器量の大きい人でいてもらいたい」と、門下生への思いやりもにじませた。』

更に、小池知事を応援し、圧倒的な都民ファーストの会の勝利の先導役を果たしてきた音喜多・上田都議の二人が離党すると発表された。その離党の理由は豊洲への市場移転問題や東京オリンピック・パラリンピックなどの諸問題が山積しており、こうした取り組みについても情報公開されず、「安倍一強」ではなく「小池一強」になってしまったという小池氏の政治手法を強く批判している。小泉劇場と比較するとわかるが、小泉劇場の場合は女房役に田中真紀子氏がいたり、裏方にはイエスマンこと幹事長の武部 勤氏や飯島勲秘書官が居た。小池劇場の場合は小池氏一人だけで、脇役はおらず敵役だけで、演出もシナリオも小池氏一人である。「劇団ひとり」という多才なタレントがいるが、小池劇場は全て一人回しとなっている。今回の総選挙が突然決まるという奇策により、他党は全て準備不足となっているが、希望の党の場合はこの「一人回し」による矛盾であり、時を追うごとにその矛盾が出てきたと見る方が正確であろう。

TVによって創られた人気者舛添氏は、TVを通じたマジョリティ(大衆)の「物言う力」によって辞職へと追い込まれることとなった。この事例から見てもわかるように、情報の時代にあっては、TVによっていとも簡単に「人気者」を創ってしまう。多くのタレントが間違ってしまうのは、自分の才能(タレント)によって人気者になったと錯覚してしまうことにある。人気者はTVという増幅する「映写機」によって映し出された虚像であって、実像ではない。最近では”このハゲ〜”で注目された豊田前議員も不倫報道の山尾前議員も逆の意味で同じ構図の中にある。今回の総選挙に出馬するようだが、本来目指すべきは実像は地元有権者が一番知っている。実像としての人気者であるかどうか選挙結果が明らかにするであろう。

「小池人気頼み」によって民進党から希望の党に合流した前議員は少ないとは思うが、TVが映し出す世界には、虚像としての世界が含まれるという自覚が不可欠である。さらにはTVというメディアを意図的に自由に使えるという「思い上がり」が社会には存在しているが、舛添氏の場合そのTVは同時につぶさにセコさや小狡さ、あるいは違法でなければ何をやっても、そんな実像をも映し出していく。逆にメディアに復讐されたと言っても過言ではない。
また物言うマジョリティの行動、政治でいうならば「無党派層」についてビジネスに置き換えると、「ブーム」という一過性の現象とよく似ている社会心理である。トレンドという一つの人気情報による潮流、話題となったことに自らも乗ること、若い世代の言葉で言うと、「KY・空気読めない」そんな一人にはなりたくない、一種の仲間内の自己保身本能に似ている心理である。まさか希望の党に合流した前民進党議員はいないとは思うが。

ブランドの本質はその未来価値にあり、それは顧客が創るという当たり前のことである。政治に置き換えるならば、選挙区の有権者一人ひとりによって創られるということである。ブランドの価値、つまりそこから生まれる「人気」は顧客によってのみ創られ、また忘れ去られることもあえrば、場合によっては悪評から「嫌悪」へと変化する。この揺れ幅の大きさと急激さはこの情報の時代の最大特徴となっている。
元総理の細川氏が応仁の乱のようにぐちゃぐちゃになってきたとコメントしているが、周知のように室町時代後期に発生し、戦国時代への転換点となった応仁の乱は複数の守護大名家の家督争いや将軍家の後継問題、有力大名の細川勝元と山名宗全の幕政をめぐる主導権争いなどを要因として、全国の諸大名が東西両軍に分かれる形で応仁元(1467)年に勃発した戦乱である。ベストセラーとなった「応仁の乱」(中公新書)によれば、寝返りが相次ぐなど混迷を極めた戦乱は11年にわたって続き、主戦場となった京都の荒廃や室町幕府の衰退を招いたと言われている。
民進党の希望の党への合流問題に端を発し、都議選までの小池人気は終わり逆風が起き始めている。希望の党と立憲民主党との間でドロドロとなった選挙戦が既に始まっている。そして、希望の党は選挙が初めての候補者も多く、公職選挙法違反が多発すると言われてもいる。こうした問題は与党自民党の場合も抱えており、多くの世論調査を見てもわかるように安倍政権への支持率は相変わらず低い。しかし、自民党への支持率は高いのだが、自民党はいわばネイティブな党であり、問題があれば内閣総辞職をし、リーダーを変えるという自浄作用を働かせてきた。恐らく総選挙がなければ自民党内部でこうした自浄作用「安倍おろし」が活発化していたと思う。そうした意味で、与野党共に混迷・混乱は必至である。政治ブログではないので、この程度にしておくが、政治においては平成の応仁の乱が始まり、政局の混乱はこれからも続くと見なければならない。
繰り返しになるが、人気者が悪いのではない。人気は顧客、有権者が創ることを忘れた時、平成の応仁の乱が始まるということだ。(続く)
追記 小池の風が止まったことに対し、更なるサプライズが用意されていると思うが、止まった風を再び台風にすることは極めて難しい。
  


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2017年09月24日

◆問われているのは、こころが見える関係づくりである  

ヒット商品応援団日記No687(毎週更新) 2017.9.24.

以前から経営危機が指摘されていたが、玩具量販の米「トイザらス」が経営破綻したと報じられた。日本トイザらスについては店舗での販売やサービスに変更はないとのことだが、日本における流通業にとって無縁なことではない。いやそれどころか米国トイザらスの破綻は日本のこれからの予兆のようなものとして受け止めなければならない。この破綻の背景には通販のアマゾンと玩具のディスカウンターに挟撃されたものだと言われているが、それは競争における現象としてはその通りである。しかし、本質として消費が変わってきており、価格と共にショップの意味合いが変わってきていることに他ならない。特に、おもちゃという「遊び」は目まぐるしく変化しており、遊びの中心は周知のように「ポケモンGO」に代表されるスマホ・ゲームが中心となっている。結果、いわゆる玩具・おもちゃという「物」の遊びはどんどん少なくなっている。

価格については前々回のブログ「再び、人力経営の時代へ」にも書いたが、その象徴例としてユニクロとguの比較とリーダーである柳井社長の第二の創業プロジェクトに触れたが、ショップの持つ意味、経営としての有店舗の意味合いが変容する消費と共に変わってきたということである。
数年前から私はわかりやすく「ショップで商品を見て、ネットで比較し一番安いところで買う」と、既にショップはショールーム化していると書いたことがあった。こうした購入方法は当たり前のことになり、都内の食品スーパーの多くは一定の購入金額以上であれば無料でデリバリーしてくれるサービスも日常化している。勿論、店舗にも行かないネットスーパーの売り上げ比率もじわじわと増えてきている。。そして、こうした物販のみならず、飲食サービスにおいても専門料理店のメニュー宅配といった同じようなことが始まっている。つまり、人手不足と言われているが、物流・デリバリーの進化が消費の変容を促しているということである。そして、もう一つショップが果たす役割は前回のブログにも書いた通り、「顧客情報」の収集にある。

ところでそのネット通販のアマゾンであるが、2015年度アマゾン経由の売上高は全米オンライン売上の33%を占めており、2016年度には43%へとその成長度合いを強めており、いわゆる一人勝ち状態である。そのアマゾンが少し前に高級オーガニックスーパー「ホールフーズ・マーケット」(440店舗)を買収したと話題になったが、その少し前の4月には日本国内においても野菜、果物、精肉などの生鮮食品を、最短4時間で配送するサービス「Amazonフレッシュ」を東京都内から開始したとしてその躍進ぶりを見せている。
世界最大の小売業「ウオルマート」はそのディスカウント業態を確立させたことによって成長してきたのだが、アマゾンの目指す世界はいわゆる複合小売業であり、前述の飲食サービスであるスイーツ、チーズ、コーヒー、お酒などの専門店27店の商品が注文できるようにもなっている。ある専門家に言わせると、ゴタゴタ続きの東京豊洲市場の多くをアマゾンに使ってもらったらという案を出す人も出るぐらいである。

話は元に戻すが、いわゆるこのEC化の進展があらゆる分野で進行しており、日本の小売業をはじめとした商業を根底から変えていくこととなる。ずいぶん前になるが、日本の小売業を牽引してきた百貨店の売り上げを抜いたのがコンビニであった。そして、あまり話題にはならなかったが、その百貨店売り上げを5年以上前に抜いたのがいわゆる通販業態であった。久しぶりに日本通信販売協会(略称=JADMA)のHPを見たのだが、2016年度(2016年3月―2017年3月)の通信販売市場の売上高については前年比6.6%増の6兆9,400億円とのこと。(この数字は加盟企業の集計であって、最近話題となっている個人間ビジネスCtoCなどは含まれてはいないのでこの数値以上に大きいということである)


2008年のリーマンショックによって、多くの小売業や飲食業がリストラせざるを得ない状況にあって、このグラフを見るだけでいかに進化成長してきているかがわかる。アマゾンや楽天、ヤフーといった大手事業者は別として、リアル店舗からネットショップへの「参入は個人商店など小規模事業がほとんどで毎年10万店ほどが出店していると言われている。こうしたBtoC以上に成長が期待されるのが、CtoC-EC市場である。
周知のヤフオクであるが、今注目されているのがフリーマーケットEC。ネット上のフリマで商品の個人間売買が行われ、そのプラットフォーム(場)を提供しているのが、メルカリやショッピーズなどである。つまり、ミニミニ個人ビジネスへとEC市場の裾野が広がったということである。あるいは、プロ級のハンドメイド商品やアート商品を売買するサイト「Creema」などもCtoC-EC市場である。つまり、従来あった異なる「ビジネス区分」をつなぎ合わせるプラットフォームがネット上に続々と創られ市場化してきているということである。このように成長が続くEC市場であるが、多くのEC事業者は東京オリンピックの2020年には現在の小売サービス売り上げ約300兆円の内、ヤフーなどは20%ほどのEC化率が見込めると予測している。ちなみに現在は18%ほどで、まだまだ成長する分野であるとのこと。

こうしたマクロ的な視点を踏まえることも大切であるが、インターネットによって個人需要にどのような変化をもたらし、これから更にどこへと向かっていくかである。2000年代に入り、企業のみならず個人の可能性を広げるツールであると、それをWeb2.0というタイトルで表現した。その可能性とは、「ロングテール」というキーワードに象徴されるように、小売店頭の片隅に置かれた、あるいは店頭に並ぶことからも外された商品に販売の「機会」を与えるビジネスファーマットの出現であった。その先駆けがアマゾンで、埋もれた商品を表舞台に上げる、そんな可能性である。売れなかった書籍が売れると同時に、中小書店は廃業へと向かったことは、これも周知の通りである。しかし、廃業していく書店にあって、読んでもらいたい埋もれた書籍を選び届ける地方の書店が注目され、生残る術を示してくれている。TVで何回か紹介されたことがあるので周知のことと思うが、北海道のいわた書店の「一万円選書」である。これも過剰な情報(書籍)にあって、埋もれてしまった書籍を読者につなぐアナログサービスである。

こうした「つなぐ事例」は他にいくらでもある。数年前から街場にヒット商品、人気店があるとブログを通じ指摘したのもこうした背景からである。TV番組「マツコの知らない世界」もその一つであるし、深夜の人気番組「孤独のグルメ」もそうである。最近注目され始めているBSーTVの「酒場放浪紀」も埋もれてしまった世界を表に出した試みである。これら表へと取り上げ、顧客と店とを「つなぐ」マスメディアの例であるが、SNSのメディアであるFacebookにおいても同様の試みはいたるところで出てきている。つまり、つなぐ方法・メディアは個人でもできるのがインターネットの時代の特徴である。
インターネットは過剰な情報をもたらしたが、その過剰な情報の中から欲しいモノを異なるジャンルの中から組み合わせ・つなぎ合わせ、ベストなモノへと変化させることができるのもインターネットの時代ならではの発想である。

今から12年ほど前にブログを始めたのだが、ちょうどブログが広がり始めた頃で、40万程度の日本語ブログ数であった。そのブログというメディアを称し、「個人放送局」というキーワードを多用したことがあった。ブログはFacebookに代表されるSNSへと進化し、そしてYoutubeは特別なメディアではなくなった。最近は分化してきており、ブログは個人新聞社、Youtubeは個人TV局、インスタグラムはグラビア雑誌ということである。そんな社会をマイメディア社会と私は呼んだ。
インターネットが象徴しているように情報技術は驚くほど急速に発展し、地球は小さくなり、同時代性、同地域性という世界が、経済ばかりか知的情報の世界まで拡大した。図式化すると、世界の共通語=英語、自国語、地域語=方言という3つの言葉を生きている。ブログであれ、Youtubeであれ、社会に発信する以上、ジャーナリズムの精神を忘れてはならないと自戒している。既にお二人とも他界しているが、ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、コラムニスト天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていたことを思い出す。同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。筑紫さんがキャスターをしてきたTV番組のタイトルのように、多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。言葉は声であり、また文字である。

この生身の声の持つ意味を今一度再考すべき時にきている。つまり、効率論だけでインターネットやIT技術を語ってはならないということでもある。通販ビジネスは、店舗を持たない「顔の見えない者同士」のビジネスでもある。そうしたいわゆる通販ビジネスについて、顔が見える関係から、心が見える関係へと1歩踏み出すことの良き事例を次のようにブログにも書いたことがあった。

『通販生活のカタログハウスでは、顧客からの問い合わせに対し、「お客様窓口」などとは言わず、「お便りありがとう室」としている。お問い合わせいただきありがとうございますという意味だ。今も継続しているかわからないが、いただいたお便りに対しては直筆で返事を書くという。あるいは九州に皇潤というヒアルロン酸を販売しているエバーライフという通販企業がある。この企業ではシニアの悩みを聞くことが全てであると考えており、顧客は電話オペレータを指名することができる。つまり、電話オペレータ担当制を敷いている。人件費といった経済効率を考えたら「担当制」という発想は出て来ない。』

「心が見える関係」とは、理解から共感・共有というこころが通いあう関係に踏み込むということでもある。市場が心理化しているとは、有店舗ビジネスにおいても、その存在意義、可能性があるとすれば、この「心が見える関係」をどう創造していくかということに他ならない。つまり、今問われているのは、インターネットやIT技術でも、無店舗・有店舗の論議ではない。問われている本質は、顧客との間に「会話」があるかどうかである。今起こっている変化に対応するには、会話力、あるいは消費に関する諸データの分析などではない。まずすべきは、顧客の生身の声を聞くという原点に立ち帰って始めるということだ。(続く)  


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